日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

プリケは、専門の立場から、蒸発した人々は次元の断層へ落ちたのではないかという仮説を述べています。(2)

 

 

フェローシップ

(ブラッド・スタイガー)(たま出版)  1996/2/1

 

 

 

アンドロメダ議会連盟の存在>

・「フレッドの話によると、プレアデス星人のセムヤーゼは、アンドロメダ議会連盟について、それが様々な多くの惑星や銀河系ネットワークの長老達によって組織されたものであると説明した。

 

・長老達は、数多い惑星文明が協力して一つの目的を果たすことができるように、条約や協定を締結する役割を負っている。議会のメンバーは、宇宙のあちこちに散って実地調査を行なっている使節たちから報告を受ける者達である。長老達は使節から受けた報告を慎重に吟味し、ビーム・シップの航路を決定する。彼らは、旅に関する規制をし、宇宙空間の全ての航行路を監視下において統制しているのだ。

 

・議会は、異なった次元世界に属する同胞達とも協力関係を維持している。連盟のメンバーの中にはある種の瞑想を専門とする者がおり、そうした瞑想を通じて霊的種族や、多次元に属する存在とコミュニケートすることができるのである。

 

・『私はコンタクティー達や霊的能力に優れた人々が、連盟からコンタクトを受けたところを数多く見てきました』とフレッドは言った。『霊的能力を備え、連盟のネットワークのチャネルに調和することのできる人なら誰でも連盟とコミュニケートすることができるようですよ』」

 

 

 

『プレアデスとのコンタクト』

(ビリー・マイヤー)(徳間書店)2001/8

 

 

 

・プレアデス人によると、「ギゼー知性体は、異なった時空層に存在するリラ・ベガ圏から数千年前に地球に移住したヘーノック系地球外知性体であり、1980年代にプレアデス異星人により地球から追放されたようです。

 

・「ギゼーのピラミッドから2キロメートルほどの地下の奥深く、1200メートルの異空間に直径300メートル、高さが114メートルの宇宙船が置いてある。何千年もこの地下ホールに収納されているのだ。小型の宇宙船が現在使われており、地球から40キロメートルの上空で初めて物質化するので、地球から見えない。そして戻ってくるときは、不可視の状態で目的地に向かって飛び、地球に着く少し前に非物質化する。現在の地球の科学では、異空間にあるホールを探知できない」。

 

 

 

『2012年にパワーをもらう生き方』 セドナUFOコネクション

リチャード・ダネリー  徳間書店  2009/9/17

 

 

 

<軍は関係しているのか?>

・私の友人は、もう一人の男と一緒に、UFOを目撃できることを期待してドライ・クリークにいた(ポイント・キャニオン、フェィ・キャニオンとともに、シークレット・キャニオンもまたドライ・クリーク地区にある)。突然、白昼堂々キャピトル・ビュートの上空に空飛ぶ円盤が現れ、シークレット・マウンテンの方角へ北上していった。この目撃談がことのほか驚異的なのは、その空飛ぶ円盤の後に、隊列を組んだ戦闘機が4機飛んでいたということなのだ。

 

・ウルフダンサーは、カリフォルニア州のシャスタ山の付近で数ヶ月間、UFOを撮影しようとビデオカメラを持って歩き回ったばかりで、実際にいくつかを撮影した。私の友人によれば、ウルフダンサーは、事実、シャスタ山付近を飛ぶ何機もの宇宙船の映像ばかりでなく、山の頂上付近に入口のように見えるものが口を開き、UFOがその中に入っていくところの映像も持っていたのである!明らかにウルフダンサーは、ちょうどいい時にちょうどいい場所にいるのが得意であるらしかった。ウルフダンサーと私の友人が空飛ぶ円盤と戦闘機を目撃した数日後、ウルフダンサーのキャンプに二人の男性が訪ねてきた。二人は、軍関係者が民間人を装っているように見える。彼らは、ウルフダンサーに「あなたのしていることは知っている。やめた方が身のためだ」と言った。その後数日後、ウルフダンサーは姿を消し、それ以来消息を絶っている。

 私の友人は、ウルフダンサーが拉致されたのではないかと考えている。

 

