日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。

ウィリアム・フレデリック・フリードマンは、日本軍が使用した暗号、通称「紫暗号」を解読した功績で有名な人物です。フリードマンはかねてよりヴォイニッチ手稿の解読に興味を持っていました。(1)

 

『奇書の世界史』    

 歴史を動かす“ヤバイ書物”の物語

三崎律日  KADOKAWA    2019/8/23

 

 

 

時代の移ろいにより評価が反転した書物たち――。

読者と本を結び付けるもの。それは、互いが持つ「価値観」の一致です。>

・価値観とは歴史の、過去から現代の流れでどう変わったのかの「差分」を探り、未来の私たちを占ってみよう。

 

ヴォイニッチ手稿

万能薬のレシピか? へんな植物図鑑か? 未だ判らない謎の書

ヴォイニッチ手稿」とは、古物商ウィルフリド・ヴォイニッチによって「再発見」された、全編手書きの古文書です。書物の正式名称は判明せず、一般的にこのように呼ばれています。

 内容は大まかに「植物」「天文」「生物」「薬草」というようにジャンル分けがされています。また各ページには独特なタッチの挿絵とともに、その隙間をみっしりと埋めるように文字が書き込まれています。

 たとえば「植物」のジャンルで描かれている植物は、(一部を除き)実在するものとはかけ離れた姿をしており、内容の類推を困難にしています。

 そしてこの手稿最大の謎――。それは、文字です。全編を通じて書き綴られた文章は暗号化されており、現代でも様々な憶測を呼んでいるのです。

 

万能薬「シナピスの水」のレシピ本か?

・ウィルフリド・ヴォイニッチは、とりわけ稀覯本(きこうぼん)を中心に商売を行っている古物商でした。1912年、イタリアのイエズス会修道院ヴィラ・モンドラゴーネで『ヴォイニッチ手稿』を発見します。手稿を手にしたヴォイニッチは、いままで取り扱ってきた書物とは一線を画するものであると瞬時に感じ取りました。特に興味を引いたのは、手稿に添付されていた1枚の手紙です。羊皮紙にラテン語で書かれた要旨は次のようなものです。

 

・いとも尊く名高き猊下

 この本を一目見たときから、これをあなたにご覧いただかなくてはと感じました。この謎めいた書物を読み解けるのはキルヒャー猊下、貴方をおいてほかにはおりますまい。これはかつて神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が、何者かから「かの英国人ロジャー・ベーコンの手になるもの」として600ダガットで買い取ったものだと言います。しかし真偽は不明です。あなたのその慧眼が真実を見抜かれることを信じております。 

          ヨアンネス・マルクス・マルチ

         プラハ、1665(6?)年8月19日

   『ヴォイニッチ写本の謎』(ゲリー・ケネディ、ロブ・チャーチル著、青土社)より改変

 

・この手紙はプラハ大学の総長だったマルクス・マルチという人物が、ローマの学者アタナシウス・キルヒャーへ送ったものであると言われています。ルドルフ2世は、錬金術を特別に庇護したことで有名な皇帝です。ロジャー・ベーコンは、実験を通じて自然現象の原理を探ろうとした大錬金術師の1人で、「最初の科学者」とも呼ばれています。

 

もしもこの手稿が本当にベーコンの手によるものであれば、暗号を使ってまで秘匿しようとした英知とは一体何なのでしょうか。手稿を入手したヴォイニッチは、文書の解読と来歴の同定に邁進しました。その過程で、手稿の表紙の余白に、ほとんど消えかかった文字が書かれていることを発見します。

 薬品処理によって浮かび上がったのは、「ヤコブズ・デ・テペチネ」という文字。これは、ルドルフ2世に仕えた錬金術師の名でした。これを見たヴォイニッチは歓喜します。ヤコブズ・デ・テペチネは、かつて「シナピスの水」という万病に効く薬を開発し、ルドルフ2世の病を治したことで知られる人物だからです。テペネチはルドルフ2世から預かったこの手稿を解読し、「シナプスの水」の製法を知ったのかもしれません。

 

暗号は「コード(単語)」か?「サイファ(文字)」か?

