日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

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「ヒトラーはアルゼンチンにおり、大農場の地下壕に住んでいる。場所はブエノスアイレスから450マイル北西だ。そこには2人のダブル(影武者)がヒトラーとともに住んでいる」(1)

 

ヒトラーとUFO』  謎と都市伝説の国ドイツ

篠田航一   平凡社  2018/6/15

 

 

 

グリム童話

グリム童話を生んだドイツは民間伝承の豊かな国。街やインターネットには今も都市伝説が溢れかえるヒトラー生存説、ナチスと宇宙開発、フリーメーソンイルミナティハーメルンの笛吹き男、ドイツ版「オルレアンの噂」、人狼伝説……。

 元ベルリン特派員が、自己増殖するドイツの都市伝説を追った異色のルポ。

 

・ドイツ人にとって「不気味なアラブ人」に対する警戒は、こうして潜在意識の中に刷り込まれる。「人間は、不安を一人で抱え込むことに耐えられない生き物です。そして、その不安を他人に伝える時、往々にして具体例を持ち出します。今回の場合、漫然としたアラブ人への不安がさも『具体的な話』に形を変え急速に広まったのです」

ドイツの都市伝説研究の第一人者でデュースブルク・エッセン大学のヘルムート・フィッシャー名誉教授は、「感謝するアラブ人」の話が広まった背景をそう説明する。

 

・確かにこの話はよくできている。外国人への漫然とした不安。誰にでも起こりえる日常の行動。そこから一気に謎めいた予言を告げられた驚き。こうした要素が、短い噂話の中に結晶している。

「忘れてはならないのは、噂は往々にして差別感情と表裏一体だということです。ドイツでは14世紀ごろから誰かが井戸に毒を入れるという噂が頻繁に流行し、その度に犯人とされるのは決まってユダヤ人でした」

 フィッシャー名誉教授はそう話す。 

 

・勤勉なイメージのあるドイツ人も一皮むけば実に噂好き、ゴシップ好きの人たちで、インターネット上で使用される国際言語としてドイツ語は上位を占めるとの調査もある。ドイツ人は世界に冠たるおしゃべり民族だ。

 

ヒトラーは生きている?

脱出した独裁者

ヒトラーの伝説の中で比較的よく知られているのが、「ヒトラーは自殺せずに生き延びた」という噂だろう。逃亡先としてはアルゼンチン、ブラジルなどの「南米説」は特に人口に膾炙している

 ヒトラーは1945年4月30日、ベルリンの総統地下壕で自殺し、世を去った。この歴史的事実は揺るがない

 だが長年、その死については憶測が飛び交った。

 

・10分後の午後3時30分ごろ、銃声が響いた。兵士が部屋に入ると、ヒトラーは血まみれでソファに倒れていた。頭部に引き金を引いたとみられる姿で、即死状態なのが分かった。妻エヴァもその脇で死亡していた。彼女は青酸カリを飲んだことが判明している。

 

・兵士たちは二人の遺体を毛布にくるみ、庭に運び出した。そして用意されたガソリンをかけて焼却した。ソ連軍がベルリンを占領したのは、その2日後の5月2日だった。

 地下壕の現場に踏み込んだソ連軍は、炭化して判別のつかない遺体を発見した。やがて燃えずに残っていた歯型からヒトラー本人と「確認」した。

 ここまでが、史実として残るヒトラーの最後だ。

 

・戦後、英国がヒトラーの死因を調査した。その結果、ヒトラーは口の中でピストルの引き金を引いた「拳銃自殺」が死因と断定された。だが銃声を聞いて部屋に入った兵士は、ヒトラーが撃った箇所は「左のこめかみ」と証言した。一方で「銃声は聞こえなかった」との証言まである

 証言が食い違うのも無理はない。実は、誰もヒトラーの死の瞬間を見ていないのだ。ヒトラーと妻の二人だけが部屋に入り、その後、銃声を聞いた側近が部屋に向かったため、全てがいわば「密室」での出来事だった。さらに最初に地下壕が踏み込んだソ連軍が遺体を回収し、多くの目撃者を捕虜として連行してしまっている。このため、英国による現場検証が十分とは言えないのも事実だ。

 こうした中、1968年にソ連の元赤軍将校レフ・ベジュメンスキー(1920~2007年)が従来の調査に異議を唱える。

「死因は青酸カリだ」

 拳銃での自殺説を否定する内容だったが、このようにヒトラーの最期を巡っては死因さえ特定できない状況が長く続いた。このため、怪しげな説も国際社会に流布することになった。

