UFOアガルタのシャンバラ 日本は津波による大きな被害をうけるだろう

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「後生には何があるか」「この世にある一切のものが後生にある。学校も警察も。各人はこの世で暮らしたのとまったくおなじように生活する」(1)

 

 

『民衆史の遺産  第六巻 巫女』

谷川健一、大和岩雄     大和書房  2015/5/20

 

 

 

<魂の危機>

・1969年、八重山をはじめて訪れたとき、石垣港近くの、今日では民宿と呼んでも差し支えない鄙びた旅宿に泊まったが、そこの家の老婆の許に出入りするユタ(シャーマン)がいると聞き、会っていろいろと質問する機会があった。宮古群島の池間島の出身の女性ということで、50を過ぎた程度の、いつも黒ずくめの衣裳をまとい、雨が降らない日も黒い洋傘をさしていた。

 その女性と交わした会話の中で、記憶に残っているものをいくつか紹介する。

 神とは一体何者かという私の問いに、「御嶽(八重山ではオン、宮古沖縄本島ではウタキと呼ぶ)の神は、それぞれの集落の祖先、それもりっぱな人をまつったものである。神さまは人間がなったので、別の神さまがあるわけではない」という答えがかえってきた。

「では神はどんなかっこうをしているか」と聞くと、「神はぼろぼろの衣裳をして、乞食同然の姿であらわれる。それは人を試すためのものである」

 乞食の姿に身をやつした神、それは多くの神話や民話に共通のパターンの一つと呼んで差し支えないものだ。しかしそれがユタの口からさりげなく出たのにおどろいた。

常陸国風土記』に見られる御祖の神を泊めなかった富士山が罰せられ、歓待した筑波の山が祝福を受けるという記述に、人間を試す神という考えをみとめることができる。それと酷似する話が石垣島の川平などの集落に残っている。

 あとで述べるように、「乞食の老人の姿に身をやつした神」は宮古島のユタの伝承にもしばしば登場する。

 そこで私は「あの世」のことを聞こうと思い立った。「あの世」を沖縄ではひろく後生(ぐしょう)と呼んでいる。「あなたは後生にいったことがあるか」

「いったことがある。死んだ母の袖につかまって空を飛んだ」

「後生には何があるか」「この世にある一切のものが後生にある。学校も警察も。各人はこの世で暮らしたのとまったくおなじように生活する」「後生からどうして帰ったか」「やはり空を飛んで帰った。後生の渚に大勢の人たちが並んで見送った。みんな白い衣裳を着ていた。後生の神が、あとをふりかえってはならぬと言った。途中で、いましめを忘れてふとふりかえった。すると、大勢の見送り人はすべて骸骨だった」

 冥府から現世に戻るとき、ふりかえってはならぬという禁忌をわすれたオルフェウスの故事は有名だが、それらをこのユタが書物を読んで知っていたわけではもちろんない。しかし一人の無知なユタの創作にしては、思いあたる節が多すぎる、と私は思う。後生を訪れた者が現世に戻るという話の背後には、シャーマンが瀕死の病人の魂を冥府から連れ戻す儀礼の反映があると考えられている。

 

竹富島では、ユタにむかっては「物知り」といわねばならぬ、ユタは蔑称だから、といっている。物知りのモノは他界のことである。ユタを物知りと呼ぶのは他界の消息に通じた人々という意味である。

 宮古島に伝わる「与那覇勢頭豊見親の神歌」も瀕死の病人を冥界から呼びもどす儀礼のときにうたわれるユタの呪詞を土台として生まれたものであろう。

 

・今も宮古に残る伝承によると、与那覇勢頭豊見親は城辺町(現、宮古島市)の根間というところでいったん死んだが、三日目に平良市(同前)のカサマに出てきた。

 

・ところで別の伝承によると、彼は現世に送りかえされるときに、後生のことを話してはならぬ、もし話したら直ちに死なねばならぬ、と戒められていた。後年その戒めをふと忘れたために、死んだといわれている。

 

・後生から生き返ったが、後生のことを話してはならぬという戒めを犯したために死んだ人の話は、ほかにも宮古にはいくつも残っている。

 ある男は、妻恋しさのあまり、墓の中に入って後生の妻と会った。妻は彼を自分の白い下袴の中に入れて現世に送り出した。そして自分のことを話してはならぬと固く戒めたが、その男は現世に帰って、あるとき酒を一杯飲まされ、ついうっかり後生のことを洩らしたために、その場で死んだという。

