UFOアガルタのシャンバラ 日本は津波による大きな被害をうけるだろう

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。

仏典の解説だけでなくて、新しい経典、いわば『新約聖書』のようなものを書いてもらいたいという思いは強く持っています。平成(令和)仏典のようなものがいま求められているのではないかと思うのです。(4)

 

アセンションの時代』

バーバラ・マーシニアック  風雲舎  2006/8

 

 

 

<2012年12月21日>

・2012年12月21日は、マヤ暦の最後の日でもあるので、これを援用して、地球の終末の日であるかのようにセンセーショナルなとらえ方をするとは正しくありません。

 

そして、新たなサイクルに向けての「出発点」でもあります。人類は過去にも、同じ「通過点」を通って今日に至っているわけです。

 

DNAを修復する

・それに関連して、人類の歴史の大半が、ネガティブな勢力による恐怖をベースにした支配構造において、蹂躙されてきたという事実があります。人々の精神が安定した平和な時代はほとんどなかったのです。

 

さらに地球外からやって来た「支配階級(アヌンナキ)」の遺伝子技術によってDNAが「間引かれて」、いわば「奴隷種族」に仕立て上げられたという歴史もあるようです。

 

いったい誰が地球を支配しているのかー支配構造の由来と現状

・重要な古代の知識を守るために、いくつかの秘密結社が組織された時期があります。

・様々な秘密結社が密かな陰謀によって糾合し、世界文明のあらゆる領域に手を広げ、進歩のパターンに隠された影響を与えるようになりました。

 

・偽りが彼らの規範となるにつれ、彼らは、人知れずに心を操ることに長けた非物質界のエネルギーを引き寄せ、それらが秘密結社を操作するようになったのです。

 

・そして、現代につながる状況としては、「様々な秘密結社が密かな陰謀によって糾合し、世界文明のあらゆる領域に手を広げ、進歩のパターンに隠された影響を与える」ようになったことです。これが、表面から見える民主主義政治の背後にある「陰の政府」とか、「裏の支配構造」などと言われている構造です。困ったことに、宇宙の非物質領域には、「あなた方の恐れの波動を常食して、そのエネルギーをあなた方をコントロールするのに利用しているものたち」がいて、隠然たる勢力を持っていることです。権力欲に飢えた者ほど、こうした存在に(自分では気づかずに)簡単に「憑依」されて、彼らに巧みに操られるようになります。

 

・表面から見える支配者や権力者は、実際には秘密結社に懐柔されており、さらにその上に、秘密結社を巧みに操る存在たちがいるという、二重三重の支配構造になっているわけです。この構造に加えて、上記の「この世界をコントロールするものたち(アヌンナキ)」が絡んで、「手下たち(秘密結社)」を自在に操っていた永い時代がありますが、その影響に関しては、ほぼ十年前に彼らが転向してポジティブな宇宙派団の側についたことによって、現時点では消えています。-これは「人類の前途」の項に「悪の役者」たちが、「自己啓示によって役割から降りることさえあります」とありますが、その一部をなす出来事です。

 

・あなたは、一見、単独の存在のように見えるかもしれませんが、実際はあなたの知覚の現界を超えて存在する多くの現実と永遠に結びついているのです。

 

 

 

 

『ザ・グレート・フライト』

JALを飛んだ42年――太陽は西からも昇る

小林宏之  講談社  2010/11/30

 

 

 

<人の3倍やればできるはず>

「小林君はダメだ」

 若い頃、訓練中に何度この言葉を聞いたか知れない。

 訓練生のとき、ソロ・フライト(単独飛行)に出られたのもビリから何番目。帰国してからの訓練でも教官からはよく怒られた。B727のセカンド・オフィサーになり、DC-8でコーパイにはなったが、操縦そのものをほめられた記憶はほとんどない。

 

・私は、操縦がけっして上手ではなかった。特にコーパイになりたての頃は下手だった。だが「人の3倍くらいやれば必ずできるはず」だと思い、毎日コツコツと努力をした。

 

・飛行機は速度と高度を自由自在に変えられる。これをヒントに、「量は質に変換できる」ということを実感した私は、DC-10キャプテンからB747-400キャプテンへの機種移行訓練中も他の人の3倍は準備して、毎日の訓練に臨んだ。そのおかげで、訓練自体を楽しみながらできたと思う。

 

