日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

「風に乗るもの」として「噂」「ウイルス」などが話題になるといくつかのメディアで2019年に発表したが、それは現実となった。(1)

 

 

『しきたりに込められた日本人の呪力』

秋山眞人、布施泰和  河出書房新社   2020/6/19

 

 

 

風習の背後にある真の意味と私たちの未来

しきたりには「実用的効果」がある

・私たちの生活には、年中行事や冠婚葬祭のしきたりや習慣が自然に染みついているといっていいだろう。だが、その不思議さに思いを巡らしたことはあるだろうか。しきたり探究は意外な面白さにつながっている。

 

いまも続いているしきたりや風習の歴史の裏には、実は先人たちが築いてきた霊的な知識や知恵が宝庫のように埋まっているのだ。長い間に培われた神秘的な体験や経験の蓄積、すなわち歴史や伝統によって裏付けられた「実用的な呪術」が隠されているのである。私は今日の日本において、しきたりや伝統を「呪術性」「実用性」の観点から捉え直しをすることが非常に重要であると思う。それは同時に「オカルト」や「呪術」という捉え直しにもつながる。

 

・その実用性は何かといえば、「ご利益」などという言葉で語られてきたものの奥にある「恩恵」と「実利」を最大限に利用することである。それが先人たちにとっての歴史的な「実用性」であったに違いない。だからこそ、それが風習となり、伝統として長く受け継がれてきたのではないだろうか。

 

習慣が予知能力を研ぎ澄ます

・しきたりや風習は、窮屈に感じることなく、積み重ねてきた所作が自然な感覚でできるようになることによって、「能力を開発できた」とか「リラックスできた」とかいう実感が得られるようになる手段である。一石二鳥にも三鳥にもなる呪術性(呪力)をもっているからすごい。

 つまり、良いしきたりの見えない意味を知って、それを習慣化すれば、人は禍を遠のけて幸せになることができるのだ。だからこそ、しきたりや風習は大切なのである。

 

人生の節目をつつがなく………冠婚葬祭のしきたりの呪力

呪術だらけの「揺りかごから墓場まで」

・人はオギャーと生まれた瞬間から習慣やしきたりに満ちた人生をスタートさせる。へその緒をどうするかに始まって、名前を何と名付けるか、そして七五三などの冠の祝いがあるかと思えば、やがて成長して婚礼、出産などにかかわる儀礼や儀式のオンパレードだ。

 やがて、両親が亡くなれば、葬式の儀式に追われ、ついには自分が喜寿、米寿、白寿と齢を重ねたことを意識する儀式をされる。そしてついには、自分の葬儀が待ち受けているという塩梅である。まさに「揺りかごから墓場まで」呪術だらけだ。

 ではいったい、その儀礼や儀式のなかにどのような呪術が隠されているのだろうか。

 

ヘソの緒 なぜ保管しておくのか

・へその緒を桐の箱に入れて保管している人は多い。へその緒はその人の護符のようなもので、本人の危急の際に薬として煎じて飲んだりすると、命が助かるという話も伝わっている。もちろん、迷信扱いする人も多いし、グロテスクな話にも聞こえるかもしれない。

 だが、そういう話が伝わるくらい、へその緒は呪術的なのだ。へその緒にまつわる話をすべて迷信であるとして片づけることはできない。へその緒はそれだけ大事なのである。

 

・その理由は、生きているうちに、そうした物寄りの魄(はく・人や物質にまとわりつく念のようなもので、皮膚と骨に残りやすい性質をもつ霊的なもので、皮膚と骨に残りやすい性質をもつ霊的なもの)を強くまとったモノは身近に置くべきなのである。とくに魄の強いものが宿っているのは、へその緒であり、歯である。それは自分の分身に近いモノであり、それを大事に取っておくことは、霊的には非常に意味があるのだ。

 

