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こうした経緯から、三上照夫は巷でいつしか「天皇の国師」と呼ばれるようになった。本人がご進講のことを口外することはなかったが、周りが噂しはじめたのである(1)

 

天皇国師  知られざる賢人 三上照夫の真実』

宮崎貞行   学研   2014/3/18

 

 

 

海ゆかば

・4月15日の日記によると、同席した入江侍従長が{屋久島で樹齢七千年の世界一の巨杉を発見、太古を偲ばせるものがあり、天皇御在位五十周年を記念しているかのよう}と語ったとある。続けて、次のような記載もある。

入江侍従長曰く、東西陣営にはそれぞれ良いところがあるのに、相互に悪口を言っているのはおかしい。共に良いところを取り合っていけば立派になるのにと、けだし名言」

 この連絡会議が終わったあと、帰りがけに入江は、仲山警務部長を呼び止めた、というのも、その前日、『法律時報』の論調を読んだ陛下が「侘しい」お気持ちを吐露されたとき、「あの者はどうしたであろうか」とお尋ねになったことが気になっていたからである。

 こまかい説明はせず、単刀直入に要点だけぽつりと語るのが、天皇の口癖であった。「あの者とはどなたのことですか」

27年前に三上照夫という丸顔の小柄な青年に会ったことがある。あの青年は今どうしているだろうか。たしか特攻隊出身で、京都に住んでいたはずだが

 陛下は記憶力の優れていることで知られていたが、昭和23年の暮れに一度だけ会見した青年の名前を覚えていた。大声で御製を歌って驚かせてくれた青年をふいに思い出したのである。

 青年は、天皇が改宗について迷っていたとき、肚を固める示唆をしてくれた。

 

三上のご進講は、これ以降は陛下独りのご下問に応える形になり、陛下の体調が悪化する昭和62年9月まで、約11年間に渡りほぼ毎月行われることとなった。

 

天皇国師

・こうした経緯から、三上照夫は巷でいつしか「天皇国師」と呼ばれるようになった。本人がご進講のことを口外することはなかったが、周りが噂しはじめたのである

国師」というのは、朝廷から仏教の高僧に対しおおむね死後に贈られる尊称で、臨済宗の高僧に与えられることが多かった。明治以降は、朝廷が神道純化したため、国師、大師、禅師といった尊称を下賜することはなくなったが、「国の相談役」という意味で周りが勝手に名づけたのである。

 けれども、三上が陛下にどのようなご進講をしたのか、夫人以外に一切語らなかったから内容は杳としてわからない。

 

語り部は隠し部

入江は自分の仕事や天皇の職務については、日記でほとんど触れなかった。政治に対する天皇の意見や感想を書くことは注意深く避け、神々の声を聴く祭司としての天皇の素顔を紹介することもしなかった。それは、終戦後に侍従次長を務めた内務省出身の木下道雄が日記に克明に陛下の発言を記録した姿勢とは、まったく対照的であった。入江は日記には、歴史家に題材を与えることのないよう、当たりさわりの指圧と入浴と食事とヒヨドリのことしか書かなかった。

 それもそのはずである。彼は、意図的にそうしたのだ。

 天皇のご発言やお気持ちが後で公表されるようになる事態は絶対に避けなければならない。公表されると、解釈をめぐって論争が起き、天皇を困らせることになる。ひいては自分の責任問題にもなりかねない。歴史の証人になることは、まっぴらごめんだ。そんな煩わしいことにはかかわりたくない、公家の末裔は、あくまでも韜晦の表情を忘れてはならない。

 侍従長は、人間天皇の知られざる一面を随筆で紹介した「天皇語り部」であったが、同時に、巧妙な「天皇の隠し部」でもあった。どうでもよいある部分を公表することによって、他のもっとも重要な部分をうまく覆い隠したのだ。

 入江には、平安朝以来の伝統的な公家の巧まざる韜晦という手法が身についていた。まことに老獪である。それは、生得のものであって、学習して身につくものではない。

 ところが、入江が出合ったこの三上という男はどうだ。公家のような老獪さはまったく見られない。世間的な遠慮や気配りといったものもなさそうである。役人の狡さとも無縁のようである。学者のように言葉を連ねて自己弁護しようともしない。講演の謝礼をよこせとも言わない。これが、未来の庶民の姿なのか。手弁当で列車を乗り継いで皇居の清掃にやってくる奉仕団の庶民の姿なのか。

 三上という男は、ただ、熱情のほとばしるままに、声をはりあげて訴えることが、最高の生きがいと信じているかのようである。それ以外の方法では、彼の真骨頂は発揮できないと思っているのかもしれない。周りがどのように反応するかは、まったく無頓着で、その意味では傍若無人といってよいが、悪気はなさそうである。世間知らずの皇族を驚かせてやろうという他意もないようにみえる。

