日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

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日本の政治を見ていて思うのは、封建制とまでは言わないが、硬直化して流動性に乏しいことだ。東日本大震災のような大きな危機を迎えても、変化が起きにくい。(1)

 

 

『世界が認めた「普通でない国」日本』

マーティン・ファクラー  祥伝社  2016/12/10

 

 

 

 

<戦後日本の強みに気づいていない、日本人>

日本は「普通の国に」になるべきだ、という議論がある。普通の国とは、他国のように軍隊を持ち、国際舞台で責任ある行動をする国のことだ。

 しかし、太平洋戦争終結から71年、「普通でない国」だということが、逆に日本の強みになっている。

 

・経済や文化においても、日本は世界の大国と同じではなく、独自の進化を遂げており、数々のアイデアを持った企業家やすばらしい文化を生み出してきた。

 

<与えられた民主主義>

・日本には、民主主義が深く根づいていないように見える。市民が犠牲を出して自らの手で勝ち取ったものではないため、民主主義の基本的な考え方や価値観が、国民にまだ十分広がってはいないのではないかと考えざるをえない。

 

・戦前に「天皇陛下万歳」と万歳三唱していたひとたちが、戦後になると突然「民主主義を守れ」と叫んでも、和服を洋服に着替えたようでしっくりこない。

 あの戦争はなぜ起きたのか、責任はどこにあったのか、どうすれば防げたのかといった議論を、市民が自由に、活発に行った後なら「民主主義を守れ」という言葉を受入れることができる。

 私は政治学者の丸山眞男が戦時中に執筆した論文を読んだことがあるが、丸山の主体性論はとても面白かった。日本でなぜ市民の主体性が生まれなかったについて、江戸時代の思想家である林羅山山鹿素行らの著書を綿密に検討したものだ。江戸時代の思想を取り上げたから丸山は逮捕されなかったが、なぜ主体性が生まれなかったかというテーマ自体は、江戸時代ではなく戦時中の日本の問題であった。

 

・戦後しばらくの間、アメリカの豊かさは圧倒的で、日本人はとにかくアメリカに少しでも追いつこうと馬車馬のように働いた。それはある意味で大きな革命であったが、あくまで外からの革命であった。

 日本は戦後も政府が主導して経済の発展に力を入れ、それが成功したために、市民は戦前と同じように「お上に任せておけばいい」という姿勢から脱せずに終わったという側面も強かったのではないだろうか。

 

<競争する政治が必要>

日本の政治を見ていて思うのは、封建制とまでは言わないが、硬直化して流動性に乏しいことだ。東日本大震災のような大きな危機を迎えても、変化が起きにくい

 最大の問題はおそらく、優秀な人材が政治の世界に入ってこないことではないか。インドのカースト制度のように、政治家がひとつのカーストを形成し、親から子や孫に世襲したり一族郎党が後を継いだりしている。非常に残念であり、大きな問題だと私は思う。優秀な世襲議員もいるが不十分で、新しい人材が必要である。

 

・日本で、ビジネスの世界で成功した人も政界に転出すべきだ。財界やNGO(国際協力の民間団体)の世界には優秀な人材が輩出しているのに、なぜ彼らが政治家にならないのか。そこが、日本の政治制度が機能していない一番大きな原因だと思う。

 日本は政党政治の形態を取っているが、政党を見ていても芯のある政党がない。政権を担っている自民党野党第一党民進党を見るかぎり、どちらも政権の幅が広くて似通っており、ふたつのビジョンが対決するという構図にはなっていない。

 

・アメリカの場合、民主党共和党という二大政党が政権の座を競い合い、大きな政府か小さな政府か、社会福祉自由経済かという基本的に違うビジョンがある。ところが、日本の政党にはこういう日本を作りたいというビジョンがなく、そのために政党どうしがそれぞれのビジョンを戦わせて競い合う政治も生まれない。

 そういうエキサイティングな状況がないから、多くの人たちが政治に関心を持たず、優秀な人材が政治の世界に入ってこないという悪循環に陥っているのではないか。

 日本にも右翼と左翼があるが、その場合の左右という区分はアメリカのように国家に対するビジョンの違いではない。日本の場合、あの戦争をどう評価するかが軸になっていて、日本が悪かったと考えるのが左で、日本は悪くなかったというのが右であるように見える。

 

日本は、国家として自立する時期を迎えている。そのためには、政党が国家のビジョンを掲げてぶつかり合い、競争する政治が不可欠だと私は思う。

 もちろん、アメリカと対等な同盟国になるという道もある。そのために憲法を改正して軍事力を整えるという選択もある。しかし、国家として自立しないとダメだと思う。自立とは、自分たちで自分たちが進む方向を決めるということである。