アリゾナ州セドナ

・現在、セドナは人気の観光スポットであり、同時に「石を投げればヒーラーに当たる」と言われるくらいで、数多くのヒーラー、セラピスト、霊能者が住んでいる町である。マドンナをはじめとして、バケーションハウスをここセドナに持つセレブリティーも多いと聞く。

 

<導く者=アルクトゥルス星人との接触>

<本書を書くインスピレーションとなったのはアルクトゥルス星人である>

1992年の夏、私は、セドナのドライ・クリーク周辺でよくキャンプをするようになった。私のガイドが近くにいるときに感じるのとよく似たエネルギーを、よくその辺りで感じたのだ。何日もそこで過ごすうちに、その辺りをしばしば訪れている数人の人たちが、アルクトゥルス星人の一団が乗った高次元の光の船(宇宙船)がその谷の上空に浮かんでおり、彼らのことを知りたい人なら誰でも、テレパシーによる交信ができるような態勢を整えている、と主張するのを聞いたときも私は、少しも驚かなかった。

 

 

 

『昔話のコスモロジー』  ひとと動物との婚姻譚

小澤俊夫    講談社学術文庫    1994/10

 

 

 

<民話の比較研究>

<昔話・民話とは何か>

・近頃ではいろいろな呼び方を耳にする。民話、昔話、童話、おとぎ話、伝説、笑話、動物昔話。そして出版物でもテレビでも、あまりしっかりとした区別をせずに使っているようにみえる。そこでまずそれらの用語の整理をしておきたい。

 民衆のあいだで口伝えに伝えられている話に、人類の文化遺産としての価値を見出し、学問的にとりあげた最初の人は、ドイツのグリム兄弟であった。グリム兄弟の兄のほうはヤーコブ(1785―1863)、弟はヴィルヘルム(1786-1859)という。

 

・そこで日本における用語法だが、関敬吾は、日本の昔話研究史における記念碑的著作『日本昔話集成』全六巻において、「第一部 動物昔話、第二部 本格昔話、第三部 笑話」という構成をとり、スティス・トムソンのカタログの大枠を導入した。わたしは昔話という大きなジャンルのなかに、この三つのジャンルを認めることに賛成である。

 

<人間と動物の結婚について、本書は扱う>

・つまりドイツ語、英語とも「魔法昔話」という意味である。魔法が話の中心になった話である。魔法が重要なはたらきをする話でないと、本格昔話と感じないのである。そういうヨーロッパ人の昔話感覚からすると、わたしがドイツ語に訳した日本の本格昔話は、ほとんど伝説に近くみえてしまうのである。

 

<民話の比較研究の必要性と可能性>

・わたしはこの本で、人間と動物の結婚の昔話をじっくり読み込んで、この大きな問題解明へとひとつの試みをしてみたいと思う。これはまったく大きな問題なので、わたしのこの試みの方法だけで解明できるかどうかわからないが、ひとつの手がかりは得られると思う。

 

・わたしはここに人間と動物との婚姻の話をとりあげた。その場合の動物と言うのはすこし広くとって、人間以外の、超自然的なものとすることもある。すなわち関敬吾が「異類婚姻」とよぶ話を中心としている。

 なぜ動物との婚姻をとりあげたかというと、わたしの問題意識からすると、そこにそれぞれの民俗の昔話観が集約的に現われていると思うからである。つまり、動物の配偶者を人間のほうではどうみているか、人間から動物、動物から人間への変身を、登場する主人公はどうみているか、そして語り手はそれをどう受けとめているか、どう説明しようとしているか、というあたりが、昔話の世界をどう造形するかというその仕方の、かなめになっていると思うのである。

 

・日本の異類婚の昔話を世界のあちこちの民俗の異類婚の民話(前述の如く、どの民族でも異類婚の話を日本人のいう「昔話」の形で語っているとは限らない)のなかに置いて読み込んでみると、そこにはおのずから日本の昔話の特質といえるような性質が浮かび上がってくる。よその民俗の民話のなかに置いて見るからいっそうよくその性質が見える、ということがあると思う。

 

