日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。

沖縄では、仮面・仮装の来訪神は海の彼方の海上にある「ニライ・カナイ」から来ると信じられているが、来訪神は地下の他界から出現すると信じている地域もある。(3)

 

抜け出す魂、あの世への道

<あの世への道>

夢の交流、死者からのサイン

・1994年、不思議な夢の話を聞いた。二人の人の夢が交わっている例である。こうした例はほかにもあり、『現代民話考』にも収めたが、臨死体験によく出てくる花野や川などを共有したこの話は、珍しいように思う。

 話してくれたのは、群馬県妙義山の麓の村に住む、土屋光子さんという友人である

「私、今までこうした話を聞いても、どこかでそんな馬鹿な、と思っていたんです。でも自分に、起こったんです」

 病み上がりだから、ただでさえかぼそい光子さんの声は、細く、ふるえるように電話の奥から伝わってきた。奄美へいっしょに旅をしようと行っていたのに、クモ膜下出血で倒れ、その日のうちに手術、いのちをとりとめた。それが1994年3月15日のことだった。脳の手術をするとショックで血管が細くなり、後遺症がおこりやすくなる……とかで、2週間は薬でとろとろと眠らせるのだという。光子さんはそのまま眠りの世界に入った。

 気がつくと草原に立っていました。花が咲き乱れて湖が見えるんです。野反湖だなと思いました。ところで、湖のむこうに亡くなった母親がいる。伯父や伯母もいる。なんで亡くなった人がいるんだろうと思いました。でも、だまっていて、ものも言わないんです。

 横を見ると、知り合いの五十嵐さんが、御主人や3人の子供さんと来ていました。「何でここにいいるの」と訊くと「山を見にきたのよ」って五十嵐さんがいって、ふうっと目が覚めました。3月28日、主人が呼びかけてくれて、はじめて私、「はーい」ってかすかに答えたんです

って。4月8日、あなたが倒れたってこと、ちっともしらなかった、といって五十嵐さんが見舞いにきました。

「そういえばあなたの夢を見たのよ。野反湖へ主人と子供と行ったの。そうしたらそこにあなたがいて、両手を目にあてて、目が痛くて困るのっていっている夢なの」

 たしか3月の末、28日ごろと思うと五十嵐さんは言ったという。

 

夢で死を知らせる話は数え切れない。ことに戦死を知らせる夢は多く、胸を打つ。

 昭和17年(1942)頃のこと、海で知り合った外語大の三郎さんが中国へ出征した。ある日夢枕に立って「ぼく戦死したよ」と告げた。学生服を着ていた。その後三郎さんの戦死の知らせを聞いた。

 これは私の友人の話である。戦時中というのに海やスキーにも行き、華やかな人で、三郎さんの話はよく聞かされた。その人からの死の知らせだった。

 

昭和20年8月9日の前夜、近藤えい子さんは、長崎師範の学生寮にいる長男が、ぞうりをはいて家へ帰ってきて、別れのあいさつをする姿を夢うつつに見た。目が覚めて、あまりにもまざまざとした姿に不思議に思ったが、そのあとすぐ、長男は原爆にあって死んだのである。これは教育者として高名な国分一太郎氏が現代民話のためにと下さった話である。

 死者からの夢知らせは数え切れないが、死んで生まれた子の墓が陥没している夢をみた若い母親が、墓の近くに住む自分の両親に電話をした。「いや実は、ほんとに陥没していてね、どうにかしなくてはと思っていた」という。四国のそのあたりではまだ土葬なのでお棺が朽ちると土地が陥没したりするという。生まれると同時に死んだ子からの夢の知らせでしたと、私を空港に送る車の中で、若い母親が話してくれたのである。

 

<夢と死>

・夢と死、抜け出した魂と火の玉、そしてあの世への道は切っても切り離せぬつながりがあり、『現代民話考』2巻分をようやくまとめ終わったとき、私の心に浮かんだのは能舞台であった。

 いうなれば能舞台はそのまま現世とあの世ではあるまいか。かけわたす橋懸かりは夢でないだろうか。この世という舞台があってあの世という舞台がある、というのではなく、鏡の松はそのままに、現世でありあの世であるという二重構造に私は魅せられる。もし世界が日常だけのものであったら、なんとそれは味気ないことか。日常のなかの非日常を垣間見るとき、私たちは小さな自分の体験なり知識なりだけでは推しはかることのできぬ、なにかに出合うのではないだろうか。

 

・私が「あの世に行った話」、臨死体験を集めはじめたのは、いまから20年前にもなる。そのとき、レイモンド・ムーディ博士の『かいまみた死後の世界』(評論社)を読み、日本の臨死体験との重なりに驚いた。

