日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。

その惑星は本当にすばらしい桃源郷のようなところであった。現地での滞在は丸2日間(約48時間)であったが、地球に帰ると2、3時間しか経過していなかった。(2)

 

「トクナガ文書」と「1960年大変動」騒動

<1960年大変動」騒動>

1960年1月、産経新聞の記事から始まった

・まず、1960年1月29日、産経新聞「話題パトロール」欄が、「CBAの情報」の記事を掲載した。前掲の『宇宙友好協会(CBA)の歩み』によると、

『196X年、地軸が132度傾く。このため海と陸とが相互に入り乱れて、地球上の生物は93%が死滅する。ノアの洪水より数十倍もの大規模な“地球最後の日”がやってくる』という情報をCBAが流したというのである。しかもこれは松村雄亮が直接宇宙人から聞いた情報であると書かれていた」という。この記事は、当時福島県でCBA地方連絡員であった徳永光男がCBAから伝えられた情報と、レイ・スタンフォード、アダム・バーバーという学者の見解などを総合的に取りまとめ、徳永個人の見解を交えて作成されたと見られる。

 松村が宇宙人から受けた通告の第一項は前述のとおり、「地球の大変動がきわめて近い将来に迫っている。宇宙連合はそのため常時地球の観測を行っているが、その正確な時期は今のところ宇宙人にもわからない。あなたはその準備のために選ばれたのである」であった。

 

1959年の「トクナガ文書」を公開!

・CBAの特別情報をお知らせします。(CBAのある人が数カ月前から宇宙の兄弟たちとコンタクトを持つようになりました。以下述べるのは、宇宙の兄弟たちが知らせてくれた情報です。)

  1. 地球の軸が急激に傾くのは、1960年~62年です(ゼロの可能性がかなり大きいと見られています。)

【注】3百機の宇宙船円盤が地球をめぐり、地軸の変動を常に測定しています。

  1. 宇宙の兄弟がわれわれを救いに来てくれます。円盤に乗る場所は、日本では2カ所になる予定です。東日本と西日本の2つのグループに分けられます。この場所はCの少し前(時期を知らせる通知のわずか前)に知らされます。

【注】C――Catastrophe(大災害)の頭文字で、地軸大変動の略記号または暗号として使われます。

 

(以下省略(当ブログ))

 

「地球の軸が傾く?」のはなぜ「1960年」とされたか

・高梨純一が入手した「短い文書」を読むと、どこまでが「宇宙情報」としてCBA幹部たちが共有していたかが不明である。

 

・まず地球の軸が急激に傾くとされる「1960年」について説明しよう。

 1958年、米国テキサス州の円盤愛好家レイ・スタンフォードは弟と連名による著作『Look Up』を自費出版した。それを入手したCBAは、その『Look Up』を翻訳し、1959年8月に邦題『地軸は傾く?』として発行する。

 

・この『地軸は傾く?』の中の「………最も影響の大きい『地軸傾斜』はここ数年内に発生するでしょう。しかし大規模な変動は恐らく196X年に発生し小規模な変動はそれ以前にも突発するかもしれません」とある。

 この部分が原著『Look Up』では「1960年」となっていたが、CBAはこの箇所を「196X年」として出版したのだ。徳永はこのいきさつを知る立場にいたと推定される。

 

レイ・スタンフォードは「1960年大変動」予言に関わったのか

・「レイ・スタンフォードは霊能者(サイキック)で、意識不明のスタンフォードを通じて、様々なアクセントと抑揚による『語り』があり、それらの存在はエーテル界の『白い兄弟たち』とも呼ばれた。彼らはスタンフォードの声帯を借りて語った

 

・見えない霊的存在からの意志と霊媒による肉声で伝える行為から類推されるのは、霊界人による「大変動予言」の問題である。1954年に「1955年に大変動が起こる」という霊界宇宙人サナンダからの予言を受信したのは、シカゴに住む54歳になるドロシー・マーティンであった。