・そうした昔話や民話のなかには、その民族が気づかずにもっているような基層的な考え方、自然への対し方、動物への対し方がしみこんでいるはずである。異類婚の話の分析を通じて、そうした基層をなす考え方をさぐることができるのではないか。

 

<ひとと動物との婚姻譚――動物の夫>

<動物が、あることの代償として娘を要求する>

<日本の異類婚姻譚の比較研究>

・昔話を構成している重要なモティーフとして、ひとと動物との結婚がある。日本の昔話でいえば「蛇婿入り」、「つる女房」などがそれで、日本の昔話の類型のなかでは、この「異類婚」をテーマにした話は相当に多い。

 

<日本の異類婚の例――猿婿入り>

<父は猿を猿として見、しかも友好的>

・その仕事のなかで、わたしはヨーロッパ以外のいろいろな民族の民話と親しくなった。それらはまさに「民話」という大まかな概念が妥当する口承文芸であって、けっしてヨーロッパの意味での「魔法昔話」でもないし、日本の意味での「本格昔話」でもない。そこにはたくさんの「人間と動物の婚姻譚」が、さまざまな様相を示しながら語られている。「異類婚」と呼ぶよりも「同類婚」と呼ぶにふさわしいような話もある。

 

 

 

『「強い日本」を取り戻すためいま必要なこと』

日下公人、田久保中衛、ロナルド・モース  PHP研究所 2013/6/10

 

 

 

<「戦後レジームの総決算」>

憲法改正基地問題歴史認識………日本では、経済(アベノミクス)の変化に加えて民意と社会の大変化が起こるだろう。安倍首相の唱える「戦後レジームの総決算」をやるなら今しかない!やばいアメリカ、瓦解する中国を横目に、いかに強国・日本を取り戻すか?3人のストロング・ジャパン派による緊急鼎談。

 

アベノミクスを論じるよりも、強い日本を取り戻そう 日下公人

・このことを心あるアメリカの経済学者は反省して、「われわれはこの何十年間、単にフィッシャーの貨幣数量説の周りを回っていただけだ」と言っている。とくに、アベノミクスと称されるものに欠けているのは、三番目の成長戦略である。

 

・しかし、いままでの「絶対反対!」や「補償金よこせ!」ではなく、形勢観望に変わったとすれば、農政改革はすでに半分成功したと言ってよい。

“攻めの農業”が実現すれば、アメリカは自動車産業保護で受け身に変わるから、安倍首相が得意とする“攻めの外交”に転じる準備が整う。

 そもそも安倍首相の政策は、第1次政権発足時から続く「戦後レジーム(体制)の総決算」の一部なのである。

 

<京都はユートピアだった>

・(日下)ところが、日本は平安時代には、その理想に到達していた。天皇は軍隊も警察ももたないのに、平安時代は4百年近く平安のまま続いたのです。

 

・その間、支配者側の天皇や公家たちは何をしていたかというと、文化をつくっていました。歌を詠んだり、物語を書いたり、絵を描いたりして、それらを娘に仕込んでいた。その娘が、他国(地方豪族)への輸出商品となった。京都の流行の文化を娘に教えて、その娘を地方豪族に嫁がせる。地方豪族はありがたがって進物をして娘たちをもらい受け、文化を学びました。

 

・(モース)日下さんが教えてくれた安倍首相のルーツ、アイデンティティによると、2千年、縄文まで遡れば1万年という日本の歴史が、彼の受け継いできたものにすべて組み込まれているわけですよね。

 

・たとえばハンチントンは『文明の衝突』のなかで、世界の文明は宗教で衝突するようになるだろうと書いています。でも日本は多神教八百万の神です。それも先祖崇拝だけではないんですよ。土着信仰、原始的なシャーマニズムがあるし、キリスト教や仏教以前のアニミズムまで残っています。

 日本にはそういう特別で複雑な多重精神構造がある国です。安倍氏がそれを理解してくれていればいいのですが、おそらく明治の指導層はわかっていなかった。その抵抗の意味も込めて、柳田國男は『遠野物語』を書いたのです。

 

