日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

UFOは雷と同様のエネルギーを使い飛来するという話を主張するUFO研究家もおり、ヌカヒメとの間に子供を作った男性がレプティリアンである可能性も考えられるのだ。(4)

 

 

 

『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎』

飛鳥昭雄  三神たける  学研     2011/5/11

 

 

 

ニギハヤヒ

・読むとわかるが、ここに描かれたニギハヤヒ命は、まさに大王である、記紀においてはまったく無視された降臨神話がドラマチックに描かれている。すなわち、九州を出立したニギハヤヒ命は配下の32神と25部の物部氏一族を引き連れて、幾内は河内国の河上にある哮峰に降臨。大和国の鳥見にある白山に進出して、自らの王国を築いたというのだ

 

問題は、ここ。ニギハヤヒ命が築いた王国は物部王国であって、神武天皇が開いた大和朝廷ではないという点である物部氏が歴史的にも封印された理由も、実はここにある。同じ天津神の末裔を主張しながらも、物部氏大和朝廷以前に、まったく別の王国を築いていたのである。

 

物部王国「日本」

・なぜ海から見ての方角をもって地名としたのか。これに関して『先代旧事本記』には興味深い記述がある。物部氏の祖であるニギハヤヒ命は、河内に降臨する際、天磐船(あめのいわふね)に乗って大空を駆けめぐった。同記述は『日本書紀』にもある。ニギハヤヒ命は空から眺めて、眼下の国を「虚空見つ日本国(やまとのくに)」と命名したというのだ

 天空を駆けめぐる船とは、飛行機やUFOを連想させるが、あくまでも現実的な史実の反映と見なすならば、海を渡ってきたと解釈できる。

 

 

 

『魔界と妖界の日本史』

上島敏昭  現代書館  2009/3

 

 

 

河童の霊験で河川を改修させた、合羽屋川太郎没す(西暦1814年)

・東京都台東区の巨嶽山曹源寺は「かっぱ寺」の愛称で知られる。『曹源寺誌』によれば、このあたりは土地が低くて水はけも悪く、雨が降ると近くを流れる新堀川はたちまち出水し、住民は非常に難儀した。これを見兼ね、私財を投じて、新堀川の改修を行ったのが、雨合羽屋を営む喜八、通称「合羽屋川太郎」だった。この工事には、かって喜八に命を助けられた隅田川の河童たちが手を貸し、その姿を見た者は不思議と商売繁盛したという。喜八は文化十一年(1814)一月二三日に没し、曹源寺に墓碑が残る。また、河童たちは「河童大明神」として、境内の「河童堂」に祀られた。

 新堀川に架かる橋を「合羽橋」、その通りを「合羽橋通り」というのも、この伝承によるが、このとき河童たちがどんな工事をしたのかは、よくわからない。

 

・喜八を手助けした「河童」とは、猿曳きの一党である「鳥越のもの」の末裔だったのかもしれない。

 

・商売繁盛の守り神としての河童大明神の霊験は、いまでも生きているようだ。

 

 

 

「鬼」 (高平鳴海、糸井賢一、大林憲司)(新紀元社

 

 

 

鬼はなぜ童子とよばれるのだろうか?

童子とは、つまり元服前の稚児を示す言葉だが、童子はいわば蔑称で、時の支配者らが用いた言い回しである。鬼は確かに人々を驚かしていたが、その力を認めたがらず、下っ端=目下の者=童子と呼んだそうです。

 

日本の伝承に残る鬼として

・桃太郎の鬼(温羅)(うら)

蝦夷の鬼王(悪路王)(あくろおう)

有明山(信州富士とも呼ばれる)の鬼族(八面大王)(長野県の伝承)

・黄泉より還りし悪鬼(大嶽丸)(おおたけまる)(三重県鈴鹿山近辺の伝承)

・霊の化身(鬼八法師)(きはちほうし)九山岳地帯の伝承

・飛騨の怪人(両面宿儺)(りょうめんすくな)

 