JAL初、63歳を超えた機長

コーパイ時代、パイロットは目の衰えが操縦技量の衰えに結びつく、ということを、先輩キャプテンの姿を見ていて気付いていた。40代半ばの頃、新聞を読もうとしたところ、紙面を遠ざけないと文字がぼけてしまい、このままだと老眼になってしまう、という危機感を抱いた私は、その日から毎日、目の焦点を遠近の対象物に合わせる訓練を続けた。

 

教官なりキャプテンなりの個性

・着陸時にフラップを降ろそうとして「早すぎる!」とキャプテンに怒られたコーパイは、後日のフライトで遅めにフラップを下げ、「それじゃ遅すぎですよ」と私から指摘された。彼は前日のキャプテンとなぜ違うタイミングなのかと怪訝な顔をする。そんなとき私は、「どうしてだろうね?」と逆に聞き返すことにしている。飛行機の操縦には、風向、風力、温度など、あらゆる条件が影響してくる。前日のキャプテンがどういう状況だったのか、そして今日はどうなのか。それを思い返せば、なぜタイミングが違うのか、理解しやすい。

 しかしながら、それでも納得できない場合もある。私も訓練生、コーパイ時代と、教官やキャプテンによって言うこと、やることがまったく違い、どうすればいいものかと思いあぐねたことがある。しかし、これは教官なりキャプテンなりの個性なのだ。彼らだって人間である。そのやり方は微妙に違って当たり前、ある教官が「こうしなさい」と言えばそれに従い、別のキャプテンが「ああしなさい」と言えばそれにうなずく、そうやっているうちに自分自身のやり方なり方法論が導き出され、またオペレーションの幅ができるはずなのだ。

 

<怒って終わらせない>

商船大学を休学し、パイロット訓練生としてアメリカに渡った時、その物量の豊富さとともに私が驚かされたのが教育の方法であった。商船大学の航海実習では、ちょっとでもミスを犯すと教官から怒号が飛んできた。小学校からの大学教育、そして家庭での親のしつけも含めて、「間違ったところを直す」が日本の教育の根底にある思想である。

 一方アメリカは、「ほめて伸ばす」が基本、10のうち9がダメでも構わない、ひとつでもいいところがあれば、それをほめてくれる。日本よりアメリカが優れている、とまでは言わないが、やはり生身の人間であれば、ほめられれば気分がいいし、怒られたら意気消沈してしまうのは仕方がない。

 日本ではまだまだ、悪いところを叩き潰すような教育が主流のようである

 

決められない風土

そのほか私が常々感じていたことは、「意思決定の遅さ」「組織の壁」「前例主義」「現場と本社管理部門との温度差」などである。日本の大企業においてこうしたことは大なり小なりあると思うが、経営が順調なときは表に出ることはない。その綻びは、危機的な状況になったときこそ顕在化する。それが2002年から始まったJALとJASの統合作業にも見られた。

 JALとJASとの統合の背景には、国内線のシェア争いがある。

 

<経営破綻、そして再生への途上

・2010年1月19日、JALは東京地方裁判所会社更生法の適用を申請し、即日受理された。

 会社更生法の申請は、一般には「破産」と理解されている。あくまで「破産」であって「倒産」ではないが、自力の経営の建て直しを断念したということでは同じである。

 ナショナル・フラッグキャリアの破産はなぜ引き起こされたのか。私が40年以上ともに歩んできた、日本を代表するエアラインはなぜ破綻せざるを得なかったのか。

 新聞、雑誌はこぞってその原因を書き立て、JALの“内情”というものを暴露したり批判したりした本が書店にうずたかく積まれている。テレビのスイッチを入れれば、コメンテイターたちがJALの経営責任や体質をこれまでもかと追及している。

 元JALの社員として私は、これらの言論に正面から反論するつもりはない。また、経営に直接携わっていない現場のパイロットには意見を述べる資格もない。

 

だが、今回の経営破綻でJALが得た教訓は、多くの日本企業にとっても他山の石となるのではないだろうか。

 

マネーフローの滞り

・これらの例を企業に置き換えてみると、飛行機のフーエルフロー、人体の血液の流れは「マネーフロー」である。すなわち、お金が常に流れていないと、どんなに組織が立派で優れた人材がいても、その企業の生命は途絶えてしまう。JAL破綻の一因は、このマネーフローの滞りだった。

 

