日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

私が天狗を研究しているというのはむろん虚名である。ただ昔の人の生活を知るために、いろいろの方面から考えている間に、自然少しくそんな点にも心ついたのである。従って天狗に関し何らの結論をも持っておらぬ。(1)

 

 

柳田國男  ささやかなる昔』

柳田國男    平凡社     2019/2/15

 

 

 

伝説とその蒐集

・伝説を愛する心は自然を愛する心に等しい。春の野に行き藪に入って木の芽や草の花の名を問うような心地である。散っている伝説を比べてみようとする心持がその蒐集である。

 伝説は古い国土の自然に生い茂った椿や松や杉のようである。

 

人はよく伝説と昔話とを混同する。しかし学問はこの二つを区別する。伝説が植物なら昔話は小鳥に似ている。どこへでも「昔々ある所に……」という同じ姿で飛び歩いている。昔話には形式があるが、伝説は形もなく簡素で前も後もなく、ただ内容だけが伝わっている。

 

伝説研究に最も大切な事はその蒐集である。できるだけ多くを集める事である。伝説は同じ題材を採っても皆それぞれの小異があり、ほんのちょっとしたところで違う。この小異の比較が眼目であり、その累積の中から発祥地を見出すのが趣であるにかかわらず、世人は「そんな話ならあそこにもある。ここにもある」といって捨ててしまう。この意味で私の近著『日本伝説集』は新しい立脚点に立っている物と思う。一つだけでは解らない事だが同じ物をたくさん寄せてみるとだんだん解って来る物を集めてみたのである。

 伝説に対する世人の誤解の主因は、伝説は事実あった事だと考えている人が多い点である。事実なら二つあるはずがない。一つは必ず嘘である

 

・先般私が「白米城」の話を26集めた時同じような物がさらに7篇も各地が出て来た。これらを累積してゆく中にその大系を理解してゆく。だから伝説研究の仕事はほとんど蒐集につきる私はマッチのペーパーを集める心理でこれを集めている。

 「伝説半径」というものがある。ある伝説発祥地を中心として同一系統の伝説区域を限定できる半径である。文化地におけるその半径は長く田舎に行くほど短い。山一つ隔てて異った伝説がありしかも互いに知らないような事があるから面白い。

 

伝説蒐集家にとって最も大切な事はこの「伝説半径」の小さなうちに集める事である。日本は今その最適の事情にある。すなわち最近まで約三百年ほどの間我々日本人と伝説との関係はほとんど少しの変化も受けずに昔のままで続いていたのである。こうして古い伝承の続いている国はそう多くない。この点最も便宜な事情にあると言えるのである。

 

・昔話からもう一度伝説に戻って来た伝説がある。すなわち漂泊状態の小鳥から土着の樹木になって来たのである。「炭焼藤太」の話など恰好なこの例である。南は豊後から北は津軽にわたって整然としたプロットを持ち昔話として立派な形を具えて各地諸方の盆踊歌にまでなっている。このように普遍的な昔話を土地の者が自分のものにするのは日本のみで外国にはない事である。これは昔話をすぐ事実と信ずる信仰が自己吸収にまでなったのであろう。

 また日本人は外国から伝説を輸入する以前から伝説に対する信仰があった。西洋では一つの話はキリスト教の宣教師の口を経なければそれが伝説として信ぜられなかった。

「伝説を信仰する力」「伝説を土着させる傾向」は日本特有の現象である。芝居を観に行ってオイオイ泣く心持――あの浄瑠璃の「身につまされる」心地に似ている。

 

・つまりこれらの事情は日本伝説はその背後に或る話(形式)が行われていた事を理解せしめ証拠立てるものであり、私達の祖先が同じような宇宙観を持っていた事を立証する好個の材料である。

 私のいう伝説とは前述のごとく形もなく簡素極るもの、内容のみで、多くの俗人が事実として言い伝えている話の一群であって、従って伝説研究の最重要事はその蒐集であると考えるのである。

 

熊谷弥惣左衛門(くまがいやそうざえもん)の話

私の小さな野心は、これまでよほどの廻り路をしなければ、遊びに行くことのできなかった不思議の国――この古く大きくまた美しい我々の公園に、新たに一つの入口をつけてみたいということであります。吾々は彼処がまことによい安息所であることは昔から知っているけれども、そこへ踏み入るためには今日ではいろいろの手数があって煩わしい、型と名づくるもののたくさんを承認しなければなりませぬ。

 

しかし理屈をいうことは、不思議な話にははなはだ似つかわしくない。不思議はただ感ずべきものであります。だから私はここに型を破って、試みにできるだけ事実材料ばかりを叙べてみたいと思います。