 

FBIの追跡

根強く語られたのが、ヒトラーは自殺しておらず、妻エヴァとともにベルリンを脱出したという説だオーストリア歴史学者ヴォルフディーター・ビールの『ヒトラーの死』によると、ヒトラーが自殺したとされる4月30日の早朝、男3人、女1人を乗せた小型飛行機がベルリンのティーガルテン飛行場を飛び立ち、ハンブルク方面に向かった。その後、ハンブルクから潜水艦Uボートが出港したが、この中にヒトラーの一行が潜んでいたとの説があるという。

 ヒトラーの死について調査した米陸軍情報将校W・F・ハイムリヒはこう述べている。「ヒトラーの遺体の一部でも発見することはできず、遺体が焼却されたとの証拠もない。1945年4月22日以降、ヒトラーの死の直前を知る目撃者も見つかっていない。私が下した最終結論として、4月22日以降のヒトラーがたどった運命については。ミステリーと言わざるを得ない

 

・チリの新聞「ジグザグ」は1948年1月、ドイツ空軍の操縦士ペーター・バウムガルトの証言を掲載した。内容は、彼がベルリン陥落の直前、ヒトラーと妻のエヴァ、その他の忠実な部下数人を飛行機に乗せ、ベルリンの空港からデンマークまで脱出させたというものだ。そこからさらに別の飛行機に乗り換え、ノルウェーまで逃がし、ドイツのUボートと合流させたという

 

米国もヒトラーの死に関して疑念を抱き、ひそかに生存の痕跡を追っていたのは事実だ2014年に開示されたFBIの文書を読むと、その内容が分かる、1945年11月3日付で、情報員がFBIの当時のエドガー・フーバーにこんな文書を書き残している

ヒトラーはアルゼンチンにおり、大農場の地下壕に住んでいる。場所はブエノスアイレスから450マイル北西だ。そこには2人のダブル(影武者)がヒトラーとともに住んでいる。ヒトラーが死んだと主張する英国人のウソを信じてはいけない

 どこまで根拠のある話なのかは分からない。とはいえ、少なくともFBIが当時「ヒトラー生存説」について決して無視していなかったのは事実だろう。

 数多くの脱出説は次から次へと語られた。ドイツと戦った欧州の連合国軍総司令官を務め、後に米国の第34代大統領となるアイゼンハワーは、大統領就任前年の1952年に「我々はヒトラーが死亡したという明白な証拠を発見することができなかった。多くの人々は、ヒトラーがベルリンを脱出したと信じ込んでいる

 アイゼンハワー自身、生存説の流布を認めていたのだ。

 

頭蓋骨の謎

・東西冷戦終結後の1993年、ロシア政府は「ヒトラーの頭蓋骨」をモスクワで保管していると発表した。

 ドイツ西部ケルンに、この骨を実際に鑑定した人物がいる。警察の鑑識作業などにも協力しているドイツの犯罪科学者マーク・ベネッケ博士だ。博士は骨相などの生物学的な特徴から遺体の状況を調べる犯罪生物学を専門としている。「法医昆虫学者」としても有名で、遺体に群がるハエなどを分析し、死後の経過時間や死因を推定する調査を得意とする

2014年2月、筆者はケルンにある博士の研究所を訪れた。

 博士がモスクワの国立文書館に保管されていた頭蓋骨を鑑定したのは、2001年のことだった。

骨はヒトラーの歯型と完全に一致していました。確かに本人です。銃弾の跡から考えても、口の中から撃ったとみられます。一方、青酸カリを飲んだ後に銃を発射した可能性も残ります

 戦後、ヒトラーの死因についての説は結局はっきりしなかった。それが「生存説」を広める要因になった。

 

・ベネッケ博士は頭蓋骨そのものに加え、歯列、そして自殺時にヒトラーの部屋にあったソファの一部などを徹底的に調べた。さらに生前の1944年にヒトラーの歯列を撮影したレントゲン写真も調査した。

歯型はヒトラー本人のものと一致しました。ヒトラーのかかりつけ医だった歯科医が、歯型の石膏を残していたことが幸いしました

 

ソ連プロパガンダ

・こうして多くの証拠を集め、博士は頭蓋骨がヒトラー本人のものと断定した。

 

