日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

天狗のかかあになったという。ひどく若く見えたので聞くと「年に一度、天狗に脇の下から血を吸われる。そのせいだ。けどそれが一番辛い」と言った。(1)

 

『現代の民話』

あなたも語り手、わたしも語り手

松谷みよ子  中公新書 2000/8/1

 

 

 

神かくし

まさしくあったることとして

現代の民話を集めていると、何とも不思議な話に出合う。それも、そのときのその場に居合わせたという人の話には実感があって、「まさしくあったること」なのである。

 

・今からもう十数年前、青梅線の御岳の稲毛屋という宿へ、よく仕事をかかえていっていた。ある日、宿の女主人の紹介で郷土史家の清水利さんにお目にかかる機会を得た。そのうち思いもかけず神かくしの話になった。

 

大正12年の7月の朝、青梅線がまだ私鉄で青梅鉄道といっていた自分だという。土地の男衆が、日向和田駅の西の細い小川で朝草刈りをしていた。と、しくしく泣く声がする。振り向いてみると5、6歳の女の子が泣きながら山から降りてくる。どうしたと聞くと泣きながら何かいう。その言葉が聞きとれない。そこでその女の子をおぶって日向和田駅へ連れていった。駅長はその女の子のなまりや姿から、東北地方の山村の子に違いないと、お手のものの鉄道電話で立川の駅長に事情をはなし、各方面に調査を依頼した。女の子は社宅に連れて帰って奥さんに世話をさせた。

 盛岡から通報が入ったのはその日の夕方で、女の子は岩手の山村の子と判明した。女の子は前の日まで近所の子と遊んでいた。それがふっと姿を消した。「戻せかやせ」と鉦を打ち鳴らしてさがしたが、一夜あけても姿はなく、神かくしかといいあっていたという。

 やれよかったと次の朝、岩手県のなになにのどこの駅でおろしてほしいと、大きな木札にくわしく書きつけ、女の子の首からさげてやった。そして握り飯をたくさん持たせて列車に乗せた。数日経てその女の子の両親から、たどたどしい礼状が日向和田駅の駅長あてに届いていたという。

 

何としても不思議なのは前の日、岩手の山村で遊んでいた小さな女の子が、次の朝何故、東京の奥多摩の青梅の山の中に来ていたのか、ということである。大正12年といえば1923年、勿論新幹線もない時代である。村では天狗さんの仕業といったとか。

 

・もう一つ、どうしても説明がつかない、天狗の神かくしと思われる話を、長野県諏訪で教員をしていた赤沼政美さんから聞いた昭和13年(1938)のことをいう。

 秋の遠足で塩尻峠へ遠足にいった帰り途、3年生の男の子が1人いないのに気がついた。初めは呼べばすぐ出てくると思っていたのに、いくら大声で呼んでも返事がない。手わけして捜してもいない。青くなって村の人や消防団、警察と八方手を尽くしてさがしても、姿は見えない。日は暮れる。松明をつくって再度山へ出ようとしているところへ、学校から至急便が届いた。なんとその子は、伊那の本通りの遊技場の前にぽかーんとしてうずくまっていたという。塩尻から伊那まで4、50キロ。とてもとても子供の足で4時間足らずで行けるはずもない。一同顔を見合わせた。

 しかしともかく無事であったとようやく胸をなでおろし、早速担任が迎えにいったが、どのようにして伊那まで来たかは本人にもさだかではないようで、ただ、下にあかりがチラチラ見えたとか、風がビュービューふいたと、ぽつりぽつり語るだけであった。いい小梨をみつけておいたので、採って帰ろうと列を離れたという。

 神かくしか天狗にさらわれたのかとか、当時不思議したという。今ならば車も往来しているが、昭和13年のことなのである。

 

神かくしは天狗の仕業という話が一番多いが、次の話は、神かくしにあった少年が、まさしく天狗にさらわれたと、はっきりいっている例である。福島県小松市櫛淵町で起こったことで、多田伝三さんから寄せられたものである。

 福島県小松市櫛淵町。大正の頃、T家の次男が神かくしに遭った。部落の全家から1人ずつ出て山野を探索したが、3日たっても発見出来なかった。ところが夜が明けてふと家族が門先の柿の木を仰ぐと、14、5歳のその少年が木の上にいるではないか。皆で梯子でかつぎ下すと放心状態で、聞き直したところ、天狗にさらわれて山野を飛び回ったあげく、この柿の木の小枝に掛けたまま飛び去ったというのである。以来、その少年は魂を奪われたようで学校へ行ってもろくろく口を誰ともきかなかった。そのうちに流行性感冒にかかってぽきと死んでしまった。神かくしにあってから半年足らずで若死にした。