 話は吾々が尊敬する泉鏡花氏の御郷里から始まります。加賀国は鏡花門徒の吾々にとって、また一個のエルサレムのごとき感があるが、この地方の旧いことを書いたものに、『三州奇談』という一書があって、すでに活版になっております。その中に金沢城外浅野山王権現境内のお稲荷さまのことが書いてあります。これは元前田家の家中の小幡宮内という屋敷にありましたのを、後にここへ移して今もって繁昌しているのであります。その起源をかいつまんで申すと、明暦年中のこと、前田候の家来に熊谷弥惣左衛門、本姓は渡辺という人があった。知行は三百石、弓の達人でありました。ある年の山科高雄(そんな処はない)の御狩の日に、この渡辺弥惣左衛門お供をして、孕める一匹の白狐を見つけ、あまりの不便さにわざと弓を射損じて、その命を助けてやりました。それゆえに殿の不興を蒙って弥惣左衛門、浪人となって隣国の越前に行って住みました。ところが前に助けてやった牝狐が恩返しに、彼を武州秩父に棲むところの夫の狐のところへ紹介し、それからだんだん手蔓を得て江戸に出て浅草辺に侘住居をしておると、白狐はこれに授くるに奇術をもってし、よくもろもろの病を治すことができた。仙台の殿様の御簾中、彼が名を聞いて召してその異病を加持させられたところ、即座に効を奏して禄五百石に取り立てられ、子孫を渡辺三右衛門というとあります。その渡辺氏がお礼のために、浅草観世音に境内に熊谷稲荷というのを建立したというのであります。金沢の方では右申す渡辺の旧友小幡正次なるもの、その話を聞いて、自分もその稲荷を祀って同様の利益にあずかろうというので、浅草観世音境内の稲荷を勧請して邸内に祀っていた。小幡宮はその正次の子孫でありましたが、狐を祀るというなどは馬鹿げていると、その稲荷の祠を取り潰したところ、さっそく祟を受けて小幡の家は断絶、それで本家小幡氏の領地浅野村の百姓たちが、その事あってから約五十年の後、宝永四年四月に、再び祀ったのがこの山王権現社のお稲荷さまだということになっております。

 まるっきり跡形のないことではない証拠には、確かに近い頃まで浅草観音の境内に熊谷稲荷がありました。

 

・私は今からもう十数年も前に、早川孝太郎君と協力して『おとら狐の話』という書物を世の中に出したことがあります。おとらは三州長篠の古城のほとりに棲んで、今でもあの附近の農村に非常な暴威を逞しゅうする老狐であります老狐が暴威を振うということはさもあるべしとしても、それにおとらなどという名のあるのは不思議ではなかろうか。私は物ずきな話でありますが、これを問題にして大いに苦労しました。しかし不思議には相違ないけれども、そういう例は諸国にいたって多いのであります。たとえば、三河の隣の尾張小牧山の吉五郎、山中藪の藤九郎、同じくその近所の御林のおうめにおりつなど、これがみな男女の狐であります。中でもことに有名なのは、大和の源九郎狐、これは『諸国里人談』にも出ておりまして、その女房は伊賀の小女郎という牝狐だといって、いろいろの優しい話がある。

 この源九郎狐は人に頼まれて、飛脚となって江戸とのあいだを始終往来しておったところ、ある年小夜の中山で犬に食われて死んだ。けれどもその持っていた状箱ばかりは完全に先方へ届いたともいうのであります。甲府にはかつて浪人の姿をして伊勢詣りをしたという庄の木の八右衛門という狐が稲荷に祀られ、信心者のたくさん詣って来る御社でありました。それから陸前松島の雄島の稲荷さま、これは新右衛門様と申して現在でも信心せられていることは、松島見物にお出でのお方は多数御承知であろう。非常に霊験のあらたかなお稲荷さまで、久しく江戸へ出て帰って来た、留学の狐でありました。私はすでに二三年前の朝日新聞に、記者として報告をしておいたことがあります。

 これはきっと何かの理由のあることと思いますが、それを論究しているとお約束に背く。まず今回は省略しておきますが、とにかくに祀ってもらうことのできるほどの狐ならば、名があり、時としては苗字があるのは、いわばあの頃の当然でありました。

 

・この通り、加賀と越前の熊谷弥惣左衛門稲荷は、ともに松島の新右衛門同様に江戸還りであります。ところがその浅草の熊谷稲荷の縁起も、現在あるものと古くからのものとは、よほど違っているのであります。第一には稲荷の名でありますが、『江戸総鹿子大全』という元禄年中の書には、明瞭に熊谷弥惣左衛門稲荷とありますのに、『江戸砂子』の方には熊谷安座衛門稲荷とあります。現在の多くの書物の安座衛門は、すべて『江戸砂子』によったものと思われます。

