日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

宮城県石巻市で、複数のタクシードライバーが幽霊に遭遇したという事例は、調査者が社会学を学ぶ大学生だということでも話題になった。(1)

 

 

『死者の民主主義』

人ならざるものたちの声を聴け。私たちは「見えない世界」とどのようにつながってきたのか。

畑中章宏  トランスビュー  2019/7/20

 

 

 

人ならざるものたちの声を聴け

われわれの行為は、ことごとく、われわれの内部にある死者の行為なのではあるまいか。>

いまこの国には「死者のための民主主義」が必要である

「死者を会議に招かねばならない」

そこで筆者が思い浮かべるのは、20世紀の初めのほぼ同じ時期に、イギリスの作家と日本の民俗学者が主張した、「死者のための民主主義」というべき思想である。イギリスの作家とは、探偵小説『ブラウン神父』シリーズで知られ、批評家、詩人、随筆家としても名声を博したギルバート・キース・チェスタトン(1874~1936)である。日本の民俗学者とは、農商務省の官僚から民間伝承研究者に転じ、『遠野物語』『一目小僧その他』『先祖の話』などの著作をものにした柳田国男(1875~1962)である。

 

チェスタトンはその主著とされる『正統とは何か』(1908年)で、民主主義が伝統と対立するという考えがどうしても理解できないと述べる。その伝統とは、「民主主義を時間の軸にそって昔に押し広げたものにほかなら」ず、孤立した記録や偶然に選ばれた記録よりも、過去の平凡な人間共通の輿論を信用するもののはずであるという。伝統とは、言ってみれば「あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ」。

 

チェスタトンがいう「死者の民主主義」が、かなり過激な思想であることは、次のような主張からもみてとれる。「今の人間」が投票権を独占することは、たまたまいま生きて動いているというだけのことで、生者の傲慢な寡頭政治以外のなにものでもないというのだ。「いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならない」とチェスタトンは訴える。

われわれは死者を会議に招かねばならない」というこのイギリス人の考えは、愚にもつかない妄想や、神秘主義の類だとして、現在の私たちが一蹴してもよいものだろうか。

 

祖霊の政治参加を促す

柳田国男は、東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、農商務省農務局農政課に勤務し、官僚として全国の農山村を歩きまわるとともに、いくつかの大学で農政にかんする講義を受けもった。1902年から翌年にかけて、中央大学では「農業政策学」講義をおこない、そこでは次のような国家観を語っている。

 国家の政策をある側の注文に合わせ、一方の注文に背く場合が少なからずある。こうした場合に、多数者の利益になることが国の利益だと考えてよいというものがいるけれど、それがはたして、国民の多数の希望に合うかどうかを知ることは難しい。また、少数者の利益を無視するいわれもない。

 

・「国家は、現在生活する国民のみを以て構成すとはいいがたし。死し去りたる我々の祖先も国民なり。その希望も容れざるべからず。また国家は永遠のものなれば、将来生まれ出ずべき、我々の子孫も国民なり。その利益も保護せざるべからず」

 

柳田国男民俗学者になる以前に、「今の人間」だけが社会を構成し、社会の参加者として意見するだけではなく、死者の希望や、これから生まれてくる人間の利益を考慮すべきだと語っていたのである

 この講義から8年後、チェスタトンの『正統とは何か』刊行から2年後の1910年に刊行された『時代ト農政』にも、死者の政治参加にかんする記述がある。

 国民の2分の1プラス1人の説は多数の説だけれども、私たちは他の2分の1マイナス1人の利益を顧みないわけにはいかない。しかも、万人が同じ希望をもってはいても、国家の生命は永遠であるから、まだ生まれてきていないものたちの利益も考慮しなければならない。

 

・「いわんや我々はすでに、土に帰したる数千億万の同胞を持っておりまして、その精霊もまた、国運発展の事業の上に、無限の利害の感を抱いているのであります」。

 ここで柳田がいう「精霊」は、「祖霊」と言いかえてもよいだろう。それにしても、死者たちの霊が国の行く末にたいして利害の感覚を抱いているという柳田の考えは、チェスタトンに劣らず過激なものである。

 

