日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!

最終的に「写真は早稲田大学探検部が先に世界に発表する権利をもつが、捕獲された場合、その個体の所有権はコンゴ政府がもつ」という内容で契約書を交わした。(1)

 

『アジア未知動物紀行』

ベトナム奄美アフガニスタン

高野秀行    講談社   2009/9/2

 

 

 

「こんな世界は前衛文学か落語にしかないですよ!」

・今回の旅の目的はアジアで未知動物を探すことだ。「未知動物」とはネッシーや雪男みたいにまだ科学的に存在が確認されていない動物のことで、巷では「UMA(ユーマ)(未確認不思議動物)」とか「怪獣」とか「そんなもん、いるかよ」などと言われている。

 

・そう思って今回も相棒のカメラマン森清とともに、ベトナム奄美大島アフガニスタンの三ヵ所に飛んだ。

 

奄美の妖怪「ケンモン」>

<原始の森にひそむ物の怪>

・辛い単調な道を走るときは、同じことを繰り返し考えがちである。そのとき私は、ずっとケンモン(もしくはケンムン)のことを考えていた。ケンモンとは奄美にいると言われる妖怪みたいなものだ。沖縄では「キジムナー」と呼ばれるものとほぼ同じとされている。

 ケンモンもキジムナーも両方とも「木のモノ」を意味すると何かで読んだことがある。大きなガジュマルに棲むとされている。木の物の怪なのだ。

 私が初めてケンモンを知ったのは小学生のときだ。図書館で借りた『日本の伝説』とかいう本に「ケンモンとキジムナー」という章があり、ケンモンについての話がいくつか載っていた。

 

ケンモンには、夜、ひょっこり出会うという。それを恐れた村の人は、夜間の外出にはトウモロコシを持っていく習慣があった。ケンモンとばったり出くわすと、ケンモンが尻尾を振る。そのとき、こっちもトウモロコシを尻につけて尻尾のように振るのだ。するとケンモンは「あー、仲間か」と思ってそのまま行ってしまうのだという。

 ケンモンは単純な性格なので、頭のいい漁師は「あんた、漁の名人なんだってね!」とケンモンをおだてて一緒に漁に連れて行く。ケンモンは気をよくして、どんどん魚を捕まえる。ケンモンは魚の目の玉しか食べないので、魚はみんな漁師のものになるのだ。漁師、ニンマリである。

 しかし、ケンモンは怒らせると怖い。二人の漁師がケンモンを騙した(何をどういうふうに騙したかは忘れた)。すると、ある晩、怒ったケンモンが仲間を何十匹も引き連れ、どっと漁師の家に押し寄せて来た。慌てた漁師の一人は家の屋根に上り、もう一人は舟底のスノコの下に隠れた。屋根の漁師はたちまち見つかり、引き摺り下ろされたあげく、寄ってたかって殺された。舟底に隠れた漁師は見つからず、無事だったという……。

 

・街角のタバコ屋などで「ケンモン、見たことあります?」と何気なく訊くと、「あー、最近見ないね。でも4、5年前にはよく出たよ」と言われたりしたそうだ。さらにその後輩が続けた。

「もっとすごいのは、ケンモンが実在するのかしないのか、島の人たちと民俗学者が真剣に討論会をやったって話です。結論は出なかったそうですが」

「そりゃすごいな!」

 私は他愛なく驚いてしまった。地元の真剣度は、ツチノコヒバゴン屈斜路湖のクッシーなど日本の代表的なUMAを超えている。下手をするとムベンベ・レベルだ。ムベンベ探しに行く前、私たちはコンゴ共和国政府と権利関係で揉めた。もしムベンベを発見したり捕獲したりしたとき、我々と政府、どちらに優先権があるのかという問題だ。最終的に「写真は早稲田大学探検部が先に世界に発表する権利をもつが、捕獲された場合、その個体の所有権はコンゴ政府がもつ」という内容で契約書を交わした。

結局捕獲どころか目撃もできなかったから、“捕まらぬムベンバの皮算用”だったのだが、それくらいコンゴ政府は本気だったわけだ。私の経験では、奄美のケンモンに対する現地の人の真剣度はそれに次ぐ。

 ケンモンはもしかすると未知動物と妖怪の境目にある存在なのかもしれない、とそのとき初めて知った。私の中で、ケンモンが「準UMA」という位置に格上げされたのだった。

 

<妖怪とUMAの間にあるもの>

<「おい、フイハイはベトナムの猿人だぞ。こっちはケンモン」>

・「でもたしかに、ケンモンはフイハイに似てるんだよな」

 

・意外なことに、古仁屋の町では50代、60代の人でも「ケンモン?…………あー、そんな話、昔あったねえ」と遠い目をする。単純に「知らない」と首を振る人すらいた。

 探検部の後輩が「探索」に来てからすでに20年が経っている。奄美の人々が当たり前のように信じていた物の怪も、居場所をなくしてしまったのだろうか。

 

