日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!

「白装束をした子どものような小さな人が突然訪れて、オリコシの山が崩れて神田は埋め潰されるから、安全祈願な場所に逃げなさいと告げた。この言を信じて、村人が安全な場所に避難したあと、山が崩れて、神田の村は壊滅した」(1)

 

 

『進化する妖怪文化研究』

小松和彦 編集 せりか書房  2017/10/1

 

 

 

『<洪水怪異伝承の構造と意味   小松和彦>』

「経験知」としての土地災害伝承

・近年の日本列島は、大地震や集中豪雨に襲われ、甚大な被害を被っている。そのつど、私たちは自然の計り知れない猛威に恐怖し、その猛威からいかに身を守るかに思いをめぐらす。そしてその過程で、日頃は忘れていた災害をめぐる民間伝承や先人が残した警句を思い出すこともあるのではなかろうか。例えば、大地震や大津波に襲われると、その後に過去の地震津波の伝承が掘り起こされるのである。

 いま少し具体的な例を挙げよう。2014年の8月の集中豪雨では、広島市宇佐南区八木地区で多くの犠牲者・被害が出た。土地の伝承によれば、被害があった地域は、もともとは「蛇落地悪谷」と呼ばれ、大雨が降れば水が出るので、人が住むことを避けてきた地域であった。また、この地域には、中世の在地武将による悪蛇退治の伝承も語り伝えられていた。災害報道ではしきりにこの伝承が取り上げられていたが、こうした伝承があるにもかかわらず、行政や住宅開発業者は、そのことを知ってか知らずか、住宅開発を進めた結果、今回のような悲惨な事態になったのであった。

 

 

・同じ年の7月には、長野県南木曽町の梨子沢で台風8号による豪雨で土石流が起こり、死者1名、全壊家屋10戸の被害をもたらした。被害が少なかったことや、その後も山口県岩国市(8月6日)、兵庫県丹波市(8月17日)、上述の広島市の土砂災害が続いたこともあって、それほど注目されなかったが、一連の報道のなかで、やはり山崩れ・土石流災害に関する土地の伝承が取り上げられていた。この地域では、山崩れ・土石流(山津波)のことを「蛇抜け」と呼ぶ。報道関係者が注目したのは、1953年7月に発生した南木曽町伊勢小屋沢の土砂災害を記念するために建立された「悲しめる乙女の像」(蛇抜けの碑)である。この碑には「白い雨が降るとぬける 尾先 谷口 宮の前 雨に風が加わると危い 長雨後、谷の水が急に止まったらぬける 蛇ぬけの水は黒い 蛇ぬけの前にはきな臭い匂いがする」という、土石流発生の前兆に関する俚諺(経験知)が刻まれていたからである。一昨年の土石流発生時にも、ここに書かれていたことと同じ前兆があったのだ。

 

・この二つの事例は、民間伝承(経験知)を知ることの有効性を端的に物語っている。それをふまえて生きることによって、自然の猛威を完全には予防することはできなくとも、その被害を少なくすることができるのである。

 さて、このように述べると、だから民間伝承をもっと研究しよう、それは社会に役立つ学問なのだ、という論調になりがちである。しかし、こうした地元の民間伝承にも説き及ぶ報道を聞きながら、民俗学者の端くれとして、内心忸怩たる思いになっていた。というのは、それらの報道のなかで、防災研究者は登場しても、ついに民俗学者がコメントを求められることもなければ、民俗学の災害伝承研究の蓄積に言い及ぶこともなかったからである。

 少しでも民俗学をかじったことがある者ならば、民俗学が厖大な民間伝承を記録し、そのなかにはさまざまな災害伝承も含まれていることを知っているはずである。にもかかわらず、報道関係者には、民俗学者民俗学という学問にまで思いが及ばないのだ。

 それはなぜだろうか。ひと言でいえば、民俗学という学問研究の低調さが関係しているのだろう。別の言葉でいえば、社会に向けてその成果を発信する力が弱いのである。

 

