<「奇跡のリンゴ」はなぜ腐らないのか>
・完全無農薬・無肥料で栽培した「奇跡のリンゴ」の生みの親、青森県でリンゴ農家を営む木村秋則さんは、間違いなく「本物」のひとりです。
・「日本を救うためには、小さな木村秋則を100人、200人とつくらなくてはいけないと思います。一緒にやっていただけますか」木村さんは私の誘いを受け入れてくれ、「自然栽培実践塾」が実現したのです。
<木村さんのUFO体験>
<UFOの中での奇妙な出会い>
・無農薬・自然栽培の「奇跡のリンゴ」をつくった木村秋則さんは、UFOに乗ったことがあると聞いていました。コスモアイル羽咋を立ち上げた私にしてみれば、興味津々どころではありません。機会があれば、詳しいことをお聞きしたいと思っていました。
・たとえば、UFOに乗せられた話をしていたときに「彼ら、マスクをしていたよ」と。これまでの書籍や記事には出ていない話です。
なぜUFOの中でエイリアンがマスクをするのか?それは、UFOの中へ連れてきた地球人たちが呼吸できるように、内部の空気を調整しているからです。
<じつは地球外の惑星に着陸していた!>
・UFOに乗せられた話にはつづきがあります。どうも、別の惑星へ着陸して、そこの施設の中から、外の様子を見せてもらったようなのです。
木村さんは、「外の様子を見たら、あれは地球じゃなかった」と話していました。「どうしてわかったんですか」と尋ねると、「家の形が全然違った」というんです。カッパドキアというか、サグラダ・ファミリアのような尖塔状の建物が見えたと。建物の内側に光が見えたそうですから、夜景だったのかもしれません。
・UFOに乗った木村さんが連れていかれた場所は、亜空間ではないと思います。これまでの証言から、外の風景は惑星に降り立ったことを示しますが、建物の形などからは、そこが地球外の場所であったことを示しています。
<UFOが教えてくれる、この世の向こう側>
・仏教では、人間の精神、物質、エネルギーという三者の関係が説かれています。精神はエネルギー化できる。物質化できる。精神のエネルギーを物質化できるし、精神自体をエネルギー化することもできるんです。
<腐る野菜・枯れる野菜>
・木村秋則さんがはじめた自然栽培とは、肥料、農薬、除草剤を使わない農法です。化学肥料はもちろん、有機肥料もいっさい使いません。
・驚くかもしれませんが、日本の農産物は、海外では汚染野菜に指定されて、輸出できないものがとても多いのです。
大きな原因は硝酸態窒素と残留農薬です。
<日本発の自然栽培「ジャポニック」の新たな芽>
・そこで、「〇〇式」ではなく、農薬・肥料・除草剤をいっさい使わない、日本人が確立した農法という意味を込めて「ジャポニック」という名前にしようと思っています。
<ジャポニックが日本を救う>
・ただ、問題がまったくないわけではありません。長いこと農薬や肥料を使っていると、土にはどうしても残ってしまいます。バランスが悪い土のままなのです。そのような土の場合は、自然栽培に切り替えても3年くらいは収穫できません。その3年という期間をなんとかしのいでいただかねばなりません。なかには我慢ができなくなり、木村さんにだまされたというような思いから、化学肥料をまいてしまう人たちもいます。
<健康を脅かす遺伝子組み換え作物>
・羽咋市では現在、小中学校の給食に自然栽培の食材が提供されています。私は、病院食にも使われることを期待しています。可能性は広がりつつあります。微生物を医学に取り入れた研究が普通になる時代も、そう遠くないと思っています。
<自然栽培は現代の地動説>
・これまでの時代には、目で見て確認できるものが学問の対象でした。しかし、自然栽培が扱うのは、「肉眼では見えない生物の多様性」にほかなりません。
<「だれか」が敷いた見えないレール>
・自然栽培とUFOをキーワードにして結びつくことができるのは、世界中で木村秋則と羽咋市しかありません。
・UFOで町おこし、限界集落からの脱却、そして自然栽培の普及と、私は10年ごとに異なる大きなプロジェクトにかかわってきました。次の10年間で目指すのは、自然栽培の普及を加速させて国策レベルまで引きあげること。これしかありません。
