日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

これまでの日米戦争論は、ソ連・コミンテルンという要因や、秘密工作というインテリジェンスを意図的に排除しており、あまりにも視野が狭いのではないかと、疑問を投げかけているのです。(1)

 

『日本は誰と戦ったのか』

コミンテルンの秘密工作を追求するアメリ

江崎道朗  KKベストセラーズ    2019/2/8

 

 

 

20世紀とは、ソ連コミンテルンとの戦いであった!

・「東西冷戦」は1991年のソ連の崩壊によって終結したと言われていますが、それはヨーロッパの話です。残念ながらソ連崩壊のあとも、アジアには中国共産党政府と北朝鮮という二つの共産主義国家が存在し、アジア太平洋の平和と繁栄を脅かしているのは御承知の通りです

 この中国共産党政府と北朝鮮という二つの「共産主義」国家が第2次世界大戦後、なぜ誕生したのか。その経緯を調べると、アメリカのルーズヴェルト民主党政権ソ連に協力して、アジアの共産化に手を貸した「歴史」が見えてきます。(中略)半世紀が過ぎ、多くの機密文書が公開されたことで、日本を開戦に追い込み、東欧とアジアの共産化に手を貸したルーズヴェルト民主党政権の問題点が、アメリカの保守系歴史学者の手によって次々と明らかにされてきています。端的に言えば、アジア太平洋で戦争を引き起こしたのは日本ではなく、ソ連コミンテルンルーズヴェルト民主党政権であったのではないかという視点が浮上してきているのです。

 

日本は誰と戦ったのか

・「日米戦争では、アメリカにも問題があったのではないか」

「その通りだ。アメリカのルーズヴェルト民主党政権には大きな問題があった。

 当時、野党の共和党も米軍幹部も懸命に警告したのに、ルーズヴェルト民主党政権は、日米戦争を仕掛けたソ連コミンテルンの秘密工作に振り回されてしまった

 こんな会話が日米の知識人の間で交わされる日が近い将来、訪れるかもしれません。

 

コミンテルンとは1919年、ロシア共産党レーニンが創設し、1943年まで存在した。共産主義政党による国際ネットワーク組織のことです(そのネットワークは戦後も形を変えて続きました)。その目的は、世界各国で資本家を打倒して共産革命を起こし、労働者の楽園を作る、というものです。

 このソ連コミンテルンの対外工作によって世界各地に「共産党」が創設され、第2次世界大戦後、東欧や中欧、中国、北朝鮮ベトナムなど世界各地に「共産主義国家」が誕生しました(厳密に言えば「社会主義国」を自称した)。かくして第2次大戦後、アメリカを中心とする「自由主義国」と、ソ連を中心とする「共産主義国」によって世界は二分され、「東西冷戦」という名の紛争が各地で起こりました。

 ある意味、20世紀は、ソ連コミンテルンとの戦いでした。

 ソ連コミンテルン共産主義を抜きにして20世紀を語ることはできません。そしてこの「東西冷戦」は1991年のソ連の崩壊によって終結したと言われていますが、それはヨーロッパの話です。残念ながらソ連崩壊のあとも、アジア太平洋には中国共産党政府と北朝鮮という二つの共産主義国家が存在し、国民の人権や言論の自由を弾圧しているだけでなく、アジア太平洋の平和と繁栄を脅かしているからです。

 

・この中国共産党政府と北朝鮮という二つの「共産主義」国家が第2次世界大戦後、なぜ誕生したのか、その経緯を調べると、アメリカのフランクリン・デラノ・ルーズヴェルト民主党政権ソ連に協力して、アジアの共産化に手を貸した「歴史」が見えてきます。

 第2次世界大戦当時、アメリカとソ連は同盟国でした。そして、アメリカのルーズヴェルト政権は、ソ連スターリンと組んで国際連合を創設し、戦後の国際秩序を構築しようとしました。その交渉過程の中で、ルーズヴェルト民主党政権は、こともあろうにソ連コミンテルンによるアジアの共産化――特に中国共産党政府と北朝鮮の誕生――に協力したのです。

 

・それから半世紀が過ぎ、多くの機密文書が公開されたことで、日本を開戦に追い込み、東欧とアジアの共産化に協力したルーズヴェルト民主党政権の問題点が、アメリカの保守系歴史学者やジャーナリストたちの手によって次々と明らかにされてきています。

 

端的に言えば、アジア太平洋で戦争を引き起こし、世界を混乱させたのは日本ではなく、ソ連コミンテルンルーズヴェルト民主党政権だったのではないか、という視点が浮上してきているのです。