 臨死体験のとき、魂が体から抜け出して横たわっている自分を見下ろしている例は、ムーディ博士の記録と重なる。こうした例はたくさんあって、臨死体験で自分の姿を見ているとき、泣き崩れている祖母の頭のてっぺんにハゲがあるのを見つけた、などという笑い話もある。

 

生まれ変わり

前世を記憶する子供

・抜けだした魂、あの世への道。

 このようにたどっていくと、必然的に浮かび上がってくるのは、生まれ変わりである。

 

・1970年頃、私がようやく口が利けるようになった、2つか3つの頃のことです。その日私は母方の祖父母の家に預けられていたんですけど、ふだん、ほとんどしゃべらない、笑わない子だったというのにパーッとしゃべりだしたそうです。

「わたしはマサコだ」って。「ここは私の家じゃない。私の家はこうこう、こういう風になっていて」とマサコの生活をしゃべり始めたそうです祖父母は「この子は何を言い出したのだろう」と途方にくれて、父と母が私を迎えに来た時にこの話をしたら、父の顔色がさーっと変わって、「マサコは私の姉です」と。

 父の姉マサコは数えの5歳の時に、病気が流行ってそれで亡くなった。当時は土葬だったのに焼かなくてはならない病気だったそうです。私の父とは2つちがいの仲のいい姉弟だったそうです。

 

・日本の転生譚で知られるのは武蔵国多摩郡の勝五郎譚で、松浦静山の『甲子夜話』に収められ、平田篤胤による「勝五郎再生記聞」、近くは小泉八雲が「勝五郎の転生」を書いている。文政6年(1823)4月12日付で公式な届出文書が出されているというから、単なる作り話ではない。

 勝五郎は文政12年(1815)10月10日に中野村百姓源蔵の子として生まれた。文政5年、数え8つのとき兄や姉に「もとはどこの誰の子か」と問うた。生まれる前のことは知らないというと勝五郎は、自分はよく知っている。もとは程窪村の久兵衛の子で藤蔵というんだ、そういった。

 姉が怪しんで両親に話そうとすると、泣いていやがった。しかし遂に両親の知るところとなり、生まれた所在、父母の名、父の死後継父がきたこと。6つで死んだこと。棺桶に入れられるとき魂は外に抜け出して、その後は家の机の上にいたこと。やがて白髪の老人に連れられ中野村の現在の家に生まれたことを話した。

 翌文政6年、母親は勝五郎を伴って前世の在所である程窪村を訪れた。勝五郎は母親を案内して生家へ着いたが、家のたたずまいや樹木の様子はまったくその通りで、養父半四郎に会ってみると、話はすべて符合した。

 

幽霊

幽霊はどこからくるのか

現代の民話を集める中で、圧倒的に多いのが死者からのサインであり、異次元の世界であることは、すでに述べた例によってもご諒解いただけるかと思う

 その中で、古くより私どもに親しいのが幽霊である。いったい幽霊は、どこからきてどこへ帰るのか。ここで興味ある一つの意見をご紹介してみたい。

 私はすでに霊界は全宇宙より広大無辺なものであること、霊界とこの世の関係は一枚の金貨の裏表のようにぴったりくっついて切離せるものではないことなどを述べた。私はここでこの世と霊界の関係について一つの比喩をいおう。それは、この世とは霊界の広大無辺な空間の中にポッカリ浮かんでいる一つのゴムの球のようなもので、このゴムの球である自然の周囲は全て霊界で取り囲まれているということだ。――中略――ゴムの球の中にも全て霊界は、しみ込んでいるのだ。ゴムの球の中も実は霊界なのだ。ゴムの球の中以外の全ての空間は霊界なのだが、ゴムの球の中だけは、例外的に自然界と霊界の二つの世界が、同じ空間にともに存在しているのだ。

(『私は霊界を見て来た』エマニュエル・スウェデンボルグ、叢文社、1975)

 

・彼は84歳まで生きたが、後半生の約30年はすべての学問を捨てて、霊界に自由に出入りし、先に述べた大英博物館におさめられた『私は霊界を見て来た』という厖大な著述を残し、自らの死を予言、その通りに没した。カントはスウェデンボルグの能力に驚嘆して書を著わし、ゲーテの『ファウスト』は彼の生涯そのままという。

 とかく霊界の話は眉唾ものとして異端視されがちであるが、スウェデンボルグのように数百年経った今も高く評価され、また世界的な学者や芸術家に畏怖された存在があることは、心にとめたいことである。

 