・また、原理原則を実行できるかどうかは、トップのリーダーシップにもかかっている。経営トップの強い意志こそが滑らかなマネーフローを生み出し、企業を健全な方向に導いていく、さまざまな内因と外因がこの原理原則の遂行を阻害し続けたことが、JALを経営破綻へと追い込んだ一因だろう。

 

<チャンスは2回あった>

JALが大きく変わるチャンスは2回あった。私はそう思っている。1回目は1987年の民営化、そして2回目は1991年の東西冷戦終結である。

 民営化は、「国営企業」とも揶揄された経営体質をドラスティックに変えるまたとない機会だったはずだ。だが現実は単純ではない。JAL特有の生い立ちやしがらみから一気に解放されたわけではなかったのだ。

 

<見逃したコスト平均化の波>

共産主義ブロックの崩壊による東西冷戦の終結は、「コストの平均化」をもたらした。ベルリンの壁”によって維持されてきた価格やコストの差が縮小していくことは、経済学者でなくても容易に予想がつく。旧東ヨーロッパの労働者が流れ込んだ西ヨーロッパのみならず、中国や東南アジアなどの低コスト国に囲まれているという日本は、コスト競争面においてさらに厳しい条件を突きつけられる格好になった。

 

・だが本当の驚愕は、ウラジオストックに着陸してから見た光景だった。使われなくなった無数の戦闘機や爆撃機の群れ、国家予算が底をついたのか、飛行機を飛ばす燃料をも手当てすることができなかったのだろう。これを見て私は、間もなくソ連が崩壊するのではないか、と予感した東側を牛耳るソ連が崩壊すれば、西側との経済活動は自由になり、価格やコストの平均化も起こるだろう。その予感は的中した。

 このグローバルな平均化の波をJALは見逃してしまった

 

・民営化、東西冷戦の終結を機に、もっと外にも目を向けて、やがて起こりうる大競争時代に対応し得るための社内体制、風土改革を実施すべきだったのではないか。そのひとつの表れが「アライアンス」への乗り遅れだと思う。

 

<ローマ駐在パイロット>

・1975年8月、私はローマ駐在のパイロットを拝命する。妻、そして生まれたばかりの長男を連れてイタリアに旅立った。長期にわたり、しかも家族と一緒の海外生活は、私にとってこれが最初、そして最後の経験となった。

 

・私たちは日本でいうマンションのような集合住宅に住んでいたのだが、妻が昼過ぎに洗濯機を回していたら、階下の住人が「いま何時だと思ってるんだい!? こっちはまだ寝てるっていうのにさ!」と怒鳴り込んできたことがある。イタリアは昼休みが2時間あるので、外で仕事をしている男たちは帰宅して昼食を取る。ウソかホントか知らないが、ランチ後のお昼寝は彼らの子作りタイムであるという。大切な家族計画を新参者の東洋人に邪魔されては彼らはかなわなかったのだろう。

 

・役所の手続きは午前中に終わらせないとらちが明かない。昼食はワインを飲みながらゆっくりと、それからまた昼寝、眠い目をこすりながらの午後の業務に期待するほうが無理というものだ。

犯罪が多いのも悩ましい。ローマでは、殺人や傷害などの凶悪犯罪はほとんど聞かれないが、スリ、詐欺、ひったくりなどは日常茶飯事だ。私も車上荒らしには何度も遭ったし、妻はハンドバッグをひったくられ、その拍子に顔をしこたま打ちつけて、血だらけになって帰宅したことがある。

仕事でイタリア流を見せつけられたのは、管制官や空港消防署。彼らがストライキをしょっちゅうやるものだから、飛行機が飛ばない。私たち乗務員もそうだが、後の予定が詰まっている乗客はさぞかし頭に来たはずだ。

こんなひどい目に何度も遭わされておきながら、結局最後までイタリア人を憎む気持ちになれなかったのはなぜだろうか。

 

イタリア人の資質の基本は「マンジャーレ」「カンターレ」「アモーレ」、つまり「食べる」「歌う」「恋をする」。昼間は全然仕事が進まないが、日が落ちると家族や友人みんなと食卓を囲み、夜遅くまで食べ続ける。我が家のあるマンションの部屋からも、毎晩のように歌声が響いてきた。女性に対しては、未婚か既婚かにかかわらず、とりあえずお誘いをかけないと相手に失礼に当たる。日々の仕事や将来の心配で夜も眠れないような生活を送っている私たち日本人には、まさに目からうろこが落ちるような人生哲学を彼らは持っていた。

 