 

・与那覇メガは特異な体験の持ち主であった。彼女の話によれば昭和5年(1930)、45歳の旧3月16日の暴風雨の夜、神の死者と称するミノカサを着た老人が訪ねてきて、神の道を開けることをうながした。それから二人の神がたびたび夜中にやってきて、神々のあつまる遊宴の座に連れていくようになった。このように、二人の神に守られて、午前2時頃から午前5時まで雨の夜も風の夜も、神の道開けのための修業を百日も続けた。そのとき、海の上を歩いたり、海を泳いだりしたが、衣服がすこしも濡れてなかったと証言しているところを見ると、あるいは夢中のできごとか、神の道開けの前の苦しい試練の時期に夢遊病者のようにある神ダーリの体験であったかも知れない。

 

・「神ダーリ」は奄美や沖縄で日常に使われている言葉であるが、巫病と称すべきものである。巫病にかかったとき身体がだるくなり、欠伸を連発することから、ダーリはだるいに由来する語であるといわれているが、タタリの原義である顕つと関連があるかもしれない。神ダーリは神が顕つという意味と私は考えたい。

 ありふれた日常生活を送っている人がとつぜん幻視や幻聴におそわれ、食物を受けつけなくなり、半病人のようなかっこうで、真夜中でもふらふらとさまよいあるく。医者に診せても治癒しないとき、南島では一応巫病にかかっているのではないかと疑うのである。

 巫病の特徴は一定の期間を経過すると、ふたたび常人にもどって、社会生活ができるということである。言動の健全さを取り戻す回復力が巫病にかかった人に秘められている。

 

・それまで神の言うことを聞かなかった酬いが彼女の39歳のときにふりかかってきた。父親が盲腸の手術をすると死ぬことが分かったが、それをとどめ得なかったこと、自分の兄がハブにかまれて死ぬことを予知しながら、それを告げないで死なせるということが起こった。

「おまえは何人殺したら気がすむのか」

 その夜、枕元にあらわれた白装束の神はなじった。その翌日から、彼女は皿一杯の塩と水以外は食べることができなくなった。一日中、寝ているのか起きているのか分からなくなった。

 そうして三ヵ月と三日目の夜に、麦穂の束と稲穂の束が一束ずつ、クルクルと回りながら近づいてくると、彼女の目の前でピタッととまった。

「おまえはこの麦穂と稲穂のうち、どれが欲しいか。おまえの欲しいものを言え」

「麦穂も稲穂もどちらも大切です。両方から半分ずつ下さい」

 彼女が答えるのとほとんど同時に、麦穂の束も稲穂の束も消えた。すると、こんどは、彼女は黄金の橋の前に立っていた。橋の向こうには大きな帆掛け舟が見えた。女は橋をわたり、舟に乗って向こう岸に着き、しばらくすると、りっぱな御殿の中で、金屏風を前に坐っている自分を見出した。屏風の向こう側には白装束の神が坐っていた。そうして「おまえはすべてに合格した。おもえは人助けをやらねばならない」と言い渡された。そのときから彼女は正常にもどり、ユタのつとめをするようになった。ユタは、したいからといってできるものでなく、またしたくないからといって、それを避けることができるものでもない。それはすべて神様が決めることで、どうしようもないと彼女は述懐する。

「でも、ユタは嫌な仕事だと今でも思う」と自分の心境を最後に付加することを忘れない。

 このユタの告白はさまざまな問題を含んでいる。その中でもっとも重要なのは、神が世俗へ向かう彼女の欲望を邪魔して、断念させるようにしたことであろう。

 神に追われて、逃げおおせることができなくなったときに、神に自分の魂をゆずり渡す。これが南島で神の道に入った女の原則的で典型的な姿である。彼女らに共通しているのは自ら求めて神の道に入ったのではなく、むしろ自分の意志に反して、神の命ずる道に進まざるを得なくなったということである。

 

