日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

自殺は間違いないと思うが、芹沢光治良のように死ぬまで川端は事故死だと主張していた友人もいた。しかも、日本ペンクラブ関連の資料は、「自殺ではない」と証言している作家たちの記録だけが現在も保存されている。奇妙な話ではないか。(3)

 

『地球維新  解体珍書』

白峰、鹿児島        明窓出版 2011/5/5

 

 

 

日本政府大激震! 「UFOは確実に存在する!?」11人の現役・OB自衛官の証言

・実録『自衛隊パイロットたちが接近遭遇したUFO』(講談社 佐藤守

(紹介文)自衛隊現役パイロットたちの証言を初公開!航空自衛隊の空将まで登り詰め、飛行時間3800時間を誇った元戦闘機パイロットによる渾身のノンフィクション。

 UFOはなぜ原子力発電所近くに飛来するのか?「UFOは確実に存在する!」11人の現役?OB自衛官の証言。

 

・(鹿児島UFO談)・・・ちなみに佐藤守さんは『金正日は日本人だった』(講談社)という本を書いておられます。わたしは、みなさまご存知のように、UFOは大型母船、小型艇も接近遭遇・ハッキリ目撃したこともあります。UFOを信じない人も多いですが、反対意見とか、何を言われようと、実際に見たのですから!仕方ないです(笑)。

 

自衛隊の方にも知り合いがいます。UFO遭遇はたまにあるそうだが、緘口令があるので、普通は言っていけないそうですが、私には、「やっぱりいるんだよ!」とコッソリ教えてくれました。「UFOなんてバカげたもの」という世間の常識をブチ破り、世の中を大きく変える「地球維新」のキッカケとなるとイイですね。またUFOなどないという社会通念があるのは、UFO関連技術を独占している某機関がマスコミや学者を通じて世界的に情報操作をしているのです。

 

 

 

『空自ファイターが遭遇したナゾの未確認飛行物体』

蒼天のミステリー   佐藤守   「丸」2011年12月号

 

 

 

<航空界のタブー UFOの話>

階級の支配する自衛隊という組織

航空自衛隊内でUFOの目撃が相次いでいるなどというと航空自衛隊はなんと非科学的な人達ばかりなのかと誤解する方もいるかもしれないが、それは間違いである。

 

自衛隊の教育システムはしっかりとしているといえる。それだけに正体不明の飛行体を見ても、安易に未知の生物体の乗物だとか、他の惑星からの宇宙船などといった可能性は真っ先に排除して考える常識人であり、普通は合理的な解釈をしようとする。

 

・従って、仮にそうした謎の飛行物体を目撃しても話す相手がなかなかいないのも事実である。うかつに話すと、松島事件のG二尉やM二尉のように誤解を受けて辛い目に遭うという危険性があることも誰もがわかっているし、航空自衛隊の任務はあくまでも「国籍不明機」が対象であって、UFOと遭遇しても「報告の義務」はない。

 

・その上仲間から変な男と思われかねないので自分の胸のなかに秘めてしまうのであろう。

 

・民間航空はそれ以上に厳しいらしく、UFO目撃報告をすると有無をいわさずに地上職に回されるというから、この手の話は常に「ミステリー」の範疇からでることはない。

 

 

 

『いますぐ飛行機に乗りたくなる本』

秋本俊二  NNA  2008/7/7

 

 

 

<機長らのUFO目撃談>

・搭乗中、目撃してもうかつにしゃべれない。

 

・多くのパイロットがフライト中のコクピットから実際にUFOを見ているーということは私も聞いたことがあります。ですが、そういう話はあまり表面には出てきません。

 

本当に目撃したとしても「見た、見た」と騒いで、ライセンス更新時に眼科や精神科の検査で引っかかるのを彼らは、恐れているのかもしれません。

 

・ところが、カタログハウス社から届いた『通販生活』(2007年春号)に、面白い記事を発見しました。日系エアラインを退職した元パイロットらの座談会が掲載されていて、その中で、「かってUFOに遭遇した」という話が出てくるのです。JALとANA,そして旧JASの元パイロット3人のうち、2人がUFOについて語っています。

