UFOアガルタのシャンバラ 日本は津波による大きな被害をうけるだろう

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。

冗談でなく、彼はほんとうにカッパを見たと主張している。彼が金作谷付近で釣りをしていたとき、3㌢ほど水をかぶった岩の上で、コウラを干していたが、彼が近寄ると上流に向かって水中を泳いでいった(3)

 

『岡山に出現したUFO』  

(秋田めぐみ) (岡山若者新書)  1987年

  

<岡山の安井さんのチュェレイ星への異星旅行>

・ 円盤は都市という程度の規模なんですか?

 

・ さっきあった都市がなくなっているのです。あそこに見えていた都市がないのはどうしてなのかと訊ねたら、笑いながら「あれは全部円盤でできていて、今はもう他の場所に飛び去ってしまったので」というんです。

 

・ じゃあ、都市は全部ドーム型になっているんですか?

 

・ これらの円盤は、飛行するためというよりは、生活する場としての円盤なのですから、四角型の円盤も多くあり、それらが積み重なった場合、大きなビルのように見えるわけなんです。最初見た円盤の街を作ることは、簡単なわけですよね。ただ、どういう理由で、あるいはどんな単位で一つの街を作っているのか、さらにそれらの街は、たえず場所を移動しているのか、何のために移動するのかなどまでは聞き出せなかったんですけれど、いずれにせよ、パァーと集まれば海の真ん中にでも瞬間的に大都会ができるんですから便利だと思いますね。

 

・ 地上からたえず、1メートルぐらい浮いているわけですから、地上に固定した建造物は全然なく、たえず動いている。チュェレイ星全体が単一国家で、欲しい物は、規定の場所に行けば手に入るし、争いも皆無らしいんです。

 

・ もちろん、建物は全部円盤でできているわけです。そんな建物がひとつだけ、ぽつんと浮いているところもありました。

 

・ チュェレイ星人の平均寿命は3万歳から4万歳くらい。

 

<異星人とテレパシーなどでコンタクトする方法が分からない>

・“コンタクトする方法は?”円盤に対しての関心を毎日の生活の中でたえず持ち続け、そして宇宙人に早く会ってくれと頼む(念ずる)しか方法がないんじゃないでしょうか。

  

『UFO革命』 

横尾忠則)(晶文社)   1979年3月

  

・また「時間と空間は相対的なもの」というのは今の地球の科学でも定説になっていますが、天文学上でも各星によって1年(1行程)の長さが違います。チユェレイ星人の平均寿命は地球時間で3万~4万年くらいらしく、チユェレイさんは地球人の30歳前後しか見えませんでしたが、実際は1万歳くらいとのことでした。そして、地球人がピラミッドを作っている頃から地球に来たことがあって。「あれ(ピラミッド)は地球人が作ったものだ」と言ったそうです。

 

・「異星人には同じ人間型でも5メートルくらいのもいる。人に言うと怖がるからしゃべらないことにしている。それに人間とはまったく違う形態の知的生物もいる。チユェレイさんたちでもつきあってもらえないほど次元が高く、チユェレイさんたちが研究しても分らないのがいる」と言っていたとのことです。

 

・こんなにも沢山の人が、こんなにも様々なUFOとの出会いをしている・・・。この事実はなんびとも否定できません。この事実、それも当地岡山においての事実を秋田さんは足で調査し、一冊の本にまとめてくれました。貴重なものだと思います。

 

・ここ岡山の街にも事実か、単なる流言飛語か、沢山のUFO目撃の噂があります。そこで岡山のUFO研究といえばこの方を抜いては語れないといわれている畑野房子(就実高校理科講師)のご協力のもとに、この噂の真相を調べてみました。(月刊※タウン情報おかやま別冊)(1987年)

・人間が本能的に持っている未知への探究心が大事。

  

『世界不思議大全  増補版』

泉保也     Gakken   2012/8

 

