日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

自殺は間違いないと思うが、芹沢光治良のように死ぬまで川端は事故死だと主張していた友人もいた。しかも、日本ペンクラブ関連の資料は、「自殺ではない」と証言している作家たちの記録だけが現在も保存されている。(1)

 

 

『人生は喜劇だ』  知られざる作家の素顔

矢崎泰久  飛鳥新社  2013/11/22

 

 

 

川端康成、「光る目」の内側>

「世界に恥かしくない作品を書いて死ぬつもりです」 川端康成

・鷹の目。間違いなく鷹の目だと思った。鋭く光っている。私は怖かった。

 川端康成に会ったのは、たしかその日が3回目だった。いずれも伯母の佐藤碧子に連れられての面会だったが、鎌倉の川端邸が最初で、次が銀座の資生堂パーラー、そして新宿の洋食店オリンピックである。

疎開するそうだね。ささいなことはお国の為だと思って耐えなさい。体力をつけるには、好き嫌いは駄目です。戦争は必ず終わるから、その日まで毎日少しでも本を読みなさい

 私はオムライスとプリンをご馳走になった。東京での最後の外食だった。光る目がずっと見ている。

「祥夫くんは6年生だったね。この本をキミにあげます」

 岩波の少年少女向け文庫の『トム・ソーヤーの冒険』『三銃士』『レ・ミゼラブル』の3冊だった。すべてはじめて手にする本だった。

 

・敗戦後間もなく碧子は私を鎌倉へ誘ったが、私は熱を出して川端家へは行かなかった。何より鷹の目に脅えていた私はホッとしたことを覚えている。子供に対しても容赦なくジッと鋭い目で内面をえぐる。全体的に尖った印象の川端康成が私はどこかしら苦手だった。

 次に私が川端康成に会うのは、1957年(昭和32年)9月に国際ペンクラブ総会が日本で開かれたときだった。当時は川端が日本ペンクラブの会長であった。私は新米の新聞記者として取材にあたっていた。お目にかかったけれど、個人的な会話はなかった。

 川端康成は翌年、国際ペンクラブ副会長に就任し、1968年にノーベル文学賞を受賞した。日本人作家としては最初の受賞だったが、そのころは目立った執筆活動もなかったことを考えると、論功行賞的な趣が強かった。どうして拒否しなかったのだろうと、不思議に思ったが、私はその意見を公表しなかった。勇気がなかったのである。

 翌年の正月、伯母の碧子と鎌倉の川端家へ行った。彼女の目的はお祝いを伝えることだったが、私は自分の目で川端康成を確認したかったので付いて行ったのである。他に客もいて、ゆっくり話すことはできなかったが、帰りしなに川端は静かな口調ではあったが、毅然と「世界に恥ずかしくない作品を書いて死ぬつもりです」

 と言った。もちろん碧子に言ったのだが、ノーベル賞を重く受けとめている様子であった。

 

アメリカのクノップス社の編集長シュトラウスは、文化大革命中華人民共和国の若者たちが天安門広場で、古い本を反革命的と称して焚書していると説明した。三島と安部は抗議声明を作り、川端、石川、三島、安部の4人で共同記者会見を開いて中国政府にメッセージを訴える計画だったとわかった。

 結局、私も手伝うことになり、会場手配や声明文の印刷などをやった。シュトラウスは手持ち無沙汰にブランデーばかり飲んでいたが、一段落したとろで、青い目をしばたたせながら、クノップス社で発行する次なる日本の候補作家を推薦してくれるように2人に頼んだ。

 即座に、異口同音で挙がった名前は、「野坂昭如がいい。大江健三郎は少しも面白くない」だった。シュトラウスの来日目的は優秀でかつ売れそうな日本作家との契約だったのである。大江はアメリカ文学に近すぎると安部が言い、三島はそれに同調していた。

 

その翌日、私は思いがけずに川端康成ノーベル賞受賞後、2度目に会うことになった。疲れている様子だった。

 翌日、中国の新華社通信は、この4人の声明文を取り上げ、毛沢東主席による焚書禁止が発表されている。効果はあった。4人の個人的な忠告が功を奏したのだろう。中国の古典文学は命拾いしたのだった。

 

その後、川端康成は執筆に励んでいた様子だが、作品が発表されることはなかった。1972年4月16日夜、仕事場にしていた逗子マリーナのマンションでガス管を咥えて絶命している姿を、警備員とお手伝いの女性によって発見された。警察の調べでは「ガスが充満した室内で中毒死していた」とされ、「自殺、事故死の両面で捜査している」と報告された。それが、自殺説と事故死説に分かれる原因になったのだが、最初の発見者の証言によれば、自殺を疑う余地はまったく残されていない。