・つまり、それはソ連によるプロパガンダだった。1953年にスターリンが死亡した後も、こうして「ヒトラー服毒説」は長くソ連・ロシアで生き残った。

 長年の「死因論争」には続きがある。米コネチカット大学の研究チームは2009年、「この頭蓋骨は40歳以下の女性の可能性がある」との新説を発表した。ヒトラーの頭部から下の遺体は戦後、ソ連が駐留する旧東ドイツのマクデブルクで灰にされ、川にまかれた。だが一体この頭蓋骨の「主」は誰なのか。今も新説が現れては消える。

 こうした経緯が「ヒトラーは逃亡し、復活を企んでいる」という陰謀論として語られる要因ともなった。

 

南極への野望

ヒトラー生存説のバリエーションとして「南極に逃げ延びた」という都市伝説もある。だがこれも根も葉もない作り話というわけではなく、伝説と基となった史実は存在する。それがナチス政権下で国家を挙げて行われたドイツの南極開発だ。

 

自己増殖する都市伝説

・だがこの時の南極観測が一つの都市伝説を生んでいく。リッチャー探検隊の南極探検から70周年の2008年12月、独紙ヴェルトはこう記した。

「リッチャーとその探検隊メンバーがこの時点では予想もできなかったことがある。それは、南極探検が戦後、奇妙な伝説や噂の舞台となることだった。その噂は、何十年も語り継がれることになるのだ」

 これこそが、ヒトラーが南極でナチス復活を画策していたという「ヒトラー南極逃亡説」だ。実際、ドイツ降伏直後の1945年7月には、ドイツの潜水艦Uボートがアルゼンチン沖に浮上し、ナチス幹部が逃亡していたことも判明した。

 

・戦後、根強く「ナチス南極潜伏説」が語られた理由の一つとして、米国の海軍が1946年から翌47年にかけて南極で実施した「ハイジャンプ作戦」という軍事演習がある。目的は寒冷地での人間や機械の適応度、そして基地建設について調査することだった。ドイツの有力週刊誌シュピーゲルによると、米国はリチャード・バード海軍少将の下、作戦に4700人を動員し、13隻の艦船も参加した。多くの航空機も南極上空を飛行し、広範囲な空撮も実施した。南極観測史上、最大規模の作戦だった。

 ただ、当時からこの作戦を巡っては一つの疑問がささやかれていたという。そもそも、なぜこれほど大規模に行われたのか。

 それが「ナチスの残党を探し出すのが目的だった」との都市伝説を生む。ナチスは南極で「空飛ぶ円盤」の製造を試みたとの説もあり、米軍の大規模な軍事作戦は、こうしたナチスの脅威を取り除くことが目的だったという筋書きだ。

 ヒトラーに関する伝説は無数に存在する。その多くはいわゆるガセネタで、学術的な裏付けに乏しいものばかりだ。

 

UFOを追え

本気の人たち

・米国の宇宙飛行士は度々、地球外生命体の存在を示唆する見解を発表する。それはUFOなど信じない「まとも」な市民にとっては荒唐無稽な話に聞こえる。有名なのがエドガー・ミッチェル博士の話だ。マサチューセッツ工科大学で航空学の博士号も取得し、1971年にはアポロ14号の宇宙飛行士として人類6人目の月面歩行をした人物だ

 この高名なミッチェル博士も2008年に英国のラジオ番組に出演した際、「異星人はすでに地球を訪れている」と発言した。米政府はその事実を60年も隠し続けているが、情報は徐々に漏れつつあるという。そしてミッチェル博士ら数人だけは、すでにこの事実について説明を受けていると明かした。

 

・だが、今も次から次へと暴露話は世に現れる。近年はCIA(米中央情報局)やNSA(米国家安全保障局)の元職員だったエドワード・スノーデンが「1954年に当時のアイゼンハワー大統領がエイリアンと会談した」という「機密事項」を暴露したことが伝えられている。

 

・もちろんUFO伝説は世界中に広く分布しており、ドイツも例外ではない。

 筆者はベルリン特派員在任中、UFOを巡る奇妙な騒動に出くわした。2011年以降、まさにこうした「UFO陰謀論」を地で行くような法廷闘争がドイツで繰り広げられたのだ。裁判の争点はズバリ「UFO情報の開示」だ。ドイツ連邦議会(下院)が非開示にしているUFO情報の分析資料について、市民が「開示せよ」と訴えたのだ。