ジョージ・アダムスキー  史上最大のUFOコンタクティ>

<驚異の宇宙旅行と素晴らしい宇宙船>

アダムスキーは、その後数回にわたって異星人とコンタクトすることになるが、そのたびに彼は驚くべき体験をしている。

 1953年2月18日、例によって彼は予感めいた衝動に駆られ、ロサンゼルスのとあるホテルに投宿した。

 夜になって、ロビーにいたアダムスキーにふたりの男が接近してきた。ふたりは普通の服を着ており、話す言葉にも何らおかしなところはなかった。

 しかし、彼らが握手を求めてきたとき、アダムスキーは異星人だとわかった。彼らは特殊な握手をするからである。

 ふたりはアダムスキーを車に乗せ、砂漠地帯に向かい2時間ほど走行。ドライブ中、ひとりは火星からやってきたといい、もうひとりは土星からやってきたと話した。

 車が砂漠に着くと、そこにはUFOが待機していた。近くには例の金星人がいて、アダムスキーをにこやかに出迎えた。不思議なことにこのとき彼は、英語を流暢に話せるようになっていたのである。

 アダムスキーは、彼らに仮の名前をつけ、金星人をオーソン、火星人をファーコン、土星人をラミューと呼ぶことにした。

 

・UFOは信じられないくらいの高速で飛行し、地上1万2000メートルの高度に達した。そこにはなんと、全長600メートルはあろうかという巨大な葉巻型母船が滞空していたのである。

 

アダムスキー宇宙旅行に招待したのは、偉大な指導者(マスター)と呼ばれる人物だった。

 

土星型UFOは、上空に待機している母船に向かった。今度の母船には、20歳前後にしか、見えない人々が大勢いたが、彼らの年齢は、実際には30~200歳以上にも達するという。

 

<コンタクティ  異星人からのメッセージを伝える人々>

・コンタクティの証言を「コンタクト・ストーリー」という。

  <ハワード・メンジャー>

・アメリカ人。初コンタクトは1932年の夏で、金髪の金星人女性と会見。高校卒業後、陸軍に入隊してからハワイで黒髪・黒眼の異星人と出会い、太平洋戦争時の沖縄戦に従軍した折、沖縄で軍服を着た金星人と会見、「今後もコンタクトが続く」と告げられた。

・退役後の1956年にニュージャージー州プレザント・グローブでUFOを目撃して搭乗員の男女と会う。以後、金星や火星、木星土星から来たという異星人と何度も会見し、UFOに同乗して金星や月の裏側にある基地を訪れた。妻も金星人の転生者だという。

  安井清隆>

・日本人。岡山市で語学塾を開いていた1960年4月23日の夜、満月の2、3倍はありそうな土星形のUFOを目撃。1週間後の30日午前4時すぎ、テレパシー通信を受けて戸外へ出たところ、3機のUFO編隊を組んで旋回しているのを目撃した。うち2機は姿を消したが、残る1機も導かれるようにあとを追った。

 ・UFOは総合運動場に着陸し、中から銀色のスーツに身を包んだ、2メートル40センチほどの長身でマスク姿の人間が現れ、両手を差しだしながら安井に近づいてきた。握手後、マスクをはずした男の顔は彫りの深いヨーロッパ系だったが、日本語で話しかけてきた。しばらく、会話を交わしただけで、最初のコンタクトは終わった。

 ・同じ年の10月30日、「富山県黒部市宇奈月温泉近くの河原で待つ」というテレパシーを受信。11月1日の夕刻、黒部川で先に会見した男性と金髪の女性と遭遇した。男性はチュェレイと名乗り、それが母星の名でもあると語り、直径5~6メートルの小型円盤への搭乗を許された。円盤は15分ほどで白馬岳の頂上付近に到着。直径30~40メートルの円盤に乗り換えた。内部は操縦室、食堂、倉庫、会議室からなっていた。

 ・その後コンタクトは中断し、再開されるのは1970年2月。岡山市郊外でチュェレイと再会し、円盤で白馬岳の基地を訪問。全長60キロはあろうかという葉巻型の巨大母船の映像を見せられた後に、その母船へ案内された。母船は恒星間飛行に用いられるもので、内部には森や湖、山などがあり、建物が立ち並び、小型円盤が飛び交っていた。1971年2月末には、その巨大母船に乗ってチュェレイ星を訪問した。が、その後テレパシー通信はぱったり跡絶えてしまったという。

  <ステファン・デナルデ>

・オランダ人実業家。1967年7月、オランダ南西部ウースタ―シェルトの沖合をヨットで航行中、海面に浮かんでいた異星人の宇宙船(水上艇)に乗り上げて異星人と遭遇し、乗船を許された。