 

・元JASのパイロットは30年ほど前、瀬戸内海上空を飛んでいる時に異常な激しい光と出くわし「未確認飛行物体が飛んでいたことを管轄の運輸省に報告した」と話しています。それに対して元JALのパイロットも、同僚のパイロットが1986年にアラスカ上空でUFOに遭遇したことがある、という話を披露。そのことは、当時のマスコミにも大きく取り上げられたそうですが、目撃した当人は記者からのインタビューで「絶対に誤認ではない」と強気のコメントをしていたためか、その後は、地上職に異動させられてしまったらしい。つまり、多くのパイロットが現実にUFOと遭遇していても、それをうかつに披歴できない空気がエアライン各社の社内にはあるらしいのです。

 

現役クルーから「私も謎の物体を見た!」

・雑誌で堂々と証言できたのは、すでに退職した後だからかもしれません。そう考えて、私などはますます興味がわいてきます。

 

・「かく言う私(現役クルー)も、17年前に千歳発の最終便で、茨城県阿見付近上空で、十数個のピンポン玉のような発行体に遭遇しました。私の機の後ろを飛んでいたトライスタ1011には知り合いのフライトエンジニアが乗っていて、後にその不思議な体験について二人で話し合ったことを覚えています。この一件は、ローカルニューズでも紹介されました。大阪から来たクルーも、その不思議な光を目撃していたそうです」

 

・「それらの光は太平洋のほうに消えていきました。気がつくと機内の温度が異様に上昇していたことをいつまでも鮮明に記憶しています」

 

 

 

『天使的宇宙人とのコンタクト』

(ハワード&コニー・メンジャー)(徳間書店)2007/7/19

 

 

 

金髪の白人タイプの金星人との遭遇

<不思議な円卓 / ついに宇宙船内に入る>

・「ハワード、あなたもご存じのように、私達の同胞はあなた方の世界に大勢いるのです。あなた達の中に紛れて観察しながら、できる限りの手助けをしています。彼らは、工場、オフィス、銀行など、あらゆる職場で働いています。自治体や政府の要職に就いている者たちもいます。ある者は、掃除係りの女性であるかもしれませんし、ゴミ回収業をしている者すらいるかもしれません。でも彼らに会った時、あなたは、その正体が分かるでしょう

 

・「あなたは、まだ知らないのよ、ハワード。この惑星にはとても強大な力を持ったグループが存在するの。彼らは、途方もないほど多くの知識を持っていて、それはテクノロジー、心理学、そして最も残念なことに高度の脳療法(操作)の知識なのです。彼らは、あなた方の世界の政府(複数)のある主要な人物たちを利用しています。彼らのグループは人を巧みに操ることに長けていて、あなた方の神法上の存在の“サタン”の手先とも呼べるような集団です」

 

<月面での観光旅行>

・そうこうするうちに私たちは、ようやく停車ポイントであるもう一つの巨大なドーム型建造物に到着した。

 

・それから私たちは、言語別にさらに細かいグループに分けられ、それぞれに通訳のガイドが割り当てられた。

 

ほかのグループを見ると、そこには多数のロシア人、日本人、ドイツ人、そして他の国々から来た人々がいた。言葉の壁があったにもかかわらず、月面旅行に参加している全ての人々はお互いを理解し合って、兄弟姉妹のように感じられる一つの絆で結ばれていた

 

 

 

『天使的宇宙人とのコンタクト』

(ハワード&コニー・メンジャー)(徳間書店)2007/7/19

 

 

 

2012年、彼らは、戻ってくるのか

・「彼らは、“ちょうど金星から来たところだ”と言ったのであり、金星人だとは言わなかったからだ。彼らは、金星や火星に基地を持っていただけで、別の惑星から来たのかもしれないか、別の次元から来たのかもしれない。あるいは地球の内部から来ていたために、それから目を逸らせるために金星と言ったのかもしれない」と説明する。

 

メンジャーと2012年のアセンション情報との意外なつながり

・もし、同じ惑星に3次元の姿と4次元の姿(または異次元の姿)が同時に存在しているとすれば、地球人に見えるのは3次元の金星だけで、4次元の金星は“別の惑星(太陽系)”に属していると言えるのかも知れません。