 

次の話は狐のしわざといわれた神かくしである。木樵りの幼い女の子が行方不明になり、「かやせかやせ」と探し歩いている声を、新潟に戦時中疎開していた友人の小沢清子さんは聞いている。清子さんが小学1年生のころという。

 木樵りの父と母は狂気のように探しまわり、狐の穴におはぎや赤飯を供えて歩いた。やがて何日か探しつくしたころ、いなくなったあたりの竹藪のそばでその子は眠ったような姿で発見されたが、少しもやつれた様子もなく、愛らしかった。ただ全身にひっかき傷があった。その場所は父母をはじめ町の人が何百回となく探した場所だったという。「子をなくした狐が、さらっていって養っていたんかね」と町の人はいいあった。南蒲原郡見附町という、当時は十分もあれば、町のはしからはしまでいきつくような、小さな町だった。

 

神かくしにあうと、町内村うち総出で鉦や太鼓を叩き、夜はたいまつをつくって野山をくまなく探したものだという。捜索隊のからだを縄で全員つなぐ、さらし1本に手をかけてはなれぬように探す。一升瓶をたたく、茶碗もたたく。太郎かやせ、子かやせ、山の神様、○○さんを出してたもれ、などよび声もさまざまだったというが、全国にこうした風習があったことは、こうした信じ難いことが起こっていたことを示している。高知の桂井和雄氏の著作のなかに、郷土史家寺石正路の『土佐郷土民族譚』の1章があって、興味深い。

 かかる時は失せ人を捜す方にて、近所隣並はいふまでもなく町内村中惣出を以て、昼は鍾太鼓夜は炬明にて野山残る隅なく捜索す。其の月暗く風寂しき夜半鉦太鼓の音陰に響き、失せ人の名を呼ぶ声幽かに聞ゆる時は物凄き思ありて、婦人小児等は恐れて夜出する能はぬこともあり。

 

江戸時代の記録では、讃岐高松藩の目黒下屋敷のお庭番が午後2時頃、天狗に連れられて飛行、その夜の8時に高松の父の許に返されたという。国と江戸との照会文書ではっきりしているという。一笑に附せばそれまでだが、青梅の話を聞いたあとでは、作り事とも思えぬ不思議を感じるのである。

 

天狗や、狐、また何ものともしれぬ神かくしを述べたが、神かくしには山に棲む者との婚姻があって、これは柳田国男の『山の人生』に詳らかである。陸中南部の農家の娘が栗拾いに山へ入って戻らず、親は死んだものとあきらめて枕を形代に葬式をした。数年後、村の猟師が五葉山でこの娘と逢った。自分は怖しい山の者にさらわれここに住んでいる。眼の色が恐ろしく背が高く、子供も何人か産んだがみな持ち去られたという。

 

同じような話がほかにあって、書物の上では出合っていたのだが、私の家に何年か暮らした山形の及位(のぞき)(最上郡真室川町)の少女から「天狗のかか」になった娘の話を聞いたとき、私の喜びは大きかった。以下その話である。

 大正の末ごろという。新庄鉄砲町のフサヨという娘が山菜採りに入ってふっと姿を消し、行方しれずとなった。神かくしかと騒いだが、消息は知れなかった。ところが昭和4、5年のこと、8月23日から始まる新庄祭りの日、雑踏の中にぼろぼろの着物に蓑をかぶったフサヨがいた。友達の娘が見つけて声をかけると、やはりフサヨで「今、及位の甑山(こしきやま)にいる」といった。天狗のかかあになったという。ひどく若く見えたので聞くと「年に一度、天狗に脇の下から血を吸われる。そのせいだ。けどそれが一番辛い」と言った。

 帰るというので友達の娘たちはあわてて、父ちゃん母ちゃんの所へ行こうと言ったが「だめだ、おれ、天狗にごしゃかれる(叱られる)もの」と言うなり人ごみに紛れていってしまった。

 

・この話を語ってくれた及位の少女、佐藤愛子さんは、婆んちゃんから寝物語にフサヨの話を聞いたという。娘たちはフサヨを追いかけたが捕まえられず、その後すぐ、フサヨの家の炉端に詰めかけて、フサヨの父と母に語って聞かせた。それから二度とフサヨを見かけた者はない。

