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死後、人間はこの世でいとなんだような生活をつづける(5)

 

 

江原啓之 本音発言』

江原啓之    講談社    2007/10/19

 

 

 

<スピリチュアル基礎用語>

 

(あの世)

死後の世界。この世との境にある幽現界を経て、幽界、霊界、神界へ移行する。

 

(カルマ)

因果律、業ともいう。自分の行動は善いことも悪しきこともいつか自分に返ってくることを意味する。

 

グリーフケア

家族や身近な人を亡くして悲しむ人(遺族)の心の痛みを癒す作業。江原の場合、亡くなった人のメッセージを伝えることによって悲しみを和らげる。

 

(幸福)

スピリチュアリズムにおける幸福とは、出世や収入などの物質的な成功ではなく、霊的真理によってたましいが浄化され、失う恐怖をなくすことを指す。

 

(シッティング)

霊能者が霊媒となり、霊的世界とコンタクトを取り、相談者から話を聞く前に一方的に相談者の属性や身の回りのことを言い当てていくこと。

 

(宿命と運命)

国籍や性別、家族など生涯変えることのできない人生の要素が宿命。それに対し、運命は自分の努力や周囲の協力で変えることのできる要素を指す。

 

(守護霊)

現世に生きる人間を見守っている霊的存在。

 

スピリチュアリズム

死後の世界や霊の存在を前提とした世界観および思想体系。スピリチュアリズムの真理(霊的真理)に基づいてカウンセリングを行うのがスピリチュアル・カウンセラー。

 

(大我と小我)

見返りを求めずひたすら他者に与えようとする考え方が大我で、自分のことを最優先する考え方が小我。

 

(たましい)

すべての人間の中に宿る霊魂のこと。スピリチュアリズムでは肉体はたましいの乗り物にすぎないと考えられる。

 

(波長)

たましいが生み出す想念のエネルギーを指す。波長には高低があり、偶然ではなく必然だと考えられている。

 

(物質中心主義的価値観)

すべての判断基準をお金やモノなどの物質に置いてしまう考え方、価値観。霊的価値観の対極にあるもの。時に物質主義的価値観、物質的価値観と省略して使われる。

 

(未浄化霊)

この世に未練や執着を残しているため、死後もあの世に帰れずにさまよっているたましいのこと。未浄化霊が生きている人間のたましいに撮り憑くことを「憑依」という。

 

(類魂(グループ・ソウル))

霊的世界におけるたましいの集合体。誰もが類魂の一部であり、類魂の全体の進化向上を目指している。

 

(霊界通信)

守護霊と交信することにより、メッセージを受け取ること。相談者などにとって、その必要がある場合のみ。メッセージがもたらされる。守護霊のメッセージから得られる教訓を広く「霊訓」と呼ぶ。

 

スピリチュアリズム8つの法則>

1.(霊魂の法則)自分が霊的な存在であることを意識して生きること。

 

2.(階層の法則)肉体の死後、たましいは現世でいかに成長したかによって、それに応じた階層へと向かう。肉体を捨て「幽体」となると、最初は現世と幽界の中間地点である「幽現界」へ向かい、そこから「幽界」へ進み、やがて幽体をも脱ぎ捨て光となって「霊界」へと上昇する。死後の世界は明るい天国のような層から暗い地獄のような層まで幾重にも分かれており、現世での成長に応じて移行する層が変わる。

 

3.(波長の法則)一言で言えば「類は友を呼ぶ」、波長の高いたましいはポジティブな出会いを引き寄せ、波長の低いたましいはネガティブな出会いを引き寄せる。みずからの魂を向上させることで波長を高めれば、志の高い仲間と出会うことができる。逆に魂の錬磨を怠ると、周囲にやる気のない人間が集まってしまう。

 

4.(守護の法則)自分を見守ってくれる守護霊の存在を信じて生きること。依存してはいけないが、守護霊はどんなに苦しい試練の中にある時も、大きな愛で見守ってくれている。守護霊は役割によって4つに分けられる。生前から死後まで見守る中心的存在の「主護霊」、職業や才能を指導する「指導霊」、数年先までをコーディネイトする「支配霊」、これらを手伝う「補助霊」がいる。