 

・ただ、前述のクリスティーナが金星の一部はまだ3次元にも同時に存在していると語るように、2つの世界は連続していると仮定した場合、その次元の差に追いつくことがアセンション(上昇)だとすれば、2012年に地球はアセンションして、別の次元の太陽系の仲間入りをするという可能性もあながち否定はできないと思います。メンジャーが聞いた「2012年にまた戻ってくる」という最後の言葉は、彼らがアセンションをサポートしにくることを指しているのでしょうか?でも、彼らが、そこまで地球人の面倒を見ようとするのはなぜなのでしょうか?

 

 

 

『日本政府はUFOを知っていた』 

(太田東孝)(KKベストセラーズ)(1992年)

 

 

 

UFOの存在を認めた現役自衛官の証言

・「そもそも全ての自衛隊の内部ではUFOの存在を認めています。報告義務もあります。もちろんUFOとは既存の航空機や天体、人工衛星、気球、鳥等とは違うものとして、はっきり区別したものを指しています」

 

・「私が所属する海上自衛隊ではUFOを目視した場合CIC(コンバット・インフォメーション・センター)という部署に報告します。ここはレーダーを使用している部署ですのでCICでもUFOを捕捉している場合もあります」

 

・「まず自分が教育隊に入ってからの話なんですが、上の情報課の人と知り合いになりまして、その人の話の中で興味を引いたのは『“本庁(防衛庁)”には、UFO情報を分析処理する専門の部署が存在する』ということでした。

 

・「この部署は、陸・海・空のすべての自衛隊から集められた目撃報告などのUFO情報を取り扱い、特に航空からの(UFOに対してスクランブルした)情報は重要なものだそうです」

 

・「また米軍との合同演習では海軍の米兵から、米軍がUFO識別のために使用しているマニュアルの類を何回も見せてもらっていますから、米軍にとっても、自衛隊にとってもUFOがいることは当たり前の事実なのです・・・・」

 

航空自衛隊にはUFO報告用の規則がある

・UFOの名付け親である米空軍がUFOの報告について定めた規定『AFR200―2』がある。この空軍規定は、1954年に米空軍が発行したもので、その中に先の飛行物体としてUFOの定義がはっきり書かれている。そしてまた、ヒストリカル・レポートに『航空自衛隊規定200-4A』がでているということは、これがまさに航空自衛隊がUFOを報告する時に使用する規定であったわけだ。

 

・ただし、現在の防衛庁にこの規定を問い合わせてみると、「アメリカのヒストリカル・レポートに載っているなら確かなことでしょうが、現在、航空自衛隊規定200-4Aなるものは、全く見当たりません」と、お決まりの回答しか返ってこなかった。

 

 

 

『UFO軍事交戦録』  元国連広報担当官が公開する爆弾文書

(コールマン・S・フォンケビスツキー)(徳間書店)1992/7

 

 

 

円盤と米空軍との死闘

<UFOは組織化された軍隊なのか?>

1953年2月合衆国大陸防空司令部担当のベンジャミン・チドロー将軍のコメント・・・・。

「空飛ぶ円盤に関する報告が山積みしている我々は、事態を真剣に受け止めなければならない。円盤を迎撃すべく努力した結果、我々は、たくさんのパイロットと戦闘機を失っている」

 

国際連合

・1967年6月、ウ・タント国連事務総長のコメント。

「私は、UFOがベトナム戦争に準じて我々が、直面している最も重要な問題であると考えます」

 

戦艦の上を飛び越えた「金星」

・1945年2月の西太平洋。アメリカ合衆国海軍の戦艦ニューヨークとその護衛の駆逐艦が12インチ砲で銀色の物体に砲撃。物体は2階建ての家ほどの大きさと推定された。硫黄島作戦に向かっていたこの戦艦上のパニックを避けるため、物体は金星であったと発表された。

 

撃墜された日本のファントム・ジエット戦闘機

・1974年6月9日、茨城県百里基地、ナカムラトシオ二等空佐の操縦するF-4EJファントム戦闘機は、夜間、東京空域に出現した赤みがかったオレンジ色の円盤型の航空機を迎撃するように命令された。