 

・人間は、身体と心体と霊体の三層よりなる多次元にわたる存在だという話をむかし仏教学の学者から、進講してもらったことがある。肉眼で見たときに人間の身体が現れ、心眼でみたとき心体が現れる。そして、霊眼が開いたとき人間の霊体が観察され、霊体同士の交流が始まると講師は語っていた。霊体というのは、無でも空でもなく、実質ある超微細な実体であると語っていた。

 そうでありなら、陛下と三上は、同質の霊体を持ち、それが身体の奥深いところでお互いに反応し、自分の知らないうちに、時空を超えた一瞬の対話を行っていたのかもしれない。その対話は、後醍醐天皇の時代から特攻隊の時代まで、さらに先日のご進講のときまで営々と重ねられてきた交流であって、その時空を超えた重層的な対話を一瞬のうちに貫き了解させる何かがあったに違いない。

 

戦場で二度、死地をさまよう

・昭和20年3月11日、陸軍上等兵の三上照夫は輸送船生駒丸に乗り、門司から台湾に向けて出港したが、台湾沖で米軍の魚雷攻撃を受け、生駒丸が沈没した。冷たい南シナ海で8時間漂流を続け、運よく救助され、基隆に上陸した。

 昭和20年5月21日、通信兵として戦闘機に搭乗し、台湾防衛の天号作戦に出撃したが、片翼に被弾、機体は炎上したまま台湾沖の小島に不時着し、三上は瀕死の重傷を負いつつ辛くも脱出した。近くにいた現地の人たちの介抱のおかげで奇跡的に回復し、その後台北で療養中に終戦を迎えた。

 戦場で二度も死地をさまよった三上は、復員後、人生と宇宙の意味を探求したいと思うようになった。生と死の意味を問うとともに、人を死から救いだしてくれる奇跡的な力についてもっと知りたいと思った。

 

皇室に伝わる秘密の行法

仲山警務部長のとりそろえた報告書は、次のように記す。

終戦後、帰国した三上照夫は同志社中学校に帰校し、22年3月に卒業。同年4月同志社外事専門学校神学科に入り、3年間ヘブライ語キリスト教神学を学ぶ。そのかたわら京都妙光寺で今津洪嶽老師に師事し、仏道修行に打ち込む。また、京都御所内白雲神社の金井白雲宮司より神道行法を学ぶとともに、大本教千鳥会にて降霊の技法を学ぶ」

 三上は、キリスト教と仏教と神道をほぼ同時期に学習していたことになる。

 

・回峰行の終わりのころになると、肉体は極限まで疲れ果て、生きているのか死んでいるのかわからなくなる。いや、わかろうとする意欲もなくなり、体自体の感覚もなくなってくる。あるとき、ふっと何か軽くなったような感じがして目を開けてみると、彼は広い河の前に立っていた。前方にきれいな光が見え、そちらに向かって歩いていこうとすると、白髯の老人が現れ「まだ早い」と言われた。「お前さんにはまだ仕事がある」と諭された。

 気がついてみると、彼は玉体杉の根元に倒れていた。ああ、自分はこの世とあの世の境界のところまで行ったのだなと思った。この世とあの世は表裏一体の関係にあり、あの世に裏打ちされ、あの世からの働きかけを受けてはじめてこの世は存在しているように感じられた。それは、三上にとって三度目の臨死体験であった。

 

復員後親しくなった女性宮司の金井白雲に相談したところ、天皇家の行法を学びなさいと示唆された。有栖川宮家が保持していた皇室の行法を記した古文書は、同宮家が断絶した後、高松宮家に渡されていたので、賀陽の紹介で高松宮家を訪ねて拝見させてもらった。そこには、神人不二の境地へ導く18通りの行法が記載されていて、彼はこれを、生の限界に近づいたときの回峰行の体験に照らし合わせながら、ひとつひとつ自学自習でマスターしていった。金井白雲からは、天気を左右する極盤行法というものも教わった。

 

・趣意書がそう明白に述べているように、三上は、古神道と仏教哲理なかんずく禅宗の思想を基礎として、戦後日本を導く文化原理を打ち立てようとしていた。

 その社会的背景を、趣意書は次のように述べていた。

「政府は、民族の背柱たる道徳教育すら的確に明示せず、高官汚職は常態化し、国会は怒号と乱闘の劇場と化し、学者はその職責も節操も果たし得ず、進歩的文化人と称してソ連中共全体主義国家を礼賛し、社会を不安へと導くことによって原稿料を稼ぐ教員の大半は赤色革命の手先として階級闘争に専念して、純真たるべき子弟の教育は顧みられず、資本家は眼中私利のみありて国家なく、労働運動は産業破壊の政治闘争に、年中行事のストライキに浮身をやつしている」

