日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

能には現在能と夢幻能があるが、夢幻能では生者と死者との交流が演じられる。例えば、『平家物語』を題材とした作品の多くは、死後も修験道で苦しむ武将が亡霊となって現れ、生前の栄華や死の苦しみを語っていく。(1)

 

 

 

『怪異を魅せる』    怪異の時空2

飯倉義之、一柳廣孝  青弓社  2016/12/1

 

 

 

<『子どもと怪異』>

<――松谷みよ子『死の国からのバトン』を考える

三浦正雄 / 馬見塚昭久>

 

・『死の国からのバトン』(偕成社)、は、『ふたりのイーダ』(講談社)などとともに、松谷みよ子が20年以上の歳月をかけて完成させた「直樹とゆう子の物語」5部作のなかの1冊である。5部作それぞれに直樹とゆう子が登場するものの、1作1作は完結した物語になっている。

 この5部作は、社会問題を扱った「告発の児童文学」として知られるが、実はもう一つの大きな特色がある。いずれも題材として怪異が取り入れられているのである。特に『死の国からのバトン』は、タイトルのとおり、主人公の直樹が死の国へ赴き、バトンを託されて帰還するという物語で、いわば現代の冥界訪問記である。

 

・向日性や理想主義から脱却し、多様性に富んだテーマを扱うようになった日本児童文学であるが、今日でもなお、本作品は特異な存在である。タイトルに「死」という言葉を使うこと自体がまれであるうえ、その内容も死んだはずの祖先と子孫が交流するという特異な題材を描いたもので、ひときわ異彩を放っている。特異な作品でありながら、従来、その点はあまり注目されてこなかったようである。

 

・また、西田良子の「松谷みよ子論」は、本作品に通じる<根>として、<幼児的心性>と、<古代人的感覚>を探り当てた点で卓越している。だが、「松谷文学の特質である<幼児的心性>は、ややもすると、過度の幼児語使用となったり、<古代人的感覚>が時には呪術的迷信をも伝えてしまう危険性をもっている」とも語っていて、必ずしも肯定的に受け止めてはいない。筆者は「古代人的感覚」こそ、現代児童文学に最も必要な要素の一つであると考えるのであるが、西田はこれを「迷信」のひと事で切り捨ててしまっている。

 

・では、なぜ松谷はこの作品を書いたのだろうか。公害の告発が主目的ならば、わざわざ「死の国」をその舞台に設定する必要はなかったはずである。実社会の被害状況をリアルに描いたほうが、はるかに訴求力のある作品になっただろう。作者の強い思いが込められているのではないだろうか。ここでは本作品の時代背景を探り、怪異の仕組みをひもときながら、作品に秘められた松谷の思いに耳を傾けてみたい。

 

<ムーブメントの交差点>

<公害告発の文学>

・まず、「公害」という視点から、物語の時代背景を探ってみよう。本作品には、各地に伝わる伝説や民間信仰が複合的に組み込まれており、作中に描かれた公害は、阿陀野川に有害物質が流されて発生したという設定である。阿陀野川は松谷による架空の名称だが、昭和電工メチル水銀を流し続けた阿賀野川を連想させる響きである。本文中には、「やがての、それがおさまると、ねこらは、目をうつろにみひらき、よだれを流し、足を引きつらせ、苦しげな息をはいて死んでいった」など、第二水俣病として知られる水銀汚染による中毒症状らしき記述も見られる。第二水俣病は、いわゆる四大公害病の一つだが、その他にも、高度成長の弊害ともいうべき公害が各地で報告され、1970年代初期には、「公害列島」なる言葉が新聞をにぎわした。

 それに対し、公害問題に対する包括的な法律となる公害対策基本法が制定されたのは1967年、公害防止など、環境の保全に関する行政機関として環境庁が設置されたのが71年のことだった。

 

・このような経過のなかで、公害問題を取り上げた文学も登場した。その先駆的な役割を果たしたのが石牟礼道子の『苦海浄土――わが水俣病』(講談社、1969年)だろう。この作品は、作者が患者たちの声にならない声を受け止め、自身のなかで純化させてつづったことで、比類のない訴求力を持つ作品になった。1974年には、有吉佐和子の『複合汚染』(新潮社、1975年)の新聞連載が始まり、大反響を呼んだ。

