日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

彼女は16日間も山の中にいて、幻聴を体験したのである。天狗の怪異の場合、太古や笛の音が聞こえるわけで、これも幻聴である。(1)

 

 

『山の怪奇 百物語』

山村民俗の会 編    河出書房新社  2017/5/26

 

 

 

<上州奥多野山地の妖怪  時枝務>

<奥多野への誘い>

・奥多野という言葉が使われるようになったのはそう古いことではない。ふつう、群馬県多野郡上野村・中里村・万場町の総称として使われているが、だいたい多野郡になったのは明治29年のことで、それまでは南甘楽郡に属しており、山中とか山中谷などと呼ばれていた。

 

<天狗の怪異>

・住居附の山中には天狗の杉がある。天狗がその木の枝に腰かけて憩うところから、その名がついたという。ある時、その木を伐ろうとした者があったが、幹に傷をつけたとたん、気がふれてしまった。楢原では「沢の窓木、峰の三本木」といって、窓木と三本木は伐ってはいけないと伝える。窓木というのは幹のまん中にぽっかりと穴があいたようになった木のことで、やはり天狗のものと考えられている。三本木というのは根本から三本に分かれて生えている木で、これも山の神や天狗のものとされている。山には伐ってはいけない木がいくつもあるが、そういう木はふつうの木とどこか違っていて、外見ではこれは伐ってはいけないということがわかるという。

 

・楢原の中正寺の裏山では夜中に太鼓の音が聞こえることがある。小春の猟師が聞いた時には、はじめは軽くたたき、やがて「ピイトロ、ピイトロ」と笛の音が混じり、最後に耳をつんざく大きな音になったという。

 

浜平では、秋になると天狗のお能がよくある。大きな太鼓の音に、「ピイトロ、ピイトロ」と笛の音がして、にぎやかな囃子がどこからともなく聞こえてくる。とりわけ山仕事をする者はよく聞くことがある。音のする方へ歩いていくと、だんだん音が遠のいていって、いくら行っても天狗の姿は見えない。なんとも気持ちの悪いものだという。

 

楢原から南牧へぬける塩の沢峠にも天狗がよく出る。昔、峠をこえる途中、急に大風が吹いてきて、木が倒れる音が山中に響きわたり、危険で歩けないので道に伏せた者がいた。しばらくじっとしていたが、突然誰かが背中をふむではないか。一瞬驚いたが、よく見れば知己の者で、後からきて追いこすところだった。「おい、どうした」と声をかけられた時には、つい先ほどまでしていた音は何もなかったようにおさまり、二人は無事に山を下ったという。この現象は天狗の仕業であるといわれるが、誰も天狗の姿を見た者はなく、いつも音だけがするという。

 

・楢原では、山仕事に出た男が夜になっても帰ってこないので、翌日に村の者が山に探しに入った。なかなか見つからなかったが、ついに崖の下の岩の上にぽつんと座っている姿を発見し、「どうして、こんなとこに来たんだい」と聞いてもまったく覚えていなかったという。これは天狗に連れ去られたのにちがいないというので噂になった。天狗は時としてとんでもないいたずらをするのである。

 

・乙父のキヨジは強者の猟師だった。ある時、山に泊まって用をたしていると、向かいの山から「キヨジのマラはでっけえな」と大声でいうのが聞こえてきた。すかさず、キヨジが「うぬが口ほうばるか」といい返すと、木の枝がふってきた。そこで、諏訪の神文を唱えて鉄砲を打ったら、山が動くほどの大声で笑ったという。これは山の神のしわざだろうか、それとも天狗の怪異であろうか。

 

<山姥と山男>

・鍋割山の官林には山姥が棲んでいる。昔、楢沢の隠居が、鍋割山の岩穴で、木の葉の着物に身を包んだ山姥に出会った。「なぜ、こんなところに来たんだ。二度と来るんじゃねえ。これをやるから、人に見せちゃならねえ。見せなけりゃ、一生困らせねぇ」といって、蜂の巣みたいな形の盃をくれた。隠居は盃を大事にしまっておいたが、3年目になにげなしに人に見せたところ、大嵐が突然襲い、隠居家が全壊してしまった。隠居のじいさまは座敷に坐ったまま、ばあさまは台所で、材木の下敷きになって潰されて死んだ。

 