 それは自動書記と呼ばれる心霊的なメッセージ受信によって筆記された。もちろんその予言が外れたので、今日の世界が存続しているわけだが。

 レイ・スタンフォードの声帯を借りて語る「ソース」が、もし「1960年大変動」という予言にも関係があったとしたら、日本に騒動をもたらした元区はレイ・スタンフォードに語りかけた霊界の「白い兄弟たち」ということになる。しかし、それを確認することはできない。

 

「何年何月何日に世界が終わる」という予言もまた、何度も繰り返されてきた。

・「大変動」「最後の審判」の伝説と、「何年何月何日に世界が終わる」という予言は同じ一つの終着点「大変動」「世の終わり」へと向かっていた。しかし、「大変動」「最後の審判」の伝説の流れは「そのときは誰も知らない。ただ父だけが知っておられる」「宇宙人にも分からない」と言い逃れ、「世界が終わる」という予言の流れは「それは何年何月何日」と予言され、そのつど外れてきた。

 

・「神あるいは主」は「そのときは誰にもわからない」で終わるのが定石で、「それは何年何月何日だ」とするのが「予言的霊能者」の役目であったようだ。信じる人々は予言が外れる度に繰り返し失望させられてきた。20世紀となり、米国予言の「1960年」を受けて、CBAに所属する日本人が緊急文書を作成し、それが新聞社に流れて波乱を巻き起こすことになった。

 

トクナガ・ミツオの弟が明かす「ボード事件」の詳細

相手は「天の神様」「サナンダ」と名乗った。サナンダとは「イエスが金星で生まれた名前」であるという。また通信文に見られる「ワンダラー」「リンゴ」という言葉は、ウィリアムスンが受信した相手の通信文にも見られるし、日本のボード通信にも見られた。

「ワンダラー」とは、惑星から惑星へと生まれ変わりつつ移動する放浪者の魂を指し、「リンゴ」とは「外の遊星から地球に生まれ変わってきている人」を指す。「リンゴ」がなぜそうした意味になるのかというと、地球にまかれた種子(魂)が腐らないように(任務を忘却しないように)することを塩漬けにしたリンゴに例えたものである。

 

・「ワンダラー思想」において、「リンゴ」とは「外の遊星から地球に生まれ変わってきている人」を指す。「ワンダラー」とは、惑星から惑星へと生まれ変わりつつ移動する放浪者の魂のことである。しかし、真性宇宙人との接触者である松村雄亮はこのような概念を否定していた。

 

・筆者の隣にいた久保茂が松村に質問した。「惑星から惑星へと生まれ変わる魂というものはあるのか」と。すると「それはありません」と松村は即答した。

 筆者が思うに、肉体の死によって分離した魂というものは、円盤なり宇宙船に回収されて運ばなければ、他の惑星には行けないということではないか。「死んで、他の惑星へ転生する」という概念は、個人的なロマンとしてなら許されるかもしれない。しかし、それを「メッセージ」として、事実として発信するのは問題が大きい。

 それは霊界所属の自称宇宙人によってなされてきた。その目的とは何か。まさか1997年の「ヘブンズ・ゲート」事件(1997年3月、ヘブンズ・ゲ-ト[天国への門]と呼ばれるカルトが、カリフォルニア州サンディエゴ市北部で「ヘール・ボップすい星接近に合わせて」として集団自殺し、死者39人を出した事件)のような結末を招くようなものとは思いたくない。

 

・その世界の住民はUFOのように我々の眼には見えるものではない。眼に見えなくても「宇宙人」を名乗ってコンタクトしてくるのだ。

 「宇宙人」を名乗る眼に見えない意識体は、特定の人物を選び「メッセージ」を伝えたりする。その結果、科学的なUFO研究に種々の分派が生まれるという現実となってくるのである。

 

