日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。

結論として、ビジネスを含め、あらゆる世界で偶然や運が果たす役割が非常に大きいことをまず受け入れなくてはなりません。(1)

 

 

『世界を支配する運と偶然の謎』

ビギナーズ・ラックは、なぜ起きるのか――

植村修一  日本経済新聞出版社  2019/10/26

 

 

 

歴史は偶然が作り出す

・どの時代の歴史を扱う場合でも、感情を交えず、偏見を持たないことは、歴史家にとってつねに不可能なことだと思う。

 

・偶然と不確実性は、戦争におけるもっとも一般的な、そしてもっとも重要な要素である。

 

・作戦計画には二種類ある。よいのと悪いのとである。時としてはよい作戦計画も偶然の事情によって失敗し、時としては悪い計画も運命の気まぐれによって成功する。

 

元寇桶狭間桜田門外の変……日本史を変えた天候

・カオス的な振る舞いを見せる気象が、その予測不可能性ゆえに歴史上重要な役割を果たすことがしばしばあります。

 日本史であれば、私を含む一定年齢以上の世代の方にとっては、2度にわたる元寇の際の神風、桶狭間の戦いにおける雷雨、桜田門外の変における大雪などが思い浮かびます。

 

・まず元寇ですが、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)の2回のうち文永の役については、その日が新暦の11月末であり、まず台風は来ないこと、当時の記録にある京都の天気から類推して博多湾に活発な低気圧があったとも思えないことから、元の艦隊は暴風雨のせいで引き揚げたのではなく、撤退途中の海上で低気圧による悪天候に見舞われたとします。

 最近では元軍侵攻の意図も、本格的侵略ではなく、武威を見せつけることを兼ねた威力偵察で、早期の引き揚げは既定路線だったとする見方が多いようです。その意味では、弘安の役における暴風雨こそが「歴史を変えた天候」ということになります。

 

・現在では、(桶狭間では)今川軍は全体で織田方をかなり上回る軍勢だったが、分散していたこと、そうした中、今川本陣に対する攻撃は奇襲ではなく正面攻撃に近いものであったこと、今川本陣は窪地ではなく、見晴らしのよい場所にあったことなどが、通説となっています。

 松嶋氏が疑問に思ったのは、仮に雨になったとしても、軍勢がまったく気づかれることなく接近できるほどのものであったのかということです。

 

・その日(現在の暦では6月22日)は朝から日差しが強く高温で、そうした中、大雨を降らす積乱雲クラスター(ゲリラ豪雨」を起こす雲)が発生し、これが北西(熱田神宮方向)から南東(桶狭間方向)に移動したため、一足早く積乱雲の下から脱した織田軍が、まだ雨中か雨が止んだばかりの今川軍に接近し攻撃することができたと解きました。信長はやはり運に恵まれていたのです。

 

・なお桜田門外の変に関しては、ある歴史番組で、その日の大雪が井伊藩邸から桜田門方面に対する視界を遮り、藩邸が水戸浪士たちの襲撃に気づくのが遅れたことが、文字通り致命的だったと解説していました。

 当時の彦根藩上屋敷は、今の憲政記念館辺りでお堀に面し、桜田門は目と鼻の先でした。もしも天候が違って、彦根藩士の救援が間に合っていたら、とんでもなく歴史は変わっていたことでしょう。

 

・これら以外にも天候の影響については、平将門が最後に藤原秀郷に打ち取られた際、少数の将門軍が秀郷・平貞盛連合軍を敗北寸前まで追い込んだときに急に風向きが変わり、向かい風となった将門軍が不利となる中、まっすぐ飛んできた矢が将門の額に命中したという例があります。

 嵐のおかげで、屋島の戦いにおいて、源義経の軍勢が平家方に悟られずに四国に渡ったことといい、厳島の戦いにおいて、毛利元就の軍勢が陶晴賢側に悟られずに厳島に渡ったことといい、科学的な天気予報がなかった時代、戦においては天候が「運」「不運」を決める重要な要素となりました。勝った側にとってはまさに「天祐」でした。

 

