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ヒトラーが同性愛者であったという事実を証明し、この事実を知ることが、ヒトラーの人格とその経歴を理解する上で不可欠であることを論じることが本書の狙いである。(1)

 

 

ヒトラーの秘密の生活』

ロータル・マハタン  文藝春秋  2002/3

 

 

 

ヒトラーの私生活>

・本書はヒトラーの伝記ではない。本書はむしろ、今後ヒトラーの伝記が再考されることを促すために書かれたものである。本書がテーマとしているのはヒトラーの私生活、なかでもその要といえる部分である。ヒトラーが同性愛者であったという事実を証明し、この事実を知ることが、ヒトラーの人格とその経歴を理解する上で不可欠であることを論じることが本書の狙いである。

 

・筆者は、これまでのヒトラー研究が看過してきた史料を通じて、「ヒトラーは同性愛者であった」というテーゼに到達した。特に、第1次世界大戦時のヒトラーの戦友ハンス・メントの、未公表の証言から受けた衝撃は大きかった。それはヒトラーに対する筆者の見方を根本的に変え、資料の読み直しを迫った。これに加えてヒトラーの私的な経歴の記録をも収集し解釈した結果、浮かび上がってきたのは、驚くほど首尾一貫した――どうしても埋まらない空白は残ったにせよ――結論だった。この結論は、「非人格的人間」というわれわれのヒトラー像に、彼の影響力を正しく理解する上できわめて重要な、新しい解釈を要求することになるかもしれない特徴を付与することになるだろう。

 

・しかし、持てる者に対する激しい敵意を示して超過激な行動をとったにもかかわらず、彼はミュンヘン共産党指導部には入れてもらえなかった。働かなくても済むように(これこそ、常に彼の目標だった)党内ですぐに幹部になることを望んだため、共産主義者たちの疑念を招いたのだ。共産党幹部は態度を保留した。ことによると、ある時期から、彼は共産党員にスパイされていると思うようになったのかもしれない。いずれにせよ、その後彼は復讐するためエップ義勇軍に入った。ヒトラーは第一級鉄十字章のおかげでエップの信頼を得た。エップはヒトラーに兵士の戦意を高揚させるという任務を与え、その報酬を支払った。『教育将校』の肩書を得たヒトラービヤホールを巡り歩き、そんな折に、アントン・ドレクスラーと知り合った。

 

・(…)ヒトラーはすぐにドレクスラーの党(ドイツ労働者党、ナチ党の前身)に入り、党員番号1512番を得た。だが、彼は入党直後から党の破壊を図った。ドレクスラーの秘書だったハラーという男をとんでもない無能者だとして攻撃し、追い落としたのだ。争いごとを好まなかったドレクスラーは気弱さからヒトラーに譲歩した。ただちにヒトラーは、のちにも何度も成功した侵入戦術を展開し始めた。少し開いたドアに足を突っ込み、なかに入れてもらえるまで頑としてどかない、というやり方だった。こうして、彼はドイツ労働者党を粉砕することに成功し、7人の仲間とともに自前の店を開くことになった」

 

・以上のごとく、メントの証言は実にあけすけである。そのなかから、最重要のメッセージをもう一度まとめよう。25歳から30歳まで、ヒトラーは確固たる主義を持たない利益追求型人間だった。第1次世界大戦中は、上官に取り入ってうまく立ち回る能力を発揮した。前線での戦闘には野心を見せることなく任務をこなし、それ以外の時間は後方で漫然と過ごした。ティーフェンベック、ヴィンマー、シュミットらと親しく交際し、シュミットとは肉体関係まであった。戦後、ヒトラーとシュミットは同居するための部屋を探していた。ヒトラーは、極右陣営に参加する以前、左翼グループへの参加を希望して拒否されていた。極右政党に入党した彼は、持ち前の滑稽さとはったりを発揮し、独自の「侵入戦術」を駆使して党首にまでのし上がった。

 