柳田國男とグリム兄弟>

・(モース)なぜ柳田は『遠野物語』を書いたのでしょうか。ヒントは序文のなかにあります。「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」という書き出しがグリム童話と同じなのです。明治時代の日本ですでに翻訳が出ていました。柳田は遠野出身の佐々木鏡石と会って話を聞き、それを文語体にして文学作品にまとめて発表しました。これもグリム童話と同じ手法です。

 

1812年にグリム兄弟が、なぜグリム童話を書いたのかというと、ヨーロッパはキリスト教が広まると、それまであった地域や文化が衰退していきます。カトリックという言葉は「普遍的」という意味です。カトリックが宗教的にも文化的にも支配的になると、民族固有の文化は伝説のなかであるとか、古い宗教というかアニミズム、民間宗教のなかにかろうじて残されることになった。

 

・当時のドイツはプロシアを中心に、ドイツ語を話す人たちによるドイツ帝国ができかけていた頃で、グリム兄弟はいまのうちに伝説のなかに残っているアニミズムを記録しておかないと、民俗の歴史や記憶が完全に消えうせてしまうと考えたのです。そこで彼らは伝説、童話の収集に乗り出しました。

 

・(日下)そうして出てきた学問がfolklore(民俗学)とethnology(民族学)の二つですね。民族学は人類学に近い。自分の国のものを研究するのではなく、文明国の研究者が他所の国へ行って、未開の人種について研究する。自分の国の伝承文化を研究するのが民俗学という考え方です。

 民族学が発達したのは植民地経営の手法に使えたからで、ヨーロッパの列強はこうして海外侵略に出て、略奪した資本で近代化を成し遂げました。産業革命で資本を蓄積したのではありません。植民地から奪ったのです。

 

<『遠野物語』の異議申し立て>

・(モース)日本も台湾などの植民地経営をするようになって、列強の仲間入りを果たそうとします。外向けに日本を説明しようという新渡戸の『武士道』に対して、地方の日本の精神構造は「違う」と異議を申し立てるために、柳田は『遠野物語』を書こうと決めたのではないかと私は思っています。

 

・『遠野物語』の序文に、「この書のごときは陳勝呉広のみ」という一文があります。この陳勝呉広というのは、紀元前209年に、中国で反乱を起こした二人のことで、彼らは中国史上初めて農民革命を指揮した人たちです。

 柳田國男は『遠野物語』を明治政府に対する革命的な本と考えていたんですよ。彼は、農民や社会の底辺にいる日本人を「常民」と呼んで、支配階層ではない名誉も肩書きも権力もない普通の日本人の意味で使っています。

 粘菌を研究した南方熊楠とも交流があり、二人は明治政府のやり方にかなり反発しています。常民の日本精神を政府は軽視しているということです。

 明治憲法日本国憲法との関係で言えば、柳田は天皇制に反対でした。『遠野物語』のなかに天皇は登場しません。

 

・柳田は日本国憲法象徴天皇制に賛成し、教育勅語についても、日本人の考え方ではないと反対しています。

 それと宗教の自由を喜んでいます。彼は明治政府の宗教政策、とくに神社の整理合併政策である神社合祀令に大反対でした。村々にある神社を整理合併して、国家神道天皇組織をつくると、共同体の結びつき、普通の日本人の精神構造が崩れてしまうと考えたからです。

 

・もう一つは農地改革です。柳田は農商務省の役人で、常民である小作人のことを思って地主制度に反対でしたから、戦後の農地改革を評価していました。柳田は戦後の日本が、明治以前の昔の日本、日本人に戻ると考えていたようです。

 

<柳田は常民の目から、戦後の日本を高く評価していた>

・柳田の考え方は、日本には明治時代よりずっと昔から、多層な精神構造があるというものでした。伝承文化や地方文化を学んでいくと、縄文時代から生き残っているものが見つかるのです。さらに平安時代からのものが、その上に積み重なっている。

 日本の近代化がいつ始まったのかは明確に区切れません。少なくとも明治ではない。鎌倉時代か江戸時代、ひょっとしたらすべてが連続して境目自体がないかもしれない。そう考えていたと思います。

 そうすると明治・大正・昭和というふうに歴史を分けることに、たいした意味はないということになります。日本の大学で教えている歴史学は間違っています。

 