松村雄亮の「宇宙連合」とのコンタクトとCBAの古代研究

松村雄亮と「宇宙連合」とのコンタクトの方法

・松村雄亮が1959年7月に茨城県の某地から、在日宇宙人と共に搭乗した円盤は「実体図」には見られない。元CBA理事・丹下芳之から1961年頃、筆者が聞いたところによると、その最初に乗った円盤の内部には設備はなく、人を運搬するだけのがらんどうの機内であったという。

 

・松村は宇宙連合から連絡を受けると、旅の仕度をして航空会社に予約を入れる。横浜から羽田空港へと向かい、国内便で九州の某空港へ飛ぶ。そして着陸地点である丘陵地帯へと向かうのである。

 空飛ぶ円盤の飛行や母船への搭乗は常に「九州の某丘陵地帯」で行われた。その往復にかかる費用、そしてタクシーを使って現場近くに行くための苦労があった。母船の中は、地球大気と変わらない気温に保たれていたという」。

 

・宇宙連合の円盤は、高梨純一がその実在を強く主張した「土星型円盤」を基調としていた。その円盤には一切窓はなく、外界は天井の「天体スコープ」によって見ることができる。円盤に搭乗する宇宙人は、松村雄亮もその能力を得た「SMVP」、つまり人間レーダーのような能力を持っている。そ能力があれば、航空機の自動操縦を上回る操縦性を持つのであろう。自動操縦が完璧になれば、我々の乗り物が窓を必要とする時代は過去のものとなる。

 

松村雄亮がコンタクトした宇宙連合の円盤

・直径が50~60メートルの司令機は、3段に分かれている。3階建ての建物としてみると、1階と2階の吹き抜け空間に、円形のテーブルを囲む大会議室がある。その周辺の部屋、まず、1階には個室と調理室、倉庫がある。2階には個室と資料室、サロン、小さな会議室が2つある。

 動力機関はほとんど見当たらないが、土星の輪に相当する翼を貫く「ダクト」のみがそれに相当するようだ。

 

・「空飛ぶ円盤実体図 中型機」は直径40~45メートル。内部は2段に分かれている。1階にやはり会議室があるが、テーブルは四角い。1階の周囲には資材室、倉庫、調理室、サロン、そして個室が5室ある。制御盤に4人、操縦席に1人が座る。乗員は約12名となっている。

 

・この夜には、長さ3000メートル級と1700メートル級の母船が撮影された。その状況は『空飛ぶ円盤ニュース』と『空飛ぶ円盤ダイジェスト』に掲載されている。

 

著者略歴  天宮清

・1960年春、弟から平野威馬著『それでも円盤は飛ぶ』を見せられて、すぐに三省堂書店へ行き『これが空飛ぶ円盤だ』『空飛ぶ円盤実見記』『我々は円盤に乗った』『地軸は傾く』などを購入。CBA発行の宇宙シリーズで月刊『空飛ぶ円盤ニュース』を知り、CBAに入会した。

 

・1975年より天宮一家は奈良県天理市に移り、杉山繊維工業の宿舎を拠点に子育てとUFO観測、スライド作品制作とそれを見る天理高校2部生を相手にした啓蒙活動を展開する。

 

・2011年2月5日に娘が心肺停止により病院に搬送され、以後植物状態になって長期入院することとなる。その入院先に妻と毎日通う過程で、新たなUFO目撃撮影や印刷通販による冊子の制作を行う。

 

・著書に『天空人伝承~地球年代記~』(たま出版)がある。山岡徹、山岡由来は筆者と妻のペンネーム。

 

 

 

『UFO事件クロニクル』

ASIOS   彩図社   2017/8/29

 

 

 

リンゴ送れシー事件

・1960年、「宇宙友好協会(CBA)」が密かに地球の地軸が傾く大異変に備えるよう会員に指示していたことがマスコミに報道され、社会問題となった事件。

 

