UFOアガルタのシャンバラ 日本は津波による大きな被害をうけるだろう

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。

さて、全ての山々の中に、神のいらっしゃらない山はなく、また山人のいない山もありません。(2)

 

 

『江戸のUMA談』  未確認生物の世界

 にほんの歴史★楽会【編】   静山社  2014/12/5

 

 

 

<河童>

・江戸時代にも、河童に関するさまざまな話が残されています。

町奉行をつとめた根岸鎮衛の随筆集『耳袋』から、塩漬けにされた河童の話です。

 

・ある日、私(根岸鎮衛)のもとへ、松本伊豆守が、河童の絵を持ってきました。この絵は仙台藩伊達家の河童騒動を目の当たりにした者から松本が話を聞き、それを描いたものでした。

 

・狙いを定めて鉄砲で撃ち止めてみると……。その正体は河童でした。

この河童は、打ち殺されて塩漬けにされてしまいました。

 この話を聞いている時に一緒にいた曲淵甲斐守は、声をひそめて、「この絵は、昔、自分が河童の絵として見たものとは違わない」と語りました。

 

・このように河童は人を水の中に引き込む悪さをしますが、失敗して詫び状を書かされる河童もいました。

 

・九州は他の地域より河童が多く棲んでいます。河童は人間に害を及ぼすといいます。漁師の妻と密通するなど、思いもよらないような嫌なことをするものです。しかし、今回の河童は……。

寛永の頃(1624-44)の話です。

島原の乱を鎮め、有馬直純が陣払いをしている時に、家臣の八座衛門は、「名に聞こえし有馬の蓮池を一目みていこう」と思い立ち、池のまわりをぶらぶらと歩いていました。

 すると、河童が一匹午睡をむさぼっています。八左衛門は、近寄ってこの正体もなく眠りこけている河童を抜き打ちにしました。

 ところが、確かに手ごたえがあって、血のりも刀に残っているのですが、肝心の河童の姿が消えてしまいました。あたりを探し回ったのですが、河童の死骸は見当たりません。しばらくすると、何かが池の中に躍り入る音がしました。

 

・八左衛門は翌日、主人のお供をして有馬から190キロ離れた日向国(宮崎県)縣の居城へと帰りました。

 さて、それから3年。寛永17年(1640)9月14日の羊の下刻(午後3時頃)に、なんとあの時の河童がやって来て八左衛門に告げました。

 

「3年前に肥前の有馬でつけられた傷がやっと治った。その恨みを晴らすためにはるばるやって参ったのだ。さあ、外へ出て勝負せよ」

 これを聞いた八左衛門はにっこりと笑って、「遠路はるばるよくぞ参った」といって、刀をとって庭へと出ました。

 八左衛門が斬りかかり、お互いに受けたり返したりと勝負をはじめましたが、彼の母親や女房には八左衛門がただひとりで戦っているようにしかみえません。「これは乱心したのか」と驚き、恐ろしく、近くに住む親類縁者を呼んできて、彼の様子を見せましたが、「これは狂人のようにも見えるが、どうも違うらしい」と、不思議に思い、みな見守るばかりです。河童の姿は八左衛門にだけ見えていて、その他の人には見えなかったのです。そんなわけで、助太刀もなくただ勝負が続きました。

 やがて互いに戦い疲れたので、河童は、「では、今晩は引き分けということにして、また明日参ろう」と立ち去りました。

 

・その翌日、殿様は八左衛門の家にやって来て、床几に腰をかけて、召連れてきた家来たちに命じました。「河童がやって来たら、その姿は見えなくとも、逃げられないようにまわりを取り囲め」。家来たちは、殿様の仰せに従って、今か今かと待ち構えていたのですが、結局その日は、河童が現れることはありませんでした。殿様は、ちょっと不機嫌な様子で城へと帰ってゆきました。

 その晩のこと。河童が八左衛門の枕元にやって来ました。

「年来の恨みを晴らそうと、はるかここまで参ったけれども、昼間ここにその方の主君がやって来て、戦いを観戦しようというのでは、もはや我の願いは叶えられそうもない。明日、有馬へ帰ることにした。このことを伝えるため、やって来たのだ」

