日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

さらに驚天動地の新事実が明らかになる。その事実とは、「日本義勇軍」はマッカーサーと中国国民党の密約によって生まれたというものだ。(1)

 

大本営参謀は戦後何と戦ったのか』

1945年帝国軍人たちは新たな戦いを開始した。

有馬哲夫   新潮社   2010/12/17

 

 

 

<宇垣機関>

ゆえに宇垣は、同じく日米開戦に反対し、戦時中は和平工作に動いていた吉田と共にGHQの覚えがめでたかった。

 このこともあって、GHQは終戦まもなく宇垣と取引をした。宇垣が、宇垣派の将軍(その多くは大本営参謀本部の幹部だった)に、アメリカの占領に協力するように説得する代わり、GHQは宇垣派の将軍たちの戦争犯罪を免じ、彼らの秘密工作とインテリジェンス工作の一部も黙認するというものだった。

『真相』なども宇垣の戦後の蠢動について記事を書いているが、さすがに、そこまでは知らなかったのか、あるいは知っていても占領中のことなので検閲されていたのか、GHQと宇垣の密約のことについてはまったく触れていない。

宇垣機関」が戦後の諸機関のなかで最大の勢力になったのは、そして同じく取引によってG・2のなかに引き込まれた戦後の「軍閥」がこの機関と関係するのは、このような背景によるものだった。

 

<「地下政府」と「日本義勇軍」>

戦後の「軍閥」と「宇垣機関」など「地下政府」傘下の機関の一部は、「日本義勇軍」と呼ばれる旧日本軍の軍人たちによる対中国共産党軍事行動とも関わっていた。

「日本義勇軍」(台湾に派遣されたので日本側では「台湾義勇軍」とも呼ぶ)とは、中国国民党中国共産党に追い詰められ、中国大陸から駆逐されようとしていたとき、反攻を試みるために旧日本軍の幹部をリクルートして編成した「義勇軍」全体を指す。

 中国国民党は、彼らが「留用」していた旧日本軍の将兵ばかりか、すでに日本に帰国を果たしていた旧軍人や特務機関までもこの工作に駆り出した。

 最近、ノンフィクション作家の門田隆将が『この命、義に捧ぐ』で描いた根本博・元陸軍中将は、まさしくこの「日本義勇軍」の先駆けだった

 

・根本の一団は、49年6月26日、着の身着のままで、わずか60トンの船に乗り、2週間にわたるさまざまな困難ののち台湾の基隆港に着いた。だが、根本に声をかけた中国国民党の閻錫山(えんしゃくざん)将軍が失脚するなど、いろいろ齟齬をきたしていたため、到着後彼らは冷遇された。

 実は、中国国民党はこれに先立って、これとはまた別の「日本義勇軍」も動員しようとしていた。こちらのほうは、元支那派遣軍総司令官岡村寧次大将を総指揮官に擬した大規模かつ本格的なもので、「日本義勇軍」と呼ぶにふさわしいものだった。

 

・規模についていえば、当時この「日本義勇軍」のことを数回にわたって書きたてていた『真相』の50年10月15日の記事によれば、募兵の目標は10万人から20万人ほどだったという。ただし、この数字は誇張の感が否めない。

 いずれにせよ、彼らが日本各地に支部を作って本格的に募兵活動に入ったのは、CIA文書に従うと、49年の9月になってからだった。

 

根本はその前の10月26日に前日から始まっていた金門島の戦いで歴史的大勝利をあげていた。その後、台湾の富田と根本のもとには、募兵に応じた元軍人や「宇垣機関」の関係者が馳せ参じた。結局大陸反攻はならなかったが、富田らはその後20年以上にわたって「白団(パイダン)」と呼ばれる中国国民党の軍事顧問団を務めた。これは富田の中国名、白鴻亮の「白」をとったものだ。

 ちなみに、岡村は31年にクーデターによって宇垣を首班とする政権を打ち立てようとした3月事件に関わっていた。つまり、彼もまた「軍閥」や「地下政府」傘下の機関と同じように宇垣の信奉者だったのだ。

 

