日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

天狗のかかあになったという。ひどく若く見えたので聞くと「年に一度、天狗に脇の下から血を吸われる。そのせいだ。けどそれが一番辛い」と言った。(2)

 

図解雑学 『日本の妖怪』

編集者 小松和彦  ナツメ社   2009/7/17

 

 

 

妖怪

・妖怪は、人間がそこにいる限りいつの時代・どこの国にも存在している。人知を超えた出来事に感じる畏れや、世の中の変動に伴う不安、共同体の裏側に潜む心の闇などが、妖怪を作り出すからである。

 

・日本文化を知ろうとする者は、どの角度から深めていったとしても、遅くあれ早くあれ、必ずや妖怪に出会うことになる。なぜならば妖怪は村落共同体の信仰生活や神仏の領域にとどまらず、文学、芸術、工芸、音楽といったメイン・カルチャーから、芝居、まんが、アニメーションといったサブ・カルチャーの領域まで広く浸透しているからである。

 

鬼とは何か?  多様な意味をもつ存在

・もとは超自然的な存在や異民族を示していた「オニ」。これらに共通するのは、記録者にとって「よくないもの」ということであった。

 

「よくないもの」の総体としての鬼

・オニの語源は「穏」、すなわち目に見えない超自然な存在であるという。オニにあてられる「鬼」という漢字は、中国においては死霊を表わすものであったが、日本ではより広範な意味をもって使われるようになる。

 

<全国各地に潜む鬼たち>

「岩手」の由来は鬼

青森県鬼神社には、稲作に必要な技術を鬼が伝えてくれたという伝承が残る。秋田県の三吉神社には、三吉鬼と呼ばれる鬼の話が伝わる。三吉鬼は、酒を飲ませると人の手伝いをしてくれたという。また、岩手県の三ツ石神社には、鬼の手形石がある。神に捕らえられた羅刹鬼が手形を押したという岩で、「岩手」の地名の由来ともされる。同じ岩手県の西光寺には達谷窟があり、東北一帯を治めていた悪路王という鬼が、ここを根城にしていたという。福島県に伝わる安達ケ原の鬼婆の伝説も広く知られているが、この鬼女の名も「岩手」であった。

 

実在する鬼ヶ島

・京都、大江山酒呑童子の話で有名だが、その山頂には酒呑童子の棲家といわれる岩屋がある。また、西京区首塚大明神には酒呑童子首塚が残る。

 

岡山県には、吉備津彦に退治された鬼、温羅の砦とされる奇岩がある。吉備津彦の温羅退治は、桃太郎の鬼退治のモデルにされたとも言われている。一方、香川県高松の鬼無には桃太郎が鬼を埋めたという塚が残り、また高松沖にある女木島は鬼ヶ島だとも言う。

 沖縄県首里城近くにある金城御嶽には、人食い鬼となった兄を岸から落として退治した妹の話が伝わっている。

 

天狗とは何か? 初めての登場は日本書紀

天狗の実像

・現在一般に天狗といってイメージする姿は赤顔に鼻が高く、翼を有し、羽団扇を持って飛行する姿が想像される。しかしこのような天狗像は意外にもそう古い形式ではなかった。

 

・天狗が世の中に跋扈し始めるのは鎌倉時代以降、戦乱の世に入ってからのことである。その姿の多くは鳥の鳶の様子で表され、正体は不幸な死を遂げた天皇や貴族・僧侶たちの死後の姿であるとされた。彼らはその恨みのために天狗となって世の中を狂わせていると解釈されていく。

 

・江戸時代以降、天狗は霊山を崇拝する宗教と結び付られ、眷属として諸山に活躍の場を移し、信仰の対象となっていった。現在多くの人が想像する鼻高天狗のイメージもこの時代から登場する。このような信仰の対象とされる背景には、庶民の間で脈々と伝えられてきた天狗の姿がある。

 

宗教と天狗~鼻高天狗の誕生 仏教説話に描かれた天狗

中世の世に強大な力を示す天狗

平安時代後期に記された仏教説話集『今昔物語集』には、12話に及ぶ天狗説話群があり、当時の仏教界における天狗という存在の重要性がうかがえる。ここでの天狗は、「魔」としての性格を帯びており、仏教に抵抗する反仏教的な存在とされる。

 

・また、山伏はその組織体制が山を母体とし、独自の作法を有するために、江戸時代には民間からも天狗のようであると比喩され、次第に山伏自体をも天狗と呼ばれるようになっていった。現在の山伏装束に似た天狗像はここに端を発するのであり、以後天狗像の体系化がなされていく。ここに鼻高天狗の源流としての天狗像が誕生するのである。

 

太平記』の天狗はスケールが違う!