 といって、そのまま立ち去りました。

 この物語は、豊後国大分県)の永石其孝という人が語ったものです。

 

・河童は、悪さをするだけではなく、この話のように彼なりの義を持つものや、助けてもらったお礼に秘薬を教えるもの、相撲好きのものなどがいます。そして、その親しみやすさから、草双紙のキャラクターとしても多く描かれましたが、中には「男色趣味の河童」というキャラも登場しました。

 

海童 かっぱ

・かっぱはかっぱでも、こちらは海に棲んでいるので「海童」と書きます。

 

・打ち殺される時に、河童は屁を放ちました。耐えられないほどの悪臭で、そのご、船頭が病気になるほどでした。棒などにも青臭い臭いがついて、いまだに取れません。屁の音は「スッスッ」というものでした。

 海童には尻の穴が3つあって、全体に骨はないように見えました。うちつけたので、首は胴の中へ2、3センチほどめり込んでいました。胸や肩が張り出していて、背は曲がっていました。

 当地(水戸の東浜)では、海童はたびたび捕まりますが、今回上がったものほど大きいものは今まで見たことがありません。珍しいことなので申し上げました。

 

・もしも、かっぱと出会うことがあったら「かっぱの屁」には注意しなくてはなりませんね。

 

長崎平戸藩の藩主だった松浦静山の『甲子夜話』にも2編、海のかっぱの話が載っています。

 

静山はかっぱ全般も海も川も区別なく「河太郎」と記し、亀の仲間と考えていたようです。

 対馬には河太郎がいて、波よけの石組みの土手に集まって群れをなします。まるで亀が石の上で甲羅干しをするかのような様子です。大きさは70センチほどで人に似た形をしています。幼いものも年がいっているものもあって、白髪のものもいます。髪を下ろにしているものもあれば、天に向かって逆立っているものもあります。彼らは人を見るとすぐに海に入ってしまいます。狐が人に憑くのと同じようにかっぱも人に憑くので、対馬の人々は困っているといいます。

 

・平戸の海辺の宝亀村にあった話です。

8歳の女の子が墓地で遊んでいると、何かがやって来てその子と交わりました。

すると、その時からその子は妊婦のような体になって、ついには卵を産みました。

「これは狐と交わったに違いない」と村人たちはいったそうですが、私が思うところ、これは河太郎の仕業ではないでしょうか。

 河太郎が女性と交わって子を成したという話は、私の領内の小値加にもあります。また、筑前や日向、豊後などの他国にも、同じような話があり、そこで産まれたのも、やはり卵だそうです。河太郎は亀の属で、背と腹に殻があり、また卵生です。もし、狐であれば、獣類なのでその様子は異なってくるでしょう。

 この卵を産んだ女の子は、それから間もなく亡くなったといいます。また、聞くところによれば、河太郎の子どもを産んだ者は、はじめに高熱で襲われ、その3、4か月後に卵を産みますが、卵は多くの泡に包まれているといいます。そして卵を産んだ者たちは、みんな廃人のようになってしまったと………。   『甲子夜話、異類の子を産む事』

 

・ちょっと気味の悪い話です。話の真偽はともかくとして、かっぱが人を襲うという話には、海や川にむやみに近づかない、墓場などさびしい場所で遊んではいけない、女性はある程度の年齢に達したら身辺に注意して暮らすなどの教訓が盛り込まれているのではないでしょうか。

 

山男 やまおとこ

・深山に棲み、木こりの仕事を助けてくれるなど、山童と共通点の多い山男ですが、山童とは外見がだいぶ違っていて、大男です。木曽の山奥に入っていく木曽奉行の下役などは、山男と思われる巨大な足跡を折々に見るといいます。

『絵本百物語』に描かれた山男を見てみましょう。

 

遠州静岡県の西部)秋葉の山奥には、山男というものがいて、時たま出て来ることがあります。

 木こりの重い荷物を背負って助け、里近くまで来ては、すぐに山中へと戻っていきます。彼らは家もなく、従類眷属もなく、彼らの常の棲家を知る者はありません。手助けの賃銭を払おうとしても受け取りませんが、酒を好むので、与えると喜んで呑みます。