 

・1970年11月25日に市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺した三島由紀夫の葬儀委員長になり、翌年の東京都知事選挙では自民党の秦野章候補を応援して選挙カーにも乗った。

 本来政治的な動きをしたことのない川端には、前者はともかくとして、後者は多くの友人・知人から奇異の目で見られる結果となった。

 

とにかく精神錯乱の傾向がときどき現れたとする証言も少なくなかった。秦野章の選挙戦最終日に川端とともに選挙カーに乗った今東光は、「やあ、日蓮様ようこそ」と挨拶されてびっくりしたそうである。その際に「昨日は三島くんも応援にかけつけてくれた」とも言っていたそうである。年齢的にはアルツハイマーだったとしても不思議ではない。

 自殺は間違いないと思うが、芹沢光治良のように死ぬまで川端は事故死だと主張していた友人もいた。しかも、日本ペンクラブ関連の資料は、「自殺ではない」と証言している作家たちの記録だけが現在も保存されている。奇妙な話ではないか。

 川端康成ノーベル文学賞を受けなければよかったのではないかと私は今でも思っている。

 あの時期、日本人作家では川端と同時に三島由紀夫の名前がノミネートされていた。もし三島が受賞していれば割腹自殺もなかったかも知れないし、さらに川端の自殺もなかったのではないか。

 私は二人の関わりの虚実を垣間見る思いがしてならない。川端は72歳で死んだ。

 

三島由紀夫、最後のメッセージ

「ボクはノーベル賞なんて欲しくない。人は誤解してるんだ。川端さんでよかったと本心から思っているし、もし次があるとしても、ボクは要らない」   三島由紀夫

・六本木交差点近くに「ミスティ」という男性専用の秘密クラブがオープンした。私はいずみたくに誘われて、会員になった。入会金と月会費が高いので尻込みしたが、毎回の使用料だけ払えば他はいずみたくが負担してくれるというので入ったのである。

 プール、サウナ、マッサージ、各種トレーニング施設の他に、ガウン一枚で遊べるプレイルームがあった。麻雀、ビリヤード、カードテーブルなど、それこそ至れり尽くせりだった。気に入って、ちょっと時間が空くと入りびたっていた時期があった。

 ある日、サウナ風呂の中で三島由紀夫にバッタリ出会った。互いに会員だとは知らなかったので驚いた。

 

・三島はズケズケ言う。その日は川端康成とのそれぞれの縁について話が弾んだ。

「ボクはノーベル賞なんて欲しくない。人は誤解してるんだ。川端さんでよかったと本心から思っているし、もし次があるとしても、ボクは要らない。太宰(治)と一緒で、もともと賞には向いてないんだよ」

 珍しく内面を吐露してくれた。負け惜しみではなく、ノーベル賞そのものに関心がなかったのだろう。その後もときおり「ミスティ」で会うことがあった。待ち合わせなどしたことはなかったので、いつもまったくの偶然だった。

 1970年11月22日、つまり三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊へ突入する3日前の午後、私が「ミスティ」で麻雀をやっていたら、三島がプレイルームに入ってきて声をかけた。

諸君の不健康な遊び好きには感銘すら受けるけれど、いざというときのために肉体だけは鍛えておかれることをお勧めする

 敬礼するや、その一言を残して去って行った。私が三島さんにお目にかかったのは、その日が最後だった。

 3日後、何時間も三島由紀夫割腹自殺のニュースをテレビで見ていた。

 

これまでにも自殺を遂げた作家はたくさんいる。しかし、同じ自死でも突発的であるのと用意周到とでは違う。方法は似ていても差異はある。

 有島武郎太宰治のように女性を道連れにする心中タイプもいれば、突然飛び降りてしまう人もいる。遺書を用意する人も少なくないが、遺族や親族がそれを隠蔽してしまうケースもある。川端康成は錯乱状態にあったのかも知れない。

 

大江健三郎の処世術>

「まだ、その時期ではないと思う」  大江健三郎

同世代で同時代を生きた作家として、かつて私が特に注目したのは、小田実石原慎太郎大江健三郎の3人だった。

 1956年(昭和31年)、『太陽の季節』で芥川賞を取った石原慎太郎は、まだ一橋大学に在学中だった。ペニスで障子を突き破るという表現も斬新だったが、太陽族ブームを惹き起し、映画化され大ヒットした。