・後で詳しく述べるが、そもそも「日本義勇軍」を考え出した人間のうちの一人は、GHQ最高司令官マッカーサー自身だったのだ。

 軍閥」と「地下政府」傘下の機関がこうして得た資金と利益は、日本再建運動の活動費や、貧困にあえぐ彼らの仲間や部下やその家族の生活費に消えていった。

 占領中にしばしば世間を騒がせた密輸にからむ怪事件の多くは、このような「日本義勇軍」とそれに連なる「軍閥」と「地下政府」傘下の機関が関係していた。

 この他に彼らが関わった事件は、吉田暗殺・クーデター事件だ。52年の夏に服部卓四郎と辻政信らは、吉田暗殺・クーデターをひそかに計画し、当時首相だった吉田茂の心胆を寒からしめたが、これには日本全国で約50万人の元軍人が呼応する予定だったとCIA文書は記している。

 

なぜ軍閥の一部は戦後も温存されたのか

・彼らが戦争犯罪容疑に問われなかったのは、彼らが戦場で実際に指揮を執るというよりは(辻は除く)、作戦の立案に当たっていたこともあるが、アメリカ的功利主義によるものだったと考えれば理解しやすい。

 アメリカという国は、捜査や裁判でもよく取引が行われる。

 

・岡村の場合も、彼に「日本義勇軍」を指揮させるために、戦後彼を戦争犯罪者として拘束していた中国国民党に対し、早期の無罪放免と日本への送還を要求している。結局岡村がこの「義勇軍」を指揮することはなかったが、兵員そのものは台湾に送られた。

 アメリカはナチス・ドイツのラインハルト・ゲーレンらに対しても同じことを行っている。ソ連と戦ったゲーレンたちの戦争犯罪を免責するかわり、アメリカの対ソ連インテリジェンスに協力させたのだ。CIAファイルには戦後の「軍閥」についての膨大な文書が残っているが、ゲーレン機関関係者に関する文書はさらにその数十倍にのぼる。

 

武装解除と治安維持にあたった「軍閥

・「軍閥」に話を戻すと、GHQは占領初期において彼らと「地下政府」の協力が絶対必要だった。それなしには、日本の「民主化」という大改造に取り組むことはできなかったからだ。ここは現代の日本人にはわかりにくい点かもしれない。民主化」とは要するにそれまでの日本の支配層、軍閥、政治家、財閥を投獄、追放し、それまで弾圧されていた共産主義者労働組合を支援し、小作農や女性を開放することだった。しかし、そのために、前段階として、まず日本軍を武装解除し、武力衝突や暴動がおこらないよう、治安を保たなければならなかった。終戦時の日本の人口は、およそ8000万人でそのうち約789万人がそれまで日本軍に所属していた。

 その内訳は国内に441万人、国外(終戦ポツダム宣言によって定められた日本の領土に対しての国外)に約348万人だった。

 

そのためGHQは、占領当初から、「軍閥」と「地下政府」傘下の機関の一部を旧日本軍の武装解除、復員、治安維持、対敵インテリジェンスに最大限に活用することを計画していた。そして、実際に、占領を初めてみて、それが正しかったことを確認した。

 特に河辺機関、有末機関、それらとG・2やCICが合同した機関は、この治安維持と対敵インテリジェンスのなかでも非公然活動の部分を担当した。彼らが力を持ちえたのは、GHQの後ろ盾を得ていたというほかに、「地下政府」傘下の機関と関係があって、ある程度までそれらの組織と人員に影響力を行使できたからだ

 

「逆コース」と「軍閥

・占領初期が終わり、47年頃から冷戦が顕然化すると、このような武装解除と治安維持と「民主化」よりも、次なる敵であるソ連、そして共産党が勝利した中国と対峙していくため、日本を「反共の防波堤」にすることが重要になってきた。現実の戦争の脅威を前にして、「民主化」の理想や大義にこだわっていられなくなったとみえる。

 とりわけ、「逆コース」のあとは、軍閥打倒、戦争指導者追放、財閥解体、左翼勢力の容認などの「民主化」は棚上げされ、「経済復興優先」の掛け声のもと、「軍閥」の再軍備への利用、公職追放の解除、財閥再生、左翼勢力の弾圧など「反共の防波堤化」に力点が移るようになった。