 

5.(類魂の法則)どのたましいも、帰るべき故郷として類魂(グループ・ソウル)を持っている。類魂をコップの水にたとえるなら、それぞれのたましいは一滴の水。現世での修行を終えたたましいは霊界に戻り、グループ・ソウルに混じり合う。すべての経験が類魂全体の叡智となり、それぞれのたましいが純化することでコップ全体の透明度を上げることを目指している。

 

6.(因果の法則)自分のまいた種は、自分で刈り取らなければならない。自分の行動は必ず自分に返ってくる。自分がネガティブな想念を持っていれば、やがてネガティブな結果がもたらされる。自分が誰かを嫌うと、相手もまた自分を嫌うという現象はこのため、逆に、人に親切にすればいつか自分に返ってくるという「正のカルマ」もある。

 

1.(運命の法則)運命とは変えられないものではなく、自分の力で作り上げていくもの、たましいを磨く努力によって人生を切り拓くことができる。一方、国籍や性別など自分の力では変えられないのが宿命、ケーキにたとえるなら、宿命がスポンジで運命がクリーム。スポンジの特性に合わせてクリームでデコレーションするように、どんな宿命であろうと、自分の努力で運命を拓けば人生を輝かせることができる。

 

2.(幸福の法則)これまで挙げた7つの法則は欠けることなく実践すれば、霊的真理によって幸せを得ることができる。お金や出世などの物質主義的な成功を求めるのではなく、試練を克服しながら愛を学び、たましいを向上させることにより、「失う恐怖」から自由になることができる。それこそが、スピリチュアリズムにおける真の幸せを意味する。

 

 

 

『天国への手紙』

江原啓之  集英社    2007/3/20

 

 

 

<「たましい」の行方>

<臨終~舞台の幕が降りるとき>

・臨終のとき、すなわち死に臨む最期のときに、意識がはっきりしていて「さようなら」が言えるケースはほとんどないでしょう。亡くなり方にもよりますが、少し昏睡状態になってから、ということが多いと思います。

 前述しましたが、人間の肉体には、幽体と霊体というスピリチュアルなエネルギー体が重なっています。幽体は精神であり、霊体は私たちの本質である魂です。

 

・臨終の昏睡状態のときは、肉体から幽体と霊体が少しずつ離れつつある状態です。たましいが、ふるさとである「あの世」へと帰り始めているのです。

 ですから、意識が半ばもろうとしながらも、「さっき、死んだお母さんが会いに来たよ」などとつぶやくようになるのです。

 

・臨終のときには、ふるさとからお迎えが必ず来ます。すでにあちらの世界に帰っていった愛する人、よく知っている人が迎えに来てくれるのです。

 私たちが現世を生きている間、見守ってくれたガーディアン・スピリット(守護霊)は姿をあらわしません。その姿に私たちはなじみがないので、わからないからです。あちらの世界へ順応しやすくするには、誰が行けばもっとも効果的かと考えて、私たちのよく知っている懐かしい人が迎えに来てくれるようになっています。

 昏睡状態になることも、知っている人が迎えに来てくれることも、すべて旅立ちをスム―ズにするためです。死というひとつの喚問をラクに通過させる方法について、あちらの世界では、実によく考えてくれているのです。

 

<スピリチュアル・ワールドの階層図>

・ここで、スピリチュアル・ワールドの階層について、かんたんに説明しておきましょう。

 私たちが生きている現世は、「現界」です。人が亡くなると、先ほど述べたように、たましいは「幽現界」へ行きます。ここは、現界と重なり合うように存在するスピリチュアルな世界です。

 たましいは幽現界にしばらくとどまり、自分の死を受け入れて、現世への執着を断ちます。これができないと、未浄化霊としていつまでもここにいることになります。

 

・自分の死を受け入れて、執着を断ったたましいが次に行くのは「幽界」です。

 ここはとても広く、さまざまな階層(ステージ)に分かれています。この世にとてもよく似た下層部から、天国のように美しい上層部(サマーランド)までを含みます。

 幽界のどの階層に行くかは、生きている間のたましいのレベルによって違います。

 たとえば、人を妬んで悪口を言ったり、足を引っ張ったりするのが日常茶飯だった人は、同じような人ばかりが集まる下層部に行きます。

 そこには、仏教で「地獄にある」といわれているような針山や血の池などはありません。

けれど、低いレベルのたましいばかりが集まっているので、まさしく「地獄」といえるでしょう。その周辺はどんよりと曇っています。

 