・当時のメントの収入源としては、まず第一に彼のヒトラー本があった。ヒトラー自身は気にいっていなかったにもかかわらず、1934年に『戦場のアドルフ・ヒトラー』の新版がナチスの息のかかったエーエル社から発売され、メントに印税をもたらした。同年、速記版も出版された。「(速記版は)党指導部の指示により、ドイツ全土の中学校や大学に教科書として導入された」とメントは弟宛ての手紙に自慢そうに書いている。かなりの収入源になったに違いない。『戦場でのアドルフ・ヒトラー』はラジオでも取り上げられた。映画化の話もあったという。また、当時メントは絵画の販売もおこなっていた。より正確にいえば、ヒトラーの描いた油絵や木炭画、鉛筆画などを販売していたのである。周知のように、ヒトラーの絵は1930年代半ばには高く売れたのである。

 

・1935年11月、彼は手持ちの絵を利用して再度ヒトラーにも接近を図ったが、ヒトラーは、「絵を買い取るつもりはない」旨を知らせてきた。メントの試みは以前の不信感を改めて呼び覚ましただけだった。よりによってメントのような信用できない人間が、自分が戦争中に描いた絵を売っているなどという事実は、ヒトラーにとって面白いはずがなかった。メントはあまりにも多くを知りすぎていた。

 

<エルンスト・シュミット>

・1914年から1919年までの5年間、ヒトラーとエルンスト・シュミットは不可分の関係だった。この関係を同性愛者だったと見るか否かにかかわらず、次の点は銘記しておく必要がある。すなわち、このシュミットほどヒトラーと長期間にわたって親密な関係だった友人はいないし、決まった支持政党を持たないうらぶれた自称芸術家から極右の職業政治家へと変貌していくヒトラーを彼ほど間近に見た男もいないのである。ヒトラーの戦友だったこの男は、つい最近の1985年まで生きていた。

 

・実際、1918年にヒトラーが第一級鉄十字章を授与されたのは、そもそもどのような働きが認められてのことだったのか、現在に至るまではっきりとは分かっていないのである。第1次大戦当時連隊将校だったユダヤ人のジークムント・グートマンが1961年に語った話が、諸説あるなかで最も信頼性が高いと思われる。グートマンは、「成功したら、第一級鉄十字章を申請してやろう」と約束してヒトラーに危険な伝令任務を命じたのだという。しかし、ヒトラーが立派に任務を遂行したあとになって、約束を果たすのが困難な状況が生じた。2ヶ月以上も師団司令官に掛け合わなければならなかった、とグートマンは語っている。2ヶ月どころか、1933年のある新聞記事によれば、ヒトラーは3年近くも待たされたことになっている。

 

・第1次世界大戦中、ヒトラーはシュミットに十八番の芸術論と建築論を大いに語り鉛筆画や水彩画を何枚か贈った。おそらく、他の戦友たちと同じような彼の肖像画を描いたことだろう。芸術的センスのあったシュミットは、「ヒトラーの芸術家気質」を高く買っていた。ヒトラーに将来の職業について何度も意見を求められたシュミットは、きみは自分の芸術的才能に賭けるべきだ、戦争が終わったら正規の教育を受けたほうがいい、と勧めた。イグナー・ヴェステンンキルヒナーという戦友も、当時のヒトラーは芸術家になろうと考えていた、とのちに回想している。「ヒトラーは言った。『入学試験まで生き延びるため、また絵を描いて売ることにしよう。もしかしたら、政治家の家にも売りに行くのかもしれない』

 

・シュミットは、第1次世界大戦が終わるまでヒトラーは画家になるべきか政治家になるべきか決めかねていた、と歴史家ヴェルナー・マーサーに語っている。

 