・ちょうど野良作業中という感じのおじいさんがいたので、「昔この辺にケンモンっちゅうもんがおったでしょう?」と訊いてみた。すると「あー、おるよ。あの木におる」とおじいさんは指差す。縦よりも横に枝葉を伸ばした巨木があった。でもガジュマルではない。

 

・92歳になるというこのおじいさんによれば、ケンモンは「貝が好物」で、「悪口を言ったり、ケンモンが棲むガジュマルやホーギの木を切ると口がひん曲がる」という。「寒い日には塩焚き小屋(海水から塩を作る小屋)へ火にあたりに来たもんだ。人間のふりをしているが、座ると膝が頭より高いのですぐわかる」そうだ。

 うーん、面白い。いつも海外で未知動物の取材調査をしているときと同じ感触だ。こうなるともはやケンモンが実在しないとか、妖怪の一種だとかはどうでもよくなってしまい、夢中で会う人、会う人、片っ端からケンモンについて訊いた。

「ケンモンを見たことはないけど音は聞いたことはあるよ。夕暮れ時、外でざーっという何か大きな木か石が倒れたような音がしたんだけど、家から出てみると何もなかった」

民宿をやっている82歳のおばあさんは言う。

子どもたちが何人かで遊んでいてね。日も暮れてきたから『もううちに帰んなさい』と言ったら、1人だけが山の中へ入って行っちゃったなんて話を聞いたね。あと、知らないうちに子どもの数が1人増えていたけど、誰が途中で紛れ込んだかわからないとかね

こう話すおじいさんもいた。こちらは座敷童子みたいな逸話だ

 

・集会所のようなところに工事関係者らしき人が数人いた。30代から40代の若手だが、彼らは「ケンモン」という言葉に強く反応した。かなりキツイ訛りで「何年か前に古志で、校長先生が見たってさ」と言う。古志とは私が怪しいヤギに出会ったところに近い集落だ。「ケンモンが木をゆすってたんだって。先生はうちに帰ってカメラを取って戻ってきたけど、もういなかったんだってさ」

 うーむ、こちらでは「若手」の間でもケンモンはまだバリバリの現役らしい。私はすごく幸せな気持ちになっていた。

 

・なぜ、奄美に、そしてケンモンにこれほど惹かれるのか。私自身よくわかっていないが、一つのポイントは地元の人たちが今でもその存在を強く信じているところにあるだろう。

 

<「ケンモンの足跡」の写真>

・「この本がいちばん詳しいですね」恵原義盛著『奄美のケンモン』

 

明治38年(1905年)生まれの著者は、幼少時よりケンモン話が好きで、長じて自他ともに認める「ケンモン博士」となったと書いている。

 

・「ケンモンの足跡」の写真だった。動物とおぼしきものの足跡が砂浜に点々とつづいている。

 

・この本が出版されたのは今から25年前の1984年で、私の後輩がケンモン探しに行ったのはその5年ほどあとだ。つまりその当時は少なくとも、奄美大島では「ケンモンはいるに決まっている」というのが島民の共通認識であり、それに一分でも疑問をもつほうがどうかしていると思われていたらしい。

 

もっと言ってしまえば、「ケンモンに疑いを持つなどとんでもない」という畏れに近いものが人々の間にあったようだ。なぜならケンモンはやはり怖い存在であるからだ。

 著書によれば、奄美ではケンモンの話を屋外ではしてはいけないという。ケンモンのいるところを指で差す、ケンモンの棲むところを汚すとかガジュマルなどその棲家である木を切ることもいけない、祟りがある。

 著者が子どもの頃に存命だった根瀬部の村田豊長という人は、誰が見てもそれとわかる巨大な睾丸をぶらさげていたが、それはガジュマルの木を切った祟りだといわれていた。

 他にも、『明治以前生まれの人にはよく、片方の目が潰れたようになっている人が見かけられたものですが、それはケンモンに突かれてそうなったものだといわれました』とか、『ケンモンに目スカレ(目を突かれて)隻眼になったという現存の人には、知名瀬に岡山信義氏(80歳)が居ます』と実名で記してもあった。岡山老人が何をして隻眼にされたかはわからないが、これはたしかに怖い。

 ケンモンは恐ろしい存在である一方、「蛸をヤツデマルといってキャアキャア怖がる」とか「臭い屁をひる」とか愛すべきものとしての逸話も多い。むしろ、滑稽話のほうが恐怖譚より多いらしい。一見矛盾するようだが、これについて著者は、『愛すべきものとしてのケンモン話はそれをケンモンが聞いても祟りがなかろうと人々が安心して話せるからだ』と説明する。

 

河童もユーモラスで「愛すべきもの」として扱われているし、ベトナムの猿人フイハイも「たいていは人には危害を与えない」とされていた。

 