 言葉が通じないので、身振り手振りで伝えようとすると、その意をすぐさま覚ります。出生のことも最後のことも明らかではありません。背の高さは1.8メートルより低いものはいません。山気が変じて人の形になったという説もあります。

 

・「深山に多くいて、背の高さは3.6メートルばかり、その姿は鬼のようである。木こりなどはこれに遭遇すると逃げ出すが、それは誤りである。頼めば山男は柴を背負って麓まで送ってくれるのだ。これは山男の力自慢だという」

 

・昔、同国のしらくに村というところに又蔵という男がいました。

 病人が出たため医者を呼びにいく途中、又蔵は足を踏み外して谷に落ちてしまいました。木の根で足を痛めてしまって歩くことができず、又蔵は谷底でじっとしていました。

すると、どこからともなく山男が現れて、又蔵を背負うと、屏風のような岩をも軽々と登ってゆき、医者の家の前に着くと、又蔵を下ろしてあっという間に消えてしまいました。

 後日、又蔵は助けてもらったお礼をいうために、小竹筒に酒を入れて携え、例の谷に赴いたところ、山男が二人出て来て、酒を呑んでとても喜んで帰っていきました。

 この話は、古老の言い伝えによって、この地では知っている人の多い話です。『絵本百物語 山男』

 

くだべ

越中国富山県立山に突如として現れた人面獣「くだべ」。これから起こる流行病や天災などの予言をする予言獣とされています。文政十年(1827)頃からくだべの話が全国的に流行したらしく、当時の風聞雑談を集めた『道聴塗説』に「流行クダベ」と題して載っています。

越中国立山で薬草採取を生業にしている男がいました。

ある日、男は薬草を探して、山深く入っていきました。

 

すると、図のように山精が現れて、

「私は長年この山に棲んでいる『クダベ』という者である。今年より3から5年のうちに、名もなき得体の知れぬ病が流行するであろう。草、根、木の皮などいずれの薬草も効き目はなく、どのような名医であろうともなす術はない。けれど、私の肖像を描いて、一度でもこれを見た者は、その災難から必ず逃れることができるのだ」と告げて、かき消すように、姿を消してしまいました。

 

天狗

松浦静山の随筆『甲子夜話』に書かれている天狗界の様子をのぞいてみましょう。

屋敷の下男に、東上総郡中崎村(現在の千葉県鴨川市のあたりか)の農夫上がりの源左衛門という者がいました。歳は53。この男はかつて2回も天狗に連れ去られたことがあるというのです。

 源左衛門は七五三の7歳のお祝いで、馬の模様を染めた着物を着て、氏神である八幡宮へお参りにいきました。その社の近くにひとりの山伏がやってきて、源左衛門を誘い、連れ去ってしまいました。

 源左衛門はその時から行方知らずとなり、8年が過ぎたので家では仏事を営むことにしました。一方、山伏は源左衛門に、「汝が身は不浄になりたれば返す」といって、彼を相州大山(神奈川県中部にあり、江戸時代に山岳信仰の盛んな山として知られた)に置き去りにしました。里の人が源左衛門を見つけた時、彼は出身地と名前を書いてある札を腰に下げていました。そんなわけで、彼は無事、故郷へ戻ることができました。

 不思議なことに、彼はいなくなった時と同じ着物を着ていたのですが、この着物は少しも傷んでいませんでした

 それから3年の年月が流れました。源左衛門は18歳になりました。

 そんなある日、また例の山伏が源左衛門の前に現れました。

 

「迎えにきたぞ。一緒にいこう」

 山伏はそういうと、源左衛門を背負って帯のようなものを掛けました。源左衛門は目をつむって、風の音を聞いたかと思うと、越中立山に立っていました。

立山に大きな洞窟があり、これは加賀(石川県)の白山まで通じているということです。その途中に20畳もの平坦な場所がありました。ここに僧や山伏姿の天狗が11人座っていました。その中でいちばん偉く、上座に座っているのが「権現」という名で、源左衛門を連れてきた山伏は「長福坊」と呼ばれていました。源左衛門はこの時はじめて乾菓子を口にしました。