<天降り女人>

・鹿児島から沖縄にかけて、天降り川、天降り井など河川名が、ところどころ見出されるが、これにはたいてい羽衣伝説系統の話がつきもののようである。いま奄美大島をみると、ここにもアモロ(阿室)、アモロゴー(阿室川)などの地名や河川名が見出されるが、これもどうやら、羽衣系統の伝説と縁が浅くないようである。よく注意すると、この伝説は不思議に根強く部落部落の生活と結びついていたものらしく、たいていの部落は、この伝説の名残りを止めているようである。天女の出現は、これを過去における一回的事件として伝える所もあり、これを反復的出来事として伝える所もあり、なお進んでは、現在でも可能性のある事柄と信じている所もあるらしい。これに応じ、出現の場所も特定の河川から漸次随意的となり、人間が神秘感に打たれる山野なら、たいていどこにでも出現するものと伝えられている。説話として精巧なものは、徳之島あたりにあったらしく「天地あもれ」という長い口説式の叙事民謡まで残っていたらしい。

 

・さて天女のことを、この島では、部落部落により、

アモレヲナグ(天降れ女)

アモロヲナグ(天降女)

アマヲナグ(天女)

ハゴロモマンヂョ(羽衣美女)

などの呼称にて伝えられ、話しの内容も部落により多少の出入りがあるようだが、だいたいにおいて、二つの型に大別することができる。いまこれを若干の実例によって示してみる。

一型――宇研村阿室の阿室川で天女が時々天から下りて来て、水浴洗髪した。その洗髪の日は、村人は謹慎して、外出しなかった。毛髪の長さは上流から下流まであったという。

 

・古仁屋町嘉徳のウックンコー(奥河)では、昔ハゴロモマンヂョが水浴洗髪したという。村のある女が河端で洗濯か何かしていると、川上からサバキ(捌櫛)が流れてきたので、これを拾い上げて上流を窺うと、ハゴロモマンヂョが雪の素肌を、あらわにして水浴洗髪していた。この女はサバキを持ち帰り、これで自分の髪を捌いたら、たちまち一丈ばかり伸びたという。

 

・次は鎮西村諸鈍であったという。アモレヲナグが天から下りて来て、諸鈍のある山の中の美しい泉で笠蓑を片辺の樹枝にかけ、たまたま通りがかりの百姓がその笠蓑を見つけ、村に持ち帰ろうとすると、アモレヲナグは駆けつけて、これがなければ天に帰ることができないから、ぜひ返してくれとねだる。百姓は応ぜず、これを盾に、トシノミト(年の三年)自分と暮らすなら返すという。アモレヲナグも、今やせんすべなく、本意ならずも、この百姓と暮らすことになった。そうこうしているうちに、三人の子供をあげることになる。

 

・二型――アモロヲナグ一名アマヲナグ。これは天から下りて来る女で、場所はたいてい、川上や山間の泉、その他どこでも人が暫し足を止める山野の神秘感をそそる佳境に下りて来る。アマヲナグが下りる時は、いかなる晴天の日でも小雨が降り、その雨とともに姿を現すという。このアマヲナグは天から異性を覓めて降りる女で、地上に現れる時は、年のころなら17、8、20くらいに見え、人間の住む下界では見ることのできない、目もさめるような清ら女だという。きれいな衣服を着てはいるが、不思議なことには、どのアマヲナグも、必ず白風呂敷の包物を背負い、着物の左褄を手にとるか、あるいはまくりあげて帯に嵌め、下裳をちらっと覗かせ、まことになまめかしい姿である。なぜそんな姿で現われるかといえば、異性を覓める女であるから、男に会った際、その心を蕩けさせ、誘惑する手段であるという。このアマヲナグは幽霊とは異なって、全身をはっきりと現わし、男に逢えばニコニコ笑って近づくので、その愛嬌といい、物腰といい、まったく魅せられるので、用心の悪い男なら一時に参って、抱きつくほどであるが、抱きついたら最後生命は亡くなり、アマヲナグはさも得意らしく、その魂を伴って天へ昇る。これに出逢う時は用心して、その誘惑にかからないように、ニコニコ笑っている相手を睨みつけなければならぬ。そうすれば、根負けして、男のすきを見はからって消え失せるという。

 