ヴォイニッチが手稿を発見して以降、中身に魅せられた多くの人々がこの文字を解読しようと試みました。ここからは、彼らが主張する解読方法を見ていきましょう。

 

・手稿に挑んだ多くの人々はまず、この暗号が「コード」か「サイファ」なのかを考える必要があります。日本語ではいずれも「暗号」と訳されますが、暗号化されている単語が「単語(コード)」か「文字(サイファ)」かという違いがあるのです。

「コード」を解読するためには、単語同士の対応を網羅した「辞書」を見つけることが必要です。一方「サイファ」の場合は、文字同士の置換のための「ルール」を見つけることが求められます。

ヴォイニッチ手稿は、初期のころから多くの人々が「サイファではないか」という予測を立てていました。なぜなら「コード」と呼ぶには、あまりにも単語が複雑で、習得が困難に思われたためです。

 このサイファ文の解読に対して、長い間強力な手掛かりとなったのが「頻度解析」という手法です。

 

・頻度解析の手法は、得られる暗号文が長ければ長いほど信頼性が高まる手法です。ヴォイニッチ手稿ほどの文章量であれば、十分に信頼できる解析が可能であると思われました。

 しかしここで、過去多くの書物を解読してきた者たちに、2つの大きな壁が立ちはだかります。

❶手稿が何の言語で書かれているかが不明であること。

❷ヴォイニッチ文字における「1文字」が不明であること。

 

❶に関しては、錬金術師たちが書物を残す際、主に用いていたラテン語が有力とされていました。仮に違っていても、同年代に書かれている書籍などの使用言語と順に照らし合わせていけば、追い追い判明するだろうと思われました。

❷に関しては、多くの者たちが頭を悩ませました。『ヴォイニッチ手稿』は全編が流れるような筆記体で記述されているため、1文字単位に分解することが非常に困難だったのです。

 

マチュア解読者の見解

アメリカの弁護士にしてアマチュア・ヴォイニッチ研究家のズエームズ・マーティン・フィーリーは、この問題を次のような方法で解決しようとしました。

 『ヴォイニッチ手稿』は数多くの挿画とともにその文章が書かれていますが、フィーリーはまず、挿画に沿うように書かれた文字を「キャプション(説明文)」であると予想し、それを手掛かりに文字の解読を行ったのです。

フィーリーが着目したのは、女性たちが緑色の液体に浸かっている絵でした。これにはかねてより、「子宮と卵巣」の暗喩であるという見解がありました。上部左右の蜂の巣のように描かれている部位が「卵巣」であると仮定し、付随するヴォイニッチ手稿の文字と「卵巣」のラテン語訳である「femminino」とを照らし合わせました。

 

・フィーリーはこれを手掛かりにして、次は図中央の管に書かれたキャプションを同様の方法で解読しました。

 

・ほかの文章も、ほぼすべて反復と単語の羅列のような文が続きます。フィーリーはこの訳文から、「手稿は筆者が残した実験ノートである」という仮説を立てました。反復と単語の羅列は、まさに目の前で起きている現象をその都度書き留めたもので、「ヴォイニッチ文字」とは、そのために筆者が開発した「速記文字」であるということです。またフィーリーは訳文を再び頻度解析にかけました。すると頻出する文字のうち上位8文字までもが、ある人物のラテン語表記と一致しました

 その人物とは、当初からこの手稿の筆者であると目された、ロジャー・ベーコン本人だったのです。この解読法を発見したフィーリーは、興奮とともに研究成果を世に発表します。

 

・しかしここで、この手稿の持つある異常性が、この説に対して疑問を投げかけます。

 それは、「全編にわたって修正の跡が見られないこと」。これは、手書きの書物にはまずありえないことです。もしこれが、ベーコンの残した実験ノートであるならば、修正の跡が一切ないというのは確かに不自然です。

