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江戸が元のすすき原になる日近づいたぞ。江戸には人民住めんような時が一度はくるのぞ。(日月神示)(5)

 

 

『近現代の法華運動と在家教団』   シリーズ日蓮4

責任編集  西山茂     2014/7/25

 

 

 

『国家改造と急進日蓮主義――北一輝を焦点に』 津城寛文

 

 

 

・ほとんどの宗教には、平和的な理想とともに、闘争的な種子が含まれている。とくに、理想を実現するための手段として、「聖戦」「正義の戦争」などの語彙を持つ思想は、内外の一定の条件が揃えば、急進的に闘争化する。非暴力の原理を打ち出した宗教ですら、人間集団のつねとして、一部が暴力化することは避けられない。

 本稿では、1930年代(昭和10年前後)の日蓮主義の急進化を、北一輝(1883-1937)に焦点を絞り、さまざまな「法」「仏法」や「国体思想」などの宗教的世界観、「世法」と呼ばれる実定法、「心象」と表現される私秘的ビジョン、考え、思想・行動の根拠・原理となる規範体系)の交錯する情景として描いてみる。

 

<時代状況>

・「右翼テロ」の出発点とされる1921(大正10)年の安田善次郎刺殺事件の犯人、朝日平吾は、社会に害をなす「吝嗇」な「富豪」を殺害するという暗殺思想を単独で実行し、「右翼テロリズムの偶像」となった。朝日が『改造法案』の影響を受けており、遺書の一つは北一輝宛であったこと、それを受け取った北が読経中に朝日の幻影を見たというエピソードは、随所で語られる。

 

・「国家改造」「昭和維新」という言葉が流行した時期、国内ではテロやクーデターのうねりが高まっていた。北一輝を迎えた猶存社(1919年結成)は、その震源の一つであり、「国家組織の根本的改造と国民精神の創造的革命」を宣言し、綱領の七点の内には「改造運動の連絡」が謳われており、指針として配布された北の『国家改造法原理大綱』という政府批判の強力な「魔語」、「霊告」などが絡み合い、事件が相継ぐ。このように、一連の事件の出発点から、北一輝の関与が見え隠れしている。

 

北一輝は、「北の革命思想と宗教というテーマに取り組んだ研究は、まだ見当たらない」と指摘されるように、政治と宗教の関係に「謎」が残る人物である。またその「宗教」は、西山茂氏によって「霊的日蓮主義」と表現されるように、「社会」的側面だけでなく、「他界」的要素に光を当てねば理解できない部分がある。

 

・「日蓮主義」とは田中智学が造語し、その影響で本多日生も用いた言葉で、「法国冥合(政教一致)」による理想世界の実現を最終目標とする、社会的、政治的な志向性の強い宗教運動を指し、1910年以降の社会に大きな影響力を及ぼした。統一閣を訪れた中には、のちの新興仏教青年同盟の妹尾義郎、いわゆる「一人一殺」を標語とする「血盟団」の首謀者の井上日召(1886-1967)、いわゆる「死のう団」の指導者(盟主)の江川桜堂(1905-38)などがいた。狭い意味での日蓮主義は、この智学と日生、およびその周辺を指すが、従来の研究では近現代の日蓮信奉者や日蓮仏教を広く取りまとめる用語としても拡大使用される。そのような(不正確かもしれない)傾向との連続性のため、本稿では敢えて広義の日蓮主義を採用する。急進日蓮主義とは、この広義の日蓮系の思想運動が急進化、かつ事件化したものを指しているようであり、血盟団事件、死なう団事件、2・26事件が目立っている。

 

血盟団事件と死なう団事件>

井上日召日蓮宗に惹かれたのは30代半ばからで、国柱会その他の法華宗日蓮主義の講演を聴き回り、日蓮関係の書籍を読むことで、「自分の肉体を武器として、日本改造運動の一兵卒」になることを志すようになった。やがて日蓮主義や日蓮各派から離れ、改造運動指導者を別に求め、40代を超えて「国家改造の第一線に立とうと決心」し、茨城県の立正護国堂で実行者たちを育成することになった。

 

・戦後に発表された「血盟団秘話」では、当時は語られなかった経緯も出てきて、暗殺という直接行動については、「悪いに決まっている。テロは何人も欲しないところだ。私は政治がよく行われて、誰もテロなどを思う人がない世の中を、実現したいものだと念じている」と述べている。

 