・「伊吹弥三郎」と「伊吹童子」の伝承(岐阜県北部伝承、日本書紀御伽草子に登場)近江の伊吹山にいたとされる伊吹弥三郎は、創造神という顔と、魔物=鬼という顔がある。伊吹童子はその息子だという。

 

天邪鬼(あまのじゃく)(人々に親しまれた小鬼)(和歌山県串本町の伝承)

 

・同胞を助けた「赤鬼」(せっき)出自は安倍晴明物語。

 

 

 

「河童の文化誌」 平成編

和田寛  岩田書院  2012/2

 

 

 

平成8年(1996年)

河童の同類とされている座敷童子ざしきわらし

・ザシキワラシ(座敷童子)については柳田國男の『遠野物語』によって知られていたところである。

 

アメリカのニューメキシコ州の異星人の死体

・回収された異星人の姿は人間によく似ているが、明らかに地球人ではない。身長1.4メートル、体重18キロ前後、人間の子供のようだが、頭部が非常に大きい。手足は細長く、全体的に華奢。指は4本で親指がなく、水掻きを持っている。目は大きく、少しつり上がっている。耳はあるが、耳たぶがなく、口と鼻は小さくて、ほとんど目立たない。皮膚の色がグレイ(灰色)であるところから、UFO研究家は、この異星人を「グレイ」と呼ぶ。

 

・異星人グレイと河童を並べてみると、素人目にも、そこには多くの共通点を見出すことができるだろう。

 まず、その身長、どちらも1メートル前後、人間のような格好をしているが、頭部だけがアンバランスなほど大きい。

 大きな目に、耳たぶのない耳、そして、小さな鼻穴と、オリジナルの河童の顔は、そのままグレイの顔である。

 最も注目したいのは、その手である。

述したようにグレイは河童と同じ鋭い爪、水掻きがある。おまけに指の数が、どちらも4本なのだ!。

 また、グレイの皮膚の色は、一般にグレイだが、ときには緑色をしているという報告もある。

 河童の色は、やはり緑が主体。ただ両生類ゆえに皮膚はアマガエルのように保護色に変化することは十分考えられる。

 

・これらが、意味することは、ひとつ。アメリカ軍は、組織的にUFO事件を演出している。

 捕獲した河童を異星人として演出しているのだ。

 

 

 

「最新! 秘密結社の謎」  世界の裏側で暗躍する組織の実態を暴く

知的発見探検隊    イーストプレス   2011年7月15日

 

 

 

エコロジーを実践しカッパとの共生をはかる「下総カッパ団」

下総カッパ団は、1724(享保9)年、下総国印旛村豪農、安田伝兵衛によって設立された人間とカッパの親睦団体だ。大の相撲好きだった伝兵衛が印旛沼で出会ったカッパのシンサクと偶然相撲をとって勝ったことで、意気投合。カッパと人間の共生を目的として旗揚げされた。設立当初は、うなぎ釣りや川相撲、水泳などの各種の催事を開き会員数は増え続け、最盛期には300名もの会員数を誇ったという。

 

ナチスを生みだした秘密結社トゥーレ協会

ナチスは1926年から1942年まで毎年、チベット中央アジアに遠征隊や調査団を派遣しました。何を探し求めていたのかといえば、アガルタです。

 アガルタとはフランスのオカルティスト、J・A・サン=ティーヴ・ダルヴェードルが詳しく紹介した一種の桃源郷です。

 彼はその死後の、1910年に出版された『インドの使命』という著書で、世界の中心に当たるアジアの地下深くに不可視の王国があると述べています。

 

グレート・ホワイト・ブラザーフッド

神智学協会やゴールデン・ドーンを生んだ謎の集団

多くのオカルト結社に影響を与えた存在

ブラヴァツキー夫人が神智学協会を創立する際、多大な影響を受けたとされているのが、ヒマラヤで出会ったグレート・ホワイト・ブラザーフッドだ。

 

