日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

民俗学者の柳田國男が、日本の文芸の伝統は、疲れ果ててとぼとぼと歩いている旅人に野の花を摘んで無言で差し出すようなもの、と言っているのですが、なるほどそうだと思いました。(1)

 

『作家のおしごと』

五木寛之    東京堂出版  2019/1/28

 

 

 

ぼくの目指してきたもの

エンターテインメントが恥ずかしかった時代

・ここで少し、作家になる前の話をしたいと思います。

 九州から上京した20歳前後の頃、苦学生だったぼくは、とある料亭の皿運びのアルバイトをしていました。ちょうど隅田川の花火大会のときのことですが、花火が終わり、お客さんたちがゾロゾロと引き上げた後、座卓にちらかった器なんかを片付けていたら、そこに食べ残しのメロンを見つけた。上のほうはかじられていたものの、果肉が十分に残っていました。

 今以上にメロンは高級品で珍しかった時代です。まわりを見渡し、誰も見ていないのを確認して、そのメロンを取って口に入れた。生まれて初めて食べたメロンは、天国の味のようで、あーうまい、と至福に酔ったその瞬間、ポーンと音がしたのです。一発残っていたかどうかの名残りの花火が、橋の端のほうで上がったんですね。

 

・作家も同じではないかと思う。ぼくは、世に出した最初の小説『さらば モスクワ愚連隊』のあとがきに「自分はエンターテインメントを目指してやっていく」と宣言していますが、読んでもらう人たちに、千円の本なら千円出した分、楽しみなり喜びなり、疲れを癒すものがなければいけない、そこにぼくが宣言するエンターテインメントの基本があります。

 

民俗学者柳田國男が、日本の文芸の伝統は、疲れ果ててとぼとぼと歩いている旅人に野の花を摘んで無言で差し出すようなもの、と言っているのですが、なるほどそうだと思いました。

 

いろんな仕事もすべて「作家」

・ぼくは普通の作家ではない道をあえて選んできたわけですが、客観的に見ても普通ではなかった。大学をヨコに出た後、ラジオのニュース番組作りなどいくつかの仕事を経て、初めて就職したのが創芸プロというプロダクションでした。その後1年足らずで運輸省の外郭団体の運輸広報協会にスカウトされ、『運輸広報』という雑誌の編集主幹を仰せつけられた。

 

業界紙をやっていた時代、知人から「ジングルのヴァースを書いてみませんか」という誘いを受け、その仕事をしていたことがあります。ジングルとはCM、ヴァースとは歌詞のこと、つまりCMソングの歌詞を書く仕事です。

 

家の光協会で取材記者の仕事をしていたのも、その頃です。農村家庭雑誌『家の光』と並んで、協会の二大雑誌で硬派の『地上』誌の農村ルポです。ずいぶん日本各地を歩きました。北海道には、知らない地名、読みづらい地名がたくさんありますが、だいたい歩いているので読めます。東北も山陰も。ぼくにとって旅が日常、帰ってきて休んでいるときが一時期休憩、という感覚でした。

 

原点にある引揚体験

・指標にあるのはいつも「あの頃」です。父の赴任地平壌で敗戦を迎え、悲惨で困難な日々を送ることになった頃です。そこから奇跡のような脱出をして38度線をこえ、開城へ。

 

・ここに収容されてからもその前も、厳しい時を過ごしました。寝るにしても他人の体と重なるようで、膝も伸ばせず眠る毎日です。ですから、手足を伸ばして寝られるということが、本当に幸せ、ありがたいと思う日々でした。

 

・食べ物にしてもそうですね。食べればいい、という感覚がどこかしらにある。味の良し悪しなんか言ってられるか、と思います。戦乱の子、非常時の子ですから。出汁がどうのとか、何を言っているんだよって思う気持ちがどこかにある。安くてうまければそれでいいじゃないか、と思うわけ。

 

・東京に来て初めてメロンパンを食べたとき、これはうまいと思い、しょっちゅう食べていました。そのことをエッセイに書いたら、行く先々で、もういいっていうくらい山ほどのメロンパンが出てきた。今でも講演会で時々メロンパンが差入れされることがあると、ああ50年前の読者だな、とわかります。