 

源左衛門は、その後、いろいろな天狗たちのいる場所へ連れていかれました。まず、鞍馬へ連れていかれると、多くの天狗たちが座っています。そこでは、参詣の人々の願い事がまるで自分の体の中から聞こえるかのように聞こえてきます。天狗たちは、参詣人の願いを聞くと「これは叶えてあげよう」「これは愚かな」「笑うしかないな」などといいながら、呪文を唱えたりしています。

 また、別の山に連れていかれた時は、天狗たちが集まって、剣術と兵法を学んでいました。源左衛門もともに習得したのでした。そして、申学(さるがく)や酒宴などもともにしました。

 天狗の頭である権現は、毎朝天下安全を願って勤行を行っていました。彼が源左衛門に、「昔の一の谷の合戦の様子を見せてやろう」というと、なんと源左衛門の目の前に、軍旗が翻り、人馬が群れ走る様子が突如現れました。これは天狗の妖術に違いありません。

 

・源左衛門は、天狗界にいた間、菓子を一度口にしただけで、食事を摂ることはなかったそうで、よってお通じもなかったそうです。

 

 自分のところの下男とはいえ、この彼の話は疑わしいところもたくさんあります。しかし、すべてが妄言だとするのもどうでしょうか。この天と地の間には、妖魔の一界があるようです。

 

・天狗にまつわる話では、天狗にさらわれた、誑かされた、別世界に連れていかれた、人体実験をされたなどいろいろとありますが、これらは現在のエイリアンにまつわる話とよく似ています。もしかすると天狗は別の星からやってきたエイリアンで、古代から人間の生活のそばにずっといるのかもしれません……。

 

玃  やまこ

ヒマラヤ山脈に棲むといわれる未確認動物にイエティというものがありますが、全身が毛に覆われていて直立歩行をするという特徴がこの玃とよく似ています。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』から見てみましょう。

 

・飛騨や美濃(岐阜県)の深い山の中に棲み、猿のようで、身体は大きくて、黒色の長い毛が生えていて、立って歩きます。また、人の言葉をよく話し、さらに人が考えていることを察する能力があるそうです。人に害を与えるようなことはありません。

 地元の山の人々は、黒坊と呼んでいて互いに恐れることはありません。人がもし殺してやろうなどと考えると、黒坊は先にその意を察して走り去ってしまいます。捕まえようとしても、同じくその意を察してしまうので、捕まえることはできません。『和漢三才図会 玃』

 この玃とよく似た妖怪に「覚(さとり)」というものがいます。というか、これが載っている『今昔画図続百鬼』の絵の横に書かれている怪説を読むとそのまんま玃です。また、手を頭のところへ持ってくるポーズも同じなので、これは『和漢三才図会』を参考にして書いたものと思われます。

 

・「覚」 解説には、「飛騨美濃の深山に玃がいます。山の人は覚と呼び名をつけています。色が黒くて毛が長くて、よく人の言葉を話し、よく人の意を察します。まったく人に害をなしません。人が覚を殺そうとすると先にその意をさとって逃げ去るといいます」ということが書かれている。

 

 

 

『河童の文化誌』 平成編

和田寛  岩田書院  2012/2

 

 

 

<平成8年(1996年)>

河童の同類とされている座敷童子ざしきわらし

・ザシキワラシ(座敷童子)については柳田國男の『遠野物語』によって知られていたところである。

 

アメリカのニューメキシコ州の異星人の死体

・回収された異星人の姿は人間によく似ているが、明らかに地球人ではない。身長1.4メートル、体重18キロ前後、人間の子供のようだが、頭部が非常に大きい。手足は細長く、全体的に華奢。指は4本で親指がなく、水掻きを持っている。目は大きく、少しつり上がっている。耳はあるが、耳たぶがなく、口と鼻は小さくて、ほとんど目立たない。皮膚の色がグレイ(灰色)であるところから、UFO研究家は、この異星人を「グレイ」と呼ぶ。