 2年後に東大生の大江健三郎が『飼育』で芥川賞を取り、この2人のデビューは日本の文学界に大きな衝撃を与えたのである。

 その直後に、小田実アメリカ大陸を貧乏旅行し、帰国後すぐ『何でも見てやろう』を発表、これまた大ベストセラーになった。

 

折から日米安保が争点となり、3人はともに「若い日本の会」の発足に参加し、安保反対の姿勢を鮮明にしたのだった。

 

・しかし、この中にいわゆる革新的なグループに所属している人は一人もいなかったし、全員がノンポリに近かった。ことにリーダーに指名された小田実は純粋なリベラリストだったし、石原慎太郎は思想的には何もない遊び人間だったし、大江健三郎は社会性はあったにせよ個人の枠の中で作家活動に入ったばかりであった。

 

小田実ベトナム戦争に反対する立場から市民運動の「ベ平連」を結成した。大江健三郎は作品を通じて、日本社会への警鐘を鳴らしながら文明批評を展開しようとしていた。

 

大江健三郎がいつごろから岩波書店に近くなったのかはっきりしないが、緑川亨が社長になる以前だったように思う。いわゆる出版界では岩波文化人と呼ばれる横につながりを持つ学者や作家がいて、日本共産党に近くセクト的な意味で政治色が強いとされていた。その点、緑川はノンポリだった。

 

・翌年、『文学界』に連載を開始した『セヴンティーン』は、浅沼稲次郎を刺殺した右翼少年山口二矢をモデルにした小説で、政治と性を主題とした問題作だった。この作品は右翼団体から脅迫を受け、出版社側からの意向もあって、大江作品としては完結されたとは言えなかったし、しばらくは私小説的な方向へと舵を切ってもいる。

『セヴンティーン』は女性団体からも差別的との指摘を受け、改訂せざるをえなかった。

 こうした一連の事柄から、大江健三郎の創作活動は少しずつ用心深くなり、ある種の計画性を持つようになった。二重人格的な傾向もしだいに強くなり、家庭的な問題も影響して、作家としてのスタンスはしだいに曖昧になる。

 

東日本大震災原発事故が起きたときに大江は反原発の先頭に立ったが、こうした前歴をどこへ棚上げしたのか。忘れてしまったとは絶対言えないような気がする。他の有名人・知識人にも当てはまることでもあるが。

 体制加担への疑問をかねてから大江に抱いていたのが、本多勝一だった。体制・反体制の双方に「いい顔」をしてみせる人物として、大江を鋭く批判した。ノーベル賞を受けたときにも、本多は『週刊金曜日』誌上で大江を徹底的に取り上げ叩いている。

 

伊丹十三が仕事場のマンションから駐車場に飛び下り自殺したときには、(義弟である)大江健三郎が一切を仕切った。その対応は、ことに伊丹の友人たちに対して酷いものだった。

 検屍の結果自殺と決まるや、湯河原へ遺体を運び、親族以外の人を閉め出した。

 

伊丹の死には何かしら裏があったのではないかと疑いたくもなるではないか。私は今でも他殺または事故死に違いないと思っている。

 

井上ひさし憲法記念日に意見広告を出そうと言いだして、中山千夏と私は市川の井上家に招集された。朝日新聞の全面を格安で使えると言う。

1千万円だったか、2千万円だったか忘れてしまったが、井上のプランでは発起人に私たち3人だけでなく湯川秀樹大江健三郎を加えて募金を集めようという。

 

・「まだ、その時期ではないと思う。もっと効果的にやるなら、一般の人たちの危機意識がもう少し高まったころを見計らうべきだ」

 大江の意見が伝えられてきて、もともと井上が全額費用は建て替えると言うことで進めた話なので、大江抜きでやるしかないと、私たちは主張した。ところが、大江の考えはもっともだと井上が言いだして、湯川秀樹を騙したようなかたちで終わってしまった。

 

市民運動ですらこのテイタラクなのだから、利害損得のからむ話になればどんなことが起こるか想像もつかない。有名人、文化人にも流行りがあって、名を連ねたい人がひしめいている会などは、どのみち効果はないのである。得意満面は真っ平である。担ぐ側も担ぐ側だが、担がれる人も滑稽千万である。福島原発の事故にしても、それは例外ではなかった。

 

まさか神格化はされていないだろうが、大江健三郎の存在の危うさは途方もない。ノーベル賞の授賞式では「あいまいな日本」をテーマに講演をしている。アイマイなのは、そのご当人ではないのかと言いたくなる。前言を翻したり、時と場合で使い分けたり、権威や権力に媚び諂ったり、死ぬまで偽善のパレードを続けたら、それも仕方あるまい。