 

軍事機密が飛び交う最前線

・2011年12月1日、ベルリン行政裁判所の判決にドイツ中が沸き立った。

「ドイツ連邦議会は、文書を開示せよ」。

 ここで「開示対象」となったのはUFOについて議会が調査した文書のことだ。UFO文書といっても、オカルトでもなんでもない。1978年に国連が大真面目に採択した決議文のことだ。1978年10月、カリブ海に浮かぶ中米の島国グレナダゲーリー首相は、国連総会で演説した。

「UFOの目撃情報は1ヵ所や2ヵ所ではない。目撃報告は今や世界中から寄せられている。地球の繁栄のため、そして私たち自身が地球での存在意義をよりよく理解するため、詳細な調査が必要と信じる国も増えている」

 

グレナダゲーリー首相の演説から2ヵ月後の1978年12月、国連は「UFOその他の類似現象の研究の実施・協力・宣伝普及を行う国連部局の設置」(国連決議A/33/426)を採択した。そもそも存在が「未確認」であるはずのUFOを大真面目に調査対象とするということ自体が奇妙でもあるが、とにかくUFOをただのオカルトと見るのではなく、その研究の必要性を説くという極めて「真面目な」国際社会の意思表示だった。

 

・2010年、ベルリン在住の男性がこのUFO文書の閲覧を求めて提訴した。官公庁が持つ公的な情報に、国民はいつでもアクセスできるというドイツの情報公開を根拠に、文書を開示するよう訴えたのだ。もちろん法律には、高度な軍事機密や個人情報など公開対象とはしない例外規定もある。UFOはどう判断されるのか。

 

・2015年6月25日、ライプチヒの連邦行政裁判所は2審の判断を覆し、結局「開示せよ」となった。これを受けて連邦議会はその後、文書を公開した。

 だが中身は素っ気なかった。ドイツ政府は、地球外生命によるドイツ領内への着陸について「現在の科学的見地から見て、ありえない」と考えているという内容だ。

 あまりに夢のない文書に、ドイツのメディアは「悲しいニュース」などと一斉に伝えた。

 

英国はUFO調査の情報公開先進国

・たとえば英国だ。国立公文書館は2012年7月に公開した6700ページに及ぶUFO資料の中で、「UFOが存在するという確かな証拠はない」と指摘しながらも、国防省にUFOを分析する担当官を2009年まで置いていた事実を明らかにした。

 

・フランス国立宇宙研究センター(CNES)も2007年3月、UFO関連資料を公開した。1954年以来、研究センターに寄せられた写真やビデオ、録音資料など1600件の記録と、6000件に上る証言の数々だ。

 有名なのは、1981年に南仏プロヴァンス地方に降り立ち、すぐに立ち去ったとされる中華鍋のような形の飛行物体の目撃証言だ。

 

・また1994年にはエール・フランス機の乗員がパリ近郊で、空中を漂う赤茶色の巨大な円盤を目撃した。その物体は定期的に形を変えていたという。

 

・信頼できる証言や質の高い情報があるにもかかわらず、どうしても原因が分からないのが28%なのだという。つまりこの数字は、正真正銘の「UFO」の可能性があるということになるのだ。

 

日本の国会でも質疑

・実は日本も過去に政府見解を出している。

 2007年12月、当時の福田康夫内閣がUFOについて「存在を確認していない」とする答弁書閣議決定した。UFOに関する政府としての初の公式見解だ。

 

・だがそもそも、ドイツは国家としてUFOの研究自体を実施したのだろうか。

政府機関のドイツ航空宇宙センターに聞いてみると、「ドイツのUFO研究については一切知りません」との回答が返ってきた。もちろんこれはあくまで「公式」回答であり、真相は不明だ。

 結局、UFOについては世界中のどの当局も「ない」「存在しない」という断定回答はできない。

 

空の専門家たちは何を見たか

・一般市民によるUFO目撃情報と違い、空の専門家である軍人やパイロットがUFOを見たと公言するのは、微妙な問題でもある。人名や国家の安全を預かる立場上、あまり荒唐無稽な話を言いふらせば、組織の信用にも関わり、自身の職業人としての出世にも影響しかねない。このため「空のプロ」たちは、現役を退いた後に自身の体験談を公表する場合が多い。

 