神ヶ原には山姥の足洗い淵がある。昔、叶山に山姥が住んでいて、三津川の権現様の秋まつりの日である九月二十七日になると、かならず山から下りてきた。その時、山姥が足を洗ったのが足洗い淵である。淵とは名ばかりで、神流川の河原にある大石の中央のくぼみに水がたまっているに過ぎないので、石たらいという人もある。眼病の人はこの水で目を洗えば治るという。また、日照りの時には、この水を汲み出せば雨が降るというので、片瀬や宮地の男衆が水を汲み出したものだった。ところで、その山姥は酒が大好きで、ヤマサンドックリ(山の下に三と書いてあるトックリ)をもって、「酒くれ」といってもらっていった。そのトックリには酒があまりにも多く入るので、ある時、まつりを一日早く済ませ、山姥に酒をやらないようにした。いつもどおり山姥がきて「酒くれ」というので、「おまつりはきのう済んじゃったよ」というと、山姥は残念そうに、「このムラは貧乏する」といって帰った。それ以来、山姥は来なくなったが、代わりに村の作物はろくなものができなくなってしまったという。

 

・鍋割山には山男も棲んでいる。住居附の人が山男に出会ったとき、盃をもらったが、人には決して見せるなと言われた。ずっとたってから人に見せたら、熊蜂の巣に似ていたというが、それで祟りがあったかどうかはわからない。山男は笠丸山にもいる。この山の中腹には洞窟があって、中からガヤガヤと話し声が聞こえてくる。のぞいてみると、山男が一人いるだけで、誰も話しなどしていなかったそうだ。

 

<大入道その他>

・奥多野には大入道も棲んでいる。乙父沢の猟師が親子で猟に出て、鍋割山の岩穴に一泊したとき、大入道に出会った。大入道は、ツルツル頭に大きな目が一つの姿なので、一つまなことも呼ぶ。

 

・浜平の杣(そま)は、子供の頃、浜平の奥の北沢から下ってきたところで、大入道にばったりと出会った。あたりがうす暗くなった時刻だったという。「ギャア、ギャア」という音とともに、黒衣をまとった大入道が出現したが、その胸には毛が一面に生えていて、片手でその毛をなで上げていたという。

 奥名郷では、子どもが夜泣くと、「ヤマンボ」が来るといって泣く子をいましめる。ヤマンボは大男で、悪い子を高い岩の上へ連れていって、谷底へ放り投げるという。実際、権現岳の岩棚の上に子どもが連れ去られ、置き去りにされたことがあった。その時は、幸い見つかったので、縄でずり上げて助けた。

 

・奥名郷の男が、野栗沢で一杯やっての帰り道に、赤い着物を着た娘が一人で夜道を歩いているのに出会った。あまりに後姿がかわいいので、なんとか追いつこうとしたが、いくら走っても追いつけず、しまいにふいと消えてしまった。ムジナに化かされたのだろうという。

 

<山と妖怪>

奥多野の妖怪はほとんど山にいる。天狗も山姥も、みな山を棲み家としていて、時折そこへ侵入してくる者に姿を見せるのである浜平の上流の山は、かつて身の丈八尺もある老夫婦がいたと伝えられているが、山の奥深くには、この世とは異なった世界があると考えられていたらしい。

 魚尾の山中には古い猫が集まって盆踊りをしたところがあって、そこを舞台と呼んでいるが、そういう不思議が山のなかには少なくなかったのである。山へ一歩踏み込めば、どんな怪異に遭遇するやもしれないという不安は、それが具体的であればあるほど、すんなり受け入れられたのである。

 

・山は、人の心を普段とは違った状態にすることがある。奥名郷の木挽きの妻が、幼な子を連れて川へ米をとぎに出たまま行方知らずになり、そのまま16日間見つからなかった。その間、すぐそばまで知人が探しに来たが、耳もとで黙っていろという者があったので、6回も応答しなかったという。耳もとでささやいたのは山の神だというが、それにしても16日間もじっとしていたというのは、やはり尋常ではない彼女は16日間も山の中にいて、幻聴を体験したのである。天狗の怪異の場合、太古や笛の音が聞こえるわけで、これも幻聴である。しかも、ひとりだけではなく、居合わせた者のみが同時に聞くことが多いというのであるから、なんとも不思議な話である。

 

