日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

そのほかにも、1921年の原敬の首相暗殺、1931年9月18日の柳条湖事件を的中させ、王仁三郎自身もアメリカとの総力戦が始まることや、世界大戦で日本が占領されることなどを予言、見事に的中させたという。(8)

 

<人間的な神>

・神は人間とかけ離れたものではなく、きわめて人間的であることをもう少し述べてみましょう。神であっても人間の若い女性に惚れたり、人間の女性に自らの子を生ませたという物語だって伝承されています。

 さらに、神の国に帰れば、人間と同じ容姿にもどり、そこには妻や子も、仲間もいて、人間と同じように平和に暮らしているのだといいます。とても人間的です。嗜好品を例にとってみても、酒やタバコ、お菓子などは多くの人間が好むものですが、神も人間以上に好きでたまらないのだそうです。

 

・人間は喜怒哀楽の感情を持つことが当たり前ですが、神だってそれ以上の感情があるものだと、昔の伝統を担った古老であれば異口同音にいうのです。

 アイヌの人々の「神」に対する考え方をつきつめていえば、それは「人間の能力や価値判断を基本とした考えかたを総合的に組みたてたもの」とでもいえるでしょう。

 

どのような神がいるか

この世での姿

・この世での姿は、人間が実際に目にすることができるものから目にみえないものまでいろいろあります。

 いずれも人間の身辺に存在するものばかりです。たとえば、動物神のうち比較的位が高いと考えられているものをいくつかあげてみましょう。

 シマフクロウ、これは今では道東の一部にしか生息していないとされていますが、かつてはかなり広域にわたって生息していたといいます。この鳥は動物神の中では最高の位にある偉い神と考えられ、コタンコㇿカムイ(コタンをつかさどる神)と呼んでいました。

 

・植物神としては、矢毒の成分をつくるトリカブトをはじめ、イケマ、毒キノコ、ヨモギなどを神として強く意識しています。

 このような生物に姿を変えている神のほかに、山、海、河口、水源、沼や湖などの地形や場所をそれぞれつかさどる神も多く存在します。

 

・自然のいたるところに「~をつかさどる神」がいるといってもよいでしょう。火や水、風、地震津波、カミナリといった自然現象そのものも強い魂をもった神として意識されています。

 そのほかに人間の目にみえるものとして、人間が用いる丸木舟や板綴り舟、臼や杵、食事に用いられる器、あるいは家や便所などの建造物にもそれぞれ神がついていると考えられているのです。

 

いっぽう、直接目では見ることができない悪心もあります。怠ける心や淫乱な気持ちだってあります。人々の考えによればそうした気持ちになるということは、その人間にそのような心をもつ神が憑くからだというのです。また、この世のあちこちを歩き廻り、人間に不幸をもたらす伝染病や飢餓、これらもそのための使命をもった神の仕業だといいます。この世での生命を絶った後、あの世にちゃんと行けないでいる人間や動物の霊、そういう浮遊の魂も神の範ちゅうに入るでしょう。

 

神の国での姿>

ところが、地上に舞い降りてくる以前、あるいは神の国に帰った際、神々はどんな姿、格好をしているのでしょうか。

 カムイモシㇼ(天上にある神の国)では、神も人間と同じように親、兄弟、仲間がいるのだとされています。とても人間的な考え方です。そして、そこでの姿かたちもまたきわめて人間的であると感じずにはいられません。

 古老たちに、「カムイモシㇼではどんな格好をしている?」と聞くと、ほとんどの古老は、五体がそろって感性に富んだ人間の姿そのものだ、といいます

 ただ、身にまとうものは立派なもので、人間が儀式の際にまとうもの以上のきらびやかなものを身につけている、というのです。

 火の神であれば、力強く燃え上がる火模様のついたコソンテ(絹製の小袖)、水の神であれば、陽春の中をキラキラと光り輝きながら流れる水面のような模様が入ったコソンテを、それぞれ幾重にもまとい、いつも立派なニンカリ(耳飾り)やタマサイ(玉飾り)、テクンカニ(腕輪)などの装飾品を身につけて暮らしているのだというのです

 こうしてみると、前にも述べたように、アイヌの人々が考える神というのはあくまで現世、つまりこの世の人間の感覚や認識が基準となって観念化されていることがおわかりになるでしょうか?