 

・UFOが戦闘機に衝突したのか、あるいは戦闘機を撃墜したのか、戦闘機は制御を失って炎を上げながらきりもみ状態になった。ナカムラ二等空佐のパラシュートは炎上し、二等空佐は死亡。コ・パイロットのクボタ・シロウ三佐は生還した。

 

 

 

『近現代の法華運動と在家教団』   シリーズ日蓮4

責任編集  西山茂     2014/7/25

 

 

 

『国家改造と急進日蓮主義――北一輝を焦点に』 津城寛文

 

・ほとんどの宗教には、平和的な理想とともに、闘争的な種子が含まれている。とくに、理想を実現するための手段として、「聖戦」「正義の戦争」などの語彙を持つ思想は、内外の一定の条件が揃えば、急進的に闘争化する。非暴力の原理を打ち出した宗教ですら、人間集団のつねとして、一部が暴力化することは避けられない。

 本稿では、1930年代(昭和10年前後)の日蓮主義の急進化を、北一輝(1883-1937)に焦点を絞り、さまざまな「法」「仏法」や「国体思想」などの宗教的世界観、「世法」と呼ばれる実定法、「心象」と表現される私秘的ビジョン、考え、思想・行動の根拠・原理となる規範体系)の交錯する情景として描いてみる。

 

 

<時代状況>

・「右翼テロ」の出発点とされる1921(大正10)年の安田善次郎刺殺事件の犯人、朝日平吾は、社会に害をなす「吝嗇」な「富豪」を殺害するという暗殺思想を単独で実行し、「右翼テロリズムの偶像」となった。朝日が『改造法案』の影響を受けており、遺書の一つは北一輝宛であったこと、それを受け取った北が読経中に朝日の幻影を見たというエピソードは、随所で語られる。

 

・「国家改造」「昭和維新」という言葉が流行した時期、国内ではテロやクーデターのうねりが高まっていた。北一輝を迎えた猶存社(1919年結成)は、その震源の一つであり、「国家組織の根本的改造と国民精神の創造的革命」を宣言し、綱領の七点の内には「改造運動の連絡」が謳われており、指針として配布された北の『国家改造法原理大綱』という政府批判の強力な「魔語」、「霊告」などが絡み合い、事件が相継ぐ。このように、一連の事件の出発点から、北一輝の関与が見え隠れしている。

 

北一輝は、「北の革命思想と宗教というテーマに取り組んだ研究は、まだ見当たらない」と指摘されるように、政治と宗教の関係に「謎」が残る人物である。またその「宗教」は、西山茂氏によって「霊的日蓮主義」と表現されるように、「社会」的側面だけでなく、「他界」的要素に光を当てねば理解できない部分がある。

 

・「日蓮主義」とは田中智学が造語し、その影響で本多日生も用いた言葉で、「法国冥合(政教一致)」による理想世界の実現を最終目標とする、社会的、政治的な志向性の強い宗教運動を指し、1910年以降の社会に大きな影響力を及ぼした。統一閣を訪れた中には、のちの新興仏教青年同盟の妹尾義郎、いわゆる「一人一殺」を標語とする「血盟団」の首謀者の井上日召(1886-1967)、いわゆる「死のう団」の指導者(盟主)の江川桜堂(1905-38)などがいた。狭い意味での日蓮主義は、この智学と日生、およびその周辺を指すが、従来の研究では近現代の日蓮信奉者や日蓮仏教を広く取りまとめる用語としても拡大使用される。そのような(不正確かもしれない)傾向との連続性のため、本稿では敢えて広義の日蓮主義を採用する。急進日蓮主義とは、この広義の日蓮系の思想運動が急進化、かつ事件化したものを指しているようであり、血盟団事件、死なう団事件、2・26事件が目立っている。

 