・江川家の墓所を預かる三有量順氏は、江川桜堂の関係者から託された一次資料をもとに、「日蓮会」および「日蓮会殉教青年党(いわゆる「死なう団)」の当事者側の情景を描き出している。夭逝した桜堂を、三友氏は「哀悼の会」をもって「市井の熱烈な日蓮主義者」と呼び、「純粋な法華・日蓮信仰は周囲の人々に感化を及ぼした」こと、「自ら書画をよくした」ことなどを資料で跡付けている。そこに像を結ぶのを抱いて強化活動に邁進しようとする、若き宗教的指導者」としての桜堂である。

 

・それによると、血盟団事件や5・15事件で東京の警視庁がめざましい活躍をしていたので、神奈川県警も手柄を立てようと焦り気味であったところに、恰好の事件が起こった。日蓮会は「政治的、思想的、反社会的団体ではない」ことを井上が説明したが、県警は「死なう団は右翼テロ団」という報告書を出して、事件はまったく違ったものになったという。この間の県警による捏造や隠蔽などの不祥事も、淡々と語られている。

 

<2・26事件>

・2・26事件は、先行する血盟団事件や5・15事件と同様、「その後の用意・計画がない」とされる一方、綿密な計画を持つクーデターともされ、別のあり得たシナリオもさまざまに描かれている。夥しい研究によっても全容が解明されているとは言い難く、とくに北一輝の思惑や関与については、定説がない。そのようなわかりにくさの集約した場面が、2・26事件後の北の「無為無策」という「謎」である。

 

・考えられる別のシナリオについて、首謀者の一部にそのようなプランや思惑がじっさいにあったという指摘が散見する。筒井清忠氏によれば、血盟団事件や5・15事件は、「暗殺を行なうことそれ自体が目的」の「捨石主義」的なテロであったが、2・26事件は「政権奪取計画」を持ったクーデターだった。

 この事件の「成功」の可能性を検討」するために、筒井は青年将校を、「斬奸」のみを目的とする「天皇主義」グループと、「政治的変革」を目指した「改造主義」グループに二分する。磯部浅一らを中心人物とする後者は、『改造法案』を「具体的プログラムとして」、「宮城占拠」や工作により、「皇権」「政治大権」を奪取奉還することを目指していた。

 

・政府や軍部内にさまざまな動きがある中で、天皇の意向を受けた木戸が合法的な手続きを踏んで「鎮圧」を決定した、というわけだが、別の「法」に基づく合法性があり得たとすると、これは「合法性」の戦い、さらには「法」そのものの戦いと言える。この「磯部と木戸の戦い」というところを、背後まで突き詰めて「北と天皇の戦い」と言い換えても、同じことが言えそうである。

 

北一輝の社会思想>

・「非合法、合法すれすれ」の煽動家とされる北は、若き日の社会思想では、その理想とするところも、論説による啓蒙や投票といった手段についても、合法的なもので一貫していた。

 初期の論考「咄、非開戦を云ふ者」や「社会主義の啓蒙運動」そして集大成『国体論及び純正社会主義』においては、「国家の力によりて経済的平等を実現」「鉄血によらず筆舌を以て」「立法による革命」「純然たる啓蒙運動」「普通選挙権の要求」「「投票」によりて」など、「方法は急進的にあらず、手段は平和なり」と主張される。その「理想を実現」するため、対外的には「帝国主義の包囲攻撃の中」において「国家の正義を主張する帝国主義」の必要が説かれる。戦争の擁護というリアル・ポリティックスも、好き嫌いはともかく、現代においてすら、非合法な主張ではない。

 

・『改造法案』には、巻一で「憲法停止」「戒厳令」、巻二で「在郷軍人会議」(検閲を憚ったもので、実は「軍人会議」とされる)の革命思想が出ている。「啓蒙」と「投票」という平和的手段による「革命思想」から、革命は合法的にはできないというリアリズムに変わった転換点は、『支那革命外史』の前半部と後半部のあいだに求められている。北自身、このころから「信仰」に専心したと供述し、また暗殺された友人・宋教仁の亡霊が現われた、というエピソードもしばしば語られている。

 

<「霊告」という私秘的ビジョン>

北一輝の影響は、「統帥権干犯」といった政治的「魔語」の操作だけでなく、「霊告」という呪文となって、財界や軍部に浸透していた。法華経読誦を手段とする「霊告」については、以前から断片的なエピソードとして言及されてきたが、松本健一氏が、『北一輝 霊告日記』として編集刊行して以来、全貌が知られるようになった。1929年から1936年まで記録されている「霊告」について、松本氏の最も短い説明は、北が法華経を読誦していると、その横に座っていた妻すず子が何か口走り、それを北が解釈、筆記したもの、となる。