 

五木寛之との10年間>

<「矢崎さん、身なりは貧しいけれど、彼(井上陽水)は大金持ちです。遠慮なくムシってやってください」  五木寛之

カルチェラタンで5月革命が起きた。学生たちが街を占拠した。1968年(昭和43年)のことだ。

 パリに滞在していた五木寛之から編集室に国際電話がかかった。

「やっと『話の特集』に掲載いただける素材を手にいれました。まず航空便で写真は送りますが、原稿は帰国してからで間に合いますか」

 突然のことだったので、私は一瞬返答に窮した。原稿を依頼したのは1年以上も前だったが、執筆の約束をもらっていなかった。たしか「考えてみます」という返事だけで、その後の連絡はなかったように記憶している。

 

五木寛之は革新的な左翼ではなかったが、革命を志す者を支援したり、活動家にせがまれるとカンパも惜しまなかった。NHKでドラマ化された『朱鷺の墓』の放送権料を重信房子に渡したこともあった。こうした経緯を知った竹中労が脅しがらみで、どれくらい五木から金を受けとったことか。

 

『遠くへ行きたい』のロケに五木はときおり「お弁当」をこっそり持ってくることがあった。つまり自分の愛人を連れてくるのである。それをお弁当と言う。スタッフから通知は受けていたが、私は特別な問題とは思わなかった。超多忙の五木が妻に内緒で愛人を連れて歩くのは仕方のないことだし、撮影に支障さえなければとやかく言うつもりはなかった。私だってやりかねない。

 ところが連れの女性が急病で救急車で運ばれる事件が起きた。慌てた五木はその女性を私の妻にしてしまったのだ。深夜私の家に病院から電話があって、事情を知らない私はびっくりする。プロデューサーとしては引き受けるしかなかった。思えば私にだって妻はいるのだ。勝手な奴だと思った。

 

・私たちは「五木牧場」と揶揄したりしていたが、若い女性読者に人気のあった五木の周辺にはいつも色香が漂っていた。今から思うと、五木には説教癖があって、高級クラブのホステスを学校に通わせたり、読書させたりして普通の職業女性に育てあげる。面倒見もとてもよかった。詳しくは後述するが、仏教に興味をすでに抱いていたのだろうか。

 

五木寛之の紹介で関根(高橋)恵子に会って、彼女の原稿を読むことになった。そのころ彼女は20歳前後で大変に端々しく美しかった。内容は十代に受けた義理の父親からのDVを告白した小説だった。私は新進女優の赤裸々な文章に圧倒された。即座に掲載を約束した。そこに五木が現われ、その原稿を持ち去ってしまったのである。

「紹介者としての責任もありますから、私も読ませていただきます」

そのまま、私の手に返されることはなかった。どういうわけか、五木が発表させなかったのである。五木に問うと、「書き直させている」

 と言うだけで、ついに陽の目を見ることはなかった。二人はどういう関係だったのか、私には謎のままだった。あの小説はどこかから発表されたのかどうか、知るよしもない。

 

私が戦火のベトナムに取材旅行に出発する直前、五木は箱根で壮行麻雀会を開いてくれた。高いレートの麻雀をやって取材費の足しにでもしないさいという配慮だった。そのとき、五木は井上陽水を連れてきた。穴だらけのジーパン姿の井上を一目見て、私はびっくりしていた。初対面であった。いぶかし気な私を見て、

「矢崎さん、身なりは貧しいけど、彼は大金持ちです。遠慮なくムシってやってください」

 五木はこの高名な歌手と私が知己でなかったことに驚いた様子でもあった。その夜、私は大勝利して、大金を懐にして旅立った。ベトナムが陥落し、サイゴン(現ホーチミン市)からポルポトが支配するプノンペンに連れ去られそうになったとき、この所持金が役にたった。ワイロがものを言ったのである。思えば五木は命の恩人でもあった。

 もちろん話の特集社の株主でもあったし、私の2人目の息子の名づけ親にもなってもらった。親密の度は増すばかりだった。

 

・それにしても今日の五木寛之はまさに不死鳥のような存在である。『日刊ゲンダイ』に創刊以来一度も休まず連載中の「流されゆく日々」は私もずっと愛読しているが、まったく衰えを知らない。健筆ぶりには私は感心させられるばかりだ。あのエネルギーの源泉はいずこにあるのか。不思議でならない。

 