歴史を変えた天候――世界史

・世界史でも歴史を変えたと言われる天候は、枚挙にいとまがありません。

 西暦9年、アウグストゥス帝治下のローマ帝国の3個軍が、ライン川東方のゲルマン民族の地に侵攻した際には、トイトブルクの暗くて深い森に誘い込まれた挙句、包囲攻撃を受けて全滅しました。

 待ち構えていたゲルマン軍がまさに攻撃をしようとしたときに、突如嵐となり、戦場は激しく降りそそぐ雷光と雹に包まれ、ローマ軍が組織だった抵抗の余地を与えませんでした。もしもこのとき嵐が来ず、ローマ軍が隊列を整えることができたならば、全ヨーロッパがラテン語を基礎とする文化圏になったと言われています。

 

・同様に1588年、スペインの無敵艦隊アルマダ)が英仏海峡の海戦でイギリス艦隊に敗北し北方に逃れた際、暴風雨に見舞われイギリス沿岸で多数の船が難破し、壊滅的な打撃を被りましたが、嵐がなければ、スペインに代わってイギリスが世界の海を支配することなく、各国で低学年の授業から英語を学ばせられることはなかったかもしれません。

 

・以上の2つは暴風雨がもたらした歴史上の偶然ですが、ヨーロッパにまつわることで日本人にとってなじみが深いのは、ナポレオンとヒトラーの2人を破った冬将軍すなわちロシアにおける寒気でしょう。

 1812年6月25日、フランス軍を主体に、ロシアとイギリスを除くヨーロッパ中の兵士から構成される大陸軍42万人(公式記録はなく、別の資料では67万人)が、ナポレオンに率いられてロシアに侵攻しました。彼のロシア遠征については、トルストイの小説を原作とする「戦争と平和」などでイメージできる人が多いと思います。

 ロシアによる焦土作戦により、ロシア皇帝アレクサンドル1世と決戦する機会がないまま、ずるずるとロシア内部まで引きずり込まれたナポレオンは、ボロディノでクトゥーゾフ将軍率いるロシア軍に不完全な勝利を得たあと、9月になってモスクワを占領しますが、時既に遅し。食料不足に加えてロシアの寒気はことのほか厳しく、12月にナポレオンと少数の兵がフランスに戻った際には、大陸軍は壊滅状態でした。

 

・1941年6月にドイツ軍がソ連に侵攻(「バルバロッサ作戦」)、機甲師団を先頭にした電撃作戦を目論見ますが、ソ連北部や南部への兵力の分散、夏の猛暑や秋の長雨から進撃ペースが遅くなり、ドイツ軍がモスクワの間近に迫ったのは11月末。そして直後の天候急変が厳冬期の到来を告げました。12月初旬のモスクワの気温が零下40度近くとなる中、満を持したソ連軍が反抗に転じます。

 

・金融マンで気象予報士でもある田家康氏の『異常気象が変えた人類の歴史』によると、ドイツ軍は当初この年の冬を暖冬と予想していましたが、現実はその反対で、エルニーニョ現象の発生によりロシア西部には平年以上の寒波が到来しました。そして、ナポレオンがロシアに侵攻した年(1812年)も、世界各地の気象から見てエルニーニョ現象が発生していた可能性が高いとします。トルストイの「戦争と平和」によると、10月28日には厳寒が訪れ、寒気の訪れが例年になく早いとあります。

 

・さらにアメリカの作家・ジャーナリストのアンドリュー・ナゴルスキの大著『モスクワ攻防戦(原題はthe Greatest Battle)』によると、ヒトラーがモスクワよりもウクライナの占領を優先し、8月末、前線部隊の反対を押し切ってグデーリアン将軍の装甲集団を南部に振り向けたことを「取り返しがつかない」ミスだったとします。冬将軍が例年より早く到来しただけになおさらです。

 

・最後はノルマンディー上陸作戦です。この作戦にとっての天候の重要性について、あまり知られていませんが、陸海空の総兵力300万人が従軍する作戦(1日目に上陸した将兵だけで13万3000人、車両は1万4000台)は緻密な計画だけでなく、天候に恵まれることが必須の条件でした

 諸条件(例えば潮の干満)を考慮して当初決定された作戦実行日(D

デイ)は1944年6月5日でしたが、4日時点での予報がひどい悪天候になるというものだったため、作戦が延期となりました。

 当初、悪天候はしばらく続くと見られていましたが、5日になるとその日は予報通り悪天候ながら、6日はいったん天気が回復し、その後再び悪化するとの予報に変わりました。6日を逃すと次の候補日が約2週間後となり、兵士の士気低下や情報漏洩リスクの高まりが懸念されるため、熟慮の上、最高司令官のドワイト・D・アイゼンハワーは6日の実施を決定しました。

 

ヒンジ・ファクター ―― 片手一杯の釘が敗戦の原因?