妖怪や精霊にも選挙権を

・『21世紀の民俗学』(2017年)で私は、日本列島に棲息してきた「妖怪」たちは、災害や戦争などにより不慮の死を遂げた人びとの集合霊であり、彼らにも選挙権を与えるべきだと主張した。現実的には、河童やザシキワラシに投票所に足を運んでもらうことはもちろん困難である。ただし、集合霊たる妖怪が、どのような公約を掲げる候補者なら納得するかを想像してみることは、決して現実離れしたことではないだろう。さらに言えば、精霊や妖怪、小さな神々を素朴に信じる人びと、信じてきた人びとこそが民主主義の担い手であると私は考えるのだ。

 

「死者の立憲主義

・たとえば「立憲主義」は、過去のさまざまな失敗を繰り返さないよう、そこで得られた経験知や教訓をルール化し、憲法によって国家権力を制約するものである。この立憲主義が対象とする「国民」は現在の国民だけではなく、死者たちも含まれる。過去に蓄積してきた苦難の歴史の産物が憲法であり、死者の経験の総体が、現在の権力を縛っていると中島は言うのだった。

 

南方熊楠の戦い

・ここで改めて強調しておきたいことがある。それは日本の民俗学が、近代化のなかで蔑ろにされようとしているものたちに目を向けさせるための、戦いでもあったということだ柳田国男民俗学はなによりも、山人や妖怪、あるいは神社神道から漏れおちた小さな神々に光をあてようとするものだった。こうした観点からは、南方熊楠の神社合祀反対運動も強調すべき民俗学の戦いだったのである。

 

・熊楠は地元の『牟婁(むろ)新報』をはじめ、大阪や東京の新聞社にも反対意見の原稿を送り、また中央の学者に応援を求めた。また植物学者で東京大学教授の松村仁三に、神社合祀を批判する手紙を送った。この手紙を、当時内閣法制局参事官だった柳田が印刷し、『南方二書』と題して関係者に配布し、熊楠の運動を助けたのである。

 

「平凡人は人生を内側から見ている」

チェスタトンによると、民主主義の信条は「結婚」「子どもの養育」「国家の法律」といった最も重要な物事を、平凡人自身に任せることだという。そのうえでこのイギリス人は、「伝説」のほうが「歴史書」より尊敬されねばならないと述べる。なぜならそれは、「伝説」は村の正気の大衆によって作られるのにたいし、「書物」は村のたった一人の狂人が書くものだからというのである。自身の信条としても、「日々の仕事に精を出す大衆を信じることであり、たまたま末席を汚している文書という特殊社会の、気むずかしい先生がたを信じる気にはどうもなれない」というのだ。

 非凡人の明晰明快な論証より、平凡人の空想や偏見のほうがより好ましく、「平凡人は人生を内側から見ているからだ」というチェスタトンの辛辣な言葉から、現在の知識人が政治に果たしている役割のおぼつかなさを、私は想起するのだった。

 

「私は死んだのですか?」

大震災をめぐる「幽霊」と「妖怪」

私たちは数多くの「死霊」と出会ってきた

・これから私は「幽霊」の話をするつもりである。震災後に出会ってきたおびただしい数の死者の霊についてだ。残念ながらしかし、私が「幽霊」をこの目で見たり、会話を交わしたという話ではない。

 亡くなった近親者や仲間の霊に被災者が出会った、あるいは身も知らぬものの霊と被災地を訪ねた人がコミュニケーションしたなどという「霊体験」を記録した出版物が刊行されつづけている。そうした読書をとおして、私も数多くの霊と出会ってきたというのである。被災地における霊体験の記録者は、宗教家、宗教学者社会学者、ノンフィクション作家、フリージャーナリスト、新聞・通信社の記者と幅広い。にもかかわらず、出版が相次ぐのは読者の需要があるからだろう。

 

さまざまな霊魂譚

宮城県石巻市で、複数のタクシードライバーが幽霊に遭遇したという事例は、調査者が社会学を学ぶ大学生だということでも話題になった。

 石巻駅で乗せた30代の女性は、初夏にもかかわらず、ファーのついたコートを着ていた。目的地をたずねると、大津波で更地になった集落だった。「コートは暑くないか?」と聞くと「私は死んだのですか」と答えるので、ミラーを見ると後部座席にはだれも坐っていなかった。

 

あの世からの伝言

・『龍の子太郎』や『ふたりのイーダ』などの童話を書いたことでも知られる民話採集者の松谷みよ子は、『あの世からのことづて――私の遠野物語』に、現代の幽霊譚や怪異譚を数多く収録している。

 