 このため、河辺、有末に加えて、辰巳、服部、辻も活用しなければならなくなった。彼らは大本営で高い地位にあった将校であると同時に対ソ連戦のインテリジェンスや作戦のエキスパートだったからだ。

 

・「逆コース」の頃になると、復員軍人のチェックと治安維持に重点を置いていた河辺機関は、同じく治安維持を行っていたCICなどG・2傘下の組織と合同し、かつインテリジェンス機関としての機能を強化してKATO機関(河辺、有末、田中隆吉、及川機関のほかに児玉、辰巳、岩畔機関など日本側の機関とG・2傘下の組織との合同機関)となった。実は、このKATO機関のメンバーは対共産圏インテリジェンスと国防計画立案を行っていた特殊インテリジェンス班にも所属して深く関わっていた。

 

KATO機関は、秘密裏に根本や岡村の「日本義勇軍」の活動にも関わっていた。活動そのものが、インテリジェンス工作にもなっていたからだ。

 こうしてG・2は、「逆コース」以降、「軍閥」を武装解除と治安維持というより、対共産圏インテリジェンスと国防計画立案に重点的に使うようになった。これによって彼らは警察予備隊に始まる日本の再軍備のなかでえ一定の役割を演じることになる。

 

マッカーサーの「義勇軍」を率いた男――有末精三ファイル

<有末とウィロビー>

有末精三は日本側ではきわめて評判が悪い。彼は終戦後に第一復員省とGHQとの連絡・調整にあたったが、日本人のほうには感謝されていなかった。アメリカ側、特にウィロビーと親密になり過ぎたからだ。その証拠に、とくに外務省関係者からの圧力で、有末機関(この場合は終戦後復員関連業務をしたもので、あとででてくるものとはまったく違う)は46年に廃止され、その業務は新しい機関に引き継がれた。

 ウィロビーによる有末への寵愛ぶりは度を越していたようだ。有末の手記『有末機関長の手記』によれば、ほかの旧軍人や官僚たちが列を作って待っているのに、ウィロビーは有末の姿を見ると、順番を無視して部屋に引き入れたという。会議や相談にしても、ウィロビーはまず有末の話を聞き、ほかの人間の話すことにはあまり耳を貸さなかったといわれる。なぜこれほどウィロビーが有末を気に入ったのか。理由の一つは、有末がイタリア語の達人で、ベニート・ムソリーニを直接知っていたからだ。ウィロビーは英語のほかにドイツ語とスペイン語とフランス語を話した。スペイン語とイタリア語は、他の言語と較べれば近い。そして、ウィロビーは熱狂的なファシスト崇拝者だった。特にスペインのフランコ将軍を崇拝していたが、ムッソリーニにも憧れていた。

 

第一復員省から河辺機関へ>

・「明日からは米軍の顧問として働いてくれ。またよく復員省を援助してやってくれたまえ」と言葉少なに言い残して、元の席に立ちもどった。

「この案には賛成であるが、これから旧日本陸軍に対する最高政策については、ジェネラル有末オンリイと話す」と明快に決裁された。

 

つまり、有末を第一復員省から外すことには賛成するが、これから旧日本陸軍についてウィロビーと話すときは、必ず有末を通せということだ。大変な引き立てようだ。

 

・いわゆるKATO機関がG・2と共同でTAKEMATSU工作をすることになったときも、これを旧軍人に仲介したのは有末だった可能性が高い。そして、このように彼がウィロビーとのあいだにもつ強力なコネが、いろいろ嫌われながらも、有末が「川辺機関」と「地下政府」傘下の機関に強い影響力を持った理由だった。

 

・能弁であけすけな有末は、手記のなかで、復員省を辞める前のことを実によく語っている。ところが、そのあとのことに関しては、GHQの歴史課に勤務したこと以外は、まったく口をつぐんでいる。しかし、CIA文書を読むと、46年に第一復員省を辞めたあと、有末が関わったのはGHQの歴史課だけではなかった。彼は河辺や辰巳と共に、ウィロビーがG・2に設けた特殊インテリジェンス班のメンバーになっていた。