死を予知する魂

・さて、山崎大佐が死を予知するかのように、玉砕の少し前、旭川へ姿を現わし、ついで、満一年、一周忌にも英霊の帰還をしたことが語られているのだが、私の『現代民話考・軍隊』の編集が校正まで仕事が進んだ時、もう1つ、「山崎大佐の英霊の帰還」が飛び込んできた。ところがこれが北海道ではなく、新潟県の高田市の東部第67部隊なのである。

 

新潟県高田市、東部第67部隊。昭和18年だったと思う。私は第2大隊第7中隊付の見習士官でした。或る日、将校集会所の中食時、週番司令と連帯副官が何か話し合っていた。しばらくたってから「先日の夜間、山崎大佐(アッツ島に行っている)が馬に乗って抜刀し、部隊を指揮して連帯の衛門に向って帰って来る。歩哨が気付いて衛兵司令に連絡した。衛兵司令が衛兵所を出て衛門を見ると、130連隊門まで百メートル位の位置に将校の指揮する部隊がこちらに向かって来るのを発見し、急いで『衛兵整列!』と号令し、週番司令に報告すると同時に、部隊は衛門に入る。ラッパ兵は『皇御国』のラッパを吹いた。週番司令が衛兵所に馳せて来たが、司令には部隊など見えない。本来であれば衛兵司令は軍法会議ものであるが……」と。どうした事か此の事は口止めとなり、あれから44年間このことは消えていた。今、この事件を知っている当時の高田歩兵隊の生存者は数える程しかいない。しかしこれは、山崎大佐が無言の凱旋をしたという事実であり、その数日後、大本営の富永参謀より、山崎大佐は2階級即特進し、軍神山崎中将となったことが発表された。(『現代民話考・軍隊』)

 

・私の友人の多田ちとせさんは、朝鮮半島の38度線を命がけで超え、引揚げてきた人である。そのとき死を予知した火の玉をみた。

 

 敗戦の翌年8月4日未明ピョンヤン平壌)の難民宿舎を脱出、38度線の稜線が見えてきたのは20日の夕方だったと思う。8度線を超える注意があり30名近い人が松の木の下へ集まった。ふとみると子供達が離れたところで丸くなって相談している。大人に置き去りにされないよう、ひもで手を結んで寝よう。いや大人は駄目だ、ひもなんかとっちゃうと真剣だった。毎日、置去りにされる姿や死体を見ているのだ。その中に4歳位の男の子が1人、仲間から離れて縄跳びをしている。何気なく見るとその子の周りを青白い火の玉が着いたり離れたりしている。

 次の朝、5度線に向って静かに歩いた。ソ連の伝令が次の見張り所まで行って戻る15分の間に超えなくてはならないそうで、子供が泣いたらその場で始末してくれ、とよくよく言われていた。ところが、8度線のふもとで、1人の子がけたたましく泣き出し、なだめても泣きやまない。周りがざわめき出し、非難の目が集まった。若い父親はいきなりその子を抱き上げ草むらに入っていった。暫くして父親は1人で帰ってきた。タオルをぶらんぶらんさせて。泣いて始末された子は、昨日の夕方、青い火の玉がまつわっていた子だった。あれはあの子の魂が死を知ってさまよい出たのであろうか。痛ましかった。   (『現代民話考・銃後』)

 

 

 

『異界からのサイン』

松谷みよ子   筑摩書房    2004/9/10

 

 

 

旧陸軍の行進

・これは亡き渋谷勲さんが自衛隊の隊員から聞いた話。実際にあったってやつから聞いたけど、と語った本人が言った。うさんくさい気もするけど同じ様な話を2、3人から聞いたから、それは本当だろうと思っている、と。富士の練習場での出来事という。新隊員は訓練のためトラックで富士へ連れてこられ、宿営の準備をして寝て、夜中、1時か2時にたたきおこされるのだそうで、「今から徒歩で25キロ歩く」って上官から命令がくだる。装備が30キロあって、それをかついで、ザッザッザッと足音が聞こえてくる。彼のいた隊は一番うしろについていた。おかしいと思って傍らについている助教、班付きの教官にきいた。

 

「あのう、うしろから足音がしますけど、別の隊があとから来るんですか」「いや、そういうことは気にせんでいいから、うしろは振り向くなよ。前に伝えろ!」って、へんだと思ったけど、自衛隊にはあるんですよ。逓伝って、うしろから前へ、伝えたりするの。それで、「うしろ振り向くなよ」って前に言うと、「うしろ振り向くなよ」「うしろ振り向くなよ」って前へ、前へ伝わっていく。

 

