日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。

ウィリアム・フレデリック・フリードマンは、日本軍が使用した暗号、通称「紫暗号」を解読した功績で有名な人物です。フリードマンはかねてよりヴォイニッチ手稿の解読に興味を持っていました。(3)

 

<河童百態、百花繚乱!>

・先ほども述べた通り、岩手で妖怪と言えば—―荒俣さんはなぜかあまり評価されていないようだが――やはり『遠野物語』に欠かせないのではないだろうか。

 

・わだかまる疑問を抱えたまま、我々は最初の取材先へ向かった。訊ねた先は、盛岡城址公園のど真ん中に位置する、もりおか歴史文化館。ここにはとある妖怪についての詳細な記録が保管されているという。

 その妖怪は『遠野物語』にも登場しており、しかも東北を、いや日本をも代表できるような大物だ。何だと思います?目次や章題で明かしていることを隠しても仕方ないのですぐに言ってしまうと、そう、河童である。

 

・本題に入る前に河童について確認しておきたい。現代の一般的な河童のイメージは「体色は緑色、頭に皿があってその回りに髪を生やし、甲羅を背負って口元は嘴で胡瓜が好き」あたりだろう。

 だが、河童として報告・記録されている妖怪は案外幅広い。実際、21世紀の妖怪事典のバイブルの一つこと毎日新聞社の『妖怪事典』、通称「村上事典」を引いてみても「地方により様々なよび名があり(中略)姿形についても地方によって相違があり、頭に皿がないものや、人間の赤ん坊のようなもの、亀やすっぽんのようなものと、実に様々に伝えられている」「地方ごとに河童の特徴は異なる」とある。河童は相当にバリエーション豊かな妖怪なのだ。そして、ここで見た『水虎之図』は、それを裏付けるものだった。なお「水虎」とは元々は中国で語られた水中の怪異の名だが、日本では河童の別名の一つとしても用いられている。

 

・なるほど、確かに全国から集められた事例集らしく「甲羅を背負って色は緑、頭に皿があって手足の先には水かき」というオーソドックスなタイプを始め—―これは九州は熊本で捕まったものだそうだ—―いろいろな河童の絵や記録らしき文章が並んでいた。どういうバリエーションがあるんでしょうかと尋ねてみると、福島さんがまず指差したのは、大きな甲羅が印象的な、四つん這いの河童の絵だった。

例えばこれは、水戸で捕まった河童の記録です。漁師さんが海に出ていた時、水中から赤ちゃんの声がしたので網を引いたところ………こういう解釈でいいと思うのですが………14、5匹の河童が掛かったそうなんです。そのほとんどは逃げてしまったけれど、1匹が船に飛び乗ってきたので、叩き殺して捕まえたとあります

 

「大きさは3尺5寸、1メートルちょっとですね。体重は45キロで、叩くと首が8割めり込み、亀と同じように上下2本ずつの牙があると書かれています」

 

・「やはり、こういう赤いやつが気になりますね」

 荒俣さんがすかさず言って指したのは、ひょろりと細身で猫背の河童であった。頭の皿の回りに髪を垂らし、全身も短い毛が生えている。甲羅がないせいもあってか、どことなく哺乳類的な印象を与えるその河童は、薄い紅色で彩られていた。荒俣さんが「やはり」と言った意味は、ここが岩手だから、ということだろう。一般的には緑系統でイメージされがちな河童だが、『遠野物語』の河童は赤いのだ。赤い河童と言えば、と荻野さんが口を開いた。

「河童って、傷薬を作ったり傷の治りが早かったりする話も多いですよね」

「ああ、人を襲って腕を切られた河童が返してくれと謝りに来て、腕の代わりに薬の作り方を教えてくれるパターンですよね」

 答えたのは私である。その手の事例や逸話が多いことは、以前小説で河童を扱った際に調べたので知ってはいる。申し遅れましたが、私は主に妖怪ものを書いている作家なのです。以後お見知りおきを。

「それで、荻野さん、そのタイプの河童と赤色には何か関係が?」

以前、この企画とは別の取材に行った時……その時も荒俣さんと一緒だったんですけど、河童の治療のそんな話をいくつか聞いたんです。そこに出てくる河童が赤かったんですよ。薬を作る、傷を治すっていう特徴を持つ河童は赤いというイメージが印象的だったんですよ

 