五木寛之への手紙>

「ボクはやるしかないと思ってる。だから矢崎さんが仲間に声をかけてくれることに期待しているんです」  五木寛之

・片時も忘れたことはない。それほどの衝撃を受けてしまった。五木寛之が私の前から忽然と姿を消したのだ。それ以前の10年間は、濃密かつ親密な関係が続いていた。そして突然去って行った。それからおおよそ30数年の歳月が流れた。彼は私から巧みに逃げたとしか思えないのである。

 

・市民政治運動として、革新自由連合(革自連)が発足したのは1977年(昭和52年)6月1日だった。この日、渋谷公会堂に2千人の聴衆(賛同者)を集め、結成イベント『マニフェスト77』が開催された。そこに、五木寛之の姿はなかった。

 

・前年の夏ごろ、青島幸男(当時・参議院議員)と竹中労に個別に会った五木寛之は、改めて三者会談を持ち、革自連の構想をまとめた。画期的なプランだった。

 次回の参議院選挙(1977年7月)に仲間の知識人及び文化人(著名人・有名人に限る)を10人擁立し、全国区で全員の当選を実現する。青島が所属する二院クラブを法案提出可能な院内で発言力のある会派に発展させ、参議院本来の使命を遂行しようという計画だった。

 

・市民の政治参加によって、社会党を中心とする革新勢力の拡大は必至だった。目の付けどころは的確だった。五木寛之が登場する舞台は十分あったのである。日本一の流行作家であり、ノンポリの論客であった。彼が重い腰を上げたのだ。

 

五木寛之との初対面は1966年の末ごろだった。直木賞を受賞する前だったが、『さらば、モスクワ愚連隊』で高い評価を受け、すでに多忙だった。それでも『話の特集』への執筆を約束してくれた。翌年『蒼ざめた馬を見よ』で第56回の直木賞を受け、流行作家の仲間入りを果たしたのである。

 

・しかし、出馬を決心したのは、出席者からは鈴木武樹羽仁五郎(後に辞退)、中村武志の3人だけだった。つまり、大方の期待を裏切る結果となったのである。計らずも五木寛之が危惧したことが現実になった。だが、もしこの日、五木寛之が出席して立候補に踏みきっていたら、野坂昭如大橋巨泉大島渚も続いていたかもしれない。実際にはまだ間に合ったのだ。

 

・新聞もテレビも、大々的に「マニフェスト‘77」を取り上げたが、「革自連不発」の見出しや報道がほとんどだった。さらに週刊誌がそれに追い打ちをかけた。

「カラ騒ぎ」「仲間割れ」「腰砕け」と酷評した上で、しょせんは有名人のお遊びに過ぎないと切り捨てたのだった。私たちは歯をくいしばって、翌月に迫った参院選に向かって10人の候補者を立てるしかなかった。

 むろん、五木だけが悪いわけではないだろう。しかし、自分が中心になって発案し、私をはじめとする多くの協力者をないがしろにして、ついには行方不明になった。こんなことが許されるわけはない

 ついには事務局長のばばこういちも立候補し、10人揃えて選挙戦では確認団体となったものの、追加公認した横山ノック1人が当選を果たしただけだった。

 

・私は1977年以来、五木寛之を探し続けた。蜜月だった10年間から、現在に至る長い旅は終わっていない。なぜ私たちを裏切ったのか。五木寛之にいったい何が起きたのか。その真相をどうしても私は知りたかった。

 

革自連が惨敗した直後に、文藝春秋の幹部役員から「内緒だけど」と前置きされて、「五木には田中清玄(右翼の大物)からきついお灸を据えてもらった。作家を続けたいなら、政治なんかに手を出すなとね。相当ビビったらしいよ」

 と伝えられた。真偽はいまも不明である。五木が直木賞の選考委員に抜擢されたのは翌年の1978年だった。1979年には日本ペンクラブの国際委員長に就任している。

 

五木寛之が社名をつけたと聞く幻冬舎から『大河の一滴』『人生の目的』などのいわゆるミリオンセラーを上梓しているが、同系列の『生きるヒント』『他力』『下山の思想』と立ち読みすれば、そのテクニシャンぶりにいささかうんざりさせられてしまう。ロングセラーの『風に吹かれて』はこれまでに4百万部を売りつくしたと言われている。

 そこで私は改めて問いたくなるのである。なぜ革自連を捨てたのか、何かの圧力を受けたのか、それとも、それからの作家活動のために必要な変身だったのか。利害損得だけで仲間を裏切ってもよいのか、と。

 