 

<神と人間の関係>

人間の祈り

・“神”というのは、「人間の生活にとって必要なもの、人間の能力以上のものをもったもの」ですから、人々が敬うことは当然です。豊かな自然のいたるところに、それぞれこの世でのつとめを担った神が姿を変えて住み、人間は、それから生きていくためのエネルギーを提供してもらうのです。つまり、神々の庇護と生活の糧の提供なくして、人々の安定した平和な生活はあり得ないと考えられていたのです。

 

・その平和な暮らしをいつまでも保証してくれることへの願いと、これまで人間の祈りを聞いて実践してくれたことへの感謝を捧げるために、人間は“祈り”という儀式を通して、それらの思いを言葉に託して神に捧げるのです。イナウ(木幣)やサケ(酒)、ハル(食料)を捧げながら神に祈ることを、カムイノミ(神への祈り)またはカムイコオンカミ(神に対する礼拝)といいます。たいていは、知識と経験の豊富な長老たちによっておこなわれます。

 

<祈りを受けた神のお返しもの>

・その一方で、「もし、神に対して失礼な言葉、間違った言葉や作法をしようものなら、人間の祈りは決して神にとどかず、神を冒とくしたことになって、その反動が必ず祈る人間に返ってくる」ともいいます。カムイノミはそれだけ慎重さと厳粛さをともなうため、神を知り尽くした長老でないとできないのです。

 

・ところが、人間の切なる願いにもかかわらず、人間の意に反した結果となったときはどうなるのでしょう。そのとき長老たちは、「なぜわれらの願いごとをお聞きにならなかったのか、われらは祖先伝来の方法で失礼もなく祈りをおこなったのに!」と抗議の言葉を神に述べることもあります。「神として品位を傷つけたことになるのだから、あなたは神の仲間から疎外されるだろう!」と厳しい態度でのぞむことさえあるのです。

 

・そういう意味からすれば人間も同様です。人間としてあるまじき行為をしたものは、人間からだけでなく、神々の間からも当然疎外され、死後も普通の人々が行く“あの世”には行けず、暗黒の世界に突き落とされてしまうのです。

 

<神と人間のおくりもの>

・祈りの際に人間はイナウや酒、団子、穀物、お菓子、くだものなどを神に捧げます。そのほか、タバコも捧げます。

 これらの供物は人々が作ったものですが、実はこれらを神は作ることができなく、一方的に人間から捧げられるだけだというのです。人間から神におくるプレゼントなのですから、イナウであれば丹念に削り作ったもの、食料であればよいもの、などを選んで捧げるのです。神はこのようなプレゼント品をことのほか好むと考えられています。

 神にとどくときには、人間がおくったものの数が何倍にも何十倍にも多くなり、イナウであれば神はそれを宝物としてだいじな箱にしまっておき、どっさり送られた食料や酒は多くの神々が招待を受けていただき、楽しい酒宴がおこなわれるといいます。神の国においては、このような人間界からプレゼントされる品々が多く、立派なものをおくられる神ほど、神の国における地位が高いとされるというのです。

 つまり、プレゼント品が多く、良質のものがおくられるということは、一面では、いかにその神が心ある人間から尊敬されているかということを示すものであって、それはとりもなおさず、神のステータスシンボルとなっているのだというのです。

 

いっぽう、神は何をするかというと、前述したように、人間の願いを聞いてそれを具体的に実行していかなければならないのです。そして、神が人間界に獲物を降ろすときも、人間が捧げるものが神の国で何十倍にもなるように、その数が地上にくる頃にははかりしれないほど多くなるといいます。神がさずける一頭のシカが地上では群れをなし、また一匹のサケが大群となって川を遡上して人間の里を訪れるのだ、というのです。

 

「あの世」に対する考え方

・人類学や民族学などでは、死後の世界に関する考え方なり概念を「他界観」といいます。「あの世について」という質問に対して説明するために、ここでアイヌの人々の他界観について触れてみましょう。ここでは、説明の便宜上、人間が現実に繰り広げる地上での生活の空間を「この世」と呼び、死後の世界空間、つまり死者の国を「あの世」と呼びましょう。

