UFOアガルタのシャンバラ 日本は津波による大きな被害をうけるだろう

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「沼田さん、あなたのシッチオ(土地)には狐がいる。私はその狐にだまされた」「ブラジルにも狐がいるとは知らなかった」と、狐、狐、狐と連発で、なかなか恐怖から抜けられないようすであった。(1)

 

『ブラジル百年にみる日本人の力』

丸山康則   モラロジー研究所   2008/6/1

 

 

 

<沼田信一さん バンデイランティス農場経営者、パラナ州日伯文化連合会顧問>

<ブラジルに命を願って>

・沼田信一さんは、1918年(大正7年)、北海道の札幌に生まれました。家業はお菓子屋さんでした。沼田さんは幼いころから病気がちで、両親は医師から「この子はとても兵隊検査(18歳)までは生きられないよ」と言われていたそうです。

 両親は大決心をしました。ブラジルへ行こう。暖かいブラジルでなら、信一も生きることができるのではないか。それを大きな望みに、沼田さん一家はブラジルへ渡ることになりました。北海道から神戸へ、そしてアリゾナ丸で2か月余の船旅の後、ブラジルのサントス港に上陸しました。

1933年、信一少年は15歳でした。

 今年2008年、信一さんは90歳です。ご両親の願いは見事に実現できたと言ってよいでしょう。ブラジルは夢を可能にした幸福の大地だったのです。しかし、そこにはさまざまな苦難がありました。また運命の分かれ道での幸運な選択がありました。

 

<百キロのジャングル横断>

・2003年は、移民95周年にあたっていました。今日までに開拓には実に多くの人が貢献してきました。感謝の祈りと長く祈念する願いを込めて、開拓神社を作ろうという声が上がり、沼田さんは推進の中心役を担うことになりました。

 

・祀られたのは、移民以前にブラジルに来ていた4人の日本人、移民実現に貢献してきたブラジルと日本の外交家たち、開拓草創期に苦労した先人たちなど、20柱の神様です。

 

<『信ちゃんの昔話』>

・これまでの開拓の体験を、沼田さんは『信ちゃんの昔話』という10冊の本に綴っています。沼田さんは実に筆が立ちます。りっぱな著述家です。『信ちゃんの昔話』第1部は、78歳のときに書き始められ、毎年2部ずつのペースで、10部が完成したのは2002年、82歳のときです。

 

<「狐にだまされた話」>

この話は私の体験ではないが、なかなか実感がこもっていて面白く、いつまでたっても忘れられない

 話は入植の翌年(1935年)ごろのことで、私の家は中央区のコアッチーの川辺りに初めて小屋を建てて移ったばかりのころのある日の日の出前のこと、私たち兄弟がぼつぼつと起き出してくるという時刻であった。

 母が早起きして、トマカフェー(朝食)の用意をしていたとき、「おはよう、おはよう、ここはどなたの家ですか」と、大声で叫ぶように挨拶する男性の声で、まず母が「はい、おはようございます」と返事をして出る。私は家の横で顔を洗っていたのだがあまり早い時刻と只事でない声に驚いた。

 入り口のほうへ回ってみると、私たちの後に川向うに移ってきたK氏が、晴れ着でいるのだが、その着物がくしゃくしゃのうえ泥だらけである。どうしたのかとびっくりしていると、K氏が恐怖のために身ぶるいをしながら母に向かって、「ああ、やっぱりここは沼田さんの家でしたか。お宅の畠には狐がいる………」と、話しました。そのときには父も出てきて、父母はまずトマカフェーに誘いメーザ(テーブル)についたのである。そこでK氏の話は続く。

 