・同じ中世でも『今昔物語集』は天狗説話の宝庫であるのに対し、『太平記』になると天狗が日本の歴史を作り上げていく著名な人物と深く関わり、その人物をも左右させる力をもって描かれる。

 

・『太平記』で有名な「高時天狗舞」の情景。北条高時は田楽舞にうつつをぬかし、日夜田楽に狂っていた。ある夜、高時が一人で舞っていると田楽法師が現れ、高時とともに舞い始める。侍女がそっと様子をうかがうと、彼らは田楽法師ではなく、嘴を有し翼を生やした山伏姿の天狗であった。

 

山の守護者、天狗の伝承

・同じような現象のものに、天狗の「神隠し」がある。突然姿を消した者が、後日見つかって事情を聞くと天狗に連れられて各地の霊山を巡ったり、東京見物をしたりした、という内容のもので、北は秋田県から南は鹿児島県まで全国に及ぶ。

 

神隠しと天狗小僧寅吉

・天狗の神隠し伝承は、古く鎌倉時代の「天狗草紙」にも描かれ、伝承世界でも天狗にさらわれたと話されるものが数多く確認されている。天狗の神隠しで有名な話に、江戸時代の天狗小僧寅吉という人物がいる。寅吉は、常陸岩間山の首領である杉山僧正という天狗に連れられ、さまざまな呪術や飛行を行ったと自ら証言し、時の国学者平田篤胤による『仙境異聞』にまとめられた。寅吉の証言によると、天狗の飛行は、綿を踏んだような気持ちで、矢よりも速く、ただ耳がグンと鳴るということである。

 

河童とは何か? 水辺に現れる奇妙な生物>

・最もポピュラーな妖怪である河童。出現は江戸時代中頃であり、当時のメディアに乗って日本中に広がった。

 

水の神(精霊)が零落した妖怪か

・今日イメージされる河童が日本に出現したのは江戸時代も中頃に入ってからであるといわれている。カッパという呼び方は関東地方のもので、太平の世が続き、通信が発達して学問が盛んになり、知識の交流が活発になると、都市部には全国から水辺に現れるという奇妙な生き物の行動が報告され、その姿を描いた図像も集まり、さかんに研究されるようになった。

 

・当時は自然界の不思議な出来事を科学的に説明しようとする「本草学」という学問が盛んであり、学者たちは各地で起きている河童という妖怪現象の正体を、ある特定の生き物に絞り込んで暴こうとしたのである。こうして日本中の伝承を統合して誕生した「カッパ」は、十分に発達した江戸時代のメディアに乗って今度は日本中に広がっていくことになる。

 

・特に注目されたのは、水辺にやってきた馬を水中に引き込んでしまうという河童の行動である。

 

・では、馬を水中に撮ってしまう河童とは、神の眷属だろうか。それ以外にも、各地に残る水に関する祭祀や習慣との河童の関わりはいくつか見出され、このことから、河童は社などに祀られる神様よりも一段下の水の神(精霊)、あるいは水の神が人々の信仰を失い、醜い姿の妖怪として零落して人々に悪さをするようになった存在として考えられるようになったのである。

 

全国各地の河童の伝承

・河童にまつわる伝承は、全国いたるところに残っている。私たちが今日イメージしている河童は、それらの集合体ともいえる。

 

各地で異なる河童伝説

・河童の呼び方は地方によって異なり、主に青森地方ではミズチ、ミンツチ、関東から東北にかけてはカッパ、中部地方ではカワランベ、佐渡能登などではカワウソ、近畿地方ではカワタロウ、ガタロー、四国・中国地方ではエンコウ、九州の大分ではドチ、宮崎ではヒョウスベ、熊本・鹿児島ではカワワラワ、ガラッパなどと呼ばれているが、これらの呼び方は各地域だけにとどまらず、全国的に点在している。