・(イ)これは笠利村節田部落であったという話。ある男が山へ薪取りにいき、薪もたくさん採り、もう帰ろうという時にあまり喉が渇いてしかたがないので、あとで下の谷間へ下って水を飲もうと独言しながら汗を流し流し、うつむいて薪を束ねて、ふと顔を上げた瞬間、数間向こうに、それはいままでみたことのない年のころ17、8の目もさめるばかりの美人がヌブ(柄杓、ひさご)に水を入れ、ニコニコ笑って立っている。だんだん近づいて3、4尺手前まで来て止まり、その方へ水を上げましょうといって、持っている水を差し出した。その男は、まさか人間が、しかも見知らぬ絶世の美人が、一滴の水もない長峰で、水を持っているとは不思議、きっとかねて話に聞くアマヲナグに相違ないと思って、それから、にらみつけること約10分ぐらい、相手は消えるに消えられず、どぎまぎしているようすだったが、男が腰の手拭を取り汗を拭く瞬間に消失していたという。

 

 

 

『誰の上にも奇跡が降りてくる』  

琉球ユタ  HARU  PHP研究所  2010/6/17

 

 

 

<よい波動を受けるために本物に囲まれて暮らしましょう>

・私はふだんの生活では、価値あるものに囲まれるようにしています。それは、よいものからよい波動が出てくるからです。

その波動を受けていれば、自分の波動が下がりません。たとえば、宝石でも何でもそうですが、価値あるものを身につける、身の回りをこぎれいにするということで、そのものが持っている波動を得られるわけです。また、よい波動に囲まれていると、病気になりにくいのです。よいものに囲まれることは、贅沢とはちがいます。

 

<人間は自分でつくった人生を歩んでいるのです>

・「時間は未来から過去に向かって流れる」という考え方がありますが、これは、原因が実は未来にあり、結果が現在にあるということ。

 

<性格ではなくマイナス思考の癖を直すことです>

・マイナス思考を変えるためには、環境を変える必要があります。自分が癖になっているということは、自分の周りにいる人たちにも同じ癖があるということです。ですから、自分だけが変わるとしても、ゼロサムゲームのようにまた周りの人たちに駒を返されてしまいます。重要なことは、その波動から抜け出すことです。

 

 <体をよく動かすと運気が上がります>

・仕事だけでなく、いろいろな生活の中で運をよくするためには、とにかく体を動かすことです。

 

<「まだまだ先に行ける」と思っている人が成長します。>

<ユタについて>

・ユタは一般人と同じように生活し、一般人を相手に霊的アドバイスを行うことを生業とする、在野のシャーマン、カンナギで、琉球王朝時代に地域の霊能者をノロ(神事をつかさどる女性司祭者)が指名してユタを決めたとされています。

 

・私は小さい時から沖縄のユタとして育ち、無意識にチャネリング(潜在意識を通して日常とは別の次元で交信すること)をするようになっていました。

 

・人間はこの世に存在している限り、誰かの役にたつことができます。自分のことを必要とする人がいてくれるという思いが、生きる励みになります。

 

・私は霊のメッセージを受け、沖縄中のお水が出る聖地を求めて、あちこち回って歩き、拝所をつくりました。

 

・ユタは沖縄の人たちの自警団です。そもそも、ユタという存在は、地元地域に密着しているものなので、パブリックな場所にはほぼ100パーセント出てきません。一般的にユタは、住民たちの先生として地域に存在します。

 

・ユタのような存在は、沖縄だけでなく、日本全国にいるといいかもしれません。ユタの考え方ができる人は、強いと思いますから。

 

 

 

『ど・スピリチュアル日本旅』

たかのてるこ   幻冬舎    2014/8/5

 

 

 

<会社を辞めて“旅人・エッセイスト”として独立した私>

<「世界一、スピリチュアルな国」日本をめぐる旅>

・私も、人生のテーマは「お金儲け」ではないので、「うわ、こんなおもろい人に出会えて、ラッキー!」と思えるような出会いを求めて、“人もうけ”をモットーに生きていきます。

 

・案内された沖縄コーナーには、沖縄の文化や宗教、歴史等の本がズラリ。沖縄では、年間300冊近くの沖縄本が出版され、この店だけでも1万5000冊を取り扱っているのだという。沖縄の総人口は約140万人だというから、沖縄人がいかに故郷を愛し、アイデンティティを大事にしているかが分かる。

 