 

<民話ブームとニューエイジブーム>

・本作品巻末の解説で、安藤美紀夫は、「「ご先祖」が、けっして遠い存在ではなく、よく見れば、すぐ近くに生きているという実感も、それ[民話採集の旅:引用者注]をとおして得られたものに相違ない」と述べている。確かに、本作品は随所に民話的な要素がちりばめられていて、民話の強い影響を受けていることがうかがえる。

 

・民話運動は1952年、木下順二を中心とする文学者や歴史学者が集まって「民話の会」を設立したのが、その始まりといわれる。松谷はごく初期の段階からこの会に関わり、民話の探訪と普及、啓発に努めてきた。彼らの活動は、民主的な歴史観の確立を目指した運動や、高度成長に対して伝統的な価値を再発見しようとした運動などと接点を持ちながら、日本固有の文化を再評価する機運を高めていった。やがてこの運動の影響によって、民話絵本や創作民話の流行などの「民話ブーム」が起きることになる。

 

<公害と民話の出合い>

福井県大野郡和泉村に「公害を知らせに来た河童」として知られる民話がある。この村人たちは古くから河童と親しく交流してきたのだが、ある夜、村人たちは河童が悲しい声で「川の水をかえてくれ、川の水をかえてくれ、水がおとろしい、水がおとろしい」「もう住んでおれん」「あの川の水はお前さんらにもようないはずじゃ」と訴えるのを聞いた。だが九頭竜川は何の変わりもなく澄んで流れている。村人たちは相手にしなかったが、ある夜、河童たちは激しい雨のなかをよろよろと山へ立ち去ってしまった。その2年後、村人たちは行政からの知らせで、九頭竜川カドミウムに汚染されていたことを知る。河童に対して申し訳なく、村人たちが山へ行って呼びかけると、「百年したらもどっていくさかい、それまでに川を綺麗にしておいてくれえ」と返事があったという。

 

<怪異の仕組み>

・本作品のなかで、主人公の直樹は、怪異に3回遭遇する。1回目は、五百羅漢でコドモセンゾの直七たちに出会ったこと、2回目は、崖から落ちて気を失い、直七に死の国へ連れていってもらったこと、3回目は、百万遍の数珠を回して直七を呼び出したことである。

 

<五百羅漢での邂逅>

・1回目の怪異は、1月14日の夕方、祖父母の家についてすぐのことだった。五百羅漢へ行こうとして裏山の雪道を歩いていた直樹は、大勢の子どもたちの歓声を聞く。ところが、声は聞こえても姿が見えない。「だれだい、でてこいよ!」と呼びかけると、五百羅漢の岩々が子どもたちの姿に変わり、直樹は直七と言葉を交わす。だが、そこに妹のゆう子がやってきて気を取られ、もう一度振り向いたときには、子どもたちの姿は消えていた。直樹はなぜここでコドモセンゾに会うことがきたのだろうか。

 

小正月

・直樹が直七に出会ったのは、1月14日の夕方ということになっている。14日の日没から15日までを小正月と呼ぶが、五百羅漢での邂逅はまさしく小正月を迎えようとしているときだった。小正月は元旦の大正月に対する言葉で、いまでも各地で粟穂、稗穂、成木責め、鳥追い、もぐら打ち、ドンド焼きなど、主として農耕に関わる予祝儀礼がおこなわれている。この小正月には、異界から何者かが村を訪れるという信仰があったのである。

 

・来訪神接待の「来訪神」とは、小正月の訪問者と総称されている神霊に扮装した訪れ人のことで、各地各様の呼び方がなされており、名称上、ナマハゲ系、チャセゴ系、カセドリ系、トタタキ系、カユツリ系、トロヘイ系、オイワイソ系、その他(福の神・春駒等)に分けることのできる行事の主人公である。(略)これら来訪神の性格は必ずしも明確にされてはいないが、小正月の代表的な神であることに間違いはない。

 