 

河童の現在~キャラクター化をめぐって

まんがやマスコットとして愛される河童たち

・「民話のふるさと」として『遠野物語』の観光資源化を図ってきた遠野市では、その火付け役となり、中核となった「河童淵」を前面に押し出した「カリンちゃん」というキャラクターを市のマスコットとして採用した。これは1992年の「世界民話博」の開催をきっかけとしたものであり、小さな子どもを彷彿させる姿で、当時遠野市の市花であったリンドウ(現在の市花はヤマユリ)をかついでいる。河童の「カ」とリンドウの「リン」を合わせた名前であるが、その愛らしい姿には不思議な力で家人を動けなくして家の女を犯し、奇形の子を孕ませる、『遠野物語』の恐ろしいイメージの河童の面影はない。

 

 

 

『河童・天狗・神かくし』現代民話考1

松谷みよ子)(立風書房)1985/7

 

 

 

山の神などによる神隠

 ある時、この部落の小さい女の子がふっとかき消すようにいなくなった。部落総出で探してみても、いっこうに手がかりはない。幾日かたって、また、ふっと現われた。その現われ方がまた不思議なことだった。この部落のはずれの薬師堂の梁の上に、その女の子はちょこんと坐っていたんだ。村の衆は、あれは薬師様にさらわれたんじゃっていった。  (長野県)

 

岩手県和賀郡がはんらん和賀町横川目。私が15歳の頃(昭和10年前後)の事件である。大雨で村の中央を流れている尻平が氾濫した。その日、私の部落の幼児(5,6歳)が見えなくなったという騒ぎが出た。消防団も出たりして、部落総出で探しまわったが、夜中になっても見つからなかった。きっと川に落ちて流されたに違いないというので、川下を探しまわった。ところが、なってその幼児が川向うの山の中で無事で発見された。これはどう考えても不思議なことでした。その川には、丸木橋一本かかっているだけで、当日の大雨の氾濫で大人でも渡ることが できない状態でした。

 

・長野県上伊那郡。浦の新三郎猟師といえば、山の神様となれ親しんだ逸話の持ち主として知られています。明治の初年のこと、新三郎は金子勢五郎猟師と連れだって仙丈岳へ猟に出かけましたが、二人は途中の小屋で単独行動をとることにきめ、別れ別れになりました。それから1週間、新三郎猟師は、杳として消息を絶ってしまいました。村人に依頼して山中を捜索してもらいましたところ、勢五郎と別れた小屋に戻っているところを発見されました。新三郎の話では、小屋を出てしばらく行くと、立派な婦人が現われて手招きするのに出会いました。誘われるままについて行くと、苺などの実る場所へ連れて行かれ、たらふくごちそうになりました。

こんなわけで、山にいる間は、ついぞ空腹を感じなかったという話でした。村人はその女性を山神であるとみていますが、山神男性説をとるこの地方にも、こうした観方のあることはおもしろいことです。

出典:松山義雄著『山国の神と人』(未来社

 

和歌山県西むろ郡上三栖。紀州西むろ郡上三栖の米作という人は、神に隠されて二昼夜してから還って来たが、其間に神に連れられ空中を飛行し、諸処の山谷を経廻って居たと語った。食物はどうしたかと問うと、握り飯や餅菓子などたべた。まだ袂に残っていると謂うので、出させて見るに皆紫の葉であった。今から90年ほど前の事である。又同じ郡岩田の万蔵という者も、三日目に宮の山の笹原の中で寝て居るのを発見したが、甚だしく酒臭かった。神に連れられて、摂津の西ノ宮に行き、盆の13日の晩、多勢の集まって酒を飲む席にまじって飲んだと謂った。是は六十何年前のことで、共に宇井可道翁の璞屋随筆の中に載せられてあるという。

 

・昭和二十年頃の話。私の家の近くの男の子(小六年)が昼間、にわとりをいじめたから神かくしにあって大騒ぎとなりました。井戸のそばにしゃがんでいたそうなのに、家人にはその姿が見えず、子供には家人の姿が見えるけど声が出なかったそうです。二昼夜、その状態だったそうですから神かくしに違いないと、父母が言っていました。青森県

