UFOアガルタのシャンバラ 日本は津波による大きな被害をうけるだろう

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こうした法改正は、人手不足の解消という弥縫策としても拙速なものあり、将来に大きな禍根を残すものであることは間違いないだろう。この国はいつまでもこうした間違った「移民政策」を取り続けるのだろうか。(1)

 

『ハポネス 移民村物語』

川村湊  インパクト出版会   2019/1/1

 

 

 

移民と棄民

近代日本の移民

・「移民」というと、これまで、血湧き肉躍る冒険譚や新天地への航海譚や、あるいは新大陸の牧場主や農場主となって大富豪になるといった希望や夢物語とともに、農漁山村の絶対的な貧困や、大都市、地方の中小都市における社会的不平等や差別などの国内の条件から抜け出すために、あえて海外の地に希望を見出そうとする人々といったイメージが強い。

 日本がまだ、後進国として開発途上にあった時代、近代の初期、すなわち現代の黎明の時期、狭い日本の国土に見切りをつけ、夢を海外にかけた日本人たちがいた。

 

・狭小な土地に、1億人ほどの人間が住む日本は、香港やマカオ都市国家であるシンガポールなどを除けば、人口密度が最高度に高い国であることは明らかだ。今世紀に入って、人口減少が語られ、少子化によって国力の低下が危ぶまれるようになる以前には、人口過剰や食料の不足、労働者の雇用不足、住居環境の劣悪さこそ、日本の最重要の課題だった。

 とりわけ、農耕地不足は、古来、主要産業であった農業の不振につながり、一戸あたりの農家の農地面積の狭小さは、単独での農業経営を不可能にさせるほどと思われていた。それに、封建的な地主――小作農の問題だ。土地制度の非近代性と相まって、農業民の国外送出の圧力は、近代化とともに、増大してきたといってよい。

 サトウキビやバナナやブドウやパイナップル農園へのハワイ、グアム移民、小麦や綿花農業への北米移民、そして稲作はもとより、マニラ麻や天然ゴムなど特殊な作物の栽培のための周辺アジア諸国への移民など、農業移民が主であり、その移民政策の謳い文句は“広大な土地が与えられ、大地主となれる”というのが、十分な土地を持てなかった小作農や零細農家が農業移民として海外に惹きつけられた主要な動機である。

 

・コーヒー農園で働けば、大きな現金収入を得られ、それで土地を買い、農園主となることも夢ではない。それが、当時の日本でのブラジル移民の謳い文句であり、それに踊らされて実際にブラジルに渡ったのが一次移民だったが、過酷な労働条件のうえ、天候不順によるコーヒー豆の不作や、その時の国際相場の下落などで、勇躍してブラジルへ渡った日本人移民たちのなかから、契約期間を満たさず、逃亡や転職、帰国する人間が続出したのである。

 

・こうした南米(ブラジル)移民の苦難の歴史は、文学作品としては、1935(昭和10)年に第1回の芥川龍之介賞を受賞した石川達三の『蒼氓』(1935年、改造社)や、北杜夫の『輝ける碧き空の下で』(1988年)、高橋幸春の『蒼氓の大地』(1991年)や、角田房子の『アマゾンの歌 日本人の記録』(1966年)などの小説やドキュメンタリー作品に描かれている通りで、“海外農業移民”が、祖国日本から見放された“棄民”として、在外公館の保護もなく、関係官庁のきわめて非人権的な対応もあって、非常に多くの困難と苦闘を強いるものとして、形象化され、喧伝されたのである。

 

石川達三は、早稲田大学を中退したあと、1930年に移民の監督者としてブラジルに渡り、農場などを視察して帰国した後、その時の見聞を基に『最近南米往来記』(1931年)というドキュメンタリー作品を出版している。小説『蒼氓』は、その時の体験を基にブラジル移民たちの悲惨さや困難さを描いたもので、それが事実によって裏打ちされたものであることを証明している。

 

ブラジルに渡る移民たちは、主に冷害に苦しめられた東北地方出身の零細農民たちで、彼らは、神戸にある移民収容所の劣悪な環境で渡航までの日々を過ごし、その後、千人近い人々が長期間にわたり貨客船の狭い船底の船室に押し込められて航海に就いたのである。そうした移民たちの悲惨な海外渡航の実態が、リアリズム的手法で描かれる。

 

・それだけではない。乗船前に聞かされていた、移民を勧誘する官民の機関や、移民斡旋会社の甘言とは違って、新天地での移民生活の本当の実態がぼつぼつと伝わってくる新しい生活に対する希望も期待も、いつかは海の泡のように砕け散ってゆくことを知らなければならなくなる。移民とはいいながら、実態は、難民、流民を生み出す事業や政策だったといっても過言ではなかったのだ。