死闘! ケンモン対マッカーサー

・このような調子で「マッカーサーの命令」という合い言葉のもと、奄美の主要なケンモンハラ(ケンモンがたくさん棲む原っぱ)のガジュマルはほとんど切りつくされ、以降、ケンモンが現れたという話も聞かなくなった。「棲家がなくなったケンモンはどこに行ったんだろう」と村人は話し合ったという――。

 

アジアのUMAには米軍の話がついてまわる。それはとりもなおさず、米軍が常にアジアの各地に駐留し、さらにアジア諸国に侵攻、占領を繰り返してきたからにほかならない。米軍は地元の人間にとって巨大な“物の怪”みたいな存在なのだ。よそ者の物の怪と現地の物の怪は衝突せずにはいられない。「米軍ミーツUMA」である。そして現地のUMAはたいてい米軍にやられてきた。

 ベトナムでは、フイハイや別のUMAバンボが米軍に射殺されたり生け捕りされたりしていた。現地の物の怪が米軍というもっと巨大な物の怪に呑み込まれていた。

 

奄美の本格UMA「チリモス」

・チリモスか――いかにも未知動物っぽい名前じゃないか。

それにしても奄美に、「準UMA」ケンモンとは全く別に、ちゃんと「本格UMA」がいたとは驚きだ。

 

奄美はやはり「辺境」だった!>

・「昭和2年生まれですが、ケンモンをじかに見たことはないですね。ただ、父親の世代の人たちにいろいろと話を聞きました。相撲をとってネッパツ(発熱)したとかね

 義永さんはそう言って話し出した。

 ケンモンと相撲をとっても勝てばいい。ケンモンは実は相撲がすごく弱いらしい。ところが、ケンモンは負けても「もう一丁」とかかってくる。何十匹もいて、次から次へと挑戦してくる。だから、最後は根負けして投げられてしまうのだという。

 ちっこいのがわらわらと出てくるという不気味な感じが、私が昔抱いたケンモンのイメージと少し重なった。

 ケンモンのいる場所は「やっぱり山の中だね」。昔の人は薪とりとかタケノコとりで山に入る時、危なそうな場所や変な感じを覚えるところでは、「あ、これは何かいるな」と察知してタバコを一服したのだという。タバコを吸わない人は塩をなめた。タバコや塩はそういう怖いものを遠ざける。そして「とうとうがなし」と神様にお祈りする。

「『よろしくお願いします』みたいな、一種の呪文のようなもんだ。山では小便をしたり、卑猥な言葉を使ってはいけないとよく言われた」

 どうやら、ケンモンは山の神とごっちゃになっているようだ。

 

・ご老人は断片的な話をいくつか話してくれた。

 例えば、安脚場という集落では、「体が真っ赤なケンモン」を見たという人がいたそうだ。また、嘉入という集落では、ケンモンと一緒に貝拾いをしたという話が伝わっている。

 ケンモンは貝が好物で貝拾いもうまい。たくさん取れたところで「蛸だ!」と騒ぐとケンモンはびっくりして逃げてしまう。「ケンモンは蛸が苦手なんだ」とご老人。

 

・代わりに87歳の老人に話をうかがった。だが、この人はケンモンについてやけに素っ気なかった。「ケンモンはだいたい、若い娘や子どもが外に出ないようにと戒めるためのもんだったんじゃないかな、私は見たこともないし、あまり信じてもいない

 唯一私の興味を引いたのは、昔、諸鈍という集落で、若者が15、6人で山中にケンモンを捕まえに行ったという話だ。

ケンモンを見世物小屋に売ったらお金になる」と意気込んだが、逆にケンモンに騙されて山で迷子になったという。「見世物小屋に売る」という俗っぽい欲が妙に生々しい。だが、ご老人は、この話にしても「詳しいことは知らないけどね」と突き放した口調だった。

 

未知との遭遇

奄美で最も一般的な「ケンモンの火」で、おかみさんの話とさして変わらないが、「普通の子は小学生の低学年で見えなくなるが、俺は中学生になっても見えた」というから、本人は否定しても何か「特別な能力」があるのかもしれない。

 

・実際、橋口さんは小学校3年か4年のころ、すでに不思議な体験をしている。

「みゃー」と呼ばれる広場で友だちとかくれんぼをしていた時、橋口少年が鬼になって、他のみんながどこかに隠れたあと、ふいに「ミツヒロ」と名前を呼ばれた。

澄み通っていてすごく鮮明だったけど人間の声じゃなかったな

 橋口さんはドキリとすることをサラリと言う。すぐ後ろで聞こえるのでパッと振り向いたが、誰もいない。そういう声が聞こえた時、返事をすると取り憑かれて連れて行かれる」と親や祖父母から聞いていたので、黙っていた。それっきり声はしなかった。

「それだけよ」と橋口さんは言い、口をつぐんだ。

 