<●●インターネット情報から●●>
ウェッブサイト「青柏祭でか山保存会」より引用
<猿神退治の話「山王社の人身御供>
昔、七尾の山王神社へ毎年美しい娘さん一人を人身御供に差出すのがならわしであった。その年も一本の白羽の矢が某家の屋根に立った。娘を差出せとのお告げである。
その家の主は、何とかして娘を助けることができないものか、と考えあぐねて、ある夜のこと、身の危険もかえりみず、社殿に忍び入って様子をさぐってみた。
草木も眠る丑三つ(深夜、今の午前2時から2時半)の頃、何やら声が聞こえる。耳をすますと、「娘を喰う祭りの日が近づいたが、越後の『しゅけん』は、よもや自分が能登の地にひそんでいることは知るまい。」と呟いているのであった。
人身御供を要求しているのは何者なのか、また、その者が恐れている『しゅけん』とは、何なのか、娘の父は知る由もなかったが、兎も角、越後へ赴き、『しゅけん』なるものの助けをかりようと出かけた。
『しゅけん』の所在を八方尋ね、ようやく会うことができた。それは、全身真白な毛で覆われた狼であった。
娘の父が事情を話し助けを求めるのに対し『しゅけん』は深くうなずき「ずい分以前に、よその国から3匹の猿神が渡ってきて、人々に害を与えたので、そのうち2匹まで咬殺してやった。あとの1匹は所在をくらましてしまったが、能登の地に隠れておろうとは夢にも知らなかった。それでは、これから行って退治してやろう。」と、娘の父親を伴い、波の上を飛鳥のように翔けて、明くる日の夕方に七尾へ着いた。
祭りの日、『しゅけん』は娘の身代わりに唐櫃(からびつ)に潜み、夜になってから神前に供えられた。
その夜は、暴風雨の夜であった。
雨風の音までかき消すような格闘の音が物凄く、社殿も砕けてしまう程であった。
翌朝、町の人々は連れ立ってこわごわ社殿へ見に行くと、朱に染まって1匹の大猿が打倒れ、『しゅけん』もまた、冷たい骸となって横たわっていた。
町の人々は、『しゅけん』を厚く葬り、後難を恐れて、人身御供の形代(かたしろ)に3匹の猿に因み、3台の山車を山王社に奉納することになった。ということだ。
『鹿島郡誌』〈上巻〉による。『七尾のでか山』(松浦五郎著)から抜粋
『リンゴが教えてくれたこと』
・(木村秋則)1949年生まれ。川崎市のメーカーに集団就職するが、1年半で退職。71年故郷に戻り、リンゴ栽培を中心とした農業に従事。農薬で家族が健康を害したことをきっかけに78年頃から無農薬・無肥料の栽培を模索。10年近く収穫ゼロになるなど苦難の道を歩みながら、ついに完全無農薬・無肥料のリンゴ栽培に成功する。
<りんごは古来、農薬で作ると言われるほど病虫害が多い>
・そして慣行農業から移行後、11年目に畑全面に咲いてくれた花の美しさは一生忘れることができません。
・リンゴがならない期間があまりにも長かったので、その間キュウリやナス、大根、キャベツなどの野菜、お米を勉強できました。野菜やお米は今から20年以上も前に相当の成果を得て、その後様々なノウハウを盛り込み今日に至っています。
・私の農業はこれといって目新しいことが一つもありません。せいぜい野菜の脇に大豆を植えるくらいです。
・空き地があったら豆を植えましょう。金にならなくてもいいから、日本を守るために植えましょう。農家の人は土を守るためです。自然栽培はすぐに結果が出ません。土づくりのために少なくとも3年かかります。時間はかかりますが、豆は土壌改良につながり、ビールのつまみになります。一石二鳥です。
・無収入時代があまりにも長かったので、私には金儲けという字が縁遠く、そういう言葉が出たのかもしれません。
<熱心な韓国>
・韓国には何度も足を運びます。韓国では日本よりも食、農に対する関心が高く、KBS放送が私の特集を組んだりしています。韓国は日本と並んで世界で最も農薬散布が多い国々です。
・年に約6百人の韓国人が勉強にやって来ます。食と農の安全は消費者も生産者も関心のある問題です。クリスチャンの牧師さんが1年に4、5回も来ます。牧師だけでは生活できないから農業をやっているのだそうです。
<皮膚が剥け、痕が真っ赤に>