 今の日本には、そのメカニズムがない。そこが大問題である。

 とくに最近の日本の政治は、奇妙な事態に陥っている。ひとつの政党のなかのひとつのグループが、いろいろな決定を行なっているのだ。自民党と野党との議論も低調で、自民党内の他のグループや派閥との議論も低調になっている。その結果、ぶつかり合いのない、のっぺりした政治的な状況に陥っている。

 建物がひとつしか建っておらず、まわりはすべて砂漠。そんな奇妙なランドスケープになっていると思う。

 

<日本の政治家の質が落ちた>

・戦後の日本には、しっかりとした政治家がいたと思う。

 当時はそれほど感じなかったが、今振り返ってみると、首相を務めた中曽根康弘宮澤喜一らは「あの人たちは偉かったなあ」とつくづく感じる人物であった。橋本龍太郎も沖縄の苦しみをきちんとわかっていたリーダーのひとりだった。

 ある意味で、自民党の黄金時代だったと思う。

 ところが、気がついたら、政治家の質が落ちてしまった。今の日本の不幸は、あのレベルの政治家が出てこないことだ。

 

・政治はどうしても汚い部分が拭えないが、国家を指導することの偉大さと困難さをよくわかっていた人だと思う。

 また、戦後日本の経済発展がいかに大変だったか。あるいは、経済発展を牽引したリーダーたちがいかに頑張ったか、戦後の平和と豊かさがどれだけ貴重であるかといった大切なことを理解していた政治家でもあった。

 一方、今の政治家たちは、日本の豊かさが当たり前だと思っている節がある。また、自分の行動に対する責任感も強いとは思えない。もちろん例外はいるだろうが、政治家としての発言が軽すぎる。言葉に重みが感じられないのだ。

 

・だから、その価値観に基づいて行動する勇気があったと思う。レーガン大統領はおそらく、中曽根首相のそういう強靭さを認めたのではないか。ふたりとも強い政治家だった。こうあるべきだと思ったら、その方向に動く信念と行動力を持っていた。

 宮沢喜一首相は、娘がアメリカの外交官と結婚していることもあって、ブッシュ(父)大統領とブッシュの別荘で1対1で話すことができる間柄だった。ふたりは、政治家としても通じ合うところがあったようだ。

 

小泉首相は今振り返ると、規制を緩和して経済の自由競争を活性化させ、小さな政府にするというネオリベラリズム新自由主義)のビジョンを持っていた。そこは、ブッシュ(子)大統領に近い思想だ。また、政治的なパフォーマンスも巧かった。

だから、小泉首相は例外的にカリスマ性があったが、その前の森喜朗、後の福田康夫麻生太郎らは政権担当期間が短いだけでなく、一国の首相としてはあまりにも軽い存在だった。

民主党が政権を奪還してからもその傾向は変わらず、鳩山由紀夫菅直人野田佳彦とやはり短命で軽い首相が続いた。

 

・こうして見てくると、これまでの首相があまりにも不甲斐ないだけに、政権担当期間が3年を超えた安倍政権は、それだけでも存在感があり、評価される。経験、ビジョン、リーダーシップを持っていて、周囲、特に野党にライバルもおらず、その力はとても強い。

 

<安倍首相はリビジョナリストか>

・安倍首相の強みは「方向性」を持っていることだ。彼のビジョンのひとつは国家の力を増強し、日本が普通の国になることだ

 アベノミクスと呼ばれる経済政策を進めているが、新たな経済成長を起こして、3年間はそこそこうまくいっている。しかし、その経済成長の恩恵が広がっていないし、3本目の矢が強力ではないので続くかどうかは不明である。最終的には、経済は目的ではなく手段に見える。

 

しかし、安倍首相はリビジョナリスト歴史修正主義者)だという懸念もワシントンでされてきた。つまり、日本の独立が承認された1951年のサンフランシスコ講和条約や、東条英機元首相らA級戦犯を裁いた極東国際軍事裁判を受入れる歴史観を否定し、日本をアジア諸国から孤立させる危険性を持った存在であるという懸念だ。

 安倍首相はこの両面を持ったリーダーとして、ワシントンからは見られてきたのでさる。

 

・結局、安倍首相がやろうとしているのは、すでに述べたように、日本を普通の国に変えること、つまり、日本の方向性を変えることであり、その方向性自体はワシントンなどで認められている。

 