 

 

 

越中 怪談紀行』

高岡新報  編    桂書房   2015/9/3

 

 

 

黒部の隠里   黒部市

下新川郡愛本の入口に黒部村といういう所がある。この村の老若打集まって碁会を始め、番々を立てて宿を為し慰んでいた。ある時60ばかりの老人がこの碁会へ来て、私も碁が好きであると言って傍で見物していた。

 

・村の人々もこの老人の強いのに感心し、代り代り打ってその日も昏て仕舞ったが、その後は毎日のように老人が碁会に遣って来る。

 

・そこで翌る日老人を携えて、貴方の宿所を聞かせたまえ、そして一度貴方の家で会を為したまえと勧めた。すると老人はそれはいと易いことである。明後日迎えに来る故、皆々揃って来なさいと言って帰った。さて明後日となって、朝早くから老人が迎えに来たので、一緒に村の人8人連れて行くこととなった。8人の者共は愛本の川上の方から向岸に渡って滝の落ちる所まで行った。そこで老人は立止まり、我は隠里(おんり)に住む者である。この滝簾を潜って行けば、人の知らない道があると言って、その滝の中へ飛び込んだ。8人の者も何心なくこの滝簾を潜ると、老人の言葉の通り道があった。ここを十四五丁も行くと、向うに門が建っている。門の中に棟が並べて家がある。

 

・さて8人の者共はこの行届いた立派な座敷に座り、景色のよい庭園を打眺めていると、そこでこの家の主人なる彼の老人が出て来て、この所へよくこそ来て下されし、ゆるりと逗留して遊びたまわれ言いながら様々なご馳走をして饗応してくれる。するともう、その中にも碁の好きな連中のことなれば、早や盤を持出して代る代る打ち始めている。

 

・かくて二三日も逗留したので、8人の者共も家の事が気掛かりとなり、いざ家へ帰ろうと言い出した。老人はさらば帰宅される前に、何がな馳走にと思い容易に求め難い魚を手に入れたゆえそれをご馳走する。

 

・主人はこの魚を料理して座敷へ持ち出し、この魚を食すれば長生きする効き目がある、皆々ゆるりと召上れと言った。8人の者は有り難しと礼は述べたものの見たことも食したこともない魚ゆえ、無気味に思いさような珍しい魚は一人で食するは惜しければ土産にすると言い、それを紙に包んで、やがて厚く礼を述べてその家を立出でた。

 

・主人はさらば滝の所まで見送り申さんと言いながら、滝の所で暇乞いして立別れた。8人の者共は紙に包んだ魚は皆途中で捨てて仕舞った。その中の一人だけは家へ持ち帰った所、家の子供で何とも知らず食ったのがある。この子は後に8百歳まで長生したと言い伝えるが、8人の者共家へ帰って見れば、家の者共死人が甦ったとて喜んだのも道理、ほんの二三日の逗留と思った間は3年の月日が経過していた。またその魚は人魚であったと言う。

 

大滝谷の大滝

この滝には、時折どこからともなく碁をうちに来る翁が、ある日、お礼に村人たちを大滝をくぐった向こう側にある自宅に案内し、帰ってきたら3年の歳月がたっていた、という伝説が残っている。

 

異人のくれた書 魚津市

・島佐平というものが夜中に邑を行く。風雨があって月が暗い。油衣(かっぱ)を着けたもの4人に街で遭った。この4人のもの佐平にかって曰く、われらは紙を需めているわれらの為に買ってくれよと。その言葉つきが甚だ鷹揚である。そこで紙40枚を買って与えた。するとその価も出さずまた謝することもせずして去って仕舞った。佐平も別にこれを咎めずに別れた。あくる朝早く庭に出ずると、異人があって立っている。その容姿は気高く、眉は美秀、威風が有る。佐平が首を下げるのを見て異人の言うには、われに従って来れと。

 

・佐平は異人に従って、常に知っている途を歩むこと百歩ばかり。又今まで見たことのない山野を行くこと五六里にして広い野原に到った。そこには席を設けて20余人のもの列居して酒宴を催している。その人を見るに皆自分を伴った異人と同じことであるが、ただ老人があったり少年があったりするだけの違いだ。