・昨日、3組の某氏のカザメント(結婚式)に招待されたので、約5キロの道を出かけて行った。氏は3組に契約農に入る契約ができていたそうである。

 当時のことであるからビンガ(焼チュウ)での宴会で、それでも一人で夜道を帰るので注意をしていて余計には飲まず、12時前に失礼して帰ってきたという。1組と2組の道路をそれなりに帰ると大変に遠回りになるので、私の家と石田氏のジビーザ(境界)を近道することにしておりて来たというのである。そうすると2キロは近道である。しかし当時のジビーザは、私たちも仕事にそこを通るのであるが、まだカリアドール(作道)としてあけたものではなく、細い木をまたぎ、大木は回ってという状態であった。それでも畠とは違って歩きやすかった。K氏の話は続く。

 そこで4百メートルほど来たところが、である。「沼田さん、あなたのシッチオ(土地)には狐がいる。私はその狐にだまされた」「ブラジルにも狐がいるとは知らなかった」と、狐、狐、狐と連発で、なかなか恐怖から抜けられないようすであったが、とにかく、私たちよく知っている者の家に入っているので、次第に落ち着いてきて話すには、ジビーザに入って4、5百メートルほど来たところが、思いがけない一軒の家があった。それで、こんな所に家のあるはずがない、と再三思い返しながらも現実に家があるのでしかたがない。そこで無言で前を通るのも悪いと思い、また、時間が時間だから声をかけるのが悪いと思いながらも、「こんばんは」と、小声で挨拶をして通り抜けようとしたら、「どなた!」と、女性の声がして、すぐに婦人が出てこられたのでびっくりしていると、「あら、Kさんですか。この夜更けにどこからのお帰りですか。道らしい道でもないところですし、やがて夜が明けますからちょっと休んで、夜が明けてからお帰りなさい」と、親切な誘いで、「それでは」と、家の中に入り空いていたカーマ(寝台)に寝かされて、「助かった」と思って休んだのに、眠りが覚めてみると、「沼田さん、家もなければカーマもない、狐の野郎だましやがって、私は大木の脇の土間にころがされていたんですよ。あそこには狐がいると、全く真剣な顔での物語である。

 

・そのうちに、トマカフェーをして少しは落ち着いて帰っては行かれたが、私はそんな馬鹿げたことはないと思いながらも、本人にはどうしてあれほど思われるのかとちょっと不審な気にもさせられたものであった。

 

・それでも、どこで寝られたのか確かめに行ってみると、ジビーザの半ころに大きなヒゲーラの木が倒されてあり、その板垣とでも言おうか根のほうに張り出している羽のような物を屋根と思い、その下で寝られたらしく、跡がはっきりと土間に付いていた。酔ってここに寝たのだから一張羅の洋服もたまらない。それにしても妙齢の婦人が出てきて「夜の明けるまで休んでいかれたら」と、招きいれてくれたと言うあたり、本人の酔ったあまりの想像であったとしても面白いし、目が覚めてから私の家まで来て、なおあの真剣な話振りなども、何時思い出しても面白いのである。

 そのK氏もアストルガ方面に移って行かれたが、今ではこの世の人ではないであろう。

 

・いかがでしたか、ブラジルの民話といった風情がありますね。これを書いたら、後、次々と思い出が浮かび、すらすらと筆が運んだそうです。挿絵がまた楽しいのです。沼田さんの友人の牛窪さんが描いたものです。全10部のうち5冊目に当たる第5部は、ロンドリーナ市で沼田さんが知り合った方々、117人の伝記を書いたもので、この第5部を外した9部はすべて沼田さんの思い出の数々を綴ったブラジル開拓物語です。そこには全部で277の物語が綴られています。

 

<第1部「カフェーと移民」>

・コーヒー園の経営が中心の仕事でしたから、それにつながる話がいろいろ出てきます。そのほか、開拓の話や弁論大会など、次第に暮らしが落ち着いてきて文化的な活動も始まります。

 

<第2部「ビンガと移民」>

・ビンガはサトウキビから作ったお酒です。日本の焼酎と同じですがアルコール度が高いのが特徴です。青いレモンと砂糖を入れて飲む人もいますが、すばらしい口当たりの良さです。つらい開拓労働の後の慰めによく飲まれたようです。開拓小屋の片隅に大きな瓶が置かれていたそうです。