 

師弟関係を作らなかった得失

・それらの国々はサロン文化だったのです。そういう意味では、日本は門下をひきいる作家は、やはり一国一城を構える器量というものを備えている人が多い。井伏さんなども、じつに大人の風格があり、戦時中のいろいろな振る舞いにしても、戦後の立ち振る舞いにしても、みんなから非常に尊敬されていました。

 

続けることの大切さ

・昔、CMソングやその他の分野でお世話になった作曲家の一人が、高井達雄さんです。彼とは、駆け出しの頃に、一緒にたくさんの歌を作ってきました。30か31歳の頃です。

 

長く続ける中で考えてきたこと

ブームはいい加減なもの

・ぼくらの時代は小説の神様といえば、志賀直哉横光利一が両横綱でした。しかし今、町の書店で二人の大小説家の文庫を探したとしても、なかなかありません。ブームに絶対不変はない。

 思想も変わります。ぼくらの時代には実存主義の全盛期があり、戦争中は日本浪漫派のブームがあった。時代のモードは箪笥の中の洋服のように、ころころ変わります。

 科学だってしかり、ついこの間の学説が一気にひっくり返る。医学がそのよい例です。

 

・同じようなことが今の医学にもあります。今流行っていることが10年先にはあんなバカなことをしていた、と言われるでしょう。ぼくが病院に行かないのは、それが理由です。抗がん剤が流行していますが、そのうち、あれは毒だからやめたほうがいいという意見が出てくる。放射線治療も同様です。科学の学説も絶対的なものではなく、日々動いていくのです。それは思想や芸術でも同じではないでしょうか。

 

人は変わっていく

親鸞は10代から90代まで進化し続け、変化し続けた人間です。それを、親鸞の思想という言葉でまとめてしまおうとする。そんなバカなことはありません。85歳と25歳では、一筋変わらぬものはあっても、親鸞の思想は大きく違います。

 

・ぼくは学生時代からマクシム・ゴーリーキーが好きでした。長い小説はともかく、自伝的小説と初期の短編は今でも好きです。

 

しかし、いまゴーリキーを好きだなんて言ったら、頭のおかしい作家と思われるかもしれません。

 

純国産になぜこだわる

・2017年、本田哲郎さんと一緒に本を出しました。本田さんはバチカンで勉強した、聖書解釈における世界的な学者です。日本のカトリック教会の正式な司祭でありますが、教会から離れて大阪釜ヶ崎で日雇い労働者に学びながら聖書を読み直している人です。

 この人との話の中で、親鸞の思想とキリスト教の思想とが通底しているものがある、というのが大きなテーマになっています。でもこういう話は、この世界ではタブーとされているのですね。

 

アメリカ文化を作り上げたもの

・そんなアメリカで、いま強硬な移民政策が叫ばれている。ぼくらがかっこいいなぁと感じているアメリカは、移民によって成り立っているカルチャーの国なのに、それを閉じてどうするんだと思わずにはいられません。

 

長く作家活動を続けるために――健康を保つコツ

・2016年で、作家デビューから半世紀を超えました。この「長く続けること」を支えるのに、自分なりの方法で体調を保つ工夫をしているということがあります。

 乱暴なようですが、ぼくは歯科以外は長年病院には行かず、検査も受けませんでした。その裏には、自分の体は自分で面倒を見なければいけないという意識があります。他の人に任せるのは嫌だと思う。そのためには体のコンディションとちゃんと会話できるようにする。

 

・たとえば寝るときに仰向けで寝るか、うつ伏せで寝るかという大問題があります。これは学者によって意見がまったく違う。仰向けに大の字になって寝るのが正しいと言う人もいれば、横向きに寝てと言う人もいる。2017年に105歳で亡くなられた日野原重明さんなんかは、うつ伏せに寝るほうがいいと言っていた

 横がいいと言っても、右を下にするのか左を下にして寝るのか、これもそれぞれ理屈がある。

 

・どれがいいか、それは試してみなければわからない。人によって違うからね。ぼくはどうも右を上にしたほうが自分にとっていいような気がします。こんなことを言うと、人は笑うかもしれません。しかし、楽しみでやるのですから、いいのです。