・直七たちもコドモセンゾも、まれにしか会えない異界からの来訪者という意味では、来訪神と呼んでいいだろう。五百羅漢での怪異は、小正月という特殊な時間の作用があって起きたのである。

 

<夢幻能>

・能には現在能と夢幻能があるが、夢幻能では生者と死者との交流が演じられる。例えば、『平家物語』を題材とした作品の多くは、死後も修験道で苦しむ武将が亡霊となって現れ、生前の栄華や死の苦しみを語っていく。

 五百羅漢での邂逅は、こうした夢幻能における生者と死者との交流に通じるものがある。能ではしばしば、亡霊が出現する前触れとして不可解な自然現象が現れ、時空にひずみが生じ、ワキ(死者を弔うべき存在)が死者ゆかりの場所を通りかかることによって、シテ(死者)との交流が引き起こされる。シテは異界からの来訪者なので、時空間を支配する霊力を持っているのである。そこでは、現在から過去へと遡行する時間と、過去から現在へ順行する時間とが融合し、特殊な場が出現する。シテは遺恨を語り、ワキは新たな生を生き直すことができる。

 

<他界の巡歴>

・二回目の怪異は、直樹が直七と会話した直後、ゆう子を助けようとして岸から落ちたことがきっかけだった。直樹は、気を失って夢と現実の間をさまよう。やがて、鳥追いの列に直七を見つけた直樹は、ルウを捜すために、川向こうの「死の国」へ連れていってもらうことにする。「死の国」では、村に水路を引いた農民、直右衛門夫妻を訪ね、次に猫好きの喜平じい夫妻を訪ねる。直樹は、そこで白い猫に導かれ、思いがけず山のばばさに出会う。山のばばさは、死霊となって登ってきた猫たちに乳を飲ませていた。山のばばさは、死んだものの苦しみを和らげる不思議な力を持った存在である。

 

<三途の川>

・崖下へ転がり落ちた後、直樹は花が咲き乱れている野原をひとりで歩き、川の向こう岸に、亡くなったはずの父を見つける。直樹が川を渡ろうとすると、父は、渡ってはいけないと叫ぶ、しかし、どうしても行きたくて、流れに一歩踏み込んだその途端、冷たさと痛さで、直樹は正気づく。

 松谷の手になる『現代民話考』(第5巻、立風書房、1986年)の第1章「あの世へ行った話」には、あの世を垣間見た人々の体験談が約260件紹介されている。その多くは、生死の境をさまよった際、三途の川が出現したというもので、向こう岸に知り合いの姿が見えたので渡ろうとすると「渡ってはいけない」と言われ、気がついたら病院のベッドに寝ていた、というような話である。特徴的なのは、川を渡ろうとしたけれども結局渡らなかったということであり、川を渡って向こうの世界へ行って戻ってきたという話は一件もない。

 直樹が見た川も、まさしくこの川だろう。渡ったら最後、二度と戻ってくることはできないはずの川だったのである。

 

<他界巡り>

・ところが、再び意識が遠のいた直樹は、鳥追いの列に直七を見つけ、川までついていってしまう。そこで直七に頼んで向こう岸へ連れていってもらい、直樹は他界巡りを始める。

 

・三途の川は、六文銭を支払い、船で渡るものというイメージが一般的だが、かつては生前のおこないに応じて、横、浅瀬、深瀬のいずれかを歩いて渡るものと考えられていた。

 善人は橋を渡るので川の水には濡れないが、やはり死ぬことに変わりはない。すると、川の水に濡れる濡れないは、生死には直接関係ないということになる。直樹の場合は、直七に負ぶってもらうことによって自分の足で渡らなかった。だから、死なないですんだ、ということになるだろう。

 直七という先祖の協力によって、直樹は生きたまま、この世とあの世の境界を超えることができたのである。これによって直樹は、他界巡りが可能になった。

 

