日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

ここで彼女は、自分は最近日本へ配属された宇宙人であること、現在横浜に三人、東京に四人の宇宙人が来ていること、キャップは東京にいることなど打ち明け(1)

 

 

『昭和・平成 オカルト研究読本』

ASIOS編著  サイゾー  2019/6/29

 

 

 

ASIOS(アシオス)
・2007年に日本で設立された超常現象などを懐疑的に調査していく団体。

 

・本書で扱うのは、昭和と平成のオカルトです。ここでいう「オカルト」とは、常識では説明がつかないとされる現象や能力、存在、出来事などを指しています。

 

CBA事件を起こした宇宙友好協会(CBA)   羽仁礼

・宇宙友好協会(英名はCosmic Brotherhood Associationで略称CBA)は、1960年代から1970年代初頭にかけて活発な活動を展開し、しばしばマスメディアの注目を集めたUFO研究団体である。

 遮光器土偶が古代に地球を訪れた異星人をかたどったものであるなどと主張する、いわゆる「宇宙考古学」を日本で広めたのもこの団体だし、UFOを呼び出すのに「ベントラ」という呪文を唱えはじめてのもこの団体だ。

 

・CBAはアイヌ神話の文化神オキクルミを古代に地球を訪れた友好的な異星人だと主張し、そのオキクルミの聖地に、ピラミッドなどの記念碑を建造する計画が、1963年12月20日に発表された。

 

・1970年6月24日には、ハヨピラでオキクルミカムイ1200年式典が開催されたが、松村雄亮が公衆の面前に姿を見せたのはこのときが最後だったようだ。機関誌『空飛ぶ円盤ニュース』は1967年を最後に事実上廃刊となっており、後継の『UFOニュース』はページ数も少なく、不定期刊行となった。

 その『UFOニュース』も、1974年春号で刊行は停止し、松村雄亮のその後の消息についても、いくつかの証言があるものの正確なところは不明なままである。一説には、CBAは1973年に解散宣言を出したとも言われるが、少なくとも外部には公表されていない。

 

盛り上がり、定着し、沈静化した昭和・平成のUFOブーム 羽仁礼

1970年代後半、昭和で言えば50年代初頭、日本列島をとてつもないUFOブームが襲った。

 テレビでは毎月のようにUFO特番が放映され、新聞や週刊誌では、毎日のようにUFO関連の記事が掲載された。日本各地に数え切れないほどのUFO研究団体が設立され、『UFOロボ・グレンダイザー』『円盤戦争バンキッド』と、タイトルにUFOや円盤を冠したアニメや特撮番組が立て続けに放映されたのもこの時期だ。さらに円型の容器に入った新発売のカップ焼きそばが「UFO」と命名され、その名もずばり「UFO」という名の歌謡曲が大流行し、社会現象にまでなった。

 

だが、その20年ほど前、日本には最初のUFOブームがあった。

 この第一次UFOブームは、1954年、アメリカのコンタクティー、ジョージ・アダムスキーでデスモンド・レスリーの共著『空飛ぶ円盤実見記』が日本で翻訳出版され、ベストセラーになったことをきっかけに始まった。

 

・日本で最初のUFO研究団体である「日本空飛ぶ円盤研究会」が結成されたのも、このアダムスキーの『空飛ぶ円盤実見記』が原因だった。『UFOと宇宙』1978年12月号の荒井欣一インタビューによると、「この本を買った人や、近所で関心のある人たちが店の中に集まって、ウソかマコトかという議論が続くようになった」のが結成のきっかけだということである。

 この、アダムスキーの体験談をベースにした第一次UFOブームについては、文学者の埴谷雄高も、「1954年の十大ニュース」のひとつとして取り上げているほどだ。

 

・この第一次ブームは、1960年をもってひとまず終息したといえる。

 その原因は、なんといっても「日本空飛ぶ円盤研究会」が資金難や荒井欣一氏の健康問題を主因として活動休止となったことが大きい。

 

・こうした団体の活動が、冒頭に述べた第二次UFOブームの伏線になったことは否定できないだろう。

 ただ、この第二次UFOブームについては、正確にいつから始まり、どの時点で終息したか、特定するのが難しいのだ。

 