 愛ちゃんは、この話をしめくくるとき、みんなで囲炉裏のはたに、こうやって詰めかけてフサヨちゃんの話をしたんだってよ、と言った。

 

 

ではここで、3年ほど前に奄美大島で聞いた神かくしの話を記してみよう。

 いまから15年くらい前の事です。旧の9月、神月のことで、タケさんという、私の遠い身内ですが、実家で夕食の仕度をしていました。子供もいる40過ぎの女性で今そこで食事を作っていたのに、ふっといなくなった。あちこち問い合わせたり探したりしてもいない。「そのうちに帰ってくるだろう」というので、みんな酔っぱらって12時すぎて、翌日になっても帰らないので、こりゃ大変だって、役場に知らせて山狩りをしたんです。

 私の所へも電話が母からあって、「お願いだから神様の所へ行って占いをしてもらって」という。何しろタケさんの家は無信心で、祖先を大切にしないんです。それで母が私に神様の所へいけと。

 そうしたら、「これはもう、あちこち山を歩いているから、戻すには太鼓をずうっと叩いて、太古の音で呼び寄せんといかん」そういって、名瀬の神様が太鼓を叩きつづけてくれたの。2日叩いて3日目になってはじめて、大笠利の旧道のサトウキビ畑へね、ひょろひょろって出てきた。やせて、幽霊のようになって、あちこち傷だらけで血がでていて。

「いつの間にか、気がついたら家を出ていて、真暗ななかを歩いてたけで、ホタルのような光がまわりにあって道が歩けた」っていうの。それで、「太鼓の音がドンドン聞こえてきて、そっちの方向に歩いていけばいいんだなって。だから怖くなかった。ホタルみたいな光がいっぱいだったから

 あのね、青いホタルみたいな光って、ケンムンのよだれなのね。その光がタケさんを守るように道を照らしてくれて、ユタ神さまの太鼓に守られて3日間。その間、朝露飲んだり、貝食べたり(どうもそれはでんでん虫らしいのですけど)気がついたときは、サトウキビ畑にいて、サトウキビかじってかじって自分をさがしていた車と出会うわけ、自分の家に戻ったら、太鼓は聞こえなくなったそうです。

 奄美にはいまのケンムン奄美地方で河童のことをいう)がいて、さまざまな物語を聞くことができる。しかし、いまあげた例は、ケンムンがタケさんを連れていったのではない。3年後、タケさんはまた神かくしになるのだが、今はここでとどめておきたい。

 

抜け出す魂、あの世への道

<あの世への道>

夢の交流、死者からのサイン

・1994年、不思議な夢の話を聞いた。二人の人の夢が交わっている例である。こうした例はほかにもあり、『現代民話考』にも収めたが、臨死体験によく出てくる花野や川などを共有したこの話は、珍しいように思う。

 話してくれたのは、群馬県妙義山の麓の村に住む、土屋光子さんという友人である

「私、今までこうした話を聞いても、どこかでそんな馬鹿な、と思っていたんです。でも自分に、起こったんです」

 病み上がりだから、ただでさえかぼそい光子さんの声は、細く、ふるえるように電話の奥から伝わってきた。奄美へいっしょに旅をしようと行っていたのに、クモ膜下出血で倒れ、その日のうちに手術、いのちをとりとめた。それが1994年3月15日のことだった。脳の手術をするとショックで血管が細くなり、後遺症がおこりやすくなる……とかで、2週間は薬でとろとろと眠らせるのだという。光子さんはそのまま眠りの世界に入った。

 気がつくと草原に立っていました。花が咲き乱れて湖が見えるんです。野反湖だなと思いました。ところで、湖のむこうに亡くなった母親がいる。伯父や伯母もいる。なんで亡くなった人がいるんだろうと思いました。でも、だまっていて、ものも言わないんです。

 横を見ると、知り合いの五十嵐さんが、御主人や3人の子供さんと来ていました。「何でここにいいるの」と訊くと「山を見にきたのよ」って五十嵐さんがいって、ふうっと目が覚めました。3月28日、主人が呼びかけてくれて、はじめて私、「はーい」ってかすかに答えたんです

って。4月8日、あなたが倒れたってこと、ちっともしらなかった、といって五十嵐さんが見舞いにきました。

「そういえばあなたの夢を見たのよ。野反湖へ主人と子供と行ったの。そうしたらそこにあなたがいて、両手を目にあてて、目が痛くて困るのっていっている夢なの」

 たしか3月の末、28日ごろと思うと五十嵐さんは言ったという。

 