・その後まもなく、ヒトラーカール・マイル大尉率いるドイツ国防軍第4軍団司令部の情報部で(このときも密偵として)働き始めた。マイルは密偵としてのヒトラーの特異な能力を速やかに認め、政治信条の怪しい兵士や将校の組織的密告を彼に命じた。このときも、ヒトラーは良心のとがめなど微塵も見せず、任務を遂行した。そんなものより、上官のうけとカネのほうがヒトラーにとって大事だったようである。マイルが連絡員時代のヒトラーについて語っていることが真実だとすると、ヒトラーはマイルのおかげで新しい「故郷」ができたと言ってほっとしていたという。その恩恵に対して、ヒトラーは過剰適応と絶対服従でもって応えたに違いない。

 

・1919年秋、ヒトラーは政治に活路を見出そうと決心したが、この進路変更をシュミットにはしばらく伏せていた。おそらく、別の男性との関係が関わっていたからだろう。そして、これが最終的にシュミットとの別れにつながった。

 

・1926年、シュミットはガルヒングのナチ党地区指導者になった。1931年にはシャールヒューラー(曹長に相当する)として突撃隊に入隊し、やがてシュトゥルムフューラー(大尉に相当する)にまで昇進している。1932年、第1次大戦中のヒトラーの「英雄伝説」が激しい論争と法廷闘争の対象になった際には、シュミットは宣誓供述書によってヒトラーを援護した。このころ、彼は再び頻繁にミュンヘンを訪れていたもの思われる。エヴァ・ブラウンのフォトアルバムに、1932年に撮影されたシュミットの写真――ヒトラーに行きつけのレストラン「オステリア・バヴァリア」で、政権掌握直前のヒトラーと並んで座っている――が残されている。首相に就任したのち、ヒトラーはシュミットの変わらぬ友情と口の堅さに気前よく報い、彼に富と名声を得させてやった。

 

<秘密書類>

ミュンヘンの警察当局が1920年代に作成した、6巻に及ぶヒトラー関連書類が残っていたら、真相はあますところなく明らかになったことだろう。しかし、首相就任直後にヒトラーはこれらの書類を押収してしまった。これは取り返しのつかない損失であるが、国防軍司令官オットー・フォン・ロッソウの私的文書庫に保管されていた秘密文書についてオイゲン・ドルマンが書き残している内容がその小さな埋め合わせになるかもしれない。

 

・「『クーデターを鎮圧して以来、老若のナチス党員から次々と脅迫状が届いている。国防軍の将校たちは、どこへ行っても罵られ、つばを吐きかけられる始末だ。だが、私の身にも部下の将校らの身にも何も起こらないだろう。幸いブラウナウ(ヒトラーの出生地)の罵りや脅迫にどう対処したらいいかは中国とトルコで学習済みだ。11月9日以来、ヒトラーとその一味にも、私や将校らに対するテロ行為はヨーロッパ的スキャンダルに発展することが分かったはずだ。私には親しい友人がまだまだたくさんいる。このゲームはアドルフの負けだ。11月9日と同じように』

 こう言うと、将軍は書き物机の引き出しから警察の調書を取り出した。そこには、アドルフ・ヒトラー氏の私生活(第1次大戦後、ミュンヘンに舞い戻ってからの)に関する秘密報告と証人の証言がまとめられていた。すべて、風紀警察ないしエット街の警察本部で作成された書類だった」

 そこに居合わせた人々は皆、「ミュンヘンの最高権力を握っていたあいだにオットー・フォン・ロッソウがどれほど危険な武器を準備していたのかを」即座に理解した。フォン・ロッソウは、甲高い声で調書を読み上げ始めた。

 