 ・身長150センチほどの異星人はヒューマノイド型ではなく、顔の真ん中に窪みがあり、手は鉤状で、全身が薄褐色の毛で覆われ、獣じみて見えた。

 会話はテレパシーでなされた。彼らの母星は、地球から10光年彼方にある惑星イアルガで、自転速度は地球よりも遅く、重力は地球の約3倍。窒素やアンモニアからなる大気は濃密で、大気圏の雲が視界をさえぎっており、太陽光は見えない。

 ・そのイアルガ星へ、小型の円盤から高空に滞空する大型円盤に乗り継いで案内された。イアルガ星は海が大部分を占め、陸地は島だけで、それらは鉄橋で結ばれていた。石油タンクのような形状をした集合住宅が立ち並び、ひとつの建物の直径は約300メートル、高さは約135メートルで、約1万人が居住できる。

 ほかに自動機械化された農園、恒星間飛行用の大型円盤の建造工場なども見学してから、再び円盤に乗って地球へ帰還した。

  <R・N・フェルナンデス>

・メキシコ大学教授。原子力委員会のメンバーも務める科学者。1972年11月14日、大学構内で異星人女性とすれ違った。身長190センチの長身で、瞳は緑色、黒髪の美女である。それより先、教授は女性の声で何かを訴えようとするテレパシー通信を受けており、異星人であると直感したのだった。

 ・その後、2度遭遇したものの、会話を交わすことなく迎えた1974年12月22日、彼女が「テレパシーでは通じないようなので、直接話にきました」と教授を尋ねてきた。彼女はアンドロメダ銀河からやってきたリアと名乗り、知的生命体の調査のために地球を訪れていると説明、近いうちに宇宙船へ招待すると約束した。

 ・それが実現したのは翌1975年4月22日だった。宇宙船は直径5メートルほどのドーム状円盤で、乗船するや、超高速で大気圏外に飛び出した。リアは宇宙空間に浮かぶ青い地球を見ながら、地球環境の脅威、遺伝子工学反物質などについて語った。

 ・リアはその後、近い将来凶悪な異星人が地球に来襲する、という警告を残してアンドロメダ銀河へ帰っていった。

  <宇宙飛行士が認めたコンタクトの事実>

・ならば、彼らの主張はすべて虚言や妄想の産物かというと、必ずしもそうではない。宇宙探査によってコンタクティたちの話が真実と判明したケースもあるからだ。

 ・かつてのアポロ計画にも注目したい。宇宙飛行士と管制センターとの漏洩交信記録から、「道」「ドーム群」「構築物」「トンネル」「テラス」などが月面に存在するらしいことが指摘されたからだ。それらはおそらくUFOの基地だろう。

 ・アポロ14号で月面に降り立ったエドガー・ミッチェルが2008年7月、「アメリカ政府は過去60年近くにわたって異星人の存在を隠蔽してきた」と爆弾発言したことも、コンタクティに有利に働く。地球へ飛来している異星人が人類との接触を試みないとは考えられないからであり、すべてのコンタクト・ストーリーを荒唐無稽と斬って捨てるわけにはいかないのである。

 

『女神イシスの降臨』

古代エジプト神話の謎に迫る

大川隆法   幸福の科学出版   2011/8/9

 

<女神イシスの正体は、琴座、ベガ星出身の神秘の女神であり、古代エジプトの実在の歴史上の初代の王とも呼ばれているホルス王の母でもある>

・また、「オシリスの復活信仰はイエスの復活信仰の原型であり、古代エジプトに流れる、この神秘思想がキリスト教に流れてきた」という考えもありますし、「転生輪廻の思想も、このあたりから始まっていて、それが仏教に入っている可能性もある」という考えもあります。

 ・ハトホルとこのイシスとを、ほとんど同一視するような見方もあります。

  <夫であるオシリスの腹違いの妹だったイシス>

オシリスとイシスの子ホルスはエジプトの覇権を確立した>

天照大神(あまてらすおおみかみ)とイシスの深い縁>

天照大神は日本担当、イシスはエジプト担当として下りた。

 天照大神とイシスは「ベガの女王」。

 ・プレアデスは“顕教”ベガは“密教”を担当している。

 ケンタウルス座α星人の中には、映画「猿の惑星」に出てくる、猿が人間になったような外見の者もいる。

 <●●インターネット情報から●●>

 知ってビックリ!黒部川の大蛇伝説と愛本姫社

<お光伝説 >

古くから黒部川は暴れ川として有名で、黒部川が氾濫するのは川の底に住む大蛇が怒って大暴れしたからだと考えられとりました。黒部市宇奈月町の下立地区ではこの大蛇にまつわる伝説が今も語り継がれとるがですよ。