 ・「さっきの水戸のは野性動物っぽかったですが、これは妖怪らしく、人を水中に引きずり込もうとした河童の記録です。寛政二年、つまり西暦1790年ですね。場所は書かれていないんですが、巨漢の人がお城の堀端を歩いていたところ、絡みつくようにして足を引くものがある。ふと見ると、青黒い三歳児くらいの大きさのものが足にまとわりついていて、捕まえてみると、ぬめぬめしていて、青臭い」

「ほうほう。で、そのまま引き込まれてしまったと」

「いいえ、これは河童だと気付いた巨漢の方は、捕まえて説教をするんですね。もうこういうことはするんじゃない、本当は殺してもいいけど逃がしてやるからもう人を襲うな、と。そう言って逃がしてやったら、後にお礼と言うか謝りにきたんです。歯をむき出して笑って、しきりに頭を下げた。これはその時に描かれた絵の写しです」

 恐ろしげな見た目とは裏腹に、案外弱くて殊勝な河童であった。

 

・「江戸中期にくらいになると、いろいろな河童が江戸のいたる所に出るんだよ。その情報を収集する仕組みもできていて、河童の図を多く出した栗本丹洲という本草学者がいるんだけどね、河童が出ると、彼の所に情報が集まった。河童の記述のデータベースがあったんだ。で、そうした情報が好奇心の強い豪商や、博物学が趣味の大名たちを通じて地方へも広がる。

赤い河童には、薬としての知識と、赤い中国の河童たち、つまり水虎などの情報がある。遠野が情報豊かな文化の地であり、お化けも文化の地でこそなる、ということを示している。そう、読み解くんだ、ぼくはね」

 なるほどメモを取る私。当時の人にとって、河童は実際に遭遇し得る生物であり、オカルトがかった迷信ではなかったというわけだ。一方、荻野さんは、河童全般について記された解説文に目を向けていた。

 

<「宮沢賢治 × 南方熊楠  談義

岩手と和歌山をつないだ超絶な日本人

(荒俣)今日は、宮沢賢治研究の第一人者、牛崎先生にお会いできることを楽しみにしていました。この本では主に博物学、古生物学の観点から妖怪の新しい解釈を導き出していこうと思っているのです。そこになぜ賢治が関わってくるかといえば、賢治は妖怪や化け物を見ていたと思うのですね。そこを一度ちゃんと紹介したいと考えているのです。

 まず、佐々木喜善宮澤賢治の交流についてお聞きしたい。2人はザシキワラシをきっかけにして知り合ったと聞いていますが。ちょうど喜善が文学のほうで酷評され続け、今度は柳田國男に学んだ民俗学手法によって書いた『奥州のザシキワラシの話』で、やっと自分の著作を世に出すことができた。ここから本格的な民話収集に活路を見出すのですね。

(牛崎)その通りなんです。喜善が大正九年に『奥州のザシキワラシの話』を出したとき、それをおそらく賢治が見てですね、自分の知っている話が載っていないじゃないかと『ざしき童子のはなし』を書いて、雑誌に載せたのです。それを喜善が見て賢治に手紙を送り、交流が始まりました。

 

妖怪大戦争』の元ネタはミヤケンでした

(荒俣)賢治は中学時代も含めて、ときどき鬼や鬼人など妖しいものが見えていたといいますけれど、実際はどうなのですか。

(牛崎)盛岡中学を卒業した大正三年(1914)、蓄膿症の手術で入院したのですが、当時、ずっと頭がボーっとしていたといいます。そのころの作品に、「月の光を浴びた」とか「月がゆがんだ」とか、非常に不思議な表現が出てくる。幻覚幻聴に対する感性が突出しているのですね。

 

賢治の時代 心霊学はニュー科学だった

(荒俣)賢治といえばどうしても切り離せないのが妹のトシさんです。彼女はなんで大学に行けたのですか?