未知の上位者との交信で真理に近づく

・グレート・ホワイト・ブラザーフッドは、太古の昔より天界や宇宙の超存在と交信し、授かった智恵で人類を導き続けてきたという。

・交信できるのは、マスター(導師)と呼ばれる一部の者だけで、そうそうたる人々の名が連ねられている。超存在が何者であるかは不明だが、その導きに従えば、人間の内に秘められた真理に近づけるとされる。

 

・こうした神秘性を高める構造は、オカルト系秘密結社でよく見られる「未知の上位者」のシステムと呼ばれる。

 

・オカルト要素に満ちたグレート・ホワイト・ブラザーフッドは、未知の上位者からの情報を伝えることで、そのカリスマ性を維持していた。

 

地球外生命体の正体

地球を揺るがす秘密をNASAと秘密結社が隠蔽

エリア51には宇宙人がいっぱい!?

・地球には既に知的な宇宙人が到来しているという説がある。そして、宇宙人とアメリカ合衆国NASA既に接触しているというのだ。

・また、ネバダ州にあるアメリカ空軍の実験施設エリア51周辺ではUFOらしき未確認飛行物体が何度も目撃されている。

・そして、エリア51には極秘裏にロズウェル事件の残骸が運び込まれ、地球外生命体から得た技術でUFO研究が行われ、リトル・グレイと呼ばれている宇宙人が存在しているなど、様々な憶測が飛び交っている。

 

<信じられている噂><地球外生命体を隠し続けるNASA

NASAは実は地球外生命体と既に接触しているという噂が後を絶たない。

 NASA中枢には根強い秘密隠蔽派が存在し、秘密結社と結びついて、これまでの発見や地球外生命体に関する情報を隠し続けているというのだ。

 

 

 

『21世紀の民俗学

畑中章宏    角川書店   2017/7/28

 

 

 

<UFO学のメランコリー>

人は地球外に魅せられる

・2016年は、「宇宙」にまつわる展覧会、映画等を目にする機会が多かったような気がする。

 

・「Soleil Noir」店の紹介映像でグラッソは、「パラドックス(反語的)」な表現が自らの作品のキーワードであり、それはタイトルにも反映されていると述べる。「未来の記憶」や「未来の考古学」、さらには現代の神話・伝説を意味する「ancient alien(古い異邦人)」という言葉を口にし、そのうえで、「UFO学」という魅力的な概念を提示するのである。

 

・美術館にある過去の作品の中に、UFOや奇妙な現象、あるいは異星人といったモチーフをだれかが読み取ったり、妄想を膨らませていたかもしれない。いわば、“UFO学”とでもいうべき可能性を考えてみたかったのです……。

 

200年前に漂着したUFO

・ローラン・グロッソには、1803年(享和3年)に現在の茨城県の太平洋岸に出現した「うつろ舟」を素材にした作品がある。タイトルは「1803、虚舟、常陸国で発見された未確認物体」で、「1803」の文字が光るネオンサイン、舟の形をしたテレコッタ、浜辺に漂着した謎の舟と謎の女と取り囲む人々を描いた油彩画からなる。「宇宙と芸術展」では、この作品を制作した際、グラッソが参照したであろう、江戸時代の奇譚集や瓦版の挿絵も展示され、その不可思議が耳目を引きつける

 当時の記事や図譜から素描すると、うつろ舟は鉄製で、蓋付きの浅い丼鉢のようなかたちをし、小さな窓があり、箱を持った女性が乗っていた。また船内には、解読不能の文字らしきものが書かれていた。海から漂着した謎の舟を人々は恐れて、再び海に流してしまったという。

 うつろ舟の正体については、未確認飛行物体(UFO)説、潜水物体説、ヨーロッパからの来訪説、謎の神説、噂や伝聞、創作説などがある。民俗学では「かがみの舟」とも呼ばれ、柳田国男は、荒ぶる常世浪をかきわけて本土に到着したと伝わっていることから、「潜水艇」のようなものだったのではないかと想像している。

 