永六輔と私の「貸し」「借り」半世紀>

「矢崎さんが死ぬ前にボクは死なない。何を言われるかわからないから」 永六輔

・「1回でなく連続してずっと書かせてもらいたいんです。もしそれが不可能なら、編集の仕事の手伝いでもいい」

 永六輔は多忙人間とは思えないことを口にした。会社と同じビルの中にある「ニュー・トーキョー」に席を移して、ゆっくり話し合うことにした。彼がすでに用意してきた企画プランが3つあった。時代考証のある「日本乞食考」、開国時代の日本をテーマにした物語「ヤッパンマルス」、それとはまったく違う「アカちゃん」という小説だった。いずれも長期連載向きのものばかりである。私は思わず唸った。

「いいんです。お付き合いするだけでも。それより編集者として使ってくれませんか」

 毎日出社して他の編集者と同じ仕事をしてみたいと言うのだった。そんなことを考えられないし、とうてい無理だと思った。まったくせっかちな人だと驚きながら、乞食の話に興味を示したところ、その原稿なら持参していると言う。さっそく見せてもらって、次号から「われらテレビ乞食」が始まることになった。

 永六輔との長い交流はこの日からである。

 しだいにわかったことだが、自分が興味を持ったことに忠実な人だったのだ。あまりの素直さに私は驚嘆し、信じられない思いでいっぱいだった。それこそ全身を使って行動するパワーが横溢していた。

 約5年間は、永六輔と『話の特集』及び私は蜜月時代だったと言ってもよい。

 

 

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)から引用。

{日本の自殺}

 

日本における自殺は、厚生労働省が公開している人口動態統計の年度別・死亡原因別の人口10万人中のシェアとランキングでは、2016年度は1位は癌で298.3人、2位は心疾患で158.4人、3位は肺炎で95.4人、4位は脳血管疾患で87.4人、5位は老衰で74.2人、6位は不慮の事故で30.6人、7位は腎不全で19.7人、8位は自殺で16.8人、9位は大動脈瘤および解離で14.5人、10位は肝疾患で12.6人である。

 

世界保健機関(WHO)は2015年度の統計では、人口10万人中の日本の自殺率と世界ランキングの高い順は、男女合計は19.7人で18位、男性限定は27.3人で20位、女性限定は12.4人で8位である(国の自殺率順リスト)。

 

OECDは、日本はうつ病関連自殺により25.4億ドルの経済的損失をまねいていると推定している。

 

WHOによると2015年の世界の10~19歳の若者の死因一位は交通事故、二位が大気汚染などによる呼吸器疾患、三位が自殺である。欧州と南アジアを含む地域で死因の1位または2位を占めている。

 

1990年代後半:戦後最大の自殺者数の急増

 

1998年(平成10年)にはバブル崩壊後で特に相次いだ国内の金融機関破綻があり、年間自殺者数が32863人(警察庁発表。人口動態統計では31755人)となり、統計のある1897年以降で初めて3万人を突破した。2003年(平成15年)には34427人(人口動態統計で32109人)に達し、現在までにおける過去最大数となっている。

 

1998年以降から近年まで続いたピークは戦後最大のものであった。それまで約2-2.5万人程度であった年間の自殺者数が3万人以上で推移する状況にあったが、1998年は前年の24391人から8000人以上も急増(前年比約35%増)した。うち25%は45歳以上の層のもので、中高年の自殺増が急増への寄与が大きい。急増した原因として景気の悪化を指摘するものも多く、各種統計や自殺者の遺書などから、今回のピークの原因は不況によるものと推測されている。OECDは90年代後半の自殺増の理由としてアジア通貨危機を挙げている。また読売新聞1999年8月7日付けの記事では自殺の急増、とりわけ男性の自殺者が増えたしたことを報じたが、そこでは「元気ない男性」として、男性が家事や育児に参加して男性の意識改革を図るべきとジェンダー論から自殺原因や対策を報じた。一方、船瀬俊介は著書「クスリは飲んではいけない!?」(徳間書店)にて1998年に自殺が急増したのは新抗うつ剤が出現した時と一致しているとの見解をしている。

 

不況の影響を受けやすい中高年男性でピーク後の自殺率が特に急増し、遺書から調べた自殺原因では、1998年以降、ピーク前と比べて「経済・生活問題」が急増している。内閣府経済社会総合研究所の統計では、失業要因が安定して有意に男性自殺率を増加させ、1998年以降の30歳代後半から60歳代前半の男性自殺率の急増の要因は、雇用・経済環境の悪化である可能性が高い事が年齢階層別データ分析、都道府県別年齢階層別データ分析の双方において確認できる。女性の自殺率はピーク前とあまり変わらず、男性の自殺率の影響が顕著である。男性は高年齢層で自殺しやすく、高齢化は男性の自殺率増加の原因を2割程度説明する。年齢別で見ると、40〜60代の増加が顕著で、特に60代ではピーク前の3割増になっている。