 「釘がないので」というマザーグースの詩があります。

 釘がないので蹄鉄がつけられない

 

 蹄鉄がつけられないので馬が走れない

 馬が走れないので騎士がそろわない

 騎士がそろわないので戦いに負けた

 戦いに負けたので国が滅びた

 すべては蹄鉄の釘がなかったために

 

 軍事用語で、戦いの形勢を逆転させかねない決定的要素のことを「ヒンジ・ファクター」と言います。ヒンジとはドアの蝶つがいのことで、そのおかげでドアが表になったり裏になったりするように、勝敗をひっくり返しかねない要素のことです。

 戦争ジャーナリストのエリック・ドゥルシュミートの『ヒンジ・ファクター』では、ナポレオンが一握りの釘のためにワーテルローの戦いに敗れた話が出てきます。

 

当時は、敵の大砲を使えなくするために点火孔に釘をはめ込むのが常識とされ、どの騎兵隊にも鞍袋に金づちと釘を入れている兵士が必ず何人かいました。しかし、所持者はそれまでの突撃で全員戦死していました。その後、歩兵による援護を受けない騎兵師団は敵陣から撤退を余儀なくされます。

 あのとき釘が片手一杯もあれば、イギリス軍の大砲を沈黙させ、遅ればせながら駆けつけたプロシア軍の参戦があったにせよ、その後の展開がまったく変わったものになったはずです。再び帝位を剥奪され、大西洋の孤島セントヘレナに流されたその後の運命を考えると、ナポレオンにとっては単なる不運ではすまされない事態でした。

 

・田家康氏も『異常気象が変えた人類の歴史』の中でワーテルローの戦いを取り上げています。6月16日から17日にかけて低気圧に伴う2つの前線が通過し、付近一帯に雨が降り続いたことで18日になっても戦場の地面がぬかるみ大砲の移動が困難でした。そのため、午前9時にイギリス軍への攻撃を開始するというナポレオンの計画が狂ったことが指摘されています。

 実際の攻撃開始は正午で、この遅れがプロシア軍の到着までに十分な時間を与えました。ナポレオンはウェリントンではなく、「偶然」の要素に負けたと言えます

ワーテルローは本来、どう考えても負ける筈がなかった戦いであり、それがあるべき結果で終わっていれば、その後の世界制覇の構図は大きく変わっていたに違いない」

 

情報=インテリジェンスはどこまで重要か

・戦争においてもビジネスにおいても情報が重要であることは言うまでもありません。孫子の「彼を知り己を知れば百戦殆からず」という言葉は誰もが聞いたことがあります。

 ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れたことをイギリスの銀行家ネイサン・メイアー・ロスチャイルドロスチャイルド家の情報伝達網を通じていち早く知り、公債市場のトレーディングで大儲けしたことは有名です。

 

・時代は下って1942年6月、太平洋上のミッドウェイ島を巡る日米間の海戦で、連合艦隊は赤城以下4隻の主力空母を失い、のちに太平洋戦争の分岐点とも言われるようになりました。

 

・イギリスにおける軍事史研究の第一人者と言われたジョン・キーガンは、『情報と戦争』で、過去の戦争や戦闘において情報が果たした役割について綿密に検証します。

 その中で、ミッドウェイ海戦については、「インテリジェンスが勝利の要因となっているように見えるが、別の要素(この場合は偶然)が根底にある」という結論でした。偶然とは、前述した南雲司令部の判断ミス(これは米軍にとっては幸運)を含めての戦闘時における諸要因です。本のタイトルから読者が期待する内容とは少し異なるものでした。