 

北杜夫の長篇小説として“ブラジル移民史”の大作である「輝ける碧き空の下で」は、実際の移民体験を持つ小説家である醍醐麻沙夫のドキュメンタリー作品の『森の夢』や半田知男の『移民の生活の歴史――ブラジル日系人の歩んだ道』(1970年、サンパウロ人文研究所)などの移民の記録を下敷きとしており、移住地に着く前、そして移住地に着いてからの営農や開拓農業の苦難、苦闘の生活の迫真的描写がまさに現実のものであり、事実のものであることを確認させるものだ。

 海外移民のイメージは、こうした文学作品によって形成されたといっても過言ではないのである。

 

戦後移民

第2次世界大戦、アジア太平洋戦争といわれる日本とアメリカ合衆国との戦争の勃発は、日本人の北米移民の問題に端を発していることは、あまり知られていないことかもしれない。

 ハワイ、そしてカリフォルニアなどの米国の東海岸地帯に、多くの日本人の農業移民が渡っていったのは、1800年代から1900年代の百年以上に及ぶ、人間の大移動といってよかった。

 

・ついに1924年に、いわゆる「排日移民法」が制定される。これは表向きには日本人のみの移民を禁止するものではなかったが(白人以外の移民の禁止)、時の日本政府や知識人層は“排日”を目的したものとして、反撥し、反米感情を募らせたといわれる。また、“満州”など周辺アジア地域への移民の動きを加速させ、それが日米戦争、日中戦争の遠因となったとされるのである。

 

だが、その現実はまったく違っていた。不誠実で無能力な現地調査と、相手国とのいい加減な交渉と協定、予算獲得の都合やノルマの達成を目指すだけの無謀な計画。外務省や農林省など、監督各省の縄張り争いと、当事者を無視した官僚的な対応と不親切。戦前・戦中の“満州百万人移住計画”の失敗と悲劇をひとつも反省・自省することなく、帝国主義官僚主義による、ほとんど同様な失政と愚策とが繰り返された。

 

逆流の移民

戦後の日本人移民は、“逆流”だった。川の水は高いところから低いところへと流れ、人間(移民)が、生活程度の低いところから高いところへ流れる、と、移民行政に長く携わり、自らも実践的な移民体験があり、研究者(批判者)でもあった若槻泰雄(1924~)は語っている。アイルランドや、イタリアのシチリア島からのアメリカ移民や、戦前の日本からのハワイ移民、北米移民がそうだった。

 

日本人と日系人

・2009年から、2016年の8年間、私は、夏休みの1か月間に、中南米の各国を訪れるということを続けてきた。前章まであげてきた「日系移民文学(文化にまで広げてもよい)」の研究を思い立ったからである。

 これまでに、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ウルグアイパラグアイ、チリ、ドミニカ共和国ボリビア、メキシコ、コロンビアを歴訪した。

 これらの国々には、多かれ少なかれ、日本人移民の足跡があり、現在も日系人のコロニアがあったり、日系人のコミュニティーがある。

 

・戦後移民は、そうした悲惨さや残酷さの代名詞のように思われていた海外移民を、希望や未来を話すものとして再開させたはずだった。日本政府が関与し、受け入れ国との外交的交渉を経て、合理的で互恵的な移民協約を国家間でむすび、移民業務が遂行されるはずだったのだ

 しかし、そうではなかった。戦後移民の代表的な例である、ドミニカ、ボリビア、ペルー、チリ、パラグアイ、コロンビアへ移住した日本人、日系移民の研究は、それぞれの地元において、自らの移住史(移民史)をまとめたもののほかには、ほとんどないといっても過言ではない。

 

もう一つのラテンアメリカ文学

リベルタ―ジ午前零時

中南米、すなわちラテンアメリカへの日本人移民のマジョリティーは、何といってもブラジルである。歴史的にも、その規模や重要性においても、日本人のラテンアメリカ移民を語る時に、ブラジルを置き去りにして語ることはできない。

 もちろん、そのことは十分に承知しているつもりだが、あえてブラジルを脇に置いた形で、これまでドミニカ、ボリビア、ペルー、チリ、パラグアイ、コロンビアについて語ってきたのは、日本人移民の問題や歴史が、常にブラジル移民を中心に語られ、論じられてきたことへの、ささやかな不満の表明であるともいえる。

 

農場と盗賊

・麻薬マフィアは、その根拠地を、もっと消費地アメリカに近いメキシコに移し、メキシコ・シティをはじめ、メキシコの各都市が“世界でもっとも危険な都市”のランキングの上位を占めるようになった。相対的に、カリなどのコロンビアの都市は、その順位を落とした(喜ばしいことだが、単純に喜んでもいられない。麻薬マフィアが根絶されたわけではないからだ)