日本からすれば、我々が戦ったのはアメリカのルーズヴェルト民主党政権だったわけですが、そのルーズヴェルト民主党政権ソ連コミンテルン工作員たちによって操られていたのではないか、ということです。

 

日本は誰と戦ったのか

 日本の真の敵は、アメリカではなく、ソ連コミンテルンではなかったのか。

 近年のアメリカの、それも反共保守派の学者たちによる近現代史研究を読んでいると、そうした「疑問」が湧いてきます。

 ところが残念なことに、アメリカのそうした動向は日本ではほとんど紹介されません。ガラパゴス化と言って日本でしか通用しない技術や製品が揶揄されることがありますが、それは学問の世界でも同様です。特に日米戦争、近現代史に関して日本の歴史学会のガラパゴス化はかなり重症です。

 

・この『スターリンの秘密工作員』は、日米戦争を始めたのは日本であったとしても、その背後で、日米を戦争へと追い込んだのが実はソ連コミンテルン工作員・協力者たちであったことを暴いていますアメリカの機密文書や連邦議会の議事録や調査報告書などを踏まえ、ルーズヴェルト民主党政権内部に滑り込んだソ連工作員・協力者たちが日米両国を開戦へと誘導し、日米の早期停戦を妨害し、ソ連の対日参戦とアジアの共産化をもたらした側面があることを指摘しているのです。

 その指摘が正しいかどうかについては厳密な検証が必要ですが、それはそれとしてこうした議論がアメリカの反共保守派の間で活発に行われている「現実」に目を向けていただきたいと思います。

 

・詳しくは述べませんが、インドネシアも1960年代に、ソ連中国共産党による秘密工作によって共産革命の危機に瀕したことがあります。そのため、ソ連コミンテルンの対外秘密工作について研究する専門家たちが今なおインドネシアには存在していることがわかり、感心したのです。

 その2年後の2016年秋、インターネットに掲載されている「ソ連コミンテルンの対米工作」に関する私の英語の論文を見て、米軍の情報将校だった一人のアメリカ人が私のところに連絡してきました。彼は、アメリカにおけるいわゆる従軍慰安婦問題に関する反日宣伝の背後に、中国共産党北朝鮮の対米工作があると考え、その調査のために日本にやってきたのです。

 中国共産党の対外宣伝工作について調べていると彼といろいろ話をしていたら、アメリカの保守派による日米戦争の見直しの動向が話題になりました。彼は「中国の軍事的台頭の背景には、第2次世界大戦当時の、ルーズヴェルト民主党政権外交政策の失敗があると考え、今、アメリカの保守派、反共派、軍事専門家の間で、ルーズヴェルト民主党政権と中国、ソ連、日本との関係を見直そうとする動きが活発になってきている」としていくつかの本を紹介してくれました。その一つがなんと『スターリンの秘密工作員』だったのです。

 

・日本の敗戦後、アメリカを中心とする連合国は東京裁判を開廷し、「日本は侵略国家だ」という一方的なレッテルを貼りました。

 この東京裁判史観のもとで、わが国の歴史学会もマスコミも、「侵略戦争をしたのは日本陸軍が悪かったからだ」、「いや東条英機首相が悪かった」、「日本海軍にも責任がある」、「昭和天皇にこそ戦争責任がある」といった形で「侵略戦争の責任」を、日本の誰かに負わせようとする議論ばかりをしてきました。

 この東京裁判史観について私はかねてより、自国のことを非難するだけで他国の動向を見ようとしないという意味で「偏狭史観」と呼ぶべきだと思っていました。戦争相手であるアメリカやソ連、イギリスなどの動向や内情をまともに分析せずに、ひたすら日本だけを糾弾する東京裁判史観は極めて「視野が狭い」と思ってきたからです。

 国際政治というのは、複数の国々の思惑で動くものであって、日本だけに「責任」があるかのような議論自体が無意味です。そして「日本が一方的に戦争を引き起こした」とする東京裁判史観を奉じているから、戦後、憲法9条のもとで「不戦の誓い」をしていれば戦争にならないなどという、特異な政治感覚を持ってしまったのでないでしょうか。

 

・実際に東京裁判史観を奉じる人たちの多くは、北朝鮮核兵器を開発し、わが国に対してミサイルを撃とうが、中国が尖閣諸島周辺に戦闘機や軍艦を派遣し、わが国の領土・領海を脅かそうが、「憲法9条を守れ」と呪文を唱えるだけです。日本を取り巻く外国の「悪意」を見ようとしない「偏狭さ」には呆れるしかありません

 こうした国際感覚の欠落への反省から、「偏狭な」東京裁判史観を見直す動きが起こっています。

 