<すべての政党が空洞化している>

・日本の場合、選挙運動でテレビを使ってアピールすることが厳しく制限されているため、後援会がないと選挙に勝てない。

 後援会を作るにはお金と手間がかかり、とても大変なので、どうしても安上がりで簡単な方法、つまり親から子へと後援会を引き継ぐ世襲が多くなってしまう。だから、今の選挙制度のままでは、世襲が多くなるのは仕方がないと言わざるをえない。

 逆に言えば、もっと自由に選挙をすることができるように選挙制度を改正したら、もっと新しい人材が政界に入ってくるかもしれない。

 

日本の場合、選挙に勝つためには後援会という組織が必須であることが、政治的に新しい人材が入るうえで非常に高い壁になっている。

 それでも自民党の公認が取れて支援を受けられれば、かなり優位に選挙戦を進められる。しかし、資金が豊富でない野党の公認が取れても、たいした支援もなく、孤軍奮闘するしかない。

 

自民党も2012年の政権奪還選挙で初当選した人が多く、政治経験のある人がめっきり少なくなった。小選挙区制の導入によって党内を支える人材集団が薄くなったため、ある意味で、自民党も含めてすべての政党が空洞化している。

 

<その後の民主党政権の失敗があまりにもひどかったので、期待が大きかった分、失望も大きかった>

・ひとつの党が極端に大勝すると、同時に野党が壊滅的になり、野党が次の選挙で政権を奪還するときには経験の乏しい政治家が多数を占めて政治が空洞化するという悪循環が続いている。

 

・言いたくはないが、今の閣僚を見ると、本当に尊敬できる人があまりにも少なすぎる。素人の政治家がいてもいいが、やはり頼りになるプロの政治家を揃える必要がある。安倍政権がラッキーだったのは、菅義偉のようなプロの政治家が官房長官にいることだ。

 私は政治学者ではないので、なぜ小選挙区制が日本でうまく機能していないのか原因はわからないが、今の政党は芯がないから入れ替えが簡単で、この20年間を見るかぎりでは悪い影響のほうが大きいように思う。

 アメリカのように政治に競争が必要だと思うが、いまだに二大政党による政権交代は実現できていないし、20年経っても成果が出ているとはいえない。中選挙区制がいいかどうかはわからないが、日本では小選挙区制導入の目的とちがう結果になってしまっている。

 

<国民的議論がなぜ起きないのか>

・なぜ、日本には国民的な議論が起きないのだろうか。

 それはおそらく、前述したように日本に革命の歴史がなく、市民が自分たちの手で民主主義を勝ち取った国ではないからだろう。

 一番感じるのは、主権が国民にあるという意識が薄いことだ。国家やお上に任せれば、何とかしてくれるだろうという封建的な意識が、まだ残っているような気がする。

 

・安倍政権の打ち出している「日本を普通の国にする」という理念が間違っているとは思わない。もしかしたら、その道しかないかもしれない。ただ国民的な議論がないので、国民は自ら選択したという意識を持てないだろう。そうすると、将来、そのツケが回ってくる可能性もある。

 

・社会が混沌として中国に対する恐怖感や将来に対する不安感がつのると、アメリカのトランプのようなデマゴーグが出現するかもしれないし、いろいろなハプニングも起こってくる。アメリカの後に付いて行けば何とかなるという時代が終わりつつある今、日本は新たなチャレンジに踏み切らざるをえないだろう。

 

<役割を果たしていないメディア>

・日本の政治が機能しない大きな理由のひとつは、メディアが本来の役割を果たしてないことだ。

 国民の健全な議論を育てるのが、メディアの重要な役割のひとつだが、日本のメディアの多くはこの役割を果たしていない。

 

・その理由のひとつは、日本のジャーナリストたちの多くが会社に勤めるサラリーマンであり、ジャーナリストとしてのスピリットを持っていないことだ。

 もうひとつは、日本のメディア自体が政治権力のインサイダーであり、言論や表現の自由よりも既得権益を守ることのほうを重視していることだ。今の政権と妥協しなければアウトサイダーになってしまうから、それは避けなければならない。朝日新聞や読売新聞などにとっては、東京新聞赤旗、『世界』などと同列にされるのはもってのほかであり、インサイダーとしての特別な地位を守ることのほうが重要なのだ。

 

・はっきり言えば、国民の側に立って政府や権力者を見ているのではなく、権力者の側に立って国民を見くびっているのである。

 

<日本のメディアはまだ55年体制

・政治が機能するには、多様な意見を尊重し、自由に発言できる市民社会が必要だが、日本にはそういう社会を守るメディアが育っていない。

 日本の新聞は読者離れが進み、発行部数の現象に歯止めがかからない。このままでは倒産する新聞社も出てくるかもしれない。

 