初心に立ち返って考える

この論文の眼目は、龍宮童子譚などの背景には、民間伝承として広く浸透している「童子」の信仰があるということを明らかにしたものである。

 しかし、その分析のなかで浮かび上がってきたもう一つの説話的形象があった。「翁」である龍宮童子とは、水界に薪や花などを贈った見返りとして「水界の主」(龍王)から与えられた、富を生み出す醜い童子のことである。その「水界の主」は「翁」として語られている。この「水界の主」のイメージは、「白髭水」伝説のなかの、「洪水のさいに出現する翁」とも関連があるのではないか。例えば、新潟県古志郡東谷村栃堀の伝承では、昔、大洪水のとき、白髭の老人が現れ、夜明けに村人に大声で、「大水が出るから早く逃げよ」と知らせた。この老人の言葉を信じた者は助かり、信じなかったものは多くは死んだという。大正15年の栃尾郷の大洪水も白髭水の類だと村人は語っていたという。民俗学者宮田登は、この伝承について、「終末を予言する白髪、白鬚の老人とは一体何者なのか素性は総て不明である。むしろ諸事例から判断すれば、終末の危機感の中から生まれた共同幻覚の一種ではなかろうか」と述べていた。私は、この見解に対して、「その素性は龍宮の龍王のイメージと関係しているのではなかろうか」と解釈したわけである。

 

こうしたこともあって、その後、機会あるごとに洪水にかかわる怪異伝承を集めてきた。ところが、集めれば集めるほど、その種の多様さに驚かされることになった。多様性に目がくらむと分類が細かくなってゆく。右の「白髭水」という分類もその一つであるが、白髭の老人が登場しない洪水伝説では、例えば洪水の最中に怪しい声がする伝承は、その声が「やろか、やろか」ということが多いので「やろか水」と分類されて、同じ洪水伝承でありながらも「白髭水」から切り離されて分類されてきた。

 

<どこに着目するのか>

私が着目するのは、「洪水伝説」のうちでも、その伝承のなかに「怪異」と呼びうる要素が含まれている伝承である。

 今日、大雨、洪水、大日照り、地震津波、噴火などは「自然現象」とされている。そしてそれがもたらす災害は「自然災害」である。ところが、かつてはそのような自然現象それ自体が「超自然現象」として、もしくは「超自然的存在」によって引き起こされるものであるとみなすことが多かった。そして、それらの伝承のなかには、そのことを示す「怪異」が語り込められていた。例えば、先述の「白髭水」では、洪水発生を告げる「白髭の老人」である。たしかにこの「白髭の老人」は、分類の指標となるだろう。「白髭の老人」が登場する他の地域の伝承があれば、それらをまとめたくなってくる。しかし、この分類の難点は、「白髭の老人」ではない存在が洪水の危険を告げるような場合には、この分類から排除されてしまうことになる。

 しかし、話の展開という点でいえば、例えば、「白髭の老人」を「見たことがない童」とか「白い動物」とかに変えても、伝承それ自体の「構造」を損なうことはない。つまり、「洪水の前に洪水を予告する神秘的存在が登場する」というふうに抽象化することで、同様の伝承群を重ねることができるはずなのである。

 もちろん、地元の信仰伝承では、「白髭の老人」であることに意味があるのだろう。それが、例えば「白装束をした小さな人」になったならば、地元の信仰伝統にそぐわないために解読が不可能になるかもしれない。しかし、理論的には、伝承の物語構造(統辞的構造)の全体の保存という点では、「白髭の老人」が「白装束をした小さな人」に置き換わっていてもいっこうに問題がないはずである。

 

洪水が起こらなかった伝承と洪水が起こった伝承

(長野県木曽郡開田村)「白装束をした子どものような小さな人が突然訪れて、オリコシの山が崩れて神田は埋め潰されるから、安全祈願な場所に逃げなさいと告げた。この言を信じて、村人が安全な場所に避難したあと、山が崩れて、神田の村は壊滅した」

 

水界の主・洪水・異人

・さて、いよいよ、これら「洪水怪異伝承」群の解読・魅力について議論することにしよう。これまで紹介してきた事例のなかでも、「他言禁止という条件がついた洪水発生情報」が組み込まれた物語は、とりわけ聞く者の心を揺さぶる。というのも、洪水から村人を救うために、水界の主から洪水を起こる情報を得た者が、命を捨ててでも村人を救おうと約束を破り、情報を村人に漏らし、結果として命を落としてしまうからである。