 ウィロビーの目当ては、有末がもともと持っていた旧日本陸軍幹部とのコネクションと対ソ連、対中国共産軍のインテリジェンスと第一復員省のときに蓄えた復員兵(とくにソ連、中国、朝鮮半島からの)に関する情報だった。

 そして、このころから第一復員省時代とは別の有末機関を作った。特殊インテリジェンス班関連の情報収集とそのために使う日本人工作員リクルートを行う機関である。

 

<壮大なスケールの有末工作>

それに、ウィロビーの寵児有末は、旧陸軍得意の下克上をやっていた。つまり、河辺機関と合同し、これがG・2と合同してKATO機関となると、有末は河辺をさしおいて、河辺・KATO機関全体を牛耳り始めた。そして、豊かな資金力と規模の大きさを生かして、他の機関もその傘下に入れ始めた。

 そのうえで、「地下政府」のインテリジェンス機関として、48年ころから「日本義勇軍」派遣を皮切りに、朝鮮半島インドシナ満州に数千人の工作員を送る秘密工作を実行に移した。

 

特に「日本義勇軍」が飛行機のパイロットまで送っていたことには驚く。他にも船の船長や通信員などもいた。小規模ながら陸海空すべてそろった軍隊だったのだ。

 また、この表によると、「日本義勇軍」はKATO機関のTAKE工作の中心ではあるが、その一部に過ぎなかったことがわかる。この「日本義勇軍」の台湾への「派兵」を足がかりに、広くインドシナ、朝鮮、満州ソ連(サハリン)へもインテリジェンス工作を行っていたのだ。

 

「日本義勇軍」はマッカーサーが計画した

・ところで、なぜ有末が「日本義勇軍」のトップになることになったのだろうか。

 CIA文書とは別に筆者がアメリカ国立第2公文書館から発掘したCIS(民間諜報局)の「インテリジェンス・レポート」は、有末が「日本義勇軍」を率いることになった経緯をつまびらかにしている。

 しかも、この文書と他のCIA文書を付き合わせるならば、さらに驚天動地の新事実が明らかになる。その事実とは、「日本義勇軍」はマッカーサー中国国民党の密約によって生まれたというものだ。

 

・この突然の送還を中国国民党と敵対する中国共産党は次のようにラジオで伝え、プロパガンダに使ったという。

「岡村は中国派遣軍全体の総司令官として無数の戦争犯罪に加担している。その岡村を中国国民党マッカーサーに引き渡したのは、中国人民に対する犯罪行為だ。しかも、マッカーサーは、その岡村に指揮を取らせて、アメリカ軍の飛行機で台湾から旧日本軍将兵を中国大陸に空輸し、現地に残留する日本兵(およそ5万人いたとされる)と合流させ、中国共産党軍と戦わせようとしている

 プロパガンダには歪曲や誇張がつきものだが、この場合は中国国民党から中国共産党に情報が遺漏していたと見えて、事実そのものが暴露されている。

 

・「法的根拠はなにもない。マッカーサーが決めたことだ。今は平時ではないから異常なこともあるのだ

 つまり、超法規的要求をしたのはマッカーサーだったということだ。マッカーサーが岡村を欲しがったのはなんのためかというと、プロパガンダが暴露したように、中国共産党に対する反攻の狼煙をあげるためだ。

 

<岡村から有末に引き継がれた経緯>

・49年4月20日、杭州にある中国国民党の最高諮問会議が日本人パイロットを台湾に送ることを決めた。そして、この決定が4月23日、上海から東京の中国国民党代表部に伝えられた。この工作に岡村寧次大将と辻と児玉が使われることになった。

 

日本人パイロットを台湾に送ろうとしたのは、彼らに輸送機を操縦させて中国本土に「日本義勇軍」などを送り込むためだと考えていいだろう。

 岡村に先立って、辻も児玉も自由の身となっている。辻は48年の春に中国国民党の国防部から「放免」され、児玉も同年12月24日に巣鴨プリズンから釈放された。いずれもマッカーサーが考え、中国国民党が合意した「日本義勇軍」を実行に移すためだったとみられる。