(牛崎)これは『宮沢賢治の真実』という本に詳しいのですが、大正四年(1915)、ちょうど女学校を卒業する年にトシと音楽教師との三角関係が地元の新聞に連載されたのです。

(荒俣)えっ連載 ⁉

(牛崎)題して「音楽教師と二美人の初恋」。花巻に居られない状態でした。それで、東京の日本女子大学に進学したのです。

 

・(牛崎)賢治は、自分の意識にうかんだイメージについて、見たもの聞いたものだけでなく、自分の思いや幻覚や幻聴、夢なども含め、それを忠実に書き留めることを心象スケッチと考えていました。

(荒俣)「心象」とは心霊学用語だとよく言われます。賢治が精読したアーサー・トムソン『科学体系』では、以心伝心的印象と訳されてます。時間や空間の物質的宇宙と異なる別空間、つまり非物質的な媒体「エーテル」に満たされた別空間なら、時差や消耗や変形や化学変化といった影響を受けない。エーテルが確認できれば「心象」の霊界的コンタクトは可能になる、と。その発想はむしろ先先端科学的です。

 

 

<『遠野物語』(六九)    柳田國男>  

 今の土淵村には大同という家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞という。この人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじないにて蛇を殺し、木に止れる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に生きて寝ね、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜、娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪みて斧をもって後より馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。本にて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎という人の家にあり。佐々木氏の伯母が縁づきたる家なるが、今は家絶えて神の行方を知らず、末にて作りし妹神の像は今附馬牛村にありといえり。

           底本:『遠野物語・山の人生』岩波文庫

 

 

 

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より

<緑風荘>

緑風荘(りょくふうそう)は、岩手県二戸市金田一温泉郷にある旅館、及び通信販売「有限会社 えんじゅ」、「株式会社 座敷わらし」を運営している会社。その他、ファンクラブ真白乃会事務局(旧ファンクラブの亀麿会は本家と分離して個別活動)、亀麿神社の管理・維持を行っている。

 

宿泊のほか日帰り入浴も可能。低張性弱アルカリ低温泉。単純温泉ラジウム温泉)。300年以上前、南部藩の湯治場だったことから「侍の湯」と呼ばれていた。

(概要)

座敷わらしの出没する宿として著名。

 

座敷わらしの名前は亀麿(かめまろ)と呼ばれ、宿では物の怪としてではなく先祖の守り神(精霊)として同施設内に亀麿神社(わらし神社)をつくり祀っている。ご神体は水晶で例大祭は毎年9月28日に行われる。

 

今日まで多くの著名人が宿泊し、昨今でも幅広いメディアで取り上げられている。

 本館と別館で構成され本館母屋の奥座敷「槐(えんじゅ)の間」に座敷わらしの目撃例が多く文化人・著名人が多く宿泊する。

 

新館(別館)は予約なしで宿泊できることが多い。「槐の間」だけでなく館内いたるところでの目撃例が多く、新館の部屋にも姿を見せることもある。座敷わらしのほうから人を選ぶといわれ、必ずしも「槐の間」に出現するわけではない。

 

宿泊以外に「槐の間」見学も可能で、お供え品などの奉納も多かった。 なお、2009年(平成21年)10月4日に起きた火事で、座敷わらしを祀る中庭の亀麿神社以外が全焼。従業員・宿泊客は全員無事だったが、営業停止状態となった。2016年5月14日より営業を再開。

 

よくあるとされる不思議体験

槐の間に限らず、客室を撮影するとオーブが写ることが多いとされる。

客室に奉納されている玩具(槐の間に限らない)のうち、発条で動くものは、誰も触っていない(発条を巻いていない)にも関わらず、夜中に勝手に動くことがあるとされる。

宿泊客が睡眠中金縛りにあう。髪を引っ張るなどいたずらをされる。深夜、廊下や枕元で走り回る足音が聞こえる。布団の上に乗ってくる。

 

  

 

『お化けの愛し方』 なぜ人は怪談が好きなのか

私にとって最後の『お化け学』出版物

荒俣宏  ポプラ新書   2017/7/11

 

 

 

小学生の頃から「お化けはたのしい」と思っていた

・じつは、私はどうもへそ曲がりな子供だったらしく、小学生の頃から「お化けはたのしい」と思っていた。お化けはたしかに不思議な存在だったけれども、すこしもこわくなかった。いや、正確に言うと、小学校低学年までは映画館でお岩さんやフランケンシュタインの怪物の顔をまともに見られないほどの怖がり屋だったが、ある「きっかけ」があって、こわいとは思わなくなったのだ。