<いよいよ“沖縄最強のユタ”と対面!>

・このイシキ浜は、海の向こうにあるとされる「ニライカナイ」を拝む聖地で、毎年、島の祭祀が行われているのだという。ニライカナイとは、東方の海の彼方にあるとされる異界、「神の住む国」で、祖先の霊が守護霊に生まれ変わる場所だといわれているのだ。

 

・「照屋家庭はんだん」の看板の掛かった鑑定所に着くと、普通の家のような落ち着いた風情の居間に通され、ユタの照屋全明さんが現れた。長身の照屋さんは穏やかな雰囲気ではあるものの、どこか存在感に凄みを感じる人だった。

「取材に見えたとお聞きしましたが、それには私の仕事を見てもらうのが一番なので、たかのさん、ご自身を鑑定させて頂くということでよろしいですか」

「あ、はい! お願いします!」

 思いもよらない展開に、胸がドギマギしてくる。照屋さんは毎日、朝10時から19時まで、30分刻みで1日16名を鑑定しているというのだが、毎朝8時から、その日の鑑定予約を電話で受け付け、たった10分で予約が埋まってしまうほどの人気だと聞いていたのだ。

 

・「スタンスがフリーですね。一匹狼。自由人。組織はムリです。持っている良さが、フリーだからこそ出てきます。人徳はあり。ボランティア精神で、人材育成もしていくでしょう」

 な、なぜそれを?!私はこの秋から、私立大で「異文化の理解」という講義を週イチで受け持つことになっていたのだ。非常勤の講師料は、目がテンになるほどのボランティア価格。国公立はもっと講師料が安いと聞き、非常勤講師は不安定な派遣社員みたいだなぁと思っていたところだった。

 

・動揺している私をよそに、怒濤の勢いで鑑定が続く。

「3、4年後、新しい才能が出てきます。それまでは、才能にフタしてる状態ですね。ゆくゆくは経済面も安定します。今はゆとりがないけれど修行だと思って、今までの道は間違いではないです。仕事はイエス・ノー、ハッキリさせていいですが、人間関係は『テーゲー』で、テーゲーは沖縄の言葉で『細かい事を気にせず、大らかに』という意味です。人間関係は突き詰めず、ほどよく適当にいきましょう」

 

・鑑定中の照屋さんは、物言いはあくまでジェントルなのだが、恐ろしく早口だった。神様からのメッセージはイメージのようにダーッと伝わるのか、照屋さんは神様のお告げを全部伝えたいがために、なんとか早口でしゃべって、そのスピ―ドに追いつかんとしている感じなのだ。

 と、突然、真剣な面持ちの照屋さんから「タバコ、いいですか?」と聞かれ、「あ、はい」と頷くと、照屋さんは鑑定しながらタバコをスパスパ吸い始めた。神様のメッセージがあまりに早口だから、気持ちを落ち着かせるようとしてるんだろうか………。

 その後、私の両親、兄ふたり、義姉たち、甥っ子たちの性質もズバズバ言い当てられ、それぞれの将来まで示唆されると言葉が出ず、「いやはや、恐れ入りました!」という感じだった。

「家族のことまでみて頂いて、ありがとうございます!」

 鑑定後、お礼を言うと、照屋さんが言う。

「お悩みに家族のことが連鎖している場合も少なくないので、私はいつも、来た人の家族全員、鑑定させて頂くんですよ」

これで8千円ならリーズナブルだなぁと思いつつ、鑑定料をお支払いさせて頂く。

 

・ユタはたいてい家系で継承され、圧倒的に女性のユタが多いのだという。そんな中、男性の照屋さんがユタになったのは、照屋さんの祖母が、祭祀を取り仕切る神職「ノロ」だったことが大きいというのだ。

 ノロが神職のシャーマンなら、ユタは民間のシャーマン。沖縄には古くから「医者半分、ユタ半分」ということわざがあり、これは「ユタの助言で精神的な癒しを得る」という意味で、ユタは生活全般のアドバイザーのような存在なのだという。

 

<●●インターネット情報から●●>

 

ユタ ( 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 

<概念>

沖縄の信仰において、琉球王国が制定したシャーマンであるノロ(祝女)やツカサ(司)が公的な神事、祭事を司るのに対し、ユタは市井で生活し、一般人を相手に霊的アドバイスを行うことを生業とする、在野のシャーマン・巫(かんなぎ)である。