<直七との交霊と空間移動>

・3回目の怪異は、足のけががあらかた治った1月16日の夜更けのことだった。直樹は床に就いたものの寝つかれず、どうしても直七に会いたくなる。彼に言われたとおり百万遍念仏の数珠を回してみると、そこに直七が現れ、雪靴を履かせてくれる。その途端、二人は目もくらむような眩しい雪の上に空間移動するのである。そこは五百羅漢で、直樹はコドモセンゾたちと羽子つきや掛けっこして遊ぶ。帰り道、直樹は亡くなったはずの父にも会い、理不尽なことと戦う覚悟を持つようにと、バトンを託される。この時空を超えた怪異の仕組みは、どのようになっているのだろうか。

 

百万遍念仏

・直樹が感じたのはおそらく、長い年月にわたって数珠に込められた、人々の鎮魂への思いなのだろう。直樹は、いまは亡き村の先祖たちと一緒に数珠を回した。蓄積された祈りが直七に届いたからこそ、直七が迎えにきたと考えるのが妥当ではないだろうか。民族行事、仏教行事としての百万遍には、先祖に呼びかける力が込められていて、直樹はその力によって、直七に会うことができたのである。

 

<先祖たちの力>

百万遍の念仏に応じて現れた直七は、直樹に雪靴を履かせてくれた。その途端、二人は五百羅漢に瞬間移動する。これはどう解釈すればいいのだろうか。

 五百羅漢での邂逅が可能だったように、霊は時空を超える力を持っていて、生きた人間の霊体をも連れ出しうるよう設定されているのである。

 なかでも霊的な力が傑出した存在として、山のばばさがいる。

 

・直七が、「生んで、そだてて、なにもかも土にもどして、またそこから、あたらしいいのちを生みだす」と語っていたとおり、山のばばさに遭遇したとき、ばばさは、公害病で苦しみ喘ぎながら登ってきた猫たちに、乳を飲ませて介抱していた。これは、松谷自身が民話の探訪によって得た胸乳豊かな山姥のイメージとも重なる。

 

<「祖霊信仰による魂の再生」>

・ここまで考察を進めてくると、「告発の児童文学」という世評とは別に、この作品のもう一つの重要な問題を見て取ることができる。松谷は、「祖霊信仰による魂の再生」というバトンを読者に手渡そうとしていたのではないだろうか。

 現代っ子の直樹は、七谷を訪れるまで「先祖」について真剣に考えたことはなかった。ところが、直樹が先祖の地を訪れたことで、祖霊信仰のスイッチが入ったのである。天真爛漫な彼は、土地のお婆さんの話を真に受けて、阿陀野の山でルウを捜そうとした。そこに出現した直七を兄のように慕い、彼を信じて阿陀野の山を遍歴した。そこで、彼は、先祖たちとの交流を通して、脈々と続く命のつながりを知った。先祖たちの郷土への思いや無念を知り、その苦しみに思いを馳せた。一方、コドモセンゾや山のばばさは、村のために鳥追いをしたり、直樹を助けたりして、子孫でもある村の人々に何らかの浄福をもたらそうとしてきたのである。

 

・こう考えると、直樹の他界訪問は、あたかも作品舞台のモデルとなった出羽三山を駆け巡る修験者の修行にも似ている。修験者が、なぜ他界に見立てた山を巡るのか、宮家準は次のように述べている。

 このように修験道の峰入修行は基本的にはこの世から一度山中の他界に赴いて修行をして、再度俗なる里の世界に帰るという形式をとっていると捉えることができるのである。そして全体として見た場合は、修験道の他界観におけるこの世と他界の関係の特色は、このようにこの世の人間が他界に赴いて他界の神格の力を得て、この世に帰るということにあるといえよう。

 

・父から託されたバトンが象徴するように、直樹にとっての「他界の神格の力」は、「現世を生きる勇気」である。阿陀野の公害について知らされなければ、直樹はこれまでどおり、平穏無事な生活を送っていたことだろう。知らなくてもよかった公害の実態と人間のおぞましさを知らされたことで、彼は生きることに疑問を感じてしまった。だが、現世に生き、命のバトンを受け継いでいくべき子孫として、それはどうしても乗り越えなければならない。成長のための試練だったのである。出発の朝から始まった一連の怪異を勘案すれば、この試練は、先祖たちが意図的に用意したものだったのだろう。