<危険水域に入った格差大国>

ジニ係数が0.4になると、不満が爆発する危険な水域と言われています。

 2012年、中国の新聞各社が「中国のジニ係数は0.61」と書きました。これも昔の中国ではありえなかったことです。一党独裁といえども、中間層に耳を傾けなければならない状況が進行しつつあるのではないかと思います。

 

<NICが描く4つのシナリオ>

・(田久保)アメリカのNIC(米国国家情報会議)では、さまざまな国の10年か20年後を予測した報告書を出していますが、今回、中国について4つのシナリオが出ていました。

 現状が続くというのが、第1のシナリオです。中国の現状は、四面楚歌で、周辺国から完全に孤立しています。このような状況下で、指導部が13億人をまとめていくためには、生活水準を下げるわけにはいかない、ということが大前提になります。つまり、経済規模は小さくできません。しかもナショナリズムをさんざん煽ってきましたから、外に対して強く出ないと自分たちの立場が保てないのです。

 

・アジア全域から米軍が撤退した場合、中国の力が圧倒的に強くなり、アジアで支配的な勢力になるというのが第2のシナリオです。

 

・第3のシナリオはアメリカだけでなく、ほとんどの国が希望しているシナリオです。中国が中産階級の人々の声に耳を傾けるようになると、次にこうした新しい階層を代弁する党ができて、共産党一党支配ではなくなり、複数政党になるかもしれない。そうなれば独裁政権が一気に崩壊するハードランディングは避けられ、ソフトランディング(軟着陸)して民主化へ向かうというシナリオです。

 

・第4のシナリオは危険なシナリオです。先ほど述べたように、中国は国内の不満を解消するために外に対して強く出ざるをえません。ところが、アメリカのような国は、「何を!」と反撃します。日本は、安倍首相以外は、殴られっぱなしで、お詫びをし、お金を出し、譲歩に譲歩を重ねて、まるでサンドバック状態でした。相手が図に乗ってくるのは当然です。

 でも日本にも我慢の限界がありますからね。日本が強硬な姿勢に転じれば、中国の指導部は行き詰ってしまうでしょう。すると国内の不満を散らすために、たとえば尖閣のようなところで危ない冒険をするのではないか。その場合、中国は内部の崩壊に向かって進んでいくだろうというのが、第4のシナリオです。

 第3になるのか、第4なのか、私自身もまだよくわかりません。NICは次にまた新報告書を出すでしょう。次の報告書に注目したいと思います。

 

 

 

『世界の中の柳田国男

REモース、赤坂憲雄 編     藤原書店  2012/11/20

 

 

 

<『遠野物語』の表と裏―柳田国男井上ひさし (クリストファー・ロビンス)>

<民族の受容・抹消・回顧>

・「遠野郷の民家の子女にして、異人にさらはれて行く者年々多くあり。ことに女に多しとなり」

 

・「異人」という語は、文字通りには「異なった人」を意味するが、そのニュアンスには、幅があり、『遠野物語』においては、いくつかの特定の文脈において、それぞれ意味が限定される。上の引用では「異人」は「山男」の同義語である。山男は大まかに言って、西洋のブーギーマンのようなもので、残忍で人に似た形をしており、女や子供をさらって、二度と会うことも便りを聞くこともできない山奥に連れていってしまう。『遠野物語』の中で「異人」が登場する他の三例では、それぞれ天狗、外国人、山の神を意味する。この話がさまざまなニュアンスを持つのは、その文字通りの意味が、人間に似ていて、かつ(もしくは)見知らぬ存在すべてを包括するような、あいまいな範疇として機能し得るからである。

 

・「土淵村の柏崎にては両親とも正しく日本人にして白子(しらこ)二人ある家あり、髪も肌も眼も西洋の通りなり、今は二十六、七は同じからず、声細くして鋭し」

 

・このアルビノ(白子)の兄弟に対して「異人」の語は用いられていないが、その身体的特徴が「西洋の通り」である以上、彼らは観念上「異人」とみなされていることがわかる。声が変わっているだけでなく、話し方からも、彼らが、地域共同体の周縁の外から来たよそ者であることが示される。違いを示す烙印が付されるのは、人間に似てはいるが、奇形と言う異形の徴を示している者、あるいは認めがたいような差異を示している者である。