 そこで『江戸砂子』の話をまた簡単に申し上げると、年代は大分食い違っておりますが、越前の大守、ある年三日三夜の大巻狩を企てられたところ、その前夜に、御先手を勤める熊谷安左衛門のところへ、一匹の老狐がやって来ていうには、どうか今度の巻狩には、私どもの一族だけはぜひお宥しを願いたいと、これは狐にも似合わぬ利己主義な話でありますが、どうか私の一族だけは助けて下さいと頼みました。そこで安左衛門が、お前の一族だか、他の狐の一族だか、その区別がどうして人間にわかるかといったところが、私の一族は尾の尖がちょっと白いからわかります。どうか尾の尖の白い狐は許して下さいといって帰りました。そこでさっそく殿様に話し、殿様もまた人の好い方で、それでは助けてやろうということになって、翌日からの狩には、白い尻尾を立てて見せた狐だけは助けてもらうことができました。この安左衛門も後にやはり何かの理由で浪人をして、これも江戸に出て、白銀町に住んでおりました。

 

・我々がこの話の不思議さを了解するため、あるいはこの話の意味を知るために、まず問題にしなければならぬのは、朝倉義景の時代にあって、狐が夜分にやって来て護符を貸して下さいと言ったというような、そういう隠密の事件を全体誰がいつまでも記憶しておったかということであります。

 

・つまり誰がいちばんこの話を保存するに尽力したかというと、狐が人に憑いていうことを真に受けることのできた周囲の人々ということになるのであります。そういう人々の社会が、三百年前の奇なる史実を、かくしてとにかくに不朽にしてくれたという断定に帰するので、少しぐらいの食い違いはそうやかましくいうこともできないわけであります。

 

・これも金沢城下の浅野というところに、山屋藤兵衛という駕籠舁が、通し駕籠で客を送って江戸まで出て来た。その帰りに浅草橋場の総泉寺から、年とった坊さんを京都の大徳寺まで送り届けることになって、武州深谷の九兵衛という男を相棒として、再び通し駕籠で北国筋を帰って来た。そのときもやはり建長寺の狸のお使僧と同じように、所々の宿屋では書を書いて人に与える。その字が今日まで残っているのです。そうして泊りを重ねて加賀の宮の腰という宿場にかかって休んでいると、非常に強い犬が駕籠の中へ首を突っ込んで、その坊さんを引き出して咬み殺してしまった。びっくりして介抱すると、坊さんの正体は貉であったというのであります。そうしてその貉が金をたくさん持っている。しかし引き取るものがないので、二人の駕籠屋がこれを持って、橋場の総泉寺へ来て話をしたところが、

総泉寺でいうにはもう二百年も前から、あの老僧はわが寺に住んでいた。そうしてぜひ京都へ行きたいというので送り出したが、命数は免れがたく、いよいよ道途において終りを取るという夢の告げがすでにあった。その金はお前たちの方へ取っておけというので、たちまちこの二人が金持ちになった云々という奇談であります。

 

さらに今一つの不思議は、熊谷弥惣左衛門という名は、この熊谷の町ではまさに狐の名ということに明瞭に認められているのであります。この点に関しても、早くからの口碑があります。熊谷家の中興の祖で、みな様十分御承知の熊谷次郎丹治直実が、戦場に臨んで敵手強しと見る場合には、必ずいずこからともなく、一人の武士が現われて加勢をする。そして我こそは熊谷弥惣左衛門といって大いに働いて、戦が済むとたちまちいなくなってしまう。ある時次郎真実があまりに不思議だと思って御身はそも誰ぞと訊きますと、ちょうど『徒然草』に記されたる土大根の精霊の話のごとく、我は君の家を守護するところの稲荷である。これから後も火急の場合あらば、弥惣左衛門出合えと呼ばわりたまえ、必ず出でて御奉公申すべしと答えて消え失せたという話であります。

 

そこでたった一言だけ、私の結論を申し上げます。曰く、およそこの世の中に、「人」ほど不思議なものはないと。

 

天狗の話

私が天狗を研究しているというのはむろん虚名である。ただ昔の人の生活を知るために、いろいろの方面から考えている間に、自然少しくそんな点にも心ついたのである。従って天狗に関し何らの結論をも持っておらぬ。今の人は何でも普通の論理で物を討究しようとするが、おばけにロジックはないから、不利窟でも現れる。それを嬉しがる私が分らぬのか、当世人が話せないのか、何だか知らぬが、こんな話もあるということで聴いてもらいましょう。

 