・当時は、一般のリンゴ栽培農家と一緒で、木村農園も農薬散布で徹底した病虫害の防除を行い、化学肥料も十分に使用して生産を確保していました。農協から表彰されてもいいほど使っていました。
ところがその農薬ですごく家族の体が痛めつけられ、私も負けたことが無農薬の畑に切り替えるきっかけになりました。トウモロコシをやったのも、成功すれば農薬で苦しむリンゴ栽培から転換できる、家族を守れるかもしれないと思ったからです。
・トウモロコシ栽培は5年ほど続きましたが、リンゴにかかりきりになる事態に至ってやめました。今、この岩木山一帯の嶽高原はトウモロコシの一大産地です。「嶽きみ」ブランドで有名になりました。続けていればそのパイオニアとして名を刻まれていたでしょう。ところがそれどころではなく魔性のリンゴの泥沼に足を取られ、生きるために愛するトラクターも人手に渡ることになりました。
<「かまど消し」と言われて>
・その頃から病虫害が増えたということで、世間からの風当たりが強くなり、非難されました。青森県は黒星病、斑点落葉病、腐らん病などのリンゴの病害虫に関する条例を定め、肥料、農薬等の資材で徹底した防除管理を行っていました。通告された畑は無視すると強制伐採のうえ30万円の罰金が科せられます。リンゴは全国の40パーセントのシェアをもつ青森県の主要産業ですから無理もありません。
最初の2、3年は私に同情的な目を向けてくれた近隣の生産者も、毎年葉を落とし収穫が上げられない状況に病虫害の発生を恐れ、見る目が厳しくなってきました。
・「かまど消しだから相手にするな」と言われました。「かまどの火を消す」という意味で青森では「破産者」を意味します。
世間というものは私を「かまど消し」「ろくでない」「アホ」と言って罵倒しました。「ドンパチ」とも言われて意味がわからないので、実家に行ってお袋に聞いてみました。するとバカよりたちの悪い、手に負えないバカのことを「ドンパチ」ということがわかりました。
・三人の娘の授業料を払えず待ってもらいました。子供が先生から言われてすごく不憫でした。何一つ買ってあげたものがありません。娘たちは一個の消しゴムを三つに分けて使っていました。
<食べたことのないお父さんのリンゴ>
・当時小学6年生だった長女が「お父さんの仕事」という題の作文で「お父さんの仕事はリンゴづくりです。でも、私はお父さんのつくったリンゴを一つも食べたことがありません」と書きました。これにはズシンと来ました。食べさせたくても一つも実らないから食べさせてやれないのです。
・この頃女房に「いつ別れでもいいから」と言ったことがあります。こんなバカと結婚して、このままでは幸せになれないから、再婚してやり直してくれと。女房はウンともスンとも言いませんでした。
<北海道を転々出稼ぎ>
<毎日が虫との戦い>
・どこから、なぜ、これほどの虫が湧いてくるのか。虫をいくら取っても終わりません。当時、家族みんな手作業で取りましたが、スーパーの買い物袋がすぐ一本の木から取れる虫で一杯になりました。
<どん底の日々>
<死を覚悟して見つけたこと>
<田んぼも手放す>
・ぽつんと座っていると、二人の自分が現れて問答を始めます。
「無農薬なんてやめろ。家族のことを考えろ」と責める者がいます。
もう一方は「頑張って続けるしかない。きっと何とかなる」と励ます者でした。
責める者が強くて私はさいなまれました。
今でも夢だったのかと思うことが一つあります。
あの作業小屋に座っていたら突然、目の前に行ったこともないグランドキャニオンのような絶壁が現れました。そこにお釈迦様のように胡坐をかいたまま下りていく。どこまでどこまでも下りていく。同じ光景を何回も見たのです。夢でそんなことを見ていたのか。飛び込むのではなく胡坐をかいたまま下りていくのです。
女房にもこのことを伝えました。何を意味しているのでしょうか。いろんな悩みや考えごとがいっぱいあって自分を追い詰めていたから見えたのでしょう。
・経済的にも限界でした。現金収入がないので税金が払えませんでした。農協の出資金を回してもそれで足りるはずはなく、家財や畑は差し押さえの対象になり、頻繁に裁判所の調査員が来るようになりました。二反(20アール)あった田んぼも手放さざるを得ず、生活のために欠かせなかった18俵とれる田んぼがなくなるのは大きな痛手でした。