 

<「日本義勇軍」と密輸事件>

最終的に、「日本義勇軍」は有末機関が担当することになったので、CIA報告書にも49年になって、有末機関の傘下に児玉機関や里見機関が入ってきたと記している。

「日本義勇軍」始動のために日本に送り込まれた辻は、もともと戦前の中国で児玉や里見甫と関係があったので、これは自然なことだろう。ちなみに児玉は、辻が日本で潜伏していたとき自宅にかくまっていた。

 実際、児玉が活発に「募兵活動」を行っているという報告が同年の9月にはCICにあがってくる。

 

・この意味で、かなり拡大したこの段階の河辺・KATO機関における有末機関は、参加していた旧軍人たちには、KATO機関というより、日本側「機関」の連合体としての「宇垣機関」として意識されていたといえる。

 有末はこの50年ころの拡大期に絶頂を迎えていた。

 

・資金も豊富に入ってきた。「日本義勇軍」の派遣によって、中国国民党から資金が得られた(『真相』の記事にはしきりに1000万ドルとか400万ドルという金額がでてくる)からだ。往路で日本人の傭兵を満載した船に、復路ではさまざまな物質を積み込み、それを日本で売り払って巨利を得ることができた。

 このような工作に使われた船の一つが海烈号だった

 49年8月17日、香港船籍の商船海烈号が、川崎市日本鋼管埠頭にペニシリンストレプトマイシンサッカリンなど時価5億円にのぼる物資を陸揚げしていたところ、これが密輸だったということがわかり、GHQのCID(民間諜報課)が摘発した。

 

それもそのはずで、これには「地下政府」だけでなく中国国民党政府やマッカーサーまで関与していたのだ。

 この事件を報道した、当時毎日新聞記者の大森実は、「対日理事会の代表、朱世明中将の逆鱗に触れ、プレス・コード違反で危うく逮捕されそうになった」と『戦後秘史7』に書いている。前に述べた岡村送還の事情などを考えれば、むべなるかなと思える。GHQと中国国民党政府代表も力を合わせてもみ消しを計ったということだ。

 

 

 

『逆説の軍事論』   平和を支える論理

陸上幕僚長  富澤暉   バジリコ  2015/6/19

    

 

 

<敵地攻撃の難しさ>

・敵地を攻撃するといっても、軍事的な観点から考えると、これは至難の業です。アメリカですら、目標情報が掴めないと嘆いている現状で、日本がどのように独自に目標情報を得るのか。北朝鮮を24時間監視するためには、どれだけの偵察衛星が必要なのか。

 

さらに攻撃兵器の問題もあります。日本が核兵器保有していれば、敵ミサイル陣地にでも、あるいは平壌のような都市でも効果的な攻撃ができるでしょうが、核はないのだから、攻撃のためには空爆であろうとトマホークのような巡航ミサイルであろうと天文学的な弾量を整備する必要があります。そのための予算をどこまで投入するのでしょうか。しかも、その効果は未知数です。

 

・ここで、従来型の「個別的安全保障」ではなく、「集団(的)安全保障」の枠組みの中で対応を考えることが重要になってくるのです。複雑な民族感情を越えて協力していくためにも、国連軍または多国籍軍という枠組みを活用することが重要になるわけです。

 

<日本の核武装

政治家の中には、北朝鮮の核実験に対抗して、日本も核武装の議論をすべきだという人がいます。

 

・重要なのは、ただ核兵器の議論をすることではなく、関連するすべての政治・軍事問題を広く、かつ、もれなく検討し、核を持った場合、あるいは持たない場合の外交の在り方や在来兵器による防衛力整備の在り方を議論することなのです。

 

政治的にいえば、核武装論の裏側には、「中国の軍備増強への対応」や「アメリカに対する日本の自主性確立」という問題が潜んでいます

 

・一連のシナリオを想定し、それぞれについてシュミュレーションし、備えておく必要があります。

 

