日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

冗談でなく、彼はほんとうにカッパを見たと主張している。彼が金作谷付近で釣りをしていたとき、3㌢ほど水をかぶった岩の上で、コウラを干していたが、彼が近寄ると上流に向かって水中を泳いでいった(1)

 

『黒部の山賊』   アルプスの怪

伊藤正一   山と渓谷社 2014/2/22

  

カベッケが原の不思議な呼び声

・林平はいつもカベッケが原へ行って数日間岩魚を釣っては帰ってきた。そこは薬師沢と黒部とが落ち合うところで、伝説によると、カッパが化ける原、すなわち「河化が原」がその名の由来だという。

 <ほんとうにいるカッパや狸の怪>

・林平がカベッケが原から帰ってきて、三俣小屋の戸口をまたぎながら言う言葉は、いつもきまっていた。彼はニコニコしながら、

「いやあ伊藤さん、ゆうべはにぎやかでにぎやかで! バケモノが出て!」

登山者たちはそれを聞いて、

「えッ、バケモノってなんですか?」と言うと、林平は得意になってしゃべりだすのだった。

「毎年夏になるとカッパが盆踊りをする」

 ・冗談でなく、彼はほんとうにカッパを見たと主張している。彼が金作谷付近で釣りをしていたとき、3㌢ほど水をかぶった岩の上で、コウラを干していたが、彼が近寄ると上流に向かって水中を泳いでいった。頭上の皿は、いわゆる画に書かれているものよりも身体に比較して大きく、すり鉢をふせたようなかっこうだったと言う。

「そのほか、カベッケには3百年以上も生きた狸がいる」

「そんなことがわかるもんか」

「いあや、ほんとうだ。おれは見た。ピヒャラドンドン、ピヒャラドンドンという音を出す白ダヌキがいた。ちゃんと、こういうかっこうをして、川原の岩の上にいるのを見たのだ」と、彼はちょうど神社などにあるコマイヌの風をして見せた。

 このあたりで、そんな音が聞こえたのは3百年以上も昔の、佐々成政のころだ。薬師岳でお祭りをやったときの音を、あの狸はまねているのだ」

 それから彼はいちだんと神妙な顔をして、

おめえたち、山で“オーイ”という声がしたら返事をしちゃあいけねえぞ、登山者なら“ヤッホー”と言うが“オーイ”と言うのはバケモノだ」

「ほう。“オーイ”と言えばどうなるね」

「“オーイ”と言った者は、“オーイ オーイ”と呼び交しながら行方不明になってしまう。返事をするなら、“ヤッホー”と言え。そうすればバケモノのほうが黙ってしまう」

「そんなバカな……」

 話がここまでくると、そばにいた倉繁と鬼窪が、急にけわしい顔つきになって、わりこんできた。

「そりゃほんとうのことじゃ、六兵衛のやつはおれたちと釣りに行って、“オーイ”と言ったきりいなくなってしもうたんじゃ」

おれのうちの近所の新作は、自分の家の縁側で“オーイ”と言ったきり20日間も行方が知れなかった。だれも見た者もないし、本人もどこにいたか、ぜんぜんおぼえがなかった

 このことは山賊たちが異口同音に言っていることだった。

 <バケモノに呼ばれた人たち>

・昭和24年の夏、星医科大学の山岳部員8名が小屋へきたときのこと、

「やいおめえら、カベッケが原へ行ってみろ、眠れねえぞ。夜便所へ行くと“ペロッ”と冷たい手でなぜられるぞ」

 <雨中にひびく念仏の声>

・三俣小屋を出てから雨は降りつづいていたが、彼らは戦前からアルプスをほとんど歩きつくしているベテランだった。カベッケが原に着いてテントを張って、寝袋にもぐりこんだ。

「おや、あの音は?」とO君は横に寝ているS君を、そっとつついた。

「うん、念仏の声だ」「それに木魚の音も」聞き耳を立てるまでもなく、“ナムアミダブツ ナムアミダブツ”と言う声は、木魚の音も交じえて2人の耳にうるさいまでにひびいてきた。

 すると今度は“オギャア オギャア”という赤ん坊の声もする。“赤ん坊に坊主とは奇妙な組み合わせだ”と思っていると、テントのまわりを登山靴で歩く足音がして、「どこにテントを張ろうか」「そこがいい」「だめだ、低いから水がつくぞ」と言う声が聞こえてきた。