命名 姓名判断は迷信か

文字とか数にはそれぞれ霊力がある

・モノに名前があるように、生まれてきた子にも名をつける。その名前にもある種のしきたりがあり、その背後には呪力がある。

 姓名判断のしきたりでいうと、各文字の画数、苗字だけの画数(天格)、名前だけの画数(地格)、苗字と名前の接点の二文字の画数(人格)、いちばん外側の文字同士の画数(外格:姓名が五文字以上の場合は、総画から人格を引いた画数)を総合して見る方法が流派として多い。それぞれの文字の数が偶数か奇数か、その組み合わせで見る流派もある。

 かつて、こうした姓名判断に根拠があるのか論争が巻き起こった。そこであるテレビ番組が100名ほどの統計を取ってみたところ、ほとんど意味がないことがわかったともいわれる。

 

・別の言い方をすれば、姓名判断の可否は、イメージ力を軽視するか重視するかの違いでしかない。人間がもつイメージ力を重視するならば、姓名判断は重要である。反対に軽視する人は、画数など一切気にせず、極端な例では、名前の漢字が忌み嫌われる言葉でもかまわないという人もいるかもしれない。

 だが私は、姓名判断には精神的イメージを強化したりきれいにしたりするという強力な呪力があり、それを活用しない手はないと思っている。

 

ちなみに年号「令和」も13画である。何が起こるのかと思っていたら、「新型コロナウイルス」「オリンピック延期」など2年を待たずにありえないことが次々と起きている。しかし、「令和」に悪いことばかりが続くというわけではない。当然、ミラクルが起きうる年号ともいえるのだ。

 

能力者と「13画」

・霊的能力が高い人の姓または名の総画数が「13」である場合の例を挙げよう。霊能者として一世を風靡した冝保愛子の「愛」は13画である。「子」はあくまでも称号にすぎないとして画数に数えないという主流な姓名判断のルールにのっとると、彼女の名の画数は13となる。同様に占星術細木数子の「数」も13画だ。超心理学研究家で能力者でもあった井村宏次の「宏次」も、中村天風の「天風」も13画である。

 

ちなみに、UFOを研究する人には数字の「一」が多い。UFO番組を多く手がけたテレビディレクターの矢追純一氏、UFOライブラリーを立ち上げた荒井欣一、UFO関連の著作が多い高梨純一、東海大学のUFO超心理学研究会で活躍した大谷淳一氏、月刊誌『ムー』の代表的なライターで超常現象研究の第一人者の並木伸一郎氏、テレビによく出演する、たま出版編集長の韮澤潤一郎氏など本当にパワフルな面々が名を連ねている。

 画数以外では、地口とか語呂合わせの要素もある。

 

七五三  なぜこの年齢で祝うのか

・七五三の歴史は古く、三歳、五歳、七歳を子供の節目の歳として祝う風習である。昔は、男女とも三歳になると、「髪置き」といって髪を伸ばしはじめ、男児は五歳になると「袴着の祝い」をして男の衣服を着け、女児は七歳で「帯祝い」をして、つけ紐を取って帯をしめた。これが七五三の始まりだという。

 

・七・五・三という数字には、「行き過ぎないように」という意味がある。どういうことかというと、奇数には行き過ぎをなだらかにするという意味合いがあるのである。

 

元服(成人式)  なぜ帽子をかぶるのか

元服は、いまでいうなら成人式であった。すでに7世紀には「成人式」は儀式として制定され、奈良時代(710~784)以降には、元服と呼ばれるようになった。

 しかしながら、その年齢は現代の成人式の年齢よりずっと若い。童謡『赤とんぼ』で「15で姐(ねえ)やは嫁に行き」とあるが、実際、男は15歳、女は13歳くらいからすでに大人扱いされていたという。

 元服で烏帽子をかぶるのは、頭を低くして頭を下げることと関係があるように思う。自立心をもてとか、自分で自分を抑える心をもてという呪術的な意味が烏帽子に込められている。袴を変えることも呪術である。

 

・本来、成人式というのは、年齢の高い人たちと若い人たちがお互いに協力し合うことを誓い合う儀礼であったはずだ。ところが今日では、一方的に役所から呼ばれた若者が「何くれるの?」といって参加するだけのような雰囲気になっている場合が多い。そこが非常に惜しまれるところだ。

 