異常の原因はヤニ

・B727の乗務時代にもうひとつ思い出されるのがタバコである。現在、日本をはじめ世界各国のエアラインのほとんどが全席禁煙。それはコックピットも同じなのだが、昔は乗客もパイロットもスモーカーだらけだった。

 

アメリカ人パイロットの中にはずんぐりとした葉巻を愛用するのがいて、それがまたものすごい臭いと煙だったが、そんなものだと気にもしなかった。着陸してから、キャビン・アテンダントにおしぼりをもらって計器や座席を拭くと、ヤニで真っ黄色になったものだ。東京~大阪間のごく短い水平飛行の時間中に一服したうえ、飯を食ってログブック(搭載用航空日誌)をつけてこそ一人前、そんな風に言われていた時代だ。

 

・JALは国内線が少なかったが、やはり新鮮な魚介類が食べられる福岡、札幌のステイは格別だった。特に福岡が大好きで、ホテルに荷物を放り込むなりクルー仲間と中洲に繰り出し、これでもかというくらい飲み、食べ歩いたものだ。まだ20代半ばで食欲旺盛だったから、焼肉屋で10皿をまたたく間に平らげたこともある。

 ホテルで風呂に入れるのもありがたい。風呂なしアパートに住んでいた私は、入浴はステイ先と決めていたくらいだ。当時、私たちの給料はお雇いアメリカ人パイロットの5分の1、アメリカに牧場を買ったなどという話を羨望の思いで聞きながら、銭湯代も節約するような暮らしだったから、ホテルでひと風呂浴びるのもステイの大きな楽しみだった。

 

よくこんな国と戦争したものだ

アメリカでの訓練は「パイパー・チェロキー」から双発機の「パイパー・アズテック」に移っていった。

 

・この頃になると、アメリカでの生活もなかなか板についたものになり、教官など現地スタッフとの英語での会話に困ることはなくなっていた。

英語に関しては、日本できちんと基礎を学んでいたこともあって、訓練生の英語はアメリカ人からも評判が良かった。

 住んでいたのは空港に隣接する寮だったが、その食堂はビュッフェ形式で食べ放題。バターをパンと同じくらいの厚さに塗って食べている彼らの真似をしていたらどんどん体重が増加し、日本を出たときより7キロも太ってしまった。

 牛肉のステーキも毎日のように出た。ビーフステーキを「ビフテキ」と呼び、庶民の口には入らない時代を過ごしてきた世代にとって、ステーキは文字通り垂涎の的。ここで食べなければ一生後悔すると言わんばかりに胃に詰め込んだ。商船大学の寮食堂で出される肉といえば鯨肉しかなく、草履のように固い筋を食いちぎる毎日、それを思うと、アメリカの食生活には圧倒されるしかなかった。

 週末には町までの無料バスが用意されていて、買い物などで利用させてもらったが、ここでも商品があふれるアメリカの経済力に圧倒された。よくこんな国と戦争したものだ、と正直そう思った。

 

・戦争は終わっていたとはいえ、おやつといえば芋、肉といえば鯨、というのがあたり前だった私の目に映るアメリカ人のライフスタイルは、リーダーズ・ダイジェストのグラビアよりも数倍衝撃的だった。

 

今後もまず破られない「連続出場記録」

・酒やタバコをたしなむか否かは個人個人で異なるが、誰にでも加齢現象はやって来る。ただし年齢による身体機能の低下は個人差が大きい。本人の気持ち、取り組む姿勢、努力次第で視覚や聴覚などを一定水準以上に保つことは不可能ではない。

 2010年現在、63歳の私が老眼鏡のお世話になったことがないのは、日常生活の中で目のトレーニングを欠かしたことがないからだ。

 

足は「第2の心臓」と呼ばれるくらい重要な器官である。コックピットの座席はエルゴノミクス(人間工学)に基づいてデザインされ、座り心地はかなり良いものだが、その足元はペダル類が占領し、窮屈きわまりない。椅子はファーストクラス級でも、足元はエコノミークラス以下なのだ。長時間の操縦は足をうっ血させていくから、そのケアはパイロットにとって非常に重要になる。

 

・そこで私は、フライト中トイレに立ったとき、血行を促すために必ずスクワットをしていた。いわゆる「エコノミークラス症候群」にならぬよう、座席の横には常にペットボトルを置いて、頻繁に給水を行う。そのため2時間に1回くらいトイレに立つのだが、パイロットは2名いるので、どちらかが操縦席に座って、飛行全般を把握していればもう1名はトイレに行ってよいことになっている。