夢で死を知らせる話は数え切れない。ことに戦死を知らせる夢は多く、胸を打つ。

 昭和17年(1942)頃のこと、海で知り合った外語大の三郎さんが中国へ出征した。ある日夢枕に立って「ぼく戦死したよ」と告げた。学生服を着ていた。その後三郎さんの戦死の知らせを聞いた。

 これは私の友人の話である。戦時中というのに海やスキーにも行き、華やかな人で、三郎さんの話はよく聞かされた。その人からの死の知らせだった。

 

昭和20年8月9日の前夜、近藤えい子さんは、長崎師範の学生寮にいる長男が、ぞうりをはいて家へ帰ってきて、別れのあいさつをする姿を夢うつつに見た。目が覚めて、あまりにもまざまざとした姿に不思議に思ったが、そのあとすぐ、長男は原爆にあって死んだのである。これは教育者として高名な国分一太郎氏が現代民話のためにと下さった話である。

 死者からの夢知らせは数え切れないが、死んで生まれた子の墓が陥没している夢をみた若い母親が、墓の近くに住む自分の両親に電話をした。「いや実は、ほんとに陥没していてね、どうにかしなくてはと思っていた」という。四国のそのあたりではまだ土葬なのでお棺が朽ちると土地が陥没したりするという。生まれると同時に死んだ子からの夢の知らせでしたと、私を空港に送る車の中で、若い母親が話してくれたのである。

 

<夢と死>

・夢と死、抜け出した魂と火の玉、そしてあの世への道は切っても切り離せぬつながりがあり、『現代民話考』2巻分をようやくまとめ終わったとき、私の心に浮かんだのは能舞台であった。

 いうなれば能舞台はそのまま現世とあの世ではあるまいか。かけわたす橋懸かりは夢でないだろうか。この世という舞台があってあの世という舞台がある、というのではなく、鏡の松はそのままに、現世でありあの世であるという二重構造に私は魅せられる。もし世界が日常だけのものであったら、なんとそれは味気ないことか。日常のなかの非日常を垣間見るとき、私たちは小さな自分の体験なり知識なりだけでは推しはかることのできぬ、なにかに出合うのではないだろうか。

 

・私が「あの世に行った話」、臨死体験を集めはじめたのは、いまから20年前にもなる。そのとき、レイモンド・ムーディ博士の『かいまみた死後の世界』(評論社)を読み、日本の臨死体験との重なりに驚いた。

 臨死体験のとき、魂が体から抜け出して横たわっている自分を見下ろしている例は、ムーディ博士の記録と重なる。こうした例はたくさんあって、臨死体験で自分の姿を見ているとき、泣き崩れている祖母の頭のてっぺんにハゲがあるのを見つけた、などという笑い話もある。

 

生まれ変わり

前世を記憶する子供

・抜けだした魂、あの世への道。

 このようにたどっていくと、必然的に浮かび上がってくるのは、生まれ変わりである。

 

・1970年頃、私がようやく口が利けるようになった、2つか3つの頃のことです。その日私は母方の祖父母の家に預けられていたんですけど、ふだん、ほとんどしゃべらない、笑わない子だったというのにパーッとしゃべりだしたそうです。

「わたしはマサコだ」って。「ここは私の家じゃない。私の家はこうこう、こういう風になっていて」とマサコの生活をしゃべり始めたそうです祖父母は「この子は何を言い出したのだろう」と途方にくれて、父と母が私を迎えに来た時にこの話をしたら、父の顔色がさーっと変わって、「マサコは私の姉です」と。

 父の姉マサコは数えの5歳の時に、病気が流行ってそれで亡くなった。当時は土葬だったのに焼かなくてはならない病気だったそうです。私の父とは2つちがいの仲のいい姉弟だったそうです。

 

・日本の転生譚で知られるのは武蔵国多摩郡の勝五郎譚で、松浦静山の『甲子夜話』に収められ、平田篤胤による「勝五郎再生記聞」、近くは小泉八雲が「勝五郎の転生」を書いている。文政6年(1823)4月12日付で公式な届出文書が出されているというから、単なる作り話ではない。

 勝五郎は文政12年(1815)10月10日に中野村百姓源蔵の子として生まれた。文政5年、数え8つのとき兄や姉に「もとはどこの誰の子か」と問うた。生まれる前のことは知らないというと勝五郎は、自分はよく知っている。もとは程窪村の久兵衛の子で藤蔵というんだ、そういった。