 

以上の1998年以降の「定年に至っていない中高年男性の自殺率増加」の背景には、過去のものとは動向が異なり、「経済・社会的な要因」が大きく影響している可能性が指摘されている。2003年(平成15年)には、年間自殺者数が3万4千人に達し、統計のある1897年以降で最大(自殺率も27.0と過去最大)となった。

 

リーマンショック以降

 

2009年(平成21年)までほぼ3万2千人台で推移、2010年(平成22年)より減少傾向となって3万人を超える水準は2011年(平成23年)まで続いた。 ただし、厚生労働省発表の人口動態統計のデータでは過去にも2001年(平成13年)と2002年(平成14年)、2006年(平成18年)に3万人を割っている。 「年間3万人」とは一日あたり平均80人以上となり、日本で2012年までの14年間だけでも45万人が自殺で亡くなっており、日本で家族を自殺で亡くした遺族は300万人を超えると推計されている2012年に清水康之によって、日本で暮らす人の40人にひとりは自殺者の遺族であり、日本人にとっては非常に深刻な問題で、身近にある問題であり、また日本の自殺者数は世界で8番目で、米国の2倍、イギリスやイタリアの3倍となっており危機的な状況と指摘されていた。

 

2012年(平成24年)以降は減少し3万人を下回った。2012年(平成24年)の日本の自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)は21.8人で総自殺者数は27858人である(警察庁発表)。これは同年の交通事故者数(4411人)の約6.32倍に上る。

 

2013年3月14日、警察庁は2012年の自殺者数を前年比9.1%減の27858人と発表した。

 

2014年1月の警察庁発表では、2013年の自殺者は27283人で、4年連続で減少した事が明らかとなった。特に経済・生活問題を動機とする自殺者が減っている。経済状況の好転の他、自治体単位での自殺を防ぐ活動による効果が出たと分析された

 

2014年版の自殺対策白書では、15歳から39歳の各年代の死因のトップが「自殺」であり、自殺対策白書は「15-34歳の若い世代で死因の1位が自殺となっているのは先進7カ国では日本のみ」としている。ただし、これは死因に占める比率であるため、自殺以外の死因が少なければ自殺の占める比率が上がることに留意する必要がある。WHOの調査によると2015年の世界の10~19歳の若者の死因1位は交通事故、2位が大気汚染などによる呼吸器疾患、3位が自殺である。欧州と南アジアを含む地域で自殺が死因の1位または2位を占めている。

 

2017年の自殺数は2万1321人で、史上最多の自殺者数・人口10万人中の自殺率を記録した2003年と比較して、自殺者数は61.9%に減少し、人口10万人中の自殺者率は62.2%に減少した。女性の自殺数は6495人で1969年以後で最少になった。

 

 

 

仮面の告白

三島由紀夫  新潮文庫   2003/6

 

 

 

三島由紀夫の作品における「仮面の告白」の中のフリーメーソン

・ 「夜、私は床の中で、私の周囲をとりまく闇の延長上に、燦然たる都会が浮かぶのを見た。それは奇妙にひっそりして、しかも光輝と秘密にみちあふれていた。そこを訪れた人の面には、一つの秘密の刻印が捺されるに相違なかった。深夜家へ帰ってくる大人たちは、彼らの言葉や挙止のうちに、どこかしら合言葉めいたもの、フリ-メイソンじみたものを残していた。また、彼らの顔には、何かきらきらした直視することの憚れる疲労があった。触れる指先に銀粉をのこすあのクリスマスの仮面のように、彼らの顔に手を触れれば、夜の都会が彼らを彩る絵の具の色がわかりさうに思はれた。やがて、私は「夜」が私のすぐ目近で帷をあげるのを見た」。

 

 

 

『昭和陸軍謀略秘史』

岩畔豪雄   日本経済新聞出版社   2015/6/25

 

 

 

<整備局統制化へ>

・作戦資材整備会議の「整備」を取って整備局、とこうしたわけです。だから、各現状の局課があるわけですね、兵器局であるとかあるいは経理局であるとかいろいろあるわけです。そういうところで、なにをどういうふうに整備するかということは整備局の統制課というのが全部ディクテーレンしたわけです。