 

ユタはいわゆる霊能力者であるが、迷信と考える者も多い。だが、一般にユタの力は古くから広く信じられており、凶事に当たった場合や原因不明の病気、運勢を占いたいとき、冠婚葬祭の相談など、人が人知を超えると考える問題を解決したいときに利用される。こうした行為は「ユタ買い」といわれ、通常、ユタは相談料をもらって問題解決にあたる。医者がユタを勧める例もあり、沖縄には「医者半分、ユタ半分」ということわざが古くからある。

 

ユタは単なる霊能力者ではなく、信仰上、自らを神と人間の介在者と位置づけており、広義にはノロやツカサなどと同じく「神人(かみんちゅ)」と呼ばれる。沖縄では神に仕えるのは一般に女性と考えられており、ユタもノロやツカサと同じく、大多数が女性である。

 

ユタは弾圧の歴史を持つことから、隠語として、ユタのことを三人相(サンジンゾー:易者)やムヌシリ(物知り)などと呼ぶこともある。

 

 

 

『うわさの人物』 心霊と生きる人々

加門七海   集英社   2010/3

 

 

 

 <『普通の高校生がユタになるまで』(平博秋)(ユタ)>

・それは17歳のことだった。

 

・母方のお祖母さんがカミンチュ(神人)だったんだから、きっと感じたんでしょうね。

 

<拝みの言葉は自然に出る>

・はい。お祖母ちゃんのときもあるし、大日(大日如来)さん、天照さんが教えてくれたり。

 

<神様の生の姿とは>

「ユタの世界や霊感の世界で、ある程度できるようになったら、夢で免許証みたいな、本をもらうんです。「帳簿」と言いますが、聞いたことあります?」

「あります。なんとか長老という方が出てきて、ユタの許可証を渡すんでしたっけ。」

「ウティン長老。白い髭のお爺さんです。」

「それ、本当なんですか。」

「本当です。杖を持っていてね。」

「平さんの許にも現れて?」

「はい。自分はこの神様にいろいろ教えられて、何回も天照さんのお姿も見て。それから弁財天さんも。」

「弁財様。すごい美人なんじゃないですか(笑)?」

「ものすごい美人、真っ白です。大日如来さんは、こっちに赤いのがついていて。髪がね、剛毛で長いんですよ。」

 

<インタビューを終えて>

・こんなにはっきり神の姿を語る人を、私は彼のほかに知らない。ターリと共に、何よりインパクトがあったのは、容姿や口調、身長まで、平氏が「神様」をすごくリアルに捕らえているということだった。無論、その真偽のほどは、私には計りようがないことだ。だが、氏は神々を親戚や教師であるかのように語った。

 

 

 

『ほんとうは怖い沖縄』

仲村清司    新潮社      2012/6/27

 

 

・「別の生き霊がいくつも寄ってきたり、死霊が取り憑くおそれがあります。霊にも人間のようにそれぞれ性格がありますから、悪さをする霊がつくと危険ですね」

 

<キムジナーとケンムン

・日本の妖怪といえばワタクシなど、すぐにカッパが思い浮かぶのだが、風土や環境が内地と著しく異なっているせいか、沖縄にはカッパは存在しないようだ。ただし、似たのはいる。

キムジナーと呼ばれる子どものような背格好をした妖怪である。

 全身真っ赤で、髪の毛はパサパサにして茶髪ならぬ赤髪、顔も赤ら顔。ひと頃流行った渋谷系ガングロ女子高生に近いかもしれない。

 

・しかし、コヤツはどうやらオスらしく、地域によっては大きな睾丸をぶらさげているのが特徴とか。

また、腕はオランウータンのように長く、木の枝みたいに細くふしくれだっているとも。なにやら、やせすぎの老人を思わせるところがあるけれど、これでもやはり10歳ぐらいの子どもらしい。

 

・興味深いのは………、

実はこのことがキムジナーを特徴づける要素になるのだが、漁師の船にいっしょに乗って魚をとるのを手伝ったり、農家の野良仕事の手伝いを買ってでたりするなど、人間の前にくったくなく姿を現して、人と積極的にご近所づきあいする点である。また、いかにも子どもっぽいのは人間と相撲をとりたがることで、負けると何度も勝負を挑んでくるとされる。