 アイヌの人々は、この世を「アイヌモシㇼ」(人間の国)と呼びます。どの地方でもアイヌモシㇼといわれることに変わりはありません。しかし、それでは、あの世はどこにあり、何というか、となると地方によって違いが認められます。北海道での事例をくまなく調べ上げたわけではないので、はっきりということはできませんが、あの世のどこに存在するか、という点ではおおまかにふたとおりの意識があるといえるでしょう。ひとつは「地下にある」という考え、もうひとつは「天上にある」という考えです。

 

・「地下にある」というあの世を「ポㇰナモシㇼ」(下の方の国)といい、これについては久保寺逸彦氏や泉靖一氏などの研究報文にもみられるところです。この意識は、日高地方の西部つまり沙流川流域を中心とした地方に伝承され、現在それを詳しく伝える古老も少なくありません。

 

他方、「天上にある」あの世に関しては、一般に「カムイモシㇼ」(神の国)といわれているようで、最近の信仰研究のいくつかの文献にも報告されています。それによれば、浦河や静内といった日高地方東部の古老は、天上にあるあの世のことを「アヌンモシㇼ」あるいは「アヌンコタン」と呼ぶといいます。

 

・ついでにもうひとつの違いをあげてみます。あの世が「地下」であるにせよ「天上」であるにせよ、それはこの世で人間として普通以上の人生を送った者の行く国で、悪業をした者は決してその国に行けず、草木も生えず奇怪な鳥が騒ぎ住む恐ろしい世界に落とされてしまうといわれていますあの世が「天上にある」という地方では、その恐ろしい国が天上ではなく地下にあって、それを「ポㇰナモシㇼ」と呼ぶのだといいます。あの世が「地下にある」という地方は、それがあの世のさらに下の方にあり、「テイネモシㇼ」(ジメジメした国)というのだ、というのです。

 

・ところで、「地下」「天上」というあの世の存在空間に違いが認められるにせよ、あの世に行くための入口が必ずあること、またそこを通ってあの世に行った際、その世界の情景や環境は、「地下」でも「天上」でもほとんど変わりがありません。

 あの世に通ずる入口を「アフンルパㇽ」(“あの世”に入る道の口)あるいは「オマンルパㇽ」(行く道の口)といいます。それがこの世には必ず存在します。写真は白老の人々のアフンルパㇽです。ひとつのコタンに1ヵ所あるというのではなく、ひとつのものが広域のコタン共有のものと意識されているといってもよいでしょう。

 

・人が亡くなると、その者は多くの人々に見守られながら「葬送」という手続きを経て、副葬品やほかの供物と一緒にあの世に向かうことになります。そして、死者の魂はアフンルパㇽを通り、自らの祖先やかつてこの世の仲間であった人々が平和に暮らしているのだとされ、そこでの生活のようすを古老たちにたずねると、あの世ではこの世と全く同じ生活がなされており、人が人として存在し、着物をまとい、チセに住み、この世のコタンと同じようなコタンがそこに展開するのだというのです。この世にある自分たちのコタンを取り囲む周囲の山々や川さえも同じ情景のもとで存在することにもなるのです。

 

・ただ、異なっていることは、あの世とこの世では季節や時間が逆になっていることなのだといいます。たとえば、冬に亡くなった人があの世に行くとそこは夏だったとか、この世での夜があの世では朝であったとか、になるのです沙流川筋の古老が「秋方に亡くなったフチ(おばあさん)に鍬をもたせてやったのをみたことがある」と話してくれたことがあります。それはあの世では春先だからせめてあの世に行ってもすぐに畑を耕せるように、という意味がこめられているからなのでしょう。

 

・また、その沙流川筋の古老によると、時間ばかりでなく、あの世とこの世では人の気持ちも逆になることがあるのだといいます。この世で亡くなるまでの未練を残した気持ちも、あの世に行ってからはきれいになくなっているものだというのです。愛し合っている若夫婦がいて、夫が亡くなる前、妻に「お前だけが恋しい。未練を残してあの世に行くのだから、あの世に行ってもお前のことは絶対忘れない。あの世でも一人でいる………」と言うものではないというのです。あの世に行くと、気持ちが逆になり、前のことはきれいに忘れ、そこでまたよい連れ合いができることもあるので、そうなるとこの世に残された妻の気持ちを裏切ることになる、というのです。