 

一方、外で足を鍛えるには、やはりウォーキングがいい、それまでの生活習慣がたたって、37歳のときの航空身体検査で検査数値が危険水域近くになったのをきっかけに始めたウォーキングは、いまでも続けている。1時間に6キロ歩くペースで1日平均1時間30分、これでちょうど1万歩になる。

 ウォーキングの効用としては、体重が減り血圧が下がる、姿勢がよくなり腰痛がなくなる、夜熟眠できるようになる、気分が爽快になる、自然への感性・五感が磨かれる、免疫力が向上して風邪もひかなくなる、歩きながら目の訓練ができる、ストレスが解消される、いろいろなアイディアが浮かんでくる、そして歩くこと自体が楽しくなるなど、さまざまなものがある。

 ウォーキングをする時間もないときは、電車や地下鉄に乗りながら足を鍛える。ひと駅ごとに、つま先立ちとかかと立ちを2~3回繰り返す。駅では、エスカレーターではなく、できるだけ階段を使う。こういった日常生活の中でのちょっとした心がけ、工夫によって、誰でも自分の健康を維持増進できるはずだ。

 そんな日々の健康管理もあって、私は42年間のパイロット人生の中で、個人的な理由では一度もスケジュール変更をしたことがない。

 

・もちろん、風邪をひいて寝込んだことくらいは私にもあるのだが、そういったときは必ずオフの日だった。

 

機長の健康管理5つの秘訣

退職する前後から、63歳まで現役でいられた秘訣について聞かせてください、という質問を受けることが多くなってきた基本的には「食べる」「動く」「寝る」「ストレス・コントロール」「健康診断の活用」の5つが私の回答だ。

 最初の「食べる」については、カロリー・コントロールに気を配りながら何でもバランスよく食べることが大切、パイロットのように外食が多くなる職業の人は、レストランや飲み屋でも野菜メニューを極力摂るよう心がけたい。

 

 

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より、

 

日航ジャンボ機UFO遭遇事件

日航ジャンボ機UFO遭遇事件は、1986年11月17日に日本航空の貨物機が、アメリカのアラスカ州上空で未確認飛行物体(UFO)に遭遇し追跡された事件。

 

事件概要

事件当日のJAL1628便

使用機材:ボーイング747-246F

コールサイン:Japan Air 1628

フライトプラン:パリ発アンカレジ経由東京行

コックピットクルー(年齢は全て事件当時) 機長:寺内 謙寿(47歳)

副操縦士:為藤 隆憲(39歳)

航空機関士:佃 善雄(33歳)

 

 

母船型UFOとの遭遇

 1986年11月17日、パリ発アンカレジ経由東京行JL1628便、日本航空ボーイング747-246F貨物機が、アメリアラスカ州のフェアバンクス上空の高度約10,000メートルを飛行中に、両端にライトを点灯させた巨大な母船型UFOに遭遇した(ただし、「母船型」と言っているのは機長だけで、副操縦士は「光は見たが、機長の言うような形には見えなかった」と証言している)。

 

同機機長によると、UFOは自機の大きさの3~4倍にも匹敵する巨大な球形で、1時間弱の間、旋回して逃れようとした同機と併走するように移動し、機内の気象レーダーにもはっきりと写ったが、なぜか雲のような透明状のものとしてレーダー上では写っていたとのことである(金属製の物体なら赤く映るがUFOの像は緑の中であった)。

 

このUFOについては、アメリカ連邦航空局(FAA)のアンカレッジ空港の地上レーダーとアメリカ軍のエレメンドルフ空軍基地レーダー局でも該当する物体は補足されなかった。後述のキャラハン氏のみが地上レーダーで捕捉されていたと証言している。地上レーダーで確認できなかったことから、管制局から「調査のため空軍機の飛行を依頼するか」との提案があったが、機長は当該提案を断った(なお、通信記録にこのような会話は無いと言われているし、外国の民間人にそのような判断をゆだねるのは極めて不自然である)。この提案を断ったことについては、後に機長自身による「非常に高度に発達した飛行機に対して、あるいは宇宙船に対して行動を取った場合に、彼らはものすごい技術を持っていますんでね。"なんか変なことでもされたんでは申し訳ない"という気持ちがありますもんで、即座に断りました」という発言があった。

 