・ザッザッザッ、足音はせまってくる。思わず、そいつ、うしろを振り向いてしまった。と、青白い顔をした軍隊が、近付いてくる。昔の軍隊の服きて、鉄砲も長いのかついで、ザッザッザッ。それが骨が歩いてくるような、透けて見えるような、目がぽっかりと黒くあいて。ザッザッザッ。冷たい氷のような空気がただよって、とうとう、その部隊と重なって、ザッザッザッ。「ヒェー」からだを悪寒が駆けぬけて、みんないっせいに振り向いてしまった。そして、班付きの上官から全員、失神した。話をしてくれたやつは、小さいときから幽霊とか見ているので、ああ、これは霊だ、と思って、からだのなかを通りすぎていく幽霊の部隊に耐えていたという。

 

 この部隊に出会ったら、とにかく見てはいかんという。だから「うしろを見るな。前向いて歩け、歩け」って。

 

203高地からの死の知らせ

・群馬の土屋光子さんが幼い日、祖母からくり返し、聞かされた話という。

日露戦争の開戦は、1904(明治37)年2月10日。旅順総攻撃3回目にして、12月6日、203高地を占領した。日本軍の死傷1万6935人、激戦だった。

 光子さんの祖父は当時、出征していた。留守を守っていた祖母がある夜、ドーン、というすさまじい音に飛びおきた。つづいて、ドサドサ、ザラザラと、砂利のようなものが雪崩れ落ちてくるような音がつづき、やがて消えた。それっきり、しん、とした。闇の中に光子さんの祖母は座っていた。何かが起こったと考じた。203高地占領の日だった。

 

・ある日、夫の戦友という人が訪ねてきた。光子さんの祖母は、その人によって夫の最後の有様を聞いた。

 203高地の積んであった石垣が攻防戦のさなか、ドーンと崩れ落ちたという。石は光子さんの祖父に直撃、雪崩れ落ちた砂利に埋まった。

 

戦友は僅かの差で命を拾い、祖父を土砂の下から引きだした。「しっかりしろ、妻子のことを忘れるな」とさけんで励ましたという。しかし、ボコボコと音をたてて鼻血を流し、祖父は息絶えた。

 

「その時刻がね、私がドーンという音、ガラガラという音を聞いた時刻と、まったく同じだったんだよ。ふしぎなこともあるもんだ」祖母はくり返し、孫の光子さんに語ったという。夫の死の知らせは、海をへだてて妻のもとへと届いたのだった。

 

ガダルカナルではナィ

・ガナルカナルではナィ、死ぬるとき天皇陛下ばんざいなんて、言わなかったってよ。食べる物なくてさあ、みんな飢えて飢えて、自然に弱って立てなくなるんだってね。

そしてナィ、まだ死んでいねえのに、ハエがよう、こう出たり入ったりたかるから、まず目ん玉からうじ虫が、コロコロ、コロコロ出てくんだって。そのうちからだじゅうに、コロコロ、コロコロ。

 

・ほして、いま死ぬってとき、どんな力でほんな持ち上がるんだが、その腐れかかったからだで立ち上がって、「隊長どの、只今内地から姉が迎えに来ました。帰っていいでありますか」って言うんだと。

隊長も判っててねぇ、「よし、帰れ」って言うとさあ、バタッって倒れて死ぬんだって。生きている人でねえんだよ。死んだ姉ちゃんとか婆ちゃんとかが、迎えに来るんだって、

 福島県国見町の田中ハツさんに根岸真理子さんが聞いた話である。

 

中学生の声が聞こえる

・戦争中は中学生も少年防衛隊として軍に集められた。沖縄の女学生がひめゆり部隊として動員されたのと同じである。最後にはみんな自決させられた。

 戦後その中学生を祀った<白虎隊の碑>というのが山の上に建てられた。夕方など、その碑の下を通ると、今でも大勢の中学生の声が聞こえるという。座間味島の松下トシさんの話である。

 

ひめゆりの女学生たちが

ひめゆりの塔のあたりに、月夜になるとたくさんの女学生たちが集まって、歌をうたいながら髪をとかしているんです。何の歌か判らないけれど、もんぺの女学生で死んでいったひめゆり部隊の女学生が……。

伊芸弘子さんが糸満で聞いた話、たくさんの人が見ているという。

 

 

 

『天国の真実』

マシューが教えてくれる天国の生活

ナチュラル・スピリット   2006年10月10日

 

 

 

 ニルヴァーナ(涅槃・天国)評議会

 ニルヴァーナ評議会は、天国の統治体

・(マシュー)最も尊敬される賢明な魂だけが評議員として検討される。彼らの経歴はさまざまだが、専門や学術的知識よりも知恵がその地位に就くのに最も大切な基準となる。たいていの場合、評議員たちは地球に何度も転生しているが、必ずしも地球での経験に留まるわけではない。