昔、黒部川中流に架かる愛本橋のわきに一軒の茶店がありました。宿場町として栄える愛本村では唯一の茶店で、村人や旅人でいつも賑わっとったがです。その茶店には年頃のかわいい一人娘、お光(みつ)がおって、彼女がお目当てでお店に入り浸る男性客も多かったがですって。ある日の晩、お光は黒部川で一人の青年と出会いました。二人は毎晩会って色んな話をする仲になり、お光は次第にその青年に惹かれていったがです。しかしその青年こそ、黒部川に住む大蛇の化身やったがです!! お光はショックを受けたけど、水の守神である大蛇に自分の身を捧げることで、村人を水害から守れるのならば...と大蛇へ嫁ぐ覚悟を決め、両親には内緒で姿を消してしまったがです。その後、一度里帰りしたがですけど、蛇の子どもを生んだところを見られてしまい、二度と戻らなかったそうながです...。黒部でこの伝説は、恐ろしい大蛇に身を捧げた若い娘の悲しい話として伝えられとるがです。

 

 

 

『クマ問題を考える』

野生動物生息域拡大期のリテラシー

田口洋美     山と渓谷社   2017/4/21

 

 

 

<捕獲と威嚇のメッセージ性>

・現在、私たちが行っているツキノワグマ対策は、出没や被害の現場での「対処駆除」、いわゆる対症療法が主体である。被害に遭えば捕殺し、市街地に出てくれば捕殺する。当然のようであるが、実は肝心なことが抜け落ちている。それはクマの出没を減らすための努力である。その努力は、クマたちにこの一帯から先には行ってはいけない、人間の生活空間に出て行けば極めてリスキーである、ということがわかるように仕向ける努力のことである。

 

・現在のツキノワグマの推定棲息数(全国に1万6000頭前後が棲息している)がいるとすれば、年間200頭から300頭のオーダーで捕獲をつづけたとしても対処駆除は永遠につづけていかなければならない。それは被害に遭いつづけることを意味している。被害に遭いつづけることが駆除の持続性を保障するという、現在のジレンマから一向に抜け出すことができないのである。このようなジレンマの持続性を喜べる人はほとんどいないだろう。被害に遭うのは農林業に従事する人々に限られたことではない。ランダムである。散歩やジョギング中に、あるいは登下校中にクマと遭遇することもあり得る話である。実際にそのような事故が起こっている。

 

・問題は、ツキノワグマに限らず、野生動物たちに人間の側のメッセージをどのように伝えるか、なのである。そのための苦肉の策の一つとして行われているのが、新人ハンター(猟師やマタギ)の養成ということになる。東北地方に限って言えば、この5年あまりのなかで地域の窮状を見かねてハンターを志してくれる人々は微増とはいえ増えてきている。しかし、増える以上に熟練猟師たちの引退も増えているのである。このような新人養成は、マンパワーの維持にほかならないが、同時に捕獲と威嚇という手法、しかも野生動物たちに伝わるメッセージ性のある手法をどのように実践するか、が問われることになる。

 

・例えば、現在、東北地方にはマタギと呼ばれる近世以来の歴史と伝統を有する猟師たちは3000人程度存在すると見込んでいるが。このなかで経験に裏打ちされた高度な現場判断ができる猟師は500人程度に減少しているだろう。いかに東北地方といえども日常の時間を自由にでき、毎日のように山を歩いていられる人はほとんどいない。多くの人は職を持ち、猟で山に入ることが許されるのは土日だけという場合が大半を占めてきている。このような状況で、被害や出没が起きた時に直ちに現場に走れる猟師はわずかしかいない。

 なかには、春のツキノワグマの生息調査や子察駆除の期間に有給休暇を溜めておいて出猟するという熱心な猟師もいるが、極めて少数である。むしろ、いくらそのような有給休暇の取り方を求めても許してくれる企業はまだまだ少ないというのが現実であろう。