 姉が怪しんで両親に話そうとすると、泣いていやがった。しかし遂に両親の知るところとなり、生まれた所在、父母の名、父の死後継父がきたこと。6つで死んだこと。棺桶に入れられるとき魂は外に抜け出して、その後は家の机の上にいたこと。やがて白髪の老人に連れられ中野村の現在の家に生まれたことを話した。

 翌文政6年、母親は勝五郎を伴って前世の在所である程窪村を訪れた。勝五郎は母親を案内して生家へ着いたが、家のたたずまいや樹木の様子はまったくその通りで、養父半四郎に会ってみると、話はすべて符合した。

 

幽霊

幽霊はどこからくるのか

現代の民話を集める中で、圧倒的に多いのが死者からのサインであり、異次元の世界であることは、すでに述べた例によってもご諒解いただけるかと思う

 その中で、古くより私どもに親しいのが幽霊である。いったい幽霊は、どこからきてどこへ帰るのか。ここで興味ある一つの意見をご紹介してみたい。

 私はすでに霊界は全宇宙より広大無辺なものであること、霊界とこの世の関係は一枚の金貨の裏表のようにぴったりくっついて切離せるものではないことなどを述べた。私はここでこの世と霊界の関係について一つの比喩をいおう。それは、この世とは霊界の広大無辺な空間の中にポッカリ浮かんでいる一つのゴムの球のようなもので、このゴムの球である自然の周囲は全て霊界で取り囲まれているということだ。――中略――ゴムの球の中にも全て霊界は、しみ込んでいるのだ。ゴムの球の中も実は霊界なのだ。ゴムの球の中以外の全ての空間は霊界なのだが、ゴムの球の中だけは、例外的に自然界と霊界の二つの世界が、同じ空間にともに存在しているのだ。

(『私は霊界を見て来た』エマニュエル・スウェデンボルグ、叢文社、1975)

 

・彼は84歳まで生きたが、後半生の約30年はすべての学問を捨てて、霊界に自由に出入りし、先に述べた大英博物館におさめられた『私は霊界を見て来た』という厖大な著述を残し、自らの死を予言、その通りに没した。カントはスウェデンボルグの能力に驚嘆して書を著わし、ゲーテの『ファウスト』は彼の生涯そのままという。

 とかく霊界の話は眉唾ものとして異端視されがちであるが、スウェデンボルグのように数百年経った今も高く評価され、また世界的な学者や芸術家に畏怖された存在があることは、心にとめたいことである。

 

死を予知する魂

・さて、山崎大佐が死を予知するかのように、玉砕の少し前、旭川へ姿を現わし、ついで、満一年、一周忌にも英霊の帰還をしたことが語られているのだが、私の『現代民話考・軍隊』の編集が校正まで仕事が進んだ時、もう1つ、「山崎大佐の英霊の帰還」が飛び込んできた。ところがこれが北海道ではなく、新潟県の高田市の東部第67部隊なのである。

 

新潟県高田市、東部第67部隊。昭和18年だったと思う。私は第2大隊第7中隊付の見習士官でした。或る日、将校集会所の中食時、週番司令と連帯副官が何か話し合っていた。しばらくたってから「先日の夜間、山崎大佐(アッツ島に行っている)が馬に乗って抜刀し、部隊を指揮して連帯の衛門に向って帰って来る。歩哨が気付いて衛兵司令に連絡した。衛兵司令が衛兵所を出て衛門を見ると、130連隊門まで百メートル位の位置に将校の指揮する部隊がこちらに向かって来るのを発見し、急いで『衛兵整列!』と号令し、週番司令に報告すると同時に、部隊は衛門に入る。ラッパ兵は『皇御国』のラッパを吹いた。週番司令が衛兵所に馳せて来たが、司令には部隊など見えない。本来であれば衛兵司令は軍法会議ものであるが……」と。どうした事か此の事は口止めとなり、あれから44年間このことは消えていた。今、この事件を知っている当時の高田歩兵隊の生存者は数える程しかいない。しかしこれは、山崎大佐が無言の凱旋をしたという事実であり、その数日後、大本営の富永参謀より、山崎大佐は2階級即特進し、軍神山崎中将となったことが発表された。(『現代民話考・軍隊』)

 

・私の友人の多田ちとせさんは、朝鮮半島の38度線を命がけで超え、引揚げてきた人である。そのとき死を予知した火の玉をみた。

 