結婚式  「縁起がいい」とは、そもそもどういうことか

結納と語呂合わせ

・結納は、もとは共同で飲食すること、お酒とごちそうを意味した。両家の結びつきを強くするためのもので、婿が婚礼に先立って、女性の家に持参する縁起の良い酒肴が結納であった。このメニューにも呪術性がある。「鮑」は神気宿る不老長寿のシンボル、白扇子は「末広」の意味である。

 結納や引き出物として出される食べ物には、地口や語呂合わせ的な意味もある。鯣(するめ)は「日持ち」し、「噛めば噛むほど味が出る」という意味だし、柳樽や角樽の「樽」には、「足る」という意味と、「家内喜多留家の内に多くの喜びがきて留まる)」という意味が込められている。

鰹は「勝つ」、鯛は「めでたい」「なりたい」、昆布は生命力と子宝のシンボルで、「喜ぶ」という語呂合わせである。

 語呂合わせが非常に重要な意味をもつのは、もともと呪術のなかには、ある単語があって、その二番目の意味や解釈が潜在意識に落とし込まれやすいという性質があるからである。

 

三三九度、角隠し、お色直し

・三三九度は中国の儀礼だという説もあるが、中国では本来、奇数は忌み嫌われていた。王朝交代で何度か変遷はあったものの、偶数のほうがおめでたいとされることが多かった。

 日本では奇数がほぼ一貫して縁起の良い数字といわれ、三を三回重ねるのは、非常におめでたいことであるとされた。家紋を見ても、同じシンボルを三つ重ねて「三菱」「三鱗」「三葉葵」など古くから使われている。

 

安産祈願の岩田帯と犬神

帯祝いを妊娠5か月の戌の日におこなうのは、犬が多産でお産が軽いということもあるが、「犬の害」を鎮めるという意味もあると考えられる。犬の害とは、犬神憑きのことだ。狐憑きというところもある

 この風習の背後には、強い犬神の霊力を味方につけるという意味がある。それは非常に古い時代から伝統的に続けられていた。その儀礼にあやかったのが、岩田帯という腹帯を巻く祝いになった可能性が高い。

 

祝いと祓い  なぜ節目で儀式をするのか

厄年の考え方

厄年には厄除けをする風習がある。男42歳、女33歳の厄年が終わったら、厄落としのお祝いをする。

 だが、私が見たところ、これには根拠がほとんどない。厄年に活躍した人はたくさんいる。天中殺の類にも同じことがいえるが、統計的にも意味は見いだせない。しかしながら、男が42歳、女が33歳ぐらいのときというのは、社会的に、あるいは家族において責任感を持たなければならない年齢の平均値であるということはいえるかもしれない。

 

喜寿、米寿、白寿の祝い

・「喜」の字の草体が七十七と呼ばれることから七七歳の賀の祝いを「喜寿」、「米」の字を分解すれば「八十八」になることから八八歳の賀の祝いを「米寿」、「百」から一を取れば「白」の字となることから九九歳の賀の祝いを「白寿」と呼ぶ。誰もが知っている風習だ。

 単なる語呂合わせのようなものだが、語呂合わせだからこそ祝ったほうがいい風習でもある。すでに説明したように、地口や語呂合わせはイメージや祈りを強固にするためには非常に重要な呪術であるからだ。

 

葬式 死後の世界と儀式の意味

塩のもつ霊力

・お通夜ではお清めの塩が配られ、体にかける風習がある。塩を撒くのは、亡霊を祓うときに使われる呪術だ。塩、水、硫黄の粉、鉄の粉、刀といったモノには霊を祓う力があるとされてきた。ご遺体に懐刀を置く風習もある。鬼に負けないようにと忍ばせるわけだが、そもそも刀自体に邪気払いの力があるとされ、死者に悪い霊が憑かないようにする、悪い霊に誘われないようにとの祈りが込められている。

 

六文銭と易

・あの世にいくときに、三途の川にかかる橋の渡し賃として六文銭を死者にもたせる風習がある。一文銭を六枚もたせるのだが、これは「六」が、易の「坎(かん)」、すなわち「北」とか、「あの世」を表わす数字だからである。「六」は、見えない世界の奥の院を象徴している。