・1955年、当時の民主党と保守2党が合同して自由民主党を結党して以後、日本は経済が飛躍的に発展する高度成長時代に突入する。この時代は同じ商品を大量に作って売るのが特徴だったが、他社と横並びで同じ記事を掲載しようとしている新聞は、まだ55年体制を引きずっているように見える。

 

<読者のための新聞を作らなければ生き残れない>

・ただ、新聞が衰退している背景には新聞側の理由だけではなく、読者側の事情もある。若い世代が新聞を読まなくなったうえに、人口減少や少子高齢化によって読者自体が減り続けているのだ。

 

<世界で認められる日本人シェフ>

・日本人シェフの腕前は和食だけでなく、フレンチやイタリアン、中華料理などでも評価されている。ということは、外国のシェフとは違う日本人の職人としてのこだわりや技が認められているということではないか。こうした現象は、90年代まではなかったことだ。

 

・こうして日本人シェフのこだわりや技は今や、日本の強みのひとつになったと思う。仕事の基礎的な部分のレベルが高いのが、日本の特徴のひとつだ。

 これは、医療でも言えることだ。手術の技術面での高さではアメリカがダントツに進んでいるが、誰でも全国どこでも割と高いレベルの医療を安く受けることができるのが日本の強みである。抜群に優秀で天才的な技術を持った医師が多いというわけではないが、普通の医師でもレベルが高いのである。

 ただ、すきやばし次郎やNOBUなどのブランド店は、あまり日本のことを知らない富裕な観光客が行く店で、日本通の私の友人たちが日本に来て行きたがるのは、無名でディープなB級グルメのほうだ。

 

<好きな日本食はラーメン>

・私は日本国内のあちこちで、いろいろな料理を食べてきたが、一番好きな日本食の一つはと言えばズバリ、ラーメンである。

 つい最近も、神奈川県横須賀市に車で行ったついでに、京都発のラーメンチェーンでラーメンを食べたら、これが意外に美味しくて感激した。私はそういう意外な発見が楽しみなので、特定の店に通うというよりは、どちらかというと美味しい店を探して歩くのが趣味になっている。

 麺類のなかでも、一番好きなのが担々麺で、次に好きなのがとんこつラーメンだ。醤油ラーメンのような味の薄いものはダメで、味の濃いラーメンが好きである。

 

<評価されているロボット文化>

日本はロボット大国だと日本人は思っているが、AI(人工知能)やロボットの技術では、すでにアメリカのほうが先を行っている。

 

・むしろ、日本が世界から評価されているのは、ロボットの文化である。西欧とは違った日本独自のマン・マシン・インターフェイスというか、人間とロボットとの接触の仕方に注目が集まっているのだ。

 ITを含めた先端技術が新しく出てきたときに、人間がそうした技術とどのようにつき合っていくか、そのアイデアというか秘訣が、日本の文化のなかに隠されているのではないかと期待されているわけだ。

 

普通の国

・日本国民が十二分に議論したうえで、「自衛隊を軍隊にして普通の国にしよう」と決めるならば、その決定を世界の多くの人が尊重する。でもその決定は、日本の戦後のアイデンティティーやイメージ、世界の中の位置づけなどを大きく変えるのも事実である。

 議論する際に、私がポイントだと思っているのは日本の強みが何かということである。私は、日本が平和国家として歩んできたことが今や日本の最大の強みであり、ある種の資源となっていると思う。そうした日本の強みについて冷静に、ドライに熟考して、日本の将来を選択してほしい。

 

・日本が今から普通の国をめざしても、アメリカやロシア、中国には敵わない。日本の強みは軍事力ではない。むしろ、強みと言えば、民間のノウハウのほうがずっとレベルが高いと思う。

 ある意味では普通の国というあり方は、はっきり言えば、時代遅れである。世界が日本に求めているのは普通の国になることではなくて、むしろ脱・普通の国という方向性である。つまりオンリーワンである。そういう認識をふまえたうえで行動し、選択したほうがいい。

 

<戦後日本にプライドを持て>

日本は今、大きな転換期に突入している。その大きな要因のひとつは、戦争を体験した世代のほとんどが亡くなったということだ。

 

・そういう戦後日本の功績に、日本人はもっとプライドを持つべきである。

 戦後日本の歩んできた道は世界から高く評価されており、諸外国に対して説得力を持っている。日本をアピールする好材料でもあると思うが、日本人自身が意外に戦後を無視しているように思えてならない。そうではなくて、日本人自身が意外に戦後を無視しているように思えてならない。そうではなくて、戦後日本がやってきたことをきちんと認めることから始める必要がある。そうしなければ、あまりにももったいないというのが私の率直な思いである。