・こうした霊体験は決して珍しいことではない。親しい人が突然この世からいなくなったとき、人びとは霊と再会し、死んだものもまたこの世に現れるのだ。霊との遭遇は身近な人にだけ起こるともかぎらない。大震災の被災地を離れても、交通事故現場に立つ幽霊を見ることは不自然なことではないし、死んだはずのものがタクシーに手を上げ、ドライバーが乗せてしまうこともあるだろう。個別的な霊体験はこの瞬間にも各地で起こっている。不謹慎に聞こえるかもしれないけれど、東日本大震災では、その数が圧倒的に多かったという違いだけなのだ。

 

新たな妖怪伝承は生まれるのか

・被災地における霊魂譚のなかには、個人の霊と遭遇したというのとは違う、特殊な体験も記録されている。体験者である男性は津波被災地の近くに住み、震災から10日ほど経ってから現場を訪ね、死霊にとり憑かれてしまったようなのである。

 男性はアイスクリームを食べながら、クルマに「災害援助」という嘘の貼り紙をし、被災地を歩いた。そうするとその夜にうなされて、家族に向かい「死ね、死ね、みんな死んで消えてしまえ」、「みんな死んだんだよ。だから死ね!」と叫び、何日も暴れまわった。男性の苦悩を聞いた宗教家は、死者にたいする畏敬の念をもたず、興味本位で被災地を訪ねたためだろうと彼に告げた。

 

妖怪と公共

柳田国男の妖怪体験

遠野物語』(1910年)を世に出す前から、柳田国男にとって妖怪が「目前の出来事」であり、「現在の事実」であったのはよく知られるところである。

 

柳田は『遠野物語』を嚆矢に、河童にまつわる伝承を次々と蒐集していった。その目的は、「この話などは類型全国に充満せり。いやしくも川童のおるという国には必ずこの話あり。何のゆえにか」という疑問を、自分で考えるだけではなく、後進にもその手がかりを与えるためだった。しかし、その発端となった『遠野物語』収録の五篇の「川童」譚は、たいそう気味の悪いものである河童と人間のあいだにできた子どもは手に水掻きがあり、また別の子どもは「身内真赤にして口大きく、まことにいやな子」だった。

 一つ目小僧については1934年に『一目小僧その他』を公刊して、年末の課題の解決を試みた。一つ目小僧は多くの「おばけ」と同様に、「本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である」。実際に見た人が少なくなり、文字どおり目を一つ目に絵に描くようになってしまったが、ほんらいは片方の目を潰された神だった。

 

さまよう妖怪

柳田は『妖怪談義』(1956年)で、妖怪は「零落した神」であると定義した。

 

・柳田はまた、「盆過ぎメドチ談」で、「ばけ物」にたいする人の態度で三段階を示し、その思想の進化過程を論じている。第一段階は、ばけ物の出現を恐れ、敬して遠ざける。第二段階は、ばけ物の存在を疑うが、内心では気味悪く思う。第三段階にいたると、ほとんどの人がばけ物を信じることがなく、人の知力でばけ物の正体をあばいて退散させるようになる。

 

妖怪の発展と発見

・共同体が伝承してきた妖怪にたいし、夢枕に立つ幽霊は、その経験を他人に話さなければ、あくまでも個人に属する。しかし複数の人に経験が共有されたり、あるいは幽霊が辻に立つようになると共同性を帯びる。こうしたことが繰りかえされて『伝説』になっていく。遠野物語』の第99話は、2011年の大津波以降、明治三陸津波をめぐる怪異譚としてよく知られるようになった。この話も、ある特定の個人が経験した怪異現象だが、その経験に共鳴する人びとが少なからずいたのである。

 

・霧のしきたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近寄るを見れば、女は正しく亡くなりしわが妻なり。思わずその跡をつけて、はるばると船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。男はと見れば、これも同じ里の者にて海嘯(かいしょう・(注)潮津波)の難に死せし者なり。

 

 二人を追いかけた男は、自分が見たのは死者だと気づき、夜明けまで道中で考え、朝になって帰った。そして「その後久しく煩いたりといえり」。

 

・東北の大学生が幽霊をと思しきものを車に乗せたというタクシー運転手の証言を集めて話題になった。運転手が幽霊を恐れず、丁重に遇したことがこの霊魂譚を美談にし、腑に落ちる話にしてしまった。そもそもタクシーの運転手が幽霊を乗せて走るのは、決して珍しいことではないのだが。

 