・有江富夫氏作成の「新編・日本初期UFO図書総目録稿」によれば、UFOに関連する書籍の出版点数は、1973年は31点だったのに対し、1974年には50点と急増し、1975年が69点、76年が71点となっている。77年にはこれが42点、78年には44点であるから、関連図書の出版点数のみからみると、このときのブームは1975年から76年にかけてピークを迎えたことになる。

 だが、世間一般には、この直後、1977年にピンク・レディーの「UFO」がリリースされた後の方が、よりブームになったというのが実感に近いようだ。

 

・一連の流れをあらためて振り返ってみると、1970年代初頭にはまだもの珍しかったUFOが盛り上がってブームとなったが、UFOそのものが世間に定着したため次第に熱が冷め、それほど騒がれなくなったという構図のように思われる。

 一方、今やUFOという言葉を知らない日本人はいないほどで、空に何か得体の知れない物体を目撃すると安易に「UFOだ」と言うような状況である。友達の友達くらいにまで範囲を広げると、大体「UFOを見たことがある」と主張する人物にでくわすようだ。

ブームと呼べるような熱狂は去ったものの、UFOは日本社会に定着しており、世間の隅々にまで浸透しているといえるのではないだろうか。

 

超能力捜査番組はなぜ続いたのか   本城達也

・昭和から平成の長い期間にわたり、日本で続けられているお馴染みの超能力番組がある。超能力捜査を行う番組だ。

 これは、超能力(または霊能力)を使って、未解決事件の犯人や、被害者の遺体の場所を見つけようとするものである。

 

・しかし、その期待は最後に裏切られてしまう。結局、番組内で犯人が捕まることはないからである。遺体の発見も後述する唯一の事例を除けば、あとはことごとく失敗している。

 こうした残念な結果に終わるにもかかわらず、超能力捜査番組は40年以上もわたって続けられてきた。

 一体なぜだろうか? それは超能力捜査の実態が隠されているからだと考えられる。

 

超能力捜査の実態①

架空の肩書き

・実際、前出の日本テレビの番組『FBI超能力捜査官』によく出演していたジョー・マクモニーグルや、ナンシー・マイヤー、ジョン・オリバーといった人たちは、決して本国ではその肩書きを使わない。アメリカで使えば、すぐに嘘がバレてしまうからだろう。

 

・文字にして注意して見るとわかるが、ナレーションでは「FBIに所属する」とは一言も言っていない。誰かに「FBI超能力捜査官」と呼ばれているというだけだ。

 

超能力捜査の実態②

嘘や誇張が多い実績

・そんな中岡俊哉が、捜索が失敗したときのための“保険”としてつくることにしたのが実績紹介のパートである。番組に登場する自称超能力者が自国でいかに優れた「実績」を持つか紹介しておくことで、もし結果が失敗に終わっても、印象が悪くならずに済むと考えたのである。

 しかし、そうした「実績」にも嘘も多い。

 

20世紀最高のサイコメトラーと呼ばれたジェラール・クロワゼ

・一人目はオランダの自称超能力者ジェラール・クロワゼ彼は物に触れることによって関連する人物や出来事、由来などを読み取る「サイコメトリー」という能力を使えると称するサイコメトラーとも呼ばれていた。

 

・たとえば、オランダ東部の町ヴィールデンで帰宅途中の女性がハンマーで襲われた事件がある。この事件でクロワゼは警察から依頼されて協力し、現場に残されたハンマーを手に取っただけで、犯人の特徴をズバリと言い当てたとされていた。

 ところが実際は、警察はクロワゼに依頼などしておらず、犯人の特徴もすべて外し、何の役にも立っていなかった。

 

地球の裏側を見る最強の千里眼と呼ばれたジョー・マクモニーグル

・二人目はアメリカの自称超能力者ジョー・マクモニーグル。彼は遠くのものを透視する、遠隔透視(日本では千里眼ともいう)が得意だとされた。日本の番組には、2002年3月2日から2008年4月8日まで、全部で15回放送された日本テレビの番組『FBI超能力捜査官』シリーズにすべて出演。同シリーズの顔と言える存在だった。