 

・地域の山岳や沢、地名や地形に詳しく、単独で山々を歩け、クマに関する情報を収集し、クマたちの動きの先が読める猟師は育ちにくい時代である。現在、猟友会を支えている熟練した猟師たちは、ほとんど1940年代から1950年代前半に生まれた人たちである。この人たちはかろうじて親の世代の猟師たちが生計をかけて狩猟に携わっていた当時、親や近隣の先輩たちから動物の追い方など、伝統的な技術や地域の山々に関する知識を継承できたぎりぎりの世代である。この人たちが元気な内に、若い新人ハンター付いて学んでいけば10ぐらいの経験で相当の知識と技術をものにすることも可能であろう。しかし、現場を差配し安全を保ちつつ大型野生動物と向き合うにはさらに10年という歳月がかかる。この時間の短縮は難しい。バイパスはないのである。

 

<遭遇しないために>

・クマ鈴を腰に下げている人をよく見かけるが、遭遇した時にはよい効果をもたらさない。

 

・山で生きていた人たちは、大なり小なり、クマをめぐる体験を持っている人が多い。この体験の蓄積は、危険を回避するための貴重な知識となる。地域の人たちが歴史的に蓄積し、鍛え上げてきた民俗知(民族知)の世界に多くの人が触れてくれれば、事故などそうそう起こるものではない。自動車事故よりも遥かに確率が低い。もし、そんなにクマが危険な動物であれば、すでに人類は滅んでいただろう。

 

東日本大震災

・この数年来、気が晴れない日々がつづいている。それは、東日本大震災をきっかけに生じた福島第一原発の事故による野生動物の放射能汚染問題のためである。現在も数多くの方々が避難生活をされているなか、避難区域はイノシシなどの野生動物に荒らされ、これを軽減させるために日々奔走している人たちがいる。

 

クマ問題の核心は、クマをいかに排除するかではない。出没をいかになくすかである。出没がなくなれば、問題は半減する。そのための努力がまだまだ足りていないと思う。

 

<狩猟と農耕>

・つまり、農耕によって発展してきた日本社会であるからこそ、狩猟を必要としてきたのである。農耕に依拠する社会には狩猟という営みが必要不可欠な存在であり、狩猟は農作物被害を軽減する抑止力として機能してきたのである。このような狩猟と農耕の相補的な関係は、ヨーロッパ社会にもアメリカにも、アジアやアフリカにも確認することができる。狩猟と農耕はまるで別物であるという理解は明らかに間違った考え方なのである。

 

・この5年あまり、アメリカを調査しはじめているが、2016(平成28)年にアイオワ州アイオワ・シティー郊外の農家を訪ねる機会があった。

 訊ねた農家のビル氏が所有する広大な畑の周辺には、隣の耕地との境に幅100メートルほどの森が残されている。その森のいたる所にハイシートやハイハットと呼ばれるシカ猟用の施設が設けられていた。ハイシートというのは日本では据木と呼ばれていたもので、中世の鎌倉時代に描かれた『粉河寺縁起絵巻』などに登場する。樹上から下を通るシカを待ちぶせして弓で射るための台のことである。アメリカではコンパウンド・ボウと呼ばれる弓やボウ・ガンを用いてシカを射る猟が盛んに行われている。そのための施設が森のいたる所につくられている。

 

・シカに作物を食べられながら養い、シカを狩猟している。訊ねた時、自宅から600メートルほど先の畑のなかで採食するホワイト・テール・ディアの群がいた。彼はまったく興味を示さず、私たちを家のなかに案内し、シカのトロフィーを見せながら猟の話に夢中であった。彼もまた半農半猟の暮らしをしていた。

 

・ドイツのヘッセン州を訪れた時も同じであった。ドイツには80万人も狩猟者がいる。猟場となるのは農村地帯に設定された猟区であった。農家の人たちが互いに耕地を提供し合って猟区をつくっていた。その猟区を猟師が訪れ、アカシカやイノシシを獲物に猟を展開しているのである。耕地を猟区に提供している農民たちは、耕地内に生息する野生動物を獲って貰うために土地を提供していたのである。

 アフリカのケニアでは、農耕する部族社会の周辺に狩猟採集民の部族がいるという話を聞いた。ラオスでも中国の雲南省でも、黒竜江省でも、ロシアでも聞いた。狩猟と農耕は、これらの国や地域でやはり分かちがたい関係にあった。何という不思議だろうか?