 敗戦の翌年8月4日未明ピョンヤン平壌)の難民宿舎を脱出、38度線の稜線が見えてきたのは20日の夕方だったと思う。8度線を超える注意があり30名近い人が松の木の下へ集まった。ふとみると子供達が離れたところで丸くなって相談している。大人に置き去りにされないよう、ひもで手を結んで寝よう。いや大人は駄目だ、ひもなんかとっちゃうと真剣だった。毎日、置去りにされる姿や死体を見ているのだ。その中に4歳位の男の子が1人、仲間から離れて縄跳びをしている。何気なく見るとその子の周りを青白い火の玉が着いたり離れたりしている。

 次の朝、5度線に向って静かに歩いた。ソ連の伝令が次の見張り所まで行って戻る15分の間に超えなくてはならないそうで、子供が泣いたらその場で始末してくれ、とよくよく言われていた。ところが、8度線のふもとで、1人の子がけたたましく泣き出し、なだめても泣きやまない。周りがざわめき出し、非難の目が集まった。若い父親はいきなりその子を抱き上げ草むらに入っていった。暫くして父親は1人で帰ってきた。タオルをぶらんぶらんさせて。泣いて始末された子は、昨日の夕方、青い火の玉がまつわっていた子だった。あれはあの子の魂が死を知ってさまよい出たのであろうか。痛ましかった。   (『現代民話考・銃後』)

 

 

 

『異界からのサイン』

松谷みよ子   筑摩書房    2004/9/10

 

 

 

旧陸軍の行進

・これは亡き渋谷勲さんが自衛隊の隊員から聞いた話。実際にあったってやつから聞いたけど、と語った本人が言った。うさんくさい気もするけど同じ様な話を2、3人から聞いたから、それは本当だろうと思っている、と。富士の練習場での出来事という。新隊員は訓練のためトラックで富士へ連れてこられ、宿営の準備をして寝て、夜中、1時か2時にたたきおこされるのだそうで、「今から徒歩で25キロ歩く」って上官から命令がくだる。装備が30キロあって、それをかついで、ザッザッザッと足音が聞こえてくる。彼のいた隊は一番うしろについていた。おかしいと思って傍らについている助教、班付きの教官にきいた。

 

「あのう、うしろから足音がしますけど、別の隊があとから来るんですか」「いや、そういうことは気にせんでいいから、うしろは振り向くなよ。前に伝えろ!」って、へんだと思ったけど、自衛隊にはあるんですよ。逓伝って、うしろから前へ、伝えたりするの。それで、「うしろ振り向くなよ」って前に言うと、「うしろ振り向くなよ」「うしろ振り向くなよ」って前へ、前へ伝わっていく。

 

・ザッザッザッ、足音はせまってくる。思わず、そいつ、うしろを振り向いてしまった。と、青白い顔をした軍隊が、近付いてくる。昔の軍隊の服きて、鉄砲も長いのかついで、ザッザッザッ。それが骨が歩いてくるような、透けて見えるような、目がぽっかりと黒くあいて。ザッザッザッ。冷たい氷のような空気がただよって、とうとう、その部隊と重なって、ザッザッザッ。「ヒェー」からだを悪寒が駆けぬけて、みんないっせいに振り向いてしまった。そして、班付きの上官から全員、失神した。話をしてくれたやつは、小さいときから幽霊とか見ているので、ああ、これは霊だ、と思って、からだのなかを通りすぎていく幽霊の部隊に耐えていたという。

 

 この部隊に出会ったら、とにかく見てはいかんという。だから「うしろを見るな。前向いて歩け、歩け」って。

 

203高地からの死の知らせ

・群馬の土屋光子さんが幼い日、祖母からくり返し、聞かされた話という。

日露戦争の開戦は、1904(明治37)年2月10日。旅順総攻撃3回目にして、12月6日、203高地を占領した。日本軍の死傷1万6935人、激戦だった。

 光子さんの祖父は当時、出征していた。留守を守っていた祖母がある夜、ドーン、というすさまじい音に飛びおきた。つづいて、ドサドサ、ザラザラと、砂利のようなものが雪崩れ落ちてくるような音がつづき、やがて消えた。それっきり、しん、とした。闇の中に光子さんの祖母は座っていた。何かが起こったと考じた。203高地占領の日だった。

 