 

・Sさんの農場は、カリ郊外にある広大なもので、見渡す限りのサトウキビ畑と、Sさんが丹精している果樹や野菜の農園が広がっている。日本風の白菜や大根などの自家消費用の野菜と、バナナやパイナップル、パパイヤなどの果樹、そして趣味の園芸とでもいうべき竹林やコカの木などが、農場の一角を占めている。そこではコロンビア人の農場労務者が雇われ、大型のトラクターやトラック、コンバインなどの農業機械があり、稼働している。

 これらの大型機械が、ある日(昼間である)、ごっそり、ギャングに奪われてしまった、とSさんは語った。日中に、数人でやってきた荒くれ男たちが、銃で労働者を脅す。農場側にも護身用の銃があるが、抵抗したり、反撃したりすれば、どんな大惨事になるかもしれない。双方に大きな被害が出ることは間違いない。黙って、機械や道具や収穫物が掠奪されるのを見ているほかない。抵抗しなければ、人間に害は加えない。だから、そのように、労務者や、農場の管理人には言い聞かせているのだという。

犯人たちは、大体、見当がつく。日系人の農場の事を快く思わない現地の人たちも多い。近隣の日本人の農園も何度か襲われている。下手に事を荒立てるよりは、ある程度の税金か何かのように考えて、黙認していくしかない」と、悟りきったようにいうのである。

 

・『コロンビア日本人移住70年史』には、1980~90年代の日系社会の事件簿として、Sさんの農場の近くにあるYさんの農場での強盗事件について記録している。それによると、数人の現地人が凶器を持って農場に侵入し、管理人を縛り上げた上、数時間にわたって農場内を物色、大型機械類の部品や道具類、テレビ、家具などを小型トラックに積み込んで略奪し、総額4百万ペソにも及ぶ被害を与えたという。

 この強盗事件にはいくつかの不審な点が存在するという。警備用の番犬たちが騒いだ様子がなく、内側からしか開けることのできない扉の特殊装置の効果がなかったこと、管理人に縛り上げられた跡がないことなどだ。ただ、近所の住民は後難を怖れたためか、目撃証言などを得られることなく、事件の捜査はうやむやのままに終わってしまったという。

 

・強盗未遂事件もあった。農場の労務者の給料を払うために、ジープで農場近くまで来た時、4人組の暴漢に襲われ、車内を物色されたが、現金は隠しておいたので、異変に気付いた農場の人たちが駆け付けてきて、犯人たちは逃亡したが、被害は免れたという。自動車やトラックなどが盗難に遭うことは多く、捜索願いを出しても解決せずに、犯人の逮捕はおろか、盗品の発見にはいたっていない。

 

・そういえば、Sさんの農場の端にあるサトウキビ畑の一角が燃えて、焦げているところがあった。「ああ、誰かが火を点けて燃えたのです。いやがらせでしょうね」とこともなげにいう。広い広い畑の一部にしかすぎないのだから、警察に届け出て、犯人探しなどすれば、面倒なもめごとになるだけ厄介なのである(コロンビアに限らず、中南米では警察に対する信頼度は低い。マフィアやヤクザ組織のほうが頼りになるなどという笑えない話もある)。

 

ジャングル生活

・カリでは、日本移民の草分けといえるような日本婦人から話を聞いた。それは、一人の日本人女性のライフ・ヒストリーとしても、とても興味深いものだった。長い間、日本人学校の日本語の先生をしていた女性で、今は移民生活の苦楽をともにしてきた夫に先立たれ、高齢でひとりで暮らしている。

 

“デカセーギ”の潮流

・1990年代に、ラテンアメリカのハポネス(ジャパネース)移民村の構成をがらっと変える出来事があった。日本全国への逆移民といえる“デカセーギ”の始まりである。

 高度成長経済の極まりの結果、日本社会では、工場労働者を中心に、いわゆる人手不足、労働者の不足化が語られ、外国人労働者の移入が必須の要求として、産業界を中心として高まった(バブル景気ともいわれた)。過剰人口を持て余して、海外移民を奨励してきた近代の日本国家としては、まさに未曾有の労働者不足だった。特に、「汚い、危険、きつい」の頭文字を取った3Kなどの建設・土木現場の労務者や、“絶望工場”と呼ばれた、自動車や機械工業のオートメーション化された工場での季節労務者などの従事者不足が極端に目立ってきたのである。