 

・そんなマクモニーグルの海外での実績としてよく紹介されていたのは、1979年11月4日にイランで起きたアメリカ大使館人質事件と、1981年12月17日にイタリアで起きたドジャー准将誘拐事件である。これらはマクモニーグルの透視によって人質やドジャー准将が救出できて、解決したという。

 しかし、どちらも事実は違った。そもそもアメリカ大使館人質事件では特殊部隊による人質の救出作戦が失敗に終わっており、人質全員がイラン側によって解放されるまで444日も要している。

 ドジャー准将誘拐事件の方は、マクモニーグル自身が雑誌『ボーダーランド』のインタビューで、自身の情報は「結局使われずじまい」だったと答えている。

 

このように自称超能力者の「実績」とされるものには嘘や誇張が多く含まれている。しかし、残念ながらそうしたことが視聴者に知られることはない。そのため、実像とはかけ離れた「難事件を透視によって解決に導いてきた超能力者」というイメージが流布されてしまうのである。

 

超能力捜査の実態③

事前に入手可能な情報はよく当たる

・架空の肩書と実績で「超能力者」を演出したあとに続くのは、日本の事件に関する透視だ。

 こうした透視の場合、事前に入手可能な情報はよく当たるという特徴がある。

 

超能力捜査の実態④

解決できない本当の事件

クロワゼの成功した透視とされるものが、事前に入手された情報である可能性については先述のとおりだ。

 けれども、警察が事件を解決する前に有力情報を得られるなどということは、そう簡単には起きない。有力情報を得られないとどうなるのか。

 超能力捜査では事件が解決できなくなってしまうのである。

 

このようにジョー・マクモニーグルも、実際は難事件をひとつも解決できていない。しかし、こうした残念な結果は、視聴者に直接伝わらないように工夫されている

 番組内で解決に至らなくても、次のようなナレーションが流れ、フォローされるのだ。

「透視結果のイラストに符合するエリアがいくつか存在する。そのため我々は現在、慎重に調査を進めている」

「〇〇(透視した場所)にいる可能性は否定できない。我々は今後も調査を続けていく」

 このように言っておけば、今すぐは無理でも、いずれ解決するかもしれないと思わせることができる。

 こうした誤魔化しの手法は昔から行われていた。

 

延命する超能力捜査番組

・さて、以上のように、超能力捜査番組では様々な嘘があったり、演出がほどこされたりしている。ほかにも本稿では詳しく触れられなかったが、警察などが事件を解決したあとになって、実は犯人を透視していたのだ、と後出して成功を印象づける手法もたびたび行われている。

 しかし、それらも検証してみると、本稿で示したものと同様に、嘘や誇張だらけであることが判明する。

 だが残念なことに、そうした情報が超能力捜査の番組内で扱われることはない。その結果、実際とは違う「難事件を解決する超能力者」のイメージは流布され続け、番組も延命することになる。

 

・今後は、こうした路線が続くのか、それともまた元に戻るのか。いずれにせよ筆者が望むのは、被害者やその遺族の無念を晴らし、本当に難事件を解決できる「超能力者」の登場である。嘘や誇張や後出し、演出は必要ない、そうした人物が早く現れてほしいものである。

 

大本事件――終末論を唱えた大本は徹底的に弾圧された 長山靖生

出口なおの情緒的な言葉が政治的に先鋭化された

大本事件は戦前に起きた宗教弾圧の中で最も規模が大きく、徹底的なものだったといわれている。

 出口なおが創始した大本教は、なおの娘・すみが二代教主となり、婿の王仁三郎は教主補となったが、彼によって教義は飛躍的に体系化され、軍部や富裕層、さらには皇室関係者にまで勢力を伸ばした。

 