 

異星人グレイと河童を並べてみると、素人目にも、そこには多くの共通点を見出すことができるだろう。

 まず、その身長、どちらも1メートル前後、人間のような格好をしているが、頭部だけがアンバランスなほど大きい。

 大きな目に、耳たぶのない耳、そして、小さな鼻穴と、オリジナルの河童の顔は、そのままグレイの顔である。

 最も注目したいのは、その手である。

 

先述したようにグレイは河童と同じ鋭い爪、水掻きがある。おまけに指の数が、どちらも4本なのだ!。

 また、グレイの皮膚の色は、一般にグレイだが、ときには緑色をしているという報告もある。

 河童の色は、やはり緑が主体。ただ両生類ゆえに皮膚はアマガエルのように保護色に変化することは十分考えられる。

 

・これらが、意味することは、ひとつ。アメリカ軍は、組織的にUFO事件を演出している。

 捕獲した河童を異星人として演出しているのだ。

 

 

 

もののけの正体』  怪談はこうして生まれた

原田実   新潮社     2010/8

 

 

 

人を食らう者としての鬼

・なにしろ正史として編纂された『日本三代実録』にも、次のような怪談が記されているくらいだ。光孝天皇(在位884~887)の御代に宮中の武徳殿を歩いていた女房が物陰から現れた美男子に誘われて行方をくらまし、やがてばらばらにされた手足が見つかった。つまりその美男子の正体は人を食う鬼だったのである。

 

・また、平安時代の権力者にとって、鬼は便利な装置だった。権力者同士の争いに巻き込まれての死者や行方不明者が出た場合、それを「鬼の仕業」にしてしまえば、誰の責任も追及せずにすませてしまえるからだ。この時代、「鬼に食われた」という形で噂された失踪者の中には権力者の間の暗闘の犠牲者も含まれていたものと考えられる。

 

<定型化していく鬼>

・渋川版御伽文庫の挿絵に登場する鬼は、人間に化けているもの以外は、上半身裸で頭に角を生やした男として描かれている。おそらくこれが私たちが思い浮かべる鬼の原型だろう。版本としての御伽草子の普及にともない、鬼のビジュアル・イメージの定型化は一気に進んだ。

 

天狗――天狗の鼻はなぜ高い?

・また、日本神話で天孫降臨を最初は邪魔し、のちには道案内をかってでたという神・猿田彦が天狗の仲間とみなされた影響もあるだろう。猿田彦は巨大な鼻を持つ神として伝承されていたからだ。

 

・こうして江戸時代には、天狗の定番、特に大天狗は長い鼻で羽団扇を持った山伏ということになり、昔ながらの鳥の頭で羽が生えた天狗は、天狗界でも下っ端の烏天狗ということになった。

 

天狗に弟子入りした少年

・『仙境異聞』によると、寅吉が仕えた天狗は常陸国筑波山系に属する岩間山の大天狗・杉山僧正だった。篤胤は天狗の暮らしぶりについてもいろいろと質問している。たとえば天狗の好物は山中でとれたイチゴやブドウなどの果物を岩穴の中で熟成させたもので上澄みの汁を飲んだ後、そこに沈んだ塊を練り固めて常備食にするのだという。

 また、天狗の羽団扇は空を飛ぶときの舵取りに用いられるだけでなく、他の魔物や猛獣を打ちすえるのにも役立つ。天狗はその羽団扇を使いこなすための修行を積むから、みな武術をきわめているのだという。

 

・篤胤は国学者として、また神道家として記紀などの日本神話を重視していた。神話の世界では、神々が黄泉国(死後の世界)と地上の間や、高天原(天上にあるとされる神々の世界)と地上の間をしばしば行き来している。

 

記紀神話に関して、江戸時代には、神話はたとえ話を含んでいるからそのすべてが事実というわけではないと説明した学者もあれば、神々の世界のことだから、人の世で起きないことが起きてもおかしくない、と説明した学者もいた。ところが篤胤はそのどちらの道もとらなかった。