ただし天狗道にも時代があれば、従って時代の変遷がある。中世の歴史を見ても、南都北嶺の僧侶たちが大多数京師人の子弟である世には、その行いや殊勝であったが、いったん武家が勢力を加えてその子弟を坊主にすれば、法師でも強くてあばれる。徳川時代に百姓の子が僧になればまたおとなしくなる。正法の対象であるところの魔道でも、これと同じ道理で、武家時代の天狗にもまた、武士的気風がある。元来天狗というものは武士道中の武人であります。中世以来の天狗はほとんと武士道の精髄を発揮している。少なくとも武士道中の要目は天狗道においてことごとく現れている。ことにその極端を具体して見せている。すなわち第一には清浄を愛する風である、第二には執着の強いことである。第三には復讐を好む風である、第四には任侠の気質である。

 

・しかしながらこれがため我々平地人にとって、いわゆる天狗道のいよいよ了解しにくくなったことはまた事実である。語を換えていわば百年の昔に比べて不可測の範囲はかえって昔より大いに拡張した。一時神道の学者は好い機会があってその一端を窺うことができたものだから、悦び勇んでその説明を試みたけれども、その効果は決して大なりとはいわれぬ、斯道が学者の取扱に適せぬ理由はいくらもあるが、第一に書いた物が少ない。多くの材料は空吹く風のごとく消えやすい口から口への話である。また幽冥に往来したという人の物語、これが史料としての価値はあまり高くない。神童寅吉すなわち高山平馬の話、または紀州のある学者の筆記した少年の談話の類は五つも七つもあるけれども、その間に何ら共通の点がなく、一つの世界の話とはいかにも受け取られぬ。

 

・これはほんの一例、その他無数の現象があるが、これにはとうていの門外漢は手を着けられぬのであるか、今のところではまずしかりと答えるのほかはあるまい。ただここに少しばかり、私のひとり心づいていることがある。

 

・中学校の歴史では日本の先住民は残らず北の方へ立ち退いたように書いてあるが、根拠のないことである。佐伯と土蜘と国巣と蝦夷と同じか別かは別問題として、これらの先住民の子孫は恋々としてなかなかこの島を見捨てはせぬ。奥羽六県は少なくも頼朝の時代までは立派な生蛮地であった。アイヌ語の地名は今でも半分以上である。

 

・しかし永い年月の間にはしばしば我々の祖先にも見られた。常陸風土記』にある海岸地方の巨人の跡の話、これは珍しくもないがただ巨人とあるが注意すべきである。この蛮民を諸国で皆大人といっている。出雲松江の大人塚は『雲陽志』に見えている。秋田地方は今でも大人というとは小田内君の話である。飛騨の山中に大人が住んでおって猟師がこれと交易をしたということを徂徠先生が書いている。怖いから大きく見えたのか、その足跡ははなはだ大きいという記事が『作陽志』にもある。しかし大人というよりも分りのよいためか、今日は山男・山女という方が通用する。また山童ともいう。冬は山童、夏は川童という説は誤りであろう。

 

・山童に行き逢ったという話はたしかなものだけで数十件ある。一つ一つの話はここには略しますが、すべて皆彼等は一言も話さぬといっている。共通の言語がない以上は当然である。

 

これらの話を綜合すれば、きわめて少数ながら到る処の山中に山男はいる。分布も広い上に往来も海上のほかは自由なのであろう。多くの日本人はこれをしも「おばけ」の列に加えて真価以上に恐れているのである。そこで自分の考えでは今日でも片田舎でよく聞く神隠しということは、少なくも一部分はこの先生の仕事にして天狗様の冤罪である。彼等も人なり、生殖の願いは強い内部の圧迫であろう。山中の孤独生涯に耐え兼ねて、黄昏に人里へ来たり美しい少年少女を提げて帰るのは、まったく炭焼が酒買いに来るのと同じである。恐ろしいというのはこちらのことで、異人種は別に気の毒だがとも思うまい。夕方になると田舎では子供の外に出ているのをひどく気遣う。地方によっては女はおとなでも夕方は外におらぬ。様坂を走ることの我々よりも達者なことは想像し得られるが、一度捕われた男女の還って来る者の少ないのは、いかなる威力であろうか。あるいは久しからずして皆死ぬからであろうか。

 

もっとも二年三年の内には隠された者が必ず一度は姿を見せると信じている所もある一昨々年(さきおととし)盛岡では近年の神隠しをいくつとなく聞いた。岩鷲山は高くはないが物深い山である。かの麓にはこの現実の畏怖が止む時もない。雫石の百姓の娘が嫁に行くとて炬火をつける間に飾馬の鞍の上から捕えられた。二年の後夜遅く隣村の酒屋へ酒を買いに来たのがその女であった。すぐに跡から出て見た者があったが影がなかった。