王仁三郎は出口なおの御筆先に解釈を与える審神者の役を担い、イデオローグとしての手腕を発揮した。かれによって、なおのいう「艮(うしとら)の金神」は、「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」と同定された。国常立尊は『日本書紀』本文では最初に現れた神とされ、『古事記』では天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」ら原初三神、別天津神(ことあまつかみ)二神に続く神代七代の最初の神とされ、天照大神より古い天祖であり、吉田神道では天之御中主神と同格とされ宇宙の根源の神と位置づけられた存在だった。大本内部では、国常立尊こそが本当の国祖神であり、高天原を支配していたが、その統治を不満に思う神々により鬼門(艮の方角)に封印されていたが、時至って復活するとの説が唱えられたという。

 

第一次大本事件が起きたのは、社会主義など「危険思想」取り締まり強化の一環としてだった。1919年にはヴェルサイユ講和条件が調印され、日本は世界の五大強国に数えられたものの、国内には「帝国の発展」を実感できない大衆の不満が鬱積していた。この時期には、普通選挙運動や労働組合設立、同盟罷業(ストライキ)が急増するなど、10年に幸徳秋水社会主義者無政府主義者が逮捕され死刑となった大逆事件以降、鳴りを潜めていた思想運動が活発化していた。20年には日本初のメーデーが断行されている。政府は「危険思想」に目を光らせていたが、王仁三郎が「大本神歌」で唱える「現今の成金中毒黄金万能主義は人面獣心の基」「誅求苛税また是亡国的破滅の基」などの文言は、それだけみると社会主義者の主張と区別がつかない。

 

軍部皇道派や在野右翼に大きく食い込んだ王仁三郎

1921年2月、「皇道大本」と称するようになっていた教団に、不敬罪と新聞紙法違反の咎で司直の手が入った。もし武器が見つかれば内乱予備罪を適用することも視野に入れて、徹底した捜査が行われたが、そちらは空振りに終わった。

 

・1935年12月8日、警官隊約500人が綾部と亀岡の大本本部に踏み込んだ。第二次大本事件である。

 

特高による取り調べは共産党一斉検挙時並みに苛烈で、起訴された61人中16人は死亡したという。また第二次大本事件では、『霊界物語』などの布教書籍は発禁処分、大本には解散命令が発せられた。

 

政府はなぜこれほどの弾圧を加えたか

・審議は大審院に持ち込まれた。しかし東京大空襲によって関係記録の多くが焼失、また敗戦によって日本はGHQの占領下におかれることとなり、45年9月8日に検察・教団双方が控訴を棄却して原審が確定した。ただし10月17日、敗戦による大赦不敬罪は解消、さらに47年10月には警報が改正され不敬罪そのものが消滅した。

 政府はなぜ、大本にこれほどの弾圧を加えたのか。

 

・終末論――特に「今がその終末の時だ」と唱える宗教は、いつの時代にも政権と対立することになる。それは体制批判の言葉でもあるからだ。

 

オカルトと民俗学――その困難な関係性  廣田龍平

オカルト研究するなら民俗学、か?

・オカルトの文化的な意味を探ろうとするとき、宗教学や文学研究、社会学などと並び、民俗学が挙げられることは多い。「妖怪」や「呪い」「異界」などは言うまでもない。

 

山口敏太郎氏による解釈の背景にあるのは、妖怪とは零落した神であるという。民俗学の仮説である。この「零落説」は、日本民俗学創始者である柳田國男が提唱したもので、近現代にまで伝承されている妖怪は、かつての神々の成れの果て――という仮説だ。

 

・零落説は、1970年代終わりに小松和彦によって批判されるまで、民俗学においてはほとんど確定した事実のようなものとして取り扱われていた。

 

現在の民俗学におけるオカルト研究

口承文芸に軸足がありつつオカルトも意識する中堅としては、都市伝説研究を中心として、飯倉義之氏や野村典彦氏なども挙げられる。また若手世代では、幽霊やUFOに取り組む大島清昭氏や、宗教学に近い立場から「イタコ」や「秘境」の表象を見直す大道春香氏などを含められるだろう。著者自身は、妖怪や都市伝説の存在論的位置づけを明らかにしようと試みている。

 