 

 

 

『熊撃ち』

久保俊治  小学館   2012/2/3

 

 

 

<山の魔物との遭遇>

<帰国と再会>

・アイダホ、モンタナ、ワイオミング、ユタ、それにカリフォルニア北部にわたる、3ヵ月間の猟期も終わった。

 各地でいろいろなプロガイドに会うことができた。だが、足跡を的確に読み、距離、時間差を正確に判断してくれる技術を、私の期待通りに示してくれるガイドには会えなかった。いっしょに行動できるガイドの数が、限られていたせいもあるだろう。そしてガイド業が、動物相手というよりも、客相手のビジネスとして成り立っていたせいかもしれない。

 私が北海道でやっていたように、一人対動物という関係は、一部罠猟師や、イヌイットの人たちを除けば、もうアメリカにも存在しないのだろう。本物の猟のプロフェッショナルは、映画の中だけにしか残ってないのかもしれない。

 アメリカでは、北海道の私のようなやり方、自分で獲った獲物を金にして生活するやり方の人間を、マウンテンマンと呼び、ハンターとは呼ばないようだった。

 

・故国へ帰る飛行機の窓から見えてきた少し雪をかぶった山々は、まさに日本の山々だった。ロッキー山脈ほどの広さはないが、それがかえって懐かしくさえ思えた。

 

<なくなった林>

・4月も近づき、春の気配に山が黒ずんでくる。待ちに待った熊の季節がやってきた。フチとともに、一年ぶりに標津へ向かう。

 アメリカの山の、乾いたマツくさい香りとはまったく異なる。湿っぽい腐土のような懐かしい匂いを、胸いっぱいに吸い込む。北海道にいることが、アメリカから帰ってきたことが実感される。設営を終えたテントの中で、広げた寝袋の上に寝転び、翌日からの熊猟に思いを遊ばせる。

 

・やはりフチとの山がいい。

 翌朝、硬雪を踏んで、熊が早い時期から穴を出る山へと向かう。

 

・解体、運搬し、街に出て売れるものは売ってしまった。このときは熊一頭とシカ二頭で、当時のお金で50万円ぐらいにはなった。山に戻ったころには雪解けも進み、テントのまわりの雪もだいぶ少なくなった。

 体についた熊の匂いは、2週間ほど経っても消えず、焚火の煙の匂いとともに、自分の体臭のようになる。

 

<異様な吠え声>

・4月も末になり、春めいてきた山の中を歩く。8月中には再びアメリカへ行くという思いが、あまり気乗りしないものになってくる。厄介なビザの取得のことを思うと気が重い。フチを連れていけるならともかく、もう置いたままにしてはいけない気持ちが強くなっている。このまま北海道で、自分の猟を完成させることのほうが大事ではないか、と思えてくる。

 アメリカでは、できることはほとんどやり尽くしたような気もする。プロのハンティングガイドとしても、あちらのプロガイドと比べて遜色はなかったとの自負も持てた。まだ行ってみたいと思う州もあるが、ガイドとして、客相手では気が弾まない。

 

・冷や飯に、熊の脂で炒めた味噌をつけながら夕飯を食う。フチもその味が気に入ったとみえ、旨そうに食う。

 寝袋に体を入れ、オレンジ色の榾火を見ながら眠りについた。

「ウーッ」、フチの異様な唸り声に目覚める。傍らにいるフチが、ぼんやりと白っぽく見えるだけの、星明りもない闇の一点を見つめ、体に緊張感を表わし低く唸っている。焚火も消えている。

 ゆっくりと寝袋から這い出し、立てかけてあるライフルを掴み、懐から懐中電灯を出し、いつでも点灯できる用意をし、闇に目を凝らす。

 フチは低く唸り続けている。ゆっくりと立ち上がり、フチに行けの合図を心の中で送る。暗闇にスルスルと消えていったフチが、突然に吠え出す。吠え声が異様だ。今まで聞いたことがない怯えた吠え声なのだ。懐中電灯を点ける。ほんの一部だけ照らされた闇の中を、ライフルを構え吠え声を目指して一歩一歩と近づく。少し行くと、闇に向かい吠えているフチが、小さな明かりの輪の中にボーと浮かんでくる。尻尾を垂らし、背の毛を逆立て、怯えた声で激しく吠えたてている。熊に対してさえこんなに怯えた姿を見たことがないし、こんな怯えた吠え声を出したことがない。そのフチが闇に怯えている。懐中電灯で照らしてみても、何も見えない。熊ではないのだ。熊だとしたら、寝ている傍らで、ただ唸ったりだけしていたはずがない。足元まで唸りながら戻り、また闇に数歩踏み出しては激しく吠えることを繰り返す。