・反対に、人のために尽くし、霊格の向上に努めてきた人は、明るく美しい上層部に行きます。いわゆる「サマーランド」と呼ばれる、とてもさわやかなところです。

 そこを抜けると、「霊界」に行きます。ここが、私たちのガーディアン・スピリット(守護霊)などの高級霊がいる世界であり、たましいのふるさとなのです。

 

・その上には、神の領域である「神界」が広がります。

 私たちは、なかなか神界へは行けません。そこまで霊格を向上させられる人はほとんどいないのです。多くのたましいは、霊界で自分を見つめ直し、再びたましいの修行を求めて現世へと再生をくり返します。

「現界→幽現界→幽界→霊界→神界」と高まっていくスピリチュアル・ワールドの階層を、頭に入れておいてください。

 

<幽現界~現世に最後の別れを告げるところ>

・ラストシーンを終えて舞台袖に戻った役者は、しばらく客席の反応を見つめます。芝居が終わったことを確認するのです。

 それと同様に、亡くなった人は「幽現界」にしばらくとどまり、現世に別れを告げます。自分のお通夜やお葬式を見たりして、死へのイニシエーション(通過儀礼)を行うのです。

 

・そこではっきり自分の死を自覚し、縁のあったいろいろな人に「お別れ」を告げに行きます。

 自分と絆のある人が亡くなったとき、フッと「虫の知らせ」が来ることがあるでしょう。なんとなくその人のことを思い出したり、ラップ音(物理現象としての音ではなく、スピリチュアルな現象による音)が鳴ることもあります。それは、亡くなった人からのお別れのメッセージなのです。

 

仏教では「四十九日」という区切りをつけますが、だいたいそれぐらいの期間、たましいは幽現界にとどまります。

 とどまる期間は人それぞれです。とどまらずさっさと幽界に行く人は、ほとんどいません。必ず何か気になることがあるからです。たとえば、会社の机の整理から、相続財産の行方、飼っている猫のエサの時間、口座引き落としの日の銀行残高など、些細なことにいたるまで心配ごとや執着はたくさんあるのです。

 自分がもう死んだということを自覚して、現世への執着や未練が断ち切れないと、次なる「幽界」へは行けません。すると、幽現界にとどまったまま、未浄化霊となって「さまよう」ことになります。

 

・自分の死を受け入れて、執着や未練を断ったたましいは、幽現界にあまり長くとどまらず、次のステージである幽界へと進むことができるのです。

 

<幽界~心象風景がそのままあらわれるところ>

・「幽現界」を抜け出たたましいの多くは、まず「幽界」の下層部あたりに行きます。

 前述しましたが、幽界はさまざまな階層(ステージ)に分かれていきます。最下層部には地獄のように暗くてどんよりとした世界があり、上層部はサマーランドと呼ばれる天国のように明るくのどかな世界が広がっているのです。

 

・地獄といっても、閻魔大王がいるわけではありません。底意地が悪く、ケチで、自己顕示欲の強い人たちばかりが集まっているのです。俗世中の俗世といえるでしょう。ある意味で現世よりも俗世です。現世にも「闇の世界」は存在しますが、表面化はしていません。

現世の闇の部分がすべて表面化しているのが、幽界の下層部だと考えてください。

 

・反対に、サマーランドは、人が理想として思い描く天国に近いといえるでしょう。心の美しい人たちばかりがのんびりと集う、光に満ち溢れた世界です。

 二つの中間にも、さまざまなステージがあります。そのなかのどのステージに行くかは、生きていたときのその人の心の在り方によって決まります。生きていたときの心の状態とまったく同じところに平行移動するのです。

 

<「浄化」のシステム>

・幽界の最上部に行っても、まだ真っ白ではありません。完全に浄化してはいないのです。

 幽界の最上部まで進んだたましいは、あらたな気づきを経て、「霊界」に進みます。

そこで今度は幽体を脱ぎ捨て、霊体だけになるのです。これは「第二の死」と呼ばれます。

 