 気味の悪い5日間を過ごした彼らは、雨の小降りになったのを見て、やっとの思いで黒部を渡って逃げてきた。

 <私も効いたバケモノの声>

・雲ノ平のキャンプ場でも、登山靴の足音を聞いた者は何人かあるし、私自身も“オーイ オーイ”という声はしばしば聞いたことがある。たいていは夕暮れどきに2声か3声つづけて、とんでもない方向から明瞭に聞こえてくる。

 <人を呼ぶ白骨>

・昭和33年のことだった、私は雲ノ平の、カベッケが原に近い、だれも行かない藪の中を歩いていた。するととつぜん、足の骨が1本ころがっているではないか。おや? と思ってあたりを見回すと、30㍍ほど横に、ほかの部分がそっくりあった。それは仰向いた状態で、白骨の下の地面は、人間の形に草が生えていなかった。

 <いろいろに化けて出る妖怪>

・一昨年といえば、不思議なことの多かった年である。やはり同じころ、黒部源流へ岩魚釣りに入っていた2人の登山者が、大きな火の玉と大入道が現れたと言って、青くなって小屋へ逃げこんできた。またシーズン初めには、太郎小屋の老人が“ちょっと岩魚を釣りに行ってくる“と言って出たきり、行方が知れない。いずれカベッケが原の方向へ行ったことはまちがいないと思われるが、小屋から一歩出てからのことはまったくわからないのである。当然、人々は「カベッケのカッパに呼ばれて行ってしまったのだ」と言っている。

 

<神がくし?>

・昨年(昭和38年)の夏、三俣にいる私のところへ富山県の警察から電話(無線)がかかってきた。

「登山者が雲ノ平で白骨を発見したと言ってとどけ出てきたが、それは以前から伊藤さんが知っている白骨だろう、ということになったから、よろしく処置しておいてほしい」と言うのだった。

“ははあ、また出てきたな、行ってみなくては”と思っていた矢先、雲ノ平で登山者が1人行方不明になったという連絡が入った。それはつぎのような状況だった。

 <小屋のそばで消える>

・カベッケが原でキャンプをした金沢大学医学部の学生I君、S君、B君の3名は、夕方雲ノ平山荘に着いた。彼らは疲れていたので、小屋へ着く手前、約10分のところにリュックを1つ置いてきた。そこでいちばん元気のよかったI君が1人でそれをとりに行った。それっきりいなくなってしまったのである。天気はよかったし、暮れるにはまだ充分に時間があった。小屋から10分といえば、万一のときでも呼べば充分に聞こえるところである。ほかにも登山者は大勢いた。

 I君がいなくなったといってさわぎだしたのは暗くなってからだった。小屋の者がライトを持って行ってみると、リュックはそのままのところに置いてあった。そしてそこは白骨のある藪の入口だったのである。

 

<ひょっこり帰ってくる>

・4日目の朝。今日も捜索隊が出発しようとしている小屋の玄関へ、当のI君が、ふらっと帰ってきた。S君とB君は、「おおッ!君。どこにいたんだ」とI君に跳びついて、ワッと泣きだした。

「小屋にいたんだ」と、気のぬけたようにI君は答えた。

 ・“これは休ませなくてはいけない”と私は思って、なにも聞かずにI君を眠らせた。半日ぐっすり眠った彼は、まったく正気な人間だった。そして彼の話はこうだった。

 小屋から出て、リュックを置いたところの近くまで行くと、霧がかかってきて方角がわからなくなってしまった。それからあとは、ただ小屋へ帰ろうと思って藪の中を歩きつづけたことだけしか記憶にないという。

 さらに彼のことばをよく聞いて判断すると、霧は白骨のほうからかかってきたらしい。しかし不思議なことに、そのころ雲ノ平で霧を見た者は1人もいないのである。そして藪の中を歩いて最後に出たのは、カベッケが原だった。そこでキャンプをしていた人たちの中へ入れてもらって最後の夜は過ごし、早朝雲ノ平へ登ってきたのである。そして彼は、

「いまになって考えてみると不思議です。昼も夜も、いつも4人で、話し合ったり僕の持っていたカンパンを食べたりしながら歩いていたので、少しも寂しくありませんでした」と言う。

 

<白骨が呼んだのか……>

・いったり彼のほかの3人はなんだったのだろうか。ある者は「それは行方不明になった太郎小屋の老人と、そのころまだ発見されていなかった薬師岳遭難の2遺体だ」と言い、またある者は「いや、その中の2人は雲ノ平と水晶岳の白骨だ」とも言う。