・民話研究家・民話採集者の松谷みよ子は『現代民話考』で、現在の事実としての怪異譚を数多く集めた。そのなかには河童や天狗にまつわる話のほか、死者と遭遇した話がいくつも収められ、なかには運転手が体験したものもある。

 ある雨の降る夜、トラックの運転手が山形県宮城県の境の峠にさしかかると、子連れの女が傘もささずに立ちすくんでいた。運転手は車を止め、「仙台までだが、よかったら乗んな」と声をかけた。作並温泉まで来て「仙台はもう少しだぜ」と言って、後ろを見たがだれもいない。女の座っていたあとは、ぐっしょり濡れていた。ほかにも多くの運転手がここで同じような経験をしている。この峠では数年前に、仙台のある一家が車ごと谷に転落し、全員が死亡した事故があった。そこで彼らの霊にちがいないと、供養塔を建てて弔うことにした。塔を建ててから、幽霊は出てこなくなったという。

 

日本の祭はどこにあるのか

祭は更新される

青森県三戸郡新郷村には「キリストの墓」と呼ばれる場所があり、毎年6月の第1日曜日にはキリストの里公園で「キリスト祭」がおこなわれる。1964年(昭和39)から開催されているこの祭では、獅子舞と盆踊りが奉納される。

 キリスト祭の盆踊りで踊られる「ナニャドラヤ」は、青森県南部から岩手県北部にかけてと秋田県鹿角地方の旧南部藩領内に伝わり、柳田国男の紀行文「清光館哀史」「浜の月夜」でも取りあげられている。柳田は、岩手県九戸郡の小山内(おこない)(現在の洋野町小子内)の浜辺で耳にした盆踊りの歌詞を、「なにヤとやーれ なにヤとなされのう」と書きとめ、「何なるともせよかし、どうなりとなさるがよい」と、女性が男性に向かって呼びかける意味だと推測した。また岩手県一戸町出身の神学博士川守田英二は「キリストの墓」の伝説にからめて、ナニャドヤラの歌詞は、ヘブライ語で民族の進軍歌を意味すると主張した。

 

ITと怪異現象

21世紀の妖怪を探して

・妖怪の歴史を、人間社会の時代区分にあてはめて論じることはできないものの、妖怪たちのほとんどの種族は近代以前に誕生していた。彼らが民族のなかを生き延び、「目前の出来事」「現在の事実」として人びとの前に姿を現したのが、1910年(明治43)に刊行された柳田国男の『遠野物語』にほかならない。ここに出てくる河童や天狗やザシキワラシの行状は、20世紀初めにおける彼らのふるまいだった。

 

噂を広める、情報系妖怪「件」

・そんななかで19世紀前半に生まれ、20世紀半ばまで活動した妖怪に「件(くだん)」がいる。件は文字どおり半人半牛の姿で、流行病や農作物の豊凶、災害や戦争を予言することが特徴だとされている。幕末には、「今年から大豊作になるが、秋以降には悪疫が流行する」と予言し、件を描いた護符がもてはやされた。また19世紀末には、「日本はロシアと戦争をする」と予言したこともあったといわれる。

 

目に見えない凶暴な感情が広まり、共有されていく

・21世紀に入ってから、新しい妖怪が生まれたという噂を聞かない。そのいっぽうで幽霊の目撃情報は、東日本大震災の被災地では少なくなかった。それでも幽霊がこれまでとは異なる立ち居ふるまいをしたわけではなく、生前に親しかった人の夢枕や、街の辻に立つという行状には変化がない。

 

人と人をつなぐ、目に見えない綱「キズナ

・私などはキズナアイという名前から、信州をはじめとする東日本に伝承される「飯綱」を思いおこす。「管狐」とも呼ばれるこの妖獣は、竹筒のなかに入ってしまうほどの大きさだといわれる。飯綱使いはイズナを使って占いをしたり、依頼に応えてイズナを飛ばし、人に憑いたり、病気にしたりすると信じられている。

 

江戸時代から続く「日本人のVR羨望」

ツイッターから話題になった江戸の奇談

・江戸時代後期に書かれた『仙境異聞』(1822年・文政五年)という本が話題になっている。しかもそのきっかけは、「『江戸時代に天狗に攫われて帰ってきた子供のしゃべったことをまとめた記録』がめちゃ面白い」というツイッター上のつぶやきだったのだ。

 