 

・シャーマン研究の用語を使った説明では、「シャーマンの言葉」を「プリースト」が聞き取り、読みとったものとされる。「プリースト」という言葉の使い方はやや不適切であるが、これは「霊告」がシャーマニズム研究の対象となるべきことを指摘したという意味で、重要な説明である。その機能については、「北の漠然とした思いや心理に、表現を与える」「神仏の名を借りて誰かに自分の思いや考えを述べる」もの、とされている。松本氏が強調しているのは、「霊告」と前後の事件を読み合わせると、それが「幻想」の記述ではなく、「時々の事件をふまえての記述」になっていることである。たとえば、「軍令部の動きと政友会、そして政治の裏面における北一輝の暗躍とは、明らかに連動する」として、ロンドン海軍軍縮条約が調印された際の、「朕と共に神仏に祈願乞ふ」という明治天皇名の霊告は、「明治天皇の名を借りて……国家意志を体現しようとしたもの」とされる。5・15事件に際しての山岡鉄舟名その他の霊告が、どれも「まだ時期が早い」といって止めるのは、明治維新の「事例」を引いて「忠告」するもの、と解釈している。

 

・「霊告」という「宣託」の出所について、北一輝研究では「想像力」「無意識」といった心理学用語で済まされる一方、「心霊学」といった分野が示唆されることもある。北一輝研究の一里塚とされる田中惣五郎氏は、「お告げ」や「亡霊」について、「心霊学の域にぞくする」として、そのような説明を求めている。

 

・大正半ば以降の北が法華経読誦に没頭したこと、「亡霊」と語り始めたこと、とくに「霊告」を綴ったことについて、これまで多くの論者によって二つの契機が指摘されている。一つは、暗殺された友人、宋教仁の幻影を見たことである。もう一つは、法華経読誦による神がかりを永福虎造という行者に習ったことである。どちらも、弟・昤吉の記録が重要な典拠になっている。

 

・こういう問題を考えるときに、最も巧みな用語を工夫しているのは、やはりC・G・ユング(1875―1961)である。ユング的な解釈では、無意識は集合的無意識にまで拡大し、「漠然とした思いや心理」の範囲は限定が難しくなる。藤巻一保氏は霊告について、北の自我が後退し、「神仏」=「深奥の闇に形成された意識化の影の自我」が前面に出てきた者、と説明する。「影」とはユング心理学の用語である。『霊告日記』を、「その特異な性格から、アカデミズムが言及を避けてきた著作」「霊界通信録」と位置付けた藤巻氏の著作は、たしかに「まとまった分析は、筆者の知るかぎり、本書が最初のもの」とは言える。

 

・藤巻氏は北昤吉の記述などから、北の特徴を八つにまとめている。そのうち、「神秘的性質」「霊感」「神憑り的」「幻視者」の四つは「作家や詩人、画家」などとも共通し、五つ目の「法華経の「狂信者」」も少なくないが、六つめから八つめの「霊界通信ができる」「ウィルソンを呪殺したと確信する呪術者である」「予言者である」の三つについては、これらは「シャーマニズム研究に共通する難問であり、藤巻の説明もその前で足踏みしている。そこから一歩でも踏み出せば、ウィリアム・ジェイムズらの心霊研究が待っていることに気付くだろう。

 

<「法」のせめぎあい>

・西山茂氏の言う「霊的日蓮主義」には、日蓮的な仏法(宗教的世界観)、世法(実定法)に加え、さらに私秘的なビジョンという、三つめの「法」が関わる。この私秘的ビジョンを「心象」と呼ぼう。宮沢賢治が「自分の目に映る情景」を他人に伝えるときに用いた言葉を、用語として採用するものである。

 

・この三つの法は、宗教とまとめられる世界に、さまざまな組み合わせで交錯している。北一輝の場合、霊告(心象の範囲)は、法華経読誦(仏法の範囲)を手段として、国家改造(世法の範囲)に関与している。国体論の中にも、記紀神話(宗教法の範囲)、と統治(世法の範囲)と、各人のビジョン(心象)が交錯している。

 