 私は山賊たちが語っていた「オーイと言ったきり消えてしまった者の話」とか、昔の年寄りがよく話した「神がくし」とかいうものが、まんざら架空のこととは思えなくなってきた。しかもそのことが、I君のような、教育もあり、正常な常識もある、大学生の身の上に起きたのである。

 

<百万円の捜索費>

・余談になるが、この場合は関係者がすべて奉仕的に動いたから捜索費はゼロである。しかしこれだけの人数の案内人たちを下界から雇ってきたとしたらどうなるだろうか。参考までに計算してみよう。

 40人が3日間で延べ120人。それだけの人が里から現地まで往復4日かかったとすると160人で、計280人。日当、食料等で1人2500円とすると、70万円ということになる。そのほか大学の救援隊、飛行機、諸雑費を入れると、ざっと百万円ということになる。

 

<洞穴の怪>

<得体の知れない恐怖感>

<不思議な老人の出現>

・外が薄明るくなってきたころ、彼はやっとの思いで穴からぬけ出して、流れのほとりに立った。すると、どこからともなく一人の老人が現われて、彼に話しかけた。「お前は昨夜どこに泊まった」

「あの洞穴で……」

「それはたいへんだ、一刻も早くここを立ち去らないと命がないぞ」と言って老人はつぎのような話をした。

「この近くで工事があったとき、6人の人夫に、わしが炊事番としてあの岩穴に泊まったのじゃ。わしはいちばん奥に寝ていたが、年寄りじゃので、なかなか眠れなかった。うとうとし始めるころになると毎晩、入口に吊るしたコモのかげから、若い娘がそっと中をのぞくのじゃった。それはなかば現実のような、なかば夢のような、光景じゃったが、たぶん人夫の中にその娘の恋人でもいるのじゃろうと思っていた。

 するとある夜、その娘が、すーっと音もなく入ってきて、入口のほうから順に布団をめくって、人夫たちの顔をのぞいて出て行ったのじゃ、わしはそのとき身体がしびれたような気持ちで、声を出すこともできず、いつのまにか眠ってしまったのじゃ。翌朝目をさまして人夫たちに声をかけたがだれも起きないので、ゆり起こそうとしてみると、彼らはみな、舌をぬかれて死んでいたのじゃ。それはほんとうに身の毛のよだつ思いじゃった。

 その後、死んだ6人の人夫たちのために六地蔵がまつられ、今日はその命日じゃのでわしはここへやってきたのじゃ。彼らが雄の大狸を獲って、狸汁にして食べてしまったので、雌の狸が仇討にきたのじゃ」

 

<狸かカワウソか>

・これは林平の経験した最も気味の悪いことだったという。

「だがあれは狸ではない。そんな残忍なことをするのはカワウソにちがいない」と彼は口調を変えて話をつづけた。

「俺があんまり岩魚を釣りすぎると、カワウソが女に化けて夜、小屋へ入ってくる。カワウソの場合は入口の戸が開かずに、すーっと入ってくるからわかる。俺がだまって岩魚をさし出してやると、それを持ってすーっと出て行く。岩魚をやらなければ舌をぬかれるのだ。カワウソの餌をとってしまうのだから、それが仁義というものだ」と彼は解説した。

 

<熊と登山者>

・よく「熊に出合ったらどうすればいいか」とたずねられる。私自身熊には数えきれないほど出合っているが、いつの場合でも熊のほうが逃げてくれたので、どうということもなかった。だから熊は怖くはないものと思っている。

 

<もし熊と出合ったら>

・しかし、もし熊がおそってきたらどうしようもない。走ることは速い、木登りは猿よりうまい、水泳もうまい、力はものすごく強い。身体は頑丈だし、頭蓋骨は厚くできている。ピッケルでなぐったくらいでは致命傷などあたえられそうにない。かえって熊を怒らせてしまうからよしたほうがいい。死んだまねなどは無駄事である。せいぜい対抗策としては、熊に跳びかかられる瞬間に身体をかわすことぐらいだろう。1、2回体をかわすうちには、熊のほうがやめてしまう。しかしそれも実際問題としては、なかなかできることではない。もしにらみ合いになったときには、恐れずににらみ合っていることだ。一般に動物は、背中を見せると、跳びかかってくる習性をもっているらしい。

