日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

松下政経塾では、いろいろなことを体験しましたが、すべての教えの中心にあるのは「現地現場主義」ということだったと思います。(1)

 

政権交代の試練』

ポピュリズム政治を超えて

前原誠司  新潮社  2012/11

 

 

 

政権交代

・私たちは2009年の政権交代で以下の三点を主に訴えました。

  • 税金の使い道を変える
  • 中央から地方に
  • 官から民へ

 現に、この3年間で公共事業を32%削減し、他方、社会保障費16%、文教関係費は9%増やしました。その結果、満額ではないものの子ども手当は1兆円から2.3兆円に増額され、それまで小学6年生までだった支給対象が中学3年生にまで拡大されました。また、高校授業料の完全無償化は実現され、経済的理由で高校に行けない子供や中退は大幅に減りました。

 

・実際、診療報酬のプラス改定により、赤字経営の公立病院は8割から5割に減りました。

 また、地方交付税を増額し、地方分権を強化するために、より使い道が自由な一括交付金も導入しました。また、農家への個別所得補償も、約75%の農家が肯定的な評価を下すと同時に、農業の競争力強化を目指した農業の集約化、大規模化のインセンティブにもなっています。

 このように、政権交代で何も変わらなかったわけではありません。着実に、日本は変わり始めています。

 では何故、民主党に対する評価が低いのでしょうか。一つは、言ったことがキチンと実行されていないからだと思います。その典型的な例が普天間飛行場の移転問題です。

 

私が敢えて個々の民主党の国会議員、特に大臣経験者に問いたいのは、マニフェストを実現するために、どれだけ真剣に霞が関と対峙したかということです。

 例えばマニフェストの一つとして「天下りの根絶」ということが掲げられていました。私も国土交通大臣としてこの問題に取り組み、天下り先となっていた大きな公益法人などに対して民間への移管か、廃止かという二者択一を迫りました。

 

・政治家を志す者であれば、誰もが手に取る本にドイツの社会学マックス・ウェーバーの『職業としての政治』があります。その最後の部分にこう記されています。

政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。(中略)現実の世の中が――自分の立場から見て――どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職』を持つ

 まさに、政治家としての心構えが要約された文章です天下りのように役所の中で長年続いてきたことを変えるには、この「それにもかかわらず!」の精神で、かなりの気概と迫力を持って臨まなければなりません。

 

・しかし、党内を見回すと、大臣や副大臣政務官など各省の重要なポストに就いた人でも、天下りなら天下りの問題にどれほどきちんと取り組んだのか疑問に思えるケースが少なくない。それが正しいと思うなら、どんなに抵抗を受けても信念を貫き、一歩一歩進まなければならないのに、自信がないために、日和見を決め込み、結局、官僚組織に乗っかるだけになってしまった人達もいる。こういう姿勢が、現在の民主党の低い評価につながっているのではないでしょうか。どれだけ真剣に「それにもかかわらず!」の精神を貫けたのか、私自身はもちろん、党全体で大いに反省すべきだと思います。

 

政権運営を担ううちに「非自民」の集まりであるという政党としての一側面が矛盾となって吹き出してきたことが大きな原因だと考えています。野党時代は「打倒自民」「政権交代」ということで結束を固められましたが、与党になるとそれぞれのグループが持つ理念や政策、手法の違いが際立って、そのことが政治の混乱をもたらす一因となってしまいました。

 この点について、誤解を恐れずに言えば、日本の二大政党制は今なお過度期にあるというのが、私の考えです。

 

そもそも、私は大学時代に国際政治を学んだことがきっかけとなって、政治家を志しました。当時はまだ、米ソ冷戦の真っ直中で、場合によっては世界戦争に巻き込まれてしまう可能性もある中で、「顔が見えない」と言われた日本の外交に危機感を抱いたことが直接的な動機でした。

 