・「だいたい、俺の親父がよくそういう変なものを連れてきたのよ

「変なもの?」

「うん、実久と芝の間に村道を作ることになった時もあったよな」橋口さんは妹であるおかみさんに話しかけた。

「あー、あったらしいね。私はいなかったけど」

「そうか」と言うと、「親父は測量の仕事をしていてね」と話し出した。

 お父さんも他の人たちと一緒に「神山」と呼ばれる山へ下見に出かけた。「神山」は名前のとおり、ケンモンや物の怪がいることで知られていた。

 お父さんは6、7人のグループの先頭を歩いていた。すると「クニミツ」と父の名を呼ぶ声がする。「はい?」と返事をして振り向いたが、誰もいない。他の人たちはずっと後ろのほうでお喋りをしながら歩いてくるのが見えた。

「何だったんだろう」と思うが、深く考えずにそのまま下見を終えて家に帰った。すると玄関に入るなり、出迎えたお母さんが「何かいる!」と叫んだ。お母さんは台所から包丁と塩をもってきて、後ろ向き、つまり父に背を向けるかっこうで塩をまき、包丁をかざした(顔を見せてはいけないのでこうするらしい)。そして呪文を唱えると、「あ、いなくなった」とお母さんは言った……。「うちの父は心やさしい人で、死んだ動物や無縁仏を見ると『かわいそうに』と思うので、よく家に変なものを連れてきて、その都度母が退散させていたのよ

 おかみさんが補足説明する。

 

ケンモン話から突然UFOはないだろう

・「で、ふと東の太陽を見たら、何かがスッと横にずれこんだ。何だろう、小さい灯りみたいなものだなと思ってたら、それがジグザグしながらものすごいスピードでこっちに来たんだ。時間にしてどのくらいだろう。2、3秒かもしれない。とにかく『あっという間』だった。

 気づくと、『みゃー』の角にある家の上にこんな形をした巨大な“物体”っちゅうのかな、なにかが浮かんでいたんだよ

 橋口さんは両手で、底が丸くて横から見ると三角の形を描いた。円錐のようだ。

びっくりしたんだけど、体を動かそうとしても動かない。動くのは目だけ。目を動かすと、自分は斜め下から見ていたはずなんだけど、いつの間にか真下から見上げていた。物体の中が丸見えで、三重の光の輪が紫というのか虹色というのか、とにかくピカピカ輝きながらぐるぐる回っていた。物体は底の大きさが広場と同じくらいあった。とにかく、でかかった。

 不思議なのはね、これだけ大きな物体が飛んできたのに、木の枝が揺れていないんだ。揺れてないというか、なにもかもが止まって見えた。他の人たちもみんなビデオの一時停止みたいに止まっていた。

 どのくらい物体がそこにいたかは分からない。なにしろ、俺、パニック状態だったから。短い時間だったと思う。それで物体は突然、来たのとは別の方角に飛んでいき、あっという間に消えちゃった。

 それと同時に体がふっと動くようになって、みんなも動き出して、すべてが普通に戻ったんだよ。他の人たちは今起きたことにまったく気づいていないみたいだったな

 

・今でも崖の上から石が降ってくるとか、火の玉が見えるという場所はたくさんあるのだと橋口兄妹は口をそろえた。それは普通、ケンモンの仕業とされている。

 

・一番不思議なのは、こんな突拍子もない話なのに、順番に聞くとそれなりにつながりが感じられることだ。最初の怪火以外の不思議な体験は橋口さんに訊いても「ケンモンと関係があるかどうかわからない」という。だが、ケンモンの火、見えない誰かの声、見えない声に答えてしまったがゆえに家に付いて来て、呪文と包丁で撃退された謎の霊みたいなもの、やはり包丁で撃退されたものすごいスピードで迫ってきた巨大火の玉、そしてやはり猛スピードで飛んできた未知の巨大な物体………。

それぞれの話がゆるやかにつながり、ケンモンからUFOに至っている。

 それにしてもいったい何なんだろう。妖怪とUMAの境目を丁寧に追っていったのに、どうしてUFOにたどり着いてしまうんだろう。もう消化不良や異物感といったレベルでなく、何がなんだかわけがわからない。

 

<すべてはケンモンに還る>

・――ケンモンに出会ったことは?