 この時に考えられたのは、ラテンアメリカ日系人の労働者移入だった日系人には、各国の国籍を持ちながら、日本人の国籍を持つ“二重国籍”者も少なくなく、日本語能力もあって、日本に親類・親戚を持つ人々も多い。急場をしのぐ労働力移入としては、本来の「外国人」労働者移民をためらう保守的な日本政府にとっては、願ってもない移入対象だったのである。

 1990年に入管法が改正され、これまで日本国籍保有していた日系人(日本人)のみ(とその配偶者)に出していた就労ビザを、日本国籍を持たない日系人にもその門戸を広げたのである。実際に、下層の労働現場には、フィリピン人、イラン人、バングラデシュ人、パキスタン人などの不法移住民として労務者として働く人間は少なくなった。正式の労働ビザを持たない彼らは、不法滞在者として社会問題に発展する場合も少なくなかった。

 その点、南米から日系人の場合は、合法化された条件で、家族といっしょに、“デカセーギ”、すなわち出稼ぎに日本へ来るというルートが出来上がっていたのである。

 

・しかし、二世、三世といっても、配偶者はブラジル人の場合が多いし、その子どもたちも日本語を解しない、ブラジル語(ポルトガル語)だけを母語とする日系だけというだけで、まったくのブラジル人が多かった。日本の小中学校でも日本語ができないことでいじめられたり、疎外されることが多かった。子弟の教育のために、南米に帰還する場合もあり、日本に定着、定住するにも、地方公共団体NPOなどの多大な貢献がなければ難しかった。日本政府は、場当たり的に外国人労働者に対して「就労ビザ」を与えたり、閉ざしたりして、今度は日本国内のなかに「棄民」を作り出すような移民政策を取り続けることになったのである。(帰国費用を扶助して、南米への帰国を促す政策も取った)。定見もなく、計画性もなかったのは、戦前・戦後の移民政策と、ベクトルは逆だが、まったく同様の「棄民」政策なのだ。

 

・2018年の現在、入管法をさらに改変して、南米以外の外国からの実質的な労働移民を受け入れようとする政策が、本質を隠したまま進められようとしているこうした法改正は、人手不足の解消という弥縫策としても拙速なものあり、将来に大きな禍根を残すものであることは間違いないだろう。この国はいつまでもこうした間違った「移民政策」を取り続けるのだろうか。

 

西暦2008年は、ブラジルの日本人移民百年の記念すべき年

・もちろん、南米の各地に日本人が移民し、そこに「日本語」の文化圏があり、日本語による文学活動が行なわれていたということに、まったく関心も知識もなかったというわけではない。『コロニア文学』という文芸雑誌がサンパウロで刊行され、そこに掲載された作品の精選集として『コロニア小説選集』という日本語による日系人の作品集が現地で出されているとか、『コロニア万葉集』(1982年)のことも、岡松和夫の『異郷の歌』を読んでいて知っていた。藤崎康夫、醍醐麻沙夫などの南米に取材した作品もいくつかは読んでいる。しかし、遠い、地球の裏側のブラジルへ行き、そこで日系人の文学を調べてみようという気にはなかなかなれなかった。時間と費用の問題もあるが、何よりも今ひとつ、自分を動かすモチベーションが足りなかった。

 

しかし、それだけでは片道24時間の飛行機便の苦痛に耐えてまでの旅に踏み出すには、何かが欠けている。だが、とりあえず、行ってみないことには始まらない。私はエコノミー症候群の恐怖と戦いながら、サンパウロはリベルダージ(日本人街=東洋人街)のホテルにようやく到着した。

2010年8月のことだった。

 資料集めから始めた。サンパウロ人文研究所や移民資料館の図書館には、古びたものも新しいものもごちゃまぜで、日系人移民による日本語文献が数多くあった。文学同人誌、詩歌集、散文集、創作集、自伝・ノンフィクションなど、文学関係のものも決して少なくない。邦字新聞や邦学誌など、正直、うんざりするといっていいほど(失礼な言い方だが)たくさんある。

 

難民の時代

・その代わり、様々な意味での難民問題が国内外で生起してくることは必定だと思われる。それがフクシマ難民のような原発事故や地震津波の天災による難民が生み出されてくるのか、北朝鮮の国家的瓦解によってポートピープルのような難民が押し寄せてくるかは、予測することはできない」。そうしたことに対する対応は、まったく準備されていない。“移民の時代”は終わったが、日本にとって“難民の時代”は、今、始まったばかりだからである。

 

 

 

『ブラジル百年にみる日本人の力』

丸山康則   モラロジー研究所   2008/6/1

 

 

 

沼田信一さん バンデイランティス農場経営者、パラナ州日伯文化連合会顧問

<ブラジルに命を願って>

・沼田信一さんは、1918年(大正7年)、北海道の札幌に生まれました。家業はお菓子屋さんでした。沼田さんは幼いころから病気がちで、両親は医師から「この子はとても兵隊検査(18歳)までは生きられないよ」と言われていたそうです。