血盟団事件と死なう団事件>

井上日召日蓮宗に惹かれたのは30代半ばからで、国柱会その他の法華宗日蓮主義の講演を聴き回り、日蓮関係の書籍を読むことで、「自分の肉体を武器として、日本改造運動の一兵卒」になることを志すようになった。やがて日蓮主義や日蓮各派から離れ、改造運動指導者を別に求め、40代を超えて「国家改造の第一線に立とうと決心」し、茨城県の立正護国堂で実行者たちを育成することになった。

 

・戦後に発表された「血盟団秘話」では、当時は語られなかった経緯も出てきて、暗殺という直接行動については、「悪いに決まっている。テロは何人も欲しないところだ。私は政治がよく行われて、誰もテロなどを思う人がない世の中を、実現したいものだと念じている」と述べている。

 

・江川家の墓所を預かる三有量順氏は、江川桜堂の関係者から託された一次資料をもとに、「日蓮会」および「日蓮会殉教青年党(いわゆる「死なう団)」の当事者側の情景を描き出している。夭逝した桜堂を、三友氏は「哀悼の会」をもって「市井の熱烈な日蓮主義者」と呼び、「純粋な法華・日蓮信仰は周囲の人々に感化を及ぼした」こと、「自ら書画をよくした」ことなどを資料で跡付けている。そこに像を結ぶのを抱いて強化活動に邁進しようとする、若き宗教的指導者」としての桜堂である。

 

・それによると、血盟団事件や5・15事件で東京の警視庁がめざましい活躍をしていたので、神奈川県警も手柄を立てようと焦り気味であったところに、恰好の事件が起こった。日蓮会は「政治的、思想的、反社会的団体ではない」ことを井上が説明したが、県警は「死なう団は右翼テロ団」という報告書を出して、事件はまったく違ったものになったという。この間の県警による捏造や隠蔽などの不祥事も、淡々と語られている。

 

<2・26事件>

・2・26事件は、先行する血盟団事件や5・15事件と同様、「その後の用意・計画がない」とされる一方、綿密な計画を持つクーデターともされ、別のあり得たシナリオもさまざまに描かれている。夥しい研究によっても全容が解明されているとは言い難く、とくに北一輝の思惑や関与については、定説がない。そのようなわかりにくさの集約した場面が、2・26事件後の北の「無為無策」という「謎」である。

 

・考えられる別のシナリオについて、首謀者の一部にそのようなプランや思惑がじっさいにあったという指摘が散見する。筒井清忠氏によれば、血盟団事件や5・15事件は、「暗殺を行なうことそれ自体が目的」の「捨石主義」的なテロであったが、2・26事件は「政権奪取計画」を持ったクーデターだった。

 この事件の「成功」の可能性を検討」するために、筒井は青年将校を、「斬奸」のみを目的とする「天皇主義」グループと、「政治的変革」を目指した「改造主義」グループに二分する。磯部浅一らを中心人物とする後者は、『改造法案』を「具体的プログラムとして」、「宮城占拠」や工作により、「皇権」「政治大権」を奪取奉還することを目指していた。

 

・政府や軍部内にさまざまな動きがある中で、天皇の意向を受けた木戸が合法的な手続きを踏んで「鎮圧」を決定した、というわけだが、別の「法」に基づく合法性があり得たとすると、これは「合法性」の戦い、さらには「法」そのものの戦いと言える。この「磯部と木戸の戦い」というところを、背後まで突き詰めて「北と天皇の戦い」と言い換えても、同じことが言えそうである。

 

北一輝の社会思想>

・「非合法、合法すれすれ」の煽動家とされる北は、若き日の社会思想では、その理想とするところも、論説による啓蒙や投票といった手段についても、合法的なもので一貫していた。

 初期の論考「咄、非開戦を云ふ者」や「社会主義の啓蒙運動」そして集大成『国体論及び純正社会主義』においては、「国家の力によりて経済的平等を実現」「鉄血によらず筆舌を以て」「立法による革命」「純然たる啓蒙運動」「普通選挙権の要求」「「投票」によりて」など、「方法は急進的にあらず、手段は平和なり」と主張される。その「理想を実現」するため、対外的には「帝国主義の包囲攻撃の中」において「国家の正義を主張する帝国主義」の必要が説かれる。戦争の擁護というリアル・ポリティックスも、好き嫌いはともかく、現代においてすら、非合法な主張ではない。