 「きっかけ」の一つは、小学校3年生のときに祖父が交通事故死し、ばらばらになった遺体が縫いあわされた状態で、家に帰ってきたことだった。私はこわさを忘れて、おじいさんの顔をのぞき込んだり、すっかり冷たくなった両手を触ったりした。でも、祖父は目を開けない。この現実をどう受け入れればいいのか困った。死という現実にぶつかったのだが、祖父はそんなこともあろうかと、私が赤ん坊のころから現世は無常であの世のほうが永遠である、という哲学を、芸者歌謡や都々逸などを通じて、変な趣味の孫に教え込んでいたふしもある。

 

伝奇小説を書きつづけた最後の巨星

・さてこのような状況下で、中国怪談を送り出した本国に、さらにもう1人、怪異談の大収集家が登場した。時代が清王朝まで飛ぶが、ことの性質上、この場で書かせてほしい。

 その人物とは、清王朝期に登場した怪奇短編編集の傑作『聊斎志異』を著した、という人物である。時代こそ清時代の初期と後になるのだが、その興味のあり方と生涯の境遇は、大先輩の瞿佑や憑夢龍に似ている。彼の家柄はモンゴル貴族の末裔だったが、親子関係の微妙な軋轢のせいで一族内でも冷遇されたという。しかし、幼いときから秀才として知られたので、科挙制度を引き継いだ清朝の下で高級官僚になることを目指し、果敢に官吏試験に挑戦した。だが結果は最悪だった。老人になるも合格せず、生涯不本意な職を歴任した。最後には、彼を支えた妻から、「もう試験はいいでしょう」と引導を渡され、やっと老後を考えるようになった。

 

・現世のからくりの裏をみていた彼は、しかし、連戦連敗の受験生活の中に、ある趣味を見出した。20歳のころから、志怪・伝奇の世界に関心を持ち、奇談の収集を始めたのだ。これは後世に広まった伝説に過ぎないが、彼は暇ができると人々の行き交う大通りに席を設け、そこに茶などを用意し、通行人を呼び止めては世間の不思議な出来事を語ってもらい、それを得意の文筆で伝奇小説に書き上げたという。作品の増補と推敲を晩年まで続け、死後に『聊斎志異』という題で出版した。聊斎というのは自身の書斎の名であり、志異とは「怪異を記す」ことを意味する。

 

蒲松齢と『聊斎志異』の内容

・蒲松齢は、70代でようやく安寧をみいだし、奥さんと二人で農業をしながら静かに暮らす気持ちになったが、不幸にもその奥さんが亡くなった。それからはおそらく、この世に生きることよりもあの世で奥さんに会うことを幸せと思い出したのではないだろうか。死者との恋愛をテーマにした『牡丹燈籠』の作者に、自身を重ね合わせた原因と思われる。

 

「冥界の登用試験」は作者の悪夢か?

・『聊斎志異』は、志怪・伝奇の伝統をすべて融合したような、化け物小説の集大成といえる。とにかく話の数が多いうえに、バラエティーに富んでいるのだ。

 

<「冥界の登用試験」>

・――この世では役人になれなかったけれど、あの世では役人になれたという切実な話が、現にあるのだ。死後に役人に登用されてもありがたく思えるほど、科挙に合格することが困難だった事実を、よく伝える話である。

 日本では、おそらくこの話に影響を受けたのだろうが、小野篁なる高級官吏が昼は役所で官僚を務め、夜は副業で閻魔大王の帳簿付けを担当していたという有名な話がある。篁は知り合いがくると、地獄行きを免除して天国行きに直すというような、斟酌を加えたそうである。

 

泉鏡花もおぼえた「違和感」

・こうして、私の「お化けと親しくなるための探索」が始まった。中学生になった頃、慶応義塾の名物教授として鳴らした池田弥三郎の著書『日本の幽霊』(昭和34年に初版)を読んだ。この先生は、毎年夏になると、徳川夢声安藤鶴夫らと一緒にラジオの怪談会に出演して、こわい話をするので、子供でもよく知っていた。余談だが、私はいつだかのラジオで聞いた安藤鶴夫のお化け話をいちばん怖いと感じた。なんでも、夕焼けの日に屋根に上って遊ぼうとしたら、変な老人が屋根にいて、「おまえ、まだ死なねーのか!」と、どなってきたという。アンツルさんは美声だったけれど、そのときだけはおそろしいほどのしわがれ声を出した。それが無性にこわかったので、60年も前なのにまだ憶えている。

 