 

・しかし、いくつか気になることがある。その一つは、水界の主から洪水を起こすことを教えて貰うのが「盲目」の「座頭」(琵琶法師)であり、その情報を村人に告げて犠牲になる者もやはり「旅」の座頭として語られることが多い、ということである。

 

『<柳田國男の妖怪研究 「共同幻覚」を中心に  香川雅信>』

<『妖怪談義』>

・昭和31年(1956)に刊行された柳田國男の『妖怪談義』は、日本民俗学の学父御自らが著した妖怪研究の書物として広く知られている。実際に、柳田の書いたもののなかで最も入手しやすく、かつ長く読み継がれている著作であろう。また、コナキジジ、スナカケババ、ヌリカベ、イッタンモメンなど、水木しげるの漫画や妖怪図鑑に描かれた妖怪の多くが、この『妖怪談義』から採られたものであり、その意味では現代日本人の通俗的な妖怪観に大きな影響を与えた著作でもある。

 この『妖怪談義』の重要な論点とされてきたのが、「妖怪は人々の信仰を失って零落した神である」という仮説、「零落説」である。だが、この説は現在では厳しい批判にさらされ、ほぼ否定されていると言ってもいいだろう。

 

<妖怪研究の三つの画期>

・もっとも、柳田の怪談研究の根本には、「神隠し」への関心があった。その最初の仕事である『近世奇談全集』に収録された奇談随筆には、いずれも「神隠し」の話が含まれており、『遠野物語』の「神隠し」のエピソードも有名である明治43年(1910)に『中学世界』に発表された談話「怪談の研究」では、「日本の如く俗に云う神隠し、女や子供の隠される国は世界中余りない。これが研究されて如何なる為めか解ったならさぞ面白いだろう」と述べている。

 

<「共同幻覚」探求の意味>

・ここで「言論」が「共同幻覚」と同じ次元で扱われていることに注意すべきであろう。ここで問われているのは「言論」の中身ではなくその「形式」、いわゆる「声の大きな」もっともらしい意見に流されがちな日本人の気質である。

 つまり柳田にとって「共同幻覚」の探求とは、「共同幻覚」がいかなる信仰や不安・恐怖により生み出されたのかを探るのと同時に、日本人がどのような条件のもとでたやすく共同の感覚に陥ってしまうのかを見極めようとしたものではなかっただろうか。そして柳田は、その拘束を脱するには「個人教育」ではなく「社会改革」が必要だと考えていたのである。しかし、時代はそうした柳田の考えとはまったく逆に、全体主義的な傾向を強めていき、泥沼の戦争へとなだれ込んでいくのである。

 

「零落説」再考

・このように柳田が、一種の「社会問題」として妖怪を考えていたというふうに捉えなおしてみると、いまや陳腐なものとすら思われる「零落説」も、まったく別の相貌を見せはじめる。

 以前から気になっていたのだが、柳田が「零落説」について述べている文章を読んでいると、やや奇妙なこだわりのように見える部分がある。それは、妖怪によって怖い目に遭わされるのは、決まってそれを否定しようとした人間であった、という一節である。

 

・柳田が指導する郷土生活研究所が、日本学術振興会の援助を得て昭和9年5月から12年4月にかけて行った「山村調査」では、柳田により百の質問項目が設定されたが、その一つに「世の中に不思議な事は無いと威張って居て、ひどい目にあったという話はありませんか」という項目がしっかり入っていることからも、これは柳田が特に注意していた点であったことが推察される。

 

・だとすると、柳田の「零落説」は、古い信仰が忘れ去られ、形を変えて妖怪になる、という点よりもむしろ、元の意味が忘れ去られ形を変えてもなお、古い信仰が残り続けているのはなぜかを問うことに重点が置かれていたのではないだろうか。だからこそそれは「現代の問題」となり得たのだ。