 

降霊会で高貴な神霊と感応

・戦後は、岡田茂吉(救世教)、岡田光玉(真光教団)、五井昌久白光真宏会)などが、新しい神道流派を結成して布教していた。敗戦によって生じた心の空白と魂の飢えを聖なるものへの信心で埋めようと努めていた。

「私の古神道との出会いは、忘れもしない昭和23年12月27日のことでした。当時、大本教にいた萩原真が、千鳥会という降霊会を開いてましてね、そこにたまたま連れて行かれて、関心を持ったのが最初でしたな」と三上は返事をした。

 

・ある日の斎場の模様は、こう録音されている。

「メガホンが空中を乱舞しています。人形がメガホンと一緒に上がり、メガホンの上でシーソーゲームをしています。人形がメガホンの上で立ってダンスを、………すばらしいです」

 この段階に至ると、三上が深い変性意識の状態に入ったことが知れる。そうして、三上の体からエクトプラズムと呼ばれる幽質のエネルギーが湧出してメガホンや人形を動かしはじめるのである。

 やがて、メガホンから声が漏れ出てくる。明治のころの日常言葉が聞えはじめる。声は、三上の声帯の幽質を用いてから、三上の張りのある胴間声に似ていたが、三上の口には水を含んだ真綿を詰めてあるので発声は不可能なはずであった。ところが、毎回こういう口調で神霊が出現した。ああ、水位じゃよ。おお久方ぶりじゃった。足は平らにいたすがよいぞ」

 三上にかかった神霊は、「水位」と名のって毎月一回行われる斎場(ゆにわ)に登場した。「水位」というのは、幕末に土佐潮江天満宮の社家に生まれた宮地水位(堅磐)のことであった。水位は、神仙界での肩書である「白日」と名のることもあった。「白日」という号は、神仙界できわめて高度の位階であるという。

 水位の神霊は、空中に浮かんだメガホンから声を出し、質問に答えて、政治、経済などの時事問題から個人的な相談まで縦横無尽に語りはじめたのだった。

 

白い蛇

多層の霊界を伝える宮地水位の霊

三上は、昭和38年末ごろから、ほぼ毎月、富山で宮地水位霊の降霊会を行ったが、それは、見えない霊界の存在を少数の道人に知らせるとともに、道人の進むべき道を教えるためであった。

 空中に浮かぶメガホンから、ほかの人の知らない個人的な事情をずばり指摘されると、眼に見えない霊的なものの存在を信じないわけにはいかなくなる。子供の病気や夫婦仲、事業の不振などを誰にも語ったことがないのに的確に知っている不思議な存在がいるということを否定できなくなる。

 斎場(ゆにわ)でお伝えを降ろした宮地水位は、古神道家の父宮地常盤から指導を受け、11歳のころから幽体離脱し霊界に出入することのできた霊覚者であった。37歳のときに『異境備忘録』を著し、彼が探訪した霊界の詳細な記録を残している。紫微界、日界、神集界、万霊界など神霊界の多層構造とその活動を解き明かし、秘密である神霊界の一端を人間界に伝えてくれたのである。

 

・かと思うと、真の初代天皇のされるヒコホホデミノミコトをはじめ日本神霊団の役割や源義経の生涯と死後の活躍について述べ、人類史の多段階にわたる発展と2万6千年ごとの人類史の変転を語り、人間を統括している主護霊と背後霊のはたらきまで事細かく言及した。三上が予定していた米国訪問は中止すること、ある政治家への助言はやめることなど具体的な行動を指示したこともある。

 斎場(ゆにわ)の応答の模様は、参加者の手によりすべて記録されているが、質問に答えて、書物を見ずに法然親鸞道元をはじめ、昔の宗教者の発言や行動を事細かく語り続ける水位神仙の博覧強記ぶりは実に驚くべきものであった。水位の解説によると、それは、水位自身がすべて知っていたということではなく、質問内容に通暁している配下の仙人たちを動員して即座に回答を与えていたという。

 

三上の場合は、台湾沖で撃墜され1週間意識を失ったころから霊界との通信が始まったようだったが、本格的に霊媒能力が開けたのは、比叡山無動寺での百日の断食修行を終えたあとだった。