・「英国上空をジャンボ機で飛行中、同僚が『気をつけろ、何かが近づいてくる!』と叫びました。外を見てみると、巨大なタバコのような物体が機体に向かってきました。ジャンボ機はものすごい速さで飛んでいたので、よけることはできませんでしたが、ぶつかると思った瞬間に消えたのです。オランダ・マーストリヒトの管制センターに連絡し、レーダーに何か写っているかをたずねました。何も映っていなかったとの返事でした

 ウッターは晩年、こうした目撃談を頻繁に語った。おそらく現役時代には制約があって口にできなかった内容を、引退後ようやく公にしたのだろう。

 

ドイツ人はUFO好きな国民

・ドイツのメディアはUFO情報を大きく扱う。筆者のドイツ在任中のUFO騒ぎで記憶に残っているのは、2014年1月6日、ドイツ北部ブレーメン上空に出現した謎の飛行物体だ。

 

・ドイツ人はUFO好きな国民だ。週刊誌シュピーゲルによると、2015年に約1200人に実施した世論調査では、地球外生命の存在を信じていると答えた人が56%に上ったという。

 

中世の目撃談

・歴史をひもとけば、ドイツでは中世にもUFO情報が記録として残されている。ドイツのメディアから探した代表的な話を以下に紹介したい。

 最も古いものの一つとしては、1561年4月14日の明け方、ニュルンベルクの上空に現れた謎の物体が挙げられる。数え切れないほどの球形や円盤状、巨大な鎌や槍のような形の物体が空中に現れ、激しく飛び交じったという。1時間ほどして物体はどこかに落ちていくように消えていったらしく、UFO同士の戦いだったとも評されている。

 

また1665年にはバルト海沿いの港町シュトラールズランドでも、謎の物体を多くの漁師たちが目撃したとの記録がある。

 午後2時ごろ、鳥の大群が北の方角から海にやって来たかと思うと、それは戦艦に姿を変えた。空中に浮かぶ戦艦に漁師たちは度肝を抜かれたが、この船団は何時間も空中で闘っていたという。男性がかぶる帽子のような巨大な円盤も飛来し、聖ニコライ教会の真上に夕方まで浮かんでいた。この円盤は明け方の月のようなオレンジ色だったという。漁師たちは震えが止まらず、体調不良を訴える者も続出したらしい。

 中世には、空の異常現象は戦争や災害の前兆と思われていた。実際、シュトラールズンドに謎の円盤が出現した後に、プロイセンスウェーデンの間で戦争が起きている。

 

怪物ワンダーランド

吸血鬼伝説

・まず吸血鬼伝説は、死者が復活して人間の血を吸いに来るという民間伝承が広まったものだ。欧州では火葬ではなく土葬が中心で、遺体が一定の形を保っていることも伝説の流布に関係している。たとえば1755年にはオーバーシュレジエン地方(現在のポーランド南部)で、魔女の疑いをかけられた女性が死後に吸血鬼となって復活し、他の人々をも吸血鬼にしたという話がドイツの新聞に取り上げられている。このため女性の遺体は再び掘り起こされ、死刑執行人の手で改めて斬首されたという。

 吸血鬼伝説の本場は東欧やバルカン半島だ。特にルーマニアでは古くからの伝承が根強く残り、15世紀には北西部トランシルヴァニア地方の領主だったヴラド3世はそのモデルとされている。彼は人の血を吸ったわけではないが、敵を串刺しにして処刑するという残虐な一面があった。この話が西欧にも伝わり、アイルランドの作家ブラム・ストーカーが19世紀に書いた吸血鬼ドラキュラ伯爵のモデルとなった。

 

・実際、ルーマニアには21世紀の今も吸血鬼を信じる人々が存在する。2004年1月には南部ワラキア地方の村で、前年に76歳で死去したペトラ・トーマという男性の遺体が埋葬後に掘り起こされ、心臓が焼かれる事件があった。これはトーマの死後、親族が次々に病気になったため、親族が「トーマがまだ死に切れず、吸血鬼になって親族を病気にしている」と信じたためだ。遺体から取り出して焼いた心臓の灰を親族が飲んだところ、病気は回復したという。とはいえ、もちろん遺体損壊は現代ではれっきとした刑事罰の対象であり、ルーマニアの検察当局は親族数人を起訴した。おぞましい事件だが、実は欧州では親族が病気になった時、その一因は親族の死者にあると考える伝承が広く残っている。

