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伊勢の祭神をヤマトタケルとみなせば、多くの謎が解けてくる。ヤマトタケルの正体は、ひとりの英雄などではなく、「タニハ連合」の王族たちであり、「タニハ連合の墓場」が、伊勢神宮だった。(1)

 

『神社が語る古代12氏族の正体』

関祐二  祥伝社   2014/7/2

 

 

 

日本の古代史は、『日本書紀』の編者によって改竄された。>

神社の「本当の姿」を見極める

天皇家の祖神を祀る神社は、なぜ大和から遠く離れた伊勢につくられたのか。三種の神器のひとつである草薙剣は、なぜ尾張で祀られたのか。

春日大社の祭神は、なぜ四柱もあるのか。物部氏石上神宮の祭祀に関わっていなかったという記述は、本当か。

 名門氏族が奉斎していた神社には、いまだ謎が多い。なぜなら、その「本当の姿」は、のちに改竄された歴史によって幾重にも覆われてしまっているからだ。

 

・常識ほどアテにならないものはない。「神道」といえば、日本固有の宗教と信じられている。海外の人びとも、伊勢神宮などを訪ねては、「日本の伝統的な信仰の神髄に触れられた」といって喜び、帰っていく。

 

・「神道」や伊勢神宮が、いまの形に整備されたのは、律令制度が完成した八世紀の前半と思われる。じつはこのとき、目に見えない、静かな政変が起きていた。藤原氏(中臣氏)が、古くからの豪族、他の氏族を抑えこみ、「一氏独裁」の体制の基礎固めを進めたのだ

その過程で、日本最初の「正史」とされる『日本書紀』は編纂され、歴史は塗りかえられた藤原氏の支配の正当性が強調され、中臣氏の手による新たな「神道」が生み出されていく。こうして、古代豪族や氏族たちの凋落とともに、「神道以前」の信仰もまた、失われていった。

 

よくわからない神道

・「神道」を日本固有の宗教と位置づけ、しきりに喧伝したのは、江戸時代の国学者平田篤胤だった。

 

平田篤胤はこれを、まったく予想外の言い分で反論した。むしろ、日本から中国に伝わったのであるから、似ていて当然と主張したのだ。ゆえに、日本の神道が世界の宗教の大本であると訴えた。たとえば、日本の神話に登場するイザナギは、中国では天皇大帝昊天上帝(こうてんじょうてい)などと呼ばれ、インドでは帝釈天となったと述べている

 まあ、それはご愛敬で済ませよう。いずれにせよ、よくわからない。

 

道教の影響を受けた「天武・持統朝」

古代中国哲学は、北極星を神霊化し、宇宙神「太一(たいいつ)」と呼んだが、これが、大嘗祭伊勢神宮で祀られる祭神の正体だというのが、吉野裕子の説である。

 

前方後円墳の誕生と終焉

・ここで注目しておきたいのは、大嘗祭も、伊勢神宮も、ともに七世紀から八世紀にかけて、本格的に整備されたことだ。そして、この前と後では、信仰の内容も、その祭祀支配者も、大きく入れかわっていた可能性が高い。つまり、このころ、「神道」は大きく性格を変えてしまったのではあるまいか。

 まず、ヤマト建国以来続いてきた「前方後円墳体制」が、約300年後の七世紀初頭に終焉を迎えた。あまり注目されてこなかったが、このことは重大な意味を持っている。前方後円墳は、ヤマト建国のシンボルだったからだ。

 

藤原氏 ―― 春日大社

古くからの信仰地

人づてに聞いた話だが、神道界はいまだに「中臣氏」が幅をきかせていて、「中臣氏にあらずんば……」という空気が流れているという明治になって、神祇省が各社の神職の人事権をわがものにしたとき、多くの中臣氏の末裔が入ってきたという。齋部広成がこれを知ったら、さぞ憤慨したことだろう。お気の毒なことだ。