・「太平洋戦争末期に日本の為政者が終戦を決定した政治過程は、日本人が大きな関心をもってきた問題である。終戦から現在にいたるまで、おびただしい書物や論文が発表されたにもかかわらず、不思議なことに、日本の終戦にいたる政治過程を国際的な文脈から緻密に分析した学術的な研究は存在しない」

 

太平洋戦争終結を論じるときに、ソ連の役割は、アメリカと日本の歴史家によって無視されている

・日本政府は昭和20年当時、なんとか早期終戦を実現しようと必死に模索し、日ソ中立条約を締結していたソ連を仲介に和平交渉をしようとしていました。この日ソ交渉を利用して日本の終戦を意図的に遅らせようとしたのが、ソ連の指導者スターリンでした

 

・残念ながら日本では、アカデミズムの世界において「コミンテルン」「工作員」「秘密工作」などを扱うことはタブー視されてきました。

 対照的に欧米諸国では、国際政治、外交史の一分野として、このような秘密工作について論じる学問が「インテリジェンス・ヒストリー」として成立しているのです。

 

・安倍首相も、祖父の岸首相や父の安倍晋太郎外務大臣からこうした「裏話」を聞いていたはずです。ただし、残念ながら「対外インテリジェンス機関の創設」は思ったほど進展していません。それは安倍政権がやる気がないということではなく、インテリジェンスの専門家が不足しているからです。その背後には、インテリジェンスの基礎、つまり「インテリジェンス・ヒストリー」という学問が日本では十分に確立されていないという側面があると思っています。

 

日米開戦はスターリンの工作だった――アメリカ保守派の歴史見直しはここまで進んでいる

変遷する「リメンバー・パールハーバー

・歴史というものは、新資料の公開や研究の進展によって次々と見直されていきます。

 たとえば、日米戦争の発端となったパールハーバー、つまり真珠湾攻撃がその代表です。

 1941年12月、日本軍が真珠湾攻撃をした当時、それはアメリカにとって「卑劣なだまし討ち」でした。

 ところが、その後、アメリカの著名な歴史学者チャールズ・ビアード博士が1948年に『ルーズヴェルトの責任』(邦訳は藤原書店、2011年)を書き、大意、次のようなルーズヴェルト謀略論が登場します。

時のルーズヴェルト大統領は暗号傍受により、日本軍による真珠湾攻撃を知っていたのに、対日参戦に踏み切るため、わざと日本軍攻撃のことをハワイの米軍司令官に知らせなかった

 その後もアメリカでは真珠湾攻撃について議論が続いてきました。

 

スターリン工作説の誕生

・このようなアメリカにおける真珠湾攻撃と日米戦争に関する歴史の見直しは、今後ますます進んでいくことになるでしょう。

 というのも、アメリカでは、「真珠湾攻撃背後にソ連の工作があった」とする「新説」が唱えられているからです。

 

ヴェノナ文書研究が暴いたスターリンの戦争責任

・ヴェノナ文書とは、第二次世界大戦前後に、アメリカ国内のソ連工作員たちがモスクワとやり取りした通信を、アメリカ陸軍情報部がイギリス情報部と連携し、秘密裏に傍受して解読した記録です。

 その内容は衝撃的なものでした。

 というのも、ルーズヴェルト民主党政権の「ウィーク・ジャパン政策」、言い換えればソ連を味方にして日本を敵視するアジア政策の背景に、ソ連のスパイたちの対米工作があったのではないかという接点が急浮上してきたからです。

 第2次世界大戦後、保守派によるルーズヴェルト批判を許そうとしなかったサヨク・リベラルの多くが、ソ連びいきであったことも、そうした疑念を深めることになりました。

 

連邦議会でもソ連のスパイ工作が追求されていた

・かくしてソ連共産主義の脅威や、ルーズヴェルト民主党政権内部におけるソ連のスパイたちの暗躍を追求することは、マスコミやアカデミズムではタブー視され、保守派が内部で隠れるようにして研究と議論をするだけにとどまってきたのです。

 ところが、1995年、アメリカ政府が公開したヴェノナ文書によって、ルーズヴェルト政権内部にソ連のスパイたちがいたことが「事実」であると判明しました。

 アメリカのサヨク・マスコミから全否定されていた、チェンバーズやベントレーの証言は大筋で事実だったことが立証されただけでなく、ソ連の工作がそれまでに考えられていたよりはるかに計画的・体系的で強力なものであったことが明らかになったのですマッカーシー上院議員の告発も、内容自体はほぼ正しかったことが現在では判明しています。

 