 いうまでもなく、カッパも人間社会と接点をもつ妖怪にして、相撲が大好き。キムジナーが沖縄版のカッパといわれるのは、こうした性格も大きな理由になっているようだ。

といっても、キムジナーには頭のお皿や背中の甲羅がないので、風姿からいえば、カッパの系統とするにはやや無理があるように思える。

 

・キムジナーに気に入られた家は栄える、逆に嫌われた家は滅びるという伝承もあることから、民俗学者折口信夫は座敷わらしの系統をくむものという見方をしているが、ともかくも、人間と深い関係をもつ妖怪であることは確かなようだ。

 ガジュマルなどの古い大木に住んでいるので、「木の妖精」、「森の妖精」などと呼ばれたりもするのだが、その親しみやすいイメージから、いまでは観光みやげなどにキャラクター化されるほどのアイドル的存在に昇格している。

 

・それらの話を総合すると、キムジナーの生息地は沖縄本島北部、東村、大宜味村など、いわゆるヤンバル地区、背後に深い山を背負う村や、漁村に出没しているようだ。

 なかには、キムジナーが住んでいた小屋もあったと証言する人もいたし、大勢のキムジナーがまるで運動会のように海岸でかけっこをしていた、あるいは、ある時期まで毎晩のようにかまどの火をかりにきたという人までいた。

 

・ただし、どの目撃談も戦前もしくは昭和20年代のものばかりで、最近の目撃例はまるで聞かない。1975年前後に本部半島を住みかにしていたキムジナーが大宜味村や東村に「集団疎開」したという噂もあるが、その頃はちょうど海洋博ブームで大型リゾート開発があちこちで行われた時期でもある。森を住みかにしてきたキムジナーは住むところを追われたというわけだ。

 

奄美諸島にはケンムンが住んでいるといわれている。ケンムンとはキムジナーと類型のものとされる森の妖怪。性質や特徴がキムジナーと酷似している一方、奄美ガッパとも呼ばれ、内地のカッパにも似ているともいわれる。

 その容姿が『南島雑話』という書物に図入りで記されている。幕末の薩摩藩士、名越左源太がお家騒動に連座して奄美大島に遠島を命じられた期間に著したもので、1800年代半ばの奄美の実情をビジュアルで知ることのできる貴重な史料となっているが、そのなかにケンムンに関する記述を見出すことができる。

 

・それによると、体毛が長く、頭に皿をいただいている様がはっきりとわかる。一見すればカッパのような印象を受けるが、顔は人間の子どものようでもある。人間の大人と仲良く手をつないで歩く姿を紹介していることから、キムジナーと同じく、人間社会と接点をもつ妖怪であることは一目瞭然で理解できる。

 

・といっても、容姿や性質については諸説あるので、はっきりしたことはいえないのだが、口伝からその恰好を推察すると、全身真っ赤で、おかっぱの髪の毛はやはり赤毛。背丈は子どもぐらいで、いつも鼻をたらし、ヨダレをたらしていることもある。

 また、座るときは膝を立て、頭を挟むようにして座る。そのため、奄美大島では膝を立てて座ることを「ケンムン座り」といって嫌うらしい。

 また、人間が悪さをしなければ敵対したり、危害を加えたりすることもないという。相撲が大好きで、人を見ると勝負を挑む。住むところはガジュマルなどの大木で、好物は魚の目。苦手なものはタコ、おならといった具合に、このあたりの特徴はキムジナーと酷似している。

 

・しかし、ケンムンとキムジナーには決定的な違いがある。それは、ケンムンが伝承や迷信の世界ではなく、いまも目撃談が絶えない「生物」として存在し続けていることだ。

 数年前、奄美大島の名瀬に出向いて聞き取り調査を行ったことがある。すると、「実在する」「見た人を知っている」「存在を否定できない」という人がぞろぞろいて、あまりの証言の多さにめんくらってしまった。

 

奄美博物館では「ケンムンマチ」を見たと証言する人までいた。ケンムンマチとはケンムンが発する火の玉のことで、伝承では雨の降る夜に山の尾根伝いに無数に火が灯るという。