・大学を卒業後、松下政経塾を経て、1991年に28歳で地方議員となりました。その後、政治改革が焦点となった1993年の総選挙で国会議員に初当選し、議員生活は現在まで6期19年となります。

 

・この20年ほどの間、日本に起こった最大の変化は、かつては一流と言われた「経済」が、バブル崩壊を境にすっかり凋落してしまったことです。しかも、経済の低迷が長引く中で、日本は財政赤字の拡大、人口減少、少子高齢化の進展という構造的な制約要因を抱えるようになっています。

 

こうした日本の「相対的国力の低下」を見透かしたかのように、周辺諸国が領土問題で攻勢を仕掛けてくる――。まさに内憂外患という言葉がピッタリの状況です。

 19世紀の哲学者、経済学者であるカール・マルクスは「下部構造が上部構造を規定する」と述べています。下部構造とはすなわち経済ですが、その基盤がしっかりしていて初めて上部構造である政治や文化などの観念的な活動が成り立つということです。

 

・もちろん、私はマルクス主義者ではありません。資本主義の競争原理を働かせる中で、経済成長を実現してくべきだというのは、私の基本的なポリシーです。

 ただし、経済という岩盤は出来るだけ厚くしっかりしていなければなりません。そういう観点から、市場原理を過度に重視して弱肉強食となるような、行き過ぎた新自由主義には反対します。貧富の格差が極端に広がって社会が不安定化することで下部構造を弱め、ひいては日本という国全体が弱くなってしまうからです。

 私はなにより成長を重視しています。そして、成長によってパイが拡大した部分で、社会保障などのセーフティーネットを充実させ、経済基盤をより強くする。その上で、きちんとした国家戦略を立てて、日本を力強く再生させていく、それが私に課せられた使命だと考えています。

 

・伝記作家の小島直記先生は非常に厳しい方で、「肩書を求める人間はダメだ」、「テーマをもって生きろ」ということを過去の歴史上の人物を例にとって論じ、徹底的にわれわれに叩き込んでくださった。

 

・「なっちゃいけない」という典型例として挙げられたのが山縣有朋です。明治の元老の一人だった山縣は、東京の椿山荘や京都の無鄰庵など豪華な邸宅や別荘を七つも作ったそうですが、まともな活動でそんなにお金が入るわけではない。地位を求め、財を求めた結果だというのが先生の見解でした。

 

統一地方選への出馬を決断

・実は、この年の初めから半年間ほど、塾の先輩である山田宏さんの都議会議員選挙を手伝い、自分なりに選挙活動のノウハウを勉強し始めてはいました。JR荻窪駅から歩いてしばらくのところにアパートを借りてもらい、そこに住み込んで毎朝駅前で行なう街頭演説の手伝いや、有権者への戸別訪問、事務所の事務や会計、選挙が公示された後には、選挙カーの運行計画作りやポスター貼りなどありとあらゆる仕事をこなしました。最初は私一人で寝泊まりしていたアパートの部屋も選挙が近づくにつれてだんだんボランティアの学生など人が増えていき、最後は部屋中に人が一杯で雑魚寝となり、これが選挙の熱気なのだなと実感した覚えがあります。

 

松下政経塾の後ろ盾

・同じ頃、私はワコールの会長をされていた塚本幸一さんにお目にかかる機会を得ました。もちろん、松下政経塾の後ろ盾があってのことです。当時、塚本さんは京都商工会議所の会頭もされていて、当然、バリバリの自民党支持です。

「君はどこの馬の骨か分からんけど、私は幸之助さんにはたいへんお世話になった。だから、幸之助さんへの恩返しのつもりで君を応援してやる」

 ワコールの本社を訪れた私に、塚本さんは開口一番そうおっしゃいました。

 