茨城県の北部地域で開催された「茨城県北芸術祭」(9月17日~11月20日)でも、インドネシアのアーティスト、ヴェンザ・クリストが、日立市川尻町の小貝ヶ浜に「虚舟ミニミュージアム」を開館していた。クリストの展示は、開催地周辺に伝承されるうつろ舟の資料を分析するとともに、茨城県在住でUFOを目撃したという人々へのインタビューなどから構成される。

 

・このミニミュージアムが建つ小貝ヶ浜緑地の南端の高台には、「蚕養神社」が鎮座する。社号が示すとおり、豊蚕祈願に信仰されてきた神社で、「小貝ヶ浜」は「蚕養ヶ浜」でもあったことがわかる。この神社は「日本三大蚕神社」のひとつで、ほかの二つはつくば市の「蚕影山神社」と神栖市の「蚕霊神社」で、三社とも茨城県にあり、しかも「金色姫」の物語が伝承されている。

 その昔、常陸国の豊浦に、繭のかたちを丸木舟が流れ着いた。この舟に乗っていた金色姫は天竺国の王女で、継母のいじめから逃れて、日本にやって来た。地元の夫婦が大切に育てたが、ある日、別れを告げるとともに、養蚕の技術を授けて天に昇った……。まさにうつろ舟伝説を思わせる話である。しかしそもそも、うつろ舟が動力をもち、また「空を飛んできた」と証言する資料は存在していない。

 

<河童の妙薬>

・日本列島の各地には、「河童の妙薬」といって、骨接ぎ、打ち身、熱傷に効く、河童が人間に伝えた薬がある。日本人には、西洋医学や反西洋医学のお世話にならなくても、山伏や坊主、河童がよく効く薬を与えてくれたのだ。

 柳田国男の少年時代の愛読書だった赤松宗旦の『利根川図志』(1858年)には、河童が貧しい百姓に温湿布のつくり方を教えたという伝承が記されている。利根川河口に貧しい百姓の親子が住んでいた。あるとき、父親が足をくじいてしまうが、貧しい親子には薬を買うお金がなかった。利根川の河童の女親分である禰々子(ねねこ)は、彼らに薬草を渡し、湿布薬のつくり方を教えた。禰々子(ねねこ)に言われたとおり、親子が湿布を十三枚貼り替えると足は完治した。その百姓の村は「十三枚」と呼ばれるようになったという。

 また新潟市の猫山宮尾病院に伝わる「河童の妙薬」もよく知られる。昔々、京ヶ瀬村の「猫山」というところに悪戯好きの河童が住んでいた。河童は馬をいじめたり、作物を盗んでは喜んでいた。それを見かねた宮尾家の先祖が、河童の腕を切り落とし、証拠として持ちかえった。それから7日目の晩、河童は「家伝の薬で腕が元に戻るが、7日を過ぎると薬が効かなくなる。もう悪戯をしないので、腕を返してほしい」と懇願した。河童が腕に塗り体にあてるとみるみる腕がくっついていった。河童はたいへん喜び、お礼に家伝の薬を教え、川へと戻っていった。

 深緑色の粉末を水で溶き、耳たぶくらいの硬さになるまで練ってから和紙にのばして患部に張る湿布薬「猫山アイス」は、1989年(平成元年)に製造中止になるまで、打ち身やくじきの良薬として用いられてきた。

 

ワイオミング州ジャクソンホールにある民族医療研究所のエグゼクティヴディレクターを務めるポール・アラン・コックスが、ポリネシアの薬草医は土地固有の病気についての膨大な用語をもつと同時に、ヨーロッパ人から伝えられたものについてはまた別の異なる用語をもっていることをサモアで発見し、論文にしているという。

 また絶滅危惧言語においては、植物相と動物相に関して、西洋科学で知られているより何百種類も多い分類がされていることがよくあり、フィリピンのミンドロ島に住む焼畑農業をするハヌノオ族は、土の種類について40の表現をもつ。東南アジアの森にすむヒーラーは650種類もの薬効成分を特定しているという。コックスらによれば、キニーネアスピリンなどは、先住民族に案内され、情報提供された民族植物学者のおかげで一般的な治療薬となったというのだ

 日本の修験山伏や浄土真宗門徒も、もしかすると河童も、偉大な科学者だったといえるだろう。宗教や民間信仰は、決して非合理なものではなく、植物学的な知識に基づき病に対処する知性と野性を併せもっていたのである。

 

河童に選挙権を!