 私は珍世界の読者の助力でなおこの種類の話を蒐集したいと思う。旧民族の消息が明白になることは、まことに趣味ある問題といわねばならぬ。

 

 

 

『虎山に入る』

中沢新一   角川書店  2017/10/27

 

 

 

「内側から」描かれる歴史—―柳田國男海上の道』

・九学会連合大会(1952年)で話された柳田國男の「海上の道」という講演は、その場にいた多くの研究者に衝撃を与えたばかりでなく、その後活字になってからは、一般の人々にも少なからぬ影響を及ぼし、ここから日本人の起源をめぐる探究が、新しい段階に入ることになったことはまちがいない柳田國男の残した多くの学問的仮説の中でも、この講演で提示されたものほど射程が大きく、たくさんの領域を巻き込んで、後世に実り豊かな成果をもたらしたものも少ない。このとき柳田77歳、おそるべき気迫である。

 この講演で柳田國男は、稲作民族としての日本人の南方起源説を提出した。稲作の技術をもった中国江南地方の人々が、宝貝という貴重品を求めた海上に乗り出し、島伝いについに日本列島にたどり着いた、という壮大な仮説である。

 

・それにもまして興味深いことは、その頃兵士としてかの地に赴いた日本人のふつうの庶民の証言類や文学者の書き残したものや流行歌(ここには戦後まもなくはじまった水木しげるの漫画表現なども含まれる)などを調べ直してみると、そこに「原郷としての南方」という幻想が、当時の日本人の無意識の中に強くいだかれていたことが感じられるのである。南方への軍事的進出はむろん政治経済の次元に属している問題だけれど、その行動の奥に、日本人の原郷としての南方という幻想が潜んでいたことを否定するのはむずかしい。

 

かわって読書界で流行したのが「騎馬民族説」である民俗学者江上波夫らによって主張されたこの学説は、日本列島の先住民が騎馬の軍団とすぐれた鉄の武器を携えた北方からの移住者によって征服されることによって、日本という国ができたことを主張した。騎馬軍団の遺構や征服戦の跡が発見されていないことなど、老古学的にはきわめて薄弱な根拠しかもたない説であるにもかかわらず、この説がいっとき一世を風靡したのには、戦後アメリカの占領下にあった日本人の自虐的心情が映し出されている。

 

そういう時期に、柳田國男のこの講演はなされたのである。柳田國男は人々の目をふたたび南方に向けて開こうとした。稲作の技術を携えて日本人の列島にやってきたのは、いったいどのような人々であったのか、彼らが稲作りの技術といっしょに運んできた宗教や習俗はどんなものだったか、こうした問題の解決を、柳田國男は南方から島伝いに列島に渡ってきた人々のうちにみいだそうとした。それほどの航海に乗り出していった人々は、航海技術に巧みな「海民」でなければならないはずである。彼らは稲作の技術も持っていて、農民の先祖となった人々でもある。海民にして農民—―それが日本人の原初の姿であると、ここでは考えられている。

 

・そのさい柳田國男は世間でよく言われているような、朝鮮半島からの移住者が、最初に稲作の技術をもたらしたという説をとっていない。九州北部の弥生系の人々の遺構が、朝鮮半島南部の稲作文化との多くの共通点をしめしているにかかわらず、それよりさらに以前におこったはずの出来事に、柳田は照準を定めている。柳田國男は、日本列島における稲作が、稲作技術そのものの発祥の地である、揚子江下流域から直接にもたらされたと考えたのである。

 当時としてはとても大胆なこの考えは、現代の考古学の知見に照らしてみても、多くの真実を含んでいる。

 

ムスビの神による人類教

・それはマレビトが境界に関わる神だからである。海人は海の彼方を見つめながら、そこに魂の原郷を見ていた。人はそこからやってきて、そこへ帰っていく。だからそこは、これまでこの世にあらわれたすべての先祖がいる場所であるし、これから生まれてくるすべての生命の萌芽が集まっている場所でもある。日本列島にたどりついた海人が、内陸部に入って住むようになると、その魂は山の奥に考えられるようにもなった。

 しかし、その場所は現実の空間の中では、どこそこに「ある」とも「ない」とも言えない。現実の空間にとっては「ない」も同然だが、その原郷がなければ現実の世界もなくなってしまうような場所である。そこで人が唯一できることと言えば、目に見えない境界を越えて、これらの世界に渡ってくることによって、原郷の息吹を伝えてくれるマレビトのような存在を考え、考えるだけでなく表現までしてみようとすることである。

 