戦争とは偶然が支配する領域である。しかも、戦争においては単純なものなど皆無だ。ミッドウェイは、この指摘がともに真理であることを実証している」とキーガンは記します。

 

作られた物語――関ケ原の戦い

・日本史において関ケ原の戦いほど、歴史書、小説、ドラマなどで取り上げられる戦闘はないと言えます。

 なぜ関ケ原なのか。

 第一は、もちろん、この戦いに勝利した徳川家康がその後幕府を開き、江戸時代が始まるきっかけとなった「天下分け目」の戦いだったからです。

 

・そのイメージとは、豊臣秀吉死後の派閥争い(加藤清正武断派石田三成ら吏僚派)→前田利家の死に伴う徳川家康の影響力増大→家康による上杉景勝征伐→石田三成が中心となり毛利輝元を総大将に担いで家康打倒に決起→福島正則ら家康に従って北上中だった豊臣方諸将が西上、初戦に勝利→家康も西上し、関ケ原で東西両軍が激突(1600年9月15日)→勝負が容易につかない中、それまで日和見していた小早川秀秋の裏切りにより西軍が総崩れ→毛利輝元が退去した大阪城に家康が入城、石田三成らは捕縛ののち処刑、というものです。

 

・その後、以前の通説(例えば、上杉征伐に乗じ反家康方の決起を誘い、これを叩き潰すことで天下取りを果たすのは、家康が描いたシナリオであった。合戦当日、三成ら西軍がそれまでの拠点である大垣城を出て関ケ原に向かったのは、野戦を得意とする家康に誘いだされたからである)を否定し、毛利輝元や奉行衆による家康弾劾は家康にとって想定外の事態であったことや、関ケ原におけるフィールドワークの結果によると、西軍陣地には土塁が構築されており、移動は西軍にとって必ずしも意図せざる行動ではなかったなど、新たな視点での指摘が多くなされています。

 

歴史を変えた徳川慶喜の不作為

・2018年は明治維新150周年でした。わたしたちは260年以上続いた江戸時代が終わり明治時代になったのは、必然的な流れのような気がしていますが、実際にはそう簡単ではありませんでした。

 1868年1月、京都の鳥羽、伏見で薩摩藩中心の新政府軍と、徳川慶喜を戴く旧幕府軍の、合わせて約2万人が激戦を展開します。

 

・戦闘4日目(1月6日)、橋本で両軍が攻防している最中、淀川対岸の山崎を守備していた津藩藤堂家の兵が裏切り、旧幕軍に向けて砲弾を打ち始めます。結局、その日の夕方には、旧幕軍はなだれを打って大坂まで退却します。そして信じがたいことに、慶喜大坂城退去を決め、翌朝旧幕府軍艦に乗り込み、将兵を置き去りにして海路江戸に向かいます

 野口氏は、この戦いの帰趨には、例えば旧幕軍の歩兵隊が装弾していなかったことや、旧幕軍の正面から強い北風が吹きつけるといった偶然の介入を無視することはできないとします。

 そして慶喜がした「決定的な不作為」は、その後の日本を変えたと結論づけます。自分は血気にはやる兵たちにかつがれただけ、もともと朝廷に歯向かうつもりはなかったと弁明する慶喜にとっては、それが必然の結果であったかもしれません。

 

戦争はなぜ起きたのか――第1次世界大戦

・2015年がワーテルローの会戦から200周年だと書きましたが、2014~18年は第1次世界大戦(1914~18年)から100周年で、あまり日本では話題になりませんでしたが、関係各国で記念式典や本の出版が相次ぎました。

 第1次世界大戦は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が、1908年に帝国に編入されたばかりのボスニアの首都サラエボで、編入に反発する地元青年によって暗殺されたため、オーストリアが暗殺の背後にいたとみなすセルビア最後通牒を突きつけたことをきっかけに始まりました。

 

・しかし、なぜ2000万人の犠牲者を出すまでの戦争が必要だったのか、何が戦争の真の原因だったのか、わかりにくいところがあります。

 教科書などでは、帝国主義列強の世界分割競争が沸点に達した(その意味で必然であった)と解説されますが、英独間などではひと頃に比べだいぶ緊張が緩和されていましたし、各国の元首や政治家の誰一人として戦争を問題解決の道具に使おうとは考えていませんでした。この点、第2次世界大戦は、狂信的なヒトラーが自らの野望のために戦争を引き起こしたという点で、わかりやすいとされています。