異形の「正義」

・わたしのかねてからの主張に、「妖怪は実在する」、あるいは「妖怪は実在した」というものがある。そもそも柳田国男の『遠野物語』に登場する河童や天狗、ザシキワラシ、雪女、山男や山女はその目撃談、経験談から、実在したものであることは疑いえない。

 しかし、列島上の妖怪の代表格とみなされる、「河童」と「天狗」とでは、その実在のありようが大きく異なる。

 

・天狗にかんしては、先住民族や山林生活者とおぼしき「異人」「山人」を常民の尺度からみた生命体であり、また山岳宗教者である修験山伏の性格や能力を反映した存在であるという解釈が唱えられてきた。そうした従来の天狗イメージに対して、天狗の実在を疑う人にわたしがよく話して聞かせるのは、柳田国男の『幽冥談』(1905年)のなかの挿話である。

 池原香雅という歌人があるとき、播州にある宇野の野道を歩いていると、ひとりの旅の僧と出会った。道連れになり、いろいろ話をしながら歩いていたが、「あなたはどこへお出でになるのですか」と聞いたところ、「私はあすこの穢れた村を焼きに行くのだ」と言う。

 

・それがために今までは普通の旅僧と思って話をしておったが、非常に驚いて物も言えなくなってしまった。かの旅僧は、あれを御覧なさい。あすこに燈火が二つ点いている、右の方の光りは非常に清らかだが、左の方の光りは穢れていると言うから見たけれども分らない。それであの村を焼いてしまわなければならぬというて、ちょいと指したところがたちまち村は焼けた。

 

・柳田は驚くべきこの天狗の仕業に対し、「これらは事実であろうと思う」とコメントする。さらに池原香雅は、1877年まで生きていたので、天狗と出会ったのもその4、50年前だから、そんなに古い時代の出来事ではないと言う。そうして柳田は、「その時分にもそういう不思議なことを、我々が目撃することがあったのである」と納得している。

 池原が出会った天狗の行動は、山人・異人や修験山伏よりもかなり強烈で衝動的だ。

 

「忘れようとしても思い出せない」

・6年前の3月11日。午後2時46分ごろ、わたしは東京都文京区のファミレスで、これまで体験したことのない強い揺れを、2回感じた。関西出身で地震に免疫がないうえ、阪神・淡路大地震を経験していないわたしは、2度目の揺れで、テーブルの下に潜り込んだ。しかし、周りの客は意外と冷静で、スマホを見て震源や被害を調べているし、店員も「このビルは安全ですから」と触れ回っていた。

 それからしばらくして、靖国通りに出ると、サラリーマンやOLが、ビルから溢れ出ていた。しかしほとんどの電車が止まっているらしく、大勢の人が大通りを歩き出していた。神保町のスポーツ用品店では、店頭でスニーカーの安売りを始めていた。隅田川べりの部屋にたどり着くと部屋中に本が散らばり、その間に猫が怯えたようにうずくまっていた。そうして3日後の月曜日には、まだ余震があるにもかかわらず、ほとんどのOLがハイヒールを履いていた。

 

・わたしたちはいったい、あの日に何を失い、何を得たのだろうか。非・当事者であるわたしは、何を心に刻みこんできたのだろうか。記憶の風化がとりざたされ、「忘れてはいけない」「思い出すべきである」と、人々は口ぐちに言う。またいっぽうで、「震災のことは早くに忘れて、前に進め」と促す人々もいる。6年前の記憶が薄らいだだけではない。あれから、広島市で土砂災害があり、御嶽山が噴火し、鬼怒川が氾濫し、熊本では地震が起こった。

 

 

 

『幻解!超常ファイル ダークサイド・ミステリー』

NHKエンタープライズ   NHK出版    2014/5/30

 

 

 

江戸時代に現れた謎の円盤と美女

・江戸時代後半、天下泰平のさなか、鹿島灘茨城県南部)に円盤型の乗り物が漂着。出てきたのは、日本人とは思えない謎の女性。宇宙からの使者なのか?