あるよ。濡れた貝殻が乾いた石の上にふせておいてあるのをときどき見たね

「あー、あったね。貝が好きなんだよね」

 

<「白いかわいい犬に化けることもあったね」>

・「ブタに化けるって話もあったじゃない」

――それはミンキラウヮー(耳切豚)じゃないですか?(恵原さんの『奄美のケンモン』でケンモン以外の「怪異」として詳しく触れられていた。ミンキラウヮーに出会って股の下をくぐられると、魂が抜かれてしまうとか男性機能がダメになってしまうという

「そう、ミンキラウヮーともいうね。だけど、おんなじなのよ、ケンモンと」

「そうそう、新聞やテレビやらではね、ケンモンっていうのは河童みたいだとか、二本足で歩いて、毛が生えていてとかいうけど、それはちがう」

 

「ちがうっていうかね。ケンモンには形なんてないのよ」

・ケンモンには形がない。怪現象がすなわちケンモンだとこのおばあさんたちは言うのだ。

 犬でも魚でも火の玉でも奇妙な音や声でもみんなケンモン。ケンモンはまだモノが妖怪とか精霊とか動物とか光といった存在に分化する、あるいは人間が分類する以前の存在なのだ。ならば、巨大な宇宙船のような物体だってケンモンではないか。このおばあさんたちがもし子どもの頃に同じものを見たら、「あれはケンモンだった」と言うだろう。

 

自慢にもならないが、私ほど未知動物をしつこく追及してきた人間はいないんじゃないかと思う。未知動物探索20年。

ベトナムでは「フイハイはバナ族の人間しか見ることができない」と聞かされて途方に暮れた。奄美では87歳のご老人に「ケンモンなんて迷信だよ」と諭されてそのまま東京に帰りたくなった。アフガニスタンでは「そんなもんを探しに来たのか」と現地の人に呆れられて赤面した。

 

フイハイは精霊とも妖怪ともつかない存在だった。ケンモンは精霊や妖怪を飛び越え、宇宙に通じていた。ペシャクパラングは荒廃した近未来を舞台にしたSFに出てきそうな動物だった。にもかかわらず、現地の人たちの多くはそれが超自然的な現象とは考えていない。あくまで「自然」の存在だとしている。

 

この3つの旅で、途中から私の頭にこびりついて離れなかったのは、柳田國男遠野物語』だった。

遠野物語民俗学的な記録ではない。遠野出身の一青年が自分の知っている話を柳田に語って聞かせたものだ。天狗や川童、幽霊などの物の怪や怪異現象がふんだんに登場するが、これはみな昔から伝わる話でなく、柳田國男が生きていたのと同時代の話である。「菊池弥之助という老人が大谷地を通りかかったとき」とか、「松崎村の川端の家では」など、たいてい体験者の具体的な名前や事件の起きた場所の名前が記されている。

 私は最初に読んだとき、「現地に行けばいいのにな」と思った。現場第一主義で、一次情報しか信用しない私なら絶対にそうする。ところが柳田は動かなかった。ただ青年の語る山の人の話を簡潔にまとめた。そして序文に「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と書いた。

 不思議な話を、不思議なままに読者の前に放り出したのである。

 

・だが、柳田はその後、妖怪や怪現象を民俗学的に研究するようになる。山の人の怖さを解体し、自分たちを平地人の知識で理解しようとした。「一つ目小僧というのは、神に供える魚が時代とともに変化した歴史的産物である」とか、山の人の力を無化する一種の武装解除ともいえる。なぜなら理解してしまえば、もう「戦慄」させられることもないからだ。どうやら、柳田國男は日本中の村々を武装解除して回り、二度と『遠野物語』の世界に帰ることはなかったようである。

 私は柳田國男と逆の道をたどっているような気がする。初めはあくまで謎の生物を科学的にアプローチし、次に現地の伝承や習慣を考慮したうえで民族学的に理解しようと努めた。だが、今回、ベトナム奄美アフガニスタンをうろついているうちに、だんだんそれもわずらわしくなってきた。小賢しい気がしてきた。

 聞いたことをそのまま投げ出したくなった。つまり、平地人(もしくは都市住民)を「戦慄せしめ」たくなったのだ。

 

高野秀行  1966年東京八王子生まれ。>

早稲田大学探検部当時執筆した「幻獣ムベンベを追え」でデビュー。タイ国立チェンマイ大学講師を経て、辺境作家になる。

 

 

 

 

 

『クマ問題を考える』

野生動物生息域拡大期のリテラシー

田口洋美     山と渓谷社   2017/4/21

 

 

 

捕獲と威嚇のメッセージ性

・現在、私たちが行っているツキノワグマ対策は、出没や被害の現場での「対処駆除」、いわゆる対症療法が主体である。被害に遭えば捕殺し、市街地に出てくれば捕殺する。当然のようであるが、実は肝心なことが抜け落ちている。それはクマの出没を減らすための努力である。その努力は、クマたちにこの一帯から先には行ってはいけない、人間の生活空間に出て行けば極めてリスキーである、ということがわかるように仕向ける努力のことである。

 

・現在のツキノワグマの推定棲息数(全国に1万6000頭前後が棲息している)がいるとすれば、年間200頭から300頭のオーダーで捕獲をつづけたとしても対処駆除は永遠につづけていかなければならない。それは被害に遭いつづけることを意味している。被害に遭いつづけることが駆除の持続性を保障するという、現在のジレンマから一向に抜け出すことができないのである。このようなジレンマの持続性を喜べる人はほとんどいないだろう。被害に遭うのは農林業に従事する人々に限られたことではない。ランダムである。散歩やジョギング中に、あるいは登下校中にクマと遭遇することもあり得る話である。実際にそのような事故が起こっている。