ソ連の秘密工作を「アメリカの正義」と讃える倒錯

・それらの加筆部分でも、ラティモア、ロス、ビッソンらこそ正義であり、彼らのスパイ行為を告発したマッカーシー上院議員は悪である、という構図をいささかも変えていないのです。これは驚くべきことです。

 

 第2次大戦当時の「アメリカ的正義」からすれば、ナチス・ドイツと結んだ侵略者日本を敵として、中国を支援することは、申し分のない正当な行為であった。ところが、最も純粋な動機からこの闘争に参加した人々が、マッカーシズムによって、悪の烙印をおされて沈黙を強いられたのだから、そのことの怨念が鬱積し、やがて爆発したのも当然であろう。

 

ソ連国益に従ったラティモアたちを「アメリカ的正義」だと主張しているのですが、正確に言えば「ソ連の正義の代弁者」と表現すべきではないでしょうか。

 

ブッシュ大統領、ヤルタの屈辱を晴らす」

・シュラーフリー女史はさらに、このヤルタ協定によって我々アメリカ人は現在、中国の共産主義帝国の台頭と北朝鮮の核開発に苦しまなければならなくなったとして、次のように訴えているのです。

 

 ルーズヴェルトの擁護者は、スターリンを日本との戦いに引き込むためにはこれらの譲歩が必要だった、と正当化しようとしました。ヤルタ文書は、その主張が間違っていたということを証明しています。例えば、ヤルタ会談の3ヶ月半前、アバレル・ハリマン駐ソ大使は、ルーズヴェルトに対して「太平洋戦争に単に参加するだけではなく、全面的に対日戦争に参戦するという完全な同意をスターリンから得ている」ことを伝えています。

 ロシアは太平洋戦争に必要ありませんでした。そして、ロシアの参戦は、中国と北朝鮮における共産主義帝国構築への道を開くことになったのです。ソ連の参戦は、1950年代の朝鮮戦争と、今日の北朝鮮共産主義の独裁者の息子による核兵器の恫喝を招いたのです

 

独立国家の学問としてのインテリジェンス・ヒストリー

・「ソ連に甘かったルーズヴェルト大統領と、その政権内部に潜り込んだソ連工作員たちが日米両国を開戦へと誘導し、日米の早期停戦を妨害し、ソ連の対日参戦とアジアの共産化をもたらした」というスターリン工作史観とも呼ぶべき、こうした見方に対して「あまりにも一方的過ぎる」「アメリカの歴史学会の主流ではない」などと批判することは自由です。

 しかし、アメリカの反共保守派たちによって唱えられ始めたこの歴史観は、近年の中国や北朝鮮の軍事的脅威の高まりの中で、アメリカのインテリジェンス関係者、特に米軍の情報将校たちに広がっていると聞いています。

 

・そもそもこのスターリン工作史観の根拠となっている「ヴェノナ文書」は、アメリカ陸軍とFBIのインテリジェンス活動の結果、生まれたものなので、それも当然と言えば当然かもしれません。

 アメリカでは、歴史学会を含むアカデミズムと、国際政治や軍事の専門家たちとでは、その歴史観はまったく異なるのです。言い換えれば、歴史学会などだけを見ていては、アメリカの歴史観の動向は正確に理解できないのです

 

・今年(2017年)9月に欧米し、北朝鮮有事に関して米軍の元情報将校やシンクタンクの研究員たちと意見交換をしてきました。

 彼らの多くが「北朝鮮とその背後にいる中国やロシアに対抗するためには、軍事だけでなく、経済、外交、そしてインテリジェンスの四つの分野で対抗策を講じる必要がある」と強調していました。その上で韓国内に浸透している北朝鮮の秘密工作員の動向や北朝鮮とロシア、そしてパキスタンとのネットワーク、中国とアメリカ国内に浸透している工作員と宣伝工作などについて意見交換をしてきました。第2次世界大戦当時の、スターリンの秘密工作員の話は現在も形を変えて進行中なのです

 一方、日本悪玉論を唱えた東京裁判史観を奉じている日本の政治家や官僚、言論人たちは、中国が尖閣諸島海域に軍艦や戦闘機を送ってきても、北朝鮮がミサイルを日本に向けて撃ってきても、「とにかく日本が悪いのだ、憲法9条を守れ」と呪文を唱えるだけなのです。こんな状況ではまともな独立国家とは言えませんし、何よりも同盟国アメリカのインテリジェンス関係者と議論が成り立つとも思えません。

 