 

<第3部「毒蛇と移民」>

どの家にも毒蛇に噛まれたときの用意に薬がおいてあったそうです。間に合わなくて亡くなった悲しい話もあります。サンパウロには蛇の博物館があるほどです。たくさんいたのです。

 

<第4部「ムダンサと移民」>

ムダンサは引っ越しのことです。良い土地を求めて何度も引っ越しを繰り返したお話です。

 

<第5部「赤土と移民」>

<第6部「ビッショと移民」>

砂ノミに苦労したお話です

<第7部「霜と移民」>

霜でコーヒーが全滅したお話です。10年に一度ほど霜が降ります。するとコーヒー畑の多くが全滅という悲劇に襲われます。自然の力には勝てません。特にゆるやかな丘の起伏の谷間にあるコーヒー畑は大変な被害に遭います。どこに畑があるかが運命を大きく変えることになります。

 

<第8部「戦争と移民」>

・第2次世界大戦の後、ブラジルの日系人の間では勝ち組と負け組に分かれて、数の多い勝ち組が負け組の人を襲うといった事件まで起きました。地域によっては早く警察が動いて大事にならずに収まったところもありました。不安と葛藤に苦しまれた地域もありました。

 

<第9部「風土病と移民」>

マラリアやトラホームなど様々な病気との闘いが開拓にはついてまわります。

<第10部「ジャングルと移民」>

ジャングルを切り拓くような道具やもろもろの苦労が書かれています。また運命の分かれ道と言えるような出来事が起こるようすが書き留められています。トラックに乗って海水浴に行くなど、たまにしかないレクリエーション活動も紹介されています。

 

<「ムダンサと移民」>

・私たちが移住して来たころ、すでに在伯10年、15年という人がいて、がっかりしたことがある。この方は数年か、長くとも10年後には一儲けして帰国するつもりでいるのに、この人たちは何をしていたのか、ブラジルとは案外に儲からない所なのかと考えさせられたが、2、3年すると割合に金が入って来るので楽しかった。

 それはパラナのテーラ・ロッシャ地帯の恩恵であったので、ここへ来るまでには一般の人は相当に苦労したらしいのである。

 

まず、笠戸丸移民であるが、ズモーン農場に配耕されて52家族は2か月足らずで全員サンパウロ移民収容所に戻ったということであった。

 カナーン農場の場合は同じく不作の年で収穫は手間賃にならず、主にサントスの港のほうが賃金が良かろうと2か月前後から逃亡が続いたと言われている。

 フロレスタ農場の場合、逃亡する者数家族、残りの者は翌年耕主と争いになり全員移動したという。しかしそうは言っても、先輩移民のいない時代のことであるから、大変である。言葉も通じないのに家族を抱えて、どこへ移転するのか、不安なことであったろう。

 

・また、サン・マルチーニョ農場には主に鹿児島県人27家族が入ったが、間もなく12家族、42、3人が退耕したといい、グヮタバラー農場では鹿児島県人18家族、高知県人2家族、新潟県人3家族、計23家族を通訳平野運平氏が同道して行かれて、ここは平野氏の努力でよく落ち着いた所とされているが、それでも翌年には残留者4割以下に減っていたそうである。

 

・ソブラード農場の割合は仁平嵩氏が山口県人9家族、愛媛県人6家族、計15家族同道したそうであるが、ここは割合に良くてズモーン耕地から移動した者も相当あったらしい。しかし初期にはやはり数家族は逃亡したとのことである。

 

以上のように移民は食えないのでは仕方がない。儲からないのではかなわない。なんとかもう少し良い所がないかと第1回移民のなんにも分からない、先輩移民のいないときからムダンサ(移動、移転)が始まったのであって、ブラジル移民を語るとき、その苦労のほどが、その人たちのムダンサの回数で知ることができると思えるのは、在伯7、8年、10年という人で、その年数よりムダンサの回数のほうが多いという人に何回も出会って驚いたからであった。