<大災害を予言する文書>

「リンゴ送れシー」という呼び名は、1959年末、CBA幹部・徳永光男が作成したとされる通称「トクナガ文書」の内容に由来する。

 その内容を要約すると、1960年あるいは62年に地軸が傾く大変動が起こるが、宇宙の兄弟が我々を助けに来てくれる。円盤に乗る場所は日本では東日本と西日本の2ヶ所であり、具体的な場所は「C(英語のcatastrophe:大災害の頭文字をとったもの)」の少し前に知らされる。Cの10日前に電報又はその他の方法でCが起こることが知らされるが、その電文が{リンゴ送れシー}ということだった。

 

・11月3日には、「重大な任務を遂行する」資金を確保するため、浅川嘉富、平野威馬雄らが発起人となって「維持会員制度」が設置されている。

 

宇宙人の長老と会見

・ではなぜ、CBAは、1960年に地軸が傾くと信じたのだろう。

 事件を遡るとその発端は、CBAが1959年に翻訳出版した(松村雄亮訳)したスタンフォード兄弟の『地軸は傾く』に行き着く。

 本書にはスタンフォード兄弟がコンタクトした宇宙人から知らされたとして、1960年に地軸が傾く大変動が起きると記されていた。CBA幹部はこれをこのまま信じていいものかどうか大いに迷い、原著者の1人、レイ・スタンフォードにこの点を確かめたところ、返書には「私の会っている宇宙人はいまだかつて嘘を言ったことはありません」とあった。そこで直接宇宙人に確かめてみようということになり、1958年6月27日、筑波山上空に松村雄亮代表と幹部が何人か集まってUFOを呼び出した。こととき、実際にUFOらしきものが飛来し、その模様は後日ラジオでも放送されたのだが、肝心の年号については、2名の者の頭に「1962」という数字が浮かんだだけで、決定的ではないとされた。

 

CBA代表の松村はこの直後の7月から宇宙人とコンタクトするようになり、26日には円盤で母船に連れて行かれ宇宙人の長老とも会見したのだが、大変動がいつ起こるか、正確な期日は宇宙人にもわからないということだった。しかもこのとき、慎重に事を運ぶようにと念を押された。そこで日本語版では196X年という形にぼやかして出版した。さらにその後宇宙人からは、新聞を使ってはいけないとも警告された。

 

一般社会からの注目

こうしたなか、1960年1月29日付「産経新聞」がCBAの動きや、荒井、高梨の反論を報じたのを皮切りに、他の週刊誌も関連記事を何本か掲載する。しかもその内容は、「トクナガ文書」の内容を紹介するだけでなく、地球滅亡が近いとして乱行を繰り広げた京都の女子高生や食料を買い込んだ千葉の事件、試験を放棄した広島県の高校生などの他、CBA代表の松村がMIBに襲われた話など、真偽不明の内容が含まれていた。

 

他方、当時の報道を精査しても、事件そのものがそれほど大きな社会問題となった兆候は見当らない。ただし、事件を契機にCBAと他のUFO研究家との亀裂は決定的なものとなり、松村も一時役員を退く。しかし1年後には対立する幹部を放逐し、独裁的な指導者として復帰、以後CBAは独自の宇宙考古学路線をひた走ることになる。

 

宇宙人紳士との愛の軌跡 エリザベス・クラーラー

・エリザベス・クラーラー(1910~1994)は、1980年に『光速の壁を越えて』を出版して世に知られることになる。

 エリザベスはアダムスキーの本を読んで、自分が幼少の頃よりずっと宇宙人と精神的なコンタクトを続けていたことを思いだした。そしてある日、誘われるように近くの丘に行くと、そこには着陸した円盤とハンサムな紳士が彼女を待っていた。

 彼女がエイコンと名乗るプロキシマ・ケンタウリ星系のメトン星からやってきた白人紳士型宇宙人と濃厚なコンタクトをしたのは、54年から63年までの間で、やがて2人は当然のように恋に落ち、エリザベスはエイコンの子供を身ごもることになる。そしてメトン星に4ヵ月滞在し、エイリングという名の男の子を出産する。メトン星は争い事のない自然豊かな楽園で、彼女は地球帰還後、地球を彼らの星のようにすべく世界中を巡り講演活動を行った。

 

松村雄亮(まつむらゆうすけ、1929~?)