・アジア太平洋の平和と繁栄を守るためには、日本も、軍事や外交だけでなく、秘密工作や宣伝といったインテリジェンスの戦いで勝たなければなりません。そしてそのためには戦後、日米両国の有識者たちによって隠蔽されてきた、スターリンの秘密工作をはじめとするインテリジェンス・ヒストリーを必死に学び、自らの力量をあげていくことが重要なのです。

 

アメリカの反共保守派が唱える「スターリン工作史観」は、「先の戦争の原因をすべてスターリンに擦り付ける」ためのものではありません。「ソ連共産主義をより深く理解」するための歴史観なのです。相手を知ろうともせずに上っ面だけ見て相手を批判したり、レッテルを貼ったりする姿勢は、インテリジェンスから最も遠いと言わざるを得ません。

 関連してもう一言だけ附言しておきたいと思います。

 本書を読んで「やはりルーズヴェルト大統領とスターリンが悪かったんだ、日本は悪くなかったんだ」というような誤読はしないでいただきたいということです。国際政治の世界では、騙された方が悪いのです。そして先の大戦では日本はインテリジェンスの戦いで「敗北」したのです。自戒を込めて申し上げるのですが、その痛苦な反省に基づいて必死に学ぼうとすることが、日本にインテリジェンスの戦いの勝利をもたらすことになるのです。

 

ソ連コミンテルンという要因を踏まえた全体像を

・誤解をしないでいただきたいのですが、彼らアメリカの保守派は「ソ連コミンテルンの工作だけが日米戦争の要因だ」と主張しているわけではありません。「日本が正しかった」と主張しているわけではありません。いわゆる東京裁判史観に代表される、これまでの日米戦争論は、ソ連コミンテルンという要因や、秘密工作というインテリジェンスを意図的に排除しており、あまりにも視野が狭いのではないかと、疑問を投げかけているのです。

 

・日米戦争の全体像を把握するためには、少なくとも次の五つの視点が必要だと思っています。

 第一に、ルーズヴェルト大統領の強い意向ですルーズヴェルト大統領がソ連コミンテルンの工作を「容認」した背景には、ルーズヴェルト大統領自身が戦争を望んでいた、という視点を軽視するわけにはいかないと思います。

 第二に、ソ連コミンテルン中国共産党による対米工作です。本書では、コミンテルンの対米工作を中心に紹介しましたが、中国共産党による対米工作も今後解明していく必要があります。

 第三に、イギリスのチャーチル首相による対米工作ですチャーチルは1940年、アメリカの孤立主義・中立政策に傾倒していた国民世論を参戦へと転換させるためにウィリアム=サミュエル・スティーヴンスンを送り込み、1941年、MI6の出先機関、イギリス治安調整局を設立しています。これを通称イントレピッド工作と呼びます。

 第四に、蒋介石中国国民党政権の対米工作です。よく言われているのが、蒋介石夫人の宋美齢による反日キャンペーンですが、それ以外にも、アメリカを対日戦争に引き込むために様々な工作を仕掛けています。

 そして第五に、ソ連コミンテルンの対日工作です。日本が対米戦争へと踏み切った背景にコミンテルンの影響があったわけですが、この点については『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』(PHP新書)にて書きましたので、ご関心のある方はご高覧賜れば幸いです。

 少なくともこれら五つの視点で、第2次世界大戦、大東亜戦争は何だったのか、再検証する必要があります。近現代史の見直しはまだ始まったばかりなのです。

 

 

 

天皇国師  知られざる賢人 三上照夫の真実』

宮崎貞行   学研   2014/3/18

 

 

 

海ゆかば

・4月15日の日記によると、同席した入江侍従長が{屋久島で樹齢七千年の世界一の巨杉を発見、太古を偲ばせるものがあり、天皇御在位五十周年を記念しているかのよう}と語ったとある。続けて、次のような記載もある。

入江侍従長曰く、東西陣営にはそれぞれ良いところがあるのに、相互に悪口を言っているのはおかしい。共に良いところを取り合っていけば立派になるのにと、けだし名言」

 この連絡会議が終わったあと、帰りがけに入江は、仲山警務部長を呼び止めた、というのも、その前日、『法律時報』の論調を読んだ陛下が「侘しい」お気持ちを吐露されたとき、「あの者はどうしたであろうか」とお尋ねになったことが気になっていたからである。

 こまかい説明はせず、単刀直入に要点だけぽつりと語るのが、天皇の口癖であった。「あの者とはどなたのことですか」

27年前に三上照夫という丸顔の小柄な青年に会ったことがある。あの青年は今どうしているだろうか。たしか特攻隊出身で、京都に住んでいたはずだが

 陛下は記憶力の優れていることで知られていたが、昭和23年の暮れに一度だけ会見した青年の名前を覚えていた。大声で御製を歌って驚かせてくれた青年をふいに思い出したのである。