 中臣氏がいまだに勢力をふるっているのも、その関連氏族である藤原氏が、「日本の神道を完成させて、その維持を中臣氏にゆだねた」からだろう。話は、それほど単純ではないが、おおまかにいってしまえば、そういうことになる藤原氏と中臣氏によって「つくりかえられた神道」に、われわれは振りまわされているのである。

 ならば、藤原氏はなぜ、神道を改変したのか。また、どのように神道をすりかえてきたのだろう。具体的に何をしでかしたのか。

 この謎を解く前に、藤原氏が祀る春日大社奈良県奈良市)について、見ておきたい。

 まず、牧岡神社では、中臣氏の祖神アメノコヤネを祀っていた。ところが、神護景雲二年(768)、平城京の東の隅の御蓋山(みかさやま)(春日山)に、鹿島・香取両神宮からタケミヅチとフツヌシが遷座し、春日大社が創建されると、なぜか牧岡神社でも、鹿島・香取の神を祀るようになったのだ。

 藤原氏が、「中臣の神よりも、尾張・物部の神」と考えたのは、「中臣の神は、もの足りない」と感じたからだが、もっと格の高い神々を勧請し、藤原氏の新たな氏神に仕立てあげてしまったわけである。

 ところで、春日の地は、もともと藤原氏の土地ではない。やはり古い豪族である和邇(わに)氏がこの一帯を支配し、「春日」を名のっていた。霊山と崇められる御蓋山も、この春日氏が古くから拝みつづけた自然信仰の聖地だったと思われる。

 また、春日大社の境内には、平城京が造営される、そのはるか昔から残された原始の信仰形態が残っている。

 

・ところで御蓋山は、春分秋分の朝日を意識した信仰とつながっていた。奈良市を東西に走る「率川(いさがわ)神社」、「天神社」、「春日大社」ラインの先に、「御蓋山」と「春日花山」(春日奥山)が連なっている。

 

支配のシンボルとしての春日大社

・このような太陽のラインは、藤原氏が信仰していたものではなく、もともとあった聖地に、あとから藤原氏が入りこんできたということだろう。なぜ、ヨソサマが大切にしていた春日の地を欲したのかといえば、理由ははっきりとしている。

 平城京遷都は、藤原不比等の悲願だった。何しろ奈良盆地南部は、藤原氏が権力を握る過程で、その踏み台にして捨ててきた旧豪族たちの本拠地だった。その代表格が蘇我氏であり、さらに阿倍氏や、その他大勢の氏族たちが、盆地の南部には根を張っているのだ。

 血で血を洗う権力闘争を勝ち抜いてきた藤原氏にすれば、彼らに恨まれていることは十分承知していたし、いつなんどき反撃されるかもわからなかった。そこで、都を盆地の北側に移し、旧豪族の力を削ぎ、そのうえで、藤原氏が権力者の座に安泰するための装置をつくる必要があった。それが、平城京である。

 

・そして、彼らが拝む先には、藤原氏春日大社が鎮座する。

 その高台から、藤原氏天皇の宮を見下ろし、もし平城京で争乱が起きれば、藤原氏は高台に向かい、城塞化された神社と寺院に逃げこみ、難を逃れただろう。これが、春日大社の意味である。

 

すりかえられた神話

奈良時代は、藤原氏が「一氏独裁」体制を構築するための助走期間だった。持統天皇の孫・文武天皇藤原不比等の娘・宮子のあいだに生まれた首皇子(おびとのみこ)が即位して、聖武天皇となり、はじめて「藤原腹の天皇」が誕生した。こののち、藤原氏は一度没落するが、復活し、「欠けることのない満月」と豪語するほどの、藤原全盛期が到来するまで発展するのである。

 ならば、藤原氏と中臣氏は、なぜ神道をすりかえる必要があったのだろう。

 

かたや藤原氏は、百済系渡来人であり、まったくの新参であった。ヤマトの名門豪族を打ち負かし、ヤマトの王家の形態を覆し、権力を握った。その手口は残虐で陰湿で、容赦なかった。お人好しの古代豪族たちは、根こそぎ刈りとられていった。