・北夫妻のシャーマニズム技法について、藤巻氏の指摘で、最も重要なのは、永福から伝えられた「神懸かり」は「安直な方法」「興味本位の見世物」「民間巫覡や「霊術家」の降神法」「催眠術で身につけた精神統一」および自己暗示」であり、「複雑な手続きと厳格な次第」を持つ「日蓮宗の寄祈禱」とは異なる、という点である。

 

 

 

<●●インターネット情報から●●>

 

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)

北一輝(きたいっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)、1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家国家社会主義者。二・二六事件の「理論的指導者」として逮捕され、軍法会議の秘密裁判で死刑判決を受けて刑死した。

 

1920年(大正9年)12月31日、北は、中国から帰国したが、このころから第一次世界大戦の戦後恐慌による経済悪化など社会が不安定化し、そうした中で1923年(大正12年)に『日本改造法案大綱』を刊行し「国家改造」を主張した。

 

その後、1936年に二・二六事件が発生すると、政府は事件を起こした青年将校が『日本改造法案大綱』そして「国家改造」に感化されて決起したという認識から、事件に直接関与しなかった北を逮捕した。当時の軍部や政府は、北を「事件の理論的指導者の一人」であるとして、民間人にもかかわらず特設軍法会議にかけ、非公開・弁護人なし・一審制の上告不可のもと、事件の翌1937年(昭和12年)8月14日に、叛乱罪の首魁(しゅかい)として死刑判決を出した(二・二六事件 背後関係処断)。

 

死刑判決の5日後、事件の首謀者の一人とされた陸軍少尉の西田税らとともに、東京陸軍刑務所で、北は銃殺刑に処された。この事件に指揮・先導といった関与をしていない”北の死刑判決”は、極めて重い処分となった。

 

これ以降、梅津美治郎石原莞爾など陸軍首脳部は、内閣組閣にも影響力を持つなど、軍の発言力を強めていった。

なお、北は、辛亥革命の直接体験をもとに、1915年(大正4年)から1916年にかけて「支那革命外史」を執筆・送稿し、日本の対中外交の転換を促したことでも知られる。大隈重信総理大臣や政府要人たちへの入説の書として書き上げた。また、日蓮宗の熱狂的信者としても有名である。

 

 

 

『シリーズ日蓮4   近現代の法華運動と在家教団』

西山茂 責任編集    春秋社   2014/7/20

 

 

 

石原莞爾と「世界最終戦争」・「東亜連盟運動」  仁科悟朗』

 

 

 

<最終戦争論>

・最終戦論が世に出たのは、1925年、ドイツから帰国の途中のハルピンでの国柱会の講演会であった。その後、1940年9月発表の『世界最終戦論』で、広く知られるようになる。

 過去の歴史をいろんな分野で探って見ても、今や人類の前史は終わろうとしている。そして絶対平和の第一歩になる、人類の最後の大戦争が目前に迫る、と将来を予想する壮大な理論であった。

 

 それは「Ⅰ.真に徹底する決戦戦争なり。Ⅱ.吾人は体以上のものを理解する能わず。Ⅲ.全国民は直接戦争に参加し、且つ戦闘員は個人を単位とす。即ち各人の能力を最大限に発揚し、しかも全国民の全力を用う」とされる。そしてこの戦争が起こる時期は、「Ⅰ.東亜諸民族の団結、即ち東亜連盟の結成。Ⅱ.米国が完全に西洋の中心たる位置を占むること。Ⅲ.決戦用兵器が飛躍的に発達し、特に飛行機は無着陸にて容易に世界を一周し得ること」で、間もなくやってくる、と考える。過去の戦争から何を学び、何を為すべきかの実践的な対処、決断を要請する理論でもあったのだ。

 

・「私の世界最終戦争に対する考えはかくて、1.日蓮聖人によって示された世界統一のための大戦争。2.戦争性質の二傾向が交互作用をなすこと。3.戦闘隊形は点から線に、さらに面に進んだ。次に体となること。の三つが重要な因子となって進み、ベルリン留学中には全く確信を得たのであった」

 

・石原の信仰への動機は、兵に、「国体に関する信念感激をたたき込むか」にあった、という。そこでその答えを神道に、または本多日生に求めたりして、模索を続け、遂に1919年に入信を決意する。日蓮の『撰時抄』中の「前代未聞に大闘諍一閻浮提に起こるべし」は、軍事研究に「不動の目標」を与えた、という。

 

国柱会の創始者の田中智学(1861-1939)は在家で、日蓮信仰の改革、高揚を目指すと共に、「八紘一宇」の旗の下、日本国体を強調して明治・大正・昭和時代に、仏教関係者に限らず、多方面に大きな影響を持ち、一つの枠に入りきれぬ人物であった。高山樗牛宮沢賢治の師としても知られている。