 けれども、霊媒がその身体能力を神霊や人霊に貸すと、ものすごく身体エネルギーを使われるので、降霊会のあとはくたくたになる。降霊会を終えると、三上の体重はいつも1キロほど減り、手足は冷たく硬直していた。弟子たちは、冷たくなった手足を急いでもみほぐし、温めなければならなかった。

 

・「人間とは目に見えるだけの存在ではないということを皆に知らせるためでした。死後も霊魂として生活をつづけ、生きている間にも目に見える限りの個人ではなく、個人の中に個人とともに諸霊が存在していることを実証するためだったのです。

 人間とは、目に見える肉体だけでなく、見えない霊魂を持ち、縁のある諸霊から指導を受けつつ交流している複合的な存在なのですよ。個人は自らの意思によって自分本位に動くのがよいという個人主義は、どうみても間違いなんです。個人の利益を諸霊や共同体の利益より優先させる個人主義社会はおかしいとは思いませんか」

 

・「自主的に判断し自主的に行動するといわれていますが、実際は、主護霊や背後霊などいろいろな神霊に指導されつつ行っているわけです。主護霊というのは、肉体を超えた真の己を生み出してくれた霊界の存在で、欧米の心霊学では、マスタースピリットと呼んでおりますな。通常、人には七柱の背後霊がついており、それを統括しておるのがマスタースピリットなんです。悪い因縁の霊に憑依されて病気になる人もいますね。自由の範囲は、その人の過去生の因縁や境涯によって制限されており、無制限な自由は与えられてはないのですよ」

 1人1人の人間は、本来的に自由な存在ではないと三上は語った。

 

諸霊と交流するスピリチュアリズム

・わが国の学界では、さまざまな神霊や人霊と交流するスピリチュアリズムについて研究しようとする学風はほとんど見あたらない。むしろ、そういう研究をする学者をはじめから非科学的と決めつけ、排除する伝統がある。

 しかし、洋の東西を問わず、昔から民間では神霊などの存在を信じ、降霊(交霊)を通じて対話するという根強い風習があった。日本の学者たちは、信じる信じないは別として、風習そのものを冷静に観察して研究しようともしなかった。食わず嫌いなのである。

 

・スピリッツ(諸霊)の現象については、理知的な欧米人のほうが、客観的な調査を行い、多くの報告書や記録を残している。欧米の数十の大学でも超心理学講座が設けられ、不思議な超常現象の確認とそのメカニズムについて緻密な研究がすすめられてきた。

 スピリチュアリズムは、心霊主義と訳されているが、死後も人間は霊魂として存続し、生活し、この世とも対話を続けているという思想である。人間ばかりでなく、動物、植物にもそれぞれの次元の霊魂がある。あの世において長期の修練を通じ高い位階に達した霊魂は、低い霊界からより高い霊界に進み、さらに高次元の神界に進みいき、この世がよくなるようにと人を介してはたらき続けると考えている。人間は、より高次元の神霊よりメッセージを受けて、与えられたこの世の仕事を全うすべきというのが、心霊主義の主張である。

 

ユダヤ教キリスト教は、超越的なゴッド(天主)との直接対話が可能であると主張し、アブラハム、モーゼ以来のゴッドとの交流を聖書や教父の著書などのかたちで記録を残しているが、中間の諸霊との対話についてはあまり重視していないわずかに、天使ガブリエルや悪魔ルシファーたちの活動に触れているだけである。

 これに対して、心霊主義は、中間の諸霊との交流を重視し、諸霊の住む霊界の構造を明らかにしようとする。人間を超越的に「創造」したゴッド(天主)との直接対話を人間ができるということには懐疑的であり、仮にそれが可能であるとしても極めてすぐれた霊的能力を持つ一部の聖者しか行うことができないはずである。だが、中間の指導霊や主護霊(マスター)との対話であれば、普通の人間も行うことができると考えている。そうした諸霊の声を身近に聞くには、降霊会で体験するのが手っ取り早い道である。

 

・もともと降霊(交霊)の術は、古代ツングース族や古代エジプト族のシャーマンの家系にも古くから伝えられていた。それがロシアやヨーロッパに入りこみ、降霊会として組織され広く認知されるようになったのは、キリスト教会の影響が低下した19世紀になってからである。それまでは、魔術の類として、教会から異端視されていた。

 19世紀後半に入ると、ヴィクトリア英女王やナポレオン三世、ロシアのアレクサンドル三世も霊媒師を呼び、しばしば降霊会を開催していた。また、米大陸でも流行し、ホワイトハウスリンカーン大統領の霊を招く降霊会を開催するほど盛んになったこともある。机をたたくラップ音が聞えたり、死霊が登場して死後の消息を伝えたり、机が空中を舞いはじめたり、さまざまな心霊現象が起き、参加者たちは肝を冷やしながらもその不思議さにのめりこんでいった。もちろん、なかには詐欺まがいの会合もあり、訴訟沙汰になったりした。