・もちろん、これも松下幸之助さんの存在があってのご縁です。幸之助さんは大宗匠の玄室さんと懇意にされていて、そういう関係から茅ヶ崎政経塾の中には茶室まで作られたほどでした。その政経塾の塾生が京都から初めて選挙に出るというので、それは応援してやらないかんだろうということで、献金はもちろん裏千家の人脈でいろいろな方々をご紹介していただきました。また、1993年に私が最初に国政選挙に出馬したときには供託金すらなかったのですが、その時もお家元からの献金でなんとか工面することができました

 結局、私は幸之助さんの掌の上に乗っかり、政経塾というネームバリューで、なんとか資金集めもし、有権者の方々にも信用していただいて、選挙戦を戦ったというのが、正直なところです。

 

戸別訪問1万軒、得票9678票

・政治活動は出鼻をくじかれた形となり、私はいきなり厳しい現実に直面しました。それでもやるべきことはやろうと、月曜から土曜は毎朝7時半から9時まで街頭に立って演説し、10時から夕方の6時、7時くらいまで個別訪問、その後は事務所に帰って夜遅くまで残務を整理するという毎日でした。

 

・そして、1991年4月7日、運命の投票日を迎えました。結果は9678票を獲得し、おかげ様で3位で当選を果たし、私は政治家となりました。約8カ月間選挙運動に汗をかいて個別訪問したお宅が1万軒でしたから、その数だけ票を得た計算です。

 

新人議員の日々

・「3期12年地方議員を務めて、40歳くらいで国会議員を狙う

 それが当時、私が自分なりに思い描いていた人生設計です。

 もちろん、お金の問題もありました。府会議員に当選するのですら多くの方々から献金をいただいた上、あちこちに借金まで作りました。これが国会議員の選挙となれば、いったいいくらかかるのか。当時、衆議院議員はまだ中選挙区の時代でしたから、選挙には億単位の金がかかるといわれていました。私にとっては、まさに天文学的な金額です。だから、とりあえずは足場を固めるしかないというのが、正直なところでした。

 さらに、どの政党に所属するのかということも問題でした。

 

日本新党誕生

・私も府会議員の選挙戦では政治と金の問題をとりあげ、

とにかく今の選挙制度はお金がかかりすぎる。それが利益誘導型政治につながり、腐敗の温床となってきました。政治改革、選挙制度改革を通じて利益誘導型の政治を打破します

 そう訴えて当選していましたから、自分としては自民党に入ることには違和感を覚えていたのも事実です。

 

時代のうねりの中で

・しかし、時の人だった細川さんから出馬要請を受けたと聞いて、慎重論を唱えていた方々も態度が変わってきました。

「光栄な話じゃないか」

「こういうチャンスは人生に何度来るか分からんぞ」にわかに、そんな意見が飛び出すようになりました。

「これで決断しなければ、男が廃る」

 最後には、そんな威勢のいい話になって、私としても腹を括りました。2回目以降のことは考えずに、日本新党に賭けてこの選挙で政治を変える――。

 そんな決意を胸に出馬要請を受けたのは、1993年5月下旬のことでした。

 

代表辞任から得た教訓

物事には長引かせていいことと、長引かせたらまずいことがある――。

 端的に言えば、それが私がメール事件から学んだ最大の教訓です。

 その後、菅政権で私が外務大臣を務めていた時に発覚した在日外国人の方による献金問題に際しても、私はこの教訓を活かしたつもりです。正直言って、なんでこれくらいで辞めるのかという意見も、周囲にはありましたが、衆議院参議院がねじれた状況で、私の問題で政権の身動きが取れなくなっていくことだけは回避したいと考えました。それがあの辞職につながったのです。

 

リーダーとしての責任を痛感

・この章の最後に、大変つらいお話をしなければなりません。

 永田寿康君は、2009年1月に自ら命を絶ってしまいました

 この知らせは私にとっても大きな衝撃でした。とにかく、お墓参りだけはしたいと考え、人を介してご遺族の方にご相談したのですが、遠慮して欲しいということでした。ご心中を察すれば、仕方のないことだと思います。