 

・子どもの頃に父親が岡田式静坐法というものに凝っていて、呼吸法をずっとやっていた。それでぼくも子どもの頃から呼吸法を見よう見まねでやっていた。どういうふうに吸って息を出すかということ自体にも、極め尽くせないぐらいの奥義があるのです。

 

・今まで「1日1個のリンゴは医者知らず」と言われていたけれど、最近はリンゴは糖質だからよくないという説も出てきた。納豆を食べるには温かいご飯に納豆をかけて食べてはダメ、などと週刊誌に書いてありました。少し冷ましたご飯でなければ、納豆が本来持っているナットウキナーゼとかが働かないというのが専門家の説です。

 

・医者にかかるのは、歯だけです。歯はちょっと自分ではどうしようもない。歯医者に言わせると、歯は50年持てばいいという。

 

・そんなことで歯医者以外は病院に行かずにやってきたのですが、86年も使うと左足が痛くなって非常に辛いのです。この痛みだけは自分で一生懸命ケアしてなんとかならないかと思っています。

 

・今の問題は、睡眠です。2時間ぐらい眠って目が覚めてしまう。覚めると本を読む。それがいけないのだけれど、枕元に山のような本があるから読んでしまいます。

 

・昔は食塩の摂り過ぎはよくないとすごく言われていたけれど、医師の近藤誠さんが食塩は摂らなきゃダメだ、食塩が足らないから人は死ぬんだと言っている。じゃあ、長野県は減塩運動をしてあんなに長寿になったじゃないかと反論する人もいます。それは違う、長野県が衛生管理をちゃんとするようになったからだと反対派は言う。そういうわけで塩に関しては正反対の意見があります。

 

対談について

・かつてある出版社がぼくの全対談集を企画したら、あまりにもたくさんありすぎて出版を諦めたことがありました(笑)。これまでめちゃくちゃ沢山の人と対談してきたのは、対談こそ表現のメインストリームだと思っているからです。

 

村上春樹 × 五木寛之 幻の対談 1983年

ジャズと映画の日

・(五木) あ、あなた、早稲田なの? 昔は、早稲田の人、初対面でもすぐわかったもんだけれどもね(笑)。

 

・(村上)いや、そういうわけでもないんです。映画が好きだったんで、シナリオのほうをやりたくて、演劇科に入ったんです。映画とか演劇とかいうのは、結局のところ共同作業で、なんのかのとかやっているうちに、どうもこれは自分に向いてないんじゃないかって気がして、やめちゃいましたね。

(五木)早稲田の演劇っていうのは、面白い人、いっぱいいてね。

 

・(村上)あんまり行かなかったんですよね(笑)。朝から晩まで、映画見て暮らしてました。

(五木)いや、それはぼくらも行かなかったけれども(笑)。

  ところで、ぼくは、以前に読者からハガキをもらったことがあってね。中央線沿線の何とかいう喫茶店が好きで、そこに通っていたら、それがなくなっちゃって、自分の居所がなくなったような淋しい思いをしていた、と。あるときたまたま千駄ヶ谷で喫茶店に入ったら、その店は、絶対あの店の人がやっているというふうに思えた。それでいろいろ調べたら、村上さんがやっていた店だったということがわかって、とてもうれしかった、という。その読者の人の勘もいいけれども、そういうことがあるんだね。

 

・(村上)というか、お客のほうもね、それを望んでるんじゃないかっていう気がするんですよね。結局、音楽にしても、その周辺のものにしても、どんどん変わっていきますし、変わるのが本当だと思うし、変わったものを見せられるよりは、なくしちゃったほうが本当の親切というもんじゃないか、という気がするんです。まあ、ぼくはぼくなりに極端な考え方をするほうかもしれないですけど。

 

・(村上)ぼくが始めたころは、ちょうどジャズ喫茶の大転換期だったんですよね。

 

・いわゆる鑑賞音楽としてジャズを聴く時代が、ちょうど終わったときだったんです。ぼくが始めたのは47年ぐらいで、あとはもう、酒飲みながら聴くという感じの店に主流が移っちゃった時代だったんですよね。

 