 このようの、アイヌの人々の他界観というのは、前の項で述べた「神」に対する観念と基本的には同じ考え方の上に成り立っているといえます。

 

先祖の供養をしたか

・日本の伝統の中では、お墓参りや仏壇に供物を添えて先祖をしのぶことが当たり前におこなわれています。若い人でさえ、盆や正月あるいは法事の際、仏前で合掌するのが普通です。このような行為は、現在の人々と物故者とのあいだの精神的連帯には欠かせないのです。

 アイヌの人々にそうした先祖を供養するしきたりがあるのか、とよく聞かれます。結論からいえば、アイヌの伝統文化の中では、お墓参りや仏壇の前で手を合わせることは絶対ありません。だいいち、仏教自体がかつては普及していなかったのですから、仏壇などあろうはずがないのです。お墓は、それぞれのコタンごとにあるのが普通ですが、それでも「墓に参る」ということはしません。それがアイヌの伝統です。

 

アイヌの人々が祖先に対しておこなう供養の儀式を「シンヌラッパ」(祖霊祭)」といいます。ユカッやイオマンテと並び、アイヌ語特有の美しい響きをもつこの言葉はアイヌ文化を象徴するもののひとつとしてつとに知られており、みなさんもどこかで一度はお聞きになったことがありましょう。

 

こうしてみると、シンヌラッパの目的は、まず第一に、自らの祖先に対して酒、穀物、果物などの食料をおくることにあることがおわかりになるでしょう。

 あの世に暮らす祖先も、神と同じように食料を自分では作れないとされているので、あの世で何不自由なく暮らせるようにこの世からおくるのです。

 古老たちの話によれば、あの世で暮らす者で、現世(つまりこの世)に身寄りのない者は何も食べ物を届けてもらえず、あの世の川縁に座りながら、現世から送り届けられて舟に満載された食料をいつもうらやましがって見ているのだといいます。さらに、そのような者は浮遊の霊となって、あの世からこの世にやってきては、コタンの中を飛び廻るのだともいいます。

いわゆる“ゆうれい”にまつわる伝承も人々の間に数多く伝えられていますが、それはとりもなおさず、この世の人々から食料を送り届けられない者がお腹をすかせ、人間の手によって食料を捧げてもらいたいためにこの世に現われるのだ、と古老たちは教えてくれます。そして、それを見たり、感じたりしたならば、必ずタバコや食べ物を少しでもよいからチャㇽパ(撒く)するものだ、というのです。

 古老たちはよく、自分たちの子孫が途絶えてしまうことほど恐ろしいものはない、といいます

 裏を返せば、それは、前世の人々から食べ物を届けてもらえず、あの世に行っても生活に支障をきたすことを意味しているからなのでしょう。

 

シャクシャインの戦い

アイヌ民族とシサㇺとの最大の戦いですが、その発端となったのは、パエ(現在の日高町門別)のアイヌと、シプチャリ(現在の新ひだか町静内)のアイヌとの20年におよぶイウォㇽ(領地)をめぐる争いでした。

 

・1640年代、パエの首長はオニビシ。シプチャリのおさはカモクタイン、副首長がシャクシャインでした。1648(慶安1)年、シャクシャインがオニビシの部下を殺すという事件が起こります。このときは、松前藩が調停に入ったのですが、5年後の1653(承応2)年に、パエのアイヌがカモクタインを殺してしまいます。その後、両者は小さな争いを繰り返し、そのつど松前藩が間に入っていたのですが、だんだん険悪な状態となり、1668(寛文8)年4月にはとうとうオニビシが殺されます

 

こうして、1669(寛文9)年6月、シラヌカからマシケに至るアイヌの人々が一斉に蜂起して、シサㇺに対する大戦争が開始されます。はじめ、アイヌ軍が優位の内に戦いが進められますが、クンヌイ(長万部国縫)の戦い以後は、アイヌ軍の勢力が分断されたこともあって、シサㇺが優位となり、ついに、10月23日松前軍とシャクシャイン軍とは和解することになります。ところがこれは偽りの和解で、その祝いの席でシャクシャインが殺されてしまいます。指導者を失ったシャクシャイン軍は、結局は敗れ去り、以後は長くアイヌの人々の虐げられた生活が続くことになります。