<戦車の再評価>

・日本でも、このテロ・ゲリラ対策のため歩兵を増やす必要があるのですが、人件費が高く隊員募集に苦しむ陸上自衛隊の兵員数を増やすことは困難だといわれています。だとすれば、各地方に防災・消防を兼ね情報・警備を担当するかつての「消防団」のような「郷土防衛隊」が必要となりますが、これを組織するのは防衛省自衛隊の仕事ではなく、総務省と各自治体の役割でしょう。

 ともあれ、防衛省自衛隊としては歩兵の戦いを少しでも効率的にするための砲兵・戦車の数を確保する必要があろうかと思われます。

 

・現在、日本へのテロ・ゲリラ攻撃はありません。しかし、仮に朝鮮半島で動乱が起きた場合、日本全国でテロ・ゲリラ攻撃が多発する恐れは十分に考えられます。

 

<その破壊が直接国民生活を脅かす無数の脆弱施設が全国に存在>

・難民を担当するのは入国管理局でしょうが、何万、何十万になるかもしれない難民を日本はどう受け入れるつもりなのでしょうか。まさか、戦時の朝鮮半島に送り返すわけにはいかないでしょう。この人々への対応が悪ければ、混乱も起きるでしょう。収容施設、給食など生活環境の支援、さらには治安維持のために警察、自衛隊は何ができるのか。そうした有事への準備が既にできているとは寡聞にして聞きません。

 

・さらにいえば、こうした事態は全国で分散同時発生するので、とても現在の陸上自衛隊の歩兵では数が足りません。実は、そのわずかな歩兵を支援する兵器として戦車ほど有効な兵器はないのです。

 

<軍事というパラドックス

・さて、軍事とは人間社会固有の概念です。したがって、軍事について考える際には、私たち人間の本質をまずは押さえておかなければなりません。すなわち、「闘争本能」と「闘争回避本能」という人間固有の矛盾した特性です。

 

一部の例外を除き、人は誰しも死にたくない、殺したくないと思っているはずです。にも関わらず、有史以来人間は日々、せっせと殺し合いをしてきたという現実があります。

 19世紀ロシアの文豪トルストイの代表作に『戦争と平和』という大長編小説がありますが、人類の歴史はまさしく戦争と平和の繰り返しだったといえましょう。どうした天の配剤か、人間はほとんど本能のように闘争を繰り返す一方で、争いを回避し平和な生活を維持するための方法を模索してもきました。

 人は一般に他者からの支配、干渉を好まず、誰しも独立(自立)して自由に生きたいと考えているはずですが、自由とは欲望(利害)と切り離せない概念でもあります。

 そして、そうした人間同士が集まり集団(社会)を形成すると必ず争いが起こり、往々にして生命のやりとりにまで至ることになります。それは、民族や国家といった特定の集団内でもそうだし、集団と集団の間においてもしかりです。

 ただ、人間は他の動物と峻別される高度な知恵を有しています。そして、その地位を使い、自分たちが構成する社会の中に法律、ルール、道徳などによって一定の秩序を設計し、争いを回避する工夫をしてきました。

 

・要するに、21世紀の現在においても、「世界の秩序」と「個々の国家の自由・独立」の関係は、「国家」と「個人」の関係よりはるかに未成熟であり、極めて不安定な状態にあるという他ありません。

 軍事について考えるとき、私たちは好むと好まざるとに関わらず、こうした世界に生きているということを認識することから始めるべきでしょう。

 

・ところで、国内の秩序を維持するための「力」を付与されている組織は一般に警察ですが、国際秩序を維持するための「力」とは100年前までほぼ軍事力のことでした。

 現代世界では、経済力、文化力、あるいはそれらを含めた「渉外機能としての外交力」の比重が高まり、脚光も浴びています。しかし、だからといって軍事力の重要性が低下したわけではありません。

 軍事の在り方は戦前と戦後では異なるし、戦後も米ソ冷戦時代とソ連崩壊後、アメリカにおける9・11同時多発テロ後ではかなり変化しています。ある意味で、世界秩序における軍事の重要度は、以前よりもむしろ高まっているといえます。

 

<「世界中から軍事力を排除すれば平和になるのだ」という単純な論理>

・ひとつ、例をあげてみましょう。つい20年ほど前、ルワンダで10万人以上の人々が鉈や棍棒で殺戮されるという悲惨な民族紛争が起きました。私たちは、この事実をどう理解すればよいのでしょうか。