常世界と超能力への関心

・江戸時代の文政年間、「仙童寅吉」あるいは「天狗小僧寅吉」と呼ばれる15歳の少年が、江戸の町を騒がせた。天狗(山人・仙人)にさらわれて、この世と異なる世界(仙界)で暮らした寅吉は、超能力を身につけて帰ってきたからである。

「仙童寅吉」をめぐる事件は、二つの側面から読み解くことができるだろう。ひとつは、寅吉が超能力によって訪れた異界のようすであり、もうひとつは寅吉に示した知識人たちの関心のありようだ。寅吉が見てきた世界は、この世とは異質で超常的な世界であり、寅吉が体得した超能力は、現実を超えでる技術や感覚だった。

 

異界を体験し、超能力を身につけた少年

・寅吉が7歳のとき、上野池之端の神社の境内で遊んでいたところ、薬売りの老人が小さな壺に薬を入れ、自分自身もそこに入りどこかへ飛び去った。仰天した寅吉が、また別の日に神社に出向くと、老人から「一緒にこの壺に入らないか」と誘われた。寅吉は老人とともに壺に入ると、常陸国(現在の茨城県)の南台丈(なんたいだけ)という山に連れていかれた。寅吉は老人と一緒に各地を飛びまわり、常陸の岩間山(愛宕山)で修行しながら、祈祷術や占術、薬の製造法といった異能を伝授されていく。寅吉は岩間山にずっといたわけではなく、江戸とのあいだを往復していたのだが、世間では天狗に仙界へさらわれたとみなされていたのである。

 

・この世とは異なる世界から帰還した少年に、江戸の町は沸き立つ。寅吉は、山崎美茂が珍談・奇談の会を開いていた薬商の長崎屋で暮らすようになる。そこに集った当代の知識人たちは、寅吉が異界で体験してきたことと、身につけてきた超能力について質問を放っていくのである。

 

・寅吉の不思議な体験と特殊な能力に、最も関心を寄せたのは、『仙境異聞』をまとめた平田篤胤だった。篤胤は本居宣長に師事し、最初の著書『新鬼神論』では、神、鬼神の普遍的存在を証明しようとした。また『霊能真柱』では、「霊」が死後に「幽冥」へ行くことを証明するため、古伝説によって宇宙の生成を説いている。寅吉にたいする篤胤の質問の目的は、「こちらの世界」(顕界)とともに世界を構成する「あちらの世界」(幽界)の実在を証明することだった。

 

宇宙体験の真実

・彼らの関心に応えた寅吉の体験のなかでは、天体にかんする見聞がとくに興味深い。寅吉は空高く飛翔し、大気圏外の宇宙で、地球、星、月、太陽を観てきたからである。

 たとえば「星のあるところまで行ったなら、月のようすも見たのか?」という質問にたいして、寅吉は次のように答えている。

月は近くに寄るほどどんどん大きくなり、身を刺すように寒さが厳しく、無理して200メートルぐらいまで近寄ってみると、思った以上に暖かだった。(地上から)光って見えるところは、国土(地球)の海のようで、泥交じりのように見える。俗に『兎が餅を搗いている』と言われるところには、二つ三つ、穴が開いている。しかし離れたところから見たため、正体はわからない」。

 

テクノロジーの開発と感覚の拡張

・『仙境異聞』に登場する知識人たちは、西洋科学の最新知識も豊富だった。しかし、彼らの質問にこたえた寅吉の体験談はあまりにもリアルで、虚言や捏造だと言うべきではないだろう。彼の感覚器をとおした「ヴァーチャル」な世界なのだから。

 人間は科学技術を進展させ、やがては宇宙に飛び出て天体を観測してきた。新たな現実を生みだす技術と感覚を追求したのは、ヴァーチャル・リアリティの研究者だけではない。江戸時代の人びとも、そんな世界と技術に夢中になっていたのである。

 

日本人と信仰

手帳のなかの庚申塔

宮沢賢治と災害フォークロア

賢治と地震津波

宮沢賢治が大地震と大津波の年に生まれ、大地震と大津波の年に亡くなったことはよく知られている。

 賢治は1896年(明治29)8月27日に生まれたが、その年の6月25日に、「明治三陸地震」と「明治三陸津波」がおこった。岩手県上閉伊郡釜石町(現在の釜石市)の東方沖約200キロメートルを震源とするマグニチュード8.2から8.5という巨大地震により、地震発生から約30分後には、最大で海抜38.2メートルにおよぶ溯上高の津波三陸沿岸を襲った。死者・行方不明者は2万1959人に達したこの地震津波をきっかけに、「三陸海岸」という名称が広く使用されるようになったといわれる。