 

・日本神話はすなわち史実であり、神々は人間の祖先である。したがって、神話の世界で神々が体験していたことなら、現代の人間もまた体験できるはずだ。篤胤はこのように考え、現代(当時)において人が目に見えない世界と往来した実例を捜し求めた。天狗界と往来するという寅吉はその篤胤の希望に応えたわけである。

 

・なお、篤胤は天保14年(1843)に世を去ったが、その後、彼が開祖となった平田神道の流れをくむ神道家の間から、天狗界に関するレポートがつぎつぎと発表される。参沢宗哲『幸安仙界物語』(『幽界物語』1852年)は和歌山藩士で寅吉同様、天狗に弟子入りしていたという島田幸安からの聞き書きである。また、明治の神道家・宮地水位(堅盤)(1852~1904)も幕末期に異界に出入りして天狗の教えを受けていたという。後年、水位が若かりし頃の見聞にもとづき、日本のみならず中国や西洋の天狗界の消息について記したメモ書きが『異境備忘録』であり、明治20年(1887)頃にいったん水位自身が編集した本が門人に書写される形で広まった。

 

河童――水神はどこから来たか?

河童の起源は古代まで遡るか

・河童というのは古くて新しいもののけである。その伝説上の発祥ははるかな古代にまで遡る。

 現在は『遠野物語』などの影響もあって、河童といえば東北というイメージを持つ人も多いだろうが、実際に河童に関する伝承が濃密に伝えられていた地域といえばまず挙げられるのは九州だ。

 たとえば熊本県八代市には次のような伝説がある。

球磨川支流で八代市街地を流れる前川。この川にかかる新前川橋のたもと周辺はその昔、徳淵津という船着場だった。そして、その徳淵津跡の堤防上には一つの石碑が建っている。これが通称「河童渡来の碑」だ。その碑文に曰く――、

 

「航海安全 水難消除 河童渡来之碑  ここは千五六百年前河童が中国方面から初めて日本ニ来て住み着いたと伝えられる場所である」(原文ママ

 この石碑は昭和29年(1954)6月、八代市中島町内会・中島史蹟保護会の連名で建立されたものだ。ちなみにこの地方では河童のことを「ガラッパ」と呼ぶ。

 

・『本朝俗諺志』『和訓栞』など、江戸時代の文献によると、ガラッパが黄河から渡来してきたのは仁徳天皇の御代のことだった。『日本書紀』によると仁徳天皇の在位は西暦313年から399年、つまり4世紀のことである。仁徳天皇が実在したかどうか、実存したとしても『日本書紀』の紀年が信頼できるかどうかはさておくとして、碑文の「千五六百年前」は、まさに伝承上の仁徳天皇の御代に相当している。

 

・それら江戸時代の文献に記された伝承によると、八代に住みついたガラッパの群れは、大いに栄えその数9000匹を数えた。その頭領は九千坊と呼ばれた。九千坊と配下のガラッパは長年にわたって、田畑を荒らしたり、人をさらったりと悪事を繰り返した。そのため、彼らは加藤清正公の怒りに触れて退治され、その後は二度と悪事は行わないと誓ってそのまま八代に住むことを許されたとも、筑後川に移住して久留米の水天宮の眷属になったとも伝えられている。いずれにしろ、それ以来、熊本・八代では水難の害はなくなったという。

 

畏怖の対象からひょうきん者へ

・河童といえば誰もが思いだす特徴、頭には皿、その周囲に垂れる髪、背中にはカメのような甲羅、嘴のようにとがった口、人間の子供のように小柄な身体つきで泳ぎが上手、愛嬌があり、相撲をとるのが大好きで、食べ物はキュウリを好む・・・そうした要素は実は、江戸時代に定着したものだ。

 

・18世紀前半、江戸時代中期までの河童に関する記録や図では、全身毛むくじゃらの猿のような姿とされているものが多く、嘴や背中の甲羅はない。頭頂にも窪みがあるとされる程度で、立派な皿があるとまでは書かれていないことが多い。その典型は正徳2年(1712)に刊行された寺島良安の百科全書『和漢三才図会』に収められた「川太郎」の絵である。