 

世界中に伝わる人狼伝説

・そして最後にオオカミ男だ。これはドイツ語圏を中心に語り継がれてきた典型的な怪物だ。北欧や東欧・バルト海地域では、人間がオオカミに変身する、または強制的に変身させられるという伝説が昔から語られてきた。

 一般的にオオカミ男とは、昼間は人間の姿をしているが、夜になると猛獣の本性を現し、オオカミに戻る怪物を指す。

 

人狼信仰は世界中に伝わる。優れた戦闘能力を持つオオカミのイメージは古来、為政者の強さを誇示するために使われた。たとえばモンゴル帝国を築いたチンギス・ハンの祖先はオオカミだったとか、ローマ建国者ロムルスとレムスの双子もオオカミに育てられたといった伝説だ。

 

オオカミ男を信じる米兵

だがオオカミ男は中世の話とは限らない。現代にも時折その姿を垣間見せる。

 その一例が、東西冷戦末期の1988年にドイツ西部モアバッハで起きた「モアバッハの怪物」事件だ。

 米軍が駐留していた旧西ドイツのモアバッハの森に、後ろ足で人間のように立つ「巨大なオオカミ男」が出現したとのうわさが流れた。

 

・モアバッハ一帯は豊かな森林地帯で、古来、オオカミ男伝説が語り継がれている場所だった。

 

・ブルガルトは、この物語の背景には米国人特有の心理があると分析する。

 第2次大戦末期、米英連合軍が進軍したドイツの占領地域では、連合軍に最後の抵抗を試みるドイツのゲリラ部隊が「ヴェアヴォルフ人狼)部隊」と呼ばれた。彼らは普段は一般市民にまぎれて軍服をきていないが、米英軍の兵士が油断したすきに襲撃を実施する。まさに「突如、オオカミ男に変身する」イメージそのままの集団として、米兵から極度に怖れられた過去があるのだ。

 こうしたドイツ人の人狼部隊の伝説は、第2次大戦後も米軍内で長く語り継がれた。このため「ドイツ=オオカミ男」のイメージが容易に結び付きやすかった側面があるという。

  

ハーメルンの笛吹き

中世最大の都市伝説

・時間をさかのぼり、本章ではドイツ中世史の謎を考察したい。「ハーメルンの笛吹き男」伝説だ。

 グリム兄弟が収集した民話の中にも収められており、都市伝説というより、すでに歴史学民俗学社会学などの分野の古典としてあまりにも有名で、一般の流言の類とは明らかに質的な違いがある。だがドイツで専門家に話を聞くと、都市伝説や噂の分析によく引き合いに出されるのがこの伝説なのだ。

 この話、不気味だがどこか人をとらえて離さない魅力がある。その理由としては、おそらく内容がただの流言ではなく、史実の可能性が高い「十分にありそうな話」だからだろう。

 

・この話、「約束は守ろう」というただの教訓説話のように思えるが、実はほぼ史実とみられている。ハーメルン市の記録文書には長年、「1284年6月26日、笛吹き男に130人の子供たちが連れ去られ、コッペンで消えた」との記述が残っていたことをグリム兄弟が紹介しているのだ。日本でも、阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男』で集団失踪の背景が研究され、ドイツ中世史に残るミステリーとして人気のある研究テーマとなっている。

 土地を所有し、定住する者が「真っ当」とされていた中世社会では、各地を流浪する楽師や芸人、浮浪者、犯罪者、娼婦、破戒僧などは常に差別の対象とされてきた。村祭りの時にどこからともなく現れ、音楽を奏でては去っていく巡業者。子供たちにとってはきっと「楽しいおじさん」だっただろう。だが敬虔な教会を中心に形成された保守的な共同体の大人たちにとっては、長く付き合いたくない存在だったに違いない。

 

子供たちはなぜ消えた?