妖怪は人を驚かすのみでなく、山人に時として幸福をもたらす。しかし、それが裏返しになると恐ろしい災いを与えることになる。鍋割山の山姥は、一生困らせないといって盃をくれるが、それを人に見せてはならないという。ところが、盃をもらったじいさまは、山姥の言葉を忘れて、つい人に見せてしまう。すると、大嵐で家を倒され、じいさまもばあさまも死んでしまう。もし、盃を人に見せなければ、おそらく幸福な一生が約束されたにちがいない。妖怪の力は、山村の人たちにとって幸・不幸のいずれの要因ともなりうるものだったのである。

 

<奥武蔵越生地方の妖怪ばなし  新井良輔>

越生秩父盆地を取巻く山脈の外側、関東平野に面した、通称外秩父にある小さな町である。最近でこそ東京への通勤圏となり、ベッドタウン化しつつあるが、まだ自然が残り、越生梅林、黒山三滝、越生七福神と埼玉県でも指折りの観光地になっている。

 

<さまよえる稲荷の狐>

明治40年内務省は神社統合令を出し、耕地の稲荷も、他の4社の稲荷とともに八幡神社に合祀されて越生神社となり、稲荷の森も競売され田圃となってしまった。ところが、この耕地の中にある一軒家、吉野氏宅では、毎晩、家の近くを何かが走り廻り、騒がしくて恐ろしがっていた。

 ある夜、吉野氏が眠っていると、枕元に一匹の狐が現われて、「私は耕地の稲荷に住む狐だが、稲荷の森がなくなって住む所がなく、毎晩お騒がせしているが、どうか私の住む処を作って下さい」と涙をこぼしたという。

 親切な吉野さんは、早速庭先に祠を造り、お稲荷様を祀ってやった。すると、その夜からは今までの騒ぎもおさまり、吉野家にも平穏が続いたそうである。

 

狐の嫁入り

・私が小学校3年生の頃、祖母が、「今夜は狐の嫁入り」といって、私を裏へ連れて行った。山武の里の上の方に、たくさんの灯がちらちら動いているが、恐ろしさは全くなかった。

 

<狐に化かされた曾祖父>

・私の曾祖父、藤太郎は、越生連合戸長(今の村長)を務めた人であるが、毎月28日には川越の不動様へお参りに行く信心家でもあった。

 川越へは5里、その日も番頭に提灯を持たせて暗いうちに家を出て、如意から箕和田へかかったところ、どうしても見覚えのある所へ出ない。これは道に迷ったかな、それにしても通いなれた道でしかも番頭と二人連れ、ことによると狐に化かされたのかも知れないと、山道に腰を下ろし、火打石を出して一服つけて見た。昔から「狐には切り火が一番良い」といわれていたからである。

 すると急に夜が明け始めて、山の中をさまよっていた自分を見出した。どうやら、如意と箕和田の境の山中をぐるぐる廻っていたらしい。

 

<お稲荷様のお寿司>

・太平洋戦争も敗色濃くなり、越生毛呂山の山の中に、地下工場を造ることになって、たくさんの飯場が出来た。食糧難で土地の者さえ満足に食べられなかった時代、重労働をする飯場労務者はいつも空っ腹をかかえて、「ほしがりません勝つまでは」と頑張っていた。

 入浴もままならない飯場で、ある夜、若い労務者が急に裸になり、「いい湯だ、いい湯だ」と表を歩き廻り夜を明かしてしまったことがあった。

 朝になって仲間が、どうしたのだ、と問い詰めると、夜中のことは何も覚えていない。ただ夕方、近くの稲荷様を見たら、いなり寿司が上っていたので、それを食べてしまった、という。

 苦しい労働の上に、入浴、食事もままならぬ労務者への、お稲荷様の粋な計らいであったのか、あるいは狐に化かされたのか、確かなところは分からない。

 

愛宕山の狐(火の玉と提灯行列)

・西戸と箕和田の境にある愛宕山には、昔から悪い狐が住み、時々、山頂の大松にたくさんの提灯をつけたり、夜道で大声を上げたりして恐ろしがられていた。その昔、私の曾祖父が、箕和田境にはたしかに狐がいると語っていたことが思い出される。