 

・しかし、移転するとしても先輩移民がいないのだから不安なものであったろうと思うが、食べていけなければ移転してみるより仕方がないのである。

 そのようにして、なんとか生活の成り立つ所、できれば幾らか儲けの残せる所はないものかと、次から次へと移転の数が増えていくのであった。

 

・1960年ころか、私がマリリヤ方面の某日系植民地に渡伯7、8年の家族が苦労していると聞いて、私の耕地で働いてもらうべく尋ねて行ったことがあった。

 住宅は板造りの普通のコロニア(労働者用の家)程度であったが、本人と話をしていて驚いたことは、3人のかわいらしい娘はまだ小学生で手伝いにならず、毎日マンジォーカ(いも)にフェジョン(塩たきの豆)をかけて食べて、ご飯はお正月とお盆ぐらいということであった。今時そんな生活をしている人がまだいたかと、気の毒になりパラナに移ることをすすめようとすると、幸いすでに中央線はモジ方面からアルファーセの歩合に誘う人がいて、そちらに行く準備中とのことであった。私は雇えなかったが、モジ方面に行くならまだよかったと思った。戦後移民も安住の地に落ち着くまでには、相当のムダンサをさせられていた人がいるのである。

 私などは少ないほうであるが、建てた掘立小屋がひっくり返るとか場所が不便とかで新しく建て替えたりして、数えてみると11回目にロンドリーナの住宅に落ち着いて、今の家は12回目である。

 

・また、妻の里を見ても、1932年直接バストスへ移住してきたのであるが、始めの土地がやせ地なので翌年移転、2、3年して地味がわかるようになって、アレンダ(歩合作)としてサンルイス地区へ移転、ところがここの地主の地権問題で1年で追い出されてバストス内に戻ったが、前のロッテ(土地)ではなかった。しかしそこも思うようでなく、他のセッソン(組)に移転、これで最初のロッテから5回目である。

 

・しかし妹は2人結婚して家を出て、弟は日本に帰り、両親は老齢化してきたので戸主の兄夫婦はこれで農業は無理と、妻をサンパウロに出してパーマを修業させて半年後にバストスに開店、2、3年して町が小さいとアダマンチーナに移転、繁昌して落ち着いていたが、サンパウロで教えてくれた人の店を譲り受けることになって出店、そこまでで8回の移転である。

 運良く4、5回で済んだ人もあるはずであるが、移民は案外にムダンサをしているのに驚かされるのである。

 

・この初期移民のムダンサは歴史として記録されるべきことの一つであるかと思う。

 どこかの組織で住所の移動を調べていたが、住宅の移転も加えて統計を取って見ると、初期移民の労苦と希望に向っての努力の一端がさらに詳しく浮かび上がってくると思うのである。

 

・この文を書いているところへ2人の婦人が訪ねて来られたので、用件の済んだ後に、ムダンサのことを尋ねてみると、86歳のお婆ちゃんは10回まで思い出してくれ、55歳の未亡人は確実に11回の移転で落ち着いたとのことであった。この若い婦人は戦後移住者であった。

 ムダンサと移民、青い鳥を追い求めて歩いた移民のムダンサは移民史に忘れてはならない事項であると思うのである

 このようなことから、「移民の子移転つづきで古巣なし」のような川柳が読まれたのであろう。

 

<「ジャングルと移民」>

・私は、ブラジルに渡った日本人の移民が、どのくらいの農地を所有しているのか調べがつかないものかといつも思いながら、及ばぬ鯉の瀧昇りと、あきらめていた。

 ところが今回の日本移民の聞いた植民地の数から、私たち移民が開拓したジャングルの面積のある程度の確実性を持った数字を知ることができたことを一つの収穫と喜んでいる。

 