 

・第1次世界大戦の原因に関し、膨大な数の研究成果が出されていますが、イギリスの歴史家A・J・P・テイラーは、「大事件が小さな原因から起きるということを、ひとは信じたがらない」として、何か深遠な力の産物に違いないと当初考えられたが、軍備を背景とした威嚇と脅迫がうまくいくと考えた政治家の誤算が戦争をもたらしたと結論します

 

偶然や運が果たす役割

結論として、ビジネスを含め、あらゆる世界で偶然や運が果たす役割が非常に大きいことをまず受け入れなくてはなりません。もちろん、才能や努力が果たす役割が大きいことは当然のこととして、とくに、大きな時代の転換点を迎え、不確実性が増す今の世の中で成功を収めようとする場合には、思い込み(その多くは、過去、偶然に起きたことを合理的と考えるためのものです)を排し、虚心坦懐に物事を見ようとする「謙虚さ」が必要です。

 

 

 

 

『ルシフェリアン』 世界と日本の絶対支配者

ベンジャミン・フルフォード   講談社    2008/11/27

 

 

 

「ルシフェリアン」という組織

・私が、世界の大資本家たちを調べていくうちに、歴史を遡ると、「もっと巨大な勢力」が彼らのルーツになっていることが判明したのだ。私は、これまでは、それをフリーメーソンという言葉や、イルミナティという言葉を使って説明することを試みたものの、全貌が把握できていなかったため、うやむやな説明で終わっていたことは否めない。

 しかし、今回、私は、さまざまなキーマンに取材を試みること、そして関連する書籍や記事などの膨大な資料を読み漁ることによって、彼らのルーツを探り当てることに成功した。彼らのルーツはいまから、何千年も前に遡らなくてはならなかった。

 そして、行き着いた先は、「ルシフェリアン」という組織だった。

 

・ここで本編に入る前に、改めて確認しておきたいことは、私が本書でユダヤ人を差別するつもりは毛頭ないということだ。そもそも、このルシフェリアンは、昔からユダヤ教の天敵とされている、後述するニムロード思想を信奉する人々のこと、もしくは、その悪魔教の信者なのである。

 そして世界は、残念なことに、このルシフェリアンというおかしな勢力によって、支配されているのが現状だ。

 

闇の勢力

・歴史を一つ一つ丹念に調べていけばいくほど、この「闇の勢力」が、いつの時代も、歴史を動かすことのできる中枢に君臨していたという事実がわかり、背筋が寒くなったものである。

 

ルシフェリアンの衰退で起こる極東情勢の変化

北朝鮮テポドンを発射したが、私はあれ自体、北朝鮮の政権内部に潜伏している親ルシフェリアン勢力が仕掛けたものではないかと見ている。なぜなら、このテポドンの結果、日本で核武装が進んでしまったら、困るのは大した武器を持っていない北朝鮮自身であるからだ。

 

世界の救世主は日本

・いま世界は、ルシフェリアンが牛耳っている西欧支配からの脱出を図っている。その結果、西欧と非西欧(主にはアジアやアフリカ)の間に亀裂が起こっている。

 このような亀裂が生じたなかで、西欧と非西欧の繋ぎ役をやれるのは、日本だけであろう。

 

ルシフェリアン

・彼らのことを詳述するということは、いままで描かれていた歴史を書き直すことになる。フランス革命アメリカの独立、明治維新、第1次世界大戦、ロシア革命、第2次世界大戦、冷戦、そして9・11によって始まった第3次世界大戦と、世界金融危機………。

 いままで語られてきた歴史の常識が、どれだけ誤りの多いことだったか、本書を最後まで読み進めていただければわかるはずである。

 これまでの常識を覆すことになるため、どうか頭を柔らかくして、予断することなく読み進めていただきたい。

 

戦争と革命を操る闇の勢力

革命や戦争を支援する人々

・私がルシフェリアンという正体に気づいた経過をもう一度説明しよう。

 まず、9・11同時多発テロアメリカが関わっているという動かぬ証拠を見せられてから、私はいろいろなことを調べるようになった。そして、取材した結果、あらゆることが一ヵ所にたどり着いた。そう、世界の資本家たちだ。