 如意の堤さんの父親は、その日、川角へゆき、暗くなってから、大類越出で越辺川を渡り、土手に上ろうとすると、下流の方から大きな火の玉が飛んで来た。これは大変と、身を伏せたところ、火の玉は「ゴーッ」と音を立てて頭の上を通り過ぎたそうである。「あれは愛宕山の狐の仕業に違いない」と、やっとの思いで逃げ帰ったという。

 

・ある夜、沢田の人が家の裏へ出てみると、愛宕山あたりの中腹に変な灯りが見え、それがだんだん近づいて来る。やがて灯は提灯の列となり、十個ほどが横に並んで動いて行った。恐らくこれも、愛宕山の狐の仕業であろうといわれている。

 

<夜振りの怪>

・ふと下流の越辺川橋の方へ眼をやると、はるか遠くの空に怪しい光が見える。なおも見つめていると、それが次第に近くなり、光は14、5にも増えて横になったり、縦になったりしている。びっくりして、川から逃れようと何とか土手にはい上った。近くに瓦屋の作業場があり、まだ職人が仕事をしているらしく灯りが点っていたので、一目散に駆け込んで助けを求めた。振り返って見ると、灯りの列は西戸あたりに見え、一瞬にして消えてしまったということである。

 これも噂に聞く愛宕山の狐のいたずららしい。時は昭和9年の夏、空に星1つない曇った夜であったそうな。

 

<画になった狸>

・津久根の中喜屋さんは働き者で、その日も魚や乾物を荷車に乗せて、麦原へ商いに出かけた。秋の祭の前とて、商いも上々、鼻唄まじりで黄昏の麦原川沿いに下って来ると、小杉との境の百貫淵という淵の岩に、誰か腰を掛けている。「今頃誰だろう」と、よく見ると大狸であった。驚いた中喜屋さんは一目散に逃げ帰ったが、この慌てた姿があまりにおかしかったので、村中の話題になってしまった。それを近くに住む泥人という襖絵画きが筆をとり面白おかしく画にして、中喜屋へ持って行ったが、中喜屋さんは怒るどころか、喜んでそれを大切に保存した。

 

<狸が遊びに来た油屋>

毛呂山町の小川喜内先生のおばあさんは、嘉永岩年生まれ、実家の市場村(毛呂山町)の山崎家は、農業の傍ら油搾りを副業としたため、今でも油屋の屋号で通っている。

 この作業場の一角に大きな囲炉裏が残っている。昔、この作業場で夜業をしていると、「油屋さん今晩は、油屋さん今晩は」

 と声がするので障子を開けると、一匹の大狸が入って来て囲炉裏の向こう側に廻り、大あぐらをかいて暖をとってゆく。別に悪さをするわけでもなく、毎晩のように狸は油屋へ遊びに来て、夜業が終わり片づけ始めると、静かに帰って行ったそうである。

 

<上村華蝶と狸>

毛呂山の著名人、上村華蝶はよく、「俺は霞を喰って生きているのだ」と言っていたが、気の向くままに絵を画き、襖や屏風に仕立てて生活していた、まさに仙人のような人であった。

 

・ある夜、華蝶夫妻は山の下の本家へお風呂をもらいに行ったが、往復1時間もかかる山の上のこと、戦後でも電気は引けず、ランプを消して下りたのに、近づいて見ると家から灯りがもれて、話し声も聞こえる。そっと提灯を消して入口に立つと、一瞬灯りは消えてしまった。家に入り、灯をともして見廻したが、出かける前と何ら変わった様子はない。

 こんなことが幾度かあり、時には庭先や坂の途中で「華蝶さん!」と名前を呼ばれることもあったそうだ。しかし、さすがは仙人暮らしの華蝶さん、どうせいたずら狸の仕業であろうと、笑って一度も化かされたことはなかったそうである。

 

<越辺の平四郎>

・越辺川には「オッペの平四郎」という河童が住み、時々子供を川へ引きずり込んだという。この河童は町裏の通称「島野の裏」とよぶ淵に住んでいて、島野家の残飯を食べていた。島野家の当主は、島野伊右衛門といって、特産の越生絹の大問屋で、代々庄屋を務めた豪商であった。