・その日本移民の開拓した面積が大変広大な面積になるのに、その移民の中には、農業に経験のない家族がたくさんいたのである。しかしその数は農家のほうが多かったであろうと、少し遠慮して書いておいたのであるが、移民50年祭の記念事業に出された鈴木悌一氏の書かれた実態調査に依ると、ブラジル移民は、農業者は31パーセントとあり、非農業者の方が69パーセントと、実に倍以上も来ていたと書かれている。

 全員が書類の上では農業者として渡航して来ているのに、どうして調べがついたのか不思議であるが、学者の偉さである。私もその統計を支持したい。

 

考えようでは、現在のようなブラジルの国情で、盗人が多くて生活に安心できないとき、泥棒の心配はありませんというこの地方の人たちには、ちょっとうらやましい気持ちもした。

 しかしわれわれ、文化の開けた日本の都会から来た者には、食べて行けるからとても安心しておられはしなかった。

 ある程度の生活、子供の教育、帰国、訪日等々にはお金は必要であった。そのためにジャングルの開拓は、小資本の者にはもっとも近道の事業であったうえに、少々言葉が通じなくとも、労働者への支払を正直にしていけば拡張していける仕事であったから、次から次と拡張していく人がいたのである。

 

理論からいけば、農民でない家族を7割近くも送ったブラジルへの移民は大失敗であった。南米のジャングルを前にして、唖然として、進んで手をつけようとする者はいなかったということになっても不思議ではないのに、移民の一部の植民と言われた人たちは、日本でジャングルの購入契約をして来たために、現地に到着すると、ただちに、ジャングルの開拓に立ち向かったのである。

 

・また、コーヒー園への契約移民も、時には1年、あるいは2年との労働契約の差はあっても、それが終れば、ほとんどの人は土地を買うか、地主の契約農として植民地の開拓事業に立ち向かったのであった。

 それが、巡査上りであれ、教頭先生であれ、駅長さんであれ、私たちのようなふらふらのお菓子屋の職人と学生というような者であれ、みんな元気を出してジャングル倒しに取りかかったのであるから不思議である。

 

それで、20万人余りの日本移民の40年ほど前までのマッシャードの時代までの事業において、実に日本の面積の5パーセント以上10パーセント近く、あるいはそれ以上の広大な面積のジャングル開拓という大事業を成し遂げているのである。

 

・今では多くの植民地は荒廃してしまったが、残った地主の事業は大型化して、過去の1植民地の面積位は、1戸の仕事場にも満たないような現状であるから、移民が開拓した2千に及ぶ植民地の大手は荒廃し、日本人の農家は激減しているといえども、その規模が機械化されて大型化されたので、その面積においては何倍かになっているので、その総面積はどこかに書いておいたような、九州に及ばず、四国よりは広いなどと言うものではなく、現在ではその2つを加えたほどの、広い面積が移民の2世、3世によって耕作されているのである。

 

日本から送られた23万人に満たない移民の活躍に世界が刮目する時代が、目前に来ていることを思えば、将来は楽しみであるが、私には今日もすでに楽しいのである。

 日系社会も成長したもので、このごろでは、移民の成功者調べ等、しなくなったので明らかでないが、カフェー、綿、馬鈴薯、大豆等の大生産者の中に堂々と入りこんでいるのである。

 人口比率でわずか1パーセントほどの日本人であるから頼もしい限りである。

 

リオグランデ・ド・スール州に北海道人が持ち込んだといわれる大豆が、同州に広がり、それが次第に北上して、パラナ州サン・パウロ州、南・北マットグロッソ州、ミーナス州、パイヤ州へと広がり、その生産量も、北米に次ぐことになって、この辺で落ち着くかと思いきや、このごろはアマゾン河を超えて北半球に入り、ベネズエーラの国境に迫っているが、その先鋒に立っているのが日系人であることは聞いてもうれしい話である。

 やがて北米を凌ぐ生産量をあげることになるのかも知れないのである。

 