 

評議員は男女、そして両性具有の魂の代表だ。

 

グレート・マスターは、住人でもなければ、体も持たない。彼らの強力なエネルギーは、この太陽系一体から、リラ、シリウス、プレアデスといった地球文明の発展に緊急に関連する星系に瞬間的に移動できるんだ。

 

・たとえば、地球での大量死など、評議会が注目すべき大きな動きがあるときは定期会合はない。

 

・ここでは、もし指導者と住人の間に何かトラブルがあったとしても、本当に統治するのは大衆の意思であって、指導者の意思ではない。それは共和制の土台に則り、選出やリコールが即座にできるんだ。評議員は自信をもって投票する広範な人たちによって選出され、同じようにリコールも起こりうる。

 

・評議会は、この領域にあるいは地球の愛する魂たちに影響を及ぼすすべての事柄を管轄している。

 

評議員の服装は白いローブに金色の紐帯だよ。服装だけを見れば、ここにいる普通の住人と変わりない。

 

 未知の宇宙で絶え間なく続いている戦い

・地球を例外として、僕らに影響を及ぼすすべての領域の統治体とやりとりし合うんだ。地球に関しては、評議会は天使界や霊界の地球外生命体、そしてこの宇宙規模的な大変化の時期にライトワーカー(光の使者)として、地球を援助している人たちや、人間界の上にある文明とやりとりしている。

 

 

 

『ほんとうは怖い沖縄』

仲村清司    新潮社      2012/6/27

 

 

 

ユタ

・すでにふれたように、沖縄には霊能者的な能力をもつ人がわんさといる。そのなかでも自らのパワーを生業としている人をユタという。9割以上は女性。女は男よりも神に近い存在とされる沖縄では、地域の神事や祭祀を司るのは女性で、祭りのときはいまでも女が神官をつとめる。ユタのほとんどが女性というのも、こうした女性上位の信仰土壌があるからに違いない。

 

・彼女たちの主な役割は霊界と交信し、あの世の人たちの要求を聞き、子孫に伝えること。いわゆる心霊判断のたぐいで、先祖供養、結婚・離婚・引っ越し・将来などの見立て、体調や病気などの悩み事の相談、除霊、お祓い、祈祷などもやってのけたりする。内地でいうところの拝み屋のような存在だが、沖縄はその人数がケタガズレに多い。

 

 沖縄県の人口は約139万人。そのうちユタは3000人から1万人もいるとされている。数字にばらつきがあるのは、彼女たちの多くがクチコミ的な存在で、誰がユタなのかといった情報がほとんど表に出ないからだ。そのあたりも奇っ怪ではあるが、ともあれ、沖縄の場合、単位面積あたりの職業霊能者の割合はダントツで日本一になるに違いない。

 

・さすが霊能王国・沖縄ですな。こういうことを生真面目に調査した本があって、その名もずばり『なぜユタを信じるか』(月刊沖縄社刊・友寄隆静著)。書店で見つけたときは思わず「わっ!」と叫んでしまったものだが、この本のなかに「ユタの言うことは何パーセントくらい当たると思いますか?」というアンケート結果が掲載されているのだ。

 それによると20代の平均が71%、30代で62%、40代で67%、50代以上が43%で、これらを平均するとユタの宣託が65%もの高率で当たるとの結果になっているのだ。

 

 こうなるとユタを頼る人が多いのも当然で、沖縄では頻繁にユタの宣託を受ける人のことを「ユタ買い」と呼んでいる。謝礼の相場は5000円~1万円だが、なかにはより当たるユタを探しまわっては判示してもらうユタハンティングのような人がいるとも聞く。

 

・そもそもユタは霊的ステージの高い人が「カンダーリ」という状態を経て、その特殊な能力を得るとされる。カンダーリとは「神ダーリ」、神がかった状態で、その方面の人たちの言葉をそのまま拝借すれば神霊の憑依をうけたり、霊にひきずり回されたりする様をいう。この状態の最中は心身ともに苦しく、激しい鬱や脱力感、ノイローゼ、頭痛、不眠、極度の食欲不振、嘔吐などの症状が現れ、人によってはその状態が数年続くこともあるという。

 

米兵の幽霊

沖縄は超常現象や幽霊などの話が掃いて捨てるほどある土地だが、なかでも戦争で亡くなった人たちにまつわる話は群を抜いて多い。いうまでもなく、先の大戦でこの地が日本国内における最大規模の激戦地になったからで、戦争で命を落とした人たちが成仏できずに帰る場所を探してさまよっている――というたぐいの話がこの島々にはどこにでもある。