・あるとき突然、意識改革されるように感じるときがあるでしょう。それは、思念の連鎖がもたらす改革なのです。

 つまり、現世に生きる私たちと、亡くなって幽界に行った人々のたましいは、互いに切磋琢磨しているのです。

 

<霊界~「グループ・ソウル」への帰還>

・たましいの在り方が、小我から大我へ移っていくのです。

 小我とは、自分の幸せや快楽だけを考える、身勝手で小さな心。大我とは、自分以外の人や全世界の幸せを願う大きな心です。

 たしかに最上層部(サマーランド)に行くと幸せです。なぜ幸せかというと、自分も周囲も大我に目覚めているからです。

 

<再生~再びたましいの旅へ>

・大我に目覚めたたましいは、グループ・ソウルに溶けこみ、そのなかから再び新たな経験と感動を求めて、現界に再生します。

 

・守護霊とは、現界を生きるたましいを常に見守り続ける高級霊のことをいいますが、再生を果たした自分と、それを見守る守護霊は、同じグループ・ソウルの一員です。ですから、守護霊は、二人羽織のように、自分が現界で生きているかのような気持ちで、たましいの旅路を見守っているわけです。

 守護霊は高級霊ではありますが、それは霊界にいるからで、実は現界に再生してきた私たちと同じ人格です。

 

・グループ・ソウルの一滴として現界に再び生まれ出て、守護霊に見守られながら、自分自身の本質をさらけ出し、さまざまな経験と感動を積んでいく。それによって、霊格を向上させていく。これが私たちのたましいが現世へと再生をくり返す目的なのです。

 このようにして、私たちは長い時間をかけ、何度も再生をくり返します。現世における死は、たましいの終わりを告げるものでは決してありません。たましいは、永遠なのです。

 

 

 

『あの世の存在に活かされる生き方』

パット・クビス&マーク・メイシー   徳間書店   1999/7

 

 

 

<新しい世界で生きるということ>

・霊たちのほとんどは、自分たちがこの新しい場所に「渡ってきた」ことを理解しているのですが、ここにどうやってたどり着いたのかを思い出せる者はいませんでした。

 「この新しい場所」とは、地球が所属する太陽系にはないマルドゥクという星のことです。この惑星はひとつの太陽の周りを公転していて、そのほかにさらに二つの太陽に照らされています。ここは決して真っ暗になることはありません。マルドゥクの円周は約12万7000キロメートルで、ここには地球の月よりも大きな月があります。エターナティ川という名の、最深1万7000キロメートル、いちばん広いところで幅3700キロメートルになる大河が惑星全体をぐるりと囲んで流れていて、この川のほとりには600憶もの人々が暮らしています。

 

・この星の風景は絶えず変遷しているわけではなく、なかにはまったく変わらないものもあります。また、街があり、学校や大学もあります。

 今日、アストラル界についてのこのような描写は珍しいものではなく、多くの人々が臨死体験や体外離脱を経験し、そのときのようすを個人的に家族や親しい友人に話したり、あるいは記事や本、講義などで公に発表しています

 

<低次のアストラル界 地獄や煉獄という概念のもととなった世界>

・低次のアストラル界は暗く、陰惨な世界です。一部の人々は死後、自分が持つ低振動の思考や行動によってこの世界に引き寄せられます。この領域は物理的世界の近くに存在し、混沌としています。霊界には時間も、空間も、引力もなく、この低次の世界に陥った存在たちは、混沌とした状態のなかで生きることになります。そしてときには、地球の時間で言えば数年から数世紀もの間、この困惑に満ちた現実のなかで暮らすのです。なかには自分が死んだことに気づいていない者さえいます。

 

・アストラル界下層にいる霊たちの多くは、地球上の種々の問題を引き起こす原因となります。彼らはテレパシーで地球上の人間と交信ができ、心の弱い人たちが悪い行いをするようにささやくのです。その人たちはそれぞれが自分自身の思考だと思い込んでしまいます。たとえば、死んだアルコール中毒患者、麻薬常用者、殺人者、またその他の凶悪犯罪人の霊は、地球上の自分と似たような性質を持った人間や意志の弱い人間に引き寄せられ、かつて自分たちが働いてきた悪事へと誘い込もうとします。このような否定的な心的存在たちは、とりついた人間の否定的な思考や態度、行動を煽り立てます。