「ハッピー」と「幸福」の違い

・(五木)今度の『羊をめぐる冒険』は、あなたにとっての第3作になるわけだけど、いかがですか、ご自分では。

(村上)あれを書いちゃって、かなり楽になりました。最初の2作を書いたあとで、実は結構落ち込んじゃったんです。なんだか2、3カ月、本当に暗かったです。

 

・で、3作目では、徹底してストーリー・テリングをやりたいと思ったわけなんです。それやって、本当にホッとしました。

 

・(村上)最初の小説の場合、小説家になるつもりはまずなかったもんで、ある面、非常に楽しみながら書いたんです。別に特にストーリーがなくても、その場その場でひとつの状況を選んで書いていって、それが集まって何枚かになって、小説らしきものになった。で、出してみようかということで、応募して、賞をとっちゃったわけなんです。

 はじめ、都市小説と言われたわけなんですよね。でも、都市小説というのは何かということ自体がね、わからなかったし、そんなものがあるのかどうかということもわからなかった。まあ、そのあと、自分なりに、こういうのが都市小説じゃないかというのは整理しましたけれど。

 

・(村上)日常生活そのまま、意識を映していけば、なんか小説になっちゃったという感じはありますね。だから、1作目、2作目を書いても、自分が小説家という感じはなかったですね。

 

言の世界と葉の世界

・(五木)それはちょっとわかるような気がするね。自分の体験を書いちゃえば、それがおのずから物語になっちゃう、という世代があった。

(村上)ええ。ぼくらの世代にはそれがないんですね。ところが、69年、70年を過ぎて、いまの世代がわれわれの世代をそういうふうに見ちゃうわけですよね。

 

・(五木)それは、ぼくたちだっておんなじですよ。兵隊に行った人がみんな何か書きゃ、小説や物語になるんじゃ、日本はもう5百万人ぐらいの作家がいることになるからね。物語というものと、その人間の体験とは、一応きちんと切り離して考えなきゃいけない。

(村上)ぼくがはじめ二つの小説を書いて思ったことは、そういうことなんですよね。物語というのは、内在的なものであって、外的なダイナミズムに、どれだけ幅があるかというのは関係ないんじゃないか、という気がしたんです。われわれには書くことがないというんなら、その狭いレンジの中から、自分で物語をつくっていけばいいわけですよね。

 

・(五木)私小説、あるいはそういう作品を書くことによって、自己救済されるタイプの作家というものがありましたね。それから、たとえば、自己を解放するんだっていう説もあるよね。それに対して、あなたはちょっと違う意見を言っていたような気がするけれども。

 

・村上さんの小説を読んでいて、どんなにそれがコスモポリタンの雰囲気があったとしても、やっぱり葉の世界の仕事をしている人なんだな、と。その意味では、ものすごく日本的な作家だ、という感じがしたのです。

 

言と葉が分離しはじめたとき

・(五木)そうなると、そういう憲法に対する観念よりも、もっと端的に、お金というものさえも、要するに影であるという発想になってしまったら、そういう世代の人間が、大藪晴彦、生島治郎だとかって、みんなエンタテインメントのほうに入っちゃったというのは、ぼくはとても分かるような気がするんですが。

 

エンタテインメントは垂手の文学

・(五木)高度成長っていうのは恐ろしい時代だったと思う。それはどんなことかって言うと、たとえぼくらにとって、小説家は食えない商売だと思っていたから、ぼくはかみさんに、仕事を持てと言って、むりやりに職業を持たせたし、それから子供をつくりたがっていたのに、無理言ってつくらせなかったわけだし。そういう同世代の友だち、たくさんいます。ところが、考えてみたら、子供三人くらい養えたんだよね(笑)、そのあとの十年間の成長ぶりを見ると。

 

・(村上)ぼくは、『羊をめぐる冒険』の中で、右翼的なものを出したんですけど、これもよく分からないですよね。いわゆる右翼農本主義に結びついちゃった新左翼崩れがいますよね。でも、それもぼくはわからないんです。『戒厳令の夜』を拝見していましたら、五木さんの場合は、万世一系天皇以前の日本という中にいかれていますね。

 