 藤原氏には、ヤマト建国来の因習やしがらみもなかったし、それ以上に、前政権を倒した正当性を証明する必要があった。前政権はいわば「神政」をおこなってきたのだから、その神政を倒した正当性を証明するためには、前政権がよりどころとしてきた「神話」そのものを、すりかえなければならなかったのだろう。

 

なぜ藤原氏は、朝堂を独占できたのか

・それにしても、海外から来て、支配する土地も民もなかった百済系の氏族が、どのようにすれば、周囲の既得権益者たちを圧倒して潰すことができたのか。

 まず藤原不比等は、天武天皇崩御ののち、子や孫の即位に執着する

鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)に近づく。そして、彼女の愛息・草壁皇子が即位することなく早逝すると、藤原不比等は鸕野讃良の即位を画策した。

鸕野讃良皇女は天武天皇の正妃だったとはいえ、天智天皇の娘でもあったから、即位の芽はなかった。それを可能にしたのは、「天武天皇の遺業を継承する」という大義名分であり、天武の息子が星の数ほどいたことで、足のひっぱりあいを演じさせることができたからだろう。最終的には、孫である軽皇子文武天皇)の即位を願う女の執念が、他を圧倒し、持統女帝が、こうして誕生したのだ。

これを裏で工作していたのが藤原不比等であり、それゆえ持統天皇藤原不比等を寵愛した

ここに藤原氏繁栄の一歩が踏み出された。そして、藤原氏発展の最大の理由は、野望を抱いた藤原不比等が、律令体制に移行する「その瞬間」に出現したからに他ならない。ここに、千年に一度のチャンスが隠されていた。土地と民を持たなくとも、のしあがる絶好の機会が運よく訪れたのだ。

 

・いざ律令制度に移行すると、豪族たちは土地と民を手放し、丸裸になる。もちろん、当初朝廷は、彼らにふさわしい官位と禄をそれなりに与え、動揺や不満を抑えようとしただろう。しかし、時代がたつと、権益はすっかり消えて、世襲の恩恵もなくなった

 すると、天皇のもと、官人となっていた旧豪族たちは、人事に一喜一憂するしかない。ただし、「天皇の下す人事査定」というのは建前で、実際には、時の権力者のさじ加減が、大きな意味を持っていた。そうした状況のなかで、藤原氏は、天皇外戚の地位を得て辣腕をふるった。

 また、明文法、すなわち律と令が成立すると、これによって罰せられるようになる。だから当初、藤原不比等は、律令を整備する役人となった。

 

「女装する天皇」の意味

大嘗祭における天皇は、密閉状態のなかに籠もり(物忌み)、「天皇霊」を付着させ、天皇の身体(容器)を満たし、死と蘇生と復活を演じ、これによって天皇霊を更新できると考えた。そのうえで折口信夫は、天の羽衣について、物忌みの籠もりから解放し、謹慎と禁欲から解放するための、ひとつの道具にすぎないという。

 かつては、この折口説が定説となっていたが、しだいに異なる見方が提出されるようになってきた。天の羽衣は、天皇の「女装」だというのである。

 中村生雄は、『日本の神と王権』のなかで、祟り神を祀るのに、神の女としての巫女が性的交渉を持つという、佐藤正英が「『まれびと』の諸相」で示した推論や、天皇が天の羽衣を身につけることによって「女性に変身する」という、工藤隆の推理に共感し、「大嘗祭の悠紀殿での女装する天皇による<神の女>の擬態」だと指摘する。つまり、男性である天皇が、「神の女」になるために女装するのだ。

 大嘗祭が整えられたのが持統天皇の時代だとすれば、このころ、「女装する天皇」も出現した可能性がある。

 