・ある日、夫の戦友という人が訪ねてきた。光子さんの祖母は、その人によって夫の最後の有様を聞いた。

 203高地の積んであった石垣が攻防戦のさなか、ドーンと崩れ落ちたという。石は光子さんの祖父に直撃、雪崩れ落ちた砂利に埋まった。

 

戦友は僅かの差で命を拾い、祖父を土砂の下から引きだした。「しっかりしろ、妻子のことを忘れるな」とさけんで励ましたという。しかし、ボコボコと音をたてて鼻血を流し、祖父は息絶えた。

 

「その時刻がね、私がドーンという音、ガラガラという音を聞いた時刻と、まったく同じだったんだよ。ふしぎなこともあるもんだ」祖母はくり返し、孫の光子さんに語ったという。夫の死の知らせは、海をへだてて妻のもとへと届いたのだった。

 

ガダルカナルではナィ

・ガナルカナルではナィ、死ぬるとき天皇陛下ばんざいなんて、言わなかったってよ。食べる物なくてさあ、みんな飢えて飢えて、自然に弱って立てなくなるんだってね。

そしてナィ、まだ死んでいねえのに、ハエがよう、こう出たり入ったりたかるから、まず目ん玉からうじ虫が、コロコロ、コロコロ出てくんだって。そのうちからだじゅうに、コロコロ、コロコロ。

 

・ほして、いま死ぬってとき、どんな力でほんな持ち上がるんだが、その腐れかかったからだで立ち上がって、「隊長どの、只今内地から姉が迎えに来ました。帰っていいでありますか」って言うんだと。

隊長も判っててねぇ、「よし、帰れ」って言うとさあ、バタッって倒れて死ぬんだって。生きている人でねえんだよ。死んだ姉ちゃんとか婆ちゃんとかが、迎えに来るんだって、

 福島県国見町の田中ハツさんに根岸真理子さんが聞いた話である。

 

中学生の声が聞こえる

・戦争中は中学生も少年防衛隊として軍に集められた。沖縄の女学生がひめゆり部隊として動員されたのと同じである。最後にはみんな自決させられた。

 戦後その中学生を祀った<白虎隊の碑>というのが山の上に建てられた。夕方など、その碑の下を通ると、今でも大勢の中学生の声が聞こえるという。座間味島の松下トシさんの話である。

 

ひめゆりの女学生たちが

ひめゆりの塔のあたりに、月夜になるとたくさんの女学生たちが集まって、歌をうたいながら髪をとかしているんです。何の歌か判らないけれど、もんぺの女学生で死んでいったひめゆり部隊の女学生が……。

伊芸弘子さんが糸満で聞いた話、たくさんの人が見ているという。

 

 

 

『天国の真実』

マシューが教えてくれる天国の生活

ナチュラル・スピリット   2006年10月10日

 

 

 

ニルヴァーナ(涅槃・天国)評議会

ニルヴァーナ評議会は、天国の統治体

・(マシュー)最も尊敬される賢明な魂だけが評議員として検討される。彼らの経歴はさまざまだが、専門や学術的知識よりも知恵がその地位に就くのに最も大切な基準となる。たいていの場合、評議員たちは地球に何度も転生しているが、必ずしも地球での経験に留まるわけではない。

 

評議員は男女、そして両性具有の魂の代表だ。

 

グレート・マスターは、住人でもなければ、体も持たない。彼らの強力なエネルギーは、この太陽系一体から、リラ、シリウス、プレアデスといった地球文明の発展に緊急に関連する星系に瞬間的に移動できるんだ。

 

・たとえば、地球での大量死など、評議会が注目すべき大きな動きがあるときは定期会合はない。

 

・ここでは、もし指導者と住人の間に何かトラブルがあったとしても、本当に統治するのは大衆の意思であって、指導者の意思ではない。それは共和制の土台に則り、選出やリコールが即座にできるんだ。評議員は自信をもって投票する広範な人たちによって選出され、同じようにリコールも起こりうる。

 

・評議会は、この領域にあるいは地球の愛する魂たちに影響を及ぼすすべての事柄を管轄している。

 

評議員の服装は白いローブに金色の紐帯だよ。服装だけを見れば、ここにいる普通の住人と変わりない。

 

未知の宇宙で絶え間なく続いている戦い

・地球を例外として、僕らに影響を及ぼすすべての領域の統治体とやりとりし合うんだ。地球に関しては、評議会は天使界や霊界の地球外生命体、そしてこの宇宙規模的な大変化の時期にライトワーカー(光の使者)として、地球を援助している人たちや、人間界の上にある文明とやりとりしている。