 

・現実には軍事力こそ戦争の抑止に大きな役割を果たしているというのが私たち人間の世界の実相です。

 

・周知の通り、20世紀は「戦争の世紀」といわれています。世界の人口が25億~30億人であった20世紀前半、2度の世界大戦における死者数は5000万人~6000万人にのぼりました。一方、20世紀後半の戦争、すなわち朝鮮戦争ベトナム戦争をはじめとする「代理・限定・局地戦」と呼ばれる戦争での死者数は3000万人以下とされています。また、その間に世界の人口が60億~70億人に増加したことを考え合わせると、20世紀の前半より後半の方が、はるかに平和になった、ともいえます。

 

・米ソ2極時代、互いが消滅するような核戦争を起こすことは、現実には不可能でした。また、核兵器保有しない国同士による戦争が世界戦争に発展しないよう、米ソ2大軍事大国が、通常兵器の威力をもって抑え込んだことも一定の抑止となりました。

 まことに皮肉なことながら、大量破壊兵器である核兵器の存在が20世紀後半の世界に相対的平和をもたらした要因であることは事実なのです。

 

<いずれにせよ、歴史が教える通り、最も危険なことは無知であることなのです>

・その間、日本政府が宣言した非核三原則にも関わらず、核兵器が持ち込まれていたことも、アメリカの外交文書が公開されたことから明らかになっています。

 以上のような事実から導かれるのは「憲法第9条により軍隊を保有しなかったために日本は平和を享受できた」という説がフィクションだということです。

 

・以上述べてきたことからわかるように、人間の世界において軍事とは平和と不即不離の壮大なパラドックスということができるのではないでしょうか。

 

<軍隊とは、武力の行使と準備により、任務を達成する国家の組織である>

・現実に武力を行使するかどうかではなく、悲惨な歴史的教訓がその背景にあるわけです。現実に武力を行使するかどうかではなく、武力を行使する準備があると相手に理解させることが大切だと考えているのです。

 

<安全保障を成立させる4つの方法>

・脅威に対して価値を守る手段として次にあげるような4つの方法があるように思えます。

 失って困るような価値は最初から持たない

 脅威(敵)をなくす。または敵の力、意志を弱める

 被害を被っても、その被害を最小限に食い止め、回復するための準備をしておく

 脅威(敵)をつくらない。あるいは敵を味方にする

 

・以上、4つの手段を紹介しましたが、これらを見ても、安全保障の設計には外交と軍事両面が重要だとおわかりいただけるはずです。軍事なくして安全保障は成立しませんし、軍事だけでも安全は確保できません。安全保障においては、軍事と外交が両輪となって機能していくということをここでは理解してください。

 

<情報>

なぜいま「情報」なのか

大東亜戦争時の帝国陸海軍は「情報」を軽視しそれ故に敗れた、ということがよくいわれます。私もその意見に同意します。確かに、作戦畑しか経験しなかった元帝国陸軍将校の一部に、自衛隊員になってからも「あの情報屋たちの書く情報見積もりなど、30分もあれば俺がひとりで書いてみせる」と言う勇ましい人がいたことは事実です。ですが、このような情報軽視の根本的原因は、このような作戦将校たちにあったのではなく、情報将校をも含む陸海軍全体に、さらにはその背景をなす日本国民全体の中にこそあった、と知らなければなりません。

 

・民主主義世界ではすべての情報を互いに公開すべきだという意見がありますが、「闘いの世界」では秘密保全は極めて重要なことです。それは民主主義世界においても皆さんの個人情報が保全される必要があるということと実は同義なのです。

 正しく説得力のある情報は、作戦担当者の決断を促し、時にはその決断を強要するものでなければなりません。情報は学問の世界における「知識ならぬ知(智)」です。日本では「水と情報は無料」だという誤解がありますが、これらは本来極めて価値ある(高価な)ものであると認識する必要があります。自衛隊が、そして国中が情報の価値を認識した時、情報軽視(蔑視)という悪弊は消え去り、国民もより強靭になることでしょう。

 