天皇家 ――伊勢神宮

西行も知らなかった伊勢の神の正体

・そもそも、伊勢神宮は、これまで信じられてきたような「天皇家の祖神を祀る神社」なのだろうか。

 もちろん、『日本書紀』にはそう書いてある。しかし、少し調べただけで、いくつもの不審点があぶり出されてくる。

 第一に、『日本書紀』は、アマテラスを「女神」と位置づけているが、ここからして怪しい。 

第二に、崇神天皇の時代、宮中に祀られていたアマテラスを、「神威に圧倒された」といって、遠ざけてしまったのはなぜだろう。祖神が子孫に、どういった悪さをするというのだろうか。

第三に、伊勢神宮が整備されてからあと、持統天皇が参拝してから、明治天皇の参拝まで、1100年以上も歴代の天皇が直接参拝していないというのも、おかしな話だ。神宮参拝は、いまでこそ天皇の重要な行事のように考えられているが、それは近代になってからできた習慣にすぎない

天皇だけではなく。一般の貴族や庶民にとっても、伊勢神宮は疎遠な存在であった。江戸時代のお伊勢参りは、長い歴史から考えると、異常な事態だったのだ。

だからこそ、特筆されたのであろう。

そして、天皇家にとって伊勢神宮は、アンタッチャブルな場所だったのではないかと思えてくる。

 

そして第四に、大神神社の三輪流神道に残された奇妙な伝承がある。それは、「天皇家の祖神アマテラス」と「三輪山のオオモノヌシ」は「一体」であり、大日如来の化現したものだというのだ。まず、大日如来垂迹し、それが伊勢と三輪の二カ所に祀られたとしている。この考えは、大神神社の勝手な解釈ではなく、まず伊勢外宮がいいだしたものらしい。

 謡曲『三輪』には、「思へば伊勢と三輪の神、思へば伊勢と三輪の神、一体分身の御事、いまさら何と磐座(いわくら)や」とまで、いっている。「そんなわかりきったこと、いまさら、あらたまっていう必要があるのか」ということだ。

 にもかかわらず、『日本書紀』では、「アマテラスは女神、オオモノヌシは男神」とされている。本当に、「一体分身」なのか。ここに、大きな謎がある。

 

すりかえられた伊勢の神

伊勢神宮の祭神は、『日本書紀』の主張とは裏腹に、男神ではないのか。少なくとも、そう信じられてきた時期があったように思う。

 まず、歴代天皇は、伊勢の神を祀るために、娘や親族の女性を斎王にして、伊勢斎官に派遣した。しかも、斎王は未婚の女性(処女)に限られ、任を解かれた後も、原則的には結婚できなかった。

 

アマテラスの性(ジェンダー)を逆転させたのは、おそらく持統天皇藤原不比等たちであろう

 

ただし、観念のなかで「女神」になりすましたが、その一方では、「伊勢の神は男性」と考えていたからこそ、天皇家は、ミウチの女性を斎王に立て、伊勢斎宮に送りつづけた

 

伊勢の神の正体

伊勢の祭神をヤマトタケルとみなせば、多くの謎が解けてくる。ヤマトタケルの正体は、ひとりの英雄などではなく、ヤマト建国時に分裂し、骨肉の争いを演じた「タニハ連合」の王族たちであり、「タニハ連合の墓場」が、伊勢神宮だったのではなかったかと考えている。

 

零落する巫女の存在

・ここで思いだされるのが、「女装する天皇」である。

 ふと神話に目をやると、ヤマトタケルが、クマソタケルを倒すとき、大男であるにもかかわらず、「女装」して敵をだまし討ちにしている。

 

・また、なぜか大嘗祭で、天皇は「天の羽衣」を着こみ、「女装」した。天の羽衣は、丹後半島豊受大神の持ちものであり、その豊受大神は、伊勢外宮で祀られている。

 伊勢神宮大嘗祭の祭儀はよく似ているとさているが、ひょっとして内宮の天照大神も、天皇と同じように豊受大神から天の羽衣を借り受け、(観念上のことだが)着ているのではあるまいか。

 それにしても、なぜ天皇は、大嘗祭のクライマックスに、「女装」しなければならなかったのだろう。

 