 

<周縁にいる山男山女>

・「遠野郷より海岸の田ノ浜、吉利吉里などへ越ゆるには、昔より笛吹峠といふ、山路あり。山口村より六角牛の方へ入り路のりも近かりしかど、近年この峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢ふより、誰も皆恐ろしがりてしだいに往来も稀になりしかば、つひに別の路を境木峠といふ方に開き、和山を馬次場として今はこちらばかりを超ゆるようになれり。二里以上の迂路なり」。

 

・実際には地元民の大半は山に住んでおらず、広大な遠野盆地において主に農業や畜産、商事に従事していたのだが。

 

・柳田はまず「山人」という語は古くより用いられており、しばしば天狗や仙人などと結び付けられてきたと断定したうえで、この語義は誤っているとして、自分の解釈を示す。「併し、之なども意味を誤って居るので本当の日本語としては、我々社会以外の住民、即ち吾々と異なった生活をして居る民族と云ふことに違いない」この観念に立てば、山人は近代日本社会の主たる構成員ではなく観念の上では古代以来の日本人の先祖と結びつく。あるいは日本文化の大勢と関連するが明確に区別し得る地方文化の構成員もしくは少数民とみなされる。

 

 

 

『秘密結社』

綾部恒雄  講談社  2010/10/13

 

 

 

『異人・河童・日本人』

住谷一彦・坪井洋文山口昌男・村武精一(新曜社)    87/11/25

 

(以下は上の2つの資料を合わしたもの)

<異人と祭祀的秘密結社>

メラネシア又はポリネシアの社会生活の概念となるものはいわゆる秘密結社である。

 

・そのようなメラネシアポリネシアの秘密結社の考察は、その様相、変型、フォークロア化の点で、日本文化史に与える暗示はきわめて深いと述べている。

 

メラネシアの社会史より、民俗学で言う「異人」の特徴をまとめたもの。

 

 

  1. 異人が幾度にか、季節を定めて訪来したこと。
  2. 異人は先住民より亡魂、又は死者そのものと考えられたこと
  3. 異人は海の彼方から、来るものと信じられたこと。後には、山中の叢林より来るとも信じられるに至ったこと。
  4. 異人は畏敬されつつも平和的に歓待されたこと。
  5. 異人は食物の饗応、殊に初成物を受けたこと。
  6. 異人は海岸地に住まずして山中の叢林に住みしこと。(インドネシアの神話でも大体支配民族は天空からやってくるのです。あるいは海の彼方からもやってきて、土地の娘と結婚するといわれています。)

 

  1. 異人はdual organization (二つの象徴的二元論の原理)の構成の原因となりしこと。
  2. 異人が土民の女と結婚する必要ありしこと。
  3. 異人とその女との間に出来た子供が特殊な社会的宗教的性質を有せしこと。
  4. 異人は入社式、男子集会所の起源をなしたこと
  5. 異人はその異人たることを表徴する杖、及び「音」を有せしこと。
  6. 仮面が男女二つあること。女異人が山中に住むということ。(山中というものは、人間の世界を超える原世界としてイメージされた。人間の世界と人間を超えた世界をつなぐ空間である。)

 

  1. 異人が訓戒、悪事摘発をなし、豊作をもたらし、又はもたらさしめんことを任務としたこと。
  2. 異人が季節殊に収穫季、冬至に関係したこと。 
  3. 異人は季節が来ると、その出現を期待されたこと。
  4. 異人若しくは神は常に村にとどまらないと信じられたこと。(「おどまぼんぎりぼんぼんからさきゃおらんど」というのは子守の歌と教えられていますが、外から訪れた「異人」の歌だ、という説があります。)

 

  1. 異人の出現の際は女子、子供は閉居したこと。
  2. 異人のタブーが財産の起源となったこと
  3. 異人がフォークロア化して遊行歌舞伎団となったこと。(歌舞伎の成立の根源)

 