「妖怪感度」を磨きたい読者のために

現代っ子に化け物の世界の幸福感を教え込んだ妖怪漫画本水木しげるは、お化けの世界がおもしろくて幸せに感じるようになる敏感な能力のことを「妖怪感度」と呼んだ。恐怖心だけではなく、あの世や死の問題にまで好奇心を抱く「霊的能力」の高い人を指す。文学だとか、あるいはあの世についての本格的な研究書をひもとくと、お化けをこわいにつなげる「しりとり歌」のような常識が一蹴される。場合によってはお化けを知ることで、この世の真実がはっきり見えてくることすらあるらしいのだ。

 

女性の不運と科挙の圧迫

・女性にとって恋愛は、現代でも関心事のトップに数えることができる。だが、これを「悪」だと決めつけた古い社会は、その認識をどのように正当化したのだろうか。すこしだけだが、中国の思想背景にも目を向けたい。

 中国に芽吹いた漢民族によるライフスタイル、とくに儒教は、東洋が生んだ偉大な経世の学であり、とくに「礼」を重んじたことが秩序ある社会を生み出す礎となった。とくに明の時代には中国だけでなく日本までもが、「理」すなわち「ことわり」を柱に据えパワーアップした儒教ともいうべき、システマティックな学問「朱子学」をもてはやした。この朱子学が、科挙での合格を左右する模範解答を用意したのである。

 

・中国の社会システムにあって後世から見て問題となりそうな不都合な部分といえば、極端なエリート中心主義が世の中に蔓延したことだ。強力な朱子学で固められた思想は、徐々に固定化され、束縛さえなっていく。また、それを科挙のような制度が下支えする。権威主義が横行し、異端は闇へと追い込まれる。

 

・その明時代に、世界交易により経済力をそなえ、柔軟な発想と個人の倫理を重んじる「自由な秩序」が求められ始めた。結果、合理ではなく「心」こそが物事の善悪や価値を決めるという「情の儒教」とも呼ぶべき考え方が流行する。日本でも「陽明学」として広まり、その実践的な教えが「心学」という名で庶民にひろがった。

 

・この型破りな思想が、儒教によって固定化された社会を揺るがした。その担い手は経済人と遊民的な生活を楽しむ友人たちだった。中国では基本的には朱子学という、儒教をベースに置いた学問が尊重され、自由な個人的発想を生かせる場がなかった。しかし、経済と文芸は例外だった。ここだけには「創造」と「想像」が存在した。世の中の仕組みについて独自の理論を持つフリーシンカーやベンチャー商人たちは、どんなに頭が良くても試験に合格できない制度に疑問をぶつける。そうした「頭がいいのに連戦連敗」だった人たちは、やがて疑問を力に変えた—―これはどこかおかしいんじゃないか、人間よりも秩序を尊重する発展性のない社会ではないか、と。そうなると、教養層もダメ組とエリート組に分かれ、さらにエリート組の中からも自分自身を批判する人たちが出てくる。

 

・そういう頭が良すぎて評価されない人たちの発言を促す受け皿の一つが、唐の時代に成立した怪異を好む「志怪」や「伝奇」の世界だった。科挙に失敗して現世に絶望した人々が関心を持つようになったのは、昼間の世界に対抗する霊の世界。この世で出世試験に受からないのであれば、いっそのこと仙人になって自由に暮らし、長寿を全うしようか。あるいは妖怪と付き合った方が幸せになれるのではないか、と考える人たちが現れる。なぜなら中国にはまだ古代中国人が有していた古い神や妖怪への関心が残存していたからだ。元来、中国にひろまった神仙思想とは、そうした関心を思想化し技術化したものなのだ。神仙たちは不老不死の肉体を有し、世俗の垢にまみれることを嫌って山中に自由な暮らしを求めた。ならば、自分たちも同じことができると思った。

 

孔子も「易」を研究し、朱子も「鬼」に熱中した

・そもそも、儒教の開祖であった孔子は、怪力乱神については、怪しい神々や荒っぽい化け物のことをさらに語らなかったけれども、まるで無関心だったわけではない。孔子すらもじつは易学のような神秘的な学問に熱中していた。中国では孔子の時代にすでに、「鬼」あるいは「鬼神」と呼ぶ死者と化け物を総合したお化けの体系が築かれていた。これに様々な造形も加えられ、いわばお化けだらけの世界になっていったといえる。したがって孔子はそうした俗説に与せず、むしろ易のような宇宙モデルによって、眼に見えないが実在するらしい異空間の存在を説明しようと考えていたふしがある。