民俗学のオカルトへの関わり

・オカルトと民俗学の関わりという点から見ると、もっとも関係が深かったのは、創始者柳田國男だったかもしれない。彼は「経世済民」を主要な目的にして民俗学を構築したのだが、その背後には、生涯にわたって霊的・神的なものへの関心が潜んでいた。最初期の文章では、「幽冥界」(死者・神々・妖怪の領域)の実在を信じようとしていた彼の姿を垣間見ることができるのである。

 柳田國男を一躍有名にした『遠野物語』もまた、「隠された世界」に焦点を当てていた。

 

・特に大正末・昭和初期、柳田國男は、都市の心霊主義者たちから距離を取りつつ、彼らの紹介する事例を民俗学に組み入れることを試みた。たとえば山中の異人たちを描き出す『山の人生』では、神道霊学者・友清歓真の団体「神道天行居」の出版物を引用したり大本教の信者であった岡田建文と交流して、彼が収集した動物にまつわる怪異を、『山の人生』と同じ郷土研究社から出版したりしたのである。

 

・だが民俗学は、1970年代以降増えていったオカルト的事例をうまく取り入れることができなかった。たとえば、民俗学者が日本人の霊魂観を論じるとき、心霊写真や霊能力が事例として取り上げられることはなく、また庶民がイメージする宇宙論を分析するためにUFOが参照されることもなかった。

 とはいえ、民俗学者が全面的に新しいオカルト的なものを避けてきたわけではない。

 

民俗学とオカルト

民俗学自体にとって問題なのは、「高度経済成長を経て、民俗事象のオカルト的受容という現象が顕著になっており、それにどう対処していくかが現在の民俗学の重要な課題である」はずなのに、ほとんど取り組まれていないことである。

 

幸福の科学の「霊言」はどこまで突っ走るのか   藤倉善郎

存命の人物や宇宙人の霊言まで連発

大川隆法総裁は、大学卒業間際の1981年に「イイシラセ イイシラセ」という霊界からのメッセージを受信。以降、霊を呼び出して自分の口を通じて話す霊言ができるようになったとして、86年に幸福の科学を設立し、91年に宗教法人として認証された。

 大川総裁日蓮イエス・キリスト仏陀、モーゼなどの霊言を発表したほか、GLAの教祖・高橋信次や成長の家の教祖・谷口雅春といった日本の他の宗教の教祖の霊言も発表。それぞれの信者も取り込んでいった。

 

・91年、大川総裁は自らを地球至高神「エル・カンターレ」であり仏陀の生まれ変わりであるとする「エル・カンターレ宣言」を行う。

 

幸福の科学の教義では、人間にはそれぞれ、肉体に入っている霊と5人の守護霊をあわせた6人1組の「魂の兄弟」がついている。肉体が死んで生まれ変わるとき、魂の兄弟のうちの1人が肉体に入り、残り5人が守護霊としてそれを見守る。肉体担当は6人の魂による当番制なのだ。

 生きている人間の霊言は、肉体を担当していない非番の5人(守護霊)のどれかを呼び出す。厳密には肉体本人の霊ではないが、大川隆法総裁は守護霊でも本人の考えと「99%同じ」だと語っている。

 生きている人間の肉体から魂を引っ張り出してしまうわけではないので、霊言を収録している最中でも、その人の肉体はいつもどおり活動を続けることができる。

 

他人を誹謗中傷するツールとしても活用

幸福の科学出版のウェブサイトに掲載されている大川総裁の著作は807冊(19年2月15日時点)。うち6割以上にあたる497冊を、霊言書籍が占める。存命中の人物の霊言を含んだものは181冊もあった。

 

・無軌道な進化を遂げ暴走を続ける霊言だが、100冊発刊された14年をピークとして、翌15年には半減して41冊に。18年は26冊だった。

 ピーク時に比べると寂しい冊数だが、それでもなお1か月あたり2冊のペースで発刊されている。もはや、誰もこれを止めることはできないのか。

 

テレビ、喫茶店、世界の終わり。日本のコンタクティー・ムーブメントと想像力   秋月朗芳

・「ああ……ラミューさん。お茶でも飲みませんか」

 中野さんが何気なくそう言うと、後は軽くうなずいた。

 2人はそのまま近くの喫茶店へ。中に入ると混んでいたが、かまわずあいている席を見つけて向かい合わせに座った。

「レモンスカッシュを下さい!」

 ラミュー氏は座るとすぐに店の人に声をかけた。

「ぼくも……」中野さんもあわてて同じものを注文する。

 