 よく世間では、熊は出合い頭になるといけないとか、仔連れの熊はいけないなどといっているが、私は仔連れの熊に出合い頭になったことがある。その場合でも熊のほうが逃げるのが普通である。

 

<遭難者のお礼参り――いちばん不思議だった話――>

・話は昭和39(1964)年9月24日、三俣山荘でのことである。

 

・山荘からすぐに救援に行って、S君をつれてきた。2階に寝かせて介抱したが、衰弱していて固形物は食べられないので、主としてグラタンなどを食べさせていた。介抱のかいあって、S君はしだいに体力を回復し、27日ごろからは自分で歩いてトイレにも行かれるようになった。

“この分なら、まもなく自力で下山できるようになるだろう“と一同は安堵の色を見せていた。

 

・29日の朝になってS君は、いたって元気そうに「おかゆを食べたい」と言ったので、小林が厨房へおかゆを作りに行き、その間鬼窪が付きそっていた。すると突然、S君の息づかいが荒くなってきた、と見るまに、たちまち呼吸は停止してしまった。ほんとうにあっと言う間の出来事だった。

 そこころはまだ、北アルプスではヘリコプターによる救援体制はできていなかったので、鬼窪ら、小屋の者3人が遺体を新穂高温泉まで背負い下ろした。結局、死因は心臓マヒだったらしい。

 これは不幸な出来事ではあったが、山ではめずらしくない事故だった。そして時間の経過とともに、そのときの印象はわれわれの脳裏から薄れていった。

 

・1年が過ぎ、黒部源流にはまた紅葉の季節がおとずれた。この辺の紅葉は、いつ見ても美しい。

 

・三俣山荘には鬼窪と小林だけがいた。彼らは前年の出来事などまったく忘れて、2階に寝ていた。つまりS君が寝ていた付近である。

 2人が眠りにつこうとしていたころ、外でガヤガヤという人の話声とともに、足音が近づいて来た。

「おい、だれか来たようだぞ」「今ごろキャンプの連中だろうか」と話し合っていると、足音は玄関の所まで来た。ガラリ、と戸を開ける音がして、「こんばんは、こんばんは」と大きな声がする。

 鬼窪が下りて行って見たがだれもいない。不思議に思って、玄関の戸を開けて外を見た。やはりだれもいない。玄関の周囲の処女雪の上をよく見たが、どこにも足跡はない。

「おい、そういえば去年、1人死んだじゃねえか」と鬼窪。

「そうだ、今日は9月23日だ」と小林。2人はそこそこ布団をかぶって寝てしまった。ところが翌朝である。

「ありがとうございました」と玄関で大声がして、ガラリと戸が開き、だれかが出て行った音がする。今度は小林が下りて行って見たが、だれもいない。外を見たが雪の上に足跡はなく、やはりだれもいなかった。

 

・これは実に不思議な出来事だったが、その時点でわれわれはただ一度だけだと思っていた。ところが昭和41年9月23日にも「こんばんは」の声はやってきたのである。これは実におどろきだった。そして次の年からは、われわれのほうからその声の来訪を期待するようになった。

 毎年9月23日になると、その声は期待どおりにやってきた。そして最後に来たのは昭和44年だった。そのときは、ひときわ明瞭に「ありがとうございました」と何回もくり返して去って行った。気のせいか、そのときの語調は満足気であり、“これで気がすんだ“と言いた気だったように思えた。そして次の年からは、9月23日になっても、三俣山荘でそれらしい物音は聞かれなくなった。

 

・ところがこの話はさらに後まで続くのである。昭和52年だったと思う。8月上旬の忙しいときだった。私が三俣山荘の受付にいると、1人の登山者が話しかけてきた。

「こういうことをおぼえておられますか。十何年か前のことですが、雪の降るなかを黒部五郎の方から来た1人の登山者が、この小屋で亡くなったことを………」彼はS君の友人だという。

「ええ、ええ、おぼえているどころか、実は………」と私はその後の出来事を話し、特に最後には、「ありがとうございました」と明瞭な声で言って去って行ったことを彼に告げた。実はそのとき、私は彼がさぞ驚くであろうことを内心期待していたのである。ところがその友人は平然とした表情で、「ええ、そうでしょう。あいつはそういう義理堅いやつなんですよ」と言った。