 

・『改造法案』には、巻一で「憲法停止」「戒厳令」、巻二で「在郷軍人会議」(検閲を憚ったもので、実は「軍人会議」とされる)の革命思想が出ている。「啓蒙」と「投票」という平和的手段による「革命思想」から、革命は合法的にはできないというリアリズムに変わった転換点は、『支那革命外史』の前半部と後半部のあいだに求められている。北自身、このころから「信仰」に専心したと供述し、また暗殺された友人・宋教仁の亡霊が現われた、というエピソードもしばしば語られている。

 

<「霊告」という私秘的ビジョン>

北一輝の影響は、「統帥権干犯」といった政治的「魔語」の操作だけでなく、「霊告」という呪文となって、財界や軍部に浸透していた。法華経読誦を手段とする「霊告」については、以前から断片的なエピソードとして言及されてきたが、松本健一氏が、『北一輝 霊告日記』として編集刊行して以来、全貌が知られるようになった。1929年から1936年まで記録されている「霊告」について、松本氏の最も短い説明は、北が法華経を読誦していると、その横に座っていた妻すず子が何か口走り、それを北が解釈、筆記したもの、となる。シャーマン研究の用語を使った説明では、「シャーマンの言葉」を「プリースト」が聞き取り、読みとったものとされる。「プリースト」という言葉の使い方はやや不適切であるが、これは「霊告」がシャーマニズム研究の対象となるべきことを指摘したという意味で、重要な説明である。その機能については、「北の漠然とした思いや心理に、表現を与える」「神仏の名を借りて誰かに自分の思いや考えを述べる」もの、とされている。松本氏が強調しているのは、「霊告」と前後の事件を読み合わせると、それが「幻想」の記述ではなく、「時々の事件をふまえての記述」になっていることである。たとえば、「軍令部の動きと政友会、そして政治の裏面における北一輝の暗躍とは、明らかに連動する」として、ロンドン海軍軍縮条約が調印された際の、「朕と共に神仏に祈願乞ふ」という明治天皇名の霊告は、「明治天皇の名を借りて……国家意志を体現しようとしたもの」とされる。5・15事件に際しての山岡鉄舟名その他の霊告が、どれも「まだ時期が早い」といって止めるのは、明治維新の「事例」を引いて「忠告」するもの、と解釈している。

 

・「霊告」という「宣託」の出所について、北一輝研究では「想像力」「無意識」といった心理学用語で済まされる一方、「心霊学」といった分野が示唆されることもある。北一輝研究の一里塚とされる田中惣五郎氏は、「お告げ」や「亡霊」について、「心霊学の域にぞくする」として、そのような説明を求めている。

 

 大正半ば以降の北が法華経読誦に没頭したこと、「亡霊」と語り始めたこと、とくに「霊告」を綴ったことについて、これまで多くの論者によって二つの契機が指摘されている。一つは、暗殺された友人、宋教仁の幻影を見たことである。もう一つは、法華経読誦による神がかりを永福虎造という行者に習ったことである。どちらも、弟・昤吉の記録が重要な典拠になっている。

 

・こういう問題を考えるときに、最も巧みな用語を工夫しているのは、やはりC・G・ユング(1875―1961)である。ユング的な解釈では、無意識は集合的無意識にまで拡大し、「漠然とした思いや心理」の範囲は限定が難しくなる。藤巻一保氏は霊告について、北の自我が後退し、「神仏」=「深奥の闇に形成された意識化の影の自我」が前面に出てきた者、と説明する。「影」とはユング心理学の用語である。『霊告日記』を、「その特異な性格から、アカデミズムが言及を避けてきた著作」「霊界通信録」と位置付けた藤巻氏の著作は、たしかに「まとまった分析は、筆者の知るかぎり、本書が最初のもの」とは言える。

 