なぜ、「秘中の秘」を童女に祀らせたか

もちろんこの場合、伊勢の神は、「男神」でなければならない

 そこで残された謎は、伊勢の「秘中の秘」を祀る大物忌の存在だ。なぜ童女だけが、伊勢でもっとも大切な、しかも「男根(リンガ)ではないか」と疑われている「心の御柱」を祀ることができたのだろうか。斎王では、祀ることができないのか。

 ここに、大きなカラクリが見えてくる。

 斎王をさしおいて、大物忌が最重要視されるようになったのは、「童女である大物忌が、伊勢の神(男神)の子を孕めない」からだろう。

 大物忌は「童女=鬼」であった。この鬼に託されたのは、「鬼退治」であろう。

 

物部氏 ――石上(いそのかみ)神宮、磐船神社

天皇家の祭祀を支えた「物部の力」

石上神宮奈良県天理市)は、ヤマト朝廷の武器庫で、伊勢神宮と並んで『日本書紀』に登場する、重要かつ古い社である。

 また、物部氏の「もののべ」は、朝廷の軍事をつかさどり、「もののふ」(武士)の語源になった。だから、物部氏と聞くと、武骨なイメージが付きまとう。祭祀者というよりも、軍事的リーダーの印象だ。

 そして、物部氏で教科書に出てくる人物といえば、物部守屋を思い浮かべる人が多いだろう。仏教導入をめぐって蘇我馬子聖徳太子と争い、滅びた人物として知られている

 

・しかし、実際の物部氏は、どの氏族よりも柔軟だった。物部氏が「聡明」でなければ、日本の発展は望めなかった。物部氏の「献身」によって、今日の日本があるといっても過言ではないほどである。物部氏とは、それほど大きな存在であり、偉大な氏族だった。にもかかわらず、功績が伝わっていないのは、『日本書紀』によって歴史がすりかえられてしまったからに他ならない。

 神武天皇が、ヒムカ(日向、南部九州)の地でヤマトをめざしたとき、すでに物部氏の始祖であるニギハヤヒは、アメノイワフメ(天磐船)に乗ってヤマトに舞いおりていた。しかも、この事実を神武は知っていたと『日本書紀』はいう。

 

ニギハヤヒは、先住のナガスネヒコの妹を娶り、ナガスネヒコニギハヤヒを君主と仰いでいた。ニギハヤヒは、瀬戸内海の終着点となる生駒山周辺、カハチの地を握ることで、天皇家以前のヤマトの王として君臨していた、

 神武天皇が瀬戸内海を東に向かうと、ナガスネヒコは抵抗し、神武は大敗北を喫している。じつは神武東征は、征服戦ではなく、ヤマト側の恭順によってケリがついた。ニギハヤヒナガスネヒコを殺して神武を迎えいれたのだ。この点、ニギハヤヒは「天皇家誕生」の功労者といえる。

 その後も、ヤマトの王は祭祀に専念し、実験を握っていたのは、とりまきの豪族たちであった。その中心に、物部氏はいた。

 

なぜ物部氏は、カハチの地を選んだのか

・『日本書紀』を信じれば、物部氏はヤマト建国時、すでに強大な力を獲得していたわけで、そして用明二年(587)、物部守屋一族の滅亡とともに、衰弱してしまったことになる。

 

物部守屋は八尾市付近で滅亡したが、この一帯が、物部氏の本拠地だったと考えられている。ここは、カハチのほぼ中心でもある

 

物部氏蘇我氏の本当の関係

物部氏は最大の古代豪族だが、その正体や功績は、もみ消されてしまったままだ。そこで、物部氏になりかわって、彼らの業績を、ぜひとも後世に伝えておかなければならない。

 

・歴史の勝者の編んだ「正史」である『日本書紀』と、その他の「稗史(はいし)」とされてきた文書をくらべてみれば、いくつもの矛盾が見つかる。どちらが正しいのかといえば、敗れ去った人びとが記した「稗史」にちがいない。

 