 それから、動員課というのは国家総動員をやった、その二つの業務があったわけです。

 これは大したものですよ。いまはこういうものもあるのかも知れないが、電子計算機ぐらい持って行けばいいことなんでしょうが、大変な仕事ですよ。つまり、何をどういうふうにやるかということは常識的に考えてもいろいろな品目があるわけです。大体軍需品の作戦資材の品目が、商品名が軍隊で、いくらぐらいあったと思われますか。大体5万種でした。いまだったらおそらく100万種になっているんじゃないですか、なんとかかんとか、ローソクまで入れるとね。その5万種を全部挙げたわけです。

 そして、それを軍隊にいくつぐらいずつやったらいいかということを決めるわけですよ。単価がいくら、したがって予算がいくらいるということを出すわけです。ところが全部やるわけにはいかないから、平時はこれくらい、戦時になったらこいつは臨時に調達するのだ。臨時調達してもない物は製造するのだ、戦時の製造計画、徴発計画、平時の整備計画、これをみんなやるわけです。

 

<機密費の舞台裏>

・「君、もう少し金を持ってこい」と言うわけです。それは、いまの日本の今日の状態では絶対出来ないよ。当時の状態では、金が出来るというのは陸軍と満鉄です。それ以外にはないのです。みんな機密費というものを持っているのだから。いま内閣などは2億ぐらいしか持っていないというのです。内調などを含めてもね。2億ぐらいではなにも出来ないですね。いまだったら200億ぐらいのものを持っていないとね。当時の陸軍は3000万円持っておりましたからね。3000万円を1000倍とすると、300億なければいけない。それくらいのものを持っていたのですから。

 ぼくがインド工作というのを初めてやったが、あの時の機密費が1年に500万円ですよ。500倍として25億か、それだけのものを一大佐から少将に任されていたのだからね。

 

<戦前の金の作り方>

自民党のやつらは、選挙でも余計金が要るものだから大きなやつを時々やるものだから「黒い霧」だと言って騒がれる。大きなところは大将がやるけれども、大将がやらないと自分がやるものだからこんなことになってしまうのでね。この政治をやるためになんとか金を少なくすることも必要だし、あれもしなければならない。

 昔は陸軍とかあるいは満鉄でしたね。右翼などのたかったのは、陸軍がやったわけではなくて、金を貰いに来たからやったわけです。陸軍のほうは金を貰いに来ると、右翼には見境なくやる傾向がありましたからね、それは非常に悪かったことですが、そんなことでした。

 金は、いまはやはり「黒い霧」ではないが、なにか仕事をしてやってその代償として貰う、そこに「黒い霧」が起こるというのが今日の現象ですが、昔はそうじゃないので、大きな会社が、儲かったからと言ってポンと出すわけなんです。それをみんなに分けるわけです。

 

・それで、とうとうあれが死ぬ前にぼくに、「軍事課長、わしも今度非常に儲けたから1000万円寄贈をしたいから、陸軍と海軍の人の子供が転勤になると学校にはいれぬから、中学校と女学校を一つ作ってもらえんか」ということで、それが山水という女学校と中学校の二つを1000万円で作った。それが今日桐朋という学校があるでしょう。

 

<政治工作>

・政治工作はあまりやらなかった。陸軍は下手ですよ。実は、今日、ぼくは大東亜戦争批判についてはどうしても書きたいと思うのは陸軍と海軍の喧嘩だ。海軍は陸軍に比べて非常に頭がいいね。陸軍は宮内省とか首脳部にはなんにも手が打てない。海軍は高木惣吉という人が調査課長で、これは随分やっておるね。

 

・つねに海軍はそういう首脳部に付いている。陸軍はただ力でやっているだけでしょう。2・26なんかにしても、天皇陛下は、2・26の連中は逆臣だと言っているのに、「まだ2・26の連中は、天皇陛下のお志はわれわれにある」というようなそういう誤解をしているくらいバカですよ。そういうところが非常にあるのですね。だからそういう点から見ても海軍のほうは非常にスマートであったと私は思っています。

 思想的にも、陸軍はぐっと力で押していく。満州で事があるとそれを押す。海軍はやらんものだから、結局高木なんという人が中心に、哲学を持ち出す高山岩男さんなんというのは、高木君が哲学をやっているものだから、海軍はそういうところも利用しており、陸軍はバカだったということを痛切に感じますね。

 

・―― 昭和8年頃、3000万なりの金は、そういうものがやはり政治工作などに使われたことは間違いないわけですね。

(岩畔)それは政治工作にはあまり使われていないですよ。おそらく機密費を政治的に使ったというのは――細かいことで議会の議員を操縦するのに相当使っておったでしょうね。しかし、あんまり大きな民間の動きに対して使ったということはありません。