・「『私、ミヒャエル、18歳は………12月19日に………ローゼンハイマー街で比較的若い男性に出会いました。男性は私を食事に誘い、一夜をともに――カネを払うから――過ごさないかと言いました。何ヶ月も失業中で、母も弟たちも飢えに苦しんでいたので、男性の家までついていき、翌朝帰りました』署名:ミヒャエル***。こんなものもある。『散歩していたら、私、ヨーゼフにある男性が近づいてきました。私は男性と一緒に映画に行きました。男性は食事と煙草をおごってくれたあとで、部屋へ来ないかと言いました。私が、大戦中勇敢に戦ったことや下士官になりたかったことなど話すと、男性は新しいドイツの軍隊について数時間にわたって話し、自分が創設した新しい部隊の宣伝をしてもらいたいと言いました。男性はとてもよくしゃべりましたが、部屋で煙草を吸わないでくれと言いました。私は一晩その男性と過ごし……』署名:ヨーゼフ***、22歳。では、次。『私、フランツ***、見習い職人、は、大学の近くのカフェである男性と知り合いました。男性にはオーストリア訛があり、ウィーンのことをいろいろと話してくれました。自分の話に私が興味を示しているのに気づくと、男性は、ドイツとオーストリアを再統一する必要性について話し始めました。男性は私に、この目的のために自分の活動に捧げる用意はあるかと尋ねました。男性が、そういうことが書いてある本や雑誌をあげようと言うので、私は男性の家までついていきました。遅くなって市電もなくなってしまったので、男性に泊まっていきなさいと言われ、そうすることにしました。……男性はアドルフ・ヒトラーという名前でした。明るい色のギャバジンのコートを着ていました。額に垂れ下がっている前髪が印象的でした』署名:フランツ***」

 

・ロッソウは、さらにこのほかにも若い男性たちの証言を読み上げていった。すべての男性が一致して、アドルフ・ヒトラーという男にミュンヘン近郊のレストランやホテルで食事に誘われた、と証言していた。彼は若者に政治について語り、「ドイツと世界はきみたち若者のものだ」と言った。話をしているうちに夜が更け、「これら戦後の若者たち、家に帰っても空腹と窮乏が待っているだけの彼らは、アドルフ・ヒトラーのかたわらで眠ることを承諾したのだった。あくことなく彼らに援助を約束する親友のかたわらで」。

 ドルマンによれば、フォン・ロッソウは調書の朗読を次のような言葉で締めくくったという。「『信頼の置ける仲介者を通じて、この証拠書類がすでに外国へ持ち出されていることをヒトラーに伝えてある。私や将校らが(ナチスから)攻撃を受けるようなことがあれば、これらの書類は国際的な新聞によってただちに発表される』彼は、今夜聞いたことは絶対に口外しないでいただきたい、ご自身のためです、と居合わせた人々に念を押した」

 

 

 

『ムー  2016年8月号 No.429』

 

 

 

ナチスUFO最高機密 アルデバラン星人の謎>

ナチス・オカルティズムの淵源とヒトラー生存説>

ヒトラーは死んでいなかった!世界を騙したフェイク心中の真相>

・当時ソ連の最高指導者だったヨシフ・スターリンが、ヒトラーの遺体の検証後、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズに対し、「ヒトラーはスペインかアルゼンチンに逃げのびたにちがいない」と語り、ドイツ国外逃亡説が、第2次大戦直後の世界を駆け巡ることとなったのだ。

 

・事実、ヒトラー生存説を裏づける証言がいくつもある。たとえば、4月30日の夕方、つまりヒトラーが自殺を遂げたあと、ベルリン近郊のテンペルホフ空港に姿を見せたヒトラーが兵士たちに目撃されている。そしてまた身内の証言もある。第2次世界大戦中、アンヘル・アルカサル・デ・ベラスコというトップクラスのスパイがいた。ナチス降伏の寸前まで、ヒトラー、そしてエヴァ・ブラウンとともに地下室で過ごしたベラスコが、マルチン・ボルマンから聞いた話を、こう明かしている。「ボルマンは、ヒトラー総統を総統府から連れだして、ひとまずドイツ南部のロタック・アム・エルヘンの要塞に移した。ヒトラー総統とエヴァの死体がガソリンをかけられて焼却されたという話は、彼の創作だ。世界中にニセの事実を信じ込ませることに成功したのだ。実際には、ボルマンが信用する部下数人を使い、要塞からドイツ領内を横断し、船でヒトラー総統をノルウェーに移した」

 1945年5月の時点で、ヒトラーはまだ生きていたのである。

 