 

スピリチュアリズムの思想を米国で初めて体系化したのは、アンドルー・ジャクソン・デービスである。デービスは霊媒として、人類に向けて壮大な霊界からのメッセージを伝えたが、彼に働きかけていた背後霊は、著書によると18世紀最大のスウェーデン人霊能者で博物学者のエマヌエル・スウェーデンボルグであったというスウェーデンボルグは、幽体離脱してさまざまな霊界を探訪し、その記録を膨大な『霊界日記』などにとどめている。

 

・わが国においては、神がかりによる宣託の風習は欧米よりも古い時代から記録されていた。『古事記』にも、オホヤマトヨクニアレヒメ、ヤマトトトヒモモソヒメなど偉大な巫女たちが神霊の宣託を受けて、天皇の治世を助けた記録がある。神功皇后が朝鮮遠征のおりに神がかりしたこと、宇佐神宮の巫女が和気清麻呂に神託を授けたという話などは広く知られている。奈良、平安の朝廷は、戦乱や疫病、飢饉などに直面したとき、しばしば宇佐神宮に使いを派遣して、神意を問うてきた。民間でも、病気治しや困りごとの相談は、イタコ、ノロ、行者などと呼ばれる各地の霊能者が引き受けていた。なかでも、山中で修験を積んだ山伏行者の活躍は目覚ましかった。彼らは神降ろしを通じて祖霊の消息を伝え、困りごとの解決策を授け、医師の代わりに薬草を処方し、加持祈祷を行って病気を治癒しようとした。もちろん、詐欺まがいの業者が少なからずいたことも事実である。

 

ところが、文明開化路線を採用した明治政府は、こういった風習は科学的な根拠のない迷信の類と考え、明治5年に修験道禁止を発布したので、17万人いた山伏たちは失業してしまった明治6年には、梓弓を使う占いや狐憑きの除霊などの民間呪術を禁止する通達が出された。

 こうして、科学万能主義が支配するなかで、呪術の一つとみなされた神がかり(憑依)の口寄せ、口移しも次第に衰えていき、わずかに御嶽教などで細々と伝えるばかりとなった。

 御嶽教で神降ろしの手法を学んだ大本教出口王仁三郎は、大正期に神降ろしを大々的に復興して流行させ、明治末にほとんど無名であった大本教は、大正中期には30万の信徒を数えるに至っただが、霊媒の精神が元に戻らず精神異常を招くといった根強い批判を受け、さらに天照大神ではなくカムスサノオ大神を主神として信奉していたため特高警察による二度の弾圧を受け、昭和10年以降は衰微していった特高警察と治安維持法がなくなった戦後に、ふたたび元大本信者の萩原真などが神降ろしを降霊会と称して復活させたのである。

 

現界と異界を二重写しに観る

「萩原真の降霊会は、ある神霊が萩原に憑依する現象ですね。日本の霊能者はほとんど、萩原のように憑依型ですが、これに対してもう一つ、幽体離脱による脱魂型の霊界通信があると宗教学者ミルチャ・エリアーデは言っていますね。膨大な霊界日記を記録したスウェーデンボルグは、部屋に何日も鍵をかけて出てこなかったそうですが、幽体を離脱させて霊界を探訪したのではないでしょうか」

 と仲山は語った。古神道を研究していた仲山は、東西の心霊現象にも興味を持ち調査を進めていたのである。

 

浅野和三郎の妻、多慶子が霊媒となって伝えた『小桜姫物語』は、滅亡した三浦一族の小桜姫が霊界から生前の生活や死後の様子を生き生きと伝えた興味深い物語である。

『小桜姫物語』は、憑依された妻の口述を和三郎が記録したものであるが、これに対して、宮地水位の『異境備忘録』を読んでみると、宮地は一人でいるときに脱魂して、異次元の神霊界と万霊界に参入して、その見聞をみずから記録している。三上の降霊会に出現した宮地神仙は数少ない、スウェーデンボルグに似た脱魂型の霊能者であったといえるであろう。

 仲山は、つづけて語った。

エリアーデのいう憑依と脱魂のほかに、もうひとつ神感というべき類型があると思うんです。どう違うかといいますと、憑依も脱魂も、本人の意識はこの世から離れており、目の前に起きている事柄を観察していません。ですから、本人のいる部屋で何が起きたのか、本人が何を発言したのかまったく知らないんです。これに対して、神感は、目の前にいる依頼者や風景を見ながら、意識を持ちながら同時に異次元を霊視しているわけですね。つまり、現界と異界を二重写しに観ながら、あるメッセージを受け取るというやり方なんです」