・コンタクティー・ムーブメントの発端はジョージ・アダムスキーがメディアに登場したことによって始まった。それは1953年の『Flying Saucers Have landed』(空飛ぶ円盤実見記、1954年、高文社刊)が出版された日だ。この本で、金星人とコンタクトしたことを告白したアダムスキーは一躍人気者になり、数えきれないほどの追従者を国内外に生みだした。

 

テレビ

永井勉/1958年、群馬県吾妻郡

人間ですから似るのが当然です

・1958年3月26日、社用で群馬県の吾妻郡を訪れていた永井勉氏が、社用をすませて釣りをしていたところ、家屋の上に浮かんでいる空飛ぶ円盤を目撃した。呆然と眺めていると、やがて意識が朦朧としてくるのを感じ、気がつくとその円盤の中にいたという。そして、隣には宇宙人らしき者が座っていた。

 そこで永井氏が質問して宇宙人が答えるという会話がなされるのだが、唐突に宇宙人がこう切り出す。「降りてみましょうか?」

 すると二人はいつの間にか童話劇らしきものが上演されている劇場の中にいて、永井氏はその出演者に自分そっくりの人物がいるのを見つけて驚いた。そのことを宇宙人に話すと彼はこう答えた。

「人間ですから似るのが当然です」

 

 これは文学者でありUFO関係の著書も多い平野威馬雄が編纂した『それでも円盤は飛ぶ!』に掲載された手記の要約である。

 

山崎真二(仮名)/1976年 東京近郊

UFOは映像伝達システム>

・東京近郊に住む山崎真二(仮名)さんは、1976年のユリ・ゲラー来日を機にスプーン曲げができるようになり、1976年の高校1年になったばかりの頃、奇妙な文字を脳裏に見るようになる。そして、その年の6月、東京近郊の街中で「レミンダー」と名乗るビジネスマン風の宇宙人と喫茶店でコンタクトを果たす。宇宙人は、UFOが映像伝達システムであると語り、地球人がこのまま核エネルギーを使い続けると、海底に沈んだアトランティスのようになると警告した。

 

・彼の話でテレビとの接点を感じたのは、UFOが映像伝達システムだと宇宙人が語っている点だ。それは「サムジーラ」と呼ばれるシステムで、映像化した情報をテレパシーによって地球の担当者に送っているのだという。

 それまでのコンタクト体験にありがちな、宇宙人がマンツーマンでメッセージを伝えるという効率の悪い方法から、UFOから映像を複数の人に配信するという進歩を果たしている。そしてテレパシーを電波に置き換えれば、そのシステムはほとんどテレビと変わりないようにも思える。

 

茶店

・先の話でもう一つ気になるのは、彼が喫茶店で宇宙人とコンタクトしている点だ。今でこそ、このようなシチュエーションは相当のミスマッチを感じるが、喫茶店でコンタクトしたという話はこれだけではない。

 

中野さん(仮名)/1972年、札幌

レモンスカッシュをください!

・札幌市に住んでいた中野さんは1977年頃にアダムスキー型円盤と巨大な葉巻型母船を目撃する。またその数日後には自衛隊のヘリコプターを追うように飛行する三角型UFOを目撃する。その後も同様の目撃を経験し、ついにラミューと名乗る宇宙人とコンタクトすることになる。

 それはいつものUFO観測をしている最中、いつのまにか立っていた宇宙人ラミュー氏が、中野さんにドーナッツ型の金属を手渡し、その場から走り去ったというのだ。その後、中野さんはスプーン曲げができるようになり、さらにはテレポーテーション能力まで備わり、月や冥王星にまでテレポートしたと語っている。

 その翌年のある日、音のしないジェット機のようなUFOが実家近くの田んぼに着陸し、中野さんは搭乗をゆるされることになる。中にはタコのような生物とラミュー氏がいて、そこで様々な会話が交わされたという。