 

 

日本妖怪大事典』

画◎水木しげる  編者◎村上健司  角川書店 2005/7/20

 

 <犬神(いぬがみ)>

・中国、四国、九州の農村地帯でいう憑き物。中国地方では犬外道、九州、沖縄ではインガメというように、名前や性質は地方ごとでさまざまに伝えられている。

 犬神には人の身体に突然憑く場合と、代々家系に憑く犬神持ちとがあり、狐憑きとほぼ同じような特徴が語られる。

 犬神に憑かれると、さまざまな病気となり、発作を起こして犬の真似をするなどという。これは医者では治らず、呪術者に頼んで犬神を落としてもらう。

 ・犬神持ち、筋とは、犬神がついた家系のことをいう。愛媛県では、犬神持ちの家には常に家族の人数と同じ数の犬神がいるとし、家族が増えれば犬神の数も増えると思われている。

 愛媛県周桑郡での犬神は鼠のようなもので、犬神筋の家族にはその姿が見えるが、他人にはまったく見えないという。

 <オサキ>

埼玉県、東京都奥多摩群馬県、栃木県、茨城県新潟県、長野県などでいう憑き物。漢字ではお先、尾裂きなどと表記され、オーサキ、オサキ狐ともいう。

 憑かれた者は、発熱、異常な興奮状態、精神の異常、大食、おかしな行動をとるといった、いわゆる狐憑きと同じような状態になる。

 また、個人ではなく家に憑く場合もあり、この場合はオサキ持ち、オサキ屋、オサキ使いなどとよばれる。オサキが憑いた家は次第に裕福になるが、その反面、周囲の家には迷惑がかかるという。オサキ持ちの者が他家の物を欲しがったり、憎悪の念を抱いたりすると、オサキがそれを感じ取って物を奪ってきたり、憎く思っていた相手を病気にしたりすると信じられていたからである。

 オサキの家から嫁をもらうと、迎え入れた家もオサキ持ちになるというので、婚姻関係ではしばしば社会的緊張を生んだ。

 <おさん狐>

・主に西日本でいう化け狐。とくに中国地方に多く伝わり、美しい女に化けて男を誑かす。鳥取県では、八上郡小河内(八頭郡河原町)から神馬に行く途中にガラガラという場所があり、そこにおさん狐が棲んでいたという。

 与惣平という農民が美女に化けたおさん狐を火で炙って正体を暴き、二度と悪さをせずにここから去ることを条件に逃がしてやった。

 数年後、小河内の者がお伊勢参りをしたとき、伊賀山中で出会った一人の娘が、「与惣平はまだ生きているか」と尋ねるので、生きていると答えたところ、その娘は「やれ、恐ろしや」といって逃げていったという。

 広島市中区江波のおさん狐は、皿山公園のあたりに棲んでいて、海路で京参りをしたり、伏見に位をもらいに行ったりと、風格のある狐だったという。おさん狐の子孫といわれる狐が、終戦頃まで町の人たちから食べ物をもらっていたそうで、現在は江波東2丁目の丸子山不動院で小さな祠に祀られている。

 大阪府北河内郡門真村(門真市)では、お三狐として、野川の石橋の下に棲んでいるものとしている。「お三門真の昼狐」ともよばれることがある。昼狐とは昼間に化ける狐で、執念深く、人を騙すものだという。

 狐憑き>

全国各地でいう憑き物。いわゆる一般的な狐の他、オサキ、管狐、人狐、野狐、野千といったものも狐と称され、それらの霊が人間に取り巻くことをいう。

 大別すると、1、個人に憑くもの、2、家に憑くもの、3、祈祷師などが宣託を行うために、自分あるいは依代に憑かせるものの3つに分けられる。

 1は狐の霊が何の予告もなく、あるいは狐に悪戯した場合に取り憑くもので、原因不明の病気、精神の異常、異常な行動をとるなど、個人や周辺に多大な迷惑をかけるやっかいなものとされた。