 

素人が興味本位にやると、意識が元通りに戻らず、精神異常になる危険性もある。>

・「神降ろしによる伝達はしんどいので、私の場合は、月に1回だけ、少人数の道人の集会だけに限定しています。そのほかは、おっしゃる神感によって異界からのメッセージを伝えるようにしているんです」と三上は言った。

 彼は、10人程度の閉鎖的な道人グループを富山県につくり、昭和38年から月1回程度神降ろしを行っていたが、それ以外はほとんど控えていた。それに属さない思想団体松栢会の一般会員には、「敬神、尊皇、愛国」のまことを尽くすことが重要で、決して霊能を求めてはならないと日ごろから説いていた。彼にとっては、第三文化論を早く打ち立て、戦後日本の針路と使命を明らかにすることが最終目的であり、そのほうがはるかに大事だったのである。

 

宮中祭祀

記紀以前の書が伝える祭祀と行法

・古代の帝の霊覚と行法こそ、仲山がわざわざ東京から出向いて教えてもらいたいと希望していたことであった。それがわかれば、霊感に乏しい入江侍従長を説得できるかも、と思っていた。天皇祭祀の簡素化を進めていた侍従長に翻意を促すことができるかもしれないと一縷の希望がよみがえってきた。

「ご存じのとおり、古代の天皇は、神降ろしの目的で周りに多数の巫女集団を養成しておられましたが、ご自身は現象界を見聞きすると同時に、裏側の潜象界を見聞きするという霊覚を開発されていたんです。開発しようとなさっていたというのが、正確ですけど」

 高貴な神霊の憑依による宣託は巫女集団に任せ、天皇自身はみずから霊覚を磨いて、神意を知ろうとしていたと三上はいうのである。神がかりによる託宣は、そうとう消耗するからこれは、専門集団である巫女群に任せるのがよい、天皇自身は、霊覚を磨き、直接神意を知る能力を磨こうとしていたというのである。

 

・三上によると、いわゆる霊覚には、「霊能」と「神通」と二種類あるという。「霊能」とは、念力によって高級または低級な霊とつながり、その霊の声を聴き、霊の姿を見ることである。それは「見せられる世界」だから、それを見た霊の先入観が加わっている。必ずしも正確とは限らない。これに対して、「神通」というのは悟りを開いて、神そのものの心境に至り神仙界と直につながることをいう。「神通」においては、主観と客観が分かれない神境に達するので、神そのものが「見る世界」をじかに誤りなく「見る」ことができると三上は説明した。古代の天皇は、この神通の力を持っていたというのである。

 

崇神天皇は、紀元前一世紀とされる第十代の天皇(ミマキイリヒコ)である。神武天皇葛城山麓にひらいた葛城王朝の後を継いで、三輪山のふもとに三輪王朝の基礎を築いたことで知られている。非常に敬神の念の篤い天皇で、治世にあたっては、太古から伝えられた魂ふりの行を日々行って心身霊を清め、自ら神意を聴こうとした。

 

侍従長も知らない一子相伝祝詞

天皇祭祀は、このように宮中の奥深くに秘匿されているので、仲山も調べてみようと何度か試みたが、皇室の壁に阻まれていた。その祭祀は、伊勢神宮の祭祀や内務省の管轄下にあった神社神道のそれと異なっていることは明白であったが、調査する手がかりがなかった。皇室神道に独特の行法と神学があったことは古文献から推測できたが、それがどのようなものかは杳としてつかみどころがなかった。

 

百万年前の日本神霊団の復活

・「三上さんは、一種の降霊会を行っていますが、これは本来は天皇を取り巻く巫女たち役目でしたね。しかし、現在は霊媒の能力を持つ巫女たちは皇室にいなくなったので、国にかかる災厄を予知することは不可能となりましたね。また、天皇陛下も、ご公務が非常に忙しくなり、祭祀に時間を割くことが窮屈になっています。この点は、どうしたらよいでしょうか」と仲山は尋ねた。

「私どもが目立たないようにやっている幽祭の斎場は、本来は天皇家でなさるものです。偉大な霊能力を持っていた祖霊ヒコホホデミノミコトなどをお迎えし、お言葉を聴くべきなのです。この斎場のやり方を皇室にお返ししたいと思っているんですが、まだ機会がありません」

 