・子供たちが消えた理由については、これまで歴史学者らが多くの説を唱えてきた。

 まず「少年十字軍」説がある。中世に盛んだった十字軍とは、欧州のキリスト教国が聖地エルサレムイスラム教国から奪還するために派遣した遠征部隊だ。これに従軍したのが真相だったのではないかとの説がある。

 

・伝説に詳しいハーメルン市観光公社職員のフランク・リュッケはこう話す。

多くの説がありますが、当時ドイツ人が欧州東部に入植した『東方植民』も有力な説です。13世紀のハーメルンでは人口が増える一方で、土地や財産を相続できるのは長男に限られていました。このため弟や妹たちは、移民を集める請負人の誘いに乗りやすかったのです。主に誘われたのは14歳から18歳くらいの若者だったとみられています

 12世紀から13世紀のドイツ西部では、人口増加に伴って「食えなくなった」人々による移動が起きていた。『ハーメルンの笛吹き男』(阿部謹也ちくま文庫)によると、13世紀を通じて欧州中部では飢えのために人肉食まで行われていたという。

 彼らは東部に未開の新天地を求め、現在のドイツ東部、チェコポーランドハンガリーなどに移住した。ドイツ騎士団が東方住民のキリスト教化を名目に、エルベ川以東やバルト海沿岸に進出した「軍事目的」の植民活動もあった。いずれにせよ、中世のこうした人口移動は「子供たちの失踪」の背景説明として十分な説得力を持つのは確かだ

 では、ハーメルン市の記録文書に残る「コッペンで消えた」との一文はどうだろうか。

ハーメルンの東に、コッペンブリュッゲという地名が実在します」

 

歴史は名字・地名と共にある

・ドイツの名字・地名研究の第一人者が今、笛吹き男伝説の真相に迫っている。ドイツ東部のライプチヒ大学教授を経て現在は「固有名詞学研究センター」(ライプチヒ)の所長を務めるユルゲン・ウドルフ博士だ。専門の「地名分析」の視点から伝説の研究を続けている。

私が唱えるのは移住説です。当時のドイツ人は欧州東部に入植する『東方植民』を盛んに行っていました。たとえば、現在のドイツ東部のベルリン、ドレスデンという地名はもともとドイツ語ではなく、古いスラヴ系の言葉が起源なんですよ。もともとスラヴ系民族が住んでいた土地に、ドイツ人がたくさん移住してきたのです。ドイツ人の東方植民は規模の大きい移動でした」

 ハーメルンの伝説も、このような移住の歴史から説明できるとウドルフ博士は話す

 

・「笛吹き男の正体は、移民を募るロカトールと呼ばれた請負人でしょう。彼らは労働力を欲しがっているポーランドなど東方地域の領主から依頼され、ドイツで移民を集めていました。まず町の広場で笛や太鼓を演奏し、人々の注目を集めます。そして、『東に生きませんか。私に着いて来れば、新しい生活が待っています。土地も食べ物もあります』と市民を誘います。失踪した子供たちは、この誘いに乗って集団移住したのではないでしょうか」

 

・「歴史は謎に満ちています。謎を解くヒントは、人々が背負う名字、そして日々を生きるこの大地にきっと刻まれているはずです。歴史は地名・名字と共にあるのです

 700年以上前の伝説の真相はもちろん不明だが、笛吹き男を巡る謎解きは今も魅力的な研究テーマだ。ハーメルン観光公社の前述のリュッケはこう話す。

「ほぼ毎年、『当時、何が起きたのか』『子供たちはどこに消えたのか』とのテーマで新説の論文が発表されます。伝説は今も確かに生きています」

 

舞楽禁止の通り

ハーメルンでは夏になると笛吹き男の野外劇が上演される。ある夏の一日、幼い娘を連れてベルリンから電車を乗り継ぎ、ハーメルンに出かけてみた。

 開演前の説明はドイツ語や英語のほか、なんと日本語でもアナウンスされた。伝説は日本人にも人気で、現地では日本人観光客とも出会った。

 

・中世の悲劇を「観光資源」として活用するたくましいハーメルンの人々だが、実は今も少し不気味な名前の道路が残っている。その名も「舞楽禁止の通り」という変わった名前の小道だ。

 ここは子供たちがハーメルンから連れ去られた時、最後に歩いたと言われている通りだ。笛の音にさらわれた子供たちを悼み、通りでは今も歌や音楽の演奏がタブーとされている。

 

・この小道が市のメインストリートのオスター通りと交差する場所に、「ネズミ取り男の家」と呼ばれる石造りの建物がある。笛吹き男が泊まったとされる家で、今はレストランになっている。

 