 

・一小児があって三四歳に見えるが、この異人等の間にあって能く仕えている。一老人はこの小児に命じて、汝を役人へ送る書を書せと言った。小児は紙や筆を出して書く。

 

・佐平はその中の二つだけ食した。その余りは持参し、いよいよ別れを告げんとすると、その異人はまた餞(はなむけ)として言うには、汝父母に仕えて能くその力をつくせよ鬼神を祭るに能く誠敬なれ、能く汝の産業を修めよと。かくてまた送られて途五六里にして佐平の知っている旧道へ出た。送って来た異人がさらばと言って別れたと思えば、忽ちその姿が消え去った。

 

・佐平は一人となって日暮れ方に家へ帰って来た。そこでその与えられた書を見れば、前夜自分が買った紙である。書は拙くないが読んでもその文章の意味が分らない。この島佐平というのは魚津の人である。時は明和元年(1764年)のことであった。

天狗様と京見物    富山市

富山から半里ばかり南の方に太郎丸というのがある。今は富山の町もだんだん南へ延びて行ったからこの村まで町つづきのようになって仕舞った。この村の百姓の子で、富山へ養子に遣られていたものがあった。ある時その養父の某が、この子に向かって、家に藁が少し入用であるから太郎丸へ行って貰って来いと言った。その子の名は与太郎である。

 そこで与太郎は親の所へ行ってその話をすると親共は、それは何より易いことであるといって言うだけ与えた。当時11歳の与太郎は藁4束を担いで帰って行った。

 

・話変わってこちらの養父は与太郎の帰りを今か今かと待っていたが、その日は帰らなかった。あくる日になって、太郎丸へ問合わせると、昨日七つ頃に藁を担いで帰ったに相違ないとの話。それは大変、何所へ行ったものであろう神隠しに逢ったのでなかろうかと、宮や林の中を、鉦太古を打ち敲きながら与太郎与太郎と呼び廻って歩いた。すると与太郎は、太郎丸を出て3日目の暮れ方に、富山の東に当る一里離れた、新庄の宮の前に佇んで居るのを見つけ、漸く連れ帰って翌る日、気の鎮まったところで、如何した理由で新庄へ行ったかと訊ねた所、与太郎の言うには、自分は藁を担いで太郎丸から田地方まで来て、橋の上で藁を下し休んでいると宮の林の上に緋の衣を着た出家が綾を織って居た。面白そうであるからこれを眺めて居ると、その出家は何と面白いであろう、我と来ればまだまだ面白いものを見せてやろうと言いながら、自分を抱えてとある山へ行き、ここを知っているかと問うたから知らぬと答えたら、ここは加賀の白山であると言った。

 

・それから寺の座敷に入ると沢山の人が酒盛りをしていた。そこで酒を飲み菓子を食いまた抱えられて、京へ至った。そこで芝居を見に行き、桟敷に至ると大勢の見物人が居り、さて菓子、にしめ、酒など取り散らせるのを飲み食いして見物し、町を見物するといって連れていかれた。

 

・またこの出家に抱えられて高い山の頂上に至った。ここは立山である。本社を拝めとのことで、神前に至ってこれを拝し、今度は大きな伽藍の堂の上に至った。ここは信州の善光寺であった。阿弥陀を拝し終って、それから最後に林の上へ来たのが、新庄の宮であった。そこでこの出家がお前の家はこれから近いと言って背中を一つ叩かれたら空から下へ落ちた。その後は何にも知らないと答えた。

 

売薬屋が泊まり合した天狗の宿

天狗は居るとか居ないとかについて昔から色んなことを云う人もあるようだが、事実は到底否定は出来ない事でしょう。只今お話申すのは、つい先達てあったことを聴いたのです。当市諏訪河原三橋清助と云う売薬さんが有ります。その方が但馬方面に売薬行商に行かれる、その旅先であった話です。

 今春売薬に旅立ちせられた時は、丁度奥さんが身重になって居られたので、しかも臨月に近い所でしたので、行商先でも清助さんが常に、うちのことを案じ、奥さんのことも案じつつ旅先を廻って歩かれました。

 