・三上照夫はそのまた生まれ変わりとして昭和3年に生を享けたが、源義経楠木正行の配下として活躍した因縁を持つ2千人を今生で松栢会員として率い、戦後日本の立て直しのために活動する任務を天界から与えられたという。それは、新しい宗教団体を興すのではなく、米ソの価値観や戦前の国体論を超えた新しい思想体系を樹立することであった。そして、戦後猛威を振るっていた共産革命を阻止し、米国に押しつけられた占領憲法を改正し、世界のモデル国家となるような体制を確立することを主な任務としていた。

 

・三上の止まらない熱弁に辟易しながら、途中でやっと仲山は口をはさむことができた。

「はあ、それは面白いお考えです。8百年昔の武士霊団の因縁がこの世にもはたらいているとは愉快ですね。義経の掲げる源氏の白旗が、現今では共産党労働組合赤旗と闘い続けているわけですな。そうすると因縁上、白旗は必ず赤旗を駆逐するということになりますかね」

 仲山は、祖先霊や主護霊というところまでは理解できたが、義経霊団の話になると、もうついていけなくなった義経に仕えた武蔵坊弁慶佐藤継信伊勢義盛らの家臣団も、松栢会員として三上の周りにいるという話も、面白いけれどもただちに信じられなかった。

 

・宇宙は12万9千6百年周期で動き、その5分の1の2万5千920年周期で地球の地軸が動き、文明が一新され、地球の神霊界もそれにともない再編成されるという壮大な話も三上は淡々と語った。

 太陽神界と直結している日本神霊団――百万年前に出現した初代天皇ヒコホホデミノミコトに代表される日本神霊団が、1981年からエホバ霊団(中東)、帝釈天霊団(インド)、至聖先天老祖霊団(中国)、ティワナ霊団(米大陸)という世界の4霊団を指導する役割を与えられて、復活してくる。星の国旗をもつソ連共産主義体制はやがて崩壊するが、その次は米国の覇権的資本主義が崩壊する番である。

 これからの世界の千年間を指導する新しい思想として、日本が共産主義や資本主義を超えた第三文化の体系を確立し、新しい人類史の基礎固めをしなければならない――そう日本神霊団は考えていると三上は語りつづけた。

 

霊界と現界は合わせ鏡

・三上によれば、霊界に7層があるという。さらに霊界の上に3層の神仙界があり、またその上に9層の神界があるという。高級な神界の神々は直接人間界に介入することはないが、神仙や人霊を使ってこの世を動かすことがある。そうした神仙や高級霊と同調し、その力と英知を借りてこの世を造り変えていくのが人間の使命である、と三上は語っていた。

 

・しかし、天上の神々といえども因果の法則から抜けることはできない。宇宙の大生命体としての最高神が、因果によって多神を生じ、多神もまたそれぞれ独立した因果を時、所、位に応じて果たしながら秩序形成の役割を果たしていく。神々は、それぞれの因縁を果たしつつ、人や土地や時代の因縁を借りて動くのである。

 

富士・阿蘇・三上山の霊流を身に受ける

・死後の三上は、富士、霧島、阿蘇の霊流をいただきながら、中に神龍と化して縦横無尽に働いていると弟子たちは信じている。弟子たちは、あの世から働いている三上を「中化神龍師(ちゅうげしんりゅうし)」と呼んで今も敬慕し、中化神龍師にあやかって、ときおり三上山に登り、豊かな天地の霊流を今も浴びようとしている。

 

・下山の道すがらも、三上のことが自然に思い出された。三上照夫という人物は、日本の思想史においてどう位置づければよいのだろうか。彼に似た思想家はかつて存在したのであろうか、と自問した。

 江戸時代でいうなら、心学を普及させた石田梅岩が三上に近いであろう

 

 

 

『吉備太秦(きびのうずまさ)が語る「世界を動かす本当の金融のしくみ」』

ゴールドマン・ファミリーズ・グループが認める唯一の承認者(フラッグシップ)が語る

――われわれのまったく知らない《超裏金融》の正体

地球経済は36桁の天文学的数字《日本の金銀財宝》を担保に回っていた

板垣英憲    ヒカルランド   2015/2/10

 

 

 

<サイナー>

・「いわゆるサイナーとは、口座管理人のことです。いわば資金の管理人のような立場です。私の場合はフラッグシップで承認する立場であり、サイナーではありません。私が一人ですべてを見ることができないので、口座管理人が何人かいます。IMFの運用に関わる金の取引と、日本が管理権、運用権、使用権を持っている35%日銀にシェアされるお金は、フラッグシップである私の承認がなければ動かせません。日本政府も日銀総裁も権限はない。世界銀行の別段預金は、表面上には載らないところにあります。300人の個人委員会が管理しているのです。ずっと運用していてずっと貯めているので減らない。どんどん増えていっている。その管理権、運用権、使用権は、基本的に日本にあります。なぜかというと、ホストカントリーだからです。厳密には35%が日本のものです。それをどこの国に分配「シェア」するのかを決める人というのです」