 また手稿は、文字の書かれ方から推測すると、挿絵を描いたのち、文章を書き入れるという段取りがとられています。つまり、挿絵が実験結果を表しているとするなら、結果が過程よりも先に描かれている、という矛盾も生じるのです。そもそも「欠損したラテン語を補いつつ訳す」というのも、恣意的な翻訳を招きがちな行為です。

 このような反論もあり、「フィーリーの説は誤り」とするのが現代の解読者たちの間での結論です。

 

プロ解読者でさえ解読できない難問

・手稿の持つ怪しい魅力に引き付けられたのは、アマチュア解読者だけではありません。ウィリアム・フレデリックフリードマンは第2次世界大戦中に日本軍が使用した暗号、通称「紫暗号」を解読した功績で有名な人物です。

 フリードマンはかねてよりヴォイニッチ手稿の解読に興味を持っていました。自身が率いる紫暗号の解読チームで「軍の暗号解読者たちによる、時間外で非公式なクラブ」を結成し、手稿の解読に乗り出しました。なぜ非公式だったのかというと、当時は『ヴォイニッチ手稿』に向けられる関心が冷めていたためです。フリードマンが解読のために軍に予算を申請しても、「解読したところで、古い植物図鑑がひとつできるだけ」と、にべもなく却下されています。

 

・生粋の研究者であったフリ-ドマンは生前、自身の研究成果を「十分な証拠が揃っていない」として世に発表することはありませんでした。しかし彼は、「季刊哲学」という雑誌への寄稿文で自身の考えを暗号学者らしくアングラムの形で残しています。これもまた様々な人によって解読が試みられましたが、正解にたどり着いた者はいませんでした。フリードマンが亡くなった翌年、同誌にはフリードマン自身が遺した「正解」が掲載されました。それによると、

 

ヴォイニッチ手稿は、ア・プリオリなタイプの人工的もしくは普遍的言語を作成しようとという初期の試みである  フリードマン

 

・「ア・プリオリ言語」とは、「先験語」と訳される。いずれの言語にも基づかない構造を持つ人工言語です。

ヴォイニッチ手稿のなかで多く見られる言語構造は、物や概念をいくつかに分類し、それぞれに対して何らかの記号を当てはめる法方です。つまりフリードマンは、ヴォイニッチ手稿が「サイファ」ではなく、「コード」である可能性を示唆したのです。

 

フリードマンは『ヴォイニッチ手稿』の各単語において、接頭辞や接尾辞になりがちな文字の並びがあることに着目していました。これはア・プリオリ言語に特有の傾向です。

 しかし結果的には、これ以上明確な答えを出すことなくこの世を去っています。

 

<「偽書説」が浮上する

手稿の解読には生涯を捧げる人がいる一方で、「完全な偽書である」と断じる人もいます。多くの暗号解読者たちが血道を上げてきたにもかかわらず、依然として解読されないのは「そもそも意味のある文章ではないから」というのがその根拠です。

 「偽書派」の人々がよく班員に挙げるのが、エドワード・ケリーです。かつてジョン・ディーのお抱えであったと言われるチェコ錬金術師です。

 ケリーは「交霊実験を通じて天使の言葉を聞き、錬金術の秘奥を知った」と、まことそやかに主張することでディーに取り入りました。ディーの記録によれば、ケリーは数回、卑金属を黄金に変えて見せたと言います。ディーの信頼を得たことで、ケリーの噂はルドルフ2世の耳にも入り、その庇護のもと非常に裕福な暮らしを送ることになります。しかし、その最初の数回以外、ケリーは黄金を作り出すことはできませんでした。しびれを切らしたルドルフ2世は詐欺師としてケリーを投獄し、彼は獄中で生涯を閉じることになります。

 

・「偽書派」の見解では、ケリーは、ディーやルドルフ2世が熱心なベーコンの信奉者であったことを知っていたとしています。そして2人に取り入るためについた嘘のひとつが『ヴォイニッチ手稿』であり、まさにルドルフ2世に手稿を売りつけたのもディーではなく、ケリー本人であると言うのです。

 手稿に添付された手紙によれば、ルドルフ2世が手稿に支払った金額は600ダガット、現在の日本円で数千万円の価値です。大金をせしめるためなら、手稿を書き上げる手間など安いものだったのかもしれません。

 

ヴォイニッチの野心的な人物像

・そして忘れてはならないのが、この手稿を発見したウィルフリド・ヴォイニッチの存在です。

 そもそも、「手稿を発見した」というヴォイニッチの言は正しいのか?