 

結局は「最後の田中派」に過ぎなかった小沢政治

国交省独自の成長戦略を策定

日航再生への取り組み

・官僚や日航の経営陣が言ってくることは全く信用できないので、自分たちで日航の本当の経営状態を把握しようと考えたのです。その結果、日航はグループ会社も入れて2兆3千億円という、途方もない負債を抱えていることが明らかになりました。

 

企業再生支援機構の活用を決断

<「三顧の礼」で実現した稲盛会長

・稲盛さんは松下政経塾との縁も深い方であり、特に国会議員になって以降、私もよくご挨拶にお伺いするようになりました。

 

・そこで一計を案じて、次は企業再生支援機構の幹部に、稲盛さんの所に行ってもらったのですが、結局ダメでした。それでも辞めずに、また頼みに行って、3回目でようやく受けてもらえました。まさに、三顧の例です。

 

公共事業削減目標を1年で達成

・公共事業の見直しは、民主党の選挙公約だったばかりではなく、これまで何度も述べて来た通り、高坂正堯先生の「遺言」でもありました。

「膨らみ過ぎた公共事業費を減らさんと、大変なことになるぞ」

 だから、やや生意気なことを言えば、国交大臣は私にしかできないぐらいの考えで、何とか公共事業の改革に一定の道筋をつけたいと考えていました。

 公共事業予算自体は、自公政権末期の数年間で大幅に減らされ、すでに国費ベースで半減していましたが、それでもGDP比では3%を超えており、他の先進国が1%から2%であることを考えれば、まだまだ削減の余地は十分にある状態でした。

 公共事業の中でも、私は特に道路と河川の見直しが必要だと考えていました。

 道路建設にしろダム建設にしろ、その計画の多くは日本が右肩上がりの成長を続け、人口も増え続けていた、1970年代から80年代に立てられたものです。

 

・公共事業は、一旦動き出せば、いかに社会や経済の状況が変わろうとも止められない、というのが半ば常識となっていました。特にダム建設は、計画の策定から長い年月を経て、当初、想定されていた環境が大きく変わっても、国は方針を変えようとしません。その象徴が熊本県の川辺川ダムや群馬県八ッ場ダムでした。

 

・私は国交大臣への就任会見で、この二つのダムの建設中止を明言しました。ダム建設には利水、治水、発電などの目的がありますが、計画策定から長い時間を経たために、その多くがすでに失われているという判断をしたからです。

 

八ッ場ダムは建設再開となったが

八ッ場ダムに関しては2011年の暮れにひっくり返されて、建設が再開されてしまったからです。官僚個人の考えはともかく、総体になると、官界の体質というのは一朝一夕には変わらないということを、改めて思い知らされました。

 

なぜ消費増税に取り組んでいるのか

・消費税問題に関しては、そもそも私はデフレ脱却が先だと主張してきました。デフレを脱却せずに増税すると、景気が回復せず、結局税収も上がらないと考えたからです。

 ただし、国と地方をあわせた借金は約1千兆円にも膨れあがっていることも十分に認識しなければなりません。

 

マニフェストの成果と反省点

・話をマニフェストに戻します。マニフェストでは様々なことをお約束しながら、実現できていないことがいくつかあります。

 ただし、すでに述べた通り、例えば「高速道路の無料化」や「ガソリンの暫定税率の廃止」などについては、私としては当初から納得できない政策でした。

 

 

国家戦略

・私はこの国には「国家戦略」が欠けていると、国会議員になった約20年前から、ずっと考えてきました。国会戦略があれば、国の借金はこれほど膨れあがらなかっただろうし、出生率や食料自給率、エネルギー自給率なども、これほど低下するまで放置されなかっただろうと思います。

 