 

 

  

『神の策謀』(全宇宙と全生物を司る4元複素数体

(原作:オニソイ・イーネグ)(コスミック出版)2007/3

 

 

 

<北海道のコロポックルはどこに消えたのだろうか!?>

 ヘブライの民は神に選ばれた宇宙人の末裔

ヘブライの民は、神に選ばれた宇宙人の末裔なんだから。彼らの母星は、ニビル。ニビルは、シュメール語で交差するという意味だ。つまり太陽系を縦に交差する惑星がヘブライの民の故郷ということになる。

 

 ヘブライの民は日本列島へ>(ニビルの神)

ヘブライの民が惑星ニビルから来たのかどうかは分からない。しかし、惑星ニビルの動きに合わせて彼らが動かされていたことは確かである。金星から移住させただけなのに、ニビルからやってきたことにしたのかも知れない。

 

巨人族は地球より重力の弱い惑星から来たはずだが、もともと地球重力下では、身長はどんどん小さくなって地球人並みになってしまう。いつも自分の体重が重荷になっているのが巨人族の子孫である。

 

小さいが頑丈な北海道のコロポックルのような連中は、きっと超重力の巨大惑星から来たに違いない。そんな連中は、地球ではすぐに引き延ばされて人類に同化してしまうが、フットワークは常に軽い。

 

巨人族と爬虫類族とコロポックルが実際に人類の歴史にどう関わって来たのかは、今のところ誰にも分からない。コロポックルは人類と仲良くしていたようであるが、爬虫類族は、龍神信仰を生んで神になった。巨人族はどこに消えたのか。

 

火星と木星の間には、かって計都(ケイト)と呼ばれる惑星があったそうである。このケイトの住民が爬虫類族だった可能性も否定し難いものがある。太陽から遠く離れて高度な進化を遂げるには遺伝子レベルで、二倍体、三倍体になって巨大化し体温の恒常化を計る必要がある。

 地球では夜になると海底に戻って行ったそうである。高度に進化していれば、惑星ニビルの海底に理想の環境を作り出しているのかもしれない。

2012年に地球の地軸がどうなるか、爬虫類族が惑星ニビルから我々に挨拶にくるのかどうか。惑星ニビルからの移住者とされているヘブライの民が果たす役目は何なのか。すべては、今日神がどんな計画を立てうるのかということである。

 

 ヘブライ国家・日本>

そのための神の企ては、出エジプト記でモーゼにヘブライの民を40年かけて日本へ連れ出したことである。彼らの存在を3400年の間、歴史の中から隠してしまったのである。隠された当事者の日本人は、まだそのことを知らない。

 

 

 

『古代の洞窟』  チベット少年僧の不思議な物語

T.ロブサン・ランパ  中央アート出版社  2008/7

 

 

 

<『第三の眼』>

・本書は、かつて世界的なベストセラーとなった『第三の眼』の著者、チューズディ・ロブサン・ランパの続いての著作である。『第三の眼』は1956年に英国で初版が発行され、当時全く知られなかったチベットの国情、その奇異な習慣、そして神秘的なチベット仏教のあらましが著者の僧院での修業時代の物語を通じて明らかにされ、一躍世界の耳目を集めた画期的な作品であった。

 一方、本書は、その5年後に、当時ロブサンが滞在していた米国において刊行されたもので、これまた少年時代のロブサンの厳しい修業時代の一部始終を更に詳しく自伝風に書き綴ったものである。彼一流の諧謔を交えながら、自らの課せられた使命を達成するため、権威あるチベット高僧の適切な指導の下に、その生来もっていた類い稀な特異能力に磨きを掛けてゆく過程が、様々なエピソードを通じて細かに描写されていて興味深い。と同時に、その幽明を通じての優れた人生観が行間至るところに読み取れ、大いに啓発されるものがある。

 