 

従軍した米国人記者はこの沖縄戦を「醜さの極致」と表現したが、前述した戦没者数を知れば、実はそれ以上に悲惨なものであったことがわかる。ともかくも90日余におよぶ戦闘で、これほどまでの犠牲者を出した「沖縄戦」という史実は繰り返し思い起こすべきであろう。

 で、ここで話を本題に戻すと――、本書のなかで何度も述べてきたように、個人的には死者は無条件に救われるべきで、成仏しない霊などないというのが僕の立場ではある。

 とは申せ、これほどまでにおびただしい数の戦没者がいれば、あるいは無念の死を遂げた人たちが巨万もいる土地ならば、浮かばれない霊が「出る」という噂が湧くように生まれてくるのも仕方がないのかなと思ってしまう。

 

・夜な夜な軍靴を響かせて農道を行軍する首のない日本兵の幽霊、砲弾で下半身を無くした女の子が匍匐前進しながら近づいてくるという某学校の怪談、戦死した許婚がプレゼントしてくれたハンドバッグを下げながら寂しげに立っている元従軍看護婦の霊………、激戦地になった沖縄本島南部には、そんな幽霊の目撃譚がそれこそ山ほどある。

 

 

 

図解雑学 『日本の妖怪』

編集者 小松和彦  ナツメ社   2009/7/17

 

 

 

妖怪

・妖怪は、人間がそこにいる限りいつの時代・どこの国にも存在している。人知を超えた出来事に感じる畏れや、世の中の変動に伴う不安、共同体の裏側に潜む心の闇などが、妖怪を作り出すからである。

 

・日本文化を知ろうとする者は、どの角度から深めていったとしても、遅くあれ早くあれ、必ずや妖怪に出会うことになる。なぜならば妖怪は村落共同体の信仰生活や神仏の領域にとどまらず、文学、芸術、工芸、音楽といったメイン・カルチャーから、芝居、まんが、アニメーションといったサブ・カルチャーの領域まで広く浸透しているからである。

 

鬼とは何か?  多様な意味をもつ存在

・もとは超自然的な存在や異民族を示していた「オニ」。これらに共通するのは、記録者にとって「よくないもの」ということであった。

 

「よくないもの」の総体としての鬼

・オニの語源は「穏」、すなわち目に見えない超自然な存在であるという。オニにあてられる「鬼」という漢字は、中国においては死霊を表わすものであったが、日本ではより広範な意味をもって使われるようになる。

 

<全国各地に潜む鬼たち>

「岩手」の由来は鬼

青森県鬼神社には、稲作に必要な技術を鬼が伝えてくれたという伝承が残る。秋田県の三吉神社には、三吉鬼と呼ばれる鬼の話が伝わる。三吉鬼は、酒を飲ませると人の手伝いをしてくれたという。また、岩手県の三ツ石神社には、鬼の手形石がある。神に捕らえられた羅刹鬼が手形を押したという岩で、「岩手」の地名の由来ともされる。同じ岩手県の西光寺には達谷窟があり、東北一帯を治めていた悪路王という鬼が、ここを根城にしていたという。福島県に伝わる安達ケ原の鬼婆の伝説も広く知られているが、この鬼女の名も「岩手」であった。

 

実在する鬼ヶ島

・京都、大江山酒呑童子の話で有名だが、その山頂には酒呑童子の棲家といわれる岩屋がある。また、西京区首塚大明神には酒呑童子首塚が残る。

 

岡山県には、吉備津彦に退治された鬼、温羅の砦とされる奇岩がある。吉備津彦の温羅退治は、桃太郎の鬼退治のモデルにされたとも言われている。一方、香川県高松の鬼無には桃太郎が鬼を埋めたという塚が残り、また高松沖にある女木島は鬼ヶ島だとも言う。

 沖縄県首里城近くにある金城御嶽には、人食い鬼となった兄を岸から落として退治した妹の話が伝わっている。

 

天狗とは何か? 初めての登場は日本書紀

天狗の実像

・現在一般に天狗といってイメージする姿は赤顔に鼻が高く、翼を有し、羽団扇を持って飛行する姿が想像される。しかしこのような天狗像は意外にもそう古い形式ではなかった。

 

・天狗が世の中に跋扈し始めるのは鎌倉時代以降、戦乱の世に入ってからのことである。その姿の多くは鳥の鳶の様子で表され、正体は不幸な死を遂げた天皇や貴族・僧侶たちの死後の姿であるとされた。彼らはその恨みのために天狗となって世の中を狂わせていると解釈されていく。