・従って、私に与えられた最低限の仕事として、2012年末を一つの区切りとし、次のことに一生懸命取り組む決意です。

  • 民主党政権が本来求めた、政治主導の予算編成のもととなる「予算編成の基本方針」を取りまとめる。
  • 2030年代に「原発ゼロ」を目指すため、どのように自然再生エネルギーを現実的かつ意欲的に拡大していくのか、あるいは省エネ・節電をイノベーションも含めて普及させていくのかという工程表となる「グリーン政策大綱」を取りまとめる。
  • 使用済み燃料の最終処分や原発の安全性向上、廃炉など、原子力委員会に代わって今後の原子力行政を司る組織案を提示する。
  • 円高基調の是正やデフレ脱却に道筋をつけるための取り組みを実現する。

 

政治家への道

松下政経塾との出会い

・すると、偶然にもゼミの先輩で政経塾に行った人がいるので、一度会ってみたらどうかということで、紹介されたのが山田宏さんでした。

 

・山田さんは松下政経塾の二期生で、後に衆議院議員や東京・杉並区の区長を務めることになりますが、この頃はまだ東京都議会議員に初当選したばかりでした。

「前原、政治家になりたいんだったら、今すぐ下に降りて、街頭で演説してみろ」

 初対面の私に、いきなりそう切り出してきた山田さんの迫力に面食らったのを覚えています。しかし、山田さんの熱のこもった話には大いに魅了され、松下政経塾に入ろうと決心しました。おそらく、カリキュラムがどうこうというような細かい説明より、山田宏という人物に政経塾を見たのだと思います。

 

・面接官は松下本社の役員や政経塾の幹部など四、五人。

国際政治に取り組んで、日本の国際的な地位を向上させたいと考えています

 私が志望動機をそう述べたので、当時、政経塾の理事だった緒方彰さんが、もっぱら私を面接することになりました。緒方さんは、NHKでワシントン支局長や解説委員長などを務めたジャーナリストで、国際問題のエキスパートとして塾に招かれた方です。その他、当時の宮田義二塾長もいくつか質問されたのを覚えています。

 

痛恨の留年

・そんな激動の1年も幕を閉じ、あとは3月に卒業するのを待つばかりとなった時、私は痛恨のミスを犯してしまいました。最後の試験でドイツ語の単位を落として、卒業できなくなってしまったのです。

 やや言い訳がましくなりますが、高坂ゼミでの国際政治の勉強を中心に、軟式野球のクラブ活動、塾講師やその他さまざまなアルバイト、さらに大学院進学を考えての必要単位の取得など、ややアルバイトに偏重していたものの、自分としては学業もスポーツもこなし、計画的に学生生活を送っていたつもりでした。しかし、本来は第二外国語として、1回生、2回生の教養課程の段階で取得しておくべきドイツ語の単位を、4回生まで持ち越した挙げ句に、落としてしまうというのは、まさに大失態としか言いようがありません。

 

険しい道のりを楽しむ心意気で

・京都に帰ってほどなくして、松下政経塾から二度目の合格の知らせが届きました。二度の合格を果たしたのは、30年以上続く政経塾の歴史の中でも私くらいではないでしょうか。その後、留年の元凶となったドイツ語の単位は予備の分まで2つとも取得し、ようやく大学を卒業することができました。

 

松下政経塾というのは経済人により創立されたこともあり、「政治と経済」の塾だと見られがちですが、幸之助さんの考えは違っていて、「政治を経営する」というのが真意だったそうです。

 政経塾が創設された当時の政治家には、経営感覚というものがほとんどありませんでした。だから、国政に携わる者は国家経営者に、地方政治に携わる者は地域経営者になる必要がある。そういう経営感覚を持った政治家を育てていきたいというのが塾の基本理念でした。私は、この政治の経営感覚というものを塾で学んだと自負しています。そしてなにより、私のような普通の家庭に生まれた人間にも政治を志す道を用意してくれたことには、本当に感謝しています。

 