 柳田は最晩年の昭和35年(1960)、「日本民俗学の退廃を悲しむ」という題で知られる講演を行い、「お化けの研究」などの趣味的な研究に民俗学徒たちがうつつを抜かしている現状を痛烈に批判したとされているのだが、『妖怪談義』がやはり晩年の昭和31年(1956)に刊行されていることを考えると、問題は「お化けの研究」それ自体ではなかったことは明白である。柳田にとって「お化けの研究」は、人々を自律的な思考から遠ざける「古い信仰」の拘束からの解放という、経世済民的な意図を持っていた彼自身の民俗学の最も重要な部分だったのである。

 

『<三島由紀夫の幽霊談「第二段階」と村上春樹の「地下二階」 大谷哲>』

・「怪異」という語と「異界」という語は密接であるが、「異郷」でも「他界」でもない、「異界」なる語が一般的にも流通するようになったのはいつからか。この語を広めた一つには、小松和彦氏の仕事が挙げられる。慣れ親しんだ既知の領域と、そうではない未知の領域。小松氏の言によれば、前者は秩序づけられた友好的な世界、「われわれ」として分類できる者たちが住む世界。「われわれの世界」と「かれらの世界」の対立は、「人間世界」と「異界」との対立となる。

 

・先走って言うことになるが、日本の近代小説は<超越>の問題が主観的に含まれているのみならず、<語り>の構造において<超越><言語以前><語りえぬもの>の領域を拓いていく<言葉の仕組み>を有している。例えば、田山花袋島崎藤村に代表される日本の自然主義文学から私小説の流れを近代小説の主流として構成されるのが既存の文学史である。これを常識に反し<近代の物語>とする一方で、北村透谷を含め森鴎外夏目漱石芥川龍之介川端康成宮沢賢治太宰治三島由紀夫、その嫡子としての村上春樹らによる作品を<近代小説>の系列として峻別するのが田中実氏の提起である。本稿はこの提起を踏まえた新たな文学史的構想の枠組みを採用するが、これもまた一つの対立関係の構成比ではある。

 

ランボー<未知なるもの>と<見者>、透谷<インスピレーション>と<生命の眼>

・「他界」というものが在るか無いかという様な奇怪な問題は暫く置く(尤も、そういう問題にいっぺんも見舞われた事のない人の方が、一層奇怪に思われるが)。確かな事は、僕等の棲む「下界」が既に謎と神秘に充ち充ちているという事だ。彼等が理解している処から得ているものは、理解していないところから得ているものに比べれば、物の数ではあるまい。而も、その事が、彼等の生存の殆ど本質をなすものではなかろうか。

 

・この「他界」とは本来ランボーにとっては、われわれの住まう現実を構成する「言語」という制度の<向こう側>としての「彼岸」「彼方」のことである。そうだとすれば、現実と異界、「われわれ」と「かれら」といった言語による二項対立に支配された世界をさらに超えたもの、<超越>への跳躍のもとに垣間見られるものである。

 

・『他界に対する観念』に話を戻せば、確かに透谷は『竹取物語』『羽衣』を挙げ、たとえ「繊細巧妙」ではあっても「崇高荘偉」に欠けるとして、日本の文学(詩)においては乏しい「他界観念」の重要性を説いている。だがその真意は光と影、神と悪魔といった二元論的対立を作品の結構として取り入れ、想像力と無難に戯れることを奨励するものではない。

 

幽霊談の「第二段階」へ――「小説とは何か」と『遠野物語』、または柳田と賢治の共振

小林秀雄三島由紀夫の『金閣寺』をめぐっての対談を、両者の小説観の相違が際どく現れたもの、小林が<小説>を<物語>で読んでいること、その思考の制度を余すところなく、象徴的に示すものとして取り上げたのは先の田中実氏である。「小林は『金閣寺』から物語の動機に当る「やるまで」(金閣放火)を読み、三島自身はその後の「やってから」、「詩はおろか、手記のようなものさえ書いたことがない」主人公があたかも小説家、三島由紀夫そっくり、簡潔にして豊穣、あるいは饒舌な「言葉」をどのように(HOW)、何故(WHY)、手にいれて書いているのか、それが「牢屋」に入ることになると読んでいる」と述べる。

 