FBIも捜索したヒトラーの行方 ブラジルで95歳まで生きていた!?>

・さらに、ヒトラー生存説を裏づける根拠がある。2009年に米コネチカット大学で行われた遺伝子鑑定の結果が、“それ”だ。ヒトラーが自殺したとされるベルリンの地下室で発見された頭蓋骨の破片が、実はヒトラー本人のものではなく、20~40歳の女性のものだったことが判明。つまり、ヒトラーの死体は発見されていないのである。

 

・2014年4月15日、英のニュースサイト「エクスプレス」が機密解除されたFBIの文書の一部を公開した。そこにはヒトラーの死亡が未確認で、Uボートで南米アルゼンチンに逃亡した可能性があり、FBIまでもがヒトラーの行方を追跡していた事実が記されていた。

 

・そして今年、ヒトラー生存説に、また新たな“事実”が加わった。なんと、ヒトラーがブラジルで95歳まで生きていたというのだ!

 2016年3月、驚くべき情報がネット上に公開された。元ナチスの残党を追跡していたシモーニ・レニー・グエレイロ・ディアスによって、ヒトラーがブラジル人の愛人と95歳まで生きていたという証拠写真が公開されたのだ。写真は死の2年前、1984年に撮影されたもので、その男は、黒人のガールフレンドであるクティーニャと一緒に幸せそうにポーズをとっている。

 

シモーニの著書「ヒットラー、その生と死」によれば、ヒトラーがベルリンの地下室で死んだというのは真っ赤なウソで、アルゼンチンを経てパラグアイに飛び、ブラジルのマト・グロッソ州にある小さな町に落ち着いたという。そこで彼はアドルフ・レイプジクという変名を用いて暮らし、地元民には「年老いたドイツ人」として知られていた。

 

 

<●●インターネット情報から●●>

サイトの「カラパナア」(不思議と謎の大冒険)から引用

 

ヒトラーは生きていた!?ブラジル人の恋人と95歳まで生きていたという証拠の写真が発見される」

 

ヒトラーは生きていた!?>

現代においても未だその影響力が半端ないドイツの独裁者、アドルフ・ヒトラーヒトラーは1945年4月30日、総統地下壕の一室にて、妻であるエヴァ・ブラウンと共に自殺を遂げたというのが歴史上の認識であるが、実はブラジルに逃亡し、95歳まで生きていたという噂もあり、最近になってその可能性を示す写真が発見されたそうだ。

 

ヒトラーが死んでいなかったという話は諸説あるが、ある本によれば、彼はパラグアイに逃れ、アルゼンチン経由でブラジル、マットグロッソ州にあるノッサ・セニョーラ・ド・リブラメントという人口12,000人ほどの小さな町に移り住んだという。そこではアドルフ・ライプツィヒという偽名を名乗っており、住民からは”ドイツの老人”として知られていたらしい。

 

 問題の写真は、ヒトラーが亡くなる2年前の1984年に撮影されたと主張されるもので、そこには黒人の恋人クティンガとポーズをとる幸せそうな姿が映し出されている。

 

『Hitler in Brazil - His Life and His Death(ブラジルのヒトラー - その生と死)』の著者シモーニ・レネ・ゲレイロ・ディアス氏によれば、ヒトラーバチカンの友人から地図を入手し、そこに記されていた秘密の財宝を探していたらしい。恋人のクティンガは素性を隠すために利用していたようだ。ディアス氏はヒトラーの自殺が信じられず、ライプツィヒと称する人物の遺体を掘り起こし、DNA鑑定するべきだと主張している。

 ディアス氏はヒトラーが隠れ住んでいたという町を2年間調査してきたそうだ。ここはボリビアの国境に近い、18世紀のゴールドラッシュによって作られた町である。その付近の洞窟にはイエズス会の財宝が眠っているとされ、ヒトラーがここに住んだのも偶然ではないと彼女は睨んでいる。