政経塾の一日

松下幸之助さんは掃除の大切さを説かれていたそうで、敷地内の木にはわざわざ葉っぱの落ちる広葉樹が植えられていました。落葉の季節などは竹箒で掃いても掃いても枯れ葉が落ちてきて、これにはかなり閉口しました。便所掃除もスポンジを素手で持って、直接ごしごしと便器を洗う。土日以外は毎日掃除するので、政経塾の便所はいつもピカピカでした。

 

・ただし2年目以降は、それぞれの塾生が自分で考えたテーマに応じてプランを立てて、日本国内はもとより海外へも飛び出して行ってドンドン実地の研修をするので、その下調べや準備などを含めて寮を留守にすることが多くなる。そうすると、何週間、場合によっては何カ月も同室の人と会わないということになってしまう。だから、逆に1年目の共同生活は貴重な経験だったと言えるでしょう。

 

コロラド大自然の中で

松下政経塾の2年目は4月から米国へ研修旅行に出かけました。当時、日米貿易摩擦が深刻化する中で、米国から米や牛肉の貿易自由化を求められていました。

 

・実は海外旅行がこれが初めてでした。しかも、ガイドや通訳などは付きません。ひとりぼっちで下手な英語に四苦八苦しながら研修を続けたのは、今ではいい思い出です

 

中国への違和感

・その翌年の1989年に中国へ研修旅行に出かけたことは、第2章で述べました。

 私は中国語ができなかったので、この時は現地の中国青年旅行社の人を通訳兼ガイドとして雇って、深圳から大連まで2カ月間のすべての行程を同行してもらいました。彼の分の交通費や食費、宿泊費を含めて通訳代は全部で90万円ほどかかったと記憶しています。基本的に海外研修の費用は松下政経塾が負担してくれるはずなのですが、この通訳代に関しては「中国語がしゃべれないのは君が悪い」という理由で、自己負担となりました。もちろん、私にそんな大金を用意できるはずはありません。結局、全額を政経塾から借金して、後に議員になってから毎月分割で返済しました。

 

しかし、最後まで中国という国に親近感を覚えることはありませんでした。中でも最も辟易したのは、コネと賄賂が横行していたことです。

 

・日本の企業も、中国に進出してまず最初にぶち当たる壁は、頼るべきコネがないということです。しょうがなくコネ探しから仕事を始めるのですが、いくら良いコネが見つかっても、お金を握らせなければことはなかなか動かない。ある日本企業の駐在員は握らせるお金をどのように帳簿に載せればいいのか、本当に困っているとこぼしていました。

 

・その他、日中の合弁企業や日本の独資企業、中台の合弁企業、郷鎮企業などを50ヵ所以上見て回ってつくづく感じたのは「中国は金の卵を生む鶏を殺してしまうかもしれない」ということです。

これは実はアモイから上海に向かう飛行機で、隣に座った台湾人実業家が私に語った言葉なのですが、彼によれば、合弁事業と言っても必ず地元の共産党の書記が幹部として入っていろいろとチェックしてくるし、中国人職員による労働争議にしてもそういう共産党の幹部が煽っているふしがあるというのです。私も現地で働く日本人ビジネスマンから、中国ではそういう政治の介入により事業を軌道に乗せるのが難しいし、多少うまくいったらいったで、今度は中国側に乗っ取られるということが頻発していると聞きました中国ビジネスというのは容易ではないなとつくづく実感した覚えがあります。

 

「まあ、ガンバレヤ」

松下政経塾では、座学や国内外での研修以外に茶道、書道、剣道、さらに座禅までいろいろなことを体験しましたが、すべての教えの中心にあるのは「現地現場主義」ということだったと思います。創設者である松下幸之助さんは、常々こうおっしゃっていたそうです。

 君たちは座学は終えてきている。後は現場に行ってよく見ろ、教室ではなく広い社会で自問自答を繰り返せ。そして政治をやるのであれば、現地現場主義を徹底的に骨の髄まで浸透させろ――