 

常陸国に「うつろ舟の蛮女」現る

アメリカで「空飛ぶ円盤」が最初に話題になったのは、第2次世界大戦終結直後の1947年。日本では、それより120年も前に、円盤型の乗り物と、そこから現れた女性についての記録が残されていた。「うつろ舟の蛮女」と題する記録である。時は享和3年(1803)、江戸時代後期の天下泰平のさなか、江戸からおよそ100キロメートル離れた鹿島灘、現在の茨城県南部の海岸に、空飛ぶ円盤のような乗り物が流れ着いた。

 

円盤状の乗り物、船内には解読不能の文字

・この円盤状の乗り物には、上部にガラス製の窓があった。下部は鉄でできていた。そして、船内には解読不能の謎の文字が書かれていたという。

 乗っていたのは美しい女性で、日本のものとは思えない衣装をまとっていた。髪は赤毛、腰まで伸びる白いつけ髪をしている。手には大事そうに箱を抱え、誰にも触らせようとはしなかった。

 

最新資料を再検証すると………

平成24年(2012年)4月には茨城県で、円盤状の乗り物と女性が描かれた江戸時代の絵図が発見された。そのほかにも、実際に起きた事件として報じた当時の瓦版。東北の武士が江戸での噂をもとに記した日記。愛知県では、馬琴のものとはまったく異なる色使いで描かれた風聞集が見つかっている。京都でもメモ書きのように記された資料が発見された。

 

古くからの伝承がもとになっている

・事件から約120年後の大正時代、これらの共通点から謎を解き明かそうとしたのが、民俗学の大家、柳田國男だった。彼は大正15年(1926)に発表した論文「うつぼ舟の話」で、古来日本には、海を越えて漂着し、人々に何かをもたらした神々の伝承が多く、そしてその神が乗る空洞の乗り物を“うつぼ舟”と呼んだと言っている。

 古来からの伝承がもとになっていると推測する一方、絵図については真っ向から切り捨てている。

 舟の中に書いてあったという4つの“異形文字”が、今ではもっとも明白に、この話の“駄法螺なること”を証明する。世界のどこにもない文字だというのだ。

 この乗り物が外国から来たのであれば、実在する文字に似ているはずだと、柳田は考えたのである。

 

UFO&宇宙人説が戦後浮上

・戦後になると、柳田國男の時代には存在しなかった、空飛ぶ円盤の世界的なブームが到来する。そして、乗り物の中に書かれていた文字が地球上にない文字だとしたら、宇宙から来たと考えるべきだ、という新説が登場した。うつろ舟は空飛ぶ円盤であり、乗っていた美女は宇宙人というわけである。

 突飛な話に思えるが、そもそも日本には、1000年以上も前から、空に怪しい物体が飛んでいたという話もある。舞台は、聖徳太子の時代、奈良・飛鳥の里である。飛鳥寺の竣工式が行われているときに異変は起きた。一筋の紫雲がたなびき、蓮の花のような形をしたものが仏堂を覆った。そして、五色の光を放ち、西方に飛び去ったというのである。

 謎の円盤は、昔から日本に現れていたのだろうか。

 

1枚の瓦版が出処だった?