 お盆になると、川施餓鬼といって、水難で死んだ人や無縁仏を供養するために、川へ胡瓜や茄子が流された。河童は胡瓜が大好物で、平四郎は大喜び、残飯にあきると、この胡瓜を食べに出た。ところが、お盆に子供が川にゆくと、平四郎は、これもお施餓鬼の供養と間違えて、子供を川に引きずり込んで尻へ藳筒(わらづつ)を差し込み、はらわたを食べるのだそうだ。このためお盆中に私達子供が川の方へ行くと、祖母は顔色を変えて連れ戻しに来たものである。

 時代が変わって現代でも、越生小学校では水難防止のため、越辺川の淵や沼には、この平四郎の顔を画いた立札を立てて、注意を呼びかけている。

 

<八幡淵の河童生捕り作戦>

・八幡淵は毛呂山町川角裏で、武蔵野台地に突き当たり、大きく湾曲する場所である。

 

八幡淵には昔から河童が住んでいると伝えられた明治9年7月16日、ここへ泳ぎに行った12歳の女の子が溺死するという事件が起こった。その年は異常渇水で、淵の水も非常に少なくなっていたので、これこそ河童の仕業と村中へ告れを出して、各自手桶を持って集まり、淵の水を掻い出し、河童を生捕りにしようとはかった。

 大勢の人が協力して、淵の水を汲み出したので、さすがの八幡淵も、夕方には底を見せて来たが、ついに河童の姿を見ることは出来なかった。

 昔から伊草(川島町)には袈裟坊という河童の親分がおり、この辺りの河童達は、人間のはらわたを抜いておみやげに持ってゆくのが習いであった。盆の十六日(当時は旧暦)のことではあるし、すでに女の子のはらわたをおみやげに、伊草へ出かけてしまって留守だったのであろう。この八幡淵も川の流れが変わり、今ではすっかり当時の面影はない。

 毛呂山町では、この上流、沢田の清三淵にも河童が住んでおり、岡へ上って甲羅を干しているのを見たなどとまことしやかに話し、子供は決して一人で川へ遊びに行ってはならない、といわれていた。

 

<菊屋の小豆洗い>

大関堀は、越辺川の越生本堰から越生耕地への用水路で、越生の町裏金を流れている。この用水が県道(今は旧道)を横切る所に、料亭菊屋があり、隣には越生座という芝居小屋もあった。

 この堀に毎晩「小豆洗いの婆さん」が出るというので、夜になって子供が表へ出ると、「小豆洗いにさらわれる」と叱られた。

 

<オーサキの話>

奥武蔵の山村を歩くと、必ず「オーサキ」の話が出る。オーサキは猫より小さく、鼠より大きくて、毛並はブチで足に水かきがある、といわれる小動物で、何故か多産系で、親の後をゾロゾロついてゆく、と表現される。

 単に想像するとまことに可愛いい架空の動物だが、御飯のお鉢のへりや、茶碗をたたくとオーサキが来ると厭がられ、人の目に触れることは少ない。しかし、オーサキに取り付かれたものは高熱を出し、うわ言をいうそうだ。また、オーサキ家という家はすべて、その土地の金満家であるのも面白い。オーサキが住み込むと、「くわえ込みオーサキ」と言って、外から財産を運び込み、そこの家の身体をどんどん増やすのだそうである逆に、いくら金持ちでも、道楽ばかりして身を持ち崩すと、「くわえ出しオーサキ」となって、どんどんそこの身代をくわえ出し、他のオーサキ家へ宿替えをしてゆくという。

 

・オーサキはなかなかの忠義もので、住みついた家から出て行ったものは、金銭でも、物品でも取り戻しにゆくという。だから、オーサキ家から物を頂いたときは、必ずそれ相応のお返しをする。子供にも物をねだらせない。もしおねだりして、何かもらってくると、それを取り戻そうと、忠義心を出したオーサキに取り付かれるのである。

 

<オーサキの封じ込め>

オーサキ家は大尽であるから、村人は旦那様と尊敬される人が多い。しかし、ことが縁談になると家系を嫌われてまとまらない。このため、何とかオーサキを封じ込めようとして、ある家は庭の池の小島に小祠を造り、これに祀りこみ、一方では桐の小箱に入れて神棚へ納まってもらうことにする。

 

・一般に、オーサキは狐といわれているが、奥武蔵では必ずしも狐とは断定していない。ただ、オーサキに取り付かれたとき、王子の稲荷様の幣束でお払いしたら正気に戻ったなど、狐付きと混同した面も多い。思うにオーサキ家とは、労せずして大金を手に入れた家を指したものではなかろうか。