<青虫のいないキャベツ畑>
・自然栽培のキャベツには青虫が全く見当たりません。私はキャベツ畑の下にマメ科のからすのエンドウを植えました。「農薬を使わないから虫が来る」という考えは間違っています。
『奇跡のリンゴ』 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録
石川拓治 NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」
幻冬舎 2011/4/12
<宇宙人に会った話>
・木村が酔って気分が良くなると、決まってする不思議な話がある。
宇宙人に会った話だ。
・「あれはさ、まだ軽トラックを売る前だから、無農薬栽培を始めて2年とか3年目くらいのことだ。幽霊現象や心霊現象も「宇宙人現象」と理解すればかなり分かるようです。夕方、何時頃かな、もうあたりは薄暗くなっていた。畑仕事が終わって、家に帰ろうと思って、軽トラの運転席に座ったの。そしたら、目の前に人が立っている。妙な人だった。全身が銀色に光っていて目も鼻も見えないのな。その銀色の人が、フロントガラス越しに、じっとこっちを覗き込んでいる。私、動けなくなってしまってな。目だけ動かして、何をするつもりだろうと思って見ていたら、なんと私のリンゴ畑に入っていくんだ。葉っぱが落ちて、荒れ放題の畑にな。それでさ、ものすごいスピードで畑の中を走り回っているんだよ。それから、ふっと消えたのな。いったい今のは何だったんだと、その時は首を傾げるばかりであったんだけどな。
・しばらくして、今度は夜中だ。夜中に起き出して、布団の横に座って、考え事をしていたときのことだ。寝床は二階にあるんだけどもな、カーテンが揺れて窓が開いたのな。そこから、人が二人入ってきた。小さくて、影のように真っ黒な人であった。その二人が私の両腕をつかんでさ、その開いた窓から外に出るの。気がついたら、空中に浮かんでいるのよ。下を見たら、家の屋根が見えた。黒い人たちは、何も言わない。私は二人に腕をつかまれたまま、どんどん上昇していった。空のかなり高いところに、ものすごく大きな宇宙船のようなものが浮かんでいてな、私はその中に連れ込まれたの。連れ込まれたのは、私だけじゃなかった。先客が二人いたのな。一人は若い白人の女の人、もう一人は白人の男だった。頭は角刈りでさ、なんか軍人のような感じであったな。しばらくそこに座らされていたんだけれど、そのうち一人ずつどこかへ連れていかれた。最初は女の人、それから軍人風の男、最後が私であった。歩いていくと、二人は平らな台のようなものにそれぞれ寝かされているのな。裸にされてよ。どういうわけか、逃げようとか、抵抗しようという気は起きなかった。ただ、私も裸にされるんだなと思いながら歩いていったの。ところが私は服を脱がされなかった。宇宙船の操縦室のようなところに連れていかれたの。操縦室といっても、計器のようなものは見あたらなかったな。そこで、どういう風にしてこの宇宙船が飛んでいるかを教えてくれてな。宇宙船の動力源だという、黒っぽい物質を見せてくれた。これで、空中に浮かぶんだとな。それから別の部屋に連れていかれた。そこには黒い人ではなくて、昔のギリシャの哲学者の……ソクラテスみたいな人がいた。大きな板が何枚もあってさ、それをこっちからこっちへ移動させろと言うんだ。よく見たら、地球のカレンダーなのな。一枚が一年。過去のカレンダーではないよ、未来のカレンダー。何枚あるんだろうと思って、数えてみたんだけどもよ……」
何枚あったかは、いつも教えてくれない。そうたくさんはなかったと言う。