 

・江戸時代以降、天狗は霊山を崇拝する宗教と結び付られ、眷属として諸山に活躍の場を移し、信仰の対象となっていった。現在多くの人が想像する鼻高天狗のイメージもこの時代から登場する。このような信仰の対象とされる背景には、庶民の間で脈々と伝えられてきた天狗の姿がある。

 

宗教と天狗~鼻高天狗の誕生 仏教説話に描かれた天狗

中世の世に強大な力を示す天狗

平安時代後期に記された仏教説話集『今昔物語集』には、12話に及ぶ天狗説話群があり、当時の仏教界における天狗という存在の重要性がうかがえる。ここでの天狗は、「魔」としての性格を帯びており、仏教に抵抗する反仏教的な存在とされる。

 

・また、山伏はその組織体制が山を母体とし、独自の作法を有するために、江戸時代には民間からも天狗のようであると比喩され、次第に山伏自体をも天狗と呼ばれるようになっていった。現在の山伏装束に似た天狗像はここに端を発するのであり、以後天狗像の体系化がなされていく。ここに鼻高天狗の源流としての天狗像が誕生するのである。

 

太平記』の天狗はスケールが違う!

・同じ中世でも『今昔物語集』は天狗説話の宝庫であるのに対し、『太平記』になると天狗が日本の歴史を作り上げていく著名な人物と深く関わり、その人物をも左右させる力をもって描かれる。

 

・『太平記』で有名な「高時天狗舞」の情景。北条高時は田楽舞にうつつをぬかし、日夜田楽に狂っていた。ある夜、高時が一人で舞っていると田楽法師が現れ、高時とともに舞い始める。侍女がそっと様子をうかがうと、彼らは田楽法師ではなく、嘴を有し翼を生やした山伏姿の天狗であった。

 

山の守護者、天狗の伝承

・同じような現象のものに、天狗の「神隠し」がある。突然姿を消した者が、後日見つかって事情を聞くと天狗に連れられて各地の霊山を巡ったり、東京見物をしたりした、という内容のもので、北は秋田県から南は鹿児島県まで全国に及ぶ。

 

神隠しと天狗小僧寅吉

・天狗の神隠し伝承は、古く鎌倉時代の「天狗草紙」にも描かれ、伝承世界でも天狗にさらわれたと話されるものが数多く確認されている。天狗の神隠しで有名な話に、江戸時代の天狗小僧寅吉という人物がいる。寅吉は、常陸岩間山の首領である杉山僧正という天狗に連れられ、さまざまな呪術や飛行を行ったと自ら証言し、時の国学者平田篤胤による『仙境異聞』にまとめられた。寅吉の証言によると、天狗の飛行は、綿を踏んだような気持ちで、矢よりも速く、ただ耳がグンと鳴るということである。

 

河童とは何か? 水辺に現れる奇妙な生物>

・最もポピュラーな妖怪である河童。出現は江戸時代中頃であり、当時のメディアに乗って日本中に広がった。

 

水の神(精霊)が零落した妖怪か

・今日イメージされる河童が日本に出現したのは江戸時代も中頃に入ってからであるといわれている。カッパという呼び方は関東地方のもので、太平の世が続き、通信が発達して学問が盛んになり、知識の交流が活発になると、都市部には全国から水辺に現れるという奇妙な生き物の行動が報告され、その姿を描いた図像も集まり、さかんに研究されるようになった。

 

・当時は自然界の不思議な出来事を科学的に説明しようとする「本草学」という学問が盛んであり、学者たちは各地で起きている河童という妖怪現象の正体を、ある特定の生き物に絞り込んで暴こうとしたのである。こうして日本中の伝承を統合して誕生した「カッパ」は、十分に発達した江戸時代のメディアに乗って今度は日本中に広がっていくことになる。

 

・特に注目されたのは、水辺にやってきた馬を水中に引き込んでしまうという河童の行動である。

 

・では、馬を水中に撮ってしまう河童とは、神の眷属だろうか。それ以外にも、各地に残る水に関する祭祀や習慣との河童の関わりはいくつか見出され、このことから、河童は社などに祀られる神様よりも一段下の水の神(精霊)、あるいは水の神が人々の信仰を失い、醜い姿の妖怪として零落して人々に悪さをするようになった存在として考えられるようになったのである。

 

全国各地の河童の伝承

・河童にまつわる伝承は、全国いたるところに残っている。私たちが今日イメージしている河童は、それらの集合体ともいえる。

 