 賢治の誕生直後の8月31日にも「陸羽地震」が発生している

 

・賢治が亡くなったのは1933年(明治8)9月21日だったが、同じ年の3月3日には、明治三陸地震と同じく上閉伊郡釜石町の東方沖を震源とする「昭和三陸地震」が発生した。この地震のときにも三陸沿岸を大津波が襲い、死者1522人、行方不明者1542人におよぶ大災害となった。

 

岩手県の遠野地方には、「不地震地」という地震の際にも揺れることがなく、そこに逃げこむと安全だとされる伝承地がある柳田国男の『遠野物語』にも、そのなかのひとつ、土淵村和野の不地震地が登場する。

 

ザシキワラシと白髭水

柳田国男に『遠野物語』のもとになる民譚を話しきかせた佐々木喜善は、『ザシキワラシの話』の中で、「カッパとザシキワラシは同じものだ」という証言を列挙している。遠野とその近郊では、ザシキワラシを飢饉により没落した旧家に宿っていた霊として、あるいは池や沼に棲む精霊として捉えている例が少なくないのだ。

 

宮沢賢治が災害のフォークロアと最も近づいたのは、「白髭水」という怪異伝承においてであろう。「白髭水」あるいは「白髪水」と呼ばれる災害伝承は、大津波に先立ち、白髪や白髭の老人が現れて水害を予告した、あるいは洪水や山津波の波頭に、白髪白髭の翁が乗っていたというものである。

 柳田国男は『遠野物語』でも「白髪水」についてふれている。第28話の注に「北上川の中古の大洪水に白髪水というがあり、白髪の姥を欺き餅に似たる焼石を食わせし祟りなりという」と記される。

 

七庚申と五庚申

・農業を中心に思想を組み立て、農民の救済を願った宮沢賢治が最も恐れていた災害は、冷害による飢饉であった。『グスコーヴドリの伝記』でも、主人公の飢饉体験、冷害の予防が物語の中核を占める。

 

ここで賢治が採りあげているのは、1年に7度、あるいは5度、「庚申」がある年には、「稔らぬ秋」を恐れて、庚申塚を盛るという民間信仰である。

 

・庚申は干支のひとつで、60年ごと、また60日に一度訪れる。庚申の日には、人間の体内にいる三尸虫(さんしちゅう)が、人が寝ているうちに天帝に悪事を報告しにいくとされ、それを防ぐため、夜通し眠らずに「庚申講」を開くのである。

 

「七庚申」あるいは「五庚申」と刻んだ庚申塔は、東北地方の庚申信仰の特色で、なかでも花巻の周辺に最も集中しているのだという。

 

 

 

『21世紀の民俗学

畑中章宏    角川書店   2017/7/28

 

 

 

UFO学のメランコリー

人は地球外に魅せられる

・2016年は、「宇宙」にまつわる展覧会、映画等を目にする機会が多かったような気がする。

 

・「Soleil Noir」店の紹介映像でグラッソは、「パラドックス(反語的)」な表現が自らの作品のキーワードであり、それはタイトルにも反映されていると述べる。「未来の記憶」や「未来の考古学」、さらには現代の神話・伝説を意味する「ancient alien(古い異邦人)」という言葉を口にし、そのうえで、「UFO学」という魅力的な概念を提示するのである。

 

・美術館にある過去の作品の中に、UFOや奇妙な現象、あるいは異星人といったモチーフをだれかが読み取ったり、妄想を膨らませていたかもしれない。いわば、“UFO学”とでもいうべき可能性を考えてみたかったのです……。

 

200年前に漂着したUFO

・ローラン・グロッソには、1803年(享和3年)に現在の茨城県の太平洋岸に出現した「うつろ舟」を素材にした作品がある。タイトルは「1803、虚舟、常陸国で発見された未確認物体」で、「1803」の文字が光るネオンサイン、舟の形をしたテレコッタ、浜辺に漂着した謎の舟と謎の女と取り囲む人々を描いた油彩画からなる。「宇宙と芸術展」では、この作品を制作した際、グラッソが参照したであろう、江戸時代の奇譚集や瓦版の挿絵も展示され、その不可思議が耳目を引きつける。