 これには私のほうが驚いてしまった。そして彼からもっとくわしく話を聞きたいと思ったが、あいにく受付のラッシュどきだったので、“あとで”と思い、彼の宿泊カードにチェックを入れておいた。しかしその日は話し合う機会がなく、彼は翌朝早くに出発してしまった。さらに残念なことに、私は後にその日の宿泊カードを調べたが、どうしたわけか、チェックしておいたものが見つからなかったのである。

 

・本書は昭和22年6月、新聞紙上をにぎわした“黒部の山賊事件”を中心にまとめあげたものだが、同時に、黒部源流に半生を過ごした私の生活記録の一端でもある。

 

・この本をお読みになって、とくに“山のバケモノたち”のところで、なにか誇張があるのではないかといぶかる読者がおられるかもしれない。もちろん、私は自然科学を学んだ者の1人として、決して“バケモノ”の存在を信ずる者ではないが、黒部源流において不思議な呼び声や、狸の擬音などが聞こえることは事実である。その正体については今後も研究を続けていきたいと思う。

 

 越中 怪談紀行』

高岡新報  編    桂書房   2015/9/3

  

<黒部の隠里   黒部市

下新川郡愛本の入口に黒部村という所がある。この村の老若打集まって碁会を始め、番々を立てて宿を為し慰んでいた。ある時60ばかりの老人がこの碁会へ来て、私も碁が好きであると言って傍で見物していた。

 

・村の人々もこの老人の強いのに感心し、代り代り打ってその日も昏て仕舞ったが、その後は毎日のように老人が碁会に遣って来る。

 

・そこで翌る日老人を携えて、貴方の宿所を聞かせたまえ、そして一度貴方の家で会を為したまえと勧めた。すると老人はそれはいと易いことである。明後日迎えに来る故、皆々揃って来なさいと言って帰った。さて明後日となって、朝早くから老人が迎えに来たので、一緒に村の人8人連れて行くこととなった。8人の者共は愛本の川上の方から向岸に渡って滝の落ちる所まで行った。そこで老人は立止まり、我は隠里(おんり)に住む者である。この滝簾を潜って行けば、人の知らない道があると言って、その滝の中へ飛び込んだ。8人の者も何心なくこの滝簾を潜ると、老人の言葉の通り道があった。ここを十四五丁も行くと、向うに門が建っている。門の中に棟が並べて家がある。

 

・さて8人の者共はこの行届いた立派な座敷に座り、景色のよい庭園を打眺めていると、そこでこの家の主人なる彼の老人が出て来て、この所へよくこそ来て下されし、ゆるりと逗留して遊びたまわれ言いながら様々なご馳走をして饗応してくれる。するともう、その中にも碁の好きな連中のことなれば、早や盤を持出して代る代る打ち始めている。

 

・かくて二三日も逗留したので、8人の者共も家の事が気掛かりとなり、いざ家へ帰ろうと言い出した。老人はさらば帰宅される前に、何がな馳走にと思い容易に求め難い魚を手に入れたゆえそれをご馳走する。

 

・主人はこの魚を料理して座敷へ持ち出し、この魚を食すれば長生きする効き目がある、皆々ゆるりと召上れと言った。8人の者は有り難しと礼は述べたものの見たことも食したこともない魚ゆえ、無気味に思いさような珍しい魚は一人で食するは惜しければ土産にすると言い、それを紙に包んで、やがて厚く礼を述べてその家を立出でた。

・主人はさらば滝の所まで見送り申さんと言いながら、滝の所で暇乞いして立別れた。8人の者共は紙に包んだ魚は皆途中で捨てて仕舞った。その中の一人だけは家へ持ち帰った所、家の子供で何とも知らず食ったのがある。この子は後に8百歳まで長生したと言い伝えるが、8人の者共家へ帰って見れば、家の者共死人が甦ったとて喜んだのも道理、ほんの二三日

の逗留と思った間は3年の月日が経過していた。またその魚は人魚であったと言う。

 

<大滝谷の大滝>

・この滝には、時折どこからともなく碁をうちに来る翁が、ある日、お礼に村人たちを大滝をくぐった向こう側にある自宅に案内し、帰ってきたら3年の歳月がたっていた、という伝説が残っている。

 