・日本のUFO研究家。「空飛ぶ円盤研究グループ」及び「宇宙友好協会(略称CBA)」代表で、自称コンタクティー

 

・1959年、松村が翻訳したスタンフォード兄弟の『地軸は傾く』に記された大異変への対応を巡り、CBA指導部が議論を重ねる中、松村は7月に自ら宇宙人とコンタクトし、さらには円盤に乗って宇宙人の長老とも会見したと主張するようになった。こうしたCBA側の動きはマスコミにも知られることとなり(リンゴ送れシー事件)、CBA以外のUFO研究団体・研究家との関係も決定的に悪化した。

 

・一方、アイヌの文化神オキクルミをはじめ、大和朝廷による統一以前に各地の古代日本人が崇拝した神や文化英雄を宇宙人とする見解が宗教団体「成長の家」との対立を招き(成長の家事件)、熊本のチプサン遺跡に無断でアーチなどの建造物を設置したことが熊本県教育委員会より批判を受ける(チプサン遺跡事件)などで世間の耳目を集めた。

 

・1970年6月24日には、ハヨピラでオキクルミカムイ祭1200年式典が行われたが、この直後松村は消息を絶った。

 松村の行方は他のCBA関係者も詳しく承知していないが、ある証言によれば2000年頃、京都の小さなキリスト教団体に身を寄せて亡くなったという。

 

<クロード・ヴォリロン=ラエル(1946年~)>

・「ラエリアン・ムーブメント」の創始者。コンタクティー。フランス生まれ、車専門誌のジャーナリストをしていた1973年12月13日、フランス中部のクレルモン・フェランに近いビュイ・ド・ラソラの噴火口で、「エロヒム」と名乗る宇宙人に遭遇したとされる。

 その際、ヴォリロンは「一つになる」という意味の「ラエル」という称号を与えられ、人類に「真実のメッセージ」を伝えるための「最後の預言者」としての役割を与えられたと主張する。

 またエロヒムからは、彼らの超技術によって、2万5000年前に人間を含む地球の生物が創造されたことを聞かされたとも主張している。

 

・1975年10月7日には、エロヒムと二度目のコンタクトを果たし、彼らの宇宙船で、母星の一つ「不死の惑星」に行き、数々の驚異的な体験をしたともいう。

 1975年末には、エロヒムを地球に招くために大使館を建てるという名目で、「国際ラエリアン・ムーブメント」をスイスのジュネーブに設立。その後、世界中に支部をつくり、会員を集めている。

 公式サイトからダウンロード可能な入会申込書によれば、会員には大きく分けて「国際会員」と「国内会員」があり、活動を積極的に行う国際会員の場合は、年収の7パーセント、国内会員の場合は年収の3パーセントをそれぞれ会費として納めなければならないとされている。

 

・ちなみにラエルは、ヘアスタイルをちょんまげにするほどの日本好きで知られ、現在は沖縄に移住しているという。またラエリアン・ムーブメントの日本支部は比較的会員が多く、日本での活動も積極的に行われている。

 

バック・ネルソン さみしい農夫と恥ずかしがりやの宇宙犬

・ネルソンが最初に空飛ぶ円盤を目撃したのは54年。家畜たちが突然騒ぎだしたので外に出てみると空に3機の空飛ぶ円盤が浮かんでいたという。この時彼は3枚の写真を撮影し、その1枚にだけ2機の円盤が映っていた。最初のコンタクトはその約1年後、その時は簡単な挨拶のみで、その1ヶ月後には本格的なコンタクトを果たしている。農場に着陸した円盤からは3人の男と犬が降りてきて、ネルソンは自宅に彼らを招き入れた。3人の男のうち2人はバッキ―と名乗る若者と、名乗らない年寄りの地球人で、もうひとりがボブ・ソロモンと名乗る金星人だった。55年の6回目のコンタクト時、とうとう彼らの円盤に乗せてもらい、月と火星と金星のクルージングに出かけている。