 一介の古物商が、一攫千金をさらうためにでっち上げた虚構である可能性は?

 

・ヴォイニッチは1865年、リトアニアの多言語都市コヴノのテルシェイという町で生まれました。モスクワ大学で薬剤師の資格を得たのち、ワルシャワポーランド民族主義運動に参加しますが、ここで当局に逮捕され2年ほど独房生活を送ります。

 その後、シベリアに移送される際に隙を見て脱出。5カ月におよぶ極貧の逃亡生活の末、ロンドンへと流れ着きます。そして、のちの妻となるエセル・ブールと出会いました。

 エセルの勧めで革命組織「ロシアの自由友の会」に入会し、革命に関する書籍を販売する書店の経営に携わります。

 

・革命家としての壮絶な半生は、商売人としての才能に欠かせない「機略」や「大胆さ」をヴォイニッチに授けました。古書、稀覯本を文字どおり狩り集めていったのです。

 

商売人としての抜け目ない才能

・ヴォイニッチが、ある修道士たちの詰め所に立ち寄った際のことです。

 詰め所の書庫に収められていた膨大な書物は、希少な写本、彩色写本、揺籃期本など、どれもきわめて高価なものばかりでした。興奮とめまいをこらえながらも、ヴォイニッチは言いました。

「何ですか、この古臭い本は。こんなカビの生えた紙切れは、このように立派な場所にはふさわしくありません。まとめて売り払って、現代神学の最高の文献コレクションと入れ替えてはいかがですか。

 このような口八丁で、膨大な量の稀覯書と、二束三文のありふれた本とを交換することに成功したのです。

 本人曰く、こうした強引な手段で駆り集めてきた古書のなかに、その「手稿」はあったのだと言います。

 

・こうした背景を踏まえて手紙を読み直すと、違和感を覚える箇所が散見されます。

 マルクス・マルチは手紙のなかで「この書物」と述べるのみで、具体的な内容に踏み込んでいません。つまり、「ベーコンの著作と思われる、謎めいた書物」であれば、どのような本にも当てはまるのです。また、手稿を受け取ったはずのキルヒャー側の著作には、『ヴォイニッチ手稿』を想起させるような記述は一切登場しません。しかもキルヒャーの蔵書目録にも、手紙は記されていないのです。

 以上の事実を総合すると、『ヴォイニッチ手稿』は、ヴォイニッチ自身による自作自演の疑いが非常に高まります。こうして、ゴードン・ラグが発表した偽造手法もあいまって、「ヴォイニッチ手稿=偽作」説は有力視されました。一時期は支配的な説となったのです。

 

インターネットの登場で、誰もが解析可能になった

・物理的な側面からこの手稿の真偽を確かめようという動きもあります。

 2011年、アリゾナ大学の研究グループは、ヴォイニッチ手稿の書かれた年代を特定するため、手稿本体の炭素年代測定にかけました。その結果、手稿はウィルフリド・ヴォイニッチどころかジョン・ディーの生きた年代よりも古い、15世紀頃に作られたものであることが判明したのです。科学的な解析によって、ラグの「カルダン・グリル説」や、「偽書説」の信憑性は弱まりました。

 謎は、振り出しに戻ったのです。

 

まだまだある手稿の仮説

・ここまで一部の説だけ紹介しましたが、ほかにも手稿に関する考察は数多くの人物によって行われてきました。簡単に一例を挙げます。

 独特の文字は、ダ・ヴィンチに特有の「左手で書いた鏡文字」の特徴と一致するうえ、差し挟まれた絵のそこそこに「VINCI」の文字が見られるという説による。

 