 

<鬼神丸の天狗退治>

・黒山三滝の上に、「四寸道」という難所がある。これは高山不動への参詣路で、道幅四寸(12センチ余)というから、アルプスの岩峰のような場所をゆくのかと思ったら、さにあらず、低い岩と岩との割れ目を通る山道であった。

 ここには昔から天狗が住み、あるときは山頂に数百の提灯を連ね、時には大声を発し、また大笑大喜するという珍事が続いた。そのとき、近くの村にいた若い剣士が、鬼神丸という刀を持って山へ登り、天狗を退治しようと計った。四寸道へ出てしばらくすると、話しのとおり、樹上に提灯が連なり、大声がしていたが、次第に遠のいたので、これは剣士に怖れて逃げたのかと帰りはじめると、それを追うように白昼のごとき灯りとともに大声が近づいて来た。剣士は鬼神丸を抜き、大般若経を唱えながら一点を見きわめ一撃したところ、大声で、

「刃先二、三寸に欠歯あり、故に吾は此処を去る」といって白燈とともに消え去ったという。

 刀を調べて見ると、天狗の声のとおり切先が二、三分欠け落ちていた。

 

 

 

『日本妖怪大事典』

画◎水木しげる  編者◎村上健司  角川書店 2005/7/20

 

 

 

犬神(いぬがみ)

・中国、四国、九州の農村地帯でいう憑き物。中国地方では犬外道、九州、沖縄ではインガメというように、名前や性質は地方ごとでさまざまに伝えられている。

 犬神には人の身体に突然憑く場合と、代々家系に憑く犬神持ちとがあり、狐憑きとほぼ同じような特徴が語られる。

 犬神に憑かれると、さまざまな病気となり、発作を起こして犬の真似をするなどという。これは医者では治らず、呪術者に頼んで犬神を落としてもらう。

 

・犬神持ち、筋とは、犬神がついた家系のことをいう。愛媛県では、犬神持ちの家には常に家族の人数と同じ数の犬神がいるとし、家族が増えれば犬神の数も増えると思われている。

 

愛媛県周桑郡での犬神は鼠のようなもので、犬神筋の家族にはその姿が見えるが、他人にはまったく見えないという。

 

オサキ

埼玉県、東京都奥多摩群馬県、栃木県、茨城県新潟県、長野県などでいう憑き物。漢字ではお先、尾裂きなどと表記され、オーサキ、オサキ狐ともいう。

 憑かれた者は、発熱、異常な興奮状態、精神の異常、大食、おかしな行動をとるといった、いわゆる狐憑きと同じような状態になる。

 また、個人ではなく家に憑く場合もあり、この場合はオサキ持ち、オサキ屋、オサキ使いなどとよばれる。オサキが憑いた家は次第に裕福になるが、その反面、周囲の家には迷惑がかかるという。オサキ持ちの者が他家の物を欲しがったり、憎悪の念を抱いたりすると、オサキがそれを感じ取って物を奪ってきたり、憎く思っていた相手を病気にしたりすると信じられていたからである。

 オサキの家から嫁をもらうと、迎え入れた家もオサキ持ちになるというので、婚姻関係ではしばしば社会的緊張を生んだ。

 

おさん狐

・主に西日本でいう化け狐。とくに中国地方に多く伝わり、美しい女に化けて男を誑かす。鳥取県では、八上郡小河内(八頭郡河原町)から神馬に行く途中にガラガラという場所があり、そこにおさん狐が棲んでいたという。

 与惣平という農民が美女に化けたおさん狐を火で炙って正体を暴き、二度と悪さをせずにここから去ることを条件に逃がしてやった。

 数年後、小河内の者がお伊勢参りをしたとき、伊賀山中で出会った一人の娘が、「与惣平はまだ生きているか」と尋ねるので、生きていると答えたところ、その娘は「やれ、恐ろしや」といって逃げていったという。

 広島市中区江波のおさん狐は、皿山公園のあたりに棲んでいて、海路で京参りをしたり、伏見に位をもらいに行ったりと、風格のある狐だったという。おさん狐の子孫といわれる狐が、終戦頃まで町の人たちから食べ物をもらっていたそうで、現在は江波東2丁目の丸子山不動院で小さな祠に祀られている。