 

・1938年、石原は舞鶴要塞司令官時代に、信仰上の危機に襲われる。その衝撃は日記にも残っていた。「仏滅年代に関する大疑問!人類の大事なり」、「本年は仏滅2426?70年以内に世界統一???」。

 石原は大集経による正法の時代、仏滅後1000年、次いで像法の時代、1000年、これら二つの時代の後に末法の500年が来る、という信仰を持っていた。石原は信じる。日蓮は自分こそ、この最後の500年、つまり末法の最初の500年に釈尊から派遣された使者、本化上行なのだ、と自覚する。そして日本を中心に世界に未曾有の大戦争が必ず起こるが、そこに本化上行が再び出現し、本門の戒壇を日本に建て、日本の国体を中心とした世界統一を実現する、と予言したのだ、と。同時に石原は確信する。だがしかし時はまだ来ていない。その末法500年まで、つまり仏滅後2500年までに実現する、いやさせなければならない。それをこの日までの石原は疑っていなかった。

 

・それが仏滅の年代が後年にずれた結果、日蓮誕生が今まで自分が信じて疑わなかった末法の時代ではなく、像法の時代であることになる。それで信仰が根底から揺らぐ衝撃をうけたのだ。

 苦悩の末、日蓮の『観心本尊抄』の一節、「当に知るべし。この四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成りて愚王を誡責し、摂受を行ずる時は、僧と成りて、正法を弘持す」を支えにすることで、この危機を脱したのである。

 

 石原の言葉を引用しよう。「本化上行が二度出現せらるべき中の僧としての出現が、教法上のことであり観念のことであり、賢王としての出現は現実の問題であり、仏は末法の五百年を神通力を以て二種に使い分けられたとの見解に到達した」のであった。

 

・「五五百歳二重の信仰」である。この考えは以来、国柱会を始め、先学の批判にあっても、生涯変えようとはしなかった。石原の堅い信仰になる。西山茂氏が指摘する通り、アドベンティストの予言である。明確な年代表示に拠る信仰は、厳しい現実に直面することになる。日記にあった、仏滅年代が西暦前の486年とする。『衆聖點記』に従えば、没後2500年は間もなく到来する。中村元説に拠れば、釈尊入寂は、西暦前383年なので、現時点では必ずしも破綻したとは言えないのだが。

 

 

 

『最終戦争論  戦争史大観』

石原莞爾    中央公論社  1993/7/10

 

 

 

<最終戦争論>

・昭和15年5月29日京都義方会に於ける講演速記。

 

<戦争史の大観>

<決戦戦争と持久戦争>

・戦争は武力をも直接使用して国家の国策を遂行する行為であります。今アメリカは、ほとんど全艦隊をハワイに集中して日本を脅迫しております。どうも日本は米が足りない、物が足りないと言って弱っているらしい、もうひとおどし、おどせば日支問題も日本側で折れるかも知れぬ、一つ脅迫してやれというのでハワイに大艦隊を集中しているのであります。つまりアメリカは、かれらの対日政策を遂行するために、海軍力を盛んに使っているのでありますが、間接の使用でありますから、まだ戦争ではありません。

 

・戦争本来の真面目は決戦戦争であるべきですが、持久戦争となる事情については、単一でありません。これがために同じ時代でも、ある場合には決戦戦争が行なわれ、ある場合には持久戦争が行なわれることがあります。しかし両戦争に分かれる最大原因は時代的影響でありまして、軍事上から見た世界歴史は、決戦戦争の時代と持久戦争の時代を交互に現出して参りました。

 

・戦争のこととなりますと、あの喧嘩好きの西洋の方が本場らしいのでございます。殊に西洋では似た力を持つ強国が多数、隣接しており、且つ戦場の広さも手頃でありますから、決戦・持久両戦争の時代的変遷がよく現われております。日本の戦いは「遠からん者は音にも聞け……」とか何とか言って始める。戦争やスポーツやら分からぬ。

 

<最終戦争>

・単位は個人で量は全国民ということは、国民の持っている戦争力を全部最大限に使うことです。そうして、その戦争のやり方は体の戦法即ち空中戦を中心にしたものでありましょう。われわれは体以上のもの、即ち4次元の世界は分からないのです。そういうものがあるならば、それは恐らく霊界とか、幽霊などの世界でしょう。われわれ普通の人間には分からないことです。要するに、この次の決戦戦争は戦争発達の極限に達するのであります。