 

・問題は、ツキノワグマに限らず、野生動物たちに人間の側のメッセージをどのように伝えるか、なのである。そのための苦肉の策の一つとして行われているのが、新人ハンター(猟師やマタギ)の養成ということになる。東北地方に限って言えば、この5年あまりのなかで地域の窮状を見かねてハンターを志してくれる人々は微増とはいえ増えてきている。しかし、増える以上に熟練猟師たちの引退も増えているのである。このような新人養成は、マンパワーの維持にほかならないが、同時に捕獲と威嚇という手法、しかも野生動物たちに伝わるメッセージ性のある手法をどのように実践するか、が問われることになる。

 

・例えば、現在、東北地方にはマタギと呼ばれる近世以来の歴史と伝統を有する猟師たちは3000人程度存在すると見込んでいるが。このなかで経験に裏打ちされた高度な現場判断ができる猟師は500人程度に減少しているだろう。いかに東北地方といえども日常の時間を自由にでき、毎日のように山を歩いていられる人はほとんどいない。多くの人は職を持ち、猟で山に入ることが許されるのは土日だけという場合が大半を占めてきている。このような状況で、被害や出没が起きた時に直ちに現場に走れる猟師はわずかしかいない。

 なかには、春のツキノワグマの生息調査や子察駆除の期間に有給休暇を溜めておいて出猟するという熱心な猟師もいるが、極めて少数である。むしろ、いくらそのような有給休暇の取り方を求めても許してくれる企業はまだまだ少ないというのが現実であろう。

 

・地域の山岳や沢、地名や地形に詳しく、単独で山々を歩け、クマに関する情報を収集し、クマたちの動きの先が読める猟師は育ちにくい時代である。現在、猟友会を支えている熟練した猟師たちは、ほとんど1940年代から1950年代前半に生まれた人たちである。この人たちはかろうじて親の世代の猟師たちが生計をかけて狩猟に携わっていた当時、親や近隣の先輩たちから動物の追い方など、伝統的な技術や地域の山々に関する知識を継承できたぎりぎりの世代である。この人たちが元気な内に、若い新人ハンター付いて学んでいけば10ぐらいの経験で相当の知識と技術をものにすることも可能であろう。しかし、現場を差配し安全を保ちつつ大型野生動物と向き合うにはさらに10年という歳月がかかる。この時間の短縮は難しい。バイパスはないのである。

 

<遭遇しないために>

・クマ鈴を腰に下げている人をよく見かけるが、遭遇した時にはよい効果をもたらさない。

 

・山で生きていた人たちは、大なり小なり、クマをめぐる体験を持っている人が多い。この体験の蓄積は、危険を回避するための貴重な知識となる。地域の人たちが歴史的に蓄積し、鍛え上げてきた民俗知(民族知)の世界に多くの人が触れてくれれば、事故などそうそう起こるものではない。自動車事故よりも遥かに確率が低い。もし、そんなにクマが危険な動物であれば、すでに人類は滅んでいただろう。

 

東日本大震災

・この数年来、気が晴れない日々がつづいている。それは、東日本大震災をきっかけに生じた福島第一原発の事故による野生動物の放射能汚染問題のためである。現在も数多くの方々が避難生活をされているなか、避難区域はイノシシなどの野生動物に荒らされ、これを軽減させるために日々奔走している人たちがいる。

 

クマ問題の核心は、クマをいかに排除するかではない。出没をいかになくすかである。出没がなくなれば、問題は半減する。そのための努力がまだまだ足りていないと思う。

 

<狩猟と農耕>

つまり、農耕によって発展してきた日本社会であるからこそ、狩猟を必要としてきたのである。農耕に依拠する社会には狩猟という営みが必要不可欠な存在であり、狩猟は農作物被害を軽減する抑止力として機能してきたのである。このような狩猟と農耕の相補的な関係は、ヨーロッパ社会にもアメリカにも、アジアやアフリカにも確認することができる。狩猟と農耕はまるで別物であるという理解は明らかに間違った考え方なのである。

 

・この5年あまり、アメリカを調査しはじめているが、2016(平成28)年にアイオワ州アイオワ・シティー郊外の農家を訪ねる機会があった。

 訊ねた農家のビル氏が所有する広大な畑の周辺には、隣の耕地との境に幅100メートルほどの森が残されている。その森のいたる所にハイシートやハイハットと呼ばれるシカ猟用の施設が設けられていた。ハイシートというのは日本では据木と呼ばれていたもので、中世の鎌倉時代に描かれた『粉河寺縁起絵巻』などに登場する。樹上から下を通るシカを待ちぶせして弓で射るための台のことである。アメリカではコンパウンド・ボウと呼ばれる弓やボウ・ガンを用いてシカを射る猟が盛んに行われている。そのための施設が森のいたる所につくられている。