 しかし、私はその資本家たちを調べていくうちに、それが終着駅ではないこともわかってきた。もっと遡ってみると、古代バビロニア時代に生きていたルシフェリアンという勢力まで行き着くことに気づいたのだ。

 ここで、そのルシフェリアンの儀式を受け継いでいるボヘミアングローブについて、少々述べたい。

 1878年からアメリカで開かれているボヘミアングローブという秘密のキャンプがある。

 それは会員が限定されていて、一般の人は入れない。出席者は、大統領の経験もある大物政治家や大手金融機関のトップ、著名な学者など、錚々たるメンバーだ。

 この場では、原爆製造についてもマンハッタン計画が議論されたり、ドワイト・アイゼンハワー朝鮮戦争が起こる危険性についていち早く言及したり、リチャード・ニクソンロナルド・レーガンから大統領選への不出馬の約束を取りつけたり……。

 まさに、世界情勢の重要な決定がくだされる場所なのだが、このキャンプは、人形を焼いていけにえにするという狂気の儀式で始まるのだ。

 

・私がこの儀式について調べてみると、旧約聖書に、こうした儀式を本物の人間を使って行っていた人たちについて述べられていることがわかった。そう、これこそが、まさにルシフェリアンなのである。

 その後も、私はさまざまな文献を調べたのだが、ルシフェリアンは伝統的なキリスト教カトリックに反するいろいろな宗教を作る傾向があるようだ。そういった傾向から、私は、プロテスタントを作ったのも、彼らではないかと思っている。

 また、彼らは宗教だけでなく、その後の共産主義、ナチズム、シオニズムなどの思想の設立、フランス革命ロシア革命アメリカの独立戦争など、旧体制を打破する革命の支援もしていることがわかってきた。

 

ルシフェリアンはニムロード思想を信奉する人々、もしくはその悪魔教の信者なのである

堕天使の子孫の血を受け継ぐ者

・よく世界の陰謀論には、ロスチャイルド家の名前があがる。もちろん、彼らが世界のあらゆる情報に絡んでいるのは事実である。

 

・しかし、すべての企みを彼ら一族で仕切ることができるのだろうか?

 そもそも、ロスチャイルド家が、いきなりあれだけ膨大な資産を持って歴史上に現れたこと自体、不自然な点が多い。

 

・私は、ロスチャイルドに詳しいフリッツ・スプリングマイヤーが「ロスチャイルド家はニムロード(NIMROD)の子孫だ」と指摘していることに着目している。

 

<ニムロード>

・その人物は、旧約聖書の創世記の中に出てくる。その第10章ではノアの子であるハムの子クシの子どもとして描かれている。

 

・彼はこの世界の最初の権力者となった。彼はヤハウェの前に力ある猟師であった。それで「ヤハウェの前の力ある猟師ニムロドのごとし」という諺がある。彼の王国の主力はシナルの地にあるバベル、エレク、アッカド、カルネであった。その地から彼はアッシリアに出て、ニネベ、レホボスイル、カラハの間のレセンを建てた。カラハは大きな町であった。

(『旧約聖書  創世記』)

 

 ・ここでは、ジョン・ロナーの『天使の事典』にニムロードについての概要がわかりやすく紹介されているため、その箇所を抜粋したい。

 

・聖書に記されている万能の狩人で、バベルの塔建設の際の厳格な監督者。古代ユダヤの伝説では、バベルの塔ネフィリム(人間の女性と性交渉を持ったために堕落した悪い天使たちの子孫)によって建設されたということになっているものもあるので、この場合、ニムロドも堕天使の子孫であるということになる。

 

・ニムロドは聖書のなかでは太祖のひとりクシュ(筆者註・クシ)の息子であり、父は溺愛していた息子に値段がつけられないような貴重な贈り物をした。ニムロドが譲り受けたのは、アダムとイヴがエデンの園から追放された時に神から与えられた魔法の皮だったのである。狩人であるニムロドがこの皮を身につけると、野の動物たちはその姿を見ただけで倒れ、彼と格闘して勝てる人間はいなかった。強大な力を手にしたニムロドはだんだんと邪悪になっていった。やがて彼は世界を支配し、不敬にも自分を神であると名乗った。ニムロドの悪行は、手下の者たちを使ってバビロニアに巨大な塔を建設させ、人間を天国に侵入させて略奪させようとたくらんだところで頂点に達した。