 

オルフェオ・アンジェルッチ   虚弱体質なニューエイジ・ムーブメントの先駆者>

オルフェオ・アンジェルッチは、55年に『円盤の秘密』を出版し世間に知られることになる。この時、彼は43歳。

 彼を一躍有名にしたのは心理学者のC・G・ユングが興味を示したことで、ユングはこの本について「彼の中では真実」と評した。

 

・それは心に直接語りかけてくるテレパシーだったが、同年ネプチューンと名乗る宇宙人と物理的なコンタクトを果たしている。そして、海王星、オリオン、琴座などの宇宙人と日常的にコンタクトし、世界戦争が差し迫っていると警告した。また彼はイエス・キリストも宇宙人の1人だとしている。

 

彼がコンタクト体験で語ったことは、きわめて宗教的で、宇宙人は自由に現れたり消えたりすることができる実体を持たない存在であるとされた。宇宙人が高次元の精神的な存在であるとする言説は、今ではニューエイジの世界ではありふれたものだが、彼が著書で「ニューエイジ」という言葉を頻繁に使っていることと合わせて、ある意味時代を先行していたと言えるだろう。

 アダムスキーがあくまで既存宗教と距離をとったのに対して、キリストも宇宙人の1人としているところも興味深い。

 

<ウッドロウ・デレンバーガー  UFOに人生を壊されたミシンのセールスマン>

・ウッドロウ・デレンバーガー(1916~1990)は、1966年に宇宙人と遭遇した体験がメディアに報道され世間に知られることになる。

 

・その物体は着陸し、中から長い黒髪を後ろに撫でつけた浅黒い肌の男がニタニタ笑いながら降りてきた。その男は怖がる必要はない、わたしはきみの国よりはるかに力の弱い国からやってきたとテレパシーで語りかけ、男は自分をインドリッド・コールドと名乗った。

 その2日後、デレンバーガーはまたもやコールドからのテレパシーを受ける。彼は自分が戦争も貧困もない「ラヌロス」という地球とよく似た惑星からやってきたと語った。その後、コールドは彼の前に度々現れ、デレンバーガーは彼らの宇宙船への搭乗も果たしている。宇宙船の中はがっかりするほど何の変哲もなく、ベッドや見覚えのある商品がおかれ、ラヌロス星は牧歌的でヌーディストの星だったという。

 

・このことが報道されてからというもの、電話が鳴り止まなくなり、UFOをひと目見ようと集まった人々で彼の農場は連日黒山の人だかりになってしまったのだ。彼は家族と共に何度も引っ越しを繰り返したが、事態はさほど好転せず、耐えられなくなった妻は子供を連れてデレンバーガーのもとを去っていった。

 

エドウィン  やむことのないメッセージ>

・1960年、エドウィンは働いていた南アフリカの農場で無線技師募集の求人でやってきたジョージ・Kと名乗る長身で黒髪の男と意気投合する。そしてその男こそコルダスという惑星からやってきたヴェルダーと名乗る宇宙人だった。彼によれば、地球には宇宙人の組織があり、地球人が精神的霊性向上に気付くように観察しているのだという。

 ヴェルダーはエドウィンとのしばしの親交ののち、円盤に乗ってコルダス星に帰っていった。この話はエドウィンの信奉者であったカール・フォン・ブリーデンによって『惑星コルダスからのUFOコンタクト』としてまとめられている。

 この話にはその後がある。宇宙人ヴェルダーはエドウィンへの置き土産として「無線機」を残していた。エドウィンはあちこちいじってみたが、しばらくはありきたりのホワイトノイズしか聞こえてこなかった。

 しかしその6ヶ月後、ウィオラと名乗るコルダス星人と交信することについに成功する

 コルダス星人は通信の担当者を度々変えながら、宇宙と地球の平和、そして宇宙船の技術的な秘密などを延々と語り続けた。この無線による通信は72年まで続けられ、その後も通信方法を変更して続けられたという。