マレビトはこの世ともあの世とも言えない境界上の存在である。いやマレビトが境界そのものの表現になっている

・こうして日本の神社体系に属する神々が、純粋に霊的な存在(こうした神々は名前しか持っていない)であるのにたいして、マレビトの概念を表現する神々は、植物装置で全身を覆ったり、おそろしげな仮面を着装して登場してくることになる。そうして出現したマレビトは、人々の前で舞い、踊り、身体から音楽を出す。マレビトは境界性そのものの表現として、物質性と抽象性と具体性、絶対の沈黙と音楽性といった、さまざまなレベルの異なるふたつのものをあわせ、まじりあわせている。その意味では、マレビト神自身がうず潮なのである。

 

しかし、日本人の神の概念には、マレビトの概念では説明しきれないものがある折口信夫の発展させていったマレビト論にたいして、柳田國男が深い違和感を抱いていたことは、よく知られている。2人の日本人の神についての考え方の違いは、戦後まもなくしてあらわになった。

 

 その頃、文化人類学者の石田英一郎が司会者になって、柳田國男折口信夫を招いて雑誌のために対談をしてもらった。そのとき日本人の神の観念などという重大な問題について、2人のあまりにも違うイメージを抱いていたことがあらわとなって、多くの読者を驚かせたのである。それについて国文学者の益田勝実はこういう風に書いた。

 日本の神の祖型を、<祖霊>とみる柳田國男と、<来訪するまれびと(ストレンジャー)>とみる折口信夫—―あの深く尊敬し、いとおしみ合った師弟は、晩年になって、おたがいの神についてイメージをぶつけ合ってみて、その根深い違いに驚いたのだった。片や死霊に、片や生身の人間にと、2人の巨匠の神の祖型の見つけ方の違いもさることながら、同時に、この2人の民族学的方法が、思わず知れず飛び越えてしまったものについても、わたしは考えこまざるをえない。

 

・じっさいこの対談で、柳田國男は死霊とも言うことのできる祖霊の中に、神の祖型を見出しているのにたいして、折口信夫のほうは遠くから寄り来るストレンジャーのイメージの中に、神の祖型があると主張して、おたがいが譲らなかった。しかしよく考えてみると、マレビトも祖霊であり死霊なのである(このことは南島におけるこの神の出現のじっさいに立ち会ってみるとじつによくわかる)。ただその祖霊=死霊が活動する空間の構造が、2人の間では違っている。

 

だからマレビトの中には、死霊と生身の人間がぶつかりあって、まじりあっている。ところが柳田國男の考える神の祖型においては、なまなましい死霊がしだいに清らかな祖霊に浄化されていくという思考の運動のほうが前面に出てくる。山裾に埋葬された死者の霊は、はじめのうちは死霊として山に留まっているが、子孫たちに大事にされているうちに、しだいに静かで清らかな霊に浄化され、村の背後の山の上から子孫の暮らしを見守る神へと変化をとげていく。そのような祖霊の考え方を祖霊として、しだいに神道の神の考えは育っていった、と柳田國男は考える。

 

・私は柳田國男折口信夫が取り出してみせた2つの神の考え方のどちらが、ほんとうの日本人の神の祖型であるか、などという考えはとらない。2人がそれぞれに取り出してみせた2つの祖型が「あわさり、まじりあって」、日本人の神はかたちづくられてきた、と私は考えている。その意味では、2つの祖型ははじめから相補的であり、古代や民俗の世界では、この2つが一体となってシステムをつくり、それが複雑な信仰のかたちに展開していた。

 ところが近代になって、国家に結びついた神道というものがつくられると、境界性の側面がひっこめられて、しだいに均質性の原理に単一化された空間の側面ばかりが、前面にあらわれてくるようになった。

 

このことは、とくに南東の神々のことを調べてみると、はっきり見えてくる。そこでは重要な神々はいずれも祖霊となんらかの関係を持っている。村の中には御嶽と呼ばれる聖地があって、女性の祭祀者がお祀りをおこなっている。御嶽の神さまは村を創設した先祖の霊と深い関係を持っていて、場所によっては御嶽自体がそういう先祖の御殿だという考えも保たれている。先祖霊でもある御嶽の神は、森厳な不入の森の中にいて、村の生活を守ってくれているのである。

 

ところがマレビトの出現の日が近づくと、すべてががらっと様相を変えるのである。それまでは御嶽の神と女性祭祀者を中心にして動いていた村の暮らしが、ドラスティックな変化を起こす。共同体の機能が停止して、全体の組織の組み替えがおこなわれる。マレビトを迎えるにふさわしい特別な構造への、生活全体の組み替えがおこなわれるのである。マレビト用の新しい組織は、本土で発達した「講」や「座」に対応するもので、共同体の構造原理とは異なるより自由で平等主義的な「組合」の組織へと、自己変容をとげていく。