 母親が迎えにきて、直樹たちがいよいよ祖父の家を出ようとしたとき、シロが子猫を生んだ。母親は、東京湾が水銀で汚染されていたことを告げ、直樹は、阿陀野で見聞きしたことが夢ではなく真実だったことを知る。この一連の結末は、先祖たちもまた、自己の苦しみを語り、バトンを託したことで、魂の安息を得たことを物語っているといえるだろう。直樹の他界巡りは、生者、死者ともに救われる「魂再生の旅」として提示されたのである。

 

 

 

『河童平成絵巻』

佐々木篤   ピエ・ブックス  2005/10

 

 

 

<かっぱ 〔河童〕>

1.想像上の動物。水陸両性、形は4~5歳の子供のようで、顔は虎に似、くちばしはとがり、身にうろこや甲羅があり、毛髪は少なく、頭上に凹みがあって、少量の水を容れる。その水のある間は陸上でも力強く、他の動物を水中に引き入れて血を吸う。河郎。河伯(かはく)。河太郎。旅の人。

2.水泳の上手な人

3.頭髪のまんなかを剃り、周りを残したもの。→おかっぱ。

4.見世物などの木戸にいて、観客を呼び込むもの。合羽。

5.(川に舟を浮かべて客を呼ぶところから)江戸の柳原や本所などにいた娼婦。船饅頭(ふなまんじゅう)。

6.(河童の好物であるからという)キュウリの異称。

              『広辞苑』(岩波書店)より

 

・日本人にもっとも親しまれている妖怪といえば、「鬼」、「河童」、「天狗」の三大妖怪があげられる。その中の「河童」は水辺の妖怪の代表格である。ただ、「河童」は妖怪というよりは未確認生物の先駆けとして、現代でもその実体が信じられるむきがあり、昭和のはじめまでは目撃の報告も数多く存在した。

現代の河童像といえば、童子のような姿、おかっぱの頭髪、頭上の水をためる皿、黄色でまんまるの目、とがった口、犬のような鼻の容姿にはじまる。そして、体は濡れて生臭く、背中には亀のような甲羅を持っていて、手足の指間には水掻きがあり、小さな尻尾があるとされる。また河童は好んで相撲の勝負を挑み、水中に人馬を引き入れて肛門から肝を抜きとるなど、危害がしきりに恐れられたりもした。ただ、逆に人間に捕らえられて詫び証文を書かされた失敗談、秘伝の秘薬を授けたという伝え、田植えの仕事を手伝った、田の水を引いてくれたとかいう恩徳の伝承も数多く存在する。

 

<河童とは>

・民話とは、口伝えにより、親から子へと語り続ける子供向けのお話です。それは、あるときは娯楽のためのお話であったり、生きてゆくための知恵を、解りやすい話に託しての教育の一環だったりもしました。

そんな民話は、それを語る親や祖父母、あるときは村の長老たち、そんな大人の人生観と、その時代の価値観をも包含した話として語られてきたのです。

よって、時代と共に、また地域により、同一のテーマの話であったとしても、微妙に差異が生まれるのはむしろ当然のことなのです。

江戸時代はもちろん、明治時代に入っても、各地で盛んに民話が語られていました。それが、印刷技術の進歩と普及につれ、しだいに勢いを失っていったのです。子供は、本により学ぶ、そんな時代の流れが生まれたのです。そしてそれは今、テレビ画面やコンピューターモニターを通じての、映像で学ぶ時代へと変わってきているのです。

 

<河童のルーツ>

・数え切れないほどある日本の妖怪の中で、河童ほど全国的に広まっているキャラクターはあまり例を見受けません。河童がなぜ、これほど広まったかの検証は後に譲るとして、河童伝承のルーツを探ってみたいと思います。

神話の時代、日本書紀には、川の神として「みづち」という名称が見られます。みずちは人にとって、フレンドリーな神ではありません。どちらかというと、陰気な川の淵などに棲みつき、通りかかる人に害を与えたり、川の水を氾濫させ、鎮めるために生贄を要求するなど、悪魔的な妖怪に描かれています。水と川に対する恐れが生み出した神なのでしょう。