・ところが、但馬の国である家に泊まり込まれました。ご承知の通り売薬さんは旅先では一部落を廻られる間は、ある村の庄屋とか何とか云う、その村で有数な家に10日とか15日間とかまで滞在して「富山の売薬さん」で大層優待も受ける。それに毎年毎年そのようにして参りますから、それら家族とも親しくなって何事も話すようになっている。

 

・ところで、ただ、ある家とばかり承って所と家の名を聞きませんでしたが、ある家に泊まっていた間に、その家の主人に奥さんの身持ちのことから、うちの方の心配になることを話しますと、宿の主人は「それ程ご心配ならば私が見て来てあげましょう。今日は少し忙しいから明日は必ず見て来てあげる」と言われるから非常に驚いて、何百里ある所を時間と費用を使ってそれ程までして下さらんでも大丈夫、ただ案じられると話しただけです、と打ち消しますと、宿の主人平気に澄まして「なに訳がありません」と言っています。さて、その明日は例のごとく売薬に付近の村を廻って夕方帰って参りますと、主人は直ぐ行ってきました。貴方のうちはこんな家で、座敷はこれこれで何の間に奥さんが居た、子供は一昨夜生まれて母子共に健全、男の子だからお喜びなさいと云われて、更に驚いた。

 

・子の生まれたことは分からないが富山へ一度も来ない人が自分の家の様子をスッカリ云うから一体どうしたのですと尋ねると主人は平気で私の家は代々天狗の宿をしているので、それ位の便宜は取り計って貰えますと云う。明治聖代にも変なことを聴くものだと思えながら天狗さんの様子を聞きますと天狗と云っても別に鼻は高くはない、ただの人間と同じで老人である事は事実、それにその友達も時々お遊びに御出でるが皆白髪の老人のみです。唯、潔癖でその室が少しでも不潔だと小言を並べられるので非常に気がういとのこと。清助さん好奇心に駆られて一度会わせて貰いたいと頼むと、天狗は主人だけの眼に入るが、その外誰の目にも入らぬとのこと、それならばどうして私の家を見て来たかと聴くと、それは天狗に背負われて眼をつぶすと2、3分間にして数百里の所へ達するとのことである。そして2日経つと果たしてうちから手紙がきて男子分娩母子共に健全とのことに驚かされた。それから売薬を終わって国に帰り、こんな人が来て行ったかと聴くと何も知らぬと云った、しかも、うちの当時の様子と宿の主人の云った事と少しも変わらなかったそうです。

 

 

 

『最近UFO学』  

東京大学UFO研究会)(勁文社)1991/7

 

 

 

エリア51 S-4地区の秘密

エリア51(ネバタ州ラスベガスの北東部地域)内にあるS-4と呼ばれる地区はUFO研究が行われていると噂されている場所である。この地域は砂漠の真ん中にあり、四方を山に囲まれているため周りから内部の様子を見ることがまったくできない。

 

・この秘密施設の中でUFOの推進エネルギーの研究を行っていたという証言者が現れ、一躍UFO研究家の注目を浴びた。この証言を行ったのは、ロバート・ラザー氏という物理学者で、彼はエリア51内にある研究施設で現物のUFOの推進エネルギーの研究をしたというのである。ラザー氏は、EG&Gという会社に勤める契約をしたところ、会社ではなく、エリア51の中にある研究施設に連れて行かれ、驚いたことに宇宙人に関する資料を見せられた。その資料には、宇宙人の解剖写真まで載っていたという。さらに閉ざされた格納庫に連れていかれ、その中にあるUFOを魅せられた。そこには3機のUFOがあり、そのうちの一機の推進エネルギーを研究するように命ぜられたという。

そこには閉ざされたままの格納庫もあり、数から考えれば、全部で9機のUFOがあったはずだと証言しているが、実際に見たのは3機である。またUFOは実際に宇宙人から提供されたものだということだった。

 

 

 

『宇宙と人間の謎』  人類に危機が迫っている

 (深野一幸)(成星出版)    1998/2

 

 

 

異次元からの宇宙人がいる

Q.: 異次元からの宇宙人が来ているというのは本当か?