 こうしてできあがったマレビト組合が厳かに待つ場所に、森の中から仮面の神が出現してくるのであるマレビトは魂の故郷であるニライカナイから、境界を踏み越えて、こちらの世界にあらわれる。マレビトの身体には物質性があり、その体でもって踊り、走り、予祝の呪言を語ってから、ふたたび境界の向こうに去っていく。マレビトはあらゆる意味で境界的である。

 この神さまの中には、物質性と霊性、身体と名前、「ある」と「ない」、不浄と清浄、パロール(女性祭祀者がおこなう神への呼びかけ)とエクリチュール(杖で打つ、泥を塗るなどして、身体への刻み付けをおこなう)のような、さまざまなレベルでの異なるもののまじりあいがおこっている。その境界的な神を、同じように自分を境界的な形に変容させた人間の側のマレビト組合が、迎え入れ歓待するのである。

 

 

 

『熊を夢見る』

中沢新一   角川書店  2017/10/27

 

 

 

小さな、過激な本—―柳田國男遠野物語

・大学生の頃、私は南九州の甑島(こしきじま)で、民俗学のフィールドワークをおこなっていたことがあるが、その時、リュックサックの中にはいつも、この『遠野物語』の文庫本を、突っ込んで歩いていた。

 理由は2つあった。1つは気分の問題に関わっていた。その頃の私にとって民俗学は、地球上から永久に消え去ろうとしている一つの文明の、最後の目撃者になるという、今考えるとちょっと気恥ずかしい、ヒロイズムを満足させてくれる学問として、意味をもっていた。

 

・そういう私にとって、「この書を外国に在る人々に呈す」という、じつに過激なエピグラフを冠したこの本は、ほとんどバイブルみたいな意味をもっていた。遠野物語を書いた頃の若い柳田國男にとっては、自分のまわりにいる知識人たちの多くが、まるで「外国にある」人たちのように見えていたのだろう。日本人なのに、この列島で長い時間をかけて醸成されてきた、深々とした伝統の暮らしや物の考え方に、目をむけることがなく、いたずらに西欧の文明を促成栽培しようとしていた、当時のエリートたちに反発をいだいていた彼は、『遠野物語』という時代の流れに逆行するような不思議な本を出版することで、自分の独立精神を表明したかったのだ。私は、そういう柳田國男のほとんど反時代的な独立精神にあやかりたい一心で、いつもこの本を持ち歩いていた。

 

柳田國男がこの本を出版した当時は、彼がそこに描いている世界は、まだ生々しい呼吸を続けていた。近代日本は、それを残酷に否定しながら、前進しようとしていた。だから『遠野物語』の出版という行為は、激しくまた生々しい批判の意味をもつことができたのである。つまり、『遠野物語』に描かれている世界は、まだ前進しつつある近代との、激しい最後のたたかいに、敗北しつつあったのだ。

 

・『遠野物語』の出版は、彼にとって、生々しいたたかいとしての意味を、持っていた。民俗学を勉強していた時、私はこの学問に、若い柳田が直面していたような、緊迫した感覚を保ちつづけていたい、と感じていた。遠野物語』は、そういう私にとっては、緊迫した状況の臨場感を再現する、すぐれたルポルタージュ文学であり、たたかいへの意志をエレガントな形で表明する、みごとなマニフェスト文学として、大きな意味をもっていた。

 

・もう一つの理由というのは、『遠野物語』がはっきりと、言葉と大地のつながりを語っていることに、関係している。この本に集められた話のほとんどすべては、具体的な土地に結びつけられて語られている。山男が現れたのは、六角牛山のどこの地点であるのか、座敷童子がいる家は、どこの村の誰の家なのか、神隠しにあった子供が消えてしまったのは、どの村のどの土蔵の陰なのか、どの話もそれをはっきりと確定しようとしている。

 

・じっさい、村でフィールドワークをしていると、そのことが明確にわかってきた。村の人々は、たくさんの物語を伝承していた。しかしそこには、ポータブルなものとして、よそから運び込まれた物語と、具体的な土地に内属している物語との、明瞭な違いが存在している。人々はポータブルな物語は、エンターテインメントとして楽しむが、土地に所属している物語は、自分たちの歴史感覚を表現するものとして真剣に語ろうとしている。抽象化されない、生きられた時間が、そこには息づいているのだ。