・ユングに言わせれば、空飛ぶ円盤は全体性の象徴ということになる。大きな困難に陥って自分を取り戻そうともがいているときに、現代人が見る典型的な幻視のひとつだ。中世の人々なら神を見た。神を信じられなくなった現代人は、そのかわりに空飛ぶ円盤を見るというわけだ。地上は現実の象徴であり、宇宙からやって来る何者かはその現実からの救いを意味する。ある意味では現実逃避なのだろうけれど、その何者かが円盤であることに重要な意味がある。困難に突き当たって分裂した自我は、再びひとつの完全な姿に戻ろうとする。円形や球体はその統一された完全な自我の象徴なのだ。何年もリンゴ栽培に失敗し続け、追い詰められて脳味噌が二つに割れそうなくらい混乱していた木村が、空飛ぶ円盤の幻を見たとしてもそれほど不思議ではない。
もっとも、酔っている木村は、そういう現実的な解釈で自分の話が片付けられそうになると、とっておきのオチを持ち出して対抗する。
・「何年か経ってから、家でテレビを見ていたのよ。よくあるでしょう、『空飛ぶ円盤は実在する』みたいなよ、UFOの特集番組だ。その中に、宇宙人に連れ去られたという人が出てきた。それがさ、あの白人の女の人だったの。女房も一緒に見ていたんだけれど、驚いていたよ。私と同じ話をするんだもの。円盤の中には自分以外にも二人の地球人がいた、一人は軍人のような男で、もう一人は眼鏡をかけた東洋人だったって。それ、私のことでないかってな。あははは、あの時はさすがの私もびっくりしたよ」
妻の美千子に、その話を確かめたことはない。困らせることになるのは、わかりきっているからだ。木村にしても、その話をするのは、酒を飲んだときに決まっている。
だから、もちろんそれは木村のファンタジーなのだ。
・円盤とリンゴは何の関係もないようだけれど、木村の無意識の中ではおそらく深いつながりがある。円盤も無農薬のリンゴも、不可能の象徴なのだ。誰もがそんなものは幻だと言う。その円盤に乗ったということは、木村が不可能を克服するということだ。無農薬のリンゴは完成し、そして木村は完全な自己を取り戻す。
不可能を可能性にすること。
無農薬でリンゴを栽培することに、木村の全存在がかかっていたのだ。
<りんご農家が病害虫の駆除に膨大な手間と時間をかけている>
・しかし、その農家・木村さんの作るりんごは、農薬どころか有機肥料も一切使わず、そして「腐らない」といいます。いったいどんな秘密があるというのでしょうか。
・木村さんの無農薬でのりんご作りには、8年にも及ぶ試行錯誤の末に辿り着いた、独自のノウハウがありました。それでも木村さんは、相変わらずこう言いました。
「私、バカだからさ、いつかはできるんじゃないかって、ただイノシシみたいに突き進んだのさ」
・リンゴ農家の人々にとって、美しい畑を作ることは、豊かな実りを得るために欠かせないというだけでなく、おそらくはある種の道徳ですらあるのだ。
そういう意味でも、そのリンゴの畑の主が、カマドケシという津軽弁の最悪の渾名で呼ばれているのは、仕方のないことだったかもしれない。
・なぜ、そんなに荒れているのか。
近所の農家で、理由を知らぬ者はいない。
農薬を散布しないからだ。
この6年間というもの、畑の主はリンゴ畑に一滴の農薬も散布していない。当然のことながら、リンゴの木は病気と害虫に冒され、春先に芽吹いた葉の大半が、夏になる前に落ちてしまう。おかげで、この何年かは花も咲かなくなった。
・今日は朝からずっとリンゴの木の下で、腕枕をして寝ていた。
カマドケシは、竈消しだ。一家の生活の中心である竈を消すとは、つまり家を潰し家族を路頭に迷わせるということ。農家にとってこれ以上の侮蔑はないのだが、その男にはいかにも相応しい悪口だった。
いや、男が畑に座り込んだり寝たりして、ほんとうは何をしているか知ったら、カマドケシどころか、ついに頭がおかしくなったと思ったかもしれない。
男は眠っていたわけではない。夏の強い日差しの下で、生い繁った雑草から立ち上がる青臭い匂いに包まれながら、リンゴの葉を食べる害虫を見ていた。
・リンゴの木を荒らす害虫を数え上げればきりがない。
春先の新葉や花芽を喰うトビハマキやミダレカクモンハマキなどのいわゆるハマキムシ類に始まって、葉を食べるシャクトリムシに、アブラムシ、ハダニ、果実を冒すシンクイムシにカイガラムシ……。代表的な種に限っても、30種類は下らないと言われている。
・農薬を使わずにリンゴを育てる。簡単に言えば、それが男の夢だった。少なくともその時代、実現は100%不可能と考えられていた夢である。