<「物部系」であり、「親百済系」の天皇

物部守屋蘇我馬子の衝突は仏教をめぐる諍いなどではなく、中央集権化の過程で起きた軋轢によるものではなかったか蘇我氏は、律令制度の導入をもくろみ、豪族から土地を吸いあげようと考えた。

 律令とは明文法のことだが、全国の土地と民をいったん天皇(国家)のもとに集め、戸籍をつくり、公平に再分配する制度でもあった。この制度のもとでは、豪族たちは領有していた土地と民を朝廷にあずけた見返りに、役職と禄を与えられる。ただし原則として、その身分の世襲は許されず、世代が替わるたびに新たに任命されるもので、能力のある者が出世できるという、画期的なシステムだった。

 そうなれば、既得権益に守られてきた古い豪族たちは、当然反発しただろう。その既得権者の代表格が、物部守屋だったことになる。

 

<三輪氏 ――大神神社

三輪山の神であるオオモノヌシの正体は蛇

祭祀権を護った天皇

大神神社奈良県桜井市)は、ヤマトを代表する霊山・三輪山御神体山とする。

 

つまり、三輪山に祀られる神は、出雲神に他ならない。そして、ヤマトの王家は、この山の神を恐れ、敬い、丁重に祀っていくのである。

 天皇が出雲神に震えあがるきっかけとなったのは、第十代崇神天皇の時代のできごとがあったからだ。『日本書紀』には、つぎのような経過が記録されている。

 ちなみに、実在した最初の天皇は、崇神天皇と考えられているから、この事件はヤマト建国の黎明期に起きていたことになる。

 さて、崇神五年、疫病がはやり、国の人口が半減する事態に見舞われた。翌年、百姓は土地を手放し、流浪し、体制に背く者もあらわれた天皇の徳をもってしてもうまくいかなかった。天皇は政務に励み、天神地祇に罪を謝りたいと請うた。

 崇神七年春二月、崇神天皇神亀の占いをした。すると、三輪山のオオモノヌシが神託を下した。国が治まらないのはオオモノヌシの意思であることを述べ、その子のオオタタネコなる人物にオオモノヌシを祀らせば、平穏は戻るというのである。

 こうしてオオタタネコを捜しださせたところ、「茅渟県の陶邑(ちぬのあがたのすえのむら)」で、見つかり、彼が神託どおりに行動すると、はたして世は平穏をとりもどした。そして、このオオタタネコの末裔が、三輪氏とされている。

 

秦氏 ――伏見稲荷大社

オイリナリサンは、なぜ多いのか

伏見稲荷大社は、京都市街地の東南、稲荷山の西麓にある。初詣の参詣者数においても、京都でずっと一位を守り、近年は、「千本鳥居」の不思議な光景が、若い人たちや外国からの観光客にも人気となっている。いまだ参拝者の絶えない、京都有数の名社といえるだろう。

 また、全国に稲荷神社は、おもだったものだけで三万社あり、やはり数の多い八幡系の神社と合わせれば、全神社の過半数になるそうだ伏見稲荷神社も、宇佐神宮をはじめとする八幡神社も、どちらの成立にも秦氏が深くかかわっていた。秦氏新羅系渡来人だから、神社の多くは「朝鮮半島系」ということになる。「神道は、日本固有の信仰」と頭から信じている人には、ショックかもしれない。

 もちろん、中世以降、武士が台頭し八幡信仰を広めていったのだから、この段階ですでに、渡来系うんぬんといった話は、ほとんど意味をなさなかったかもしれない。また、江戸時代になって増殖した稲荷も、もはや日本独自の信仰だろう。

 

伊勢屋 稲荷に 犬の糞

伊勢屋、稲荷、犬の糞と、頭が「い」で始まる江戸の風物詩三つを揃えたしゃれだが、それほど、稲荷はありきたりだったわけである

「オイナリサン」の祠は、なぜ、いたるところにあるのだろう。稲荷の社があった場所にビルを建てる場合も、たいがいの場合、場所を移したり壊したりせずに、そのビルの屋上に祠を移し、丁重に祀る。その後、信仰が廃れたという例も少なくない。だから、ビルの屋上にある神社は、ほとんどすべてが稲荷社である。