<異人のくれた書 魚津市

・島佐平というものが夜中に邑を行く。風雨があって月が暗い。油衣(かっぱ)を着けたもの4人に街で遭った。この4人のもの佐平にかって曰く、われらは紙を需めているわれらの為に買ってくれよと。その言葉つきが甚だ鷹揚である。そこで紙40枚を買って与えた。するとその価も出さずまた謝することもせずして去って仕舞った。佐平も別にこれを咎めずに別れた。あくる朝早く庭に出ずると、異人があって立っている。その容姿は気高く、眉は美秀、威風が有る。佐平が首を下げるのを見て異人の言うには、われに従って来れと。

 

・佐平は異人に従って、常に知っている途を歩むこと百歩ばかり。又今まで見たことのない山野を行くこと五六里にして広い野原に到った。そこには席を設けて20余人のもの列居して酒宴を催している。その人を見るに皆自分を伴った異人と同じことであるが、ただ老人があったり少年があったりするだけの違いだ。

 

・一小児があって三四歳に見えるが、この異人等の間にあって能く仕えている。一老人はこの小児に命じて、汝を役人へ送る書を書せと言った。小児は紙や筆を出して書く。

 

・佐平はその中の二つだけ食した。その余りは持参し、いよいよ別れを告げんとすると、その異人はまた餞(はなむけ)として言うには、汝父母に仕えて能くその力をつくせよ鬼神を祭るに能く誠敬なれ、能く汝の産業を修めよと。かくてまた送られて途五六里にして佐平の知っている旧道へ出た。送って来た異人がさらばと言って別れたと思えば、忽ちその姿が消え去った。

 

・佐平は一人となって日暮れ方に家へ帰って来た。そこでその与えられた書を見れば、前夜自分が買った紙である。書は拙くないが読んでもその文章の意味が分らない。この島佐平というのは魚津の人である。時は明和元年(1764年)のことであった。

 

天狗様と京見物    富山市

・富山から半里ばかり南の方に太郎丸というのがある。今は富山の町もだんだん南へ延びて行ったからこの村まで町つづきのようになって仕舞った。この村の百姓の子で、富山へ養子に遣られていたものがあった。ある時その養父の某が、この子に向かって、家に藁が少し入用であるから太郎丸へ行って貰って来いと言った。その子の名は与太郎である。

 そこで与太郎は親の所へ行ってその話をすると親共は、それは何より易いことであるといって言うだけ与えた。当時11歳の与太郎は藁4束を担いで帰って行った。

 

・話変わってこちらの養父は与太郎の帰りを今か今かと待っていたが、その日は帰らなかった。あくる日になって、太郎丸へ問合わせると、昨日七つ頃に藁を担いで帰ったに相違ないとの話。それは大変、何所へ行ったものであろう神隠しに逢ったのでなかろうかと、宮や林の中を、鉦太古を打ち敲きながら与太郎与太郎と呼び廻って歩いた。すると与太郎は、太郎丸を出て3日目の暮れ方に、富山の東に当る一里離れた、新庄の宮の前に佇んで居るのを見つけ、漸く連れ帰って翌る日、気の鎮まったところで、如何した理由で新庄へ行ったかと訊ねた所、与太郎の言うには、自分は藁を担いで太郎丸から田地方まで来て、橋の上で藁を下し休んでいると宮の林の上に緋の衣を着た出家が綾を織って居た。面白そうであるからこれを眺めて居ると、その出家は何と面白いであろう、我と来ればまだまだ面白いものを見せてやろうと言いながら、自分を抱えてとある山へ行き、ここを知っているかと問うたから知らぬと答えたら、ここは加賀の白山であると言った。

 

・それから寺の座敷に入ると沢山の人が酒盛りをしていた。そこで酒を飲み菓子を食いまた抱えられて、京へ至った。そこで芝居を見に行き、桟敷に至ると大勢の見物人が居り、さて菓子、にしめ、酒など取り散らせるのを飲み食いして見物し、町を見物するといって連れていかれた。

 

・またこの出家に抱えられて高い山の頂上に至った。ここは立山である。本社を拝めとのことで、神前に至ってこれを拝し、今度は大きな伽藍の堂の上に至った。ここは信州の善光寺であった。阿弥陀を拝し終って、それから最後に林の上へ来たのが、新庄の宮であった。そこでこの出家がお前の家はこれから近いと言って背中を一つ叩かれたら空から下へ落ちた。その後は何にも知らないと答えた。

 

<売薬屋が泊まり合した天狗の宿>

・天狗は居るとか居ないとかについて昔から色んなことを云う人もあるようだが、事実は到底否定は出来ない事でしょう。只今お話申すのは、つい先達てあったことを聴いたのです。当市諏訪河原三橋清助と云う売薬さんが有ります。その方が但馬方面に売薬行商に行かれる、その旅先であった話です。