 

 

 

『「政権交代」 この国を変える』

岡田克也   講談社  2008/6/18

 

 

「座談会」と呼ぶ、私が最も大切にしている集いがある

・週末ごとに地元・三重県で20人、30人規模で開催する対話集会のことだ。私は、この座談会を20年間にわたって繰り返してきた。2005年秋に民主党代表を辞任したのちも、1万人を超える方々と膝を突き合わせて対話してきた。

 

政権交代ある政治、これこそ私が、いままでの政治生活の中で一貫して主張してきたことだ。

 

政権交代とはどういうことなのか>

・同じ民主主義、市場経済を基本とする体制の中で、どちらの党の政策がよりよいか、具体的な政策を国民一人ひとりが選ぶこと。

 

・選挙運動を始めてから地盤が概ね固まる当選2回までの間に、通算すると5万軒、いや7万軒は訪ね歩いたのではないだろうか。すべての活動の基本は有権者との直接対話だという、私の考えは今も変わらない。

 

・代表辞任後のこの2年9ヶ月間、私は、地元で350回、延べ1万人を超える有権者との対話の場をもってきた。週末はよほどのことがない限り地元に帰って、公民館とか神社の社殿とか、ときには個人宅をお借りして、平均30人ぐらいの集会を開く。私は、これを「座談会」と呼んでいる。

 

自由で公正な社会を実現する

・市場にも限界がある。競争政策、市場メカニズムを活用すれば、そこからこぼれ落ちる人が必ず生じる。それは政治が救わなければならない。

 

公正な社会を実現する

・社会的公正とは何か。私は、中間所得者層の厚み、実質的な機会の平等、セーフネット、世代間の公平―以上の4点を挙げたいと思う。

 

 

 

ハマコーの証人喚問』

国民のために代表質問いたします

浜田幸一  光文社   1994/7

 

 

 

なぜ、日本は北朝鮮の行動を把握できないのか――中山正暉(元郵政大臣

ハマコーの冒頭陳述

中山正暉君と私は、昭和44年初当選の同期であるが、中山君とのつきあいはその4年ほど前、彼が大阪市議、私が千葉県議のときからのものであった。

 彼の家は根っこからの政治家一家で、お父さんの福蔵さんは弁護士から参議院議員になり、お母さんのマサさんは、池田内閣時代に初の女性大臣として厚生大臣を務められた、やはり国会議員であった。そしてお兄さんが中山太郎外務大臣である。

 つまり、田舎者でガラの悪いハマコーとは比較にならないエリートなのだが、なぜか妙にウマが合い、昔もいまも変わらぬご厚誼を賜っている。

 

・それに加えて、思想、哲学、世界観等でも卓越したものを持ち、とりわけ国家安全保障の問題について語らせたら、政界広しといえども彼の右に出る者はいないはずである。

 そういう意味では、中山君は古くからの親友である以上に、私の先生でもあった

 それはそれとして、ソ連邦の崩壊に続く東欧共産圏の相次ぐ崩壊によって、東西の緊張、冷戦構造が崩壊し、世界は一気に平和へと向かう見方が大勢を占めた時期もあった。

 しかし、私はソ連が崩壊した直後から、「冷戦構造の終結は局地戦争の多発化につながる」と主張し続け、現に世界のいたるところで民族戦争、宗教戦争が勃発し、こうした局地戦争は今後も増加の一途をたどる危険性を秘めている。

 

結論から先に言うと、私は中国と北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)の一党独裁体制が崩壊しないかぎり、北東アジアの冷戦構造は終結しえない、と見ているが、問題はこうした日本を取り巻くたいへん厳しい、そして危険な状況を、政治家が、そして国民のみなさんがどの程度認識しているか、ということである。

 