<古代の洞窟>

私は高僧たちが旅行して発見した古代の洞窟について密かに興味を持っていたが、それは地球が若いある時代からの文化的遺物と知識の伝説的な蓄積の話であった。師も私も知っていたことではあるが、彼の準備が出来るまではその物語を話すことは望めないこと、そして未だそのときが来ていないことを私は感じ取っていた。

 

・「全世界は振動から出来ている。すべての生物も無生物も振動から出来ているのだ。あの大きなヒマラヤも、互いに接触することのない浮遊する粒から出来上がっている。世界も宇宙も他の物質の粒の周りを回っている小さな粒から出来上がっており、それはちょうど我々の太陽が、自分の周りに地球を回転させるとき、常に距離を置いて互いに接触することがないように、回転する世界を構成するあらゆるものが存在しているのだ」。

 

・彼は始めた。「これは私が見たり聞いたりしたもので、おまえが見聞するのも遠い先ではない。数千年以上も昔に、この世界には高い文明があったのだ。人々は重力に挑戦して機械に乗って空高く飛ぶことができ、また自分の考えを絵のように表わして、他人の心に印象づける機械を作ることが出来たのだ。更に彼らは核分裂の手段を持ち、世界を破滅させる爆弾を爆発させて大陸を海中に沈下させ、逆に海を隆起させ、これによって世界は死滅してしまった。それで現在、この地上の我々は、いろいろな地方で洪水の物語を持っているのだ」。私はこの最後の部分には納得がいかなかった。「先生、アカシックレコードの中で、そのような絵を見ることが出来ます。我々がこの場で、もっと簡単に経験できるものを、どうして危険を冒して山に登るのですか」と私は叫んだ。

 

・「ロブサン、我々はみんな幽界やアカシックレコードを見ることが出来る。特に後者は起きた事、すべての事実の再現である。しかし我々は見ることは出来るが、触ることは出来ないのだ。幽界の旅で我々は、あちこち行ったり来たり出来るが、その世界の何物にも触ることは出来ない。我々は着替えの衣や一輪の花をすら手に取ることが出来ない。同様に、アカシックレコードによって、我々はすべてを見ることは出来ても、この山の中の大きな部屋のなかに置かれた奇妙な機械を、近づいて詳しく試すことは出来ないのだ。だから、その山に行って機械を試すのだ

 

「本当に奇妙ですね、そのような機械は世界中にあるはずなのに、我が国だけで見つかったのは」と私は言った。「ああ、しかしおまえは間違っている。同様な部屋がエジプトでも見つかり、そしてもう一つの同じ部屋が、南アフリカと呼ばれる地域にも存在している。私は見たことがあって、どこにあるのかも知っている。これらの秘密の部屋は、時期が来れば後世の人々によって、その中の人工のものが発見されるように、古代人によって隠されていたのだ。しかし、この突然の岩石の落下によってチベットの隠された部屋は思い掛けなく顕わになり、その内部のものから我々は他の部屋の知識も得たのだ。しかし日は瞬く間に過ぎ去り、今度はおまえを入れた7人が出発して、再び古代洞窟に向かうことになるのだよ」

 

・ラマ・ミンギャール・ドンダップが話をしてくれてから約2週間後には、我々はほとんど、谷と石ころ道を通る長い長い登山の準備を完了した。共産主義者は現在チベットにもおり、したがって、洞窟は本当に存在し、その機械類を所有することは、共産主義者に世界征服をさせる機械を与えることになるという理由から、古代洞窟の位置は慎重に隠されたのだ。ここに書いていることは、洞窟への道以外は、すべて真実である。洞窟の秘密の場所や正確な面積は、時が来れば自由の軍がその場所を発見できるように、注釈と略図を使って完全にしてあるのだ。

 

<タイムカプセル>

・我々は、自分たちが彼らの言葉を理解できることに気がついたが、そのとき、我々はテレパシーで話を受けていたのだ、という説明が現れた。このような部屋、すなわち、タイムカプセルは、エジプトの砂の下や南アメリカのピラミッドの下、そしてシベリアのある地点に隠されており、その各々の場所には、その時代のシンボル、例えばスフィンクスなどによって印が付けられていた。我々はエジプトに起源を持たない巨大なスフィンクスの像を見、その姿の説明を受けた。