 

 

 

『永田町、あのときの話』  ハマコーの直情と涙の政界史

浜田幸一   講談社        1994/2

 

 

 

<謀略の勝者と敗者>

 ・青嵐会(せいらんかい)の事務局長までして中川さんを担ぎ上げてきたというのに、結局、私は、昭和54年(1979年)5月に旗揚げされた中川派「自由革新同友会」には加われじまい。

 このあたりから、昭和58年(1983年)1月9日の中川さんの自殺、それ以後の経過については、拙著『日本をダメにした9人の政治家』(講談社刊)に詳述しているので、そちらを読んでいただきたいが、あとで考えれば考えるほど、中川さんと中川派をめぐる一連の出来事は、福田赳夫三塚博一派の謀略であったとしか思えない。

 

<池に戻れず干上がった鯉>

・小なりといえ派閥の領袖、閣僚経験(農林大臣、科学技術庁長官)もあり、次代を担うニューリーダーの一角に名を連ねていた政治家・中川一郎の急死は、それだけでも重大なニュースだったが、それがやがて自殺と判明して、国民の間にさらなる衝撃が走った。

 なんの遺書も残さなかったとされるため、死後、その原因をめぐっていろいろと取り沙汰されたが自民党史の流れの中でとらえるなら、ややきつい言い方だが、結局のところ、派閥抗争の敗者としての死を選んだと言えるのではないか。

 

・そとのとき、私はなにをやっていたか――。恥ずかしながら、ラスベガスでのトバク問題によって、謹慎中の身だったのですよ。かえすがえすも、情けない!

 

田中角栄の“お盆手当・餅代”リスト>

・当時、私はまだ駆け出しの1年生議員。

「いいか、お前な、天下とりになるためには、こういうことが必要なんだよ。よく見ておけ」

 そう言って、田中さんが2、3枚の紙片を見せてくれた。そこには、国会議員の名前がずらっと書いてあり、その1つの名前の横に、「5百・3」とか、「5百・5」とか記してある。

 聞けば、たとえば「5百・3」というのは、その議員に対し、田中さんがこれまでに5百万円を3回、計1千5百万円渡したという意味だという。盆暮れに渡す“お盆手当”や“餅代”、選挙のときの陣中見舞などだ。

 5百万円といえば、当時のサラリーマンの平均年収は約120万円くらいだから、約4倍以上の大金だ。最後の部分までは見せてくれなかったからわからないが、私が見せられた一覧表には、1回から5回までの記載があった。

 

・派閥の領袖が配下の議員たちに年末に“餅代”と称する金を渡すのは、永田町では常識だが(ただし、2、3百万円が相場)、その田中さんのリストには、田中派以外の自民党議員から、当時の野党議員たちの名前まで、ズラリと並んでいた。

 とくに野党議員の場合、各党の党首、幹部クラスだ。国会議員なりたての私、これにはぶったまげたね。

 

 

・いまではすっかり様変わりしてしまったが、派閥の領袖たる者、次の4つの条件が不可欠だった。

第1に金。盆暮の手当はどこの派閥も同じ。田中さんが金脈の指弾を受け、三木武夫さんや福田赳夫さんらは「クリーン」とか「清貧」とかを売り物にしていたが、田中さんに比べて、金の集め方が下手だっただけの話。

第2の条件は、面倒見がいいこと。

第3にポストをとってくる力があること。

第4が人間的魅力。

田中さんは、これらすべての条件に秀でていた。まさに派閥政治の権化のような人だった。

 

<競争心なき政治家は去るべし>

・昭和63年(1988年)12月、リクルートコスモスの未公開株の譲渡問題で蔵相の宮沢さんが辞任したのは、私が前々から言っていた「宮沢派(宏池会)は闘争心に欠ける」という弱点が、もろに出た結果だ。

 

自民党の中にも、根まわしの好きな派閥と嫌いな派閥があり、言うなれば、根まわしと喧嘩が不得意の宮沢派が、野党側から狙われたということだろう。

 宮沢さんは、戦後、日本がまだ4等国と言われていた時代に、日本の国益を背に今日の日米関係を築いた人だ。経済政策にも明るく、通訳なしで、世界の首脳クラスと一人でどんな議論でもできる英才。

 

・しかし、あまりにも遅すぎた春、宮沢さんの切れ味もすっかり鈍っていた。それまでの経緯から、周囲に対する不信感もあったのだろうが、とにかく人の話に耳を貸さない。そのくせ、結論をどんどん先送りする優柔不断さ。