作家巫女説

・(五木)それを、たとえばドストエフスキーは、デーモンがついたとき作家は、というふうなことで言ったけれども、ぼくはデーモンという言い方じゃなくて、個を超えたもの、よりしろ、ということを言いますね、神が伝わっておりてくるもの、自分の体がそのよりしろになってものを書ければ、と思うわけです。

(村上)ぼくが最初に五木さんの作品を拝見したのは、『平凡パンチ』に出ていた『青年は荒野をめざす』だったんですけども、道具だてというか、そういうものが、風俗的に前衛的な感じがしたんですけど………。

(五木)海外旅行がめずらしいころだったからなあ(笑)。

 

・(村上)ぼく自身も、最初に書いた時は、アメリカのヴォネガットだとか、ブローティガンとか、チャンドラーとか、そういうものの手法をただ日本語に写し替えるというところから始まったんですけど、自分自身が非常に日本的なものに向かっているんじゃないか、という気持ちがものすごくあるんですよね。

(五木)『風の歌を聴け』から今度の『羊をめぐる冒険』に至るまでの小説を見ていると、よく、これだけの短い期間でこんなに変わってきたな、と思うくらい変わってきてますよ。表には、そんなにはっきり見えないかもしれないけれども、作家の意識が変わってきているというのは、すごくよく分かります。

 

・(村上)ぼくの場合は、子供が産めないですね。産んでいい、という確信がないんです。ぼくらの世代が生まれたのは、昭和23、4年なんですけど、戦争が終わって、世の中はよくなっていくんじゃないかという思いが、親の中にあったんじゃないかな、という気はするんですが、ぼくは、それだけの確信はまったくないですね。

 

あそび(ギャンブル)について

・一時期、千葉県の市川に住んでいたことがありました。北方町というところで、中山競馬場まで歩いていける距離でしたが、そこで住んでいる間は、近いから、せっせと競馬場に通ったものです。

 

・当時ぼくは作品を応募したりはしていなかったのですが、勝手にぼちぼち書いていた頃でした。市川の図書館によく通ってね。永井荷風さんが市川に住んでいて、浅草に通うのに市川真間駅から乗っていた。現金袋を提げた姿を見て、「ああ、あれが永井荷風だ」と思ったことがあります。

 

これまで半世紀以上にわたって、好き勝手な仕事をしてきました。>

・ふり返ってみても実に雑然たる軌跡です。表現という一点においては、広告のチラシの文章も、作品集に収める小説も変りはありません。なんでもやる、どこにでも書く、それがぼくのスタイルです。

 

 

 

『走ることについて語るときに僕の語ること』

村上春樹    文藝春秋  2007/10/12

 

 

 

<選択事項としての苦しみ>

・真の紳士は、別れた女と、払った税金の話はしないという金言がある――というのは真っ赤な嘘だ。僕がさっき適当に作った。すみません。しかしもしそういう言葉があったしたら、「健康法を語らない」というのも、紳士の条件のひとつになるかもしれない。たしかに真の紳士は自分の健康法について、人前でべらべらしゃべりまくったりはしないだろう。そういう気がする。

 

・しかし、言い訳をするみたいで恐縮だが、これは走ることについての本ではあるけれど、健康法についての本ではない。僕はここで「さあ、みんなで毎日走って健康になりましょう」というような主張を繰り広げているわけではない。あくまで僕という人間にとって走り続けるというのがどのようなことであったか、それについて思いを巡らしたり、あるいは自問自答しているだけだ。

 

・手間のかかる性格というべきか、僕は字にしてみないとものがうまく考えられない人間なので、自分が走る意味について考察するには、手を動かして実際にこのような文章を書いてみなくてはならなかった。

 

・走ることについて正直に書くことは、僕という人間について(ある程度)正直に書くことでもあった。途中からそれに気がついた。だからこの本を、ランニングという行為を軸にした一種の「メモワール」として読んでいただいてもさしつかえないと思う。

 