 人間と動物は遥か昔には一緒に話し合って仕事をしていたのだ。猫はその最も完全な動物で、力と知性を持っていた。人間自身も一種の動物で、古代人は大きな猫の身体の像を力と忍耐を示すために作り上げ、その身体の上に一人の女性と胸と頭を乗せた。頭は人間の知性を示し、胸は人間と動物が、お互いのために霊的、精神的な養分を取り合うことを示し、このシンボルは今日の仏像やダビデの星や十字架と同様に普遍的なものであった。

 我々は陸地から陸地へ移動する巨大な浮遊都市のある海を見、また空には音もたてずに動いている同様に巨大な船が浮かんでいたが、これらは一点に止まっていると見るや、ほとんど一瞬のうちに、とんでもない高速で通り過ぎていった。地上では乗り物が地面の数センチ上を、我々が考え及ばない方法で空気に支えられて動いていた。道路が橋のような細い索を伴って都市を貫いて伸びていたが、我々が見ている間に、空に生き生きとした閃光が走り、最大の橋が壊れて一固まりの桁と索になってしまった。そしてもう一度、閃光が閃いて都市の大部分が消え失せて、光り輝くガスとなってしまい、廃墟の上には、数キロメートルの高さの茸状の奇妙な悪魔のような赤い雲が立ち昇っていた。

 

絵は次第に褪せていき、そして我々は再びタイムカプセルを企画した人々の一団を見たが、彼らは今や、それらを閉じ込める時と考えていた。我々は儀式を見、また保存される記録が機械に掛けられるのを見、そして別れの演説を聞いたが、それは我々に向かって言った。「もしそれが存在するのなら、未来の人々へ(人類は自ら滅びる可能性があるという意味で)、この丸天井の中には、それを発見し理解できるだけの知性を持った未来の民族への恩恵となる、我々の完成と愚行の作品を保存する」

 

・徐々に我々は地球上での感覚をなくしていき、時代の海の中に浮かんでいる状態になった。過去に起きたことのすべてが、意識的に幽界に行って知識を得て帰ってくる才能を持った人々によって見られたのだ。歴史上のいかなる光景も、そしてそれがいかに遠い昔の出来事であったとしても、あたかもその場に居合わせたかのように見ることができた。

 

・次に我々は、巨大なピラミッドの石段に立っている高僧が、聴衆を戦争に駆り立てている姿を見た。回転する時間の巻き物に印象づけられている絵は更に変化して、我々は反対側の陣営を見た。指導者ががなり立て、取りとめのないことを言い、そして時代は流れていった。我々は空の青さの中に数条の白い湯気が立ち、それから空が赤くなるのを見た。全世界は振動し、見ているうちに目眩を感じた。夜の闇が世界中から垂れ込め、激しい炎によって立ち昇った黒雲は、全地球の周りに渦巻き、都市は焼き尽くされて消滅してしまった。

 

陸上には怒り狂った海から津波が押し寄せてきて、その前にあるすべてのものを一掃し、その高さは地上の最高の建物よりも高く、その頂上は亡くなった市民の漂流物を持ち上げていた。土地は振動して苦悶におののき、大きな割れ目が巨人の胃袋の収縮のように現われては閉じた。山は嵐の中の柳の小枝のように波打ちながら海底に沈み、陸地の固まりが水の中から立ち上がって山となり、世界の全表面は変化と連続的な運動の状態になっていった。数百万人の中で、僅かに方々に生き残っていた人々は、悲鳴を挙げながら新たに隆起した山に向かって逃げて行った。また他の生き残りの人々は船で漂流していたが、高地に到着するや、発見できた隠れ家に逸早く逃げ込んだ。一方、そのとき地球自身は回転を停止して静かに立っていたが、それから次第に逆方向に回転し始め、森は一瞬のうちに木々の生えた状態から散らばった灰に変わった。地球の表面は荒れ果てて真っ黒焦げになってしまい、洞窟や死火山の溶岩のトンネルの中には、ごく僅かの人々が大災害で気が狂ったように恐怖に縮こまって訳の分からないことをしゃべり、黒い空からは生命を維持する甘くて白い物質が降っていた。