 

稲荷神社の主催神は、宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)で、穀物の神だ。人びとに豊穣をもたらす、ありがたい神である日本書紀』には、イザナギイザナミの子とあり、『古事記』には、スサノヲの子とあるが、活躍らしい活躍は記されていない。

 そもそも、これを祀っていた秦氏は、新羅系渡来人なのだから、神話の神々との系譜上のつながりはない。秦氏の祖神が宇迦之御霊神だったというわけでもない。

 

日本を豊かにした功労者

・稲荷の神が豊穣をもたらすとされた理由のひとつに、やはり秦氏の活躍があった。

 秦氏が束ねたのは、身分の低い者たちだったが、巨大で堅固なネットワークを形成して得た実力は、平安時代になっても衰えなかった。だから「八幡神」は、いざというときに権力者から頼りにされたのだろう。

 秦氏がいつごろ日本にやってきたのか、定かなことはわからない。じつは、『日本書紀』に、はっきりとした記録が残されていないためだ。ただし、応神天皇の時代に、秦氏の祖らしき人物が日本に向かったとあり、このため通説は、およそ四世紀末から五世紀末にかけて渡来したのではないかとしている。ただし筆者は、もっと古く、ヤマト建国前後、つまり三世紀後半から四世紀初頭ごろではないかと考えている。

 古代の天皇家も、富み栄えた秦氏の力を頼りにしていた。

 欽明天皇は、幼いとき夢のなかに人があらわれ、「秦大津父なる人物を寵愛すれば、かならず成人して天下を治めることになる」と告げられた。そこで人を遣わして秦大津父を探させると、山背国紀郡の深草里(京都市伏見区深草)で見つかった。彼を呼び寄せ、重用し、大蔵の管理を任せると、繁栄することができたと、『日本書紀』のなかの説話にある。

 

秦氏は殖産興業の氏族だ。先進の土木技術を駆使して未開の地を開墾し、農地を広げた。また、養蚕を得意とした。日本黎明期の発展に必要な技術を持ちこんだのが、秦氏の大きな貢献である。彼らは、天皇家と強く結ばれ、国を豊かにしてくれた氏族だった。ヤマトに政権があった時代から、先んじて京都を開拓し、この地に都を呼び寄せる原動力となったのも、秦氏の働きがあってのものだろう。

 

豊穣の神、祟る神

・それから、オイナリサンといえば、キツネである。稲荷の神の使いという説もあるが、なぜキツネなのか、じつはよくわかっていない。また、その尻尾が男根をあらわしているらしく、昔はキツネの置物の底に、淫靡な絵が描いてあったそうだ。稲荷信仰と「性」は強く結ばれていたが、「性」は「生む力」でもある。豊穣をもたらすのは「性」である。

 

・壊されない理由は、稲荷の神が、あらゆる場面で「祟り」とつながっていたからである。稲荷の神も、恐ろしい神だった。われわれは、本能的にそれを知っていて、いまもって、「稲荷の祠を壊すと祟られる」と、震えあがっている。

 

なぜ、稲荷神は祟りとつながり、なぜ人びとは、恐ろしい神をしきりに勧請したのだろう。

 すでに述べてきたように、日本人は、「祟る神こそ貴い」、「祟る力を持っている神をなだめすかせば、豊穣をもたらす神に変身する」と信じていた。しかも、「祟る神は祟る者を調伏してくれる」のであり、だからこそ、恐ろしい神は重宝された。

 

秦河勝は「祟る鬼」

秦氏といっても、どのような人物が活躍していたのか。あまり知られていない。それでも、秦河勝の名前だけはご存じという方は多いだろう。聖徳太子に寵愛され、国宝の弥勒菩薩で知られる広隆寺京都市右京区太秦)を建立した人物だ。