<2005年9月19日  僕は小説を書く方法の多くを、道路を毎朝走ることから学んできた>

・9月10日に、カウアイ島をあとにして日本に戻り、2週間ばかり滞在する。日本では東京の事務所兼アパートと、神奈川県にある自宅を車で行き来する。もちろんそのあいだでも走り続けているわけだが、久しぶりの帰国なので、なにしろいろんな仕事が手ぐすね引いて待ち受けている。それをひとつひとつ片づけていかなくてはならない。会わなくてはならない人も多い。だから8月ほど自由気ままには走れない。そのかわり空いた時間をみつけては長い距離の走り込みをする。日本にいるあいだに二度20キロを走り、一度30キロを走った。1日平均10キロ走るというペースは辛うじて維持されている。

 

・坂道練習も意識的にやった。自宅のまわりには高低差のある坂道周回コースがあり(たぶん5、6階建てのビルくらいはあるだろう)、それを21周走った。時間は1時間45分。ひどく蒸し暑い日だったので、これはこたえた。ニューヨーク・シティー・マラソンはほぼフラットなコースだが、全部で7つの大きな橋を渡らなくてはならないし、橋の多くは吊り橋構造なので、中央の部分が高く盛り上がっている。ニューヨーク・シティーはこれまでに三度走ったが、このだらだらした上り下りが思いのほか脚にこたえた。

 それからコースの最後に控えている、セントラル・パークに入ってからの坂の上り下りも厳しくて、いつもここでスピ―ド・ダウンしてしまう。セントラル・パーク内の坂道は、朝のジョギングをしているときにはとくに苦にもならないなだらかな勾配だが、マラソン・レースの終盤にここにさしかかると、まるで壁のようにランナーの前に立ちはだかる。

そして最後まで残しておいた気力を無慈悲にもぎとっていく。

 

・僕はもともと坂道は不得意ではない。コースに上り坂があると、そこでほかのランナーを抜けるので、普通ならむしろ歓迎するくらいなのだが、それでもセントラル・パークの最後の上り坂には、いつもげっそりさせられる。最後の数キロを(比較的)楽しく走り、全力疾走をして、にこにこしながらゴールインしたい。それが今回のレースの目標のひとつだ。

 

たとえ絶対的な練習量を落としても、休みは2日続けないというのが、走り込み期間における基本的なルールだ。筋肉はそれに耐えられるように自然に適応していく。「これだけの仕事をやってもらわなくては困るんだよ」と実例を示しながら繰り返して説得すれば、相手も「ようがす」とその要求に合わせて徐々に力をつけていく。もちろん時間はかかる。無理にこきつかえば故障してしまう。

 

・しかし負荷が何日か続けてかからないでいると、「あれ、もうあそこまでがんばる必要はなくなったんだな。あーよかった」と自動的に筋肉は判断して、限界値を落としていく。筋肉だって生身の動物と同じで、できれば楽をして暮らしたいと思っているから、負荷が与えられなくなれば、安心して記憶を解除していく。

 

・それと同時にこのようなランニングに関するエッセイも、暇をみつけて――とくに誰かに頼まれたのでもないのだが――こつこつと書き続けている。無口で勤勉な鍛冶屋のように。

 いくつかの実務的な案件も片づけなくてはならない。僕らがアメリカで生活しているあいだ、アシスタントとして東京の事務所で働くことになっていた女性が、来年の初めに結婚するので年内に辞めたいと急に言い出して、代わりの人を捜さなくてはならない。夏のあいだ事務所を店閉まいするわけにもいかない。ケンブリッジに戻ってすぐに、いくつかの大学で講演をすることになっているので、そのための準備もある。

 これだけのものごとを、わずかな期間に順序よく処理する。そしてなおかつ、ニューヨークのレースのための走り込みを続けなくてはならない。追加人格まで駆り出したいくらいのものだ。しかし何はともあれ走り続ける。日々走ることは僕にとっての生命線のようなもので、忙しいからといって手を抜いたり、やめたりするわけにはいかない。

 

・東京にいるときはだいたい神宮外苑を走っている。神宮球場の隣にある周回コースだ。ニューヨークのセントラル・パークには比べるべくもないけれど、東京都心には珍しく、緑に恵まれた地域だ。このコースは長年走り慣れていて、距離の感覚が細かいところまで頭に入っている。そこにあるくぼみや段差のひとつひとつを記憶している。だからスピードを意識しながら練習するにはうってつけだ。