岐阜大学の田中嘉津夫名誉教授は、史料を整理・分析し、「うつろ舟の蛮女」の真相を探ろうとしている。

 

・田中名誉教授は、瓦版がかなり初期の資料だとにらんでいる。さらに、瓦版の絵をもとに、謎を解く手がかりとなる資料を見つけだした。瓦版に描かれた女性と、よく似た雰囲気の女性が描かれたお札があるのだ。実は、このお札の女性も、鹿島灘に流れ着いたと伝えられている。その名は金色姫。日本に養蚕をもたらしたと伝えられている女神である。金色姫と円盤漂着事件には、どのような関わりがあるのだろうか

 

円盤漂着事件の裏舞台

鹿島灘からほど近い星福寺は、かつて金色姫を本尊としていた寺で、今も本堂の裏に大切に祀られている。その金色姫の像は箱を手にしていて、中には蚕が入っているのだという。

 箱を持つ女神像は、日本ではきわめて珍しい。円盤漂着事件は、この金色姫の話がもとになって作られたものと考えるのが妥当だろう。

 

金色姫のお札に馬琴の別名が記されていた

・さらに田中名誉教授は、金色姫のお札に、もうひとつ謎を解く重要な鍵を見出した。お札に書かれた文章の作者が、「曲亭陳人」となっていたのだ。これは、曲亭馬琴の別名である。

 整理してみよう。1825年、馬琴が人から聞いた噂話として「うつろ舟の蛮女」を書く。話の出処と考えられるのは瓦版だ。そこに描かれる女性のモデルと考えられるのが金色姫。そして、その金色姫のお札にも馬琴の名が書かれている。

 

・田中名誉教授は、瓦版も馬琴が書いたのではないかと考えている。確かにその可能性が高いのかもしれない。もし、そうだとしたら、すべてが馬琴がしくんだことなのだろうか……。

 馬琴が生きた江戸時代後期、妖怪の話や絵図が出回るなど、人々は日常とかけ離れた異界の存在に、強い関心を抱いていた。鎖国が200年近く続くなかで、人々は海の向こうからやってくる見知らぬものに、想像と憧れを膨らませていたのだ。

 海の向こうから流れ着いた不思議な乗り物に乗った美女――。人々がこのミステリアスな話に熱中し、噂が広まることによって、数多くの記録が残ることになったのかもしれない。

 しかし、当時の人々は、一体どこから、このような奇抜な形の乗り物を発想したのだろうか。

 

 

 

『UFOに乗った! 宇宙人とも付き合った!』

 僕のコンタクティとしての半生の記録  

 津島恒夫    ヒカルランド   2014/12/17

 

 

 

「空船(うつろぶね)の事から現在の漂着地名を固定

 ・享和3年3月24日、常陸国「原舎浜」というところに、異船が漂着した。その船の形は中が空のお釜のようであり、真ん中あたりに釜の刃のようなものがあった。そこから上は黒塗で、四方に窓があり、障子はすべて樹脂で固められていた。下のほうは筋鉄が施されており、どうやら南蛮鉄の最上品のようであった。

 

・船全体の高さは1丈2尺(約3.6メートル)、横の直径は1丈8尺(約5.4メートル)。この中に年齢20歳くらいの女性が1人いた。身長5尺(約152センチ)、雪のように白い肌で、長い黒髪が背中に垂れ、とても美しい顔立ちであった。

 

 ・これまでは「はらやどり浜」「原舎浜」などの地名の特定ができず、折口信夫柳田國男の考察では“伝承”とされてきました。しかし、2010年末に茨城県水戸市内の書画収集家が京都で入手した新史料が発見され、そこに「常陸原舎り濱」とあることから、江戸時代の常陸国鹿鳴郡に実在し、伊能忠敬が作製した『伊能図』(1800年調査)掲載の地名で、現在の神栖市波崎舎利浜にあたることがわかりました

 

・またその後、田中教授は長野県の古書収集家が所有していた別の史料を発見。絵に関してこれまでの史料と共通点が多く見られるが、事件現場の地名については従来の史料にある「常陸の国」でなく「房州の湊」と書いてあると言います。                                                                                                                                                                                                                                            

 

 ・こうして事象が事実となってくれば、あとはそれをどう解釈するかです。そして、私はシャクティと名乗る琴座人から、驚愕のテレパシック・コンタクトを受けました。なんと、彼によれば茨城県から千葉県にまたがった海岸沿いにかつて巨大な秘密基地が建造されていたというのです。そしてここにはたくさんの宇宙人が住んでいたが、1800年から縮小されていき、基地内のほとんどが故郷の惑星に帰りその後、少数の利用があるだけとなったとのことです。