 

・実際、孔子の一族というのは、元来お葬式の管理や祭礼に関係した一族だったといわれる。霊とか魂とかの問題の専門家筋でもあったのだ。孔子が唱えた「古えの神君、名君への敬慕」は、「礼」をもって祖先霊を祀る儀式に源を発した可能性が高い。葬儀というのは基本的には霊の世界を鎮めることだから、孔子一族には霊との付き合いやルール、考え方というものが家業と結びついていたことにもなる。

 

・日本でも銅鐸などがたくさん作られたが、あの銅鐸は霊を鎮める葬礼の楽器であった可能性もあり、元は孔子一族やら菅原道真の先祖一族のような祭礼と墳墓づくりを担った「神霊知識」の専門グループに伝えられた霊的産業技術の一例とも考えられる。

 

孔子は、韋編三絶のエピソードにからんで、「あともうちょっと寿命をくれたらこの『易経』のシステムを解明して、みんなに残すことが出来たのになあ」、と悔しがったという話を残している。

 

・いっぽう、異民族の元に支配されたあとふたたび漢民族の文化が再興されたとき、宋や明といったその担い手たちは、怪力・乱神のはなしをしたがらなかった儒教を改革に導いた。その代表が朱子だ。元の時代以降、中国には仏教が浸透し、また道教にも関心が向かった文化状況の中で、儒教だけがお化けに知らんふりをすることはできなかった。しかし、儒教は体制の学問であるから、お化けと一緒に浮かれ騒ぐわけにはいかない。朱子は理論体系として未整理だった儒教の思想を「理」の立場から抜本的に改革し、そのシステムの中心に「気」という目に見えないエネルギー物質(あるいは空間)を置いた。つまり、眼に見えなくてもこの世と同じ物質でできた異世界を考えついたのだ。

 

朱子儒学者として、先人たちがいちばん弱かった「鬼神」の問題を真面目に解き明かそうとした。当時、多くの人から朱子は質問を受けている。「お化けっているんですか?鬼神ていうのはどんなものなんですか?」と。

 こういう質問に対し、朱子は自信をもって答えている。「もちろんおりますよ。何を言っているのかね、あんたは。鬼神もお化けも仙人だって、ほんとにいるでしょうよ。ただ、こういう連中が住んでいる世界は、見えないのです。そもそもわれら中国人が見ている万物の源、すなわち『気』自体が見えないわけでしょう。陰陽の二気がいろいろっと化合し合って、この世の森羅万象を作りあげ、われらはそうした創造物を通して気を見るんです。眼に見える世界はいわば、いろんな見えないものが混じり合って色や形を成した<ごった煮料理>ですよ。純粋じゃない。

 しかしね、ごった煮にならず、純粋な気の状態で出来上がった世界もある。見えないけれど、ちゃんと研究できるし、この世ともかかわりあっている。なぜなら、この見えない世界も、理すなわち知的なシステムに従って、できているからですよ。鬼だってちゃんといる。でも、民間のお化け小説なんかにでてくるような化け物やら幽霊やらは、あれはウソですよ。というよりも、見えないものを無理やり見えるように小説や絵を利用しただけのことです」と。

 

アジアに広がった「浅茅が宿」型ロマンス

・中国に端を発した志怪・伝奇の怪しい物語は、漢字文化圏の拡大とともに怪談が選ばれ、以前から存在していた地元の民話と結合しながら、東南アジア全体に新たなバリエーションを波及させた。つまり、『雨月物語』のようなゴーストとのラブスーリー、ハリウッド映画で言えば『ゴースト/ニューヨークの幻』のような話が、各国それぞれの風土に適応してその土地なりの幽霊物語に深化していった。

 

平田篤胤による日本の幽冥界維新

・この現象は古くは17世紀イギリスに広まったスエデンボルイの思想が先駆といえる。天使の住む霊界を実際に巡り、天使からさまざまな言葉を聞いたというスエデンボルイが、直接霊界と交流する信仰スタイルを広めた。この思潮が、19世紀になってアメリカで起きたフォックス姉妹事件というものと共振していく。若い姉妹がノック音を介してあの世の霊とコミュニケーションを取ることに成功した事件だった。これで、従来迷信の世界に属していた霊媒の活動が、科学的な研究テーマに組み込まれた。世界中で、あの世の物質的な探求が始まり、超能力者のパワーを実験的に確かめようとする動きになった。