 

核兵器をなくせとか戦争をやめろとか、UFOコンタクティーたちはそういう直接的なメッセージをあまりしない。彼らが繰り返し訴えるのは、ここではない<他所>があるということ。その<他所>では、ここでは日常的な出来事が、逆にまったく非現実的だったりする――それは例えば、核戦争の恐怖におびえたり、子供が飢えて死んだり、理不尽な争いで人が大勢死んだりすること。そんな、この世界の毎日どこかで起こっている、ごくごく当たり前の出来事が<他所>にはないということだ。

 

並木伸一郎  1947~

・超常現象研究家。1973年に設立された「宇宙現象研究会(JSPS)」では会長を務める。

 介良事件や甲府事件をはじめ、日本で起きた奇妙な事件を現地まで赴いて精力的に調査。JSPSの会誌では、そうした事件の貴重な調査記事が、会員の報告と共に掲載されている。

 

・80年代以降は学研の老舗オカルト雑誌『ムー』のメインライターを務める。オカルト作家としては批判を浴びることもあるが、話を創作したり、プロレスやエンタメだと言い訳するようなことはしない。

 また、表面的なオカルト作家の顔とは別に、海外情報に非常に精通したフォーティアン(奇現象愛好家)としての顔を持ち、UFOについても造詣が深い。おそらく現在、日本で最もUFOについて詳しい人物。

 

・普段、あまり見せない顔を見られるものとしては、『ミステリー・フォトニクル』(デジタル・ウルトラ・プロジェクト)に収録されている「ある円盤少年についてのまじめな話」という記事がある。

 これは、かつてのUFOブームの時代に起きた並木氏とある少年との秘話を記した名文である。未読の方にはぜひ一読をお勧めしたい。

 

韮澤潤一郎  1945年~>

実際は目撃事例のうち、本物は10~15%くらい

新潟県生まれ。たま出版代表取締役社長。UFO研究家。UFOを研究するきっかけは、1954年、小学校3年生の夏休みに初めてUFOを目撃したとき。以来、UFOに興味を持ち、ジョージ・アダムスキーの『空飛ぶ円盤実見記』や『空飛ぶ円盤同乗記』をはじめとするUFO本を読み込み、自宅の屋根に観測台をつくって観測会を開くなどした。

 中学から高校にかけては、自ら『未確認飛行物体実見記録』と題した研究ファイルを作成。写真つきで詳しい観測結果を残している。

 

・大学卒業後は現在のたま出版に入社。当時、社長の瓜谷侑広氏と2人だけという状態からのスタートで経済的には苦しかったため、日本テレビ矢追純一氏が担当していた深夜番組「11PM」などで資料提供するなどして生活を支えた。

 

<南山宏  1936年~>

・超常現象研究家。翻訳家。東京外国語大学ドイツ語学科時代にSFにハマり、早川書房へ入社。当時、SFをやるとつぶれるというジンクスがあったが、それをはねのけ、「SFマガジン」の2代目編集長として、数々のSF作品を世に送りだした。

 超常現象に興味を持ったきっかけはSF同人誌「宇宙塵」。同誌の関係者が日本空飛ぶ円盤研究会に参加していたことから、UFOを入口に興味を持っていったという。

 

・1960年代から70年代にかけては、『少年マガジン』をはじめとした少年誌などで、定期的にオカルト特集記事を執筆。早川書房を退社してフリーに転身後も、精力的に活動を続け、UFO本をはじめとする数多くの著書や翻訳本を出版した。英語が堪能で、翻訳した本では、訳者あとがきが非常に詳しい解説記事になっているのが特徴。

 

・海外の超常現象研究家とも交流が深く、10以上の研究団体に所属。イギリスの老舗オカルト雑誌『フォーティアン・タイムズ』の特別通信員も務める。また日本のオカルト雑誌『ムー』にも創刊当時から関わり、現在も同誌の顧問を務めながら、記事を執筆している。