 

<アストラル界中層>

・私たちのほとんどが地球での教育―私たちの人格や忍耐力を向上させるための試練を与えてくれる学校―の後のリハビリテーションを行うための快適な領域です。

 タイムストリームや他のITC研究者グループから地球に送られてくるメッセージや画像はすべて、このアストラル界中層からのものです。彼らは、地球上のものに似たコンサートホール、博物館、病院、学校、家などについて描写しています。そしてその周りには、木や花、山々、野原、河川などの自然があり、このような景色は地球のものと似ていますが、ただただ息をのむほどに美しいということです。

 第三界とは、わたしたちがさらに高次の世界に進むか、それとも経験を積むために再び地球に生まれ変わるかを決めるまで過ごす、一時的な場所です。

 

<さらに高次のアストラル界>

・さらに高次のアストラル界は、キリスト教徒が「天国」、スピリチュアリストが「常夏の国」と呼んでいる素晴らしい場所です。他界におけるITC実験の研究仲間の多くはこの高次の世界に暮らしていて、ITC(トランスコミュニケーション)の活動に参加するために自分の振動数を下げて第三界に「降りて」くるのです。

 

・心因界は、世俗的な欲望や葛藤とは無縁の神聖な霊感の領域です。ここにいる存在たちはテレパシーを使ってメッセージを送り、地球上の多くの芸術家や発明家にひらめきを与えています。心因界の振動を持つ「光の存在」たちは、インスピレーションや手引きを与えてITCのプロジェクトを援助しています。

 

<天国と地獄>

・ほとんどの人によって天国だと考えられている世界は、アストラル界高層にあります。神秘家や霊能者はこの世界を「常夏の国」と呼んでいます。

 この常夏の国では、人々は私たちと同じように暮らし、その姿は若かったころのように見えます。ここには素晴らしい大学やデザインセンター、きれいな花や植物が茂る美しい風景があり、まさに天国を思わせる鳥たち、犬猫などの動物のほかに、こちら側の世界には見られない種類の動物たちがいます。またこの世には存在しない色がたくさんあり、初めてこのアストラル世界を訪れた人たちはそのまばゆさに目がくらんでしまうほどです。

 

・医者であり、リッチモンド全科診療専門学校の前学長だったジョージ・リッチ-博士は、1943年にアストラル界を訪ねる経験をしました。リッチーは巨大な半球形の建物に案内され、そこで存在たちが何かの製造作業をしているところを見ましたが、当時はそれが何かわかりませんでした。それがわかったのは十数年後で、ライフ誌に掲載された米国第2の原子力潜水艦の写真が、何年も前に彼が見た、アストラル界の存在たちが造っていたのと同じものだったのです。

 

・他界から通信してくる者たちは、多くのアイデアはまずアストラル界で生まれ、それが現世の発明家に与えられると告げています。発明家が研究開発に一心不乱に取り組んでいるとき、彼らはしばしば自分にテレパシーを送ってくる目に見えない仲間とともに作業をしていることが多いのです。発明家の多くは、まるで見えない何者かが自分の傍らにいるようだと言っています。

 多くの発明家たちが、貴重な情報を夢のなかで受け取ったという経験を語っています。他界の科学者たちにとって、人間が夢を見ている間というのは通信にもってこいの時間なのです。

 

・わたし(パット・クビス)はカリフォルニア州のコスタ・メサにあるオレンジコースト大学で教授として23年間教えていましたが、実はアストラル界の大学でも教壇に立っていたのです。わたしは自分をよく知る友人に向かってときおり、「こんなに疲れているわけよね。一日中ここのキャンパスで働いて、それからアストラル界でもやっているんだから」と冗談を言ったものでした。興味深いことは、アストラル界の大学のキャンパスは、あらゆる点においてコスタ・メサの大学と同じくらい「現実的」であったことです。ただ、アストラル界のキャンパスの構内と建物は地上のものとはまったく異なっていて、オレンジコーストよりもずっと大きなものでした。