 2に挙げた、家に憑く狐は、家に代々受け継がれるもので、管狐、オサキ、人狐というのはこれである。繁栄をもたらす反面、粗末に扱うと祟りを及ぼし、家を滅ぼしてしまう。他家から狐が物を盗んできたり、家の者が憎く思う相手に憑いて病気にしたりするので、周辺から敬遠されてしまう。また、嫁ぎ先にも狐がついて行くと信じられたので、婚姻が忌避されるなどの差別を受けた。

 3は稲荷下しなどといって、祈祷師たちが狐の霊による宣託を行ったものである。

 <座敷わらし>

岩手県を中心とした東北地方でいわれる妖怪。名前が示す通り、家の中にいる子供の妖怪で、3歳くらいから11歳、12歳くらいの男の子または女の子で、髪形はオカッパとされることが多い。

 ・座敷わらしにも階級のようなものがあるそうで、上位のチャーピラコは色が白く綺麗だとされ、階級の低いノタバリコや臼搗きわらしといったものは、内土間から這い出て座敷を這いまわったり、臼を搗くような音をたてたりと、なんとなく気味が悪いそうである。

 ・座敷わらしというよび方は東北地方でのことだが、この仲間というものはほぼ全国的に分布している。北は北海道のアイヌカイセイ、南は沖縄のアカガンターと、多少の性質の違いはあるが、家内での悪戯、例えば枕を返すとか、金縛りにするなどといったことが共通して語られ、家の衰運などにも関わることもある。韓国の済州島に伝わるトチェビなども、座敷わらしに似た性質を有しているという。

 <寒戸の婆(さむとのばば)>

・『遠野物語』にある山姥の類。岩手県上閉伊郡松崎村の寒戸にいた娘が、ある日、梨の木の下に草履を脱ぎ捨てたまま行方不明になった。

 それから30年後、親戚が集まっているところへ、すっかり年老いた娘が帰ってきた。老婆となった娘は、皆に会いたくて帰ってきたが、また山に帰らねばといって、再び去ってしまった。その日は風が激しい日だったので、それ以来、遠野の人々は、風が強く吹く日には「寒戸の婆が帰ってきた日だな」などといったという。

 『遠野物語』は柳田国男が遠野の佐々木喜善より聞いた話をまとめたものだが、遠野には寒戸という土地はなく、これを登戸の間違いではないかとされている。語り部役を務めた佐々木喜善は『東奥異聞』に登戸の茂助婆の話として記している。

 <オマク>

岩手県遠野でいう怪異。生者や死者の思いが凝縮した結果、出て歩く姿が、幻になって人の目に見えることをいうもので、「遠野物語拾遺」には多数の類話が見える。

 

『日本の幽霊』

池田彌三郎   中公文庫  1974/8/10

 

 <憑きものの話>

「憑きもの」に関する俗信は、もちろん社会心理現象であって、今日の社会においては実害のともなう迷信である。四国を中心にした「犬神持ち」の俗信や、山陰地方に多い「狐持ち」の俗信などは、今日においてもなお実害のともなっている、はなはだしい例である。

 昭和28年11月に公刊された『つきもの持ち迷信の歴史的考察――狐持ちの家に生まれて――』という書物は、島根県大原郡賀茂町神原出身の速水保孝氏の著書である。著者自身狐持ちの家に生まれ、自身の結婚

にあたってもそれによる障害を体験され、迷信打破の為にその講演に歩くと、狐持ちなどの憑きものを落とすことをもって職業としている「祈祷師」らから、生活権の侵害だと脅迫がましい投書が来たり、と言った貴重な経験を通じて、これに学問的なメスを入れておられる。東京のような都会に育っている者には思いもよらない生活経験が語られているが、その書物の、