コッペンとはどこか

・さて、ハーメルン市の記録文書では子供たちは「コッペンで消えた」ことになっている。これはおそらくハーメルンの東15キロに位置するコッペンブリュッゲの村を指すといわれている。また、前述の14世紀の詩では子供たちはカルヴァリ(キリストが処刑されたゴルゴタの丘ラテン語)で消えたことになっているが、コッペンブリュッゲ付近にある丘の近くには、ゴルゴタの丘を模した巡歴路もあったという。つまり、子供たちが消えたとされるカルヴァリ、コッペンなどの場所は、ほぼ同一の地域と考えられるのだ。

 

・13世紀、コッペンブリュッゲ近くの山地の崖では、夏至の日に火をともす祭りが行われていた。祭りに熱狂した当時の子供たちが火をつけに出かけ、崖下の沼にはまって脱出できなくなり、命を落としたという説もある。これが「コッペンで子供たちが消えた」ことを意味するというのだ。1957年に歴史学者ヴェラーが唱え、この説を有力視する人も多い。

 

・「伝説には、宗教上の問題という秘密が隠されているのですよ

 ちょうど笛吹き男がハーメルンに現れた13世紀終わりごろ、領主シュピーゲルベルク伯がこの城を築いた。その頃、この地では「タブー」とされる祭りが行われていた。

キリスト教ヨハネパウロの祝祭日に、当時の若者たちは異教的な祝祭に励んでいたようです。それは若い男女が集団で性的な行為に励む祝宴ですキリスト教の保守的な価値観から逸脱した淫らな行為に狂った領主は、この宴を終わらせようと考えたのです」 

 6月26日といえば夏至の頃だ。北ドイツでは当時、この季節は男女が結婚し、妊娠するのにちょうどいい時期と考えられていたという。厳寒の冬ではなく、約10ヵ月後の春ごろに出産を迎えることができ、子育てが楽になるからだ。このためちょうど夏至の頃に男女が結び付く祝宴がひそかに行われていた。

 乱交を嫌悪した領主は130人の若者を洞窟に閉じ込め、生き埋めにしてしまった。それが現在のコッペンブリュッゲにあった丘陵だという。若者の遺骨などの物証は出ていないが、ヒューザムはこの説を根強く信じている。

「人はもちろん、ハッピーエンドの物語を好みます。しかし残念ながらこの伝説には合致しません。

「コッペンで消えた」「カルヴァリ(ゴルゴタの丘)が子供たちを皆、生きたまま飲み込んだ」。こうした記述は、領主による「計画的大量殺人」のことを指している。そう考えれば矛盾はない。ヒューザムはそう指摘する。

「事件」から700年以上の時を経た21世紀の今もなお、笛吹き男伝説に取り組むウドルフとヒューザム。二人の研究家の主張はかなり違っている。片や子供たちが新天地で生き延びたというハッピーエンドなのに対し、一方は子供たちが集団で殺害されたという救いのない結末だ。

 

増殖する笛吹き男

実は「笛吹き男」の物語はハーメルンに以外にも存在する

 ハーメルンから約650キロ離れたオーストリア北部コルノイブルクには、よく似た話が伝わっている。

 首都ウィーンにほど近いドナウ川沿いのこの町は昔、ネズミの大群に悩まされていた。そこにきらびやかな服を着た男が現れ、ネズミを退治する。

 ここまではハーメルンの伝説と同じだがその後の展開が違う。子供たちは「ドナウ川に停留していた上等の船に乗せられ、どこかに行ってしまった」という「船による失踪」の話になっているのだ。

 

・さて、笛吹き男はどうやら現代にも姿を見せるらしい。まるで集団催眠にかけられたように人々が付き従い、破滅の道を歩んでいく。そのイメージを、容易にナチスの独裁者ヒトラーと、彼に扇動されたドイツ国民の姿に重ねる人も多いだろう。実際、1930年代前半にナチスが台頭してきた頃には、ヒトラーを笛吹き男になぞらえる風刺画もよく欧米の新聞に掲載された。

 実は、ヒトラー自身も笛吹き男の話を知っていた。1925~26年に出版した自伝『わが闘争』の中で、国民を破滅に導く者を否定的なニュアンスで「ハーメルンのネズミ捕り男のように」と記している。後に自らがまさにそのように評されるとは、当時は予想もしていなかっただろう。

 そして笛吹き男は、「大衆を扇動する者」の意味で政治記事に使われる。

 

・700年以上前、ハーメルンの子供たちがどこに消えたのかは分からない。だが笛吹き男は今もどこかにいるらしい。