 単なる易か、と思われる向きもあるかもしれない。だが易は、宇宙に普遍的に存在するルールのようなものだ。古代シュメール時代から存在されたと思われる、古いルールでもある。それぞれの方角、数字、形、色には性質や意味があり、それらを八つのチャンネル「八卦」に分ける。その八卦の組み合わせである六十四卦によって自然界・人事界の現象の変化を表わしているのが易なのである。非常に便利な霊的な法則であり、すべての儀礼や風習はこの法則にのっとっているといっても過言ではない。

 

幸せを願い、引き寄せるための――宗教儀礼のしきたりの呪力

氏神と鎮守の神  そもそも何が違うのか

・もともと氏神は、その地域の豪族の祖先を祀った守護神のことだ。平安時代以降、一般庶民にも広がり、その地域を守る神様となった。子供のお宮参りは、本来はこの氏神にお参りして、その土地の一員になることを認めてもらう儀式であった。

 古い時代においては、その土地で暮らす人たちは動きがほとんどなかった。同じ一族が代々、同じ土地を継承していた。彼らはその土地を天皇から任せられ、豪族として支配した。彼らの先祖は氏神として祀られた。

 だが、それは昔の話で、いま私たちはあちらこちらへ移動するようになった。もちろん、いまでも祖先が氏神として祀られている場所もあるだろうが、時代と共に氏神はその土地全体を守る鎮守の神へと性質は変化している。

 鎮守の神は、そこに住む生物由来の神様である。その土地が鎮まることを守る神である。その生物は植物であることが多い。いわゆるご神木である。

 

饅頭 何のために供えるのか

小豆などの実や種を使った呪術

・饅頭を供えるのは、紅いものに邪気を祓う力があるからだという。命を懸けた神への捧げものの多くが「血」と関係があるため、「朱色」や「赤い色」が神々の霊力を引き出すと考えられたのだともいう。確かに小豆は赤みがかかっており、古くから朱色信仰と結びついて、災いを避ける霊力のある食べ物として重宝されていた。

 

・もちろん、そこにあるのは色だけの問題ではない。種や実、とくに小豆は、生命力の根源として昔から霊的な力が備わっていると考えられ、お祓いの道具に使われてきたのだ。節分の豆撒きに見られるように、種を蒔くという行為自体にも、お祓いの意味が込められている。豆は「魔を滅する」に通じるともいう。

 種や実を呪術に使う風習がいつごろからあったかというと、イザナギイザナミの神話にも出てくることから、神話が伝わっていた時代にはすでに存在していたことがわかる。八世紀初頭に成立した『古事記』には次のように書かれている。

 

 イザナミカグツチの神を生んだ際に火傷を負って亡くなると、悲嘆に暮れたイザナギイザナミの後を追って、黄泉(よみ)の国を訪れた。すでに黄泉の国食べ物を食べてしまったイザナミは「元の国に戻れるかどうか黄泉の国の神と相談してみます。ただし、その間、私の姿を見てはいけません」とイザナギに告げ、御殿に入っていった。

 しかし、なかなか戻らないイザナミのことを心配したイザナギは、櫛の歯を一本折ってそれに火を灯し、御殿へとイザナミを追った。するとそこには、膿を流しウジがたかった醜いイザナミの姿があった。驚いたイザナギは逃げ出したが、自分の姿を見られたイザナミは「よくも恥をかかせたな」といって、手下の醜女を使ってイザナギを追いかけさせた。

 イザナギは山ぶどうの実や櫛の歯を使って、追っ手の行く手を遮るが、それでも黄泉の国の軍勢は追ってきた。最後は、黄泉の国と現世の境に生えていた桃の実を三つ取って、軍勢に投げつけたところ、軍勢はことごとく退散した。

 そのとき、追いついたイザナミイザナギに「こうなったからには、私はあなたの国の人々を1日1000人絞め殺しましょう」と告げる。これに対してイザナギは「あなたがそうするなら、私は1日に1500人生みましょう」と応じたのだった。