 私は狐持ちの家の子であります。だからこの本をどうしても書かずにはおられません。

という書き出しの文句なども、都会にいるわれわれの受け取る受け取り方では、ともすれば、こう書き出した著者の勇気を、感じとらずに読みすごしそうである。それほど「憑きもの」信仰などはわれわれ都会育ちのものには遠い昔の話になっている。だが、現にこの迷信は、島根県下において、末期の症状ながらも生きていて、その撲滅運動が度々繰り返されている、当事者にとっては真剣な問題である。

 

しかし、他の様々な迷信の打破と同じように、それは結局、教育の普及にまつ以外に、根本的解決策はまずなかろうそして、この速水氏の本の序に、柳田国男先生がよせられた序文にあるように、

 教育者たるべきものは、俗信を頭から否定することなく、それに関する正確な知識を与えてやらねばならない。結局事実を提示して、各自に判断させてゆくというより他に方法は無いのではなかろうか。

 ・その一つの方法としては、こういう問題を大胆に話題にして、そこに正しい判断と批判力を養うことの必要を先生は説いておられる。幽霊も妖怪も、むしろわれわれが大急ぎで話を集めておかないと、もうほとんど出て来てくれそうもなくなったのに、「家に憑く怨霊」の庶子のような「憑きもの」だけが、まだ生き残って人間を苦しめているなどというのは、まことに残念であり、学者の怠慢だと指摘されても致し方ない。

 ・犬神というのは憑きものの中でも有名なものの一つで、四国がことにその俗信の盛んな土地である。――四国には「狐」という動物そのものがいないと言われている――しかし中国にも九州にもないことはない。四国で一般的に言われているのは、鼠ぐらいの大きさの小さい動物であるというのだが、近世の書物、たとえば『伽婢子』などでは、米粒ぐらいの大きさの犬だという。だから、近世の随筆家などになると、早く興味本位になり、一そう空想化していたということになる。

 

犬神持ちがいやがられるのは、この犬神を駆使して、他人に迷惑をかけるからである。犬神持ちの人がある人を憎いと思うと、たちまちに犬神が出かけて行って、その相手にとりついて、その人を苦しめたりする。だからこういう点、平安朝の怨霊などのように、生霊死霊が自身で現われて人を苦しめるのに比べると、動物が人間並みの感情を持っていてとり憑いたり、あるいはさらに、そういう動物を人間が使役したり駆使したりして、人に損害を与えるなどということ自体、怨霊から言っても末流的であり、そこにこういう憑きものなどを一笑し去るべき要点がはっきり露出しているように思う。

 東京の銀座の真ン中に育った私にも、たった一つだけ、狐憑きの話を身近に聞いた経験がある。幼稚園の時から一緒で仲よくしていたTという友人の母親が急死した。私の小学校5年の時だから、大正14年のことだが、私は受け持ちの先生と、組の代表で告別式に行った。数日たって学校に出て来たTは、僕のお母さんは狐憑きに殺されたんだ、だけどこれは誰にも言わないでくれよ、と言った。

 ・Tの父親の親戚の女の人に狐がついて、Tの叔母をとり殺した。そのお葬式の時、狐憑きなんかあるわけはないとTの父親が言ったら、その親戚の女についている狐が、うそかほんとか、今度はお前の細君を殺してやると言った。Tの父親は「殺すなら殺してみろ」と言った。そうしたら、ほんとに僕のお母さんは死んじゃったんだ。あの時「殺すなら殺して見みろ」なんて言わなければよかったんだ。Tはこんな話をした。

 ・何しろ二人ともまだ子どもの時で、その上今から三十数年も昔のことで、ほかのことは知らない。Tの母親のお葬式の時にも、ケロリとして、その狐のついた親戚の女は手伝いに来ていたと、Tがにくにくしそうに言ったのを今でも覚えている。大正14年と言えば、前々年に関東の大震災があって、銀座はすっかり焼け野原となったのだが、そのあとしばらくのバラックずまいの町の中で、こんな生活の経験のあったことを、今ふと思い出したのである。