 両親は大決心をしました。ブラジルへ行こう。暖かいブラジルでなら、信一も生きることができるのではないか。それを大きな望みに、沼田さん一家はブラジルへ渡ることになりました。北海道から神戸へ、そしてアリゾナ丸で2か月余の船旅の後、ブラジルのサントス港に上陸しました。

1933年、信一少年は15歳でした。

 今年2008年、信一さんは90歳です。ご両親の願いは見事に実現できたと言ってよいでしょうブラジルは夢を可能にした幸福の大地だったのです。しかし、そこにはさまざまな苦難がありました。また運命の分かれ道での幸運な選択がありました。

 

百キロのジャングル横断

・2003年は、移民95周年にあたっていました。今日までに開拓には実に多くの人が貢献してきました。感謝の祈りと長く祈念する願いを込めて、開拓神社を作ろうという声が上がり、沼田さんは推進の中心役を担うことになりました。

 

・祀られたのは、移民以前にブラジルに来ていた4人の日本人、移民実現に貢献してきたブラジルと日本の外交家たち、開拓草創期に苦労した先人たちなど、20柱の神様です。

 

<『信ちゃんの昔話』>

・これまでの開拓の体験を、沼田さんは『信ちゃんの昔話』という10冊の本に綴っています。沼田さんは実に筆が立ちます。りっぱな著述家です。『信ちゃんの昔話』第1部は、78歳のときに書き始められ、毎年2部ずつのペースで、10部が完成したのは2002年、82歳のときです。

 

「狐にだまされた話」

この話は私の体験ではないが、なかなか実感がこもっていて面白く、いつまでたっても忘れられない

 話は入植の翌年(1935年)ごろのことで、私の家は中央区のコアッチーの川辺りに初めて小屋を建てて移ったばかりのころのある日の日の出前のこと、私たち兄弟がぼつぼつと起き出してくるという時刻であった。

 母が早起きして、トマカフェー(朝食)の用意をしていたとき、「おはよう、おはよう、ここはどなたの家ですか」と、大声で叫ぶように挨拶する男性の声で、まず母が「はい、おはようございます」と返事をして出る。私は家の横で顔を洗っていたのだがあまり早い時刻と只事でない声に驚いた。

 入り口のほうへ回ってみると、私たちの後に川向うに移ってきたK氏が、晴れ着でいるのだが、その着物がくしゃくしゃのうえ泥だらけである。どうしたのかとびっくりしていると、K氏が恐怖のために身ぶるいをしながら母に向かって、「ああ、やっぱりここは沼田さんの家でしたか。お宅の畠には狐がいる………」と、話しました。そのときには父も出てきて、父母はまずトマカフェーに誘いメーザ(テーブル)についたのである。そこでK氏の話は続く。

 

・昨日、3組の某氏のカザメント(結婚式)に招待されたので、約5キロの道を出かけて行った。氏は3組に契約農に入る契約ができていたそうである。

 当時のことであるからビンガ(焼チュウ)での宴会で、それでも一人で夜道を帰るので注意をしていて余計には飲まず、12時前に失礼して帰ってきたという。1組と2組の道路をそれなりに帰ると大変に遠回りになるので、私の家と石田氏のジビーザ(境界)を近道することにしておりて来たというのである。そうすると2キロは近道である。しかし当時のジビーザは、私たちも仕事にそこを通るのであるが、まだカリアドール(作道)としてあけたものではなく、細い木をまたぎ、大木は回ってという状態であった。それでも畠とは違って歩きやすかった。K氏の話は続く。

 そこで4百メートルほど来たところが、である。「沼田さん、あなたのシッチオ(土地)には狐がいる。私はその狐にだまされた」「ブラジルにも狐がいるとは知らなかった」と、狐、狐、狐と連発で、なかなか恐怖から抜けられないようすであったが、とにかく、私たちよく知っている者の家に入っているので、次第に落ち着いてきて話すには、ジビーザに入って4、5百メートルほど来たところが、思いがけない一軒の家があった。それで、こんな所に家のあるはずがない、と再三思い返しながらも現実に家があるのでしかたがない。そこで無言で前を通るのも悪いと思い、また、時間が時間だから声をかけるのが悪いと思いながらも、「こんばんは」と、小声で挨拶をして通り抜けようとしたら、「どなた!」と、女性の声がして、すぐに婦人が出てこられたのでびっくりしていると、「あら、Kさんですか。この夜更けにどこからのお帰りですか。道らしい道でもないところですし、やがて夜が明けますからちょっと休んで、夜が明けてからお帰りなさい」と、親切な誘いで、「それでは」と、家の中に入り空いていたカーマ(寝台)に寝かされて、「助かった」と思って休んだのに、眠りが覚めてみると、「沼田さん、家もなければカーマもない、狐の野郎だましやがって、私は大木の脇の土間にころがされていたんですよ。あそこには狐がいると、全く真剣な顔での物語である。