 大阪府北河内郡門真村(門真市)では、お三狐として、野川の石橋の下に棲んでいるものとしている。「お三門真の昼狐」ともよばれることがある。昼狐とは昼間に化ける狐で、執念深く、人を騙すものだという。

 

狐憑

・全国各地でいう憑き物。いわゆる一般的な狐の他、オサキ、管狐、人狐、野狐、野千といったものも狐と称され、それらの霊が人間に取り巻くことをいう。

 大別すると、1、個人に憑くもの、2、家に憑くもの、3、祈祷師などが宣託を行うために、自分あるいは依代に憑かせるものの3つに分けられる。

 1は狐の霊が何の予告もなく、あるいは狐に悪戯した場合に取り憑くもので、原因不明の病気、精神の異常、異常な行動をとるなど、個人や周辺に多大な迷惑をかけるやっかいなものとされた。

 2に挙げた、家に憑く狐は、家に代々受け継がれるもので、管狐、オサキ、人狐というのはこれである。繁栄をもたらす反面、粗末に扱うと祟りを及ぼし、家を滅ぼしてしまう。他家から狐が物を盗んできたり、家の者が憎く思う相手に憑いて病気にしたりするので、周辺から敬遠されてしまう。また、嫁ぎ先にも狐がついて行くと信じられたので、婚姻が忌避されるなどの差別を受けた。

 3は稲荷下しなどといって、祈祷師たちが狐の霊による宣託を行ったものである。

 

座敷わらし

岩手県を中心とした東北地方でいわれる妖怪。名前が示す通り、家の中にいる子供の妖怪で、3歳くらいから11歳、12歳くらいの男の子または女の子で、髪形はオカッパとされることが多い。

 

・座敷わらしにも階級のようなものがあるそうで、上位のチャーピラコは色が白く綺麗だとされ、階級の低いノタバリコや臼搗きわらしといったものは、内土間から這い出て座敷を這いまわったり、臼を搗くような音をたてたりと、なんとなく気味が悪いそうである。

 

・座敷わらしというよび方は東北地方でのことだが、この仲間というものはほぼ全国的に分布している。北は北海道のアイヌカイセイ、南は沖縄のアカガンターと、多少の性質の違いはあるが、家内での悪戯、例えば枕を返すとか、金縛りにするなどといったことが共通して語られ、家の衰運などにも関わることもある。韓国の済州島に伝わるトチェビなども、座敷わらしに似た性質を有しているという。

 

寒戸の婆(さむとのばば)

・『遠野物語』にある山姥の類。岩手県上閉伊郡松崎村の寒戸にいた娘が、ある日、梨の木の下に草履を脱ぎ捨てたまま行方不明になった。

 それから30年後、親戚が集まっているところへ、すっかり年老いた娘が帰ってきた。老婆となった娘は、皆に会いたくて帰ってきたが、また山に帰らねばといって、再び去ってしまった。その日は風が激しい日だったので、それ以来、遠野の人々は、風が強く吹く日には「寒戸の婆が帰ってきた日だな」などといったという。

 『遠野物語』は柳田国男が遠野の佐々木喜善より聞いた話をまとめたものだが、遠野には寒戸という土地はなく、これを登戸の間違いではないかとされている。語り部役を務めた佐々木喜善は『東奥異聞』に登戸の茂助婆の話として記している。

 

オマク

岩手県遠野でいう怪異。生者や死者の思いが凝縮した結果、出て歩く姿が、幻になって人の目に見えることをいうもので、「遠野物語拾遺」には多数の類話が見える。

 

 

 

『日本の幽霊』

池田彌三郎   中公文庫  1974/8/10

 

 

 

<憑きものの話>

「憑きもの」に関する俗信は、もちろん社会心理現象であって、今日の社会においては実害のともなう迷信である。四国を中心にした「犬神持ち」の俗信や、山陰地方に多い「狐持ち」の俗信などは、今日においてもなお実害のともなっている、はなはだしい例である。

 昭和28年11月に公刊された『つきもの持ち迷信の歴史的考察――狐持ちの家に生まれて――』という書物は、島根県大原郡賀茂町神原出身の速水保孝氏の著書である。著者自身狐持ちの家に生まれ、自身の結婚