・藤巻氏は北昤吉の記述などから、北の特徴を八つにまとめている。そのうち、「神秘的性質」「霊感」「神憑り的」「幻視者」の四つは「作家や詩人、画家」などとも共通し、五つ目の「法華経の「狂信者」」も少なくないが、六つめから八つめの「霊界通信ができる」「ウィルソンを呪殺したと確信する呪術者である」「予言者である」の三つについては、これらは「シャーマニズム研究に共通する難問であり、藤巻の説明もその前で足踏みしている。そこから一歩でも踏み出せば、ウィリアム・ジェイムズらの心霊研究が待っていることに気付くだろう。

 

<「法」のせめぎあい>

・西山茂氏の言う「霊的日蓮主義」には、日蓮的な仏法(宗教的世界観)、世法(実定法)に加え、さらに私秘的なビジョンという、三つめの「法」が関わる。この私秘的ビジョンを「心象」と呼ぼう。宮沢賢治が「自分の目に映る情景」を他人に伝えるときに用いた言葉を、用語として採用するものである。

 

・この三つの法は、宗教とまとめられる世界に、さまざまな組み合わせで交錯している。北一輝の場合、霊告(心象の範囲)は、法華経読誦(仏法の範囲)を手段として、国家改造(世法の範囲)に関与している。国体論の中にも、記紀神話(宗教法の範囲)、と統治(世法の範囲)と、各人のビジョン(心象)が交錯している。

 

北夫妻のシャーマニズム技法について、藤巻氏の指摘で、最も重要なのは、永福から伝えられた「神懸かり」は「安直な方法」「興味本位の見世物」「民間巫覡や「霊術家」の降神法」「催眠術で身につけた精神統一」および自己暗示」であり、「複雑な手続きと厳格な次第」を持つ「日蓮宗の寄祈禱」とは異なる、という点である。

 

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)

北一輝

北一輝(きたいっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)、1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家国家社会主義者。二・二六事件の「理論的指導者」として逮捕され、軍法会議の秘密裁判で死刑判決を受けて刑死した。

 

1920年(大正9年)12月31日、北は、中国から帰国したが、このころから第一次世界大戦の戦後恐慌による経済悪化など社会が不安定化し、そうした中で1923年(大正12年)に『日本改造法案大綱』を刊行し「国家改造」を主張した。

その後、1936年に二・二六事件が発生すると、政府は事件を起こした青年将校が『日本改造法案大綱』そして「国家改造」に感化されて決起したという認識から、事件に直接関与しなかった北を逮捕した。当時の軍部や政府は、北を「事件の理論的指導者の一人」であるとして、民間人にもかかわらず特設軍法会議にかけ、非公開・弁護人なし・一審制の上告不可のもと、事件の翌1937年(昭和12年)8月14日に、叛乱罪の首魁(しゅかい)として死刑判決を出した二・二六事件 背後関係処断)。

死刑判決の5日後、事件の首謀者の一人とされた陸軍少尉の西田税らとともに、東京陸軍刑務所で、北は銃殺刑に処された。この事件に指揮・先導といった関与をしていない”北の死刑判決”は、極めて重い処分となった。

これ以降、梅津美治郎石原莞爾など陸軍首脳部は、内閣組閣にも影響力を持つなど、軍の発言力を強めていった。

なお、北は、辛亥革命の直接体験をもとに、1915年(大正4年)から1916年にかけて「支那革命外史」を執筆・送稿し、日本の対中外交の転換を促したことでも知られる。大隈重信総理大臣や政府要人たちへの入説の書として書き上げた。また、日蓮宗の熱狂的信者としても有名である。

 

 

 

 

『シリーズ日蓮4   近現代の法華運動と在家教団』

西山茂 責任編集    春秋社   2014/7/20

 

 

 

石原莞爾と「世界最終戦争」・「東亜連盟運動」  仁科悟朗』

 <最終戦争論>

・最終戦論が世に出たのは、1925年、ドイツから帰国の途中のハルピンでの国柱会の講演会であった。その後、1940年9月発表の『世界最終戦論』で、広く知られるようになる。

 

 過去の歴史をいろんな分野で探って見ても、今や人類の前史は終わろうとしている。そして絶対平和の第一歩になる、人類の最後の大戦争が目前に迫る、と将来を予想する壮大な理論であった。

 