 外交と並んで、経済にも精通しているはずなのに、積極財政への転換の機を失って、不況をますます助長してしまった。

 

・宮沢さんはあまりに頭がよすぎたため、他人がバカに見えた。しかし、われわれから見たら、単なる人望のなさにしか映りませんよ。

 

<天才的な衆参ダブル選挙の発案>

田中角栄という人は、日本の政治史上でも傑出した人物の一人に数えられると思う。

 政治家の能力は、人材の使い方にある。たとえ98パーセントの欠陥があっても、残り2パーセントの才能をうまく使う能力である。

 その点、田中さんの能力は抜群だった。とくに、役人の使い方、若い政治家の使い方が実にうまかった。

そして、派閥内の人事、派閥統制の妙も見事だった。要するに、分断するようで分断しない。ライバル同士を競わせて希望を持たせるなど、のちの竹下さんや金丸さんの人事は、ことごとく田中さんから自然に学びとったものといえる。

それから、田中さんは選挙の神様だった。

 

<すべてはウラで決まっている>

・ポスト中曽根は竹下――しかし、これがかなり危ういところだった。例の皇民党による“褒め殺し”のせいだ。これには、金丸さんもあわてたようだね。そこで、解決策を東京佐川急便の渡辺広康社長を通じて、稲川会の石井進会長に依頼したということらしいのだが、やはり、政治家としては、そういうやり方はよくない。

 そうした解決方法がどうこうよりも、その問題が起こってきた背景のほうが重要である。

 竹下さんを称して、よく「まめな、つき合いを欠かさない人」と言われるが、マメでそだつのはハトだけ。その実態は「カネのつき合い」にほかならない。

 

<ラスベガス・トバク事件の真実>

・昭和55年(1980年)3月6日、東京地裁でのロッキード事件に関する公判の中で、聞いたこともないような話が飛び出してきて、私は一躍“時の人”ですよ。検察側の冒頭陳述補充に曰く――。

「小佐野被告がロッキード社から受け取った20万ドルは、昭和48年(1973年)11月3日、ラスベガスのホテルに対し、カジノで負けた借金の支払い保証をしていた分の返済に使われた。カジノで負けたのは、K・ハマダという人で、47年(1972年)の10月のゲームで、150万ドルの借金を負った。小佐野被告は借金の保証人としてホテルと交渉し、120万ドルに値引きしてもらうとともに、支払いを肩代わりした」

“寝耳に水”とは、このことだ。これを聞いて、自分でも「ええっ」とびっくりしたほどである。

 

・私はラスベガスへ行ってギャンブルをし、負けた。これは否定のしようもない。

 当時のレートは1ドル3百6、7円だから、150万ドルといえば4億6千万円ぐらいに相当する。一緒に行った人たちの分も入っているのかもしれないが、まあ、この際、そういうことはどうでもいい。

 私がびっくりしたのは、私の借金を小佐野賢治さんが肩代わりしてくれたという点だ。本当にそうなら、どれだけ助かったか知れない。己の不徳のいたすところとはいえ、支払いには大変に苦労したんだから。

 

・小佐野さんが「支払いを肩代わりした」なんて、とんでもない。前にも述べたが、小佐野さんという人は、そんなに気前のいい人ではない。根っからのビジネスマンなのだ。

 私は、そのときの借金の埋め合わせのために、自分が保有していた株や不動産を売却して、やっと金をつくったのである。

 そして、このこともはっきり言っておこう。そのときの不動産の売り先も、小佐野さんの国際興業グループの会社ではない。

 

<金丸事件>

・平成4年(1992年)8月、東京佐川急便からの5億円受領を認めて、自民党副総裁を辞任、同9月、5億円問題で東京地検から出頭要請、同10月、議員辞職、経世会会長解任、そして平成5年(1993年)3月6日、所得税法違反(脱税)容疑で逮捕。家宅捜索の結果、隠し財産が60億円とも70億円とも。金庫の中からは金塊も出てきた。

 この金丸信さんをめぐる一連の出来事には、私は実に複雑な思いでした。なにしろ、国会議員2期目以来、押しかけ弟子入りのようなものだが、私が一貫して師事してきた人だったのだから。

 

・実は、私が引退を決意した理由の一つは、この金丸事件なのです。

 なにもかも金丸さん一人に罪を押しつけて、頬っかぶりしているヤツが何人もいるわけでしょう。

 