 今春売薬に旅立ちせられた時は、丁度奥さんが身重になって居られたので、しかも臨月に近い所でしたので、行商先でも清助さんが常に、うちのことを案じ、奥さんのことも案じつつ旅先を廻って歩かれました。

 

・ところが、但馬の国である家に泊まり込まれました。ご承知の通り売薬さんは旅先では一部落を廻られる間は、ある村の庄屋とか何とか云う、その村で有数な家に10日とか15日間とかまで滞在して「富山の売薬さん」で大層優待も受ける。それに毎年毎年そのようにして参りますから、それら家族とも親しくなって何事も話すようになっている。

 

・ところで、ただ、ある家とばかり承って所と家の名を聞きませんでしたが、ある家に泊まっていた間に、その家の主人に奥さんの身持ちのことから、うちの方の心配になることを話しますと、宿の主人は「それ程ご心配ならば私が見て来てあげましょう。今日は少し忙しいから明日は必ず見て来てあげる」と言われるから非常に驚いて、何百里ある所を時間と費用を使ってそれ程までして下さらんでも大丈夫、ただ案じられると話しただけです、と打ち消しますと、宿の主人平気に澄まして「なに訳がありません」と言っています。さて、その明日は例のごとく売薬に付近の村を廻って夕方帰って参りますと、主人は直ぐ行ってきました。貴方のうちはこんな家で、座敷はこれこれで何の間に奥さんが居た、子供は一昨夜生まれて母子共に健全、男の子だからお喜びなさいと云われて、更に驚いた。

 ・子の生まれたことは分からないが富山へ一度も来ない人が自分の家の様子をスッカリ云うから一体どうしたのですと尋ねると主人は平気で私の家は代々天狗の宿をしているので、それ位の便宜は取り計って貰えますと云う。明治聖代にも変なことを聴くものだと思えながら天狗さんの様子を聞きますと天狗と云っても別に鼻は高くはない、ただの人間と同じで老人である事は事実、それにその友達も時々お遊びに御出でるが皆白髪の老人のみです。唯、潔癖でその室が少しでも不潔だと小言を並べられるので非常に気がういとのこと。清助さん好奇心に駆られて一度会わせて貰いたいと頼むと、天狗は主人だけの眼に入るが、その外誰の目にも入らぬとのこと、それならばどうして私の家を見て来たかと聴くと、それは天狗に背負われて眼をつぶすと2、3分間にして数百里の所へ達するとのことである。そして2日経つと果たしてうちから手紙がきて男子分娩母子共に健全とのことに驚かされた。それから売薬を終わって国に帰り、こんな人が来て行ったかと聴くと何も知らぬと云った、しかも、うちの当時の様子と宿の主人の云った事と少しも変わらなかったそうです。

  

『最近UFO学』  

東京大学UFO研究会)(勁文社)1991/7

  

エリア51 S-4地区の秘密>

エリア51(ネバタ州ラスベガスの北東部地域)内にあるS-4と呼ばれる地区はUFO研究が行われていると噂されている場所である。この地域は砂漠の真ん中にあり、四方を山に囲まれているため周りから内部の様子を見ることがまったくできない。

 ・この秘密施設の中でUFOの推進エネルギーの研究を行っていたという証言者が現れ、一躍UFO研究家の注目を浴びた。この証言を行ったのは、ロバート・ラザー氏という物理学者で、彼はエリア51内にある研究施設で現物のUFOの推進エネルギーの研究をしたというのである。ラザー氏は、EG&Gという会社に勤める契約をしたところ、会社ではなく、エリア51の中にある研究施設に連れて行かれ、驚いたことに宇宙人に関する資料を見せられた。その資料には、宇宙人の解剖写真まで載っていたという。さらに閉ざされた格納庫に連れていかれ、その中にあるUFOを魅せられた。そこには3機のUFOがあり、そのうちの一機の推進エネルギーを研究するように命ぜられたという。

そこには閉ざされたままの格納庫もあり、数から考えれば、全部で9機のUFOがあったはずだと証言しているが、実際に見たのは3機である。またUFOは実際に宇宙人から提供されたものだということだった。

 

 『宇宙と人間の謎』  人類に危機が迫っている

 (深野一幸)(成星出版)    1998/2

  

<異次元からの宇宙人がいる>

Q.: 異次元からの宇宙人が来ているというのは本当か?