 その証言者は「ちょうどあの方向の山女の中腹です」と、名瀬市内のすぐ裏手の山を指して、「揺らめいているような火ではなく、松明ぐらいの火が右左とあちこちにものすごい速さで動き回るんですね。すぐにケンムンの仕業だと思いました」と、毅然としていってのけたものである。

 

・そのせいか、アイドル的なイメージの強いキムジナーと違って、ときに人間に害を為す歴とした妖怪として、いまもどこか怖れられている部分もある。前述した奄美博物館では1990年頃にこんな事件があったと話す人がいた。

「ある老父が野良仕事に出たまま失踪しました。3日後、その老父はカマのような切り傷を体中につくり、畑の中でうずくまっていた状態で発見されたんです。老父はケンムンにやられたと証言しましたが、出血多量で手当のかいもなく亡くなりました」

 証言者が亡くなっているので真偽のほどは闇の中だが、目撃例が絶えて久しい沖縄と違って、奄美ではアンビリボーな生々しい事件がいまも発生していることになる。

 

・ほかにも、単に轢断されたケンムンの死体が山道に転がっていたなどの証言が報告されたり、目撃談がたまに地元紙に掲載されたりするという話も伺ったが、奄美の郷土民俗の研究家である恵原義盛は自らの不思議な体験を自著『奄美のケンモン』の中で語っている。

 

・その話が『南島雑話の世界――名越左源太の見た幕末の奄美』(南日本新聞社刊・名越護著)に掲載されているので孫引きさせていただく。

――1966(昭和41)年1月29日午後2時半ごろ、恵原は名瀬市根瀬部の水源地近くで、水が流れるコモリ(湖)のそばの石の上に子どもが座っているのを見つけた。山仕事をしている人の子どもだろうと、恵原は「そこでなにをしているの」と声をかけた。すると、振り返った瞬間、子どもは「稲妻の速さ」で、左側の渓谷上の方に掛け飛んで消え失せた。

 

・こちら側を振り向いた一瞬に見たその顔は、髪は伸びてまゆを隠し、着物は文目もわからず、年のころ6、7歳ぐらいで顔は黒かった。集落に下りて心当たりを聴いたが、そんな子は集落にいない、という。この外、恵原は「奇妙というか不思議な、常識では割り切れない現象は数知れない」と書く――。

 

・恵原はこれがケンムンであるとは述べていない。また、名越左源太が図で表現したカッパ様の生き物とも違っている。なにやら、かつての山間の漂泊民・サンカを思わせるような風貌ともいえるが、ともかくも、明らかに人間に近い姿をしているぶん、この目撃談はいっそうリアルに感じられるものがある。

 この話を読んだとき、僕はすぐに奄美博物館で聞いたケンムンマチのことを思い出したのである。

ケンムンが放つという火の玉のことである。

 もし、その子どもらしきものが、深夜に松明のようなものをかざして山中で動き回るとすれば………。

 尋常でない速度で動いたというあの火の玉と、「稲妻の速さ」で掛け飛ぶという恵原の証言はこの点で見事に一致するのではないか。

 

・だからといって、ケンムンの正体が明らかになったわけではないけれど、あの山中には何か得体の知れないものがいる――、そう思わせるに十分なほど、奄美の山塊は依然として黒々とした深さを保ち続けていることだけはたしかである。

 恵原は先のくだりに続けてこう結んでいる。

――(ケンモン)はもっと人間の生活の中に入り込んでいて、奄美という空間、広漠なる海に浮かぶ島の、存続と秩序を維持してきた要素の一つであったように思われます。

 

 

 

『未確認飛行物体観測日記』

宮本一聖   湘南社   2011/1

 

 

 

五島列島のUFO出現現象>

・本書は九州・長崎県の西方に浮かぶ五島列島において、近年展開されているUFO出現現象の2007年~2009年迄の出来事をまとめた日記です。

 

・本書でご紹介するUFOについてですが、目撃時の飛行高度が100~200mと低空であり、かつ飛行速度が自動車並みの30~40kmと低速であること等の理由から、通常の飛行物体でないことが推測されています。

 

・さらに、この長崎県五島列島という地域は、昔からUMA(河童)の出現で有名な場所で、UFO出現場所と符合することからUFOとの関連も疑われています。

 もしかしたら、これらのUFOはUMAと何か関連があるのかもしれません。