・私は、実際はムジナでいながら、自分だけ清潔そうなツラをして、偉そうな口をきいているヤツが大嫌いなんだ。そんなヤツは、許すわけにはいかない。

 しかし、私だって、金丸さんから“餅代”をいただき、選挙のときには陣中見舞いをもらってきた一人だ。その私が、テメエだけ頬っかぶり、知らんぷりをしている連中を批判しようと思ったら、議員としてとどまっているわけにはいかないでしょう。

 私も国民のみなさんにお詫びをし、公職を辞した上でなければ、目クソが鼻クソを笑うのと同じになってしまう。

 そこで、私は次の総選挙には立候補をしないと明言した上で、在職中から竹下さんや中曽根さんに議員辞職をお願いしたり、小沢くんや三塚博くん、梶山くんを批判したりしてきた。しかし、彼らにいっこうに反省の色が見えないため、引退後、拙著『日本をダメにした9人の政治家』(講談社刊)を刊行した。

 

・金丸さんの逮捕だけで終わってしまったのでは、日本の政治は少しも変わらない。逮捕されるべき人は、まだまだいる。手が汚れている人がいくら制度を変えたって、よくなるはずがない。そんなことをしている間に日本はどんどん国際的信用を失い、地球上における日本国民の長期的生存は、どんどん危うくなっていく。つまり、自分たちの子や孫の代に禍根を残すことになるんです。

 

<権力亡者による三つ巴の抗争>

・ことの真相は知らないが、田中退陣の引き金となった「文藝春秋」掲載の「田中角栄研究」について、当時、三木・福田の謀略だとの説があった。少なくとも、田中さんはそう思い込んでいた。

 

毎朝8時半から勉強している国会議員もいる

・通常、自民党議員の1日の仕事は、午前8時半、東京・永田町にある自民党本部での朝食会からはじまる。議員はすべて自分の専門分野をもち、党内のそれぞれの専門部会に所属している。

 

<選挙に勝つ家>

・余談になるが、政治家の家の建て方というものがあるんですよ。この建て方が選挙の結果にも大きく影響してくるから、無視できない。

 政治家にとって、自分の家は、生活の場であるとともに、政治活動の場でもある。そこで、政治家の家にまず不可欠なものは、50人から百人が集まれる大広間だ。だから、政治家が家を建てるとなれば、まず子供部屋は犠牲にしても、50人以上入れる大広間を中心に考える。

 次に気をつかうのが、台所だ。50人、百人の人間にお茶を出したり、夜食をつくったりするためには、それなりの広さがなければならない。

 次が書生部屋。将来有望な青年を育てていくのも、政治家の義務である。書生の3人や4人、常時手もとに置いていないようでは、政治家とはいえない。

 

<権力欲への度が過ぎて>

・確かに、あれだけの才能をもった政治家が、一挙に総理大臣の座に駆け登りながら、「文藝春秋」という1冊の月刊誌に載ったたった1本の記事(立花隆田中角栄研究――その金脈と人脈」)をきっかけに退陣を余儀なくされた。当人とすれば、さぞや不完全燃焼の感が強かっただろう。

 それだけに、政権の座から下りたあとも、田中さんはなお権力に執着した。いや、ますます権力に妄執した。

 

<大学に入って芋づくり>

・しかし、母も一緒になってすすめることでもあり、まあ、東京に出るのも悪くはないと思い、日本大学獣医学部拓殖科へ入学した。

 入学してはみたものの、「いずくんぞ勉学ありや」とスネていたところだから、もちろん満足に大学なんかには行かない。第一、大学で教えていたのは、毎日、水道橋の校舎から大学の農園に行って、芋づくりばかり。

 芋をつくるぐらいなら、なにも学校へ行かなくたっていい、家でもやれると思って、早々に中退してしまった。

 

<賭場通いの日々>

・人生の目標なんてものは、微塵もない。10代の終わりごろから、20代の半ばごろまでは、不良少年、チンピラの時代だった。

 とにかく、一時はものすごくグレてグレて、本格的な不良というか、いっぱしの遊び人で、ほとんどヤケッパチで生きていたようなものだった。

 ヤミ市で本物のヤクザと大立ちまわりをしたり、それが縁で、そのスジの連中とも仲良くなったり、はたまた賭場に出入りしたり……。

 

<3畳の畳の上で>

・結局、グレていたころの前歴がわざわいして、料理屋荒らしまで私の仕業であるかのように報道されてしまったが、実際は以上のような経緯なのである。

 ただ、いまでも忘れられないのは、私が逮捕されたとき、町の青年団の仲間たちが、そんなどうしようもない私のために、釈放の嘆願までしてくれたことだ。

 また、私が起訴されたとき、母は少しでも私の刑が軽くなるようにと、あちこち金策に駆けまわって、高い弁護料を工面し、木更津でもっとも有名な弁護士を頼んでくれた。

 獄中にあって、懲役でやらされたのは、味噌や醤油をつくることだった。毎朝早くから、1日に96本のタライを洗い、桶を洗う。麹と塩を混ぜるのは、みな手作業であった。

 