ミシマからムラカミへ>から<三島から村上へ>へ

・2000年以降、海外での日本近代文学の受容状況報告の中で、三島や川端と村上春樹のそれを時系列的に比較する言説が形成されつつあるという。

 

・かつては村上への批判者であった大江健三郎との関係から形成された「大江か村上か」の二項対立から「大江と村上」へという両者をともに見はるかす理解の構図への変換を説くに至っては、漱石や川端に加えて、谷崎潤一郎安部公房大江健三郎中上健次までを等し並に「日本の純文学の系譜」と一括し、従来はこれらと村上を対比的に捉えたことに問題があったとするのが加藤氏の問題構成である。

 

かつて人間の存在を「二階建ての家」と「地下室」に例えた村上の発言がある。一階は「ごはん食べたり、テレビを見たり、話したりするところ」。二階は「一人になって本読んだり、一人で音楽聴いたりする。そして、地下室というのがあって……日常的に使うことはないけれど、ときどき入っていって、なんかぼんやりしたりするんだけど、その地下室の下にはまた別の地下室がある」と言うのである。

 

・日本の一種の前近代の物語性というのは、現代の中にもじゅうぶん持ち込めると思ってるんですよ。いわゆる近代的自我というのは、下手するとというか、ほとんどが地下一階でやっているんです。……だからみんな、

なるほどなるほどと、読み方はわかるんです。あ、そういうことなんだなって頭でわかる。そういう思考体系みたいなのができあがっているから。でも地下二階に行ってしまうと、これはもう頭だけでは処理できないですよね。……たとえば地下一階で行われている作業を批評していた人が、地下二階に潜っていって同じコンテクストを使って同質的に批評できるかというと、それは無理だろうと僕は思います。………僕の自我がもしあれは、それを物語に沈めるんですよ。僕の自我がそこには沈んだときに物語がどういう言葉を発するかというのが大事なんです。

 

・ただこの「地下二階」が、「通常は抑圧され封じ込められている意識や欲望」という「地下一階」のさらなる「外部」を示唆する領域であることは了解できよう。「地下二階」の出来事とは、物語(ストーリー)におけるプロットを支える領域、因果関係のさらなる根源である。<語りえぬもの><言語以前>の領域と同義と解せよう。村上作品には、「僕」と「鼠」に顕著な主題論的な分身関係も含め、鏡や夢の境界性、山中他界往還譚を参照したであろう異界性、また壁抜け、同時存在といったまさに怪異が繰り返し描かれてきた。ただし、それらが<言語以前/言語以後>の対立関係に基づく<超越>を介在させた<世界観の表象>であるとすれば、<怪異>はそれ相応のものとして対象化されることになる。本稿はその所以を長々と述べてきたにも等しい。いかなる水準かは措くとして、今日海外では三島の後裔としての位置が村上に代表されているのだという。そうであればいま最もチャレンジングな批評的企ての一つとは、作品固有の<言葉の仕組み>に正対した個別具体の<読み>の成果の側から、<三島から村上へ>と受け渡されたものを見定めることではないか。三島の幽霊談「第二段階」から、村上の「地下二階」への振幅と深度が、<近代小説>の圏域である。

 

 

 

『アジア未知動物紀行』

ベトナム奄美アフガニスタン

高野秀行    講談社   2009/9/2

 

 

 

「こんな世界は前衛文学か落語にしかないですよ!」

・今回の旅の目的はアジアで未知動物を探すことだ。「未知動物」とはネッシーや雪男みたいにまだ科学的に存在が確認されていない動物のことで、巷では「UMA(ユーマ)(未確認不思議動物)」とか「怪獣」とか「そんなもん、いるかよ」などと言われている。

 

・そう思って今回も相棒のカメラマン森清とともに、ベトナム奄美大島アフガニスタンの三ヵ所に飛んだ。

 

奄美の妖怪「ケンモン」>

<原始の森にひそむ物の怪>

・辛い単調な道を走るときは、同じことを繰り返し考えがちである。そのとき私は、ずっとケンモン(もしくはケンムン)のことを考えていた。ケンモンとは奄美にいると言われる妖怪みたいなものだ。沖縄では「キジムナー」と呼ばれるものとほぼ同じとされている。