A.: 容易に信じられないが、真実のようである。宇宙は多次元構造でできており、我々の住む物質世界は三次元世界である。地球に進化した宇宙人がやって来ているが、彼らは、三次元世界からのみやってきているのではない。四次元世界にも、肉体を持った人間の宇宙人が存在し、地球にやって来ているようである。

 

4次元も物質世界

・オスカー・マゴッチが行った星は4次元の「アルゴナ」という惑星である。ただし、地球の次元と4次元は同じ空間にあるが、波動が異なるため、お互いに見えない。マゴッチのいう4次元や5次元は幽界や霊界ではない。れっきとした物質世界である。3次元から4次元への移動は、UFOに乗りUFOの波動数を上げることにより行う。波動数を上げると3次元世界が徐々に消え、4次元の物質世界から3次元の物質世界への移動は、UFOの波動数を下げることにより行う。すると、4次元世界が徐々に消え、3次元世界が現れる。

 

4次元の肉体を持った人間の特徴

4次元の肉体を持った人間の宇宙人は、次のような特徴を持つ。

振動数が高く地球人の目には見えない。振動数を下げると見える。

 

極めて高度な科学技術を発達させている。

反重力で飛行する宇宙船(UFO)を開発している。

 

精神性の高い人間である。

人間の輪廻転生や宇宙のしくみを知り、創造主を敬う精神性の高い生き方をしている。

 

超能力人間である。

肉体の振動数を変える能力、テレパシー能力、マインドコントロール能力、予知能力、オーラを見る能力、ヒーリング(病気を癒す)、テレポーテーション(瞬間移動)、物体浮揚、物質化、透視などの超能力を持つ。

 

寿命が非常に長い。

地球時間で、200~800歳である。

 

お金(貨幣経済)のない社会を実現している。

欲しいものは無料で手に入る。

 

 

5次元以上にも生命体は存在するか?

・5次元以上にも生命体は存在する。以下はマゴッチの伝える情報である。

◆5次元の生命体

  • 4次元の宇宙人(人間)が進化して、肉体に宿ることを卒業した霊的生命体、自分の意志で肉体を持った人間になることもできる。
  • 宇宙の階級では、第5階級で、密度でいえば第5密度の生命体。
  • コズミック・トラベラー(宇宙の旅人)とも呼ばれ、6次元のガーディアン評議会の命令で、遅れた星の宇宙進化の促進などを行う。

 

◆6次元の生命体

  • 5次元の生命体が進化した霊的生命体。ガーディアン(守護神)とも呼ばれる。昔、肉体を持った人間であったが、霊的に進化して霊的な存在となった生命体で、人間世界を指導している。
  • 50人のガーディアンでガーディアン評議会を構成されている。
  • 宇宙の階級からいえば、第6階級で、密度でいえば、第6密度である。

 

◆7次元の生命体

  • 6次元の生命体が進化した高級な霊的生命体。
  • アセンディド・マスター(高級教師)とも呼ばれ、7人存在する。
  • 宇宙の階級からいえば、7等級という。密度で言えば、第7密度である。

 

◆創造主(偉大な潜在界)

  • 究極の次元には、金白色のとてつもなく大きな光で、全てを包含する存在がある。
  • これは、宇宙を創造し、宇宙全体を統御しており、神、宇宙意識などとも呼ばれる。

 

進化した高等知性体

地球人、進化した人間の宇宙人、高級な霊的生命体、これらはどんな関係にあるか?

・地球人が何度も輪廻転生して霊的に向上し、地球を卒業すると、4次元の星の人間に転生する。これがアーガスやドン・ミゲルなどの進化した人間の宇宙人である。

4次元の進化した人間が、さらに進化すると肉体に宿る束縛から開放され、5次元の霊的生命体になる。5次元の生命体は、自分の意志で肉体をもった人間にもなることもできる。このような存在がクェンチンである。

5次元の霊的生命体が、さらに霊的に進化すると6次元の霊的生命体になり、6次元の霊的生命体が、さらに進化すると7次元の霊的生命体になるわけである。

簡単にいえば、地球人の進化した存在が、宇宙人であり、宇宙人の進化した存在が高級な霊的生命体になるという。

なお、霊的に上位の生命体は下位の生命体をサポートする義務がある。