 

・地球と常夏の国のいちばん大きなちがいは、常夏の国に住む人々は互いに異なった文化背景を持っているにもかかわらず、みんなが平和と調和のなかで暮らしているということです。実際、この平和と調和に対する理解が、インドの神秘主義者たちが「デイヴァシャウン」と呼んだ第四界、つまりアストラル界高層に進むための必要条件となっているのです。

 

・魂がアストラル界を離れて心因界に進む準備ができると、アストラル体に死が訪れ、進歩をふり返るための休息期間に入ります。しかしながら前にも書いたように、魂は別の選択肢として、再び地上に生まれて物理的世界でさらに経験を積むこともできます。

 

 

 

『河童・天狗・神かくし』

松谷みよ子)(立風書房)1985

 

 

 

<山の神などによる神隠し>

・ある時、この部落の小さい女の子がふっとかき消すようにいなくなった。部落総出で探してみても、いっこうに手がかりはない。幾日かたって、また、ふっと現われた。その現われ方がまた不思議なことだった。この部落のはずれの薬師堂の梁の上に、その女の子はちょこんと坐っていたんだ。村の衆は、あれは薬師様にさらわれたんじゃっていった。  (長野県)

 

岩手県和賀郡和賀町横川目。私が15歳の頃(昭和10年前後)の事件である。大雨で村の中央を流れている尻平が氾濫した。その日、私の部落の幼児(5,6歳)が見えなくなったという騒ぎが出た。消防団も出たりして、部落総出で探しまわったが、夜中になってもわかりませんでした。きっと川に落ちて流されたに違いないというので、川下を探しまわった。ところが、朝になってその幼児が川向うの山の中で無事で発見された。これはどう考えても不思議な話でした。その川には、丸木橋一本かかっているだけで、当日の大雨の氾濫で大人でも渡ることができない状態でした。

 

・長野県上伊那郡。浦の新三郎猟師といえば、山の神様となれ親しんだ逸話の持ち主として知られています。明治の初年のこと、新三郎は金子勢五郎猟師と連れだって仙丈岳へ猟に出かけましたが、二人は途中の小屋で単独行動をとることにきめ、別れ別れになりました。それから1週間、新三郎猟師は、杳として消息を絶ってしまいました。村人に依頼して山中を捜索してもらいましたところ、勢五郎と別れた小屋に戻っているところを発見されました。新三郎の話では、小屋を出てしばらく行くと、立派な婦人が現われて手招きするのに出会いました。誘われるままについて行くと、苺などの実る場所へ連れて行かれ、たらふくごちそうになりました。こんなわけで、山にいる間は、ついぞ空腹を感じなかったという話でした。村人はその女性を山神であるとみていますが、山神男性説をとるこの地方にも、こうした観方のあることはおもしろいことです。

 

出典:松山義雄著『山国の神と人』(未来社

 

和歌山県西むろ郡上三栖。紀州西むろ郡上三栖の米作という人は、神に隠されて二昼夜してから還って来たが、其間に神に連れられ空中を飛行し、諸処の山谷を経廻って居たと語った。食物はどうしたかと問うと、握り飯や餅菓子などたべた。まだ袂に残っていると謂うので、出させて見るに皆紫の葉であった。今から90年ほど前の事である。又同じ郡岩田の万蔵という者も、三日目に宮の山の笹原の中で寝て居るのを発見したが、甚だしく酒臭かった。神に連れられて、摂津の西ノ宮に行き、盆の13日の晩、多勢の集まって酒を飲む席にまじって飲んだと謂った。是は六十何年前のことで、共に宇井可道翁の璞屋随筆の中に載せられてあるという。

 

・昭和二十年頃の話。私の家の近くの男の子(小六年)が昼間、にわとりをいじめたから神かくしにあって大騒ぎとなりました。井戸のそばにしゃがんでいたそうなのに、家人にはその姿が見えず、子供には家人の姿が見えるけど声が出なかったそうです。二昼夜、その状態だったそうですから神かくしに違いないと、父母が言っていました。(青森県