 

そのうちに、トマカフェーをして少しは落ち着いて帰っては行かれたが、私はそんな馬鹿げたことはないと思いながらも、本人にはどうしてあれほど思われるのかとちょっと不審な気にもさせられたものであった。

 

・それでも、どこで寝られたのか確かめに行ってみると、ジビーザの半ころに大きなヒゲーラの木が倒されてあり、その板垣とでも言おうか根のほうに張り出している羽のような物を屋根と思い、その下で寝られたらしく、跡がはっきりと土間に付いていた。酔ってここに寝たのだから一張羅の洋服もたまらない。それにしても妙齢の婦人が出てきて「夜の明けるまで休んでいかれたら」と、招きいれてくれたと言うあたり、本人の酔ったあまりの想像であったとしても面白いし、目が覚めてから私の家まで来て、なおあの真剣な話振りなども、何時思い出しても面白いのである。

 そのK氏もアストルガ方面に移って行かれたが、今ではこの世の人ではないであろう。

 

・いかがでしたか、ブラジルの民話といった風情がありますね。これを書いたら、後、次々と思い出が浮かび、すらすらと筆が運んだそうです。挿絵がまた楽しいのです。沼田さんの友人の牛窪さんが描いたものです。全10部のうち5冊目に当たる第5部は、ロンドリーナ市で沼田さんが知り合った方々、117人の伝記を書いたもので、この第5部を外した9部はすべて沼田さんの思い出の数々を綴ったブラジル開拓物語です。そこには全部で277の物語が綴られています。

 

第1部「カフェーと移民」

・コーヒー園の経営が中心の仕事でしたから、それにつながる話がいろいろ出てきます。そのほか、開拓の話や弁論大会など、次第に暮らしが落ち着いてきて文化的な活動も始まります。

 

第2部「ビンガと移民」

・ビンガはサトウキビから作ったお酒です。日本の焼酎と同じですがアルコール度が高いのが特徴です。青いレモンと砂糖を入れて飲む人もいますが、すばらしい口当たりの良さです。つらい開拓労働の後の慰めによく飲まれたようです。開拓小屋の片隅に大きな瓶が置かれていたそうです。

 

第3部「毒蛇と移民」

どの家にも毒蛇に噛まれたときの用意に薬がおいてあったそうです。間に合わなくて亡くなった悲しい話もあります。サンパウロには蛇の博物館があるほどです。たくさんいたのです。

 

第4部「ムダンサと移民

ムダンサは引っ越しのことです。良い土地を求めて何度も引っ越しを繰り返したお話です。

 

第5部「赤土と移民」

第6部「ビッショと移民」

砂ノミに苦労したお話です

第7部「霜と移民」

霜でコーヒーが全滅したお話です。10年に一度ほど霜が降ります。するとコーヒー畑の多くが全滅という悲劇に襲われます。自然の力には勝てません。特にゆるやかな丘の起伏の谷間にあるコーヒー畑は大変な被害に遭います。どこに畑があるかが運命を大きく変えることになります。

 

第8部「戦争と移民」

・第2次世界大戦の後、ブラジルの日系人の間では勝ち組と負け組に分かれて、数の多い勝ち組が負け組の人を襲うといった事件まで起きました。地域によっては早く警察が動いて大事にならずに収まったところもありました。不安と葛藤に苦しまれた地域もありました。

 

第9部「風土病と移民」

マラリアやトラホームなど様々な病気との闘いが開拓にはついてまわります。

第10部「ジャングルと移民」

ジャングルを切り拓くような道具やもろもろの苦労が書かれています。また運命の分かれ道と言えるような出来事が起こるようすが書き留められています。トラックに乗って海水浴に行くなど、たまにしかないレクリエーション活動も紹介されています。

 

<「ムダンサと移民」>

・私たちが移住して来たころ、すでに在伯10年、15年という人がいて、がっかりしたことがある。この方は数年か、長くとも10年後には一儲けして帰国するつもりでいるのに、この人たちは何をしていたのか、ブラジルとは案外に儲からない所なのかと考えさせられたが、2、3年すると割合に金が入って来るので楽しかった。

 それはパラナのテーラ・ロッシャ地帯の恩恵であったので、ここへ来るまでには一般の人は相当に苦労したらしいのである。

 