 

 

 

<●●インターネット情報から●●>

 

茨城新聞』 2014/5/26

 

 UFO「うつろ舟」漂流地名浮上「伝説」から「歴史」へ一歩

 1803年(享和3年)、常陸国の海岸にUFO(未確認飛行物体)のような奇妙な物体と1人の女性が漂着したという江戸時代の伝説「うつろ舟奇談」に関する新史料に、漂着地の実在地名が記されていた。地名は「常陸原舎り濱」(現在の神栖市波崎舎利浜)。これまで特定されずにいた漂着地が浮かび上がったことで具体性が増し、「伝説」は「歴史」に一歩近づいたと言えよう。事件の真相解明へ、連鎖的な史料発掘の可能性や検証機運が高まることは間違いない。(鹿嶋支社・三次豪)

 

■研究のハイライト

「今までの研究の中でもハイライト。まさか実在の地名が出てくるとは」と驚くのは、「うつろ舟奇談」研究で第一線を走る岐阜大の田中嘉津夫名誉教授。三重大特任教授の川上仁一さん(甲賀流伴党21代目宗家)が甲賀流忍術を伝える伴家の古文書とともに保管していた文書について、「うつろ舟奇談」に関わる史料であることを田中氏が発見した。

 

文学者の渋沢龍彦(1928〜87年)も同伝説をモチーフにした短編小説で「銚子から平潟にいたる今日の茨城県の長い海岸線のどのあたりに位置する村なのか、一向にはっきりしない」と記すなど、これまで漂着地の特定が困難とされてきただけに、今回の発見は研究者らが待ち望んでいた“大きな一歩”と言えるだろう。

 

■定住者いない浜

それでは、今回漂着地として浮かび上がった舎利浜とは、当時どういった地だったのだろうか。「波崎町史」(1991年)によると「舎利浜は鹿島灘で地曳網漁が発展する明治五年に初めて定住者が現れたというから、江戸期には地字としては分かれていても、定住する者はなかったのであろう」とある。

 

現在の舎利浜も砂浜続きで人気は少ないが、風力発電の巨大風車が並ぶ風景を望むことができる。近くに、大タブの木、木造釈迦涅槃像のある神善寺(神栖市舎利)がある。また、神栖市内には、天竺から金色姫が流れ着き養蚕を伝えたという伝説の残る蚕霊神社と星福寺(ともに同市日川)もある。

 

田中氏が、2010年に水戸市内で見つかった「うつろ舟奇談」の史料の中の女性の衣服が、蚕霊尊(金色姫)の衣服と酷似することを発見し、2つの伝説の関連性を指摘していたことも、神栖と「うつろ舟奇談」との結びつきの意味で興味深い。

 

■当時の大きな話題

事件があった1803年は開国前で、日本近海では外国船がしきりに現れ、常陸国の浜でも小船に乗った外国人が上陸する事件などがあった時代。異国船打ち払い令が出されたのもこの頃で、こうした社会情勢も伝説と関連付けて考えることができる。

 

田中氏によると、これまで全国で見つかった「うつろ舟奇談」の史料は11編。

 

田中氏は「これほどあちこちから多くの文書が見つかるということは、当時大きな話題を集めた出来事だったのではないか。舎利浜の発見で、ますます魅力的になった」とし、「米国の『Roswell』(「UFOが墜落し回収されたとして有名な地)のように、『Sharihama』はいずれ世界的に知られるようになるのでは。神栖市茨城県、日本が世界に誇る民俗資産」と強調する。

 

★うつろ舟奇談に関わる史料

南総里見八犬伝」で名高い読本作者、曲亭馬琴の「兎園小説」(1825年)や長橋亦次郎の「梅の塵」(同年)などで、絵入りで伝説が記されている。民俗学の巨人、柳田国男も論文「うつぼ舟の話」(1925年)を書いている。