彼女がこのような考えに至ったのも、古い不鮮明な写真を加工して髭をつけたところ、ヒトラーそっくりな人物が現れたからである。ディアス氏によれば、80年代初頭にクイアバの病院で手術を受けたヒトラーを身元不明のポーランド人修道女が見つけ、そこから立ち去るよう命じたことがあったらしい。しかし、自分はバチカンの命令で来ているのだと逆に叱責されたという。

 陰謀論では、ヒトラーがドイツから南米へ逃れたと主張されることがある。この見解は、イギリスの2名の作家がアルゼンチンで盗作疑惑をかけられたことから、盛んに議論が交わされるようになった。

 

2011年に出版された『Grey Wolf: The Escape of Adolf Hitler(灰色の狼:アドルフ・ヒトラーの逃亡)』の著者ジェラード・ウィリアムズ氏とサイモン・ダンスタン氏は、ヒトラーエヴァ・ブラウンパタゴニアに逃れ、62年に73歳で死ぬまでに2人の娘をもうけたと主張している。この本は後に映像化されたが、アルゼンチン人のジャーナリストは著者らが自分の研究内容を許可なく使用していると訴えた。

 

 こうしたヒトラーがアルゼンチンで生きていたとする説を、歴史家のガイ・ウォルターズ氏は馬鹿げていると一蹴する。「まったく恥知らずで、そんな証拠はどこにもありません。陰謀論者の妄想に訴えかけているだけで、歴史的な研究とは言えませんね」

 

  マットグロッソ連邦大学の歴史学カンディード・モレイラ・ロドリゲス氏も「ヒトラーが南米に逃れていたと主張する歴史家と称する人物たちは皆似たようなものですよ」と、同じく否定的だ。

 

 そうした説によれば、戦後、悪名高いアドルフ・アイヒマンやヨーゼフ・メンゲレをはじめ、大勢のナチスが逃亡を果たしたという。ヒトラーの死を証明しようとする研究者にとって頭が痛いことに、その物理的な証拠は一切発見されていない。2009年には、地下壕付近で発見されたヒトラーのものとされる頭蓋骨の破片をDNA鑑定したが、女性のものであることが判明している。

 

  ヒトラーが生きている姿を最後に目撃したとされる元親衛隊曹長のローフス・ミシュは、2013年に96歳で亡くなった。生前彼は、閉じられたドアの向こう側で銃声を聞いた後に、頭からテーブルに倒れているヒトラーを見つけたと発言している。

 

 

 

『2000年5月5日宇宙人大襲来』

(草刈龍平)(第一企画出版)1996/12

映画インディペンデス・デイはなぜ緊急制作されたのか

アメリカ政府が隠し続けた恐るべき事実

 

 

 

ヒトラーが宇宙人と密約していた動かぬ証拠>

ヒトラー

ナチスが開発したというこのUFOの性能は想像を絶するものだ。いったい今から50年以上も前にヒトラーのエンジニアたちはどこからこうした超高度技術を獲得したのだろうか。その疑問には、ヒトラーが副官のフォン・ラウシュニングに語った以下の言葉がヒントになる。

 

 「全ての人々の上に私が語ることのできない新しい高貴な人類が君臨するだろう。しかし、普通の軍人たちはこれらの計画については何も知らない。新人類は今我々の間にいる。彼はここにいるのだ。これで十分だろう。私は、君に秘密を話した。私は、新人類を見た。彼は大胆で冷酷だ。私は、彼を恐れている」

 

・いったいヒトラーはこの「新人類」という言葉で何を意味しようとしていたのであろう。ラウシュニングによると、ヒトラーはいつも何かに怯えていたらしい。彼は就寝中、悪夢にうなされて気狂いのように目覚め、目に見えない何かに向かって訳の分らぬ言葉を叫んでいたという。

 

宇宙人に誘拐されたのではないのだろうか。ヒトラーは宇宙人とひそかに接触したのだと筆者は想像する。

 

 

 