 それは「Ⅰ.真に徹底する決戦戦争なり。Ⅱ.吾人は体以上のものを理解する能わず。Ⅲ.全国民は直接戦争に参加し、且つ戦闘員は個人を単位とす。即ち各人の能力を最大限に発揚し、しかも全国民の全力を用う」とされる。そしてこの戦争が起こる時期は、「Ⅰ.東亜諸民族の団結、即ち東亜連盟の結成。Ⅱ.米国が完全に西洋の中心たる位置を占むること。Ⅲ.決戦用兵器が飛躍的に発達し、特に飛行機は無着陸にて容易に世界を一周し得ること」で、間もなくやってくる、と考える。過去の戦争から何を学び、何を為すべきかの実践的な対処、決断を要請する理論でもあったのだ。

 

・「私の世界最終戦争に対する考えはかくて、1.日蓮聖人によって示された世界統一のための大戦争。2.戦争性質の二傾向が交互作用をなすこと。3.戦闘隊形は点から線に、さらに面に進んだ。次に体となること。の三つが重要な因子となって進み、ベルリン留学中には全く確信を得たのであった」

 

・石原の信仰への動機は、兵に、「国体に関する信念感激をたたき込むか」にあった、という。そこでその答えを神道に、または本多日生に求めたりして、模索を続け、遂に1919年に入信を決意する。日蓮の『撰時抄』中の「前代未聞に大闘諍一閻浮提に起こるべし」は、軍事研究に「不動の目標」を与えた、という。

 

国柱会創始者の田中智学(1861-1939)は在家で、日蓮信仰の改革、高揚を目指すと共に、「八紘一宇」の旗の下、日本国体を強調して明治・大正・昭和時代に、仏教関係者に限らず、多方面に大きな影響を持ち、一つの枠に入りきれぬ人物であった。高山樗牛宮沢賢治の師としても知られている。

 

・1938年、石原は舞鶴要塞司令官時代に、信仰上の危機に襲われる。その衝撃は日記にも残っていた。「仏滅年代に関する大疑問!人類の大事なり」、「本年は仏滅2426?70年以内に世界統一???」。

 石原は大集経による正法の時代、仏滅後1000年、次いで像法の時代、1000年、これら二つの時代の後に末法の500年が来る、という信仰を持っていた。石原は信じる。日蓮は自分こそ、この最後の500年、つまり末法の最初の500年に釈尊から派遣された使者、本化上行なのだ、と自覚する。そして日本を中心に世界に未曾有の大戦争が必ず起こるが、そこに本化上行が再び出現し、本門の戒壇を日本に建て、日本の国体を中心とした世界統一を実現する、と予言したのだ、と。同時に石原は確信する。だがしかし時はまだ来ていない。その末法500年まで、つまり仏滅後2500年までに実現する、いやさせなければならない。それをこの日までの石原は疑っていなかった。

 

・それが仏滅の年代が後年にずれた結果、日蓮誕生が今まで自分が信じて疑わなかった末法の時代ではなく、像法の時代であることになる。それで信仰が根底から揺らぐ衝撃をうけたのだ。

 苦悩の末、日蓮の『観心本尊抄』の一節、「当に知るべし。この四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成りて愚王を誡責し、摂受を行ずる時は、僧と成りて、正法を弘持す」を支えにすることで、この危機を脱したのである。

 

 石原の言葉を引用しよう。「本化上行が二度出現せらるべき中の僧としての出現が、教法上のことであり観念のことであり、賢王としての出現は現実の問題であり、仏は末法の五百年を神通力を以て二種に使い分けられたとの見解に到達した」のであった。

 

・「五五百歳二重の信仰」である。この考えは以来、国柱会を始め、先学の批判にあっても、生涯変えようとはしなかった。石原の堅い信仰になる。西山茂氏が指摘する通り、アドベンティストの予言である。明確な年代表示に拠る信仰は、厳しい現実に直面することになる。日記にあった、仏滅年代が西暦前の486年とする。『衆聖點記』に従えば、没後2500年は間もなく到来する。中村元説に拠れば、釈尊入寂は、西暦前383年なので、現時点では必ずしも破綻したとは言えないのだが。