 青年は、天皇が改宗について迷っていたとき、肚を固める示唆をしてくれた。

 

三上のご進講は、これ以降は陛下独りのご下問に応える形になり、陛下の体調が悪化する昭和62年9月まで、約11年間に渡りほぼ毎月行われることとなった。

 

天皇国師

・こうした経緯から、三上照夫は巷でいつしか「天皇国師」と呼ばれるようになった。本人がご進講のことを口外することはなかったが、周りが噂しはじめたのである

国師」というのは、朝廷から仏教の高僧に対しおおむね死後に贈られる尊称で、臨済宗の高僧に与えられることが多かった。明治以降は、朝廷が神道純化したため、国師、大師、禅師といった尊称を下賜することはなくなったが、「国の相談役」という意味で周りが勝手に名づけたのである。

 けれども、三上が陛下にどのようなご進講をしたのか、夫人以外に一切語らなかったから内容は杳としてわからない。

 

語り部は隠し部

入江は自分の仕事や天皇の職務については、日記でほとんど触れなかった。政治に対する天皇の意見や感想を書くことは注意深く避け、神々の声を聴く祭司としての天皇の素顔を紹介することもしなかった。それは、終戦後に侍従次長を務めた内務省出身の木下道雄が日記に克明に陛下の発言を記録した姿勢とは、まったく対照的であった。入江は日記には、歴史家に題材を与えることのないよう、当たりさわりの指圧と入浴と食事とヒヨドリのことしか書かなかった。

 それもそのはずである。彼は、意図的にそうしたのだ。

 天皇のご発言やお気持ちが後で公表されるようになる事態は絶対に避けなければならない。公表されると、解釈をめぐって論争が起き、天皇を困らせることになる。ひいては自分の責任問題にもなりかねない。歴史の証人になることは、まっぴらごめんだ。そんな煩わしいことにはかかわりたくない、公家の末裔は、あくまでも韜晦の表情を忘れてはならない。

 侍従長は、人間天皇の知られざる一面を随筆で紹介した「天皇語り部」であったが、同時に、巧妙な「天皇の隠し部」でもあった。どうでもよいある部分を公表することによって、他のもっとも重要な部分をうまく覆い隠したのだ。

 入江には、平安朝以来の伝統的な公家の巧まざる韜晦という手法が身についていた。まことに老獪である。それは、生得のものであって、学習して身につくものではない。

 ところが、入江が出合ったこの三上という男はどうだ。公家のような老獪さはまったく見られない。世間的な遠慮や気配りといったものもなさそうである。役人の狡さとも無縁のようである。学者のように言葉を連ねて自己弁護しようともしない。講演の謝礼をよこせとも言わない。これが、未来の庶民の姿なのか。手弁当で列車を乗り継いで皇居の清掃にやってくる奉仕団の庶民の姿なのか。

 三上という男は、ただ、熱情のほとばしるままに、声をはりあげて訴えることが、最高の生きがいと信じているかのようである。それ以外の方法では、彼の真骨頂は発揮できないと思っているのかもしれない。周りがどのように反応するかは、まったく無頓着で、その意味では傍若無人といってよいが、悪気はなさそうである。世間知らずの皇族を驚かせてやろうという他意もないようにみえる。

 

・人間は、身体と心体と霊体の三層よりなる多次元にわたる存在だという話をむかし仏教学の学者から、進講してもらったことがある。肉眼で見たときに人間の身体が現れ、心眼でみたとき心体が現れる。そして、霊眼が開いたとき人間の霊体が観察され、霊体同士の交流が始まると講師は語っていた。霊体というのは、無でも空でもなく、実質ある超微細な実体であると語っていた。

 そうでありなら、陛下と三上は、同質の霊体を持ち、それが身体の奥深いところでお互いに反応し、自分の知らないうちに、時空を超えた一瞬の対話を行っていたのかもしれない。その対話は、後醍醐天皇の時代から特攻隊の時代まで、さらに先日のご進講のときまで営々と重ねられてきた交流であって、その時空を超えた重層的な対話を一瞬のうちに貫き了解させる何かがあったに違いない。

 

戦場で二度、死地をさまよう

・昭和20年3月11日、陸軍上等兵の三上照夫は輸送船生駒丸に乗り、門司から台湾に向けて出港したが、台湾沖で米軍の魚雷攻撃を受け、生駒丸が沈没した。冷たい南シナ海で8時間漂流を続け、運よく救助され、基隆に上陸した。