フェローシップ』  知られざる宇宙の隣人たち

ブラッド・スタイガー   たま出版   1996/2

 

 

 

ヒトラーの秘密の探索>

・1942年4月、ドイツのナチスは、幻想主義的な科学者達の遠征隊をある場所へ向けて派遣した。遠征隊は、「内部が空洞の地球」の空洞内にいるとされる軍から、その見解を聞くという目的で編成されたものであった。先端的知識を持つそうした科学者達が探索へと送り出されたとき、ドイツは第三帝国の建設に向けて連合軍打倒ムード一色であったが、当時ゲーリング元帥、ヒムラー長官そしてヒトラー総統は、この地球の空洞内にいる軍を探すという計画に、非常に熱心であった。ヒトラーは、地球はへこんだ皿のような凹状の形をしており、地球の地面の下には別の人間が住んでいるのだと、永いこと信じて疑わなかったのである。

 

・「地球空洞説」を信じていたナチスは、遠征隊をリューゲン島に派遣したときに、この疑似科学的な見解が正しいものであるという自信を確実なものにした。ヒトラー総統の側近達は、総統の考えに心酔していた。すなわち、リューゲン島で「地球の内側に存在する世界」への入り口を発見したという大成功について、ナチスこそが、空洞内に住む「指導者」達との間に混血種の子孫を残す資格を持つ、選ばれた人種の集まりであるということを、その「指導者」達にはっきりと理解してもらう絶好のチャンスであるという考え方である。

 

ナチス神話の重要な特徴は、地下に隠れている、パワーに満ちた秘密の種族はその代表者を地上に送り出し、人類に紛れて生活しているという考えであった。選ばれたアーリア人のみの国家を創るという、ヒトラーの狂気ともいえる願いは、どの人種よりも高等な種族として選ばれ、地中に住む超人達との間に突然変異的な新種族を生み出し、英雄、半神的存在、さらには神としての人間を創り出したいという強迫的な願望によるものであった。

 

・作家のルイス・パウエルスとジャークバーギャーは、第三帝国時代ダンツィヒの統治者であったヘルマン・ラウシュニングの言葉を次のように引用している。ヘルマン・ラウシュニングはヒトラーとの会話の中で、超人とのミュータントを創り出そうというヒトラーの計画についてこう述べている。

 

「全く新しい人種が今我々の中にいるのだ!」とヒトラーは叫びました。「彼はここにいるのだ!それだけじゃ十分でないとでもいうのかね?君に秘密を教えようじゃないか。この私自身、超人をこの目で見たのだ。彼は勇敢で容赦なかった。私は彼を恐ろしく感じたよ」

 

ラウシュニングによると、ヒトラーが超人についてこのように話したとき、ヒトラーはある種の恍惚感を感じているようだったという。

 

ヒトラー霊媒師であった可能性を示唆する証拠があるという根強い噂も存在している。事実、彼の生まれたオーストリアの小さな村ブラナウは、昔からヨーロッパの心霊主義の中心地として知られていた。また、アドルフ・ヒトラーはその幼児期、ウィリー・シュナイダーと同じ乳母のもとで育っている。ウィリーは弟のルディーと兄弟二人で、後に世界的に有名な霊媒師として知られるようになった存在である。

 

・ラウシュニングはさらに「ヒトラーの側近」から、ヒトラーが夜中によく叫び声を上げて目を覚まし、ひきつけを起こしていたと聞いたと主張している。ヒトラーの使用人達の話によると、かつての独裁者は哀れにも小さく縮こまりながらしくしくと泣き声をあげ、「彼」が自分のためにやって来て部屋の隅のそこ(ヒトラーはその場所を指し示した)に立ったのだと大声をあげた。ヒトラーは、「彼」がヒトラーの寝室を侵略するために地下の王国からやって来たのだと、叫び声を上げながら訴えた。

 

・神秘的な存在の訪問を受けたと主張している為政者はアドルフ・ヒトラーだけにとどまらず、他にも存在する。そうした神秘的な訪問者は、ヒトラーが主張したような「新しい種族」というよりも、非常に古くからいる種族を代表する者達だったのではないだろうか。