各地で異なる河童伝説

・河童の呼び方は地方によって異なり、主に青森地方ではミズチ、ミンツチ、関東から東北にかけてはカッパ、中部地方ではカワランベ、佐渡能登などではカワウソ、近畿地方ではカワタロウ、ガタロー、四国・中国地方ではエンコウ、九州の大分ではドチ、宮崎ではヒョウスベ、熊本・鹿児島ではカワワラワ、ガラッパなどと呼ばれているが、これらの呼び方は各地域だけにとどまらず、全国的に点在している。

 

河童の現在~キャラクター化をめぐって

まんがやマスコットとして愛される河童たち

・「民話のふるさと」として『遠野物語』の観光資源化を図ってきた遠野市では、その火付け役となり、中核となった「河童淵」を前面に押し出した「カリンちゃん」というキャラクターを市のマスコットとして採用した。これは1992年の「世界民話博」の開催をきっかけとしたものであり、小さな子どもを彷彿させる姿で、当時遠野市の市花であったリンドウ(現在の市花はヤマユリ)をかついでいる。河童の「カ」とリンドウの「リン」を合わせた名前であるが、その愛らしい姿には不思議な力で家人を動けなくして家の女を犯し、奇形の子を孕ませる、『遠野物語』の恐ろしいイメージの河童の面影はない。

 

 

 

『河童・天狗・神かくし』現代民話考1

松谷みよ子)(立風書房)1985/7

 

 

 

 山の神などによる神隠

  ある時、この部落の小さい女の子がふっとかき消すようにいなくなった。部落総出で探してみても、いっこうに手がかりはない。幾日かたって、また、ふっと現われた。その現われ方がまた不思議なことだった。この部落のはずれの薬師堂の梁の上に、その女の子はちょこんと坐っていたんだ。村の衆は、あれは薬師様にさらわれたんじゃっていった。  (長野県)

 

岩手県和賀郡がはんらん和賀町横川目。私が15歳の頃(昭和10年前後)の事件である。大雨で村の中央を流れている尻平が氾濫した。その日、私の部落の幼児(5,6歳)が見えなくなったという騒ぎが出た。消防団も出たりして、部落総出で探しまわったが、夜中になっても見つからなかった。きっと川に落ちて流されたに違いないというので、川下を探しまわった。ところが、なってその幼児が川向うの山の中で無事で発見された。これはどう考えても不思議なことでした。その川には、丸木橋一本かかっているだけで、当日の大雨の氾濫で大人でも渡ることが できない状態でした。

 

・長野県上伊那郡。浦の新三郎猟師といえば、山の神様となれ親しんだ逸話の持ち主として知られています。明治の初年のこと、新三郎は金子勢五郎猟師と連れだって仙丈岳へ猟に出かけましたが、二人は途中の小屋で単独行動をとることにきめ、別れ別れになりました。それから1週間、新三郎猟師は、杳として消息を絶ってしまいました。村人に依頼して山中を捜索してもらいましたところ、勢五郎と別れた小屋に戻っているところを発見されました。新三郎の話では、小屋を出てしばらく行くと、立派な婦人が現われて手招きするのに出会いました。誘われるままについて行くと、苺などの実る場所へ連れて行かれ、たらふくごちそうになりました。

こんなわけで、山にいる間は、ついぞ空腹を感じなかったという話でした。村人はその女性を山神であるとみていますが、山神男性説をとるこの地方にも、こうした観方のあることはおもしろいことです。

 出典:松山義雄著『山国の神と人』(未来社

 

和歌山県西むろ郡上三栖。紀州西むろ郡上三栖の米作という人は、神に隠されて二昼夜してから還って来たが、其間に神に連れられ空中を飛行し、諸処の山谷を経廻って居たと語った。食物はどうしたかと問うと、握り飯や餅菓子などたべた。まだ袂に残っていると謂うので、出させて見るに皆紫の葉であった。今から90年ほど前の事である。又同じ郡岩田の万蔵という者も、三日目に宮の山の笹原の中で寝て居るのを発見したが、甚だしく酒臭かった。神に連れられて、摂津の西ノ宮に行き、盆の13日の晩、多勢の集まって酒を飲む席にまじって飲んだと謂った。是は六十何年前のことで、共に宇井可道翁の璞屋随筆の中に載せられてあるという。

 

・昭和二十年頃の話。私の家の近くの男の子(小六年)が昼間、にわとりをいじめたから神かくしにあって大騒ぎとなりました。井戸のそばにしゃがんでいたそうなのに、家人にはその姿が見えず、子供には家人の姿が見えるけど声が出なかったそうです。二昼夜、その状態だったそうですから神かくしに違いないと、父母が言っていました。青森県