 日本ですっかり定着した「UMA」(謎の未確認動物)という用語の考案者でもあり、超常現象全般に造詣が深い。

 かつては矢追純一氏のUFO番組などで情報提供を行ったり、自ら出演したりすることもあったが、現在は見世物的になることを嫌い、テレビの出演依頼は断っている。

 

矢追純一  1935年~>

・TV番組ディレクター。1935年、満州新京生まれ。1960年、日本テレビ入社。

 UFOを特集した番組を手がけ、80年代から90年代の日本におけるUFO文化を、事実上牽引した立役者の一人である。

 まだTV黎明期の日本テレビに入社後、様々な番組の現場を転々としたが、なかなか自分に会う番組に出会えず腐っていたところ、深夜の情報番組「11PM」が始まると聞き、プロデューサーに頼んで参加させてもらう。当時の深夜番組はメジャーな存在ではなく、スポンサーもあまりつかなかったが、逆に自由に番組を作っても文句を言われにくい土壌があった。

 もともと矢追氏はUFOに興味があったわけではなかったが、日本人が脇目も振らずに働いて心に余裕も持てない現状を憂い、ふと立ち止まって空を見ることができるような番組を作りたいと考え、当時ブームでもあった「UFO」という、空を見たくなる素材で番組を作り始めたと本人は語っている。

 

・機動性を重視した少人数の取材班で実際に現地取材を行い、目撃者などの当事者にインタビューを敢行する行動力、スピード感のある編集、番組の合間合間に挟まれる特撮のUFO映像となぜか「ピギー ―」と鳴く宇宙人のアップ、何より冒頭の「ちゃらら~ちゃららら~♪」というテーマ曲は当時のUFO大好き少年たちに強烈な印象を残している。

 

<ジョージ・アダムスキー  1891~1965>

アメリカの自称コンタクティー。世界で最初に異星人とのコンタクトを公表した人物。

 ポーランドに生まれ、2歳の時に両親ともにアメリカに移住した。貧困のため高等教育は受けられなかった模様であるが、13年から16年までメキシコ国境で第13騎兵連隊に所属、17年に結婚するとイエローストーン国立公園職員やオレゴンの製粉工場などで働き、26年頃よりカリフォルニアで神秘哲学を教え始めた。30年頃にはカリフォルニア州ラグナビーチで「チベット騎士団」なる団体を設立、神秘哲学の教室を開いていた。40年にはカリフォルニア州パロマー天文台近くに移住し、44年からは弟子のアリス・ウェルズが所有する土地をパロマー・ガーデンと名づけ、そこに建てられたパロマー・ガーデン・カフェで働きながら神秘主義哲学を教えていた。

 

アダムスキーの名が知られるようになったのは、53年にデズモンド・レスリーとの共著という形で出版された『空飛ぶ円盤実見記』が世界的なベストセラーになったことによる。この中でアダムスキーは、51年3月5日に葉巻型母船を撮影し、52年11月20日に、カリフォルニアのモハーベ砂漠で金星人オーソンに会ったと主張している。続く『空飛ぶ円盤同乗記』では、1953年2月18日にロサンゼルスのホテルで火星人ファルコンと土星人ラムーに会い、一緒に円盤に乗った経緯を語っている。

 

・この2書が世界的ベストセラーになると、59年1月から6月にかけて、各国のアダムスキー支持者が集めた資金でニュージーランド、オーストラリア、イギリス、オランダ、スイスなどを旅行し、オランダではユリアナ女王とも会見した。このとき久保田八郎にも訪日の打診が行われたが、十分な資金が集まらず断念したという。

 

その後、アダムスキーの主張はますます肥大し、62年3月には土星に行ったと主張し、ケネディ大統領やローマ法王に会ったと主張するようにもなった。さらに各種の講演会の場や、弟子たちとの非公式の場では8歳からチベットのラサに送られたとか、父親はポーランドの王族で母親はエジプトの王女などとも述べるようになった。