 

・戦争発達の極限に達するこの次の決戦戦争で戦争が無くなるのです。人間の闘争心は無くなりません。闘争心が無くならなくて戦争が無くなるとは、どういうことか。国家の対立が無くなる――即ち世界がこの次の決戦戦争で一つになるのであります。

 これまでの私の説明は突飛だと思う方があるかも知れませんが、私は理論的に正しいものであることを確信いたします。戦争発達の極限が戦争を不可能にする。

 

・この次の、すごい決戦戦争で、人類はもうとても戦争をやることはできないということになる。そこで初めて世界の人類が長くあこがれていた本当の平和に到着するのであります。

 要するに世界の一地方を根拠とする武力が、全世界の至るところに対し迅速にその威力を発揮し、抵抗するものを屈伏し得るようになれば、世界は自然に統一することとなります。

 

・一番遠い太平洋を挟んで空軍による決戦の行われる時が、人類最期の一大決勝戦の時であります。即ち無着陸で世界をぐるぐる廻れるような飛行機ができる時代であります。それから破壊の兵器も今度の欧州大戦で使っているようなものでは、まだ問題になりません。もっと徹底的な、一発あたると何万人もがペチャンコにやられるところの、私どもには想像もされないような大威力のものができねばなりません。

 

・飛行機は無着陸で世界をグルグル廻る。しかも破壊兵器は最も新鋭なもの、例えば今日戦争になって次の朝、夜が明けて見ると敵国の首府や主要都市は徹底的に破壊されている。その代わり大阪も、東京も、北京も、上海も、廃墟になっておりましょう。すべてが吹き飛んでしまう…。それぐらいの破壊力のものであろうと思います。そうなると戦争は短期間に終わる。それ精神総動員だ、総力戦だなどと騒いでいる間は最終戦争は来ない。そんななまぬるいのは持久戦争時代のことで、決戦戦争では問題にならない。この次の決戦戦争では降るとみて笠取るひまもなくやっつけてしまうのです。このような決戦兵器を創造して、この惨状にどこまでも堪え得る者が最後の優者であります。

 

・もう一つは建設方面であります。破壊も単純な破壊ではありません。最後の大決勝戦で世界の人口は半分になるかも知れないが、世界は政治的に一つになる。

 

・そこで真の世界の統一、即ち八紘一宇が初めて実現するであろうと考える次第であります。もう病気はなくなります。今の医術はまだ極めて能力が低いのですが、本当の科学の進歩は病気をなくして不老不死の夢を実現するでしょう。

 

・それで東亜連盟協会の「昭和維新論」には、昭和維新の目標として、約30年内外に決勝戦が起きる予想の下に、20年を目標にして東亜連盟の生産能力を西洋文明を代表するものに匹敵するものにしなければならないと言って、これを経済建設の目標にしているのであります。その見地から、ある権威者が米州の20年後の生産能力の検討をして見たところによりますと、それは驚くべき数量に達するのであります。詳しい数は記憶しておりませんが、大体の見当は鋼や油は年額数億トン、石炭に至っては数十憶トンを必要とすることとなり、とても今のような地下資源を使ってやるところの文明の方式では、20年後には完全に行き詰まります。この見地からも産業革命は間もなく不可避であり、「人類の前史将に終わらんとす」るという観察は極めて合理的であると思われるのであります。

 

仏教の予言>

仏教、特に日蓮聖人の宗教が、予言の点から見て最も雄大で精密を極めたものであろうと考えます。

 

・しかしお釈迦様は未来永劫この世界を支配するのではありません。次の後継者をちゃんと予定している。弥勒菩薩という御方が出て来るのだそうです。そうして仏様の時代を正法・像法・末法の三つに分けます。正法と申しますのは仏の教えが最も純粋に行われる時代で、像法は大体それに似通った時代です。末法というのは読んで字の通りであります。それで、お釈迦様の年代は、いろいろ異論もあるそうでございますが、多く信ぜられているのは正法千年、像法千年、末法万年、合計1万2千年であります。

 ところが大集経というお経には更にその最初の2500年の詳細な予言があるのです。

 

・そして日蓮聖人は将来に対する重大な予言をしております。日本を中心として世界に未曾有の大戦争が必ず起る。そのときに本化上行が再び世の中に出て来られ、本門の戒壇を日本国に建て、日本の国体を中心とする世界統一が実現するのだ。こういう予言をして亡くなられたのであります。