<稲川会長の紹介で児玉誉士夫のもとへ>

・私は稲川会の稲川角二会長と、私より4歳年上で、のちに稲川会2代目会長になる石井進さんにも、いろいろご面倒をかけ、お世話になっていた。

 若気のいたりで、私が世をスネて、ヤクザの世界でしか生きていいく道はないなどと思っていたときに、「お前のような意気地なしには、任侠はつとまらない。お前は政治の道に進め」と諭してくれたのが、稲川会長である。石井さんはそのころから、「これからは愚連隊ではダメだ」と口癖のように言っていた。

 

・それはともかくとして、昭和35年当時、稲川会長は児玉さんに心酔しているところがあった。そこで、私が国会議員選初挑戦に敗れたとき、国会議員を目ざすのなら、少し児玉さんのもとで勉強でもしてみたらどうかと、すすめられたのである。

 

児玉邸に出入りしていた実力者たち

・児玉さんのところに行って、まずやらされたのは、下足番と電話番。だから、当時、政治家の誰と誰が児玉さんのところに出入りしていたか。みな知っている。

 たとえば、自民党総裁河野洋平さんのお父さんである河野一郎さんや、当時、河野派ホープだった中曽根康弘さんからの電話を取り次いだこともありますよ。

 とにかく、当時の政財界に対して、児玉さんは睨みをきかせていた。政財界の実力者たちは、児玉さんに対して驚くほど腰が低かった。文字どおり、「三顧の礼」を尽くしていた。

 

 

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より引用。

中川一郎

自殺説と他殺説

 

その死にはいくつかの疑問点があるとして、今もって議論されることがある。

 

遺書もなく、また急ぐように2日後には火葬したことや、死因の変更などでにわかに「他殺説」が浮上した。直前、中川は当時第一秘書だった鈴木宗男と口論した噂はあるが、根拠はない。中川の秘書から北海道選挙区選出参議院議員となった高木正明が、本人の名誉を考え早急の火葬を行う指示を行ったとされる。他殺説は事実無根として、鈴木をはじめ関係者一同が抗議している。

 

内藤國夫 1985, p. 251によると、

中川一郎突然死のあと、巷に流れ出た“噂話”には、さまざまなものがあった。ソ連の対日工作員レフチェンコから中川一郎が巨額な政治献金を受け取っていたのを、中曽根・後藤田ラインに知られ、暴露するぞと脅され、悩んでいたとの話に始まり、総裁選で膨大な金を使いすぎ借金返済に困窮していた、ソ連KGBに謀殺された、ニュージーランド沖のイカ漁や韓国の水産関係者との利権を“角筋”によって絶たれた、さらには、総裁選挙後に“肝臓ガン”を告げられ悩んでいた等々などが主なものである。いずれも根拠のない、無責任な“噂話”ばかりである」

という。

 

なお、2010年10月に鈴木宗男は、中川が1975年7月に世界銀行の招待で南アメリカ諸国を歴訪する出発前日に全日本空輸の藤原経営管理室長と料亭で会食した際に、「餞別」として100万円を受け取ったこと、さらに後の東京地検特捜部による「ロッキード事件」の「全日空ルート」の捜査の過程でこのことが明らかになり、1976年8月に特捜部からの事情聴取を受けていたことを、月刊誌『新潮45』の記事で証言している。鈴木は、このことを後の1982年に福田赳夫に追及されたことが自殺の原因となったとも記しているが、これに対しては中川の妻の貞子が否定している。

 

中川の死から5日後の1983年1月14日、東京のソ連大使館からモスクワに宛てたKGBの暗号電報に、ソ連のスパイであり、テレビ朝日専務だった三浦甲子二の話として「中川は明らかに他殺だ。CIAの手先に消された」と記されていたことが明らかになっている。ほか、「鈴木はCIAと結託して中川を収賄疑惑に引き込んだ」との記述も確認されている。

 

自殺の原因としては、「しゃにむにニューリーダーの一角に割り込み、13人の少人数ではあるものの、自民党に自分の派閥を作り上げて総裁候補にまでのし上がった。その過程で、人間関係や政治資金などで相当の無理をしており、その心身の疲労が自殺という形で爆発してしまった。」というのが定説である。