 秦氏は、職人や芸能の民を生みだしていくが、彼の末裔を名のっているのが、能楽の父・世阿弥である世阿弥は『風姿花伝』のなかで、自身を秦河勝の末裔としたうえで、猿楽の起源を語り、さらに、秦河勝は「祟る鬼」だと指摘している。これはどういうことだろう。

風姿花伝』のなかにある説話を見てみよう。

 秦河勝は、欽明天皇から推古天皇にいたる歴代天皇聖徳太子に伝え、申楽(猿楽)を子孫に伝えた。そして、化人(化生の人、化け物、変化)は、跡形もなく消えるものだからと、摂津国の難波の浦(大阪市)から、「うつほ舟」(丸木舟)に乗って風に任せて西に向かった。

 ところが、播磨国坂越の浦(兵庫県赤穂市の大避神社)に着いた舟を、浜辺の人たちが引きあげてみると、乗っていた者は人間ではなかった。人びとに憑依し、祟り、奇瑞をなした。神として祀ると、国は豊かになった。そこで「大きに荒るる」と書いて、「大荒大明神」と名づけた。いまでも霊験あらたかだという。

 

なぜ世阿弥は、秦河勝を「化人」と呼び、「祟る」と書き残したのだろう。仮にも、自分の先祖である。

 坂越の大避神社の伝承によれば、秦河勝がこの地に逃れてきたのは、「蘇我入鹿の乱」のときだったとしている。一般にこれは、上宮王家滅亡事件ではないかと考えられている。蘇我入鹿山背大兄王の一族を襲い、聖徳太子と縁の深かった秦河勝は、何らかの形で巻きこまれ、難を逃れたのだろうという推理だ。

 しかし、『日本書紀』に従えば、その後も、秦河勝は歴史に名をとどめている。少なくとも、蘇我入鹿が暗殺される直前まで、記録が残っている。

 

秦河勝は、なぜ祟るのか

・ならば、なぜ秦氏は、蘇我政権を倒したのちの藤原政権下で、活躍できなかったのか。しかも、なぜ秦河勝自身が、「祟る鬼」とされてしまったのだろう。

 おそらく、こういうことだろう。平安京遷都に際し、地元の秦氏は便宜をはかり、そのために大活躍をし、出世し、藤原氏とも婚姻関係を結んだ。ところが藤原氏は、秦氏を利用しつくしたあとで、他の古代氏族たちと同様、すっぽりと切り捨ててしまったこうして秦氏は、没落していくのだ。

 しかし秦氏は、抹殺された歴史の裏側を誰よりも知っていた。天皇家藤原氏の先祖(中大兄皇子中臣鎌足)は、けっして「蘇我入鹿殺しの英雄」ではなく、むしろ「英雄殺し」の主犯だったという事実を、「実行犯」の立場から知りつくしていた。

 そこで、天皇家藤原氏による政権の繁栄を恨んだ秦氏の末裔が、祖である秦河勝を「祟る鬼」に見立てたのである。それは、「祟る鬼の末裔」を名のることで、権力者に恐怖心を与えるためであった。

 

「ヤマトの王家」

天皇万世一系でないとしても、「ヤマトの王家」そのものは、ヤマト建国以来、続いてきたのではないか………。最近、つくづく思うのだ

 そもそも古代の「天皇家」に実体はなく、蘇我、物部、尾張氏ら、ヤマト建国に活躍し、裏切り、裏切られた者たちが、恩讐を乗り越え、血の交流を進め、多くの者の血が集まって王家を形成していたのではないか、と思える。

 ヤマト政権そのものが、いくつもの地域の首長たちの寄せ集めであり、その合議によって、政権は成り立っていた。また、「魏志倭人伝」に描かれた卑弥呼のように、それぞれの首長が王を「共立」していたのだろう。

 

・われわれの御先祖様たち、ヤマトを構成した豪族たちは、「共存」する体制を大切にしていたのだ。けれども、八世紀になって藤原氏が権力者の地位に登りつめた段階で、日本のよき伝統は、失われてしまった。