 かつて十字軍によって弾圧された、キリスト教の異端宗派「カタリ派」の秘儀について書かれたものであるとする説。迫害を避けるために何重にも暗号化を施し、異端の儀式「コンソラメントゥム」の方法をのちの世に伝えるものとする説。

 

 『ヴォイニッチ手稿』の挿絵と、古代ギリシャや13世紀の医学書に書かれた挿絵が酷似しているという点から、医師が自分用に知見をまとめるために残した写本であるという説。裸の女性が緑の液体に浸かる様子は、薬湯の効能を示す図であるとする。

 

・――この手稿が、これほどまでに多くの人を魅了する理由は何なのでしょう。

 生涯を暗号解読に捧げたフリードマンは生前、「なぜそこまで『ヴォイニッチ手稿』にこだわるのか」という質問に対し、端的に答えています。

まだ誰も読んだことがないからです

ヴォイニッチ手稿が最も魅力的で神秘性を帯びている時代、人々の知的好奇心が最高潮に達している時代――。それは、手稿が「偽書か」「本物か」の間で揺れ動くまさに「今」このときなのかもしれません。つまり、解読されてしまった瞬間に「古い植物図鑑」に変わってしまう恐れもあるのです。

 フリードマンが科学研究費の審査官から受けた指摘は、この書物の“本質”をずばり言い当てているのかもしれません。

 

 

 

『大いなる秘密』 (レプティリアン爬虫類人
(デーヴィッド・アイク)(三交社)2000/8/1


 

 

地球以外の場所から見たアングルで描かれたアンドロメダ星雲
・13世紀の人物ロジャー・ベーコンは、フランシスコ派の修道士であり、その思想によって教会の権威を震撼させたことで有名である。彼は、未来について数多くのことを予見していた。すなわち顕微鏡、望遠鏡、自動車、潜水艦、飛行機の登場、そして大地は平ではなく丸いということなどだ。

・1912年、ベーコンが書き、ジョン・ディーが皇帝ルドルフ二世に渡したという例の本を、アメリカの書籍取り扱い業者ウィルブレッド・ヴォイニッチが入手した。それ以来、この本は「ヴォイニッチ文書」と呼ばれることになった。
 さて、ヴォイニッチからそのコピーを送られた専門家たちは、そのなかに描かれた植物は地球上には存在しなかったものだと言っている。顕微鏡で見た細胞組織のようなイラストもあれば、望遠鏡なしでは確認できない星系の図表もあった。第1次・第2次の世界大戦中、合衆国情報部の最も優秀な暗号専門家たちが、彼ら自身「世界で最も神秘的な書物」と呼ぶその本を、なんとか解読しようと試みたが誰もそれを成し遂げられなかったのだ。ただ、ペンシルバニア大学教授ウィリアム・ロメイン・ニューボールドは、1921年にその本の一部を解読したと主張している。その部分は次のように読めるそうだ。「私は、凹面鏡の中に星が渦巻き状になっているのを見た。ペガサスの臍、アンドロメダの腰帯、カシオペアの顔」
 ジョン・ディーの持っていたこの本に書かれていたことは、現代科学において確認されていることであり、アンドロメダ星雲の描写も正確なものであった。しかし、それは、明らかに地球以外の場所から見たアングルで描かれたものであったのであるこの本の存在は、ブラザーフッドの驚くべき知識水準を示す一例である。何百年ものあいだ、高度な知識を有する彼らは、一方で彼らの一翼である宗教を使い、一般大衆を無知の状態に置いてきたのだった。


 

『47都道府県 妖怪伝承百科』

香川雅信、飯倉義之、小松和彦常光徹  丸善出版  2017/9/29

 

 

 

青森県 鬼神社の鬼

弘前市の鬼沢には、古くは「鬼の宮」ともよばれた「鬼神社」という神社があり、その名のとおり、鬼(鬼神)が祀られている。鬼神社には、地元の村人が水の少ない農地の開拓に難儀していたところ、鬼が現れて用水路の建設を手伝ってくれたという話が残されている。これに喜んだ村人が建立したのが鬼神社であるという。

 