 

神宮外苑は一周が1325メートルで、100メートルごとの表示が路面に刻まれているので、走るのには便利だ。キロ5分半で走ろう、キロ5分で走ろう、キロ4分半で走ろうと決めているときには、このコースを使う。

僕が外苑で走り始めたころには、瀬古利彦氏が現役でやはりここを走っていた。必死の形相でロス・オリンピックのための走り込みをしていた。金色に光るメダルだけが彼の頭の中にあるものだった。その前のモスクワ・オリンピックを、政治的な理由によるボイコットのために逃がしていた彼にとっては、ロサンジェルスがおそらくはメダルをとる最後のチャンスだった。

 

・彼ら(S&Bチーム)は会社に出勤する前、早朝のうちに個人個人でジョギングをし、午後にチームで集まって練習をする。僕は昔は毎日、朝の7時前にここでジョグをしていたので(その時刻ならまだ交通量も少なく、人通りもなく、空気も比較的きれいだ)、同じころに個人ジョグをしているS&Bの選手とすれ違い、よく目礼をした。

 

・神奈川の自宅あたりでは、東京にいるときとはまったく違う練習をすることができる。前にも述べたように、きつい坂道周回コースが家の近くにある。それから3時間ほどかけてぐるりとまわれる、フル・マラソンの練習にはうってつけのコースもある。

 

・小説を書くことについて語ろう。

 小説家としてインタビューを受けているときに、「小説家にとってもっとも重要な資質とは何ですか?」という質問をされることがある。小説家にとってももっとも重要な資質は、言うまでもなく才能である。文学的才能がまったくなければ、どれだけ熱心に努力しても小説家にはなれないだろう。これは必要な資質というよりむしろ前提条件だ。燃料がまったくなければ、どんな立派な自動車も走り出さない。

 しかし才能の問題点は、その量や質がほとんどの場合、持ち主にはうまくコントロールできないところにある。量が足りないからちょっと増量したいなと思っても、節約して小出しにしてできるだけ長く使おうと思っても、そう都合良くはいかない。才能というものはこちらの思惑とは関係なく、吹き出したいときに向うから勝手に吹き出してきて、出すだけ出して枯渇したらそれで一巻の終わりである。

 

才能の次に、小説家にとって何が重要な資質かと問われれば、迷うことなく集中力をあげる。自分の持っている限られた量の才能を、必要な一点に集約して注ぎ込める能力。これがなければ、大事なことは何も達成できない。そしてこの力を有効に用いれば、才能の不足や偏在をある程度補うことができる。僕は普段、1日に3時間か4時間、朝のうちに集中して仕事をする。机に向かって、自分の書いているものだけに意識を傾倒する。ほかには何も考えない。ほかには何も見ない。思うのだが、たとえ豊かな才能があったとしても、いくら頭の中に小説的なアイデアが充ち満ちていたとしても、もし(たとえば)虫歯がひどく痛み続けていたら、その作家はたぶん何も書けないのではないか。集中力が、激しい痛みによって阻害されるからだ。集中力がなければ何も達成できないと言うのは、そういう意味合いにおいてである。

 

集中力の次に必要なものは持続力だ。1日に3時間か4時間、意識を集中して執筆できたとしても、1週間続けたら疲れ果ててしまいましたというのでは、長い作品は書けない。日々の集中を、半年も1年も2年も継続して維持できる力が、小説家には――少なくとも長編小説を書くことを志す作家には――求められる。呼吸法にたとえてみよう。集中することがただじっと深く息を詰める作業であるとすれば、持続することは息を詰めながら、それと同時に、静かにゆっくりと呼吸していくコツを覚える作業である。その両方の呼吸のバランスがとれていないと、長年にわたってプロとして小説を書き続けることはむずかしい。呼吸を止めつつ、呼吸を続けること。

 