 

・突然に体の中を恐怖が走った。今までに感じたことのない、得体の知れない恐怖が背筋を昇り、全身の毛が逆立つ。

 ああ、これが山の魔物と言われるものなのか。猟の伝承で言われてきた、「魔物に逢う」という現象なのだ。闇を見つめ、フチの怯えた吠え声を聞きながら思った。犬には魔物が見えると言われている。今フチは、その魔物を見ているのだ。そして私自身、その魔物と言われるものの前に、暗闇で対峙しているのだ。

 得体の知れない恐怖感が重く体を包み込み、押し潰そうとする。まわりの暗闇よりもっと濃い暗いモノがまとわりついてくる。額に冷たく汗が滲み出てくる。今まで、人魂と言われ火の玉も、山の中で数度見たことがあるが、そのときにも感ずることのなかった恐怖感に体が包み込まれている。なんとも言い表せない。はねのけることができないような恐ろしさが感じられる。闇に目を凝らし、耳を澄ましてその恐怖を払いのけようとしながら、ただ佇んでいた。

 

・落ち着いてみると、地場の変化などによる電磁波を感じたのかもしれないと思う。犬は電磁波に敏感だといわれている。フチにとっては、得体の知れない電磁波の、その感覚に怯え、吠えたのかもしれない。そして私自身も、フチの傍らへ行き、それを感じ取ると同時に、フチ怯えを目の当たりにすることにより、電磁波の感覚が、恐怖という形で現れたのかもしれない。

 

・山の中でたった一人で生活していると、奇怪なことをたびたび経験する。そして猟の伝承の中で言われていることの一つ一つが自分なりになるほどそういう訳なのかと納得できることがよくある。

 例えば、サンズナワと言われるものがある。

 山で泊まるとき、なんとなく嫌な感じがする場所というところがある。そんなとき、獲物を引っ張るロープなどで、「一尋、二尋、三尋半」と唱えながら3回ロープを扱き、そのロープを寝るところのまわりに張り巡らせて、結界を作れば、魔物が入ってこず安心して寝られると言われているものだ。

 

・私も一人で山を泊まり歩いていたとき、熊の通りそうなところではよくやってみた。

 何回か扱いたロープを張り巡らすことで、他の動物を寄せ付けない効果は確かにある。解体した獲物の肉を残しておくときに、手拭いや軍手などを肉の側に置いておくことによって、2日間ほどは、キツネなど他の動物が近づかず、肉も食い荒らされることがない。サンズナワを張り巡らすのも、これと同じような理由だと思われる。またキャンプを出るときテントの入り口に唾をつけたり、タバコの吸殻を立てておいたりすると、キツネ、イタチ、テンなどの動物にテントの中を荒らされることがないのも、サンズナワと同じようなことだと思われる。

 

・山の中では1回だけの呼び声には決して返事を返してはいけない。返事をすると魔物に連れていかれてしまうとも言われている。幻聴を呼び声と間違い、よく確かめもせずに返事をしてしまうという心の弱さ、注意力の乱れが方向を間違い、山に迷ってしまう原因になるのだろう。山での猟、特に単独猟では、何事も確認し直してから行動せねばならないとの戒めと思っている。

 自分なりに理由をつけ納得したつもりになってみると、たわいもないことのようにも思えるが、弓矢の時代の昔から言われつづけている猟人の伝承には、山に対する大いなる畏敬と、深い尊敬の想いが込められ、そこから得られる獲物に対する愛情が感じられる。

 

・牧場での生活も順風満帆な時ばかりではなかった。牛の販売価格の下落によって、計画した収入が得られなかったり、白筋症という病気で半数以上の仔牛を失ったこともあった。特に全国的に騒がれたBSEの事件は経営に大打撃を与え、長くその影響を受けた。