 

 以上がイザナギによる「黄泉の国訪問神話」の概略だが、実や種が汚れたものや穢れたものを祓う呪術の道具として使われたことが明確に描かれている。後々大きく成長するような植物の実(根源)を使ってお祓いをすることは、当時は当たり前のことであった。中国では、キョンシー動き回る死者の妖怪)を米で祓ったと言われている。

 

「代償呪術」としての供え物

・その話が真実かどうかはわからないが、少なくとも代償として似たようなものを差し出すことには霊的な意味がある。たとえば月見のときにお萩やお餅を並べるが、それはいったん「月」という神様に捧げて、その後私たちがいただくわけである。つまり、神に代償を出すことによって別のものが得られる、あるいは別の災いが起きづらくなる、という願望が現実化するのである。

 

また、饅頭はお金の象徴でもある。饅頭を積み上げて捧げるというのは、お金が積み上がっていくことを表わしていた。すなわち金銭的な豊かさをイメージすることによって、それと同じような現象を引き寄せようとする呪術なのである。現代風にいえば、成功哲学的なイメージ法である。

 それは神仏に参詣して奉る賽銭に似ている。豊かさのイメージを神仏に捧げることによって、豊かさの霊的な反作用をいただくのである。その際、

量や額は関係ない。100万円の心のこもっていない捧げものは、16円の心のこもった捧げものの足下にも及ばない。

 だから私はよく、神社では5円玉と1円玉と10円玉を捧げるようにしている。5円玉は金、1円玉は銀、10円玉は銅の象徴と見なせば、金と銀と銅の豊かなイメージを神に捧げることができるからだ。ポイントは、嘘偽りのない純粋なイメージを思い描き、それを捧げることができるかどうか、にかかっている。

 

禁忌や俗信と結びついた――身ぶり・所作に隠された呪力

夜、口笛を吹いてはならない なぜ忌み嫌われたか

・夜、泥棒や人さらいの合図が口笛だったから、忌み嫌ったという説がある。だが、実際は呪術的なことが理由だ。

 西洋では、家のなかで傘をさすのと同じで、口笛を吹くことはドラキュラなどの魔物を呼ぶという意味になる。日本でも同様で、岩笛や口笛は招霊の呪術なのである。笛を吹くということは、そもそも霊を呼ぶ行為なのだ。筒のなかから出る音は、霊を招く力がある。

 では夜、口笛を吹くのが良くないのは、霊を呼んでしまうからなのだろうか。

 

夢解釈  時空を超えた潜在意識からのメッセージ

夢の4割には霊的な意味がある

「夢枕に立つ」という慣用句があるように、神仏などが枕元に現れて、何かを告げる夢を見たという言い伝えは昔からあった。そのことから「枕」は異界と現実界をつなぐ「間座(まくら)」とか、神霊を召喚するための「真座(まくら)」「魂座(たまくら)」と考えられた。夢は神仏の「ご意志」なのである。

 だが、夢の6割は、普段の現実世界で起こることの練習やシミュレーションをしているだけである。残りの4割のなかに、予知夢だとか啓示的なシンボリックな夢があるのだ。

 最新の心理学の研究では、夢などまったく意味がないという説もある。

 

寝言に返事をしてはいけない?

・夢に関連して、寝ている人が寝言をいったときに、その人に対して何か語りかけてはいけないという風習がある。

 西洋の新宗教にも、類似する考え方がある。たとえば、麻酔手術の最中の患者に手術の執刀医たちが何か変な話をしているとする。すると、それが麻酔状態の患者に影響を与えて、何か重篤な身体状態を引き起こす引き金になることがあると警鐘を鳴らしているのだ。あくまでもその新宗教の考え方だが、医者の科学的知見にも影響を与えたとされている。

 

毎日、無意識に使っている――漢字・図形・数字に隠された呪力

漢字による未来予測

・この漢字を使って、未来をある程度占うこともできる。それぞれの年は、時計回りに進む易のように毎年性質を変えるからである。すなわち、基本的に北の坎(かん)(水)から始まって、艮(こん)(山)、震(しん)(木)、巽(そん)(風)、離(り)(火)、坤(こん)(地)、兌(だ)(沢)、乾(けん)(天)と進む。それは、自然界の次の営みによって説明される。