 

<結び>

・今までお話しして来たことを総合的に考えますと、軍事的に見ましても、政治史の大勢から見ましても、また科学、産業の進歩から見ましても、信仰の上から見ましても、人類の前史は将に終わろうとしていることは確実であり、その年代は数十年後に切迫していると見なければならないと思うのであります。今は人類の歴史で空前絶後の重大な時期であります。

 

《解説  五百旗頭 真》

<原体験としての日露戦争

・多感な十代半ばの時期に、軍人の卵たる仙台幼年学校の生徒として目撃し体験した日露戦争こそは、石原の生涯のメインテーマを決定した。

 

・石原にとって日露戦争は、国家の存立と偉大さのために身命を捨て一丸となって戦うナショナリズム原体験だったのである。

だが、それは何という悲惨さだったことであろうか。

 

「銃後の生活は日一日と苦しさの度を加え、至る所に働き手の不足と物資の欠乏とがめだってきていた。仙幼校においても、もはや炊事夫や小使までが次々と招集されてゆき、……兵舎内はもう老兵ばかりだ。……そして教練には銃はもちろん木銃さえが少ない。軍服も靴も少なく、全く人も物も一切が瀬戸際に立っていた」。

 

この追いつめられた第2師団の銃後体験のなかで、石原は「負けるのではないか」と思わずにはおれなかった。軍人石原も、軍事理論家石原も、国防政策家石原も、実はこの危機認識から出発するのである。本書収録の石原軍事学の自伝ともいえる「戦争史大観の序説(由来記)」の冒頭の一文がかくて生まれる。

 

「私が、やや軍事学の理解がつき始めてから、殊に陸大入校後、最も頭を悩ました一問題は、日露戦争に対する疑惑であった。日露戦争は、たしかに日本の大勝利であった。しかし、いかに考究しても、その勝利が僥倖の上に立っていたように感ぜられる。もしロシアが、もう少しがんばって抗戦を持続したなら、日本の勝利は危なかったのではなかろうか」。

 

<戦争進化・終末論>

・石原の「最終戦争論」は、マルクスの共産革命史観やヒットラーの人種淘汰史観などとともに、現代史が生んだ世俗的終末論である。

 

 キリスト教の母胎となったユダヤ教は、典型的に終末論の構造を示す。原初の楽園における人類の幸福な生活が原罪によって失われ、苦難の歴史を歩むが、やがてメシアが現れて救いを示す。「改心せよ、神の国は近づいた」との終末論的呼びかけがなされるのである。この宗教上の終末論の構造が、マルクス主義においては現実の歴史に適用され、原始共産主義階級闘争と収奪→共産革命による国家権力の死滅、という世俗的終末論が説かれるのである。弁証法的ダイナミズムを内蔵したユダヤ教の進歩・終末史観が、マルクス主義ヒットラー主義をはじめ様々な人類史の局面についての歴史観として姿を現わし、それぞれに現実世界の救いを語りそのための改心と決断を迫る。

 

石原莞爾の「最終戦争論」は、まさに軍事を言語とした世俗的終末論の一つといえよう。彼がドイツ留学中にこの史観を形成したことを想起すれば、ユダヤ教を原型とする西洋終末史観の影響が推測されるかもしれない。事実はそうではない。石原の場合、歴史観の基本構造が、ユダヤ=キリスト教=西洋思想からではなく、日蓮仏教思想から与えられた点で注目される。正法→像法→末法→妙法という転落と逆転再生の歴史観が、通常は輪廻史観において理解されがちな仏教にも存するのであり、石原はその信奉者である。日蓮『撰時鈔』の「『前代未聞の大闘諍一閻浮提に起るべし』は私の軍事研究に不動の目標を与えたのである」と本人が語る通りである。

 

・僅かに英仏海峡を挟んでの決戦戦争すらほとんど不可能の有様で、太平洋を挟んでの決戦戦争はまるで夢のようであるが、既に驚くべき科学の発明が芽を出しつつあるではないか。原子核破壊による驚異すべきエネルギーの発生が、巧みに人間により活用せらるるようになったらどうであろうか。これにより航空機は長時間素晴らしい速度をもって飛ぶことが出来、世界は全く狭くなる事が出来るであろう。またそのエネルギーを用うる破壊力は瞬間に戦争の決を与える力ともなるであろう。

 