 当時の記事や図譜から素描すると、うつろ舟は鉄製で、蓋付きの浅い丼鉢のようなかたちをし、小さな窓があり、箱を持った女性が乗っていた。また船内には、解読不能の文字らしきものが書かれていた。海から漂着した謎の舟を人々は恐れて、再び海に流してしまったという。

 うつろ舟の正体については、未確認飛行物体(UFO)説、潜水物体説、ヨーロッパからの来訪説、謎の神説、噂や伝聞、創作説などがある。民俗学では「かがみの舟」とも呼ばれ、柳田国男は、荒ぶる常世浪をかきわけて本土に到着したと伝わっていることから、「潜水艇」のようなものだったのではないかと想像している。

 

茨城県の北部地域で開催された「茨城県北芸術祭」(9月17日~11月20日)でも、インドネシアのアーティスト、ヴェンザ・クリストが、日立市川尻町の小貝ヶ浜に「虚舟ミニミュージアム」を開館していた。クリストの展示は、開催地周辺に伝承されるうつろ舟の資料を分析するとともに、茨城県在住でUFOを目撃したという人々へのインタビューなどから構成される。

 

・このミニミュージアムが建つ小貝ヶ浜緑地の南端の高台には、「蚕養神社」が鎮座する。社号が示すとおり、豊蚕祈願に信仰されてきた神社で、「小貝ヶ浜」は「蚕養ヶ浜」でもあったことがわかる。この神社は「日本三大蚕神社」のひとつで、ほかの二つはつくば市の「蚕影山神社」と神栖市の「蚕霊神社」で、三社とも茨城県にあり、しかも「金色姫」の物語が伝承されている。

 その昔、常陸国の豊浦に、繭のかたちを丸木舟が流れ着いた。この舟に乗っていた金色姫は天竺国の王女で、継母のいじめから逃れて、日本にやって来た。地元の夫婦が大切に育てたが、ある日、別れを告げるとともに、養蚕の技術を授けて天に昇った……。まさにうつろ舟伝説を思わせる話である。しかしそもそも、うつろ舟が動力をもち、また「空を飛んできた」と証言する資料は存在していない。

 

<河童の妙薬>

・日本列島の各地には、「河童の妙薬」といって、骨接ぎ、打ち身、熱傷に効く、河童が人間に伝えた薬がある。日本人には、西洋医学や反西洋医学のお世話にならなくても、山伏や坊主、河童がよく効く薬を与えてくれたのだ。

 柳田国男の少年時代の愛読書だった赤松宗旦の『利根川図志』(1858年)には、河童が貧しい百姓に温湿布のつくり方を教えたという伝承が記されている利根川河口に貧しい百姓の親子が住んでいた。あるとき、父親が足をくじいてしまうが、貧しい親子には薬を買うお金がなかった。利根川の河童の女親分である禰々子(ねねこ)は、彼らに薬草を渡し、湿布薬のつくり方を教えた。禰々子(ねねこ)に言われたとおり、親子が湿布を十三枚貼り替えると足は完治した。その百姓の村は「十三枚」と呼ばれるようになったという。

 また新潟市の猫山宮尾病院に伝わる「河童の妙薬」もよく知られる。昔々、京ヶ瀬村の「猫山」というところに悪戯好きの河童が住んでいた。河童は馬をいじめたり、作物を盗んでは喜んでいた。それを見かねた宮尾家の先祖が、河童の腕を切り落とし、証拠として持ちかえった。それから7日目の晩、河童は「家伝の薬で腕が元に戻るが、7日を過ぎると薬が効かなくなる。もう悪戯をしないので、腕を返してほしい」と懇願した。河童が腕に塗り体にあてるとみるみる腕がくっついていった。河童はたいへん喜び、お礼に家伝の薬を教え、川へと戻っていった。

 深緑色の粉末を水で溶き、耳たぶくらいの硬さになるまで練ってから和紙にのばして患部に張る湿布薬「猫山アイス」は1989年(平成元年)に製造中止になるまで、打ち身やくじきの良薬として用いられてきた。

 

ワイオミング州ジャクソンホールにある民族医療研究所のエグゼクティヴディレクターを務めるポール・アラン・コックスが、ポリネシアの薬草医は土地固有の病気についての膨大な用語をもつと同時に、ヨーロッパ人から伝えられたものについてはまた別の異なる用語をもっていることをサモアで発見し、論文にしているという。