 

つまりニムロードは堕天使すなわちルシファーの子孫であり、強大な力を手にした、神への反逆者ということだ。その人物の子孫であるとされるロスチャイルド家・・・。これが本当ならば、いま現在までニムロードの血が続いているということになる。

さらにニムロードは、モレークという悪魔を信仰しており、その悪魔にささげるため、子供をいけにえにするという儀式をやっていたとされ、これは先述した、ボヘミアン・グローブでの儀式とそっくりなのだ。

 

ルシフェリアンのルーツ

・私が調べたところによると、ニムロードはエジプトを支配してきた謎の多い異民族ヒクソスとともに、人間を家畜のように飼おうとしたようだ。

 このヒクソスというのは、バビロニアにもともといた農耕民族を侵略した遊牧民族として知られている。

 彼らは人間を、羊のように、いうことを聞く家畜として飼う方法はないだろうかと考えていたという。これがニムロードの考え方と一致したのであろう。

 そして、人間を支配するにはこの世の三つを管理すればいいことに彼らは気づいた。

 一つ目は、餌の管理。つまり食糧の管理だ。

 日本では昔、お米に一石という単位があって、これは人間一人が一年間生きていくのに必要なお米の量だった。そして、大蔵省というものが昔からあったが、そこがこの米を管理していたのである。

 

・二つ目は暴力。暴力を使って人を支配する。

 簡単にいってしまえば、いうことを聞かないと殺すことができる仕組みのことだ。これは、後に死刑も規定する法律に進化して、人を支配するようになった。

 三つ目は情報や知識の管理。

 これはいまなら、人々に情報や知識を紹介するメディアということになるだろう。

 ニムロードやヒクソスは、この三つを支配すれば、人を家畜のように飼えるという結論に達した。

 では、いま現在、これらを管理しているのは誰だろうか?詳しくは後述するが、お金、法律、情報、これらを管理しているのが、西洋社会にいる大資本家なのだ。

 

・ニムロードやヒクソスは、この三つを支配すると同時に、便宜的に、抽象的な神様という概念、そして、その神様の力を持っている実在の集団も作り出したようだ。これがルシフェリアンのルーツである。

 昔から、この実在の神様集団の存在に気づくと、その組織に加入するか、抹殺されるかの二者択一を迫られた。この組織の持つ秘密性のためである。現在も、この二者択一が迫られることに変わりはない。

 ちなみに、悪いことをした結果お金持ちになると、「この人は悪魔に魂を売った」というような言葉で罵られることがあるだろう。これは、古代から使われてきた言葉で、実際に悪魔組織、すなわちルシフェリアンに身売りしたという意味なのである。

 ニムロードが作ったとされるこのルシフェリアンという組織は、西洋の歴史に隠されてきた。そして、その勢力は家畜のように支配する方法をずっと考えて、いまも生き続けている。ロスチャイルドをはじめとする大資本家も、すべてこの行動原理によって動いていると思われる。

 旧約聖書の舞台となっている遥か昔から、途切れずに続いている彼らの隠された世界。

 

二つあるユダヤ人の起源

・ルシフェリアンの話をする前に、ハザール王国の話をしなければならない。

 7世紀頃から、カスピ海の北に興ったハザール。この国は、イスラム教を国教としていたイスラム帝国と、キリスト教を国教としていた東ローマ帝国に隣接しているという非常に難しい地域にあった。当時の世界は、キリスト教イスラム教の二大勢力に分かれていたからだ。

 

キリスト教イスラム教も、旧約聖書の真理を認めている。その結果、両宗教からも、より理解されるユダヤ教が選ばれたのである。ハザールは、両隣接国との争いを避けるために、ユダヤ教を選んだのだ。