 昭和20年5月21日、通信兵として戦闘機に搭乗し、台湾防衛の天号作戦に出撃したが、片翼に被弾、機体は炎上したまま台湾沖の小島に不時着し、三上は瀕死の重傷を負いつつ辛くも脱出した。近くにいた現地の人たちの介抱のおかげで奇跡的に回復し、その後台北で療養中に終戦を迎えた。

 戦場で二度も死地をさまよった三上は、復員後、人生と宇宙の意味を探求したいと思うようになった。生と死の意味を問うとともに、人を死から救いだしてくれる奇跡的な力についてもっと知りたいと思った。

 

皇室に伝わる秘密の行法

仲山警務部長のとりそろえた報告書は、次のように記す。

終戦後、帰国した三上照夫は同志社中学校に帰校し、22年3月に卒業。同年4月同志社外事専門学校神学科に入り、3年間ヘブライ語キリスト教神学を学ぶ。そのかたわら京都妙光寺で今津洪嶽老師に師事し、仏道修行に打ち込む。また、京都御所内白雲神社の金井白雲宮司より神道行法を学ぶとともに、大本教千鳥会にて降霊の技法を学ぶ」

 三上は、キリスト教と仏教と神道をほぼ同時期に学習していたことになる。

 

・回峰行の終わりのころになると、肉体は極限まで疲れ果て、生きているのか死んでいるのかわからなくなる。いや、わかろうとする意欲もなくなり、体自体の感覚もなくなってくる。あるとき、ふっと何か軽くなったような感じがして目を開けてみると、彼は広い河の前に立っていた。前方にきれいな光が見え、そちらに向かって歩いていこうとすると、白髯の老人が現れ「まだ早い」と言われた。「お前さんにはまだ仕事がある」と諭された。

 気がついてみると、彼は玉体杉の根元に倒れていた。ああ、自分はこの世とあの世の境界のところまで行ったのだなと思った。この世とあの世は表裏一体の関係にあり、あの世に裏打ちされ、あの世からの働きかけを受けてはじめてこの世は存在しているように感じられた。それは、三上にとって三度目の臨死体験であった。

 

復員後親しくなった女性宮司の金井白雲に相談したところ、天皇家の行法を学びなさいと示唆された。有栖川宮家が保持していた皇室の行法を記した古文書は、同宮家が断絶した後、高松宮家に渡されていたので、賀陽の紹介で高松宮家を訪ねて拝見させてもらった。そこには、神人不二の境地へ導く18通りの行法が記載されていて、彼はこれを、生の限界に近づいたときの回峰行の体験に照らし合わせながら、ひとつひとつ自学自習でマスターしていった。金井白雲からは、天気を左右する極盤行法というものも教わった。

 

・趣意書がそう明白に述べているように、三上は、古神道と仏教哲理なかんずく禅宗の思想を基礎として、戦後日本を導く文化原理を打ち立てようとしていた。

 その社会的背景を、趣意書は次のように述べていた。

「政府は、民族の背柱たる道徳教育すら的確に明示せず、高官汚職は常態化し、国会は怒号と乱闘の劇場と化し、学者はその職責も節操も果たし得ず、進歩的文化人と称してソ連中共全体主義国家を礼賛し、社会を不安へと導くことによって原稿料を稼ぐ教員の大半は赤色革命の手先として階級闘争に専念して、純真たるべき子弟の教育は顧みられず、資本家は眼中私利のみありて国家なく、労働運動は産業破壊の政治闘争に、年中行事のストライキに浮身をやつしている」

 

降霊会で高貴な神霊と感応

・戦後は、岡田茂吉(救世教)、岡田光玉(真光教団)、五井昌久白光真宏会)などが、新しい神道流派を結成して布教していた。敗戦によって生じた心の空白と魂の飢えを聖なるものへの信心で埋めようと努めていた。

「私の古神道との出会いは、忘れもしない昭和23年12月27日のことでした。当時、大本教にいた萩原真が、千鳥会という降霊会を開いてましてね、そこにたまたま連れて行かれて、関心を持ったのが最初でしたな」と三上は返事をした。

 

・ある日の斎場の模様は、こう録音されている。

「メガホンが空中を乱舞しています。人形がメガホンと一緒に上がり、メガホンの上でシーソーゲームをしています。人形がメガホンの上で立ってダンスを、………すばらしいです」

 この段階に至ると、三上が深い変性意識の状態に入ったことが知れる。そうして、三上の体からエクトプラズムと呼ばれる幽質のエネルギーが湧出してメガホンや人形を動かしはじめるのである。