機械的情報と人間情報

・そして、最も上質の人間情報とは、相手の意図を戦わずして我が意図に同化させることなのです。その意味では今、政治的にも「首脳外交」が、そして軍事的には「防衛交流」が、ますます重要になってきているといえるでしょう。

 

<「三戦」時代の情報>

・既に述べたことですが、中国は「今や三戦(心理戦、広報宣伝戦、法律戦)の時代である」と自ら宣言してその「戦い」を推進しています。彼らは、その三戦の背景を為すものとして軍事力を極めて有効に使用します。

 我が国の安全保障分野に従事する者は、その中国の三戦の背景にある軍事力がどのようなものであるかを見抜く情報能力を持たなければなりません。

 

・逆に、自衛隊の軍事力が日本の三戦の背景の一部としてどれだけ効果的なものであるか、それを増強するにはどうすべきか、について国家安全保障局、外務省、財務省に進言しなければなりません。

 すなわち、現代の軍事情報そのものが三戦(心理戦、広報宣伝戦、法律戦)を含んだ戦略分野に移行しつつあるということなのです。

 

<作戦>

<戦略と戦術>

軍事における作戦は、将校(幹部自衛官)の本業(主特技)だといわれています。しかし、情報を軽視した作戦はあり得ないし、後述する教育・訓練や兵站を無視した作戦もあり得ません

 

・アメリカの存在感の相対的低下、中国の経済力・軍事力の爆発的拡大と覇権的野望、北朝鮮の核保有、韓国の国家レベルでの反日キャンペーン。冷戦後、ほぼ同時期に起こったこうした変化は、当然のことながら日本の安全保障に大きな影響を及ぼさざるを得ません。

 加えて、戦後長らく続いた日本の経済中心戦略は綻びを顕にします。バブル崩はじめとする壊を経て、肝心の経済力の凋落は覆うべくもありません。経済紙誌をはじめとするメディアが日本の状況を「第二の敗戦」と表現してから久しく時が流れました。

 

いずれにせよ、戦略とは自衛官(軍人)の問題ではなく、政治家、そしてその政治家を選ぶ国民1人ひとりの問題であるということをここでは指摘しておきます。

 

<戦術における基本原則>

・「専守防衛」という言葉は、かつての自衛隊では「戦略守勢」といっていたのですが、1970年頃に中曽根防衛庁長官がつくった『日本の防衛』において「専守防衛」に換えられました。もっとも、この「専守防衛」という言葉をはじめに発明した人は中曽根長官ではなく、意外にも航空自衛隊幹部(一空佐)であったという話です。

 国策を変えるということは戦略を変えるということなので、現職自衛官からは言い出しにくい問題です。しかし、私ども自衛官OBは、「攻撃は一切しない」と誤解されやすく、自衛官という専門家の手足を必要以上に縛りかねないこの「専守防衛」を「専守守勢」という本来の言葉に戻してほしい、と考えています。

 

<日本の戦略>

・日本の戦略は、外交・経済・文化・軍事等の専門家の意見を聞いて、国民の代表たる政治家が決定すべきものです。その意味で、2013年の秋に新組織・国家安全保障会議によって、日本初の「国家安全保障戦略」ができたことは、評価されてもよいと私は考えています。

 

・確かに、現代の日本の脅威は「大量破壊兵器の拡大」と「国際テロ・ゲリラ」なのです。

 

<PKO等海外勤務の増加>

・「後方部隊は後方にいるので安全である」というのは正に神話です。後方兵站部隊は防御力が弱いので、敵方からすれば格好の攻撃目標となります。また後方兵站部隊が叩かれれば戦闘部隊の士気は下がり、戦闘力も確実に落ちます。

 

<装備>

<オールラウンドな装備体系を>

・これらの兵器(装備)は、互いにそれを使わないようにするために存在するのですが、どんな兵器がどこで、いつどのようにつかわれるかは不明です。数量の問題については別途検討する必要がありますが、装備の質はオールラウンド、すべて整えておくというのが正道なのです。

 なお、核兵器による抑止という面についていえば、現実に保有しなくても保有できる能力を持ち続けるということで日本は対応すべきだと私は考えます。