 ケンモンもキジムナーも両方とも「木のモノ」を意味すると何かで読んだことがある。大きなガジュマルに棲むとされている。木の物の怪なのだ。

 私が初めてケンモンを知ったのは小学生のときだ。図書館で借りた『日本の伝説』とかいう本に「ケンモンとキジムナー」という章があり、ケンモンについての話がいくつか載っていた。

 

ケンモンには、夜、ひょっこり出会うという。それを恐れた村の人は、夜間の外出にはトウモロコシを持っていく習慣があった。ケンモンとばったり出くわすと、ケンモンが尻尾を振る。そのとき、こっちもトウモロコシを尻につけて尻尾のように振るのだ。するとケンモンは「あー、仲間か」と思ってそのまま行ってしまうのだという。

 ケンモンは単純な性格なので、頭のいい漁師は「あんた、漁の名人なんだってね!」とケンモンをおだてて一緒に漁に連れて行く。ケンモンは気をよくして、どんどん魚を捕まえる。ケンモンは魚の目の玉しか食べないので、魚はみんな漁師のものになるのだ。漁師、ニンマリである。

 しかし、ケンモンは怒らせると怖い。二人の漁師がケンモンを騙した(何をどういうふうに騙したかは忘れた)。すると、ある晩、怒ったケンモンが仲間を何十匹も引き連れ、どっと漁師の家に押し寄せて来た。慌てた漁師の一人は家の屋根に上り、もう一人は舟底のスノコの下に隠れた。屋根の漁師はたちまち見つかり、引き摺り下ろされたあげく、寄ってたかって殺された。舟底に隠れた漁師は見つからず、無事だったという……。

 

・街角のタバコ屋などで「ケンモン、見たことあります?」と何気なく訊くと、「あー、最近見ないね。でも4、5年前にはよく出たよ」と言われたりしたそうだ。さらにその後輩が続けた。

もっとすごいのは、ケンモンが実在するのかしないのか、島の人たちと民俗学者が真剣に討論会をやったって話です。結論は出なかったそうですが

「そりゃすごいな!」

 私は他愛なく驚いてしまった。地元の真剣度は、ツチノコヒバゴン屈斜路湖のクッシーなど日本の代表的なUMAを超えている。下手をするとムベンベ・レベルだ。ムベンベ探しに行く前、私たちはコンゴ共和国政府と権利関係で揉めた。もしムベンベを発見したり捕獲したりしたとき、我々と政府、どちらに優先権があるのかという問題だ。最終的に「写真は早稲田大学探検部が先に世界に発表する権利をもつが、捕獲された場合、その個体の所有権はコンゴ政府がもつ」という内容で契約書を交わした。

結局捕獲どころか目撃もできなかったから、“捕まらぬムベンバの皮算用”だったのだが、それくらいコンゴ政府は本気だったわけだ。私の経験では、奄美のケンモンに対する現地の人の真剣度はそれに次ぐ。

 ケンモンはもしかすると未知動物と妖怪の境目にある存在なのかもしれない、とそのとき初めて知った。私の中で、ケンモンが「準UMA」という位置に格上げされたのだった。

 

<妖怪とUMAの間にあるもの>

<「おい、フイハイはベトナムの猿人だぞ。こっちはケンモン」>

・「でもたしかに、ケンモンはフイハイに似てるんだよな」

 

・意外なことに、古仁屋の町では50代、60代の人でも「ケンモン?…………あー、そんな話、昔あったねえ」と遠い目をする。単純に「知らない」と首を振る人すらいた。

 探検部の後輩が「探索」に来てからすでに20年が経っている。奄美の人々が当たり前のように信じていた物の怪も、居場所をなくしてしまったのだろうか。

 

・ちょうど野良作業中という感じのおじいさんがいたので、「昔この辺にケンモンっちゅうもんがおったでしょう?」と訊いてみた。すると「あー、おるよ。あの木におる」とおじいさんは指差す。縦よりも横に枝葉を伸ばした巨木があった。でもガジュマルではない。

 