<嶽の大人>

津軽には鬼に類した「大人(おおひと)」(巨人)の伝承もある。江戸期には、岩木の嶽や鬼沢村の嶽といった場所に出現した大人が、樵夫に相撲を挑んだり、大量の薪を一夜のうちに運んでおいてくれたりするという伝承があり、近代以降にも広く語られてきた。

 

大人と交わって遊ぶようになった鬼沢村の樵夫(きこり)が、ついにはみずから大人になってしまい行方をくらましたという話もある。

 

八の太郎

青森県岩手県秋田県には、八の太郎(八郎太郎)という名前をもった巨人もしくは蛇神の子の伝承がある。各地に伝わる八の太郎の伝承は、それぞれ少しずつ異なるかたちをもつが、多くは十和田湖八郎潟などの広い水域を中心に据えたスケールの大きい伝説である。

 

<山男・山女>

岩手県各地には、山男、あるいは山女に関する伝承が多く残る。山男は基本的に、もとから山で生活する異人として語られるが、山女の場合は、もとは人間の女であったものの、山男にさらわれるなどして里に帰ることのできなくなった異人と化すことが多い。

 

・例えば岩手郡には次のような話が伝わっていた。紫波郡岩手郡の間の山奥に、一軒の家があった。ある年のこと、その家の娘が出産した翌日に姿を消してしまった。数日後、家の縁側に山男の草鞋が片方だけ置いてあった。後に里の青年がマダの木の皮をとろうとして山奥に入ったところ、偶然、失踪した娘に出会った。娘は青年に、もはや実家に戻れる身分ではなくなったので、家族に達者で暮らすよう伝えてくれと告げ、マダ林へと案内した。その後、青年が山に入ってマダ林を探しても、マダ林も娘も、ふたたび見かけることはなかったという。

 

マヨイガ

遠野地方では、山中にある不思議な家をマヨイガ迷い家)とよぶ。山に入った人が、ごくまれに見慣れぬ立派な屋敷を見つけることがあるが、その中の座敷では鉄瓶の湯がたぎっているにもかかわらず、誰の姿を見かけることもない。マヨイガに行き当たった者は、必ず屋敷の中にある食器や家畜などを持ち帰るように言い伝えられていた。その人に富を授けるために、こうした家を見せるようになっているからだという。

 

<ザシキワラシ>

柳田國男遠野物語』で有名になったザシキワラシは子どもの姿をしており、裕福な屋敷だけに住み着き、時折いたずらなどをする。しかし、屋敷以外の者には見えないという。屋敷以外の者が目撃するときは、ザシキワラシが屋敷を出ていくときであった。出ていかれた屋敷は、やがて没落する。

 

・佐々木によれば、ザシキワラシにはチョウウビラコ、ウスツキコ、ノタバリコなどさまざまな種類があるという。その姿かたちも、よく知られた男児や女児のほか、老婆のすがたをとるものもあり、細長い手だけを見せるものもあるという。

 現代に入ってからは、金田一温泉の旅館に出るザシキワラシの話などが、マスメディアを通じて全国的に有名になった。本来、ザシキワラシという妖怪は、近代以降の岩手を中心とした東北地方の一部のみに伝わる妖怪である。ザシキコゾウ、クラワラシ、クラボッコ、オクラボウズなど、屋敷や蔵に住む子どもの妖怪は各地に伝わるが、「ザシキワラシ」という名称は岩手を中心とした東北以外に見られないものであった。それが、『遠野物語』その他の文芸作品や、マスメディアなどを通して広く全国区に伝えられた結果、東北地方以外の各地にも「ザシキワラシ」の名称が知られるようになったものと考えられる。

 

<天狗>

・山に住む妖怪。日光には数万の天狗がいるといわれ、古峰ヶ原に大天狗隼人坊、日光には東光坊という天狗がその世界を支配していたという。

 