 こうしたことで、いまからおよそ1000年前に、血縁的にはほとんどユダヤ人と関係のない大量のハザール人がユダヤ教に改宗して、いわゆるアシュケナージといわれるユダヤ人が大量に生まれることになった。

 一方、ユダヤ人にはスファラディといわれる人たちもいる。これは、聖書ではアブラハムやイサク、ヤコブの子孫にあたるとされている。「本当の血統を受け継ぐユダヤ」だ。

 

・話をハザール王国へ戻そう。

 ハザールのユダヤ教への改宗は、争いを避けるためにしたもので、その場しのぎの見せかけだった。しかも、この組織のトップの人たちのなかには、モレークという悪魔を信じている人(ルシフェリアン)も混ざっていたのだ。

 

寄せ集めで作られたキリスト教

・ニムロードが神への反逆者であったことは指摘したが、ルシフェリアンという組織は、とりわけ伝統的キリスト教カトリックに対して、アンチテーゼの立場にいた。

 

・また、キリスト教では、マリアが存在するが、これはローマ帝国でも崇拝されたイシス女神が元になっているようだ。

 このように、さまざまな宗教を合わせて作られたのがキリスト教なのであるが、絶対に手を出してはいけない宗教にまで彼らは手を出してしまった。そう、ルシフェリアンが信仰していた宗教である。

「キリストが死後3日目に生き返った」という教えがあるが、じつはこれが古代バビロニアで信仰されていた太陽の神様と関係しているのだ。

 

プロテスタントを作った人々の正体

・ルシフェリアンをアンチキリストではなく、アンチカトリックと書いたのには訳がある。聖書をキリスト教の唯一の源泉にするというのがプロテスタントの始まりだが、この組織のトップに君臨するものは、ルシフェリアンではないかと私は推測するからだ。

 

お金を支配することで人間を支配

・ニムロードやヒクソスは、人間を家畜のように飼うには3つの支配が必要であるとしたが、その1つがお金であったことを思い出していただきたい。まさに大資本家がルシフェリアンの流れを汲んでいるということがわかるであろう。

 

フランス革命カトリックを潰すため?

・ルシフェリアンが、旧体制を壊すさまざまな革命を作り出し、支援していたことは、この章の冒頭で述べた。ここでは、さまざまな革命を彼らが操っていたという証拠を列挙していきたい。

 まずは、1789年から始まったフランス革命。その後の民主主義の土台にもなったが、同時に理性を絶対視し過ぎたため、その後に生まれた社会主義共産主義の土台にもなったといわれている。

 私は、この理性を絶対視するという理想が背景にあるフランス革命は、ルシフェリアンがカトリックを潰すために作ったものではないかと考えている。

 

・また、このフランス革命自体が、ルシフェリアンが隠れ蓑にしていたフリーメーソンの会議によってできたものだというのである。

 フランス革命のための差し迫った計画は1781年、ウィルヘルムバードで開かれたフリーメーソンの国際会議(のちには集会の名で知られるようになった)で練りあげられていた。この集会には、のちロンドンに居ながらにしてフランス革命を指揮することになるシェルバーン卿はじめ英国からの7名の同志の他、レッシング、ミラボー、ドーム、フランスのイルミナティの代表団、そしてワイスハウプトの代理人クニッゲが参加した――「この集会がフランス革命への道を開いた」

 

・その組織というのが1776年5月1日に設立された秘密結社、イルミナティといわれているものだ。

 ワイスハウプトは、この秘密結社を使って、キリスト教をはじめ、全宗教を破壊することを企み、世界各国の政府を乗っ取ろうとした。もちろん、アンチカトリックの立場は変わらず持っていたのである。アンチカトリックに、世界各国政府の乗っ取り……。

 もう読者は気づいているだろうが、彼もルシフェリアンの一人、もしくは、ルシフェリアンに操られていた一人ではないかと私は睨んでいる。イルミナティも、ルシフェリアンの流れを持つ秘密結社ということだ。

 そして、フランス革命は、彼らの「ほぼ」思い通りにことが運んだ。「ほぼ」というのはどういうことかといえば、ワイス・ハウプトが唱えていた国際共産主義を実現できなかったからだ。しかし、結局この国際共産主義は、100年以上後に起こったロシア革命で実現することになるのだが………。