  1. 遊行人は異装し、杖と音とを有し、饗応を強制し、或は掠奪を敢えてし得ること。
  2. 遊行人が神話、神の系譜を語り、或は之を演技で表現すること。多く季節と関係して。
  3. 遊行歌謡団から伊達者(man―woman)が発生したこと。(歌舞伎の起源)

 

  1. 彼等は民間信仰に於いては、侮蔑されつつも亦高き階級に属すとされたこと。

 

・すでに触れたように、岡の考察はメラネシアの社会史を範例として行われたのであるが、これらの異人にまつわる表象、状況、発展について暗示された諸項目は、アフリカの祭祀的秘密結社の成立の事情を辿ることによっても、確認することができるのである。

                                                                                     

 

 

『妖怪文化入門』

  小松和彦      角川学芸出版   2012/6/22

 

 

 

<異人・生贄>

<「異人」とはなにか>

・「異人」とは、一言で言えば「境界」の「向こう側の世界」(異界)に属するとみなされた人のことである。その異人が「こちら側の世界」に現れたとき、「こちら側」の人びとにとって具体的な問題となる。つまり「異人」とは、相対的概念であり、関係概念なのである。

 

 ところで、「こちら側」の人びとが想像する「異人」は、おおむね次の四つのタイプに分けられる。

 

① ある社会集団(共同体)を訪れ、一時的に滞在するが、所用を済ませればすぐに立ち去って行く「異人」。こうした「異人」の例として、遍歴する宗教者や職人、商人、乞食、観光目的の旅行者、聖地への巡礼者などを挙げることができる。

 

② ある社会集団(共同体)の外部からやってきて、その社会集団に定着することになった「異人」。こうした「異人」の例として、戦争や飢饉などによって自分の故郷を追われた難民、商売や布教のために定着した商人や宗教者、共同体を追われた犯罪者、「異国」から奴隷などとして、強制的に連行されてきた人びとなどを挙げることができる。

 

③ ある社会集団(共同体)が、その内部の成員をさまざまな理由で差別・排除する形で生まれてくる「異人」。前科者や障害者、金持ちや貧乏な人などが、この「異人」の位置に組み入れられることが多い。

 

④ 空間的にはるか彼方の「異界」に存在しているとされているために間接的にしか知らない、したがって想像のなかで一方的に関係を結んでいるにすぎない「異人」。海の向こうの外国人や、はるか彼方の「異界」に住むという「異神」たちが、こうした「異人」のカテゴリーを形成している。

 

こうした種類の「異人」たちが「異人」とみなされた社会集団の問題になってくるのは、当該集団がその集団としての「境界」を意識し、その集団の構成員とそれ以外の人びとを区別しようとするときである。人びとは「我々の集団・仲間」を作り出すために、その<外部>に「異人」を作り出すのである。この「異人」を媒介にして集団は結束し、その「異人」に対処する作法を編み出し、ときには歓待し、ときには差別や排除に及ぶことになる。

 

・異人論の先駆的研究として位置づけられる研究は、折口信夫のマレビト論であり、岡正雄の異人論であろう。

 折口の「マレビト」概念は彼自身が厳密な定義をおこなっていないこともあって難解であるが、その概念は二重構造になっていると思われる。一次的なマレビトは来訪神のことであり、二次的マレビトが共同体の外部から訪れる祝福芸能者のたぐいとして想定されている。共同体の人びとはこれと祝福芸能者を「神」そのもの、もしくはその代理人とみなすことによって歓迎し、その祝福を受けることで共同体の繁栄が期待されたのであった。すなわち、共同体の来訪神信仰との関係のなかで「異人」を理解すべきであるということを示唆したわけである。

 

<異人・生贄・村落共同体>

・すなわち、「異人」をめぐるテーマを検討していくと、その一角に「生贄」のテーマが現れ、逆に「生贄」のテーマをめぐって考察を進めていくと、その一角に「異人」のテーマが現れてくるからである。そして、この二つのテーマを媒介しているテーマが、「人身供犠」(人身御供)もしくは「異人殺害」という説話的・儀礼的モチーフであると言えよう。

 