また、天狗の伝承は、その法力を身に付けた」ものが、特定の家と結びついて、語られることがある。例えば、下野氏の旧薬師寺村に鎮座する天狗山雷伝神社の伝承がそれである。ここには小島という姓の家があり、その子どもが家出をして何十年ぶりかで帰宅したという。その子は寝姿を見てはならないと、家族に告げ部屋にこもったが、家人はのぞいてしまう。するとわが子は、8畳間いっぱいに羽を広げて寝ていたという。親と子のあいだで「見ていない」「見たろう」の押し問答の結果、子どもは家を出て行くことになる。その際、この村には嵐を呼ばない、雹は降らせない、もし降ったら自分は死んだものと思ってくれ、と言い残して去っていった。何年かしてこの村を嵐が襲い、これをもって人々はその子が死んだと思い、小島天狗とよぶようになり、天狗山雷電神社として祀るようになったという。

 

ダイダラボッチ

・デイダ坊、ダイダラ坊、ダイダラボッチャともいう。地形をつくったとされる太古の巨人で、関東~中部に広く伝承が分布する。巨人が天秤棒とモッコ(縄で編んだ運搬具)で土を運んでいたが、縄が切れて土が地面に落ちた。その土が武甲山宝登山箕山になり、天秤棒は尾田藤の長屋根になったという。

 

<かくれ座頭>

・子どもを神隠しに遭わせる妖怪。八千代市では、子どもの頃、隠れごと(かくれんぼ)をやると、かくれ座頭に隠されるといって脅かされたという。カクシババアともいい、同市の石井達雄は「夕方遅くなっていつまでも外で遊んでいると、親から『カクシババアが来て隠されるぞ』と脅かされて、それが恐くて早く帰った」という。成田市でもかくれ座頭の話が報告されている。

 

ダイダラボッチ

・巨人で、デーデラホーとかデーデーボなどともよぶ。神埼町に人の足跡の形をした8畝ほどの田がある。これはデーデーボの足跡だという。同町大貫の天神山は、デーデーボが杖をついた泥を落としてできた山だといい、筑波山は腰をかけて休んだためへこんでしまった。県内各地に伝説があり、印旛沼を跨いで顔を洗ったとか、筑波山を一夜でつくった話も伝承されている。

 

<天狗>

・各地に天狗の話が伝えられている。例えば、『冨浦町のはなしー千葉県安房郡冨浦町<口承>資料集』を開くと、「天狗の休む松」「相撲に負けた七尾の天狗」「タウエを手伝う天狗」「七尾の天狗のヒゲ」「大房岬の洞窟」の話が載っており内容も変化に富む。

 

・広く知られる天狗に連れられて遠国を見物した話も伝えられている。佐倉市にあった文珠寺の小僧が酒買いに出たまま帰ってこない。和尚が見に行くと酒の入った徳利が松の枝にぶら下がっていた。夜帰ってきた小僧は天狗にさそわれて京の祇園祭りを見てきたという。後に京から帰った檀家の者が小僧に祇園祭りで会ったと話す。

 

<猿鬼>

能登各所に伝わる猿の妖怪。猿神とよぶ地域もある。有名なのが能都町当目の伝承で、すでに18世紀後半の地誌『能登名跡志』にもみられる。江戸時代終わり頃の記録によれば、当目地内に岩穴があり、猿鬼と18匹の鬼の家来が住んでいたという。鬼たちは諸国から美女を誘惑する悪さを繰り返していたため、地元の神々が退治したとされる。当目およびその周辺には退治した猿鬼を祀るなど、関連する史跡や地名が伝わる。猿鬼伝説は「今昔物語」にも登場する怪奇伝承であるが、能登地方の特徴は猿鬼へ生贄を捧げる伝説と地区の祭事が関係している点にある。例えば、輪島市大沢町の六日祭では猿鬼に捧げる生贄の娘に見立て野菜や海藻でかたどった神饌を供える。

 

<鬼女紅葉>

・長野戸隠と鬼無里にまたがる荒倉山に住んでいた女の鬼、元は都の人間だった紅葉は、呪詛の罪で戸隠に流された。当初は村人を助け敬われるが、ついには鬼になり悪事を働いた。そのため、都から派遣された、平維茂に退治される。

 