 

・日本でも、この動きを直観的に察知した人物が現れた。平田篤胤という、日本の霊界思想を大きく改変した人物だ。なんと、江戸期に登場した天狗小僧寅吉や、妖怪を目撃した稲生平太郎といった超常体験を持つ人々に直接あるいは間接に取材を行い、霊界の行方を追求した。ここまで徹底的に幽界を探した人は世界的にも珍しい。

 中国で志怪小説や伝奇小説を発展させた作家たちは科挙などの現実的試練にさらされ、実生活は苦難の連続だったわけだが、平田篤胤にもその要素が存在する。平田篤胤という人は秋田から江戸へ出て勉強する夢を抱いた地方学者だった。江戸へ出る旅は真冬に決行されたが、途中雪に阻まれ危機を迎えた。このときある種の超常現象を体験したことから、霊の世界への関心を深めた。学者としては苦労の末に一派を成し、庶民にも分かる講義を行い古学を民衆に広めた。島崎藤村が著した小説『夜明け前』は、この平田学派に所属した藤村の実父が明治維新に夢を託し、その夢を明治政府が次々に押しつぶしていくプロセスを描いた大作だった。その夢とは、平田篤胤が唱えた「新しき古え」の実現だった。

 

 

 

荒俣宏の20世紀世界ミステリー遺産』

荒俣宏     集英社    2001/11

 

 

 

忘れ去られたニッポンの“超大物”探検隊・その1

東京大学雪男探検隊>

・1959年、東京大学医学部教授ひきいる「雪男学術探検隊」は戦後復興期の日本の威信を背負い、ヒマラヤへ。目的は20世紀を代表するUMA(未確認生物)「雪男」の捕獲。しかし、暖冬で雪がなかった!

 

・20世紀といえばUMA(未確認生物)である。これを探しに多くの人々が辺境へ出かけていった。そして、UMAを代表するのが「雪男」だ。今は「野人」やら「イエティ」やら「サスカッチ」、あるいは「ビッグフット」などと、“原産地”の呼び名別に区分けされ、かなり個別に知られているが、昭和30年代にはまだひとまとめに「雪男」と呼ばれていた。

 

・1951年、その奇ッ怪な足跡なるものがついに写真に撮られた!エヴェレスト山征服に挑んでいたイギリスのエリック・シンプトン隊が、長さ33センチもある4本指の巨大動物の足跡に遭遇したのだ。

 

・一方、日本からヒマラヤ登山に挑んだネパール・ヒマラヤ踏査隊(1952)とマナスル登山隊(1955)も、現地で足跡を発見し、2足歩行する怪しい動物をも目撃した。これにより日本の学界でも雪男捜索が現実的な話題となった。戦後まもない日本は、さまざまな分野で世界に肩を並べようという意欲にあふれていた。雪男発見の方面で最初に世界のさきがけたらんと手を挙げたのは、なんと東京大学であった!

 

・翌日に出た第2回通信では、雪男が出たときのために隊員が銃の撃ち方を訓練したことが報じられている。さらに翌日の1月6日に出た第3回通信では、「ヒマラヤはまだ遠いので手掛かりなし。途中の村で婚礼を見学」となった。4回めの報告は「身にこたえる寒さ」について、5回めは「法外な割増金を要求するのでポーター58人をクビにした」と危なっかしくなり、第6回目は「山の村々にも美人もいる」といった「心あたたまる」旅行記になってくる。

 

・いったい雪男調査はどうなってしまったのだろう、と思いたくなるのだが、実はこの年、ヒマラヤ地方は希れに見る暖冬だったのだ!雪があまり降らないから、足跡もつかない。だから雪男を追いかけたくても手掛かりがない。2か月あまりの調査は、まったくの空振りに終わってしまった。大金かけてヒマラヤまで行った探検隊は面目つぶれとなり、帰るに帰れなくなった。

 

・さらに、巨大類人猿のギガントピテクスの生き残りだとする説も根強く、依然として雪男への関心はくすぶりつづけている。

 

第20遺産 世界UMA ロッズ(スカイフィッシュ

・肉眼では見えないスピードで空中を飛びまわる、20世紀最後の未確認生物。貴重な連続写真で確認しながら考えよう、その正体はUFOか、それとも太古の生物なのか?