 

・シカに作物を食べられながら養い、シカを狩猟している。訊ねた時、自宅から600メートルほど先の畑のなかで採食するホワイト・テール・ディアの群がいた。彼はまったく興味を示さず、私たちを家のなかに案内し、シカのトロフィーを見せながら猟の話に夢中であった。彼もまた半農半猟の暮らしをしていた。

 

ドイツのヘッセン州を訪れた時も同じであった。ドイツには80万人も狩猟者がいる。猟場となるのは農村地帯に設定された猟区であった。農家の人たちが互いに耕地を提供し合って猟区をつくっていた。その猟区を猟師が訪れ、アカシカやイノシシを獲物に猟を展開しているのである。耕地を猟区に提供している農民たちは、耕地内に生息する野生動物を獲って貰うために土地を提供していたのである。

 アフリカのケニアでは、農耕する部族社会の周辺に狩猟採集民の部族がいるという話を聞いた。ラオスでも中国の雲南省でも、黒竜江省でも、ロシアでも聞いた。狩猟と農耕は、これらの国や地域でやはり分かちがたい関係にあった。何という不思議だろうか?

 

 

 

『熊撃ち』

久保俊治  小学館   2012/2/3

 

 

 

<山の魔物との遭遇>

<帰国と再会>

アイダホ、モンタナ、ワイオミング、ユタ、それにカリフォルニア北部にわたる、3ヵ月間の猟期も終わった。

 各地でいろいろなプロガイドに会うことができた。だが、足跡を的確に読み、距離、時間差を正確に判断してくれる技術を、私の期待通りに示してくれるガイドには会えなかった。いっしょに行動できるガイドの数が、限られていたせいもあるだろう。そしてガイド業が、動物相手というよりも、客相手のビジネスとして成り立っていたせいかもしれない。

 私が北海道でやっていたように、一人対動物という関係は、一部罠猟師や、イヌイットの人たちを除けば、もうアメリカにも存在しないのだろう。本物の猟のプロフェッショナルは、映画の中だけにしか残ってないのかもしれない。

 アメリカでは、北海道の私のようなやり方、自分で獲った獲物を金にして生活するやり方の人間を、マウンテンマンと呼び、ハンターとは呼ばないようだった。

 

・故国へ帰る飛行機の窓から見えてきた少し雪をかぶった山々は、まさに日本の山々だった。ロッキー山脈ほどの広さはないが、それがかえって懐かしくさえ思えた。

 

なくなった林

・4月も近づき、春の気配に山が黒ずんでくる。待ちに待った熊の季節がやってきた。フチとともに、一年ぶりに標津へ向かう。

 アメリカの山の、乾いたマツくさい香りとはまったく異なる。湿っぽい腐土のような懐かしい匂いを、胸いっぱいに吸い込む。北海道にいることが、アメリカから帰ってきたことが実感される。設営を終えたテントの中で、広げた寝袋の上に寝転び、翌日からの熊猟に思いを遊ばせる。

 

・やはりフチとの山がいい。

 翌朝、硬雪を踏んで、熊が早い時期から穴を出る山へと向かう。

 

・解体、運搬し、街に出て売れるものは売ってしまった。このときは熊一頭とシカ二頭で、当時のお金で50万円ぐらいにはなった。山に戻ったころには雪解けも進み、テントのまわりの雪もだいぶ少なくなった。

 体についた熊の匂いは、2週間ほど経っても消えず、焚火の煙の匂いとともに、自分の体臭のようになる。

 

異様な吠え声

・4月も末になり、春めいてきた山の中を歩く。8月中には再びアメリカへ行くという思いが、あまり気乗りしないものになってくる。厄介なビザの取得のことを思うと気が重い。フチを連れていけるならともかく、もう置いたままにしてはいけない気持ちが強くなっている。このまま北海道で、自分の猟を完成させることのほうが大事ではないか、と思えてくる。

 アメリカでは、できることはほとんどやり尽くしたような気もする。プロのハンティングガイドとしても、あちらのプロガイドと比べて遜色はなかったとの自負も持てた。まだ行ってみたいと思う州もあるが、ガイドとして、客相手では気が弾まない。

 

・冷や飯に、熊の脂で炒めた味噌をつけながら夕飯を食う。フチもその味が気に入ったとみえ、旨そうに食う。

 寝袋に体を入れ、オレンジ色の榾火を見ながら眠りについた。

「ウーッ」、フチの異様な唸り声に目覚める。傍らにいるフチが、ぼんやりと白っぽく見えるだけの、星明りもない闇の一点を見つめ、体に緊張感を表わし低く唸っている。焚火も消えている。