・92歳になるというこのおじいさんによれば、ケンモンは「貝が好物」で、「悪口を言ったり、ケンモンが棲むガジュマルやホーギの木を切ると口がひん曲がる」という。「寒い日には塩焚き小屋(海水から塩を作る小屋)へ火にあたりに来たもんだ。人間のふりをしているが、座ると膝が頭より高いのですぐわかる」そうだ。

 うーん、面白い。いつも海外で未知動物の取材調査をしているときと同じ感触だ。こうなるともはやケンモンが実在しないとか、妖怪の一種だとかはどうでもよくなってしまい、夢中で会う人、会う人、片っ端からケンモンについて訊いた。

「ケンモンを見たことはないけど音は聞いたことはあるよ。夕暮れ時、外でざーっという何か大きな木か石が倒れたような音がしたんだけど、家から出てみると何もなかった」

民宿をやっている82歳のおばあさんは言う。

子どもたちが何人かで遊んでいてね。日も暮れてきたから『もううちに帰んなさい』と言ったら、1人だけが山の中へ入って行っちゃったなんて話を聞いたね。あと、知らないうちに子どもの数が1人増えていたけど、誰が途中で紛れ込んだかわからないとかね

こう話すおじいさんもいた。こちらは座敷童子みたいな逸話だ

 

・集会所のようなところに工事関係者らしき人が数人いた。30代から40代の若手だが、彼らは「ケンモン」という言葉に強く反応した。かなりキツイ訛りで「何年か前に古志で、校長先生が見たってさ」と言う。古志とは私が怪しいヤギに出会ったところに近い集落だ。「ケンモンが木をゆすってたんだって。先生はうちに帰ってカメラを取って戻ってきたけど、もういなかったんだってさ」

 うーむ、こちらでは「若手」の間でもケンモンはまだバリバリの現役らしい。私はすごく幸せな気持ちになっていた。

 

・なぜ、奄美に、そしてケンモンにこれほど惹かれるのか。私自身よくわかっていないが、一つのポイントは地元の人たちが今でもその存在を強く信じているところにあるだろう。

 

<「ケンモンの足跡」の写真>

・「この本がいちばん詳しいですね」恵原義盛著『奄美のケンモン』

 

明治38年(1905年)生まれの著者は、幼少時よりケンモン話が好きで、長じて自他ともに認める「ケンモン博士」となったと書いている。

 

・「ケンモンの足跡」の写真だった。動物とおぼしきものの足跡が砂浜に点々とつづいている。

 

・この本が出版されたのは今から25年前の1984年で、私の後輩がケンモン探しに行ったのはその5年ほどあとだ。つまりその当時は少なくとも、奄美大島では「ケンモンはいるに決まっている」というのが島民の共通認識であり、それに一分でも疑問をもつほうがどうかしていると思われていたらしい。

 

 もっと言ってしまえば、「ケンモンに疑いを持つなどとんでもない」という畏れに近いものが人々の間にあったようだ。なぜならケンモンはやはり怖い存在であるからだ。

 著書によれば、奄美ではケンモンの話を屋外ではしてはいけないという。ケンモンのいるところを指で差す、ケンモンの棲むところを汚すとかガジュマルなどその棲家である木を切ることもいけない、祟りがある。

 著者が子どもの頃に存命だった根瀬部の村田豊長という人は、誰が見てもそれとわかる巨大な睾丸をぶらさげていたが、それはガジュマルの木を切った祟りだといわれていた。

 他にも、『明治以前生まれの人にはよく、片方の目が潰れたようになっている人が見かけられたものですが、それはケンモンに突かれてそうなったものだといわれました』とか、『ケンモンに目スカレ(目を突かれて)隻眼になったという現存の人には、知名瀬に岡山信義氏(80歳)が居ます』と実名で記してもあった。岡山老人が何をして隻眼にされたかはわからないが、これはたしかに怖い。

 ケンモンは恐ろしい存在である一方、「蛸をヤツデマルといってキャアキャア怖がる」とか「臭い屁をひる」とか愛すべきものとしての逸話も多い。むしろ、滑稽話のほうが恐怖譚より多いらしい。一見矛盾するようだが、これについて著者は、『愛すべきものとしてのケンモン話はそれをケンモンが聞いても祟りがなかろうと人々が安心して話せるからだ』と説明する。