 やがて、メガホンから声が漏れ出てくる。明治のころの日常言葉が聞えはじめる。声は、三上の声帯の幽質を用いてから、三上の張りのある胴間声に似ていたが、三上の口には水を含んだ真綿を詰めてあるので発声は不可能なはずであった。ところが、毎回こういう口調で神霊が出現した。ああ、水位じゃよ。おお久方ぶりじゃった。足は平らにいたすがよいぞ」

 三上にかかった神霊は、「水位」と名のって毎月一回行われる斎場(ゆにわ)に登場した。「水位」というのは、幕末に土佐潮江天満宮の社家に生まれた宮地水位(堅磐)のことであった。水位は、神仙界での肩書である「白日」と名のることもあった。「白日」という号は、神仙界できわめて高度の位階であるという。

 水位の神霊は、空中に浮かんだメガホンから声を出し、質問に答えて、政治、経済などの時事問題から個人的な相談まで縦横無尽に語りはじめたのだった。

 

白い蛇

多層の霊界を伝える宮地水位の霊

三上は、昭和38年末ごろから、ほぼ毎月、富山で宮地水位霊の降霊会を行ったが、それは、見えない霊界の存在を少数の道人に知らせるとともに、道人の進むべき道を教えるためであった。

 空中に浮かぶメガホンから、ほかの人の知らない個人的な事情をずばり指摘されると、眼に見えない霊的なものの存在を信じないわけにはいかなくなる。子供の病気や夫婦仲、事業の不振などを誰にも語ったことがないのに的確に知っている不思議な存在がいるということを否定できなくなる。

 斎場(ゆにわ)でお伝えを降ろした宮地水位は、古神道家の父宮地常盤から指導を受け、11歳のころから幽体離脱し霊界に出入することのできた霊覚者であった。37歳のときに『異境備忘録』を著し、彼が探訪した霊界の詳細な記録を残している。紫微界、日界、神集界、万霊界など神霊界の多層構造とその活動を解き明かし、秘密である神霊界の一端を人間界に伝えてくれたのである。

 

・かと思うと、真の初代天皇のされるヒコホホデミノミコトをはじめ日本神霊団の役割や源義経の生涯と死後の活躍について述べ、人類史の多段階にわたる発展と2万6千年ごとの人類史の変転を語り、人間を統括している主護霊と背後霊のはたらきまで事細かく言及した。三上が予定していた米国訪問は中止すること、ある政治家への助言はやめることなど具体的な行動を指示したこともある。

 斎場(ゆにわ)の応答の模様は、参加者の手によりすべて記録されているが、質問に答えて、書物を見ずに法然親鸞道元をはじめ、昔の宗教者の発言や行動を事細かく語り続ける水位神仙の博覧強記ぶりは実に驚くべきものであった。水位の解説によると、それは、水位自身がすべて知っていたということではなく、質問内容に通暁している配下の仙人たちを動員して即座に回答を与えていたという。

 

三上の場合は、台湾沖で撃墜され1週間意識を失ったころから霊界との通信が始まったようだったが、本格的に霊媒能力が開けたのは、比叡山無動寺での百日の断食修行を終えたあとだった。

 けれども、霊媒がその身体能力を神霊や人霊に貸すと、ものすごく身体エネルギーを使われるので、降霊会のあとはくたくたになる。降霊会を終えると、三上の体重はいつも1キロほど減り、手足は冷たく硬直していた。弟子たちは、冷たくなった手足を急いでもみほぐし、温めなければならなかった。

 

・「人間とは目に見えるだけの存在ではないということを皆に知らせるためでした。死後も霊魂として生活をつづけ、生きている間にも目に見える限りの個人ではなく、個人の中に個人とともに諸霊が存在していることを実証するためだったのです。

 人間とは、目に見える肉体だけでなく、見えない霊魂を持ち、縁のある諸霊から指導を受けつつ交流している複合的な存在なのですよ。個人は自らの意思によって自分本位に動くのがよいという個人主義は、どうみても間違いなんです。個人の利益を諸霊や共同体の利益より優先させる個人主義社会はおかしいとは思いませんか」

 

・「自主的に判断し自主的に行動するといわれていますが、実際は、主護霊や背後霊などいろいろな神霊に指導されつつ行っているわけです。主護霊というのは、肉体を超えた真の己を生み出してくれた霊界の存在で、欧米の心霊学では、マスタースピリットと呼んでおりますな。通常、人には七柱の背後霊がついており、それを統括しておるのがマスタースピリットなんです。悪い因縁の霊に憑依されて病気になる人もいますね。自由の範囲は、その人の過去生の因縁や境涯によって制限されており、無制限な自由は与えられてはないのですよ」

 1人1人の人間は、本来的に自由な存在ではないと三上は語った。