・旧来の神に代わって山王社に祀られることになったのは、いかなる「神」なのだろうか、ということである。ここでの文脈で言えば「農耕神」としての山王神ということになるだろう。「しっぺい太郎」の昔話でいえば、外部からやってきた旅の僧などの「異人」や「人間の側の犬」が、そこに祀られていることになるはずである。

 

<「異人」と「家」の盛衰>

・その物語の一つが最近まで民間に流布していた、次のような物語である。これを私は「異人殺し」伝承と名づけた。「異人殺し」伝承は、怪異・怪談そして恐怖といった要素がたっぷり詰まった伝承である。

 

 旅人(六部や座頭、巡礼、薬売り)が、とあるムラのとある家に宿を求める。その家に泊めてもらった旅人が大金を所持していることに気づいた家の主人が、その金欲しさに、旅人を密かに殺して所持金を奪う。この所持金を元手にして、その家は大尽になる。だが、殺害した旅人の祟りをうける。

 

 

 

『失われたメシアの神殿『ピラミッド』の謎』

飛鳥昭雄、三神たける   学研  2010/1/1

 

 

 

<秘密組織フリーメーソン

・預言者の組織を「フリーメーソン」という。今日、世に知られる秘密結社としてのフリーメーソンは近代フリーメーソンである。1717年にイギリスで結成されたグランドロッジから派生した組織である。

 

預言者の秘密組織としてのフリーメーソンが、実はこの地球上に存在する。主に密儀宗教の祭司の組織という形で継承されており、それをたどっていくと必ずノアに行きつく。もちろん、ノアの先もあり、エノクを経て最後はアダムに遡る。人類最古のフリーメーソンとは、「アダムメーソン」である。エノクもまたアダムメーソンだ。

 

・すなわち、ノアの3人の息子が独自のフリーメーソンを形成したのである。

 

<地底王国シャンバラ><チベット密教とカッバーラ>

・シャンバラは、チベット密教において語られる世界である。一般の仏教では語られることのない思想である。仏教には表と裏がある。表が顕教であり、裏が密教である。

 

・最終経典にシャンバラが説かれているように、シャンバラの存在を最初に説いたのは仏教の開祖、釈迦なのだ。釈迦は自ら、北の果てにシャンバラへの入口があると説いた。なぜ釈迦はシャンバラの存在を知っていたのか。

 

<釈迦はセムメーソンだった!>

・釈迦がカッバーリストであり、預言者であったことは間違いない。神を信じ、神とまみえ、そして、神の言葉を授かったフリーメーソンだったはずである。

 注意してほしいのは、ヤフェトメーソンではなく、セムメーソンだという点にある。バラモン教アーリア人の宗教であり、それを担ったのは、ヤフェトメーソンだが、釈迦はセムメーソンだった。

 

モンゴロイドはアーリア系ではない。有色アジア系であり、ユダヤ人やアラブ人、そしてトルコ人と同じセム系なのである。したがって、釈迦がカッバーリストならば、民族的にセムメーソンだったと考えられるのだ。

 しかも、それだけではない。釈迦はシャンバラの住民と同じ血を引いていた可能性がある。鍵となるのは、釈迦族=サカ族を生み出したスキタイにある。

 

<釈迦は失われたイスラエル10支族だった>

<地球内天体アルザルとは、まさにシャンバラのことなのだ>

・では、シャンバラはどういう形で存在するのか、これを現行科学で理解するには少しむずかしい。まだ、一般に認められていない現象を前提とするからだ。その未知なる現象は、プラズマ・トンネルである。

 

・プラズマ・トンネルは地球内部に通じており、そこには巨大な亜空間が形成されているのである。まさに、この亜空間の中心に、実は地球よりもひと回り小さい天体が浮かんでいるのである。

 

・アメリカ軍は50年以上も前に、この地球内天体の存在に気がつき『旧約聖書』の外典にちなんで、コードネーム「アルザル」と名づけている。コードネームでわかるように、失われたイスラエル10支族が北極圏から入り込んだ世界こそ、この地球内天体アルザルなのである。

 

・日本人の中には古代イスラエルの血が流れている。そういっても、多くの人は、すぐに信じることができないであろう。