 A.: 容易に信じられないが、真実のようである。宇宙は多次元構造でできており、我々の住む物質世界は三次元世界である。地球に進化した宇宙人がやって来ているが、彼らは、三次元世界からのみやってきているのではない。四次元世界にも、肉体を持った人間の宇宙人が存在し、地球にやって来ているようである。

<4次元も物質世界>

・オスカー・マゴッチが行った星は4次元の「アルゴナ」という惑星である。ただし、地球の次元と4次元は同じ空間にあるが、波動が異なるため、お互いに見えない。マゴッチのいう4次元や5次元は幽界や霊界ではない。れっきとした物質世界である。3次元から4次元への移動は、UFOに乗りUFOの波動数を上げることにより行う。波動数を上げると3次元世界が徐々に消え、4次元の物質世界から3次元の物質世界への移動は、UFOの波動数を下げることにより行う。すると、4次元世界が徐々に消え、3次元世界が現れる。

  4次元の肉体を持った人間の特徴

・4次元の肉体を持った人間の宇宙人は、次のような特徴を持つ。

 ◇振動数が高く地球人の目には見えない。振動数を下げると見える。

◇極めて高度な科学技術を発達させている。

反重力で飛行する宇宙船(UFO)を開発している。

◇精神性の高い人間である。

人間の輪廻転生や宇宙のしくみを知り、創造主を敬う精神性の高い生き方をしている。

◇超能力人間である。

肉体の振動数を変える能力、テレパシー能力、マインドコントロール能力、予知能力、オーラを見る能力、ヒーリング(病気を癒す)、テレポーテーション(瞬間移動)、物体浮揚、物質化、透視などの超能力を持つ。

◇寿命が非常に長い。

地球時間で、200~800歳である。

◇お金(貨幣経済)のない社会を実現している。

欲しいものは無料で手に入る。

  5次元以上にも生命体は存在するか?

・5次元以上にも生命体は存在する。以下はマゴッチの伝える情報である。

 ◆5次元の生命体

  • 4次元の宇宙人(人間)が進化して、肉体に宿ることを卒業した霊的生命体、自分の意志で肉体を持った人間になることもできる。
  • 宇宙の階級では、第5階級で、密度でいえば第5密度の生命体。
  • コズミック・トラベラー(宇宙の旅人)とも呼ばれ、6次元のガーディアン評議会の命令で、遅れた星の宇宙進化の促進などを行う。

 ◆6次元の生命体

  • 5次元の生命体が進化した霊的生命体。ガーディアン(守護神)とも呼ばれる。昔、肉体を持った人間であったが、霊的に進化して霊的な存在となった生命体で、人間世界を指導している
  • 50人のガーディアンでガーディアン評議会を構成されている。
  • 宇宙の階級からいえば、第6階級で、密度でいえば、第6密度である。

 ◆7次元の生命体

  • 6次元の生命体が進化した高級な霊的生命体。
  • アセンディド・マスター(高級教師)とも呼ばれ、7人存在する。
  • 宇宙の階級からいえば、7等級という。密度で言えば、第7密度である。

 ◆創造主(偉大な潜在界)

  • 究極の次元には、金白色のとてつもなく大きな光で、全てを包含する存在がある。
  • これは、宇宙を創造し、宇宙全体を統御しており、神、宇宙意識などとも呼ばれる。

 

<進化した高等知性体>

<地球人、進化した人間の宇宙人、高級な霊的生命体、これらはどんな関係にあるか?>

・地球人が何度も輪廻転生して霊的に向上し、地球を卒業すると、4次元の星の人間に転生する。これがアーガスやドン・ミゲルなどの進化した人間の宇宙人である。 4次元の進化した人間が、さらに進化すると肉体に宿る束縛から開放され、5次元の霊的生命体になる。5次元の生命体は、自分の意志で肉体をもった人間にもなることもできる。このような存在がクェンチンである。

5次元の霊的生命体が、さらに霊的に進化すると6次元の霊的生命体になり、6次元の霊的生命体が、さらに進化すると7次元の霊的生命体になるわけである。

簡単にいえば、地球人の進化した存在が、宇宙人であり、宇宙人の進化した存在が高級な霊的生命体になるという。

なお、霊的に上位の生命体は下位の生命体をサポートする義務がある。