 このような出来事の後になされるのが、『UFOと宇宙』誌(1978年2月号)の記事「札幌市で異星人との驚異的なコンタクト発生!」より冒頭に引用した喫茶店でのコンタクト・シーンである。

 喫茶店で宇宙人が力強くレモンスカッシュを注文していることが何を意味するのかはわからないが、このときラミュー氏は、地球人の悪い想念で地球が太陽にのみこまれることを中野さんに話している。

 

世界の終わり

・超常現象情報研究センター(一般社団法人潜在科学研究所)の羽仁礼氏が調べたところによると、日本人のコンタクティー第1号は、1958年1月に「宇宙人とテレパシーでコンタクトしている」と名乗り出た酒井克己氏ではないかという。

 

松村雄亮/1958年、神奈川県(野毛)

CBAの松村は、1960年から地球の地軸の移動(ポールシフト)によって大洪水によるカタストロフ(大惨事)がおきるという終末論を主張している。それは松村雄亮が翻訳したスタンフォード兄弟の『地軸は傾く?』に記されていたことであったが、後にCBAはそれを宇宙人に直接確認したとしている。そして、その時選ばれた会員には「リンゴ送れ、C(カタストロフ)」というメッセージが届けられUFOに救済されると説き、CBAをカルト集団的なイメージを世の人々に与える状態へと導いた。このことによって日本のUFOに関心を持つ人たちの間に大きな波紋を巻き起こしている。

 

茶店から「世界の終わり」へと繋がってしまう飛躍が、このムーブメントのひとつの特徴であり面白さとも言えるだろう

 そしてこの松村雄亮も喫茶店で宇宙人とコンタクトしており、その様子が平野威馬雄の『宇宙人についてのマジメな話』(1974年、平安書店)に描かれている。

 

 そこで、二人は野毛の「ヨテアモ」という喫茶店で相対して坐った。北欧系のある種の神秘をたたえた美しい顔からは、終始微笑が消えなかった………年の頃は21、2歳であろうか………ワンピースの上に首からさげた直径5センチほどの装飾品が絶えず七色に光り輝いていた。

 ここで彼女は、自分は最近日本へ配属された宇宙人であること、現在横浜に三人、東京に四人の宇宙人が来ていること、キャップは東京にいることなど打ち明け、あなたは東京のキャップに会うようになるだろうといった。この時二人はコーヒーを注文したが、彼女はコーヒーに入れるべきミルクをコップの水についで飲み、コーヒーには手をつけなかった。

 

 この引用にある「水ミルク」も、食事の食べ方を知らなかったというようなMIBの奇妙な行動との共通点があり、かなり気になるところだが、紙面は残り少ない。

 

最後に

・コンタクティー・ムーブメントは80年代を過ぎると、ここで紹介した70年代までのケースのように宇宙人と物理的なコンタクトを果たしたという事例は少なくなる。

 

・こうして多くのコンタクティーが登場したムーブメントも、年々リアリティを薄めていき、日本だけでなく世界的にも縮小傾向にあるように見える。代わりに例えばダリル・アンカのバシャールとのチャネリングによるコンタクトのように、精神的なコンタクトと、ワクワクしていれば人生うまくいくというようなメッセージが主流となる。

 

・MIBとは、UFOを目撃した人々のもとを訪れ、その事実を口止めしてまわっているとされる「全身黒ずくめの服装をした男たち」(Men In Black/メン・イン・ブラック)のことである。ヒットした同名映画のように政府の秘密組織のエージェントの解釈もあるが、1968年米国ミネソタ州のオワトナでのUFO目撃騒ぎのおり、ラルフ・バトラー夫人のもとを訪れたというMIBのように、その範疇におさまりきらないケースも多い。

 そのMIBは、まるで食べ方を知らないかのようにフルーツゼリーをまる呑みしようとしたというのだ。他にもボールペンを知らなかったり、男性なのにべったりと口紅をつけていたり、「エネルギーが切れてきたので帰らなければ……」といった奇妙な言葉を口走ったりと、不可解な行動が数多く報告されている。

 