 

 

 

『ほんとうは怖い沖縄』

仲村清司    新潮社      2012/6/27

 

 

 

ユタ

・すでにふれたように、沖縄には霊能者的な能力をもつ人がわんさといる。そのなかでも自らのパワーを生業としている人をユタという。9割以上は女性。女は男よりも神に近い存在とされる沖縄では、地域の神事や祭祀を司るのは女性で、祭りのときはいまでも女が神官をつとめる。ユタのほとんどが女性というのも、こうした女性上位の信仰土壌があるからに違いない。

 

・彼女たちの主な役割は霊界と交信し、あの世の人たちの要求を聞き、子孫に伝えること。いわゆる心霊判断のたぐいで、先祖供養、結婚・離婚・引っ越し・将来などの見立て、体調や病気などの悩み事の相談、除霊、お祓い、祈祷などもやってのけたりする。内地でいうところの拝み屋のような存在だが、沖縄はその人数がケタガズレに多い。

 

 沖縄県の人口は約139万人。そのうちユタは3000人から1万人もいるとされている。数字にばらつきがあるのは、彼女たちの多くがクチコミ的な存在で、誰がユタなのかといった情報がほとんど表に出ないからだ。そのあたりも奇っ怪ではあるが、ともあれ、沖縄の場合、単位面積あたりの職業霊能者の割合はダントツで日本一になるに違いない。

 

・さすが霊能王国・沖縄ですな。こういうことを生真面目に調査した本があって、その名もずばり『なぜユタを信じるか』(月刊沖縄社刊・友寄隆静著)。書店で見つけたときは思わず「わっ!」と叫んでしまったものだが、この本のなかに「ユタの言うことは何パーセントくらい当たると思いますか?」というアンケート結果が掲載されているのだ。

 それによると20代の平均が71%、30代で62%、40代で67%、50代以上が43%で、これらを平均するとユタの宣託が65%もの高率で当たるとの結果になっているのだ。

 

 こうなるとユタを頼る人が多いのも当然で、沖縄では頻繁にユタの宣託を受ける人のことを「ユタ買い」と呼んでいる。謝礼の相場は5000円~1万円だが、なかにはより当たるユタを探しまわっては判示してもらうユタハンティングのような人がいるとも聞く。

 

・そもそもユタは霊的ステージの高い人が「カンダーリ」という状態を経て、その特殊な能力を得るとされる。カンダーリとは「神ダーリ」、神がかった状態で、その方面の人たちの言葉をそのまま拝借すれば神霊の憑依をうけたり、霊にひきずり回されたりする様をいう。この状態の最中は心身ともに苦しく、激しい鬱や脱力感、ノイローゼ、頭痛、不眠、極度の食欲不振、嘔吐などの症状が現れ、人によってはその状態が数年続くこともあるという。

 

米兵の幽霊

沖縄は超常現象や幽霊などの話が掃いて捨てるほどある土地だが、なかでも戦争で亡くなった人たちにまつわる話は群を抜いて多い。いうまでもなく、先の大戦でこの地が日本国内における最大規模の激戦地になったからで、戦争で命を落とした人たちが成仏できずに帰る場所を探してさまよっている――というたぐいの話がこの島々にはどこにでもある。

 

従軍した米国人記者はこの沖縄戦を「醜さの極致」と表現したが、前述した戦没者数を知れば、実はそれ以上に悲惨なものであったことがわかる。ともかくも90日余におよぶ戦闘で、これほどまでの犠牲者を出した「沖縄戦」という史実は繰り返し思い起こすべきであろう。

 で、ここで話を本題に戻すと――、本書のなかで何度も述べてきたように、個人的には死者は無条件に救われるべきで、成仏しない霊などないというのが僕の立場ではある。

 とは申せ、これほどまでにおびただしい数の戦没者がいれば、あるいは無念の死を遂げた人たちが巨万もいる土地ならば、浮かばれない霊が「出る」という噂が湧くように生まれてくるのも仕方がないのかなと思ってしまう。

 

・夜な夜な軍靴を響かせて農道を行軍する首のない日本兵の幽霊、砲弾で下半身を無くした女の子が匍匐前進しながら近づいてくるという某学校の怪談、戦死した許婚がプレゼントしてくれたハンドバッグを下げながら寂しげに立っている元従軍看護婦の霊………、激戦地になった沖縄本島南部には、そんな幽霊の目撃譚がそれこそ山ほどある。