 

・たとえば2020年は、さまざまなデータから「風」に象徴される「巽」の年になると、私は前年の段階で判断した。「風に乗るもの」として「噂」「ウイルス」などが話題になるといくつかのメディアで2019年に発表したが、それは現実となった。

 

・では、なぜ熊に烈火がつくのかというと、熊がいちばん神に近い動物だとされたからだ、火は、実は日に通じ、靈(ひ)のシンボルでもある。つまり「熊」の劣化は、霊獣であり神獣であることを表わしている。

 

日本画に隠された易

日本画の掛け軸にも、その易の原理が隠されている。山水画のなかには、易の八卦の世界が描かれているものがあるのだ。その基本的パターンとは、中央上(北)には滝(坎)が流れ、その右(北東)には山々(艮)が連なる。その下(東)には樹木(震)が茂り、さらにその下(南東)には、風(巽)通しの良い見晴らし台や橋がある。中央下(南)には紅葉などの赤色(離)の入ったモノが描かれる。

 

・神事のときに「三方(三宝)」と呼ばれる台の上に柑橘類など丸いものを神饌(しんせん)として供えるのにも、意味がある。「三宝柑(さんぽうかん)」と呼ばれる柑橘類まであるが、並べるのはみかんだったり、りんごだったり、芋だったり、団子だったりする。日本画でも丸いものを三つ並べる絵が重宝がられる(例『茶碗と果実』)、これは三つの実りを願うと同時に、三つ(火)の丸いモノ(天)が易で「天火同人」の卦を表わすからである。

 天下同人とは、多くの人と広く協力して事に当たることを意味し、公明正大に偏りなく接すれば、チームワークの力で大きな目標を達成できることを示している。人が寄り添うことで吉祥となることを祈念している。三時のおやつに丸い団子を食べるのも、意味があるのだ。

 日本画や中国画には、易の呪術的意味が込められていることが多いのである。

 

華道と茶道がスピリチュアルである理由

・こうした呪術的要素は、伝統文化では積極的に使われていた。しかし、次第にその意味は失われ、埋没してしまったのである。

 たとえば華道では、流派によって真副体(しんそえたい)とも呼ぶ基本の役枝となる三本の枝を天・地・人と呼んだ。これは三元といって、この世の三つの力を表わしている。

 見えない世界からくる三つの力を水盤に流し込んで、その大地からエネルギーを汲み上げる植物が「地」の枝になり、人に代表される生命のエネルギーを「人」の技で表わす。その中央の奥には、エネルギーを絶えず降り注ぐ「天」の技があるという図式がそこにはある。

 華道は霊的なオブジェを生み出す芸術なのである。生け花自体を祭壇だと見なすこともできる。華道はいわば天地人の祭りなのだ。

 

・茶道では、真ん中の炉を囲む形の「方丈」で営まれる。鴨長明の『方丈記』に書かれているように、一丈(約3メートル)四方、畳四畳半の広さの部屋である。その見取り図を見ればわかるように、すでにここには真ん中の炉で交わる「逆卍」のシンボルが隠されている。

 全体は方形であるから、形としては真四角であり易では「地」を表わす。すると、地を表わす四角の真ん中で「火」を焚くことになるので、「火地晋」の卦が隠されているのである。

 火地晋とは、すべてが順調で少しずつ良くなっていく状態のことで、端的にいうと、心の平和を祈る卦を表わしている、つまり、人を平和に戻すための儀礼が茶道なのである。

 さらに炉(火)の上で「水」を沸かしてお茶を飲むという作法には、「水火既済」という卦が隠されている。水火既済とは、収まるべきところに収まっている状態のことで、物事が成し遂げられ完成することを祈る卦なのである。

 したがって、茶道全体では、物事が成し遂げられて平和になるようにという呪術が込められているのである。

 