・その日本が、これから先、地球上に長期的に生存するためには、ウサギと同様、世界のあらゆる情報をキャッチし、分析し、それに的確に対応することが必要なのだが、こうした諜報戦略活動の面においても、日本は大きく立ち遅れている。

 

・たとえば、虚仮威しではなく、いまは北朝鮮から日本にいつミサイルが飛んできてもおかしくない状況なのだ。しかし、現在の北朝鮮がどうなっているか直接情報を入手する手立ては皆無に等しい。

 したがって、アメリカや中国におすがりして、「何とかよろしくお願いします」と頼むしかない。

 こんなことで、日本は独立国だと言えますか?日本国及び日本人が長期的に生存できるとお考えですか? みなさん。

 これぞ、私が中山正暉君に、警鐘乱打してほしいと思うゆえんである。

 

アジアにおける冷戦は終わっていない

・(中山)「大変な時代になった」というのが偽らざる気持ちですが、まず、1989年11月6日にベルリンの壁が崩壊して、冷戦構造が、これまた崩壊した。けれども、現在世界の28カ国で民族、宗教問題で混乱が起きたり、また、起きつつある。旧ユーゴスラビアボスニア・ヘルツェゴビナがその最たるものですが。

 

・ほかにも突出しては北朝鮮があり、日本の周辺にはいちばん物騒なところが残っていると言っても過言ではない。

 

日本は北朝鮮の行動をまったく把握できない

(浜田)話を進める前に、私は領土権、領海権、領空権はもとより、国家の安全保障を主張できないような国は独立した<国家>と言えない、と。

 この点については、誰になんとも言われようと譲歩する意図はいささかもないんです。

 そこで、国家安全保障の問題を含めて<諜報戦略活動>に話を移したいと思うんですが、世界のなかで、強力な国家として安全性を維持しなければならない国々の場合、憲法の条文や党是のなかに、必ず諜報戦略活動が盛り込まれているんですね。

 

・(中山)話は横道にそれますが、金日成の息子・金正日というのは、以前金正一といって、これには、「南北朝鮮の統一」という意味があったそうです。

 それが、“正日”に変わったのは、「日本に正義を立てるため」という説すらあって<労働3号>が1300キロメートル飛ぶということは、日本全体が射程のなかに入るわけです。

 ところが、こうした情報もアメリカに頼りきりだし、いざとなったら、「中国が北朝鮮をなだめてくれるだろう」なんて声すらある(苦笑)。

(浜田)では、今後北朝鮮がいかなる行動に出るか、日本はまったく把握できてない、と。

(中山)把握したくても、「平和な日本」では、そういう情報をつかさどる機関がまったくないし、ますますそういうものが作りにくくなった。

 そういう意味では、あなたの言うように、日本は<国家>の態をなしてないかも分かりませんね。

 

手品の鳩はすぐ消えても、ロシアの軍隊は消えない

・(中山)ソ連邦は530万のそれとは別にKGB(秘密警察)は57万人の国境警備隊を持っていたという。彼に連邦が崩壊しても、「手品の鳩はすぐ消えるけど、軍隊は消えない」ということわざがありますから。

 

北朝鮮に脅威を抱くアメリカは、日本にうんざりしている

・(中山)この間も神奈川県でありましたが、COCOMで規制されている品物を、「儲かりゃ何をしてもいいんだ」と北朝鮮に売る日本人の神経、そういう日本人の常識。それにそういう事態を深刻に受け止めようとしない日本の政治家に対して、アメリカは、「厳罰に処してくれ」と言っているにもかかわらず。

 そういう意味では、「軍事を抜いた政治は、楽器を抜いた音楽だ」という諺がありますが、いまの日本は、「口笛を吹いている国」ですよ

(浜田)私は、アメリカ合衆国の上院、下院の討論をビデオで毎月4本、1年間で48本入手して和訳してるんですが、それを見ると、いま言われたCOCOMの問題を始め悶着があると必ず、「それなら日本の国は日本に守らせろ」という話になるんですね。