 

・「そして、この書類に私がサインを入れます。これが一番重要で、私がサインすることにより『フラッグシップを立てる』ということになります。フラッグは、漢字で書くと『旗』だが、実は秦ファミリーの『秦』でもあります。つまり、『この取引をきちんとしますよ』ということを、国連を含めた関連機関に宣言をするのです。その旗印がフラッグシップであるので、私のサインは『フラッグシップを立てる』ということを意味しています。つまり、「国連から認められた最終承認者」が承認したという意味であり、それを宣言している文書ということになります。世界の金塊は秦ファミリーが支配していると言われているのは、このフラッグシップがあるからです。

 

M資金と言われる巨額融資「第一償還」その大元の本物の構造についても吉備太秦本人の肉声をそのままお伝えします!

 

・「ユダヤのヤーハウエは太陽神、日本の天照大神も太陽神で、大本は『日の本の国』であると気がついた。

 それで、どんどん資金を投入してきたばかりでなく、ドール・ロスチャイルドが日本にやってきた。しかも、帰化して日本人になってしまいました。その後、日清・日露戦争明治天皇を助けて、1950年まで生きていた」

 

・「明治時代に明治天皇が何をつくったか。それは、秀英舎[現在のDNP]です。これは大日本印刷の前身で、ジャパニーズ円の印刷工場。いまでも秀英体という字体がありますが、日本で最初にお札の字体に使ったのは、この秀英舎の字体でした。

 まぜお札を発行したか。それは、不平等条約で小判を欧米に持っていかれた、多くの小判がなくなってしまったからです。

 日清・日露戦争の武器は、戦艦三笠を旗艦とする連合艦隊にしても100%英国製でした。日本にはそんな武器を買うお金はありませんでした。そこでどうしたか。ロスチャイルドが保証したポンド債という国債を発行したのです。

 要するに莫大なお金を借りた。その償還期間が、だいたい70年から90年でとにかく長期でした。なぜなら、日本が勝利して借金を返せるまでにはそれくらいかかるだろうと思ったからです。

 そんな長期で貸してくれる人はいない。ドール・ロスチャイルドは、明治天皇を助けて、日清・日露を勝ち抜いて、朝鮮を併合して満州に出ていった。なぜなら、お金を返せないから出ていかなければならなかった。

 中国やフィリピン、インドネシアにある日本の金を取り戻しに行った。占領して、満州国をつくった」。

 

・「ドール・ロスチャイルドと呉一族の末裔が個人的に提供してくれた資金[ポケットマネー]によって日本の復興を手がけた。

 また、世界銀行からの復興資金は、連合国軍最高司令部[GHQ]を通して提供された。晴れて世界銀行から融資を受けられるようになったのは、1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約調印、日米安保条約調印を経て、1956年12月18日、国連に加盟してからであった」

 

・「戦後復興のとき、管理権委託譲渡資金を受けたのは、松下電器産業松下幸之助ソニー井深大、その後、トヨタ豊田章一郎、キャノンの御手洗毅、京セラの稲森和夫の各氏です。みんな大勢いるように思っているが、本償還というのは、そんなにたくさんはない」

 

・「世界連邦運動協会国際会議という国連の組織が大阪にありました。松下幸之助に1回目、2回目、3回目と管理権委託譲渡資金を出していました。この組織のメンバーは、ほとんどが松下電器産業松下幸之助の関係の人でした。松下電器役員の奥さんが事務を手伝っていた。この資金でPHP松下政経塾もつくったのです。

 奇しくも松下政経塾の第一期生である野田佳彦元首相が「空白の20年」という言葉を使ったが、それはまさにこのことです。厳密にいうと33年です。

 

財政法24条で日本国は赤字国債を発行することを禁じられています。それは、一般会計以外に特別会計という日本国にだけ与えられた特別な予算を有しているからです。

 

・「日本は破産もしないし、増税も必要ありません。一般会計と特別会計を一本化して毎年500兆円程度の予算を組めば赤字国債も減らせるし、増税なんか必要ありません。日本の官僚も勉強が足りないのではないですか

 

・「戦後の償還制度には、まず本償還というのがありました。これは、資本金500億円以上の一部上場企業の代表者個人に資金を提供するものです。

 もう1つ、2次償還といって、資本金500億円以下100億円以上の企業の代表者個人に対する資金がありました。そこに富士銀行がついていました」

 

・「資金のうちの20%は自由裁量、残りの80%は日本の基幹産業のために使わなければなりません。基幹産業は、基本的には製造業です」