108と煩悩  多岐にわたる数の根拠

・108は煩悩の数とされる、人間の心身を悩まし続ける煩悩を表わした数だというのである。一説には、六識を生ずる六つの感官、すなわち眼、耳、鼻、舌、身、意の六根には、それぞれに悩みが六つずつの計三六の煩悩があり、それが過去、現在、未来と三つあるので、三を掛けて108となるのだという。

 

子供に「見えない世界」を教える

・子供の遊びやわらべ歌には、呪術性が隠されている。隠されているというよりも、むしろ呪術性について子供に教えるために伝承されたようなものといえる。

 幼少のころから、歌ったり遊んだりして、無意識に刷り込まれていく、その歌詞や所作の意味を、大人になって改めて問い直すと、意味不明だったり、不気味に謎めいているものも少なくない。

 

かごめ唄  神降ろしの意味があった

・かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる

夜明けの晩に 鶴と亀がすべった

うしろの正面だあれ?

 

 かごめ唄のように、一人を囲んで輪になる遊びも、呪術的な効果がある。東北では「地蔵降ろし」と呼ぶ。実際に真ん中に子供を置いて目隠しをして、周りで特定の歌を歌いながら回る。最後に「後ろの正面誰?」と聞いて、それを本当に当てられた人には、本当にお地蔵さんが掛かって(降りて)きたことを知る手段であった。つまり、かごめ唄の遊びは、巫女の透視能力を判定する簡易選別法であったわけだ。

 東北では地蔵様は、オオクニヌシノミコトのように見えない世界の意志だと考えられた。見えない世界に秘められたものを象徴するその地蔵と、交信ができる子供に聞いて、「来年は豊作かどうか」「生まれてくる子供は男か女か」などを占ったのが事の起こりであるといわれている。それが童謡として残ったのだ。東北にはそういう風習が多い

 

てるてる坊主  人形を使った呪術であった

・てるてる坊主 てる坊主 明日天気にしておくれ

それでも曇って 泣いていたら そなたの首をチョンと切るぞ

 

 てるてる坊主を吊すのは、代償を捧げることによって、自然をコントロールする呪術だ。自然をコントロールしようと思ったら、人もしくは人形(ひとがた)を使う。人形には、イメージを増幅させる呪力があるからである

 かつては「人柱」と呼ばれる生贄の習慣があったとされる。一方で、それではあまりにも不憫だからと、埴輪を使う場合もあっただろう。さらに簡略化されたものが、人形に紙を切った紙人形だ。てるてる坊主も人形の代用物である。

 

通りゃんせ   「怖いもの」の正体を教える

・通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ

 天神様の細道じゃ

 ちいっと通してくだしゃんせ

 御用のないもの通しゃせぬ

 この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります

 行きはよいよい 帰りはこわい

 こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ

 

 子供の遊戯には、呪術的なものが隠されている。その呪術性を後世に残そうとして、子供の遊戯に託した場合が多いのである。「通りゃんせ」に隠されているのは、箱根の関所越えの厳しさを歌ったのだという説もあるが、基本的には「天神様の祟り」がメインである。怖いものは何か、ということを子供に教えようとしたのではないかと思われる。

 

指や手による呪術  「印」で悪しき因果を断つ

10本の指が持つ霊的イメージ

・昔は子供の遊びに指切りゲンマンや、不浄なもの(悪しき因果)を断ち切る意味と見られる「エンガチョ」など、指や手を使った呪術的な遊びが流行っていた。これにも深いわけがある。というのも指はもともと、人間関係を表わす強烈なシンボルだからだ。

 たとえば親指は、「一家の亭主」や「親方」として使われる言葉であることからもわかるように、親あるいは最も身近な人間関係を表わす。それが、小指に向かうにつれて縁が薄くなっていく。

 具体的に挙げると、まず左手が男性、右手が女性を表わす。

 

指切りげんまんと小指の意味

・指の印は、約束や誓いに関係するある種の呪術だ。そこにいろいろ付随して、遊び的な要素が加わった。約束のなかでもいちばん軽いのが、「指切りげんまん、嘘ついたら針千本の~ます。指切った」といいながら、子供たちが小指をまげて引っ掛け合う「指切り」「ゲンマン(拳万)」なのである。