その後、JL1628便がアラスカ行きのユナイテッド航空機と行き違ったところ、UFOは反転して今度はユナイテッド機の追尾を始め、同機がアラスカに着陸すると何処かに消失した。なお、ユナイテッド航空機はUFOらしきものは見ていない。

 

なお、このUFO目撃事件については、「航空機の安全運航に影響がある」とされたことから、アンカレッジ着陸後、FAAによって機長の事情聴取が行われ、機長については酩酊などの可能性がないことが報告されている。

 

 

<●●インターネット情報から●●>

ウェブサイト「Business Journal」から引用

 

杉江弘「機長の目」

アラスカ上空でパイロットが「UFOに追いかけられた」との報告…国が乗務停止処分に

文=杉江弘/航空評論家、元日本航空機長

 

私は講演会などで「パイロットは世界中を飛んでいるので、UFOを見かけるのでは?」という質問を受けることがある。そういうときは、「大半のパイロットは見たことはないが、なかには見たというパイロットもいる」と答えている。

 

 かつて私の知り合いでもある先輩機長がヨーロッパからアラスカのアンカレッジ空港に進入着陸しようとしていたときに、UFOに追いかけられたと報告した事例があった機長の証言によると、最終進入中にUFOと思われるいくつもの光の集団が自機につきまとって離れなかったというのである。

 

 しかし、この報告を受けた国土交通省の対応は予想を超えるものであった。早速、同省が管轄するパイロットの身体検査証を発行する航空医学研究センターの精神科の医師に診断させ、結果、精神異常として乗務を停止する処分としたのである。

 

 この判断の元には、UFOなんてこの世には存在しないもので、それを見たというのは頭がおかしいとする考え方があったと思われるが、当時はUFOの存在に関する政府の考え方は存在しなかった。ちなみに政府はこの一件からかなり年を経た2007年12月18日、UFOについて「その存在を検討しない」のが日本政府の立場であると表明した。

 

 しかし、当時の町村信孝官房長官が「こういうものは絶対にいると思っている」と発言したかと思えば、石破茂防衛大臣もUFOが襲来したときに自衛隊の出動が法律上可能かどうかを個人的に検討する考えを示した。そして、「UFOは外国の航空機でもなく、領空侵犯への対応は厳しい」と自衛隊法では対応が難しいとの認識を披露。さらに「ゴジラが来たら天変地異だから自衛隊災害派遣は可能で、モスラでも同様」との持論を展開したのである。

 

 政府首脳が個人的に発言するのであれば何を言っても構わないと思うが、日本政府はUFOはいると考えているのか、それともいないと考えているのかは現在でも明らかにしていない。であれば、アラスカでUFOを見たといった機長を処分できる根拠はない。

 

本来は報告すべき

 

 私は今からでも、当該機長に政府は謝罪して当時の処分を撤回すべきであると考えている。そもそもUFOとは「未確認飛行物体」の略で、宇宙人が乗り物に乗って地球にやってくることだけを意味するものではない。なにか不思議な形をしたものなら、どんなものでもUFOなのである。パイロットはそのような物体を見たとき、たとえば演習中の戦闘機が太陽やほかの光との反射などの影響によって変わった形の物体に見えても、本来は報告すべきであろう。それは、場合によってはニアミス事故にもなりかねないからだ

 

 しかし、現在の航空法にはそのような規定もないどころか、報告すると精神異常とみなされかねない。これでは今後、誰も実際に見ても報告するわけがない。実際、この一件以来、少なくとも日本航空JAL)のパイロットの間では、「仮にUFOらしきものを見ても絶対に口に出してはならない」とのコンセンサス(合意)がある。言ったら最後、乗務停止になるかもしれないからだ。

 

 ちなみにアラスカでの一件は、のちにある民放のテレビ特番として放映され、科学の専門家たちによる検証も行われた。その結果、当時の気象状態、太陽の位置、それに飛行経路やほかの飛行機の運行状況などを併せて分析すれば、当該JAL機の影が乱反射して、あたかも明るい飛行物体がまとわりついてくるように見えることが判明した。

 

 だが、この特番でテレビ局の出した推定原因も、ひとつの仮説にすぎない。真相は今もって謎のままである。

(文=杉江弘/航空評論家、元日本航空機長)

 

 

<●●インターネット情報から●●>

ウェブサイト「みんなが寝静まった頃に」から引用。

 

日航ジャンボ機UFO遭遇事件、機長が見たものはUFOである可能性が高いことが30年ぶりに証明されてきた!