 

河童もユーモラスで「愛すべきもの」として扱われているし、ベトナムの猿人フイハイも「たいていは人には危害を与えない」とされていた。

 

死闘! ケンモン対マッカーサー

・このような調子で「マッカーサーの命令」という合い言葉のもと、奄美の主要なケンモンハラ(ケンモンがたくさん棲む原っぱ)のガジュマルはほとんど切りつくされ、以降、ケンモンが現れたという話も聞かなくなった。「棲家がなくなったケンモンはどこに行ったんだろう」と村人は話し合ったという――。

 

アジアのUMAには米軍の話がついてまわる。それはとりもなおさず、米軍が常にアジアの各地に駐留し、さらにアジア諸国に侵攻、占領を繰り返してきたからにほかならない。米軍は地元の人間にとって巨大な“物の怪”みたいな存在なのだ。よそ者の物の怪と現地の物の怪は衝突せずにはいられない。「米軍ミーツUMA」である。そして現地のUMAはたいてい米軍にやられてきた。

 ベトナムでは、フイハイや別のUMAバンボが米軍に射殺されたり生け捕りされたりしていた。現地の物の怪が米軍というもっと巨大な物の怪に呑み込まれていた。

 

奄美の本格UMA「チリモス」

・チリモスか――いかにも未知動物っぽい名前じゃないか。

それにしても奄美に、「準UMA」ケンモンとは全く別に、ちゃんと「本格UMA」がいたとは驚きだ。

 

奄美はやはり「辺境」だった!>

・「昭和2年生まれですが、ケンモンをじかに見たことはないですね。ただ、父親の世代の人たちにいろいろと話を聞きました。相撲をとってネッパツ(発熱)したとかね

 義永さんはそう言って話し出した。

 ケンモンと相撲をとっても勝てばいい。ケンモンは実は相撲がすごく弱いらしい。ところが、ケンモンは負けても「もう一丁」とかかってくる。何十匹もいて、次から次へと挑戦してくる。だから、最後は根負けして投げられてしまうのだという。

 ちっこいのがわらわらと出てくるという不気味な感じが、私が昔抱いたケンモンのイメージと少し重なった。

 ケンモンのいる場所は「やっぱり山の中だね」。昔の人は薪とりとかタケノコとりで山に入る時、危なそうな場所や変な感じを覚えるところでは、「あ、これは何かいるな」と察知してタバコを一服したのだという。タバコを吸わない人は塩をなめた。タバコや塩はそういう怖いものを遠ざける。そして「とうとうがなし」と神様にお祈りする。

「『よろしくお願いします』みたいな、一種の呪文のようなもんだ。山では小便をしたり、卑猥な言葉を使ってはいけないとよく言われた」

 どうやら、ケンモンは山の神とごっちゃになっているようだ。

 

・ご老人は断片的な話をいくつか話してくれた。

 例えば、安脚場という集落では、「体が真っ赤なケンモン」を見たという人がいたそうだ。また、嘉入という集落では、ケンモンと一緒に貝拾いをしたという話が伝わっている。

 ケンモンは貝が好物で貝拾いもうまい。たくさん取れたところで「蛸だ!」と騒ぐとケンモンはびっくりして逃げてしまう。「ケンモンは蛸が苦手なんだ」とご老人。

 

・代わりに87歳の老人に話をうかがった。だが、この人はケンモンについてやけに素っ気なかった。「ケンモンはだいたい、若い娘や子どもが外に出ないようにと戒めるためのもんだったんじゃないかな、私は見たこともないし、あまり信じてもいない

 唯一私の興味を引いたのは、昔、諸鈍という集落で、若者が15、6人で山中にケンモンを捕まえに行ったという話だ。

ケンモンを見世物小屋に売ったらお金になる」と意気込んだが、逆にケンモンに騙されて山で迷子になったという。「見世物小屋に売る」という俗っぽい欲が妙に生々しい。だが、ご老人は、この話にしても「詳しいことは知らないけどね」と突き放した口調だった。