・ダリル・アンカは、バシャールと名乗るオリオン座近くの惑星エササニに住む知的生命体とチャネリングという手法によってコンタクトしているとし、その内容をまとめた本を出版している。

 

 

 

『スターピープルはあなたのそばにいる   下』

アーディ・S・クラーク  明窓出版   2017/9/15

 

 

 

<ワイオミングのハイウェイでの遭遇>

・「それが頭上にやってきた時には、船体の正面の部分だけが見えて、あとの部分は見えませんでした。僕の見た感じでは、あれがフットボールの競技場の真ん中に着陸したら、ほとんど空きスペースはなくなってしまうだろうと思います。船底には赤と青のライトが並んで円形を成していました」

 

<雪上車の運転手が見たヘラジカのアブダクション

・「宇宙船の形を描写してもらえるかしら?」

「大きな円形の宇宙船でした。強大なものでした。フットボールの競技場を端から端まで覆い隠してしまうほどでした」ゼインが言いました。

 

<狩人、異星人そして猛吹雪>

・「光がまたやってきた時、木立の中で何かが動くのが見えました。私は再び呼びかけました。すると突然、不思議な存在が私の傍らに姿を見せたんです。彼は怖がらないようにと私に語りかけ、『あなたを助けてあげましょう』と言いました」

「その存在の姿を描写できますか?」

「暗くて雪が降っていたので、特徴をとらえるのは無理でしたが、体の輪郭の緑の周りが不思議な輝きを帯びている人間のような姿が見えました。彼は両手を私の足首を包むようにあてがいました。すると、とてつもない熱が私の足先から足首そして脚全体へと突き抜けました。急に私は忘我の状態になりました。痛みは消え去っていましたが、同時に自分の意識が薄れていくように感じていました」

 

・「私は気を失ってしまったに違いありません。なぜなら、気がついた時には、自分の小型トラックのある場所に戻っていたからです。足首はもはや骨折した状態ではありませんでした。完全に治されていたんです。私はピーナッツの姿を探しました。彼は馬用のトレーラーの傍にいました。そのとき私は宇宙船を目にしたんです」

 

<新たなるフラットウッズ・モンスター?>

・1952年、ウェストバージニア州ガサウェイの町に、炎に包まれた物体が落下していくのを見たという目撃報告が寄せられました。それからしばらくして、近くのフラットウッズという町で、ある生き物が目撃され、それは後にフラットウッズ・モンスターとして広く知られるようになりました。その生物は数人が目撃しており、おおまかな特徴として、背丈は少なくとも3メートルはあり、顔は内側から輝くような赤色で、体は緑色だったといいます。

 

・この章では、宇宙から来たモンスターと遭遇したというある年長者が登場しますが、彼は自分の見たものは、フラットウッズ・モンスターと同じではないと主張しています。

 

・「彼らは人間というよりも大きなトカゲのようでした。その皮膚は鱗に覆われていて、緑がかった茶色をしていました。背丈は183センチほどで、ひどい悪臭がしました。彼らは私に危害を加えるつもりはなく、すぐに立ち去るつもりだと伝えてきました。彼らは船体の摩耗をチェックしていたんです」

 

・「さっきも言いましたが、彼らはトカゲみたいな姿をしていました。大きな頭部をしていて、しっぽもあったと思います。それはほぼ確かです。なぜかというと、かれらは立った姿勢のままグルリと回ることができたからです。彼らの両腕は人間のように垂れ下がってはいませんでした。我々のような腕の動かし方はしていなかったんです」

 

・「モンスターが何匹いたかってことですか?彼らは我々が思い浮かべるような異星人じゃありませんでした。ET(地球外生命体)ってやつですよ。人間とは違う生き物で、動物みたいものです。トカゲみたいな、大きな昆虫みたいなものです。全部で4匹いました。そのうちの3匹が作業をしていて、1匹が見張り番でした」

 

・「彼らに銃口を向けたまま、そこに立っていました。すると彼らは突然に宇宙船に乗って去っていきました。宇宙船が上昇し夜空に消えていくさまを私は見ていました。おかしな話なんですが、まるで空の切れ込みがパカッと開いて、そこに宇宙船が入って、スッと閉じたように見えました」