にあたってもそれによる障害を体験され、迷信打破の為にその講演に歩くと、狐持ちなどの憑きものを落とすことをもって職業としている「祈祷師」らから、生活権の侵害だと脅迫がましい投書が来たり、と言った貴重な経験を通じて、これに学問的なメスを入れておられる。東京のような都会に育っている者には思いもよらない生活経験が語られているが、その書物の、

 私は狐持ちの家の子であります。だからこの本をどうしても書かずにはおられません。

という書き出しの文句なども、都会にいるわれわれの受け取る受け取り方では、ともすれば、こう書き出した著者の勇気を、感じとらずに読みすごしそうである。それほど「憑きもの」信仰などはわれわれ都会育ちのものには遠い昔の話になっている。だが、現にこの迷信は、島根県下において、末期の症状ながらも生きていて、その撲滅運動が度々繰り返されている、当事者にとっては真剣な問題である。

 

しかし、他の様々な迷信の打破と同じように、それは結局、教育の普及にまつ以外に、根本的解決策はまずなかろう。そして、この速水氏の本の序に、柳田国男先生がよせられた序文にあるように、

 教育者たるべきものは、俗信を頭から否定することなく、それに関する正確な知識を与えてやらねばならない。結局事実を提示して、各自に判断させてゆくというより他に方法は無いのではなかろうか。

 

・その一つの方法としては、こういう問題を大胆に話題にして、そこに正しい判断と批判力を養うことの必要を先生は説いておられる。幽霊も妖怪も、むしろわれわれが大急ぎで話を集めておかないと、もうほとんど出て来てくれそうもなくなったのに、「家に憑く怨霊」の庶子のような「憑きもの」だけが、まだ生き残って人間を苦しめているなどというのは、まことに残念であり、学者の怠慢だと指摘されても致し方ない。

 

・犬神というのは憑きものの中でも有名なものの一つで、四国がことにその俗信の盛んな土地である。――四国には「狐」という動物そのものがいないと言われている――しかし中国にも九州にもないことはない。四国で一般的に言われているのは、鼠ぐらいの大きさの小さい動物であるというのだが、近世の書物、たとえば『伽婢子』などでは、米粒ぐらいの大きさの犬だという。だから、近世の随筆家などになると、早く興味本位になり、一そう空想化していたということになる。

 

・犬神持ちがいやがられるのは、この犬神を駆使して、他人に迷惑をかけるからである。犬神持ちの人がある人を憎いと思うと、たちまちに犬神が出かけて行って、その相手にとりついて、その人を苦しめたりする。だからこういう点、平安朝の怨霊などのように、生霊死霊が自身で現われて人を苦しめるのに比べると、動物が人間並みの感情を持っていてとり憑いたり、あるいはさらに、そういう動物を人間が使役したり駆使したりして、人に損害を与えるなどということ自体、怨霊から言っても末流的であり、そこにこういう憑きものなどを一笑し去るべき要点がはっきり露出しているように思う。

 

・東京の銀座の真ン中に育った私にも、たった一つだけ、狐憑きの話を身近に聞いた経験がある。幼稚園の時から一緒で仲よくしていたTという友人の母親が急死した。私の小学校5年の時だから、大正14年のことだが、私は受け持ちの先生と、組の代表で告別式に行った。数日たって学校に出て来たTは、僕のお母さんは狐憑きに殺されたんだ、だけどこれは誰にも言わないでくれよ、と言った。

 

・Tの父親の親戚の女の人に狐がついて、Tの叔母をとり殺した。そのお葬式の時、狐憑きなんかあるわけはないとTの父親が言ったら、その親戚の女についている狐が、うそかほんとか、今度はお前の細君を殺してやると言った。Tの父親は「殺すなら殺してみろ」と言った。そうしたら、ほんとに僕のお母さんは死んじゃったんだ。あの時「殺すなら殺して見みろ」なんて言わなければよかったんだ。Tはこんな話をした。

 

・何しろ二人ともまだ子どもの時で、その上今から三十数年も昔のことで、ほかのことは知らない。Tの母親のお葬式の時にも、ケロリとして、その狐のついた親戚の女は手伝いに来ていたと、Tがにくにくしそうに言ったのを今でも覚えている。大正14年と言えば、前々年に関東の大震災があって、銀座はすっかり焼け野原となったのだが、そのあとしばらくのバラックずまいの町の中で、こんな生活の経験のあったことを、今ふと思い出したのである。