・このような能力(集中力と持続力)はありがたいことに才能の場合とは違って、トレーニングによって後天的に獲得し、その資質を向上させていくことができる。毎日机の前に座り、意識を一点に注ぎ込む訓練を続けていれば、集中力と持続力は自然に身についてくる。これは前に書いた筋肉の調整作業に似ている。日々休まずに書き続け、意識を集中して仕事をすることが、自分という人間にとって重要なことなのだという情報を身体システムに継続して送り込み、しっかりと覚え込ませるわけだ。そして少しづつその限界値を押し上げていく。気づかれない程度にわずかずつ、その目盛りをこっそりと移動させていく。

 

・優れたミステリー作家であるレイモンド・チャンドラーは「たとえ何も書くことがなかったとしても、私は1日に何時間かは必ず机の前に座って、一人で意識を集中することにしている」というようなことをある私信の中で述べていたが、彼がどういうつもりでそんなことをしたのか、僕にはよく理解できる。チャンドラー氏はそうすることによって、職業作家にとって必要な筋力を懸命に調教し、静かに志気を高めていたのである。そのような日々の訓練が彼にとっては不可欠なことだったのだ。

 

・長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働であると僕は認識している。文章を書くこと自体はたぶん頭脳労働だ。しかし1冊のまとまった本を書きあげることは、むしろ肉体労働に近い。もちろん本を書くために、何か重いものを持ち上げたり、速く走ったり、高く飛んだりする必要はない。だから世間の多くの人々は見かけだけを見て、作家の仕事を静かな知的書斎労働だと見なしているようだ。

 

・才能に恵まれた作家たちは、このような作業をほとんど無意識的に、ある場合には無自覚的におこなっていくことができる。とくに若いうちは、ある水準を超えた才能さえあれば、小説を書き続けることはさして困難な作業ではない。

 

・しかしそのような自由闊達さも多くの場合、若さが失われていくにつれて、次第にその自然な勢いと鮮やかさを失っていく。かつては軽々とできたはずのことが、ある年齢を過ぎると、それほど簡単にはできないようになっていく。

 

・その一方で、才能にそれほど恵まれていない――というか水準ぎリぎりのところでやっていかざるを得ない――作家たちは、若いうちから自前でなんとか筋力をつけていかなくてはならない。彼らは訓練によって集中力を養い、持続力を増進させていく。

 

・もちろん最初から最後まで才能が枯渇することがなく、作品の質も落ちないという、本物の巨大な才能に恵まれた人々も――ひと握りではあるけれど――この世界に存在する。好き放題に使っても尽きることのない水脈。これは文学にとってまことに慶賀すべきことである。もしこのような巨人たちの存在がなかったら、文学の歴史は今あるほど堂々たる偉容を誇ってはいなかったはずだ。具体的に名前をあげるなら、シェイクスピア、パルザック、ディッケンズ……。

 

僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた、自然に、フィジカルに、そして実務的に。

どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか?どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか? どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか?どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか?どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか? もし僕が小説家になったとき、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず違ったものになっていたのではないかという気がする。具体的にどんな風に違っていたか? そこまではわからない。でも何かが大きく異なっていたはずだ。

 

いずれにせよ、ここまで休むことなく走り続けてきてよかったなと思う。なぜなら、僕は自分が今書いている小説が、自分でも好きだからだ。この次、自分の内から出てくる小説がどんなものになるのか、それが楽しみだからだ。一人の不完全な人間として、限界を抱えた一人の作家として、矛盾だらけのぱっとしない人生の道を辿りながら、それでも未だにそういう気持ちを抱くことができるというのは、やはりひとつの達成ではないだろうか。

 

世間にはときどき、日々走っている人に向かって「そこまでして長生きしたいかね」と嘲笑的に言う人がいる。でも思うのだけれど、長生きをしたいと思って走っている人は、実際にはそれほどいないのではないか。むしろ「たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な人生を送りたい」と思って走っている人の方が、数としてはずっと多いのではないかという気がする。同じ十年でも、ぼんやり生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。このような意見は、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ。

 

・東京の事務所の近所にあるジムに行って、筋肉ストレッチをしてもらう。これは他力ストレッチというか、自分一人では有効にやれない部分のストレッチを、トレーナーの助けを借りてやるわけだ。長くきついトレーニングのおかげで、身体じゅうの筋肉がぱんぱんに張っているので、これをたまにやっておかないと、レースの前に身体がパンクしてしまうかもしれない。