 

スカイフィッシュは、日本ではテレビのせいでこの名が知れわたったが、アメリカでは断然、ロッズというよび名のほうが頻繁に使われている。竿の複数形だが、ほそ長いシリンダー状のバクテリア生物学者が「ロッズ」と呼ぶのでこれに関連づけてこの生物もロッズと呼ばれている。

 

・さて、このUMAだが、生物かどうか判然としないし、だいいち肉眼ではほとんど確認できない物体なのだ。なぜ確認できないかといえば、あまりにも速く飛びまわっているからだ。こんなものをどうやって発見できたかというと、実はUFOが絡んでいたから、おもしろい。

 

・ホセは、その後もロズウェル周辺でロッズを撮影し、インターネットでその映像を公開した。すると、全国から、おれもロッズを撮った!と主張する人が続々とコンタクトしてきたのだ。つまりロッズは、ロズウェルのような砂漠ばかりでなく、海にも都会にも、ウヨウヨいることがわかってきた。もちろん日本にもいることが最近わかりだしている。ただし、あまりにも高速で飛びまわっているため、気づかれなかったのだ。

 

・いずれにしても、20世紀最後の発見物といってよいロッズ、あるいはスカイフィッシュは、テレビ番組を通じて日本にも多少は知られるに至った。あれから1年以上経つが、アメリカのほうではロッズの調査が地道につづいている。

 

・目に見えぬ速度で空中を飛びまわる物体。たしかにこの発見はUFOよりも一層興味ぶかい。かれらの巣と考えられるタテ穴の洞穴もみつかり、ロッズ捕獲作戦は第2段階にはいりつつある。21世紀を引きつづきミステリー豊かな百年にするためにも、ロッズがインチキでないことを祈ろう!

 

第24遺産 「1947年・謎の墜落事件」の決定的証拠!? 

ロズウェルUFOの破片>

・決定的証拠がないままに、最大のミステリーであり続けるUFO。本書では、ロズウェル事件の裏話をしよう。UFOが「現代の神話」をこえて、いつか博物館に入る日は来るだろうか?

 

・UFOは最初、「空飛ぶ円盤」の名でマスコミに登場した。この怪物体の第一目撃者とされる事業家ケーニス・アーノルドは、1947年6月24日に、自家用飛行機でワシントン州マウント・レニエ近くを飛行中、超高速で飛んでいく9体の「光る物体」と遭遇した。アーノルドが語った、「まるで水面をスキップして飛んでいく皿のようだった」というコメントから、空飛ぶ円盤と呼ばれるようになった。しかし、その後こうした怪しい飛行物体がかならずしも皿のかたちではないことがわかり、公式の調査機関ではUFO「未確認飛行物体」と呼ばれるようになった。

 

・ところが、世間一般ではUFOへの関心はとどまるところを知らずに拡大し、とうとう二つの大事件を通じて宇宙人とつながってしまった。一つは、1952年に出たジョージ・アダムスキの『空飛ぶ円盤同乗記』だ。なんと、この人物は金星人の乗る円盤に乗ってきたといいだした。

 

・それからもう一つの大事件、これがロズウェル事件だった。1947年7月3日というから史上初のUFO目撃事件が発生してから10日余りしか経っていない。地元紙『ロズウェル・デイリーレコード』7月8日と9日の両号に、「空飛ぶ円盤」らしき怪飛行物体が墜落したという、かなり地味な記事が載った。

 

ロズウェル事件には、まだまだ続きがある。日本には、ロズウェルのUFO博物館と並び称される学術的な資料博物館があるのだ。「コスモアイル羽咋」といい、能登半島のつけ根にある。この博物館を実現させた高野誠鮮さんは、世界にネットワークをもつUFO研究家だ。

 

・こうしてさまざまな情報が錯綜しながらネット上を行き来している。とくにUFOについての情報は、ロズウェル事件を例にとっただけでも、デマ情報とそれを打ち消す新情報、裏情報のオンパレードだ。

 

・そういう当事者とも連絡のある「コスモアイル羽咋」は、目下きわめて有用な博物館といえる。ひょっとすると近い将来、ほんもののUFOをミステリー遺産として展示してくれるかもしれない!