 ゆっくりと寝袋から這い出し、立てかけてあるライフルを掴み、懐から懐中電灯を出し、いつでも点灯できる用意をし、闇に目を凝らす。

 フチは低く唸り続けている。ゆっくりと立ち上がり、フチに行けの合図を心の中で送る。暗闇にスルスルと消えていったフチが、突然に吠え出す。吠え声が異様だ。今まで聞いたことがない怯えた吠え声なのだ。懐中電灯を点ける。ほんの一部だけ照らされた闇の中を、ライフルを構え吠え声を目指して一歩一歩と近づく。少し行くと、闇に向かい吠えているフチが、小さな明かりの輪の中にボーと浮かんでくる。尻尾を垂らし、背の毛を逆立て、怯えた声で激しく吠えたてている。熊に対してさえこんなに怯えた姿を見たことがないし、こんな怯えた吠え声を出したことがない。そのフチが闇に怯えている。懐中電灯で照らしてみても、何も見えない。熊ではないのだ。熊だとしたら、寝ている傍らで、ただ唸ったりだけしていたはずがない。足元まで唸りながら戻り、また闇に数歩踏み出しては激しく吠えることを繰り返す。

 

・突然に体の中を恐怖が走った。今までに感じたことのない、得体の知れない恐怖が背筋を昇り、全身の毛が逆立つ。

 ああ、これが山の魔物と言われるものなのか。猟の伝承で言われてきた、「魔物に逢う」という現象なのだ。闇を見つめ、フチの怯えた吠え声を聞きながら思った。犬には魔物が見えると言われている。今フチは、その魔物を見ているのだ。そして私自身、その魔物と言われるものの前に、暗闇で対峙しているのだ。

 得体の知れない恐怖感が重く体を包み込み、押し潰そうとする。まわりの暗闇よりもっと濃い暗いモノがまとわりついてくる。額に冷たく汗が滲み出てくる。今まで、人魂と言われ火の玉も、山の中で数度見たことがあるが、そのときにも感ずることのなかった恐怖感に体が包み込まれている。なんとも言い表せない。はねのけることができないような恐ろしさが感じられる。闇に目を凝らし、耳を澄ましてその恐怖を払いのけようとしながら、ただ佇んでいた。

 

・落ち着いてみると、地場の変化などによる電磁波を感じたのかもしれないと思う。犬は電磁波に敏感だといわれている。フチにとっては、得体の知れない電磁波の、その感覚に怯え、吠えたのかもしれない。そして私自身も、フチの傍らへ行き、それを感じ取ると同時に、フチ怯えを目の当たりにすることにより、電磁波の感覚が、恐怖という形で現れたのかもしれない。

 

山の中でたった一人で生活していると、奇怪なことをたびたび経験する。そして猟の伝承の中で言われていることの一つ一つが自分なりになるほどそういう訳なのかと納得できることがよくある。

 例えば、サンズナワと言われるものがある。

 山で泊まるとき、なんとなく嫌な感じがする場所というところがある。そんなとき、獲物を引っ張るロープなどで、「一尋、二尋、三尋半」と唱えながら3回ロープを扱き、そのロープを寝るところのまわりに張り巡らせて、結界を作れば、魔物が入ってこず安心して寝られると言われているものだ。

 

・私も一人で山を泊まり歩いていたとき、熊の通りそうなところではよくやってみた。

 何回か扱いたロープを張り巡らすことで、他の動物を寄せ付けない効果は確かにある。解体した獲物の肉を残しておくときに、手拭いや軍手などを肉の側に置いておくことによって、2日間ほどは、キツネなど他の動物が近づかず、肉も食い荒らされることがない。サンズナワを張り巡らすのも、これと同じような理由だと思われる。またキャンプを出るときテントの入り口に唾をつけたり、タバコの吸殻を立てておいたりすると、キツネ、イタチ、テンなどの動物にテントの中を荒らされることがないのも、サンズナワと同じようなことだと思われる。

 

・山の中では1回だけの呼び声には決して返事を返してはいけない。返事をすると魔物に連れていかれてしまうとも言われている。幻聴を呼び声と間違い、よく確かめもせずに返事をしてしまうという心の弱さ、注意力の乱れが方向を間違い、山に迷ってしまう原因になるのだろう。山での猟、特に単独猟では、何事も確認し直してから行動せねばならないとの戒めと思っている。

 自分なりに理由をつけ納得したつもりになってみると、たわいもないことのようにも思えるが、弓矢の時代の昔から言われつづけている猟人の伝承には、山に対する大いなる畏敬と、深い尊敬の想いが込められ、そこから得られる獲物に対する愛情が感じられる。

 

・牧場での生活も順風満帆な時ばかりではなかった。牛の販売価格の下落によって、計画した収入が得られなかったり、白筋症という病気で半数以上の仔牛を失ったこともあった。特に全国的に騒がれたBSEの事件は経営に大打撃を与え、長くその影響を受けた。