まず、笠戸丸移民であるが、ズモーン農場に配耕されて52家族は2か月足らずで全員サンパウロ移民収容所に戻ったということであった。

 カナーン農場の場合は同じく不作の年で収穫は手間賃にならず、主にサントスの港のほうが賃金が良かろうと2か月前後から逃亡が続いたと言われている。

 フロレスタ農場の場合、逃亡する者数家族、残りの者は翌年耕主と争いになり全員移動したという。しかしそうは言っても、先輩移民のいない時代のことであるから、大変である。言葉も通じないのに家族を抱えて、どこへ移転するのか、不安なことであったろう。

 

・また、サン・マルチーニョ農場には主に鹿児島県人27家族が入ったが、間もなく12家族、42、3人が退耕したといい、グヮタバラー農場では鹿児島県人18家族、高知県人2家族、新潟県人3家族、計23家族を通訳平野運平氏が同道して行かれて、ここは平野氏の努力でよく落ち着いた所とされているが、それでも翌年には残留者4割以下に減っていたそうである。

 

・ソブラード農場の割合は仁平嵩氏が山口県人9家族、愛媛県人6家族、計15家族同道したそうであるが、ここは割合に良くてズモーン耕地から移動した者も相当あったらしい。しかし初期にはやはり数家族は逃亡したとのことである。

 

以上のように移民は食えないのでは仕方がない。儲からないのではかなわない。なんとかもう少し良い所がないかと第1回移民のなんにも分からない、先輩移民のいないときからムダンサ(移動、移転)が始まったのであって、ブラジル移民を語るとき、その苦労のほどが、その人たちのムダンサの回数で知ることができると思えるのは、在伯7、8年、10年という人で、その年数よりムダンサの回数のほうが多いという人に何回も出会って驚いたからであった。

 

・しかし、移転するとしても先輩移民がいないのだから不安なものであったろうと思うが、食べていけなければ移転してみるより仕方がないのである。

 そのようにして、なんとか生活の成り立つ所、できれば幾らか儲けの残せる所はないものかと、次から次へと移転の数が増えていくのであった。

 

・1960年ころか、私がマリリヤ方面の某日系植民地に渡伯7、8年の家族が苦労していると聞いて、私の耕地で働いてもらうべく尋ねて行ったことがあった。

 住宅は板造りの普通のコロニア(労働者用の家)程度であったが、本人と話をしていて驚いたことは、3人のかわいらしい娘はまだ小学生で手伝いにならず、毎日マンジォーカ(いも)にフェジョン(塩たきの豆)をかけて食べて、ご飯はお正月とお盆ぐらいということであった。今時そんな生活をしている人がまだいたかと、気の毒になりパラナに移ることをすすめようとすると、幸いすでに中央線はモジ方面からアルファーセの歩合に誘う人がいて、そちらに行く準備中とのことであった。私は雇えなかったが、モジ方面に行くならまだよかったと思った。戦後移民も安住の地に落ち着くまでには、相当のムダンサをさせられていた人がいるのである。

 私などは少ないほうであるが、建てた掘立小屋がひっくり返るとか場所が不便とかで新しく建て替えたりして、数えてみると11回目にロンドリーナの住宅に落ち着いて、今の家は12回目である。

 

・また、妻の里を見ても、1932年直接バストスへ移住してきたのであるが、始めの土地がやせ地なので翌年移転、2、3年して地味がわかるようになって、アレンダ(歩合作)としてサンルイス地区へ移転、ところがここの地主の地権問題で1年で追い出されてバストス内に戻ったが、前のロッテ(土地)ではなかった。しかしそこも思うようでなく、他のセッソン(組)に移転、これで最初のロッテから5回目である。

 

・しかし妹は2人結婚して家を出て、弟は日本に帰り、両親は老齢化してきたので戸主の兄夫婦はこれで農業は無理と、妻をサンパウロに出してパーマを修業させて半年後にバストスに開店、2、3年して町が小さいとアダマンチーナに移転、繁昌して落ち着いていたが、サンパウロで教えてくれた人の店を譲り受けることになって出店、そこまでで8回の移転である。

 運良く4、5回で済んだ人もあるはずであるが、移民は案外にムダンサをしているのに驚かされるのである。

 

・この初期移民のムダンサは歴史として記録されるべきことの一つであるかと思う。

 どこかの組織で住所の移動を調べていたが、住宅の移転も加えて統計を取って見ると、初期移民の労苦と希望に向っての努力の一端がさらに詳しく浮かび上がってくると思うのである。

 

・この文を書いているところへ2人の婦人が訪ねて来られたので、用件の済んだ後に、ムダンサのことを尋ねてみると、86歳のお婆ちゃんは10回まで思い出してくれ、55歳の未亡人は確実に11回の移転で落ち着いたとのことであった。この若い婦人は戦後移住者であった。