・飛行機は無着陸で世界をグルグル廻る。しかも破壊兵器は最も新鋭なもの、例えば今日戦争になって次の朝、夜が明けて見ると敵国の首府や主要都市は徹底的に破壊されている。その代わり大阪も、東京も、北京も、上海も、廃墟になっておりましょう。すべてが吹き飛んでしまう……。それぐらいの破壊力のものであろうと思います。そうなると戦争は短期間に終る。

 

・さて、「世界最終戦争」の起る時期について石原は様々に述べている。

関東大震災の報をドイツで聞いた時には、終末的情景の現実化を想像し、妻への私信では「2、30年」でその時が来るかもしれないと書いている。それだと第2次世界大戦末期から10年ほどの時期ということになる。核兵器開発の時期はまさにその通りであった。

 

・他方、本書が書かれた1940~42年の時期には、以後30年ないし数十年としており、それで見れば1970年頃から冷戦の終結する90年頃ということになる。一応の基準として、第1次世界大戦開始後50年と戦争史の進化動向から算定しているのに従えば、1964年、キューバ危機の頃となる。石原の示した条件のうち、互いの首都が一瞬のうちに灰になる破壊兵器の登場と、飛行機が地球を無着陸でグルグル回る時期ということになれば、およそ妥当するであろう。

 つまり、石原の軍事手段の発展の展望は意外に正確なのである。そして、そのような兵器の登場が全面戦争を不可能にするという基本状況の認識についても誤ってはいないのである。それなりの分析と研究をもって、このような洞察をなしえた石原は、やはり天才的と言うべきであろう。

 

・誰も石原以外にこのような展望を示しえなかったのであるから、石原が誤っていた、もしくは不十分であった側面を、歴史の後知恵をもって批判するのは詮なき所業と言うべきであろう。しかし、問題点と評価を過不足なく示すことは、同時代および後代の識者の尊い務めであるから、やはりふれねばなるまい。

 

・石原の想定が見落としている点は、「全面戦争の不可能」という状況と「世界の統一」・「絶対平和」の到来との間に、巨大なグレイゾーンの存在することである。石原が正しく指摘した「戦争の不可能」状況は、世界統一を20年ほどでもたらすのではなく、冷たい平和(冷戦)、限定戦争あるいは地域紛争を持続させ、戦国時代の日本が統一され刀狩りが行なわれたように行かない。共通の歴史的・文化的基盤を持たない世界の諸民族は、全面戦争が不可能になったからといって、一つになりはしないのである。ヨーロッパ文明の共有があってすら、EC市場統合がやっとのことで、共通単一通貨も政治統合もまだ先のことである。

 

アジア主義・国体論>

・最終戦争が日米間で行われるとした点には、微妙なねじれが感じられる。第1次世界大戦後のヨーロッパでは、次の戦争が日米間で行われるという議論が流行しており、石原もそのことを記している。石原にもともとあった反米論が、ヨーロッパの侮米論もしくは日米離間論と共鳴した面があるかもしれない。

 

・石原は対米戦略計画の不成立を認めず、日本国体論者の使命感を優先させる。昭和3年に志願して関東軍参謀となり、対米最終戦争の準備戦として満州事変を開始するのである。

 それでいて、本書の随所に見るように、昭和16(1941)年時点での日米開戦に石原は明瞭かつ合理的理由をもって反対するのである。核兵器はもとより、地球を無着陸でめぐる航空機も持たず、生産力拡充計画も東亜連盟も愚かな対中戦争によって頓挫した状況での対米戦争は、石原の説いてきた最終戦争とは無関係であり、敗北確実な早漏的戦争でしかないのである。

 それゆえ、あの日米戦争の推進者ではなく反対者であった石原に責を問うことはできないと考えられよう。

 

・すべての世俗的終末論が例外なく事実によって裏切られるように、「最終戦争論」についても、その予言の通りにその後の歴史が運んだわけではなかった。しかし、戦争術の極度の発展が戦争を不可能にするという根本認識は、きわめて正確な洞察であり、近代史におけるもっとも独創的にして刺激的な史論の一つであることは疑えないのである。

 

石原莞爾は明治22年(1889)山形県に生まれる。陸軍中将。関東軍参謀時代には満州事変を主導、昭和陸軍の異端児として頭角を現す。参謀本部作戦部長時代には日中戦争不拡大を主張。舞鶴要塞司令官を経て京都第16師団長を最後に東条陸相との衝突により昭和16年予備役となる。日蓮信仰にもとづく独特な国防・歴史観と人格的魅力があいまち賛仰者が多い。