仏教の伝来と共に、中国からの書物が輸入され、中国の水の妖怪の伝承が日本に伝わりました。中国には、「水虎(すいこ)」と呼ばれる水の妖怪がいます。幼児くらいの背丈しかなく、背中に甲羅のある妖怪です。西遊記にでてくる紗悟浄は、この水虎をイメージしているのかもしれません。

時代が少し下り、11世紀になると、物語文化の普及と共に、水の妖精の話が見かけられるようになります。「今昔物語」には、寝ている人に悪戯する子供ほどの身長の魔物の話があります。捕らえられると、水を入れた盥を要求し、その水の中に飛び込み逃げる水の妖精の話です。

 

<河童のいろいろ>

・全国に残る河童の伝承には、いくつかの系列があります。

山や川に棲み、キュウリを好み悪戯が大好き。悪さをし、捕らえられると泣いて許しを請い、許されると、律儀に、人間との約束を守る河童。実に日本的な性格の河童です。民俗学の生みの親、柳田國男氏の「遠野物語」ほか、広く一般的な河童の世界です。

もう一つは、九州に多い中国から移住してきたと伝えられている河童です。

人間に近く、指導者をいただき、社会を構成している河童族ともいえる河童たち。

そして、その状態はわからないものの、不思議な水辺の変事を、河童のしわざに違いないとして伝承している例もあります。

 

<河童伝承の特異性>

・民話に残る題材は河童だけではありません。道具類が、年月を経て変化する妖怪や狐や狸、兎に鶴などの動物も好んで扱われる題材です。そして、一般的な民話では、その地域特有のストーリーになっていることがむしろ普通なのですが、河童だけは、全国各地に、同じテーマ、同じストーリーの民話が、微妙に趣を違えて存在します。この特異性は重要な意味を持っていると考えています。

かつて、富山の薬売りが全国を廻って商売をしていました。近年になっては、紙風船を配りながら家々を廻っていた。記憶している方も多いと思います。そんな薬売りは、顧客に薬を売りながら、各地で起こったおもしろい話などを話して聞かせていたようです。生まれ育った土地しかしらない普通の庶民にとって、薬売りがもたらす話は、貴重な情報源だったのでしょう。

一枚の木版摺の絵が残っています。各地の河童の姿が描かれた絵なのです。今風に言うと河童のカタログ集なのでしょう。その河童絵と共に、河童の伝承を語って聞かせていたであろうことは容易に想像できます。同じストーリーが、全国に広く伝わっているのは富山の薬売りが、河童伝承を広めたからなのであろうと、私は思っています。

 

 

 

『河童の日本史』

中村禎里  日本エディタースクール     1996/2

 

 

 

<河童の相撲>

・人にたいする河童の攻撃行為には、水中に引きこむ行動のほか、いくつかの特異な方式がみられる。なかでも目立つのは相撲の挑戦である。

 

・河童の行動の第一段階の終わりごろには、河童の相撲好きは、広く知られていたと思われる。

 従来、河童のこの行動は、水神を祀る神示の相撲に由来すると説かれてきた。もちろんそのような由来を否定することはできない。たとえば、愛媛県大三島町には、精霊と人の争いを演じる一人相撲が知られているが、河童と相撲を取っているという妄想にとらわれた男は、他人の目には、一人で相撲を取っているように見えるだろう。神事の一人相撲においても、古くは相撲者がトランス状態に陥っていたのかもしれない。奈良県桜井市では、二人の男が田のなかで相撲を取り、泥が多くついたほうを吉と判定する泥んこ相撲の神事がおこなわれている。

 

・格闘技一般ではなく、新田がいう相撲の意味の二番目の層、すなわち四つに組み合う型を持つ格闘は、河童が人を水際まで運ぶのに適した恰好な手段であった。

 

・日本以外においても、ヤコブが川を渡ろうとしたとき、水神らしいものが現われ、明け方までヤコブと相撲をとり、ヤコブの股の関節をはずした。『創世記』では、水神はヤコブを祝福してみずから去ることになっているが、より古い話型においては、水中に人を引いたのであろう。またドイツのヴァッサーマンとよばれる男の水精は、女性と手を組みあいダンスを踊ったまま川に入ってしまう。このような他の民族の伝承も、河童の相撲の意味を探る手がかりになる。