 私は『遠野物語』を、村の人々のいだいていた、そういう歴史感覚を表明する物語として、読んできた。いままでの歴史学は、柳田國男がこの本をとおして強調しようとした、そういう歴史感覚に触れてこなかった。自分の国の歴史を語りながら、そういう学者たちは、やっぱり「外国に在る」ままなのだ。柳田國男は、この小さな本をとおして、そういう歴史学を転倒しようとしたのである。その意味でも、この本は、じつに過激な書物なのだ。

 

ダンテのトポロジー

ダンテは西暦1300年の4月8日夕刻から翌9日の日没直後までの、ほぼ一昼夜をかけて地獄への旅を体験している。そこから煉獄、天国への旅が途中とぎれることなく連続しておこなわれていることから推定すると、神曲』という作品のもとになった驚異の体験は、地獄下降のその日から数えておよそ2日か3日の間に起こったと考えることができるこれはシベリアのシャーマンが成巫のためのイニシエーションにおいて真正のトランスに入り、再び意識を取り戻すまでに要する時間にほぼ等しい。

 

・この地獄の構造を下方に向かえば向かうほど、そこで苦しんでいる人々の魂と身体は、物質性の重みに引きずられ押しひしがれている。身動きもままならず、あらゆる運動性が滞っていく。漏斗状の構造の最深部において、ダンテたちは傲慢の大悪魔(元大天使)ルシフェルの姿を見る。逆さになったルシフェルは氷漬けされていて、わずかに口や翼を動かすことしかできないそのルシフェルの毛脛に取りすがって足へとよじ上って、脇を通り抜けるとき、ダンテたちはつぎのような奇妙な動きをとることによって、地獄から抜け出ていく。

 

そのルチフェロのふとった腰の骨のあたり、正しくは腿のつけ根へ

わたしたちがたどり着いたとき、

師はやっとの思いで、苦しそうに

引っくりかえって、頭を足の方へさかさまにつけて、

毛にしがみついて昇るようなので、

わたしはまた地獄へ逆もどりするのかと思った。

と、師は疲れ果てた人のように、あえぎあえぎいった。

「しっかり摑まって。こんな梯子でもなければ、いっさいの悪から逃げだせないのだから」

 

ボッティチェリの描く『神曲』挿絵では、アニメーションを思わせる連続画法によって、大悪魔の脛毛をつかみながら空中を回転しているダンテとウェルギリウスの姿が描かれている。その絵を見るとどうやら、重力の中心部でもある地獄の最深部で空間そのものがくるりと裏返しになり、そこから一瞬にして地獄を完全に抜けて煉獄が出現する仕組みになっているらしいことはわかるのだが、ダンテの描写だけでは、そこがどういう空間の構造になっているのかを想像することはなかなか難しい。

 

・ダンテは自分の体験したヴィジョンを、ユークリッド幾何学の枠組みを使って表現しようとしているために、じっさいに地獄の最深部がたちまちにして煉獄山の麓につながるという構造を、うまく表現できないでいる。しかしこれを現代幾何学の知識に属しているクラインの壺の構造を利用してみると、裏が表に反転する地獄から煉獄への道行きは、もっとうまく表現できるようになる。氷漬けのルシファーがいる地獄の最深部で、表が裏に、外が内に反転を起こしているのである。

 地獄の住人の心は、外に現出している幻影を客観的な現実と取り違え、それに執着をおこすことによって大きな罪をなした。この罪を浄化するために煉獄山にとりかかった者たちは、心を外的現実にではなく、自分の内面へと反転させていかなければならない。

 

ゆえに、ダンテの前にも後にも、天国をここまで完璧に描出しえた詩人も作家も、1人としていないのである。

 それをダンテは実現したのである。天国での上昇のプロセスに合わせて、ダンテを包む空間の構造とそこを棲家とする天使たちの種類や運動形態が、つぎつぎと変化していく。天使のそれぞれにわりふられた叡智的知性の性質にしたがって、空間の構造そのものが変容していくのである。

 

ここに描かれている天国は、私たちの世界の外の、どこか超越的な異世界にあるのではない。天使は私たちの心の内面空間にある。(それどころか、地獄も煉獄もじつは私たちの心の内面空間にある)。まばゆい光をたえまなく放出し、人間の意識などがとうてい及ばない高速度で天使的存在が運動している空間とは、私たちの心の内奥に潜む内面空間そのものにほかならない。

 

・『神曲』は中世までに蓄積された人類の叡智と知識の一大集積体である。ダンテの時代までに蓄積された叡智と知識を一つの構造体にまで構築しえた。それは奇跡のような知と信仰の超構造である。しかし『神曲』をつくりあげようとする知的作業のおおもとになっているのは、ダンテがじっさいに体験した魂の巡歴の旅であり、心の内面空間で敢行されたその旅においてダンテ自身が「見た」世界は、諸知識が構成する超構造を越えている。