 ムダンサと移民、青い鳥を追い求めて歩いた移民のムダンサは移民史に忘れてはならない事項であると思うのである

 このようなことから、「移民の子移転つづきで古巣なし」のような川柳が読まれたのであろう。

 

「ジャングルと移民」

・私は、ブラジルに渡った日本人の移民が、どのくらいの農地を所有しているのか調べがつかないものかといつも思いながら、及ばぬ鯉の瀧昇りと、あきらめていた。

 ところが今回の日本移民の聞いた植民地の数から、私たち移民が開拓したジャングルの面積のある程度の確実性を持った数字を知ることができたことを一つの収穫と喜んでいる。

 

・その日本移民の開拓した面積が大変広大な面積になるのに、その移民の中には、農業に経験のない家族がたくさんいたのである。しかしその数は農家のほうが多かったであろうと、少し遠慮して書いておいたのであるが、移民50年祭の記念事業に出された鈴木悌一氏の書かれた実態調査に依ると、ブラジル移民は、農業者は31パーセントとあり、非農業者の方が69パーセントと、実に倍以上も来ていたと書かれている。

 全員が書類の上では農業者として渡航して来ているのに、どうして調べがついたのか不思議であるが、学者の偉さである。私もその統計を支持したい。

 

考えようでは、現在のようなブラジルの国情で、盗人が多くて生活に安心できないとき、泥棒の心配はありませんというこの地方の人たちには、ちょっとうらやましい気持ちもした。

 しかしわれわれ、文化の開けた日本の都会から来た者には、食べて行けるからとても安心しておられはしなかった。

 ある程度の生活、子供の教育、帰国、訪日等々にはお金は必要であった。そのためにジャングルの開拓は、小資本の者にはもっとも近道の事業であったうえに、少々言葉が通じなくとも、労働者への支払を正直にしていけば拡張していける仕事であったから、次から次と拡張していく人がいたのである。

 

理論からいけば、農民でない家族を7割近くも送ったブラジルへの移民は大失敗であった。南米のジャングルを前にして、唖然として、進んで手をつけようとする者はいなかったということになっても不思議ではないのに、移民の一部の植民と言われた人たちは、日本でジャングルの購入契約をして来たために、現地に到着すると、ただちに、ジャングルの開拓に立ち向かったのである。

 

・また、コーヒー園への契約移民も、時には1年、あるいは2年との労働契約の差はあっても、それが終れば、ほとんどの人は土地を買うか、地主の契約農として植民地の開拓事業に立ち向かったのであった。

 それが、巡査上りであれ、教頭先生であれ、駅長さんであれ、私たちのようなふらふらのお菓子屋の職人と学生というような者であれ、みんな元気を出してジャングル倒しに取りかかったのであるから不思議である。

 

それで、20万人余りの日本移民の40年ほど前までのマッシャードの時代までの事業において、実に日本の面積の5パーセント以上10パーセント近く、あるいはそれ以上の広大な面積のジャングル開拓という大事業を成し遂げているのである。

 

・今では多くの植民地は荒廃してしまったが、残った地主の事業は大型化して、過去の1植民地の面積位は、1戸の仕事場にも満たないような現状であるから、移民が開拓した2千に及ぶ植民地の大手は荒廃し、日本人の農家は激減しているといえども、その規模が機械化されて大型化されたので、その面積においては何倍かになっているので、その総面積はどこかに書いておいたような、九州に及ばず、四国よりは広いなどと言うものではなく、現在ではその2つを加えたほどの、広い面積が移民の2世、3世によって耕作されているのである。

 

日本から送られた23万人に満たない移民の活躍に世界が刮目する時代が、目前に来ていることを思えば、将来は楽しみであるが、私には今日もすでに楽しいのである。

 日系社会も成長したもので、このごろでは、移民の成功者調べ等、しなくなったので明らかでないが、カフェー、綿、馬鈴薯、大豆等の大生産者の中に堂々と入りこんでいるのである。

 人口比率でわずか1パーセントほどの日本人であるから頼もしい限りである。

 

リオグランデ・ド・スール州に北海道人が持ち込んだといわれる大豆が、同州に広がり、それが次第に北上して、パラナ州サン・パウロ州、南・北マットグロッソ州、ミーナス州、パイヤ州へと広がり、その生産量も、北米に次ぐことになって、この辺で落ち着くかと思いきや、このごろはアマゾン河を超えて北半球に入り、ベネズエーラの国境に迫っているが、その先鋒に立っているのが日系人であることは聞いてもうれしい話である。

 やがて北米を凌ぐ生産量をあげることになるのかも知れないのである。