 

・土俵が作られた17世紀末に、人と人の相撲が現行ルールに近づいたことは、人と河童との格闘形式にも影響を及ぼしただろう。この変化は、格闘形式の穏和化でもあった。私見によれば、土俵の出現により規定された相撲の特徴は、追い技、つまり寄り切り・押し出し・突き出し・吊り出し・打棄りなど場外に相手を追い払う技の重視である。

 

・中世末になって、京都の相撲人集団に地方の相撲人があつまり、また彼らが地方に巡業に出かけるシステムが形成された。さらに近世の後半、安永・天明のころ(1770~80年代)、吉田家がほぼ全国にわたって相撲様式の決定権を手中に収め、その門下の行司が各地に配置されると、地方のセミプロ力士のあいだにおいても、土俵の採用など江戸相撲に倣った様式がひろまったであろう。

 こうして相撲が、格闘競技としてはきわめて淡白なルールを採用しはじめたことは、河童の行動の第二段階以後における人と河童との相撲にも反映せざるを得ない。いまや河童は、人を痛めつけ、あるいは水中に引く目的でのみ相撲を挑むとはかぎらない。河童が無目的でやたらに相撲を好むようすは、第5章で1800年前後、筑後川流域の河童の相撲について述べる時に、詳しく紹介する。この変化は、河童の凶怪性の衰退とうまく平仄をあわせて進行した。小妖である河童の戦いにふさわしい、穏やかな格闘としての18世紀以後の相撲が、河童の相撲の第4の源泉であった。

 

・第5に、農民の文化としての相撲が、農民層の共同幻想としての河童の源泉であると考えられるが、この点についても第5章において別に検討したい。

 河童憑きおよび人の女性にたいする河童の姦犯の問題を、相撲とおなじ項で論じるのは場ちがいだと疑われるかも知れない。しかし動物的な妖怪が人を襲うばあい、男性にたいしては外から攻撃し、女性にむかっては内部に入って苦しめるのは、かなり明瞭な傾向である。そして女性に雄性の妖怪が憑くときには、姦犯行為と幻想されやすい。河童をふくめて妖怪は、相手しだいで攻撃方法を自在に変更する。

 河童が「童男と成り人と通ず」という記載が『本草補苴』(神田玄泉、1719年)にすでにみられるが、女性を犯したことを明記する噂話の管見初出は、貝原常春の『朝野雑載』(1734年成立)である。

 

・たとえば豊後岡のある女性のもとに訪れる河童の姿は、他人には見えない。しかし女性の嘻笑するようすによって、河童の淫行が判明する。この例においては、河童が女性に憑いた事件が、姦犯とみなされた。類似の噂話は少なくない。

 

・水神でもあるヘビが女性に憑いたと解される事件は、古代以来の文献に数多く見られる。

 

・河童が、女性に憑きこれを犯すヘビの性行を遺伝したことは疑い得ない。しかし河童が女性を憑き犯す行為は、管見内では河童の行動が第1段階から第2段階に移行するころに始まる。したがって、河童の女性姦犯の習性が、その誕生期にヘビから直接に遺伝されたのか、あるいは河童の評判が世間に喧伝されるようになった段階つまり18世紀に、先祖がえりの現象によって、あらためてヘビの性行を復活させたのか、いずれとも断定できない。ただし管見の外の該当文献がなかったとはいえないし、いわんや口承でそのような噂が語られていなかったと断定することはとてもできない。ただし文献においては、この種の噂話はむしろ18世紀の後半になってから多く現われ、なかでも豊後に集中することは注目される。

 

・近世中期以後、貨幣経済の浸透、新入村者の出現などにより村落共同体の構造に変化がうまれ、社会的緊張が発生した。それが主因になって憑きもの頻発地帯がいくつか出現した。その一つが豊後であった。この地方でとくに犬神憑きが多い。犬神が直接河童につながるとは思われないが、蔓延する憑きもの俗信に触発されて、河童憑きの事件も惹起されたという可能性は捨てられない。かりにそうだとすると、河童憑きの形成期は、近世中期以後であり、ヘビ憑きの直接遺伝ではないという推定が得られる。けれども豊後以外に、山陰・四国・信州・上州などに、著名な憑きもの地帯が分布しており、これらの地域では近世に河童憑きの噂話がさかんであった証拠は、まったく存在しない。