 

 

 

『神々の予言』

ジョージ・H・ウイリアムソン)(ゴマブックス) 1998/9/1

 

 

 

<はるか彼方の銀河系からやってきた『黒い軍隊』の影響>

・「地球は、これまで、はるか彼方の銀河系からやってきた『黒い軍隊』の影響を受け続けてきた。それは、東洋では『黒い竜』として知られる勢力であり、共産主義全体主義を推進しているのは彼らである。

 

・そればかりか、彼等は今、地球の多くの王座、いや、全ての王座に座っているといってもいいだろう。

 

・あの夜、ベツレヘムの女は、知っていた。彼女は、ある神聖な使命を遂行し続けている者たちが、すでに地球にいることを知っていた。彼等は、遠い昔に地球にやって来て、今なおその使命の遂行に努めている。彼等は、ある偉大な教師に奉仕し続けてきた。その教師は、あるときは、『釈迦』であり、あるときは『ゾロアスター』だった。さらには、『メルキゼデク』であったり、『セム』であったり、その他の様々な賢者だったこともあった。そしてその女は、彼女自身のその生涯における目的が、完全に果たされるのは、地球が『偉大なる変容』を体験する。『ミカエルの日』のために『彼』が再び戻ってくるときであることも知っていた。

 

・『黒い軍隊』は、今や死の苦悶を体験している。その苦悶の中で多くのものが消滅するだろう。しかしやがて、その怪物は死滅する。そしてそのとき、神に奉仕する者たちは、高らかに喜びの声を上げるだろう」

 

ナチスの狂気>

 

・「ナチスの迷宮」というブログによれば、「レーベンスボルン(生命の泉)計画」のことが記載されてある。

 

・(参考文献)『ぼくはナチにさらわれた』(アロイズィ・トヴァルデツキ)(共同通信社

 

・1940年5月にヒムラーは、東方の子供たちを毎年人種選別する計画を立て、1941年の後半から、占領地区で「アーリア的」な子供を探して誘拐することを開始したのであった。

 

・戦争中、ドイツに占領されたポーランドの西部の町々ではナチスにより2歳から14歳までの少年少女が大勢さらわれたが、その数は20万人以上といわれている。

 

・大変に特徴的だったのは、その子供たちがみな「青い目で金髪」であったことである。彼らは名前をドイツ名に変えられ、修正された出生証明書とともに、選ばれた家族の元に送られた。子供の多くは本来の家族の元に帰されることはなく、更に彼らは、自らがポーランド人であることも知らなかった。(このため、戦後になると両親とも不明の孤児が多数出現するという悲惨な事態を招いた)。

 

ノルウェーのレーベンスボルン>

・「生命の泉」計画は主としてドイツ国内で実施された。しかし、ヒトラーは「金髪」「碧眼」「長身」といった身体的特徴を持つノルウェー人を「より純粋な」アーリア人と考え、ドイツのアーリア化をノルウェーにおいても促進した。

 

・ドイツ降伏後に当時のノルウェー政府が「対敵協力者」の処分を行い、ノルウェー人女性14000人を逮捕、そのうち約5000人が18ヶ月の間強制収容所に入れられた。特にドイツ兵と結婚した女性についてはノルウェー国籍を剥奪された。このように政府が「公式に迫害」したのはノルウェー政府だけであった。

 

ウィキペディア(フリー百科事典)>によると

 

<占領地域下での子供の誘拐>「生命の泉」計画ではポーランドチェコ、フランスと言った占領地域下での子供の誘拐が行われた。ポーランドではおよそ5万人から20万人の子供が誘拐された。検査後に「アーリア人」の条件を満たすとされた子供は修正された出生証明書と共に選ばれた家族の元に送られた。子供の多くは本来の家族の元に帰されることはなく、更に彼らは、自らがポーランド人であることも知らなかった。