 

また、「カッパ」という呼称が全国に広まった時代もやはり江戸時代中期のようだ。河童を意味する方言は一説に全国で400種以上もある。

 

 先に述べたガラッパは熊本・宮崎・鹿児島の各県で用いられているものだが、他にも、ミンツチ(北海道アイヌ)、メドチ(青森)、カワソ(石川・島根、他)、カシャンボ(和歌山・三重)、ガタロ(奈良・大阪、他)、エンコウ(広島・高知、他)、シバテン(高知)、スイテング(福岡)、ヒョウスベ(佐賀・長崎・宮崎、他)、ケンムン(鹿児島)、キジムナー(沖縄)と枚挙にいとまがない。

 

・「カッパ」もそうした方言の一つで、もともとは関東地方で用いられたものだった。江戸の出版物が地方でも読まれることで、関東方言にすぎなかった「カッパ」がさまざまな水神の眷属や水の怪の総称とみなされ、その特徴を次第に共有するようになっていったわけだ。言い換えると400種以上もの河童の方言は、もともと400種以上も存在した水神の眷属や水の怪が江戸中期以降、「カッパ」の呼称に統一されていったその名残と考えられる。

 

 

 

平田篤胤の世界』

子安宣邦  ぺりかん社     2009/10

 

 

 

<『仙境異聞』―江戸社会と異界の情報

異界情報事件の発生

・文政三年(1820)という年の秋の末、天狗小僧寅吉は多種多様の異界の情報を身につけて、まさしく事件として江戸社会に登場した。

 

・「此の境」(顕界・顕世)とは境を異にする「彼の境」(幽界・幽世)への関心を強く持つ篤胤を中心に、異界へのさまざまな探求的関心をもった人々からなるサークルの中に寅吉少年は置かれることになる。

 

異界情報の探究者たち

・幽界とは「此方の世界」(顕界)と境を異にした「彼方の世界」であり、顕界とともに篤胤の世界像を構成しているもう一つの世界であった。異界(幽界)の情報の伝達者寅吉とは、篤胤にとって珍奇な情報の伝達者であったのではなかった。寅吉とはむしろもう一つの世界がたしかに存在することの生き証人であったのである。

 

異界情報と異界の構成><異界―山人の世界

・その寅吉が師とする杉山々人にしたがって修行し、多くの知恵と術とを伝授され、山の修行者の生活法とそこに蓄積された知識・技術をも修得した「彼の界」すなわち、異界とは、山人の世界である。寅吉が体験したその山人の世界とは筑波山塊の一つをなす岩間山(愛宕山)であった。

 

・寅吉が「山人天狗」とともに修行し、生活をともにしたという世界は、たしかにこの江戸と地続きの、はるか北東に眺め見る筑波の山地にあるのだ。

 

・では寅吉が七歳の夏壺中に入って訪れて以来、15歳にいたるまでしばしば往来して修行し、生活したという「彼の界」すなわち山人の世界とは、修業者の世界としての特異性はあっても、江戸と地続きの世界として此の世と変わらぬ同質・同類の世界であるのか。

 

異界の表象と異界の構成

・寅吉がいう山人とは「山人天狗」と天狗=異類的存在と連称されるように、天狗といった異類に無限に接近している超常能力をもった山の修行者たちである。

山人はまた山の修行者として山伏(修験道者)と同様の宗教的な救済能力、呪術的な治療能力と施術の法とを身につけた修行者でもある。その最高の山人は、例えば、寅吉の師である杉山々人のように、諸神の祭祀者・祭事者であるとともに、みずからも神に近い聖性と力とをもった存在とされる。 

 

・「さて我が師の如きも、山に住む故に山人とは称すれども、真は生きたる神にて仏法なき以前より、現身のまゝ世に存し、神通自在にして、神道を行ひ、其の住する山に崇むる神社を守護して、其の神の功徳を施し、或は其の住する山の神とも崇められて、世人を恵み、数百千万歳の寿を保ち云々」と、神の聖性を具えた神通自在の異類的存在として語られている。