 江戸時代の遊郭で、遊女と客が、その愛に偽りがなく不変であることを示す証しとして、実際に小指を切断して贈っていたことがあったという。それが「約束を守る」という意味に変化して大衆に広まったとみられる。

 室町幕府が1512年に定めたという「撰銭令(えりぜにれい)」では、銭に関係する違反者に対して男は斬首、女は指を切断するという罰があると記されている。約束を破った者に対する罰として指切りは存在していた。やくざの「落とし前」も、この刑罰に由来しているとみられている。

 

縁切りのしぐさ

・親指を、人さし指と中指の間に入れて交差するしぐさは、「封印をすること」を指している。13世紀ころの『平時物語(絵巻)』には、信西平治の乱で殺された平清盛の側近)一味の生首を見ている侍がこのしぐさをしている。ローマ教皇庁のシスティナ礼拝堂に描かれた、ミケランジェロ(1475~1564)の『クマエの巫女』にも、このしぐさが描かれている。いずれも、汚いものや恐ろしいもの、不浄なものに遭遇したときに、思わず指をさしたり、見つめたりしたときにする「縁切りのしぐさ」ではないかとされている。

 両手の親指と人さし指で輪をつくり交差させる印も、悪縁を断つ呪術だ。因果が「えんが」となり、エンガチョごっこになったとも考えられている。

 

うつ病とスピリチュアル的療法

うつ病的な症状には、スピリチュアル的なものと、そうでないものがあるのでしょうか、とよく聞かれる。

 医師でない者が病気を診断してはいけないし、治療をしてもいけないから私からは何ともいえない。ただいえることは、うつ的な人のなかで、心療内科や精神科に受診しにいった後、その心療内科の先生の紹介で私のところに相談にくるケースがあるということだ。つまり、現代の医学では手に負えないケースもあるのである。また、その先生自身が連鎖的にうつっぽくなって、私のところに相談にくることも一度や二度ではない。

 難病治療をおこなっている代替医療西洋医学以外の治療、鍼灸や気功などをはじめとする伝統療法)の医師自身が、難病になるケースは多い。

 

風習を呪術性から読み解く作業

・最近はマインドフルネスとか、脳にいちばんいい瞑想は何かという議論がよくなされるようになった。私から見れば、脳にいちばんいいのは、「動的瞑想」である。座禅に代表される動かない瞑想、つまり静的瞑想はマインドフルネスをはじめたくさんある。

 だが、日々の動作を整えるという瞑想があるのである。それは、すなわち体で所作を覚えておこなうことによって得られる脳の活性化にほかならない。その所作こそが本書で取り上げた「しきたり」であり風習である

 しきたりは、意味を味わい、良い感情とイメージで実行すれば、動的瞑想として、どのようなノウハウよりも人の脳にいい影響を及ぼすのではないかと私は考えている。

 

呪力を象徴した神話  古来のスピリチュアルの知恵を探る

三輪山

オオクニヌシノミコトが国づくりで行き詰まった際に、海上を照らして助けにきたのが三輪山の神である。オオクニヌシはその神の助けを借りて、見事国づくりに成功する。

 「三輪」というのは、「三つの和」を表わす。三つのものをバランスよく考えることが重要であるということを教えてくれている。三輪山の形に見られる三角形も、三つのものの和を保つという意味がある。

 この三つのものとは、何かというと、いろいろなものが当てはまる。たとえば、人間がもともともっている霊性である「直霊」「霊魂」「霊魄」を三つとすることもできる。

 

日本神話で大海原の神スサノオ、太陽の神アマテラス、夜の神ツクヨミという三貴神イザナギから生まれるのも、ギリシャ神話で空を支配するゼウス、大地の女神デメテル、冥界を治めるハーデスという三神が描かれているのも、やはり国の成り立ちには、三つの要素が必要なことを説いている。現代の日本もアメリカも、立法・司法・行政という三権分立があるので、かろうじて国が保たれているのが現状だ。