<八面大王>

有明山のふもと安曇野市穂高宮城の魏式鬼窟に住み人々を苦しめた鬼。将軍、坂上田村麻呂は八面大王と戦うが倒せない。そこで安曇野市穂高牧の満願寺の観音様の夢告げに従い、矢村に住む弥助から献上された三三ふしの山鳥の尾で作った矢を用いると、退治することができた。また、平安時代に実在した征夷大将軍坂上田村麻呂に討伐されるという末路をたどった鬼は関東から東北まで広く分布しているが、実は朝廷の侵略に逆らった地方豪族だったといわれ、郷土の英雄とみなされることが多く、八面大王もそういった点で同類の伝承である。

 

両面宿儺(りょうめんすくな)

・『日本書紀』の仁徳天皇65年にこのような記述がある。「飛騨国にひとりの人物があった。宿儺という。その人となりは、一つの胴に顔が二つあって、それぞれ反対を向いている。頭頂部がくっついていてうなじはない。胴にはそれぞれ手足がある。膝はあるが脚のくぼみと踵はない。力は強く、身軽で敏捷。左右に剣を持ち、4本の手で弓矢を引く。天皇の命に随わず、人民から略奪して楽しんでいた。そこで、和珥臣の祖、難波根子武振熊を派遣して征伐した」

 

・宿儺が出現した高山市丹生川町の洞窟「両面窟」、宿儺の乗った天船が降りた高山市の位山、宿儺が毒龍退治をした関市の高沢山など、古くからの街道沿いには、この不思議な人物に関わる伝承が点在している。

 

鈴鹿姫>

・北勢の亀山市滋賀県甲賀市の境に位置する鈴鹿峠には『今昔物語』の時代から盗賊たちが跳梁跋扈していた。東海道の要衝であるこの峠で坂上田村麻呂が盗賊や鬼神を退治した物語はさまざまなバリエーションを生んでおり、御伽草子『田村の草子』には天女である鈴鹿御前の援助で鬼神を退治したとある。しかし、後の井沢蟠龍の『広益俗説弁』では、鈴鹿姫は鬼女であり、田村麻呂が討伐したのは彼女だとされている。この他にも田村麻呂がこの峠で賊を退治したという物語は伝わっており、登場する「鈴鹿姫」たちの性格もさまざまである。

 

貴船の鬼>

室町時代御伽草子貴船の本地』に、鞍馬の僧正ヶ谷の奥に大きな岩屋があり、さらに行くと鬼の国がある、と記されている。大正の頃までの京都の伝承を集めた『京都民俗志』には、鬼は貴船の奥の谷に住み、地下道を通って深泥池畔に出て、都の北に跳梁したとある。都の人たちは、鬼の厭う豆をその穴へ投げてふさいだら、鬼は出なくなったので、それから毎年節分には炒り豆を同所へ捨てに行くこととなり、豆塚とよんだと伝えている。

 

<鞍馬の天狗>

室町時代御伽草子『天狗の内裏』に、鞍馬寺の不動堂の艮(北東)の方角に、天狗の国があり、あの牛若丸(源義経)が訪問し歓待されたとある。浄土で大日如来に生まれ変わった父、義朝に会い、平家を討伐する秘策を得た、と物語る。

 

牛頭天王

疫病神。牛頭天王を祭っているのが、かつての祇園社で現在の八坂神社。祇園牛頭天王御縁起』によると、須弥山に牛頭天王という牛の頭をして赤い角のある王子がおり、龍宮の八海龍王の三女を嫁にもらうために龍宮へ行く。途中宿を探し、古単巣という長者の家を尋ねるが断られる。次に蘇民将来の家を訪ねるとその家は貧乏であったが、快くもてなしてくれた。そして龍宮を訪問し、本国に帰る途中に古単の家を訪問し、復讐のため古単の一族郎党をことごとく蹴殺した。その後も牛頭天王蘇民将来の子孫を守護しつづけた。蘇民将来の一族はその印に茅ノ輪をつけたという。現在、多くの神社の6月30日の夏越大祓の際に、病気にならないように茅ノ輪くぐりをするのは、この伝承に基づいている。