 

・こうして寅吉が伝える山人の世界すなわち異界を構成するのは、ほとんど天狗に等しい異類的な、しかも神格性を具えた高位の山人から、彼に仕え、そのもとで修業し、それなりの異能を具えた山人たち、そしてその世界の異類性からたえずそこに混入してくる魔性の異類・変化たちである。異界とは聖性から魔性にいたる質的差異を含んだ異類的存在者たちの世界である。

 

・人々は此の世の衣食住という日常性を前提にして、此方の世界と同じ物が彼方の世界にもあるのかとくりかえし質問する。同じものを食べるのか、同じものを着るのか、そして同じように住まうのか、と。この種の質問に寅吉は常にいらいらと不快さを顕わにしながら対応する。「此方と異なることなし」とは、それらの質問への寅吉のいつもきまった答えである。だが人々のそうした質問は、彼此の同質的な衣食住という日常性のレベルに立ちながら、せいぜいその転倒ないし変形としてしか異質を、そして異界を思い描きえないことを示している。

 

・「岩間山に十三天狗、筑波山に三十六天狗、加波山に四十八天狗、日光山には数万の天狗といふなり」と、山人の住する山々はまた天狗の山々なのだ。その山人の高位者は諸山の神事を司るものとして、人々の祈願に応じることを「山周り」という。

 

・そして忙しい時には山から山へと「一事につきて数百里を、数度空行往来する」ことさえある。こうして全国の聖なる山から山へと、その間を超常的な移行力をもって往来する山人たちの異界の交通地図が描かれる。

 

寅吉は人々の異界への想像力に応えるように師に従って空を飛ぶ。はるか地の北の果ての「夜ばかりの国」にいけば、また日本より海上百里ばかり東方の「女嶋」にも飛んでいく。そればかりではない。人々の期待に応えるかのようにはるか天空にも舞い上がる。はるかな上空から地球を見れば、「むらむらとうす青く網目を延へたる様に見ゆるを、なほ上るまゝに段々小さくなりて、星のある辺まで、昇りて国土を見れば、光りて月よりは余程大きく見ゆる物」だと寅吉はいう。

 

星は凝縮した気体だという寅吉の説

・ここには人々の願いや訴えにかかわって構成されるもう一つの異界がある。それはそうした願いや訴えに応えうる救済や治癒の呪術、あるいは医療の法や薬の処方などを自在にしうる異能者からなる世界である。

 

異界の意味論

・人々の祈願に答え、訴えに応じる山人世界は此の現世に対して守護的な世界としてある。杉山々人のような高位の山人は人々の神への祈願に、神に代わって人々に応える存在である。そして守護的世界の山人は現世の悪徳者には懲罰をも与えるのである。

 

篤胤的「幽界」の再構成

「顕界」が「目に見える世界・此の世」であるのに対して、「幽界」とは「目に見えない世界・彼の世」である記紀神話のもつ政治的な文脈からすれば、「顕界」は皇孫としての天皇の統治に人々が服する形で構成される「葦原の中国(なかつくに)」というこの現世であり、「幽界」は皇孫の命に国譲りしてこの世を退いた大国主命が主宰する神霊たちの世界、すなわち幽世であり、「顕界」を背後にあって支え、見守る世界として位置づけられる。

 

・寅吉の語る異界・山人世界は、すでにのべたように、神々とそれと同等の神格性を具えた山人行者を最高の聖性の体現者とし、それから妖怪的な変化者を邪悪な魔性的存在とした価値的な序列を構成する世界である。この異界・山人世界は寅吉の口を通して天狗という異類的存在の世界としても語られた。その天狗たちの間にも聖性から魔性にいたるような多様な質差がある。

 

・その傾向は『勝五郎再生記聞』にも見ることができる。「彼の勝五郎を伴ひたる翁といへるこそ疑なく産土の神にて在りけめ」と、勝五郎を再生に導く翁を篤胤は産土神だとしている。さらに『勝五郎再生記聞』に付加されている篤胤の文章は氏神産土神をめぐる事例・見聞集といってもいいものである。