・リンゴの無農薬栽培などという難題に取り組んだおかげで、木村の一家が長年にわたってひどい窮乏生活を強いられたという話は聞いていた。けれど、それはもう10年以上も昔のことだ。
現在は新聞やテレビでも取り上げられるくらい有名な人で、全国には彼の信奉者がたくさんいる。国内だけでなく、外国にまで農業を教えに行ったりもしているのだ。
・木村の人生がNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組で紹介されたのが、その12月の初めのことだった。
・木村が狂ったひとつのものとは、いうまでもなくリンゴの無農薬栽培だ。今現在ですら、それは不可能だという専門家は少なくない。農薬を使わなければ、リンゴを収穫することは出来ない。現実のリンゴ栽培を知る人にとって、それは常識以前の問題なのだ。
・実を言えば、現在我々が食べているリンゴのほとんどすべてが、農薬が使われるようになってからから開発された品種だ。つまり、農薬を前提に品種改良された品種なのだ。
・リンゴという果物は、農薬に深く依存した、現代農業の象徴的存在なのだ。
もっとも、そんな理屈を持ち出すまでもなく、リンゴを作っている農家なら誰でも、農薬の散布を怠れば畑がどれだけ簡単に病虫害の餌食になるか身をもって知っている。農薬を使っていても、その散布時期や方法を誤れば病害虫は発生するのだ。
・けれど、涙ぐましいまでの努力でなんとか持ちこたえた青森県のリンゴの畑も、明治40年代にはモニリア病と褐斑病というリンゴの病気の相次ぐ蔓延によって、今度こそ壊滅の危機に瀕することになる。とりわけ明治44年の褐斑病の激発ではリンゴの葉が早い時期に落葉したため、翌年の春先になってもリンゴの花が咲かず2年連続の大不作となった。
・この絶対絶命の危機を救ったのが、農薬だった。
記録によれば、日本のリンゴ栽培史上、初めて農薬が使われたのは明治44年。褐斑病の流行で、青森県のリンゴ畑が壊滅的害を受けた年のことだった。
・褐斑病で全滅しかけていたリンゴの木が息を吹き返すのを目の当たりにして、リンゴ農家は先を競って農薬を導入するようになる。ぺニシリンが結核という恐ろしい病を撲滅したように、手の施しようがなかったリンゴの病気を農薬が駆逐したのだ。
病虫害という自然の脅威に対抗する手段を手に入れ、農家の人々はようやく安定したリンゴの栽培ができるようになったのだ。
農薬がなければ、青森県でもリンゴ栽培が終息してしまっていたに違いない。
・明治20年代から約30年間にわたって、全国の何千人というリンゴ農家や農業技術者が木村と同じ問題に直面し、同じような工夫を重ね続けていた。何十年という苦労の末に、ようやく辿り着いた解決方法が農薬だった。
・1991年の秋に青森県を台風が直撃して、リンゴ農家が壊滅的な被害を受けたことがある。大半のリンゴが落果しただけでなく、リンゴの木そのものが嵐で倒れるという被害まで被った。県内のリンゴの被害額だけでも742億円にのぼる。ところが、木村の畑の被害はきわめて軽かった。他の畑からリンゴの木が吹き飛ばされて来たほど強い風を受けたのに、8割以上のリンゴの果実が枝に残っていたのだ。リンゴの木は揺るぎもしなかった。根が不通のリンゴの木の何倍も長く密に張っていたというだけでなく、木村のリンゴは実と枝をつなぐ軸が他のものよりずっと太くて丈夫に育っていたのだ。
・NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」の収録のスタジオで、木村秋則さんにお目にかかったその日。住み慣れた「文明」というものを覆っていた厚い天蓋が外れ、どこまでも広がる深い青空が露わになった。
・あれから1年半。ノンフィクション・ライターの石川拓治さんが、木村秋則さんの人生を取材して1冊の本にまとめて下さった。頁をめくると、木村さんとお話しして得たすばらしい感触がよみがえってくるとともに、まだまだ知らなかった木村さんの側面をも知るよろこびに包まれる。
不可能とも言われた無農薬、無肥料でのリンゴ栽培。その実現に向けて苦闘してきた木村秋則さんの人生は、まるで一篇のドラマを見るようである。