 また絶滅危惧言語においては、植物相と動物相に関して、西洋科学で知られているより何百種類も多い分類がされていることがよくあり、フィリピンのミンドロ島に住む焼畑農業をするハヌノオ族は、土の種類について40の表現をもつ。東南アジアの森にすむヒーラーは650種類もの薬効成分を特定しているという。コックスらによれば、キニーネアスピリンなどは、先住民族に案内され、情報提供された民族植物学者のおかげで一般的な治療薬となったというのだ。

 日本の修験山伏や浄土真宗門徒も、もしかすると河童も、偉大な科学者だったといえるだろう。宗教や民間信仰は、決して非合理なものではなく、植物学的な知識に基づき病に対処する知性と野性を併せもっていたのである。

 

<河童に選挙権を!>

異形の「正義」

・わたしのかねてからの主張に、「妖怪は実在する」、あるいは「妖怪は実在した」というものがある。そもそも柳田国男の『遠野物語』に登場する河童や天狗、ザシキワラシ、雪女、山男や山女はその目撃談、経験談から、実在したものであることは疑いえない。

 しかし、列島上の妖怪の代表格とみなされる、「河童」と「天狗」とでは、その実在のありようが大きく異なる。

 

・天狗にかんしては、先住民族や山林生活者とおぼしき「異人」「山人」を常民の尺度からみた生命体であり、また山岳宗教者である修験山伏の性格や能力を反映した存在であるという解釈が唱えられてきた。そうした従来の天狗イメージに対して、天狗の実在を疑う人にわたしがよく話して聞かせるのは、柳田国男の『幽冥談』(1905年)のなかの挿話である。

 池原香雅という歌人があるとき、播州にある宇野の野道を歩いていると、ひとりの旅の僧と出会った。道連れになり、いろいろ話をしながら歩いていたが、「あなたはどこへお出でになるのですか」と聞いたところ、「私はあすこの穢れた村を焼きに行くのだ」と言う。

 

・それがために今までは普通の旅僧と思って話をしておったが、非常に驚いて物も言えなくなってしまった。かの旅僧は、あれを御覧なさい。あすこに燈火が二つ点いている、右の方の光りは非常に清らかだが、左の方の光りは穢れていると言うから見たけれども分らない。それであの村を焼いてしまわなければならぬというて、ちょいと指したところがたちまち村は焼けた。

 

・柳田は驚くべきこの天狗の仕業に対し、「これらは事実であろうと思う」とコメントする。さらに池原香雅は、1877年まで生きていたので、天狗と出会ったのもその4、50年前だから、そんなに古い時代の出来事ではないと言う。そうして柳田は、「その時分にもそういう不思議なことを、我々が目撃することがあったのである」と納得している。

 池原が出会った天狗の行動は、山人・異人や修験山伏よりもかなり強烈で衝動的だ。

 

「忘れようとしても思い出せない」

6年前の3月11日。午後2時46分ごろ、わたしは東京都文京区のファミレスで、これまで体験したことのない強い揺れを、2回感じた。関西出身で地震に免疫がないうえ、阪神・淡路大地震を経験していないわたしは、2度目の揺れで、テーブルの下に潜り込んだ。しかし、周りの客は意外と冷静で、スマホを見て震源や被害を調べているし、店員も「このビルは安全ですから」と触れ回っていた。

 それからしばらくして、靖国通りに出ると、サラリーマンやOLが、ビルから溢れ出ていた。しかしほとんどの電車が止まっているらしく、大勢の人が大通りを歩き出していた。神保町のスポーツ用品店では、店頭でスニーカーの安売りを始めていた。隅田川べりの部屋にたどり着くと部屋中に本が散らばり、その間に猫が怯えたようにうずくまっていた。そうして3日後の月曜日には、まだ余震があるにもかかわらず、ほとんどのOLがハイヒールを履いていた。

 

・わたしたちはいったい、あの日に何を失い、何を得たのだろうか。非・当事者であるわたしは、何を心に刻みこんできたのだろうか。記憶の風化がとりざたされ、「忘れてはいけない」「思い出すべきである」と、人々は口ぐちに言う。またいっぽうで、「震災のことは早くに忘れて、前に進め」と促す人々もいる。6年前の記憶が薄らいだだけではない。あれから、広島市で土砂災害があり、御嶽山が噴火し、鬼怒川が氾濫し、熊本では地震が起こった。