 

・逆にその否定に有利な文献を示すことができる。因幡の人、陶山尚迪は『人狐辨惑談』(1818年刊)において、河童憑きを狐憑きと同レベルで扱いながら、「九州河太郎と呼者……九州の俗、此物の人を悩すことを言へば、彼地にはさだめて此者多かるべし。本藩には居ることなし」と論じた。因幡は、人狐およびトウビョウと称する憑きものが多発する地帯であった。したがって憑きものの俗信は、河童憑きの素地にはなり得るだろうが、これにさらに別の要因が加わらなければ、女性にたいする河童の憑き・姦犯の噂話は盛行しなかっただろう。

 九州は、河童噂話一般についても、そのもっとも盛んにおこなわれた地域であった。これが上記の「別の要因」であったかも知れない。

 

<河童の手切り>

・河童の行動の第3段階で、河童が手を切られ、手接ぎ妙薬の秘伝伝授を条件に、その手を返却してもらうという形式が出現する。これには二つの型があり、そのうち一つは、『博多細見実記』巻14の説話のように、河童が人の尻をなでる型であった。そしてこの型の伝承は、河童よりまえにたぬきを犯人として流布していた。あと一つは、河童がウマを水中に引こうとして、かえって引き上げられ、厩でウマにつかまっているところを発見され、手を切られる型である。『西播怪談実記』巻3の説話はその例であった。

 

・寛永ごろ(1620~40年代)に成立したと思われる『小笠原系図』に、つぎの伝説が記されている。

 小笠原清宗が廁に行くと怪物がおり、清宗をさえぎろうとする。そこで清宗は、剣で怪物の手を切りおとした。しばらくして窓のそとに声があり、切られた手の返却を乞う。誰何すると「たぬきです」と答える。「切りおとされた手をどうするのか」とたずねると、たぬきいわく。「われに妙薬あり。もってこれを接ぐ。すなわちこれを得させよ。恩のためその妙薬をあい伝えん」。たぬきは翌日手を接いできて、妙薬の効能を明らかにした。小笠原家伝来の膏薬の由来は、これである。

 

 

 

『河童の文化誌』 平成編

和田寛  岩田書院  2012/2

 

 

 

<平成8年(1996年)>

<河童の同類とされている座敷童子(ざしきわらし)>

・ザシキワラシ(座敷童子)については柳田國男の『遠野物語』によって知られていたところである。

 

<アメリカのニューメキシコ州の異星人の死体>

・回収された異星人の姿は人間によく似ているが、明らかに地球人ではない。身長1.4メートル、体重18キロ前後、人間の子供のようだが、頭部が非常に大きい。手足は細長く、全体的に華奢。指は4本で親指がなく、水掻きを持っている。目は大きく、少しつり上がっている。耳はあるが、耳たぶがなく、口と鼻は小さくて、ほとんど目立たない。皮膚の色がグレイ(灰色)であるところから、UFO研究家は、この異星人を「グレイ」と呼ぶ。

 

・異星人グレイと河童を並べてみると、素人目にも、そこには多くの共通点を見出すことができるだろう。

 

 まず、その身長、どちらも1メートル前後、人間のような格好をしているが、頭部だけがアンバランスなほど大きい。

 大きな目に、耳たぶのない耳、そして、小さな鼻穴と、オリジナルの河童の顔は、そのままグレイの顔である。

 最も注目したいのは、その手である。

先述したようにグレイは河童と同じ鋭い爪、水掻きがある。おまけに指の数が、どちらも4本なのだ!。

 また、グレイの皮膚の色は、一般にグレイだが、ときには緑色をしているという報告もある。

 河童の色は、やはり緑が主体。ただ両生類ゆえに皮膚はアマガエルのように保護色に変化することは十分考えられる。

 

・これらが、意味することは、ひとつ。アメリカ軍は、組織的にUFO事件を演出している。

 捕獲した河童を異星人として演出しているのだ。