 

昭和61(1986)年11月17日。羽田空港行きの『日本航空』ジャンボ貨物機が、アラスカ上空で謎の発光体と遭遇した。このニュースは世界中に配信され、日本でも大きく報道されたが、「機長の寺内謙寿氏が木星と勘違いした」とあっさり結論を出されてしまった。寺内機長はその後、地上勤務に配転させられたが、数年後、アメリカのレーガン大統領がこの件を“極秘”扱いにし、日本に“圧力”をかけていたことが判明したのだ――。 (取材・文/フリーライター 石橋春海

 

昭和61(1986)年12月末、新聞等が「パリ発羽田行きの日本航空ジャンボ貨物機が、アラスカ上空で巨大UFOに遭遇」と大きく報道した。事件が発生したのは、報道の1ヵ月以上前である11月17日、現地時間の17時10分。ボジョレーヌーヴォーを満載して、アラスカのアンカレッジ北東部を航行していた日航機の前方に、2つの光が現れた。搭乗員は、寺内謙寿機長(右写真・当時47)・為藤隆憲副機長(当時39)・佃善雄航空機関士(当時33)の3名。副機長が航空管制センターに問い合わせるも、「レーダーに反応無し」との回答。数分後、光は日航機の前方上空に瞬間移動するや、コックピット内が昼間のように明るくなり、熱も感じた。軈て、UFOの全体像が浮かび上がる。ジャンボ機の何倍もあり、まるで航空母艦のようだったという。航空管制センターが確認の為にアメリカ空軍の『F-15』戦闘機を出そうとしたが、「高度な技術を持った相手に対し、何か変なことをされたのでは申し訳ない」という寺内機長の判断により、要請を断った。その後、アンカレッジ空港到着直前、UFOは忽然と姿を消した。この間、約50分の出来事だった。このUFO遭遇事件は、多くのマスコミが取り上げて大騒動になったが、結局、「寺内機長が火星や木星と誤認した」と結論付けられ、事件は収束した。今年、その事件から30年。日本航空を定年退社後、77歳になった寺内氏に話を聞いた。

 

事件後の寺内氏は、見間違いを喧伝した責任を取らされて日航を辞職し北海道に移住した説や、『11PM』(日本テレビ系)出演後に急死した説等が噂されたが、全てデマだった。ただ、事件後に地上勤務に左遷されたのは事実である。「悔しかった」(寺内氏)が、操縦能力が衰えないように訓練を続け、3年後にパイロットに復帰した。寺内氏は、それら誤報も含めて今は「面白かった」という心境に至っている。自分が釧路湿原に移住したというデマを垂れ流すテレビ番組を観ながら、「失言で湿原へ移住し、悔恨(開墾)するってか」と駄洒落で笑い飛ばしたという。「勝手な人が勝手なことを言っていて凄かった」と、寺内氏は当時の狂騒ぶりを振り返る。ある高名な精神科医は、寺内氏を「幻覚を見た狂人」と診断した。「でも、今頃は人生最大の誤診と思っていますよ」(寺内氏)。その根拠として寺内氏は、UFO関連の機密情報を公開している『UFOディスクロージャープロジェクト』を挙げる。同プロジェクトの2001年発表分に、この日航機事件が含まれていたのだ。アメリカ政府の元関係者等が暴露した文書によると、日航機が遭遇したUFOはアメリカ軍のレーダーで捉えられ、そのデータはレーガン大統領(当時)がトップシークレットにした。そして、日本政府に発表を控えるよう圧力をかけたという生々しいものだったという。それでも、筆者は敢えて質問した。「UFOを目撃したというのは本当ですか? 記憶は薄れましたか?」と。すると寺内氏は、「若しピストルを頭に突き付けられたら、一生忘れないでしょう? UFOの目撃は、それより強烈だった」と答えた。更に筆者は、「では、あの飛行物体は某国の秘密兵器なのでは?」と訊いた。寺内氏は即座に、「レベルが違う」と話す。目撃したUFOから“人類の叡智を超えたもの”を寺内氏は感じたのだ2014年10月、『アメリカ航空宇宙局NASA)』が初めてUFOの存在を認め、映像を公開した。更に今年、アメリカ政府がUFOの存在を公式に発表することが噂されている。寺内氏が再び脚光を浴びる時が訪れるのかもしれない。