日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

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物質界を通じての贖罪の道は長く険しい。しかし、最終的には神へと至るのである。(1)

 

『天使伝説』

パオラ・ジオベッテイ   柏書房  1994/12/1

 

 

 

忘れられたカテゴリー

・近年、神学者は天使のことを「忘れられたカテゴリー」と定義している。確かに現代人は、光の天使よりも、悪魔や悪魔憑き、呪文、黒ミサ、悪魔祓いなどといった暗い話題に興味を示しがちである。天使が人間の心のなかに不動の位置を占めていたのはそんなに遠い昔の話ではないが、最近では神学者でさえも天使を顧みようとはしなくなってしまった。

 

神話世界の天使たち

西洋、そして東洋の伝承

・天使は絶えず人間と共にある。この「人間」とは神の子――キリスト教徒のみに限られるものではなく、すべての宗教を信じる人々を指している。数えきれないほどの宗教的伝承において、天使とは天と地の仲介者、神のメッセンジャーないし人類の守護者として登場するのである。

 

イスラムの天使たち

天使および大天使については――特に大天使ミカエルとガブリエルは――コーランにおいてもしばしば言及されている。紀元610年にムハンマドマホメット)が神の召命を受けたのも、彼の夢の中に登場した大天使ガブリエルを通じてであった。また、ムハンマドは死に際しても天使に伴われていたと伝承は伝えている。

 

旧約聖書の天使たち

旧約聖書からは確立した天使論を取り出すことはできない。天使の姿、性質、そしてその人と神との関りを描写した記述には何ら統一的な見解が見られないからである。しかし、旧約聖書は神が人との関わりにおいて仲介者を使っていたことを明らかに示している。聖書時代のユダヤ人たちは、神は天使を介して世界を支配し、歴史をつくりだしていると固く信じていたのだ。

 

新約聖書の天使たち>

新約聖書旧約聖書と比べて登場する天使の数もはるかに豊富であり、それを描いた絵画や彫刻も数知れない。

 

神々のメッセンジャーか、人間の守護者か

・聖書は天使について明確な定義を与えてはいないものの、天使の存在を当然の事実とし、姿を目のあたりに見せてくれる。だが、そもそも天使はどの時点で創造されたものなのか?「ヨブ記」は天地の創造に先立ち喜びさざめく天使たちの姿を叙述している。「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い、神の子らは皆、喜びの声をあげた」。「ヨベル書」にあるとおり、天使は創造の第一日目に創造されたのであろう。

 聖書においては、天使の本質やその神と人との関係についても明確にしてはいない。しかし、様々な記述から、神が天使を介して人々と接触していること、天使は神のメッセンジャーであることが見てとれる。

 

天使たちの位階――天使学の成立

アレオパキダのディオニュシオスの天使論

キリスト教天使学における最も傑出した権威としてアレオパギダのディオニュシオスを挙げることができる。

 

天使の9階級

・天界のヒエラルキーについて、ディオニュシオスは神という第一の原理のみその本質を理解できるとしている。人間が天界の神秘を知ることは不可能なのだ。だから我々人間は自分自身から出でたるものについては語らず、天使を通じて神を知り我々を教化してくれる聖なる人によって考え出された天界のビジョンについてできる限り説明しようとするのである

 

・天使には9階級あるが、大きく3つの位階に分類することができる。第1の位階は、常に神の面前にいる天使たち――セラフィム熾天使)、ケルビム(智天使)および座天使がこれに属する。さらに第2の位階は、主天使力天使そして能天使、第3の位階は、権天使、大天使そして天使によって構成されている。

 

・これら天使の名前はそれぞれの性質を指し示しているという。例えば、セラフィムとは「火を発するもの」もしくは「熟するもの」、ケルビムとは「たくさんの知識」もしくは「知恵の注ぎ出し」そして座天使は主の聖座に最も近くあることを示す。これらの三天使は常に神の近くに座を占め、神から直接その完全性と認識を即座に受けることができるのである

 

人と共にある「天使」

・「天使」は神の使者であり、人間の最も近くにある存在である。「天使」が人間界に最も頻繁に姿を現し人間界の事象を司っていることを考えれば、この「天使」という名称は実にふさわしいものといえるだろう。だからこそ主は人間界のヒエラルキーを「天使」の手に委ねたのだ。主は天使に人々を治めさせ、地上を支配する天使の数に従って境界を定めたのである。

 

ディオニュシオスの見解では、天界の存在はすべてその先行する位階に従属する啓発者であり、死者であるという。したがって、最も高位にあるものは神自身によって動かされ、それ以外は位階に応じて間接的に動かされていることになる。すべてを支配する秩序だった調和は、天界の存在をそれぞれ既定の位階とその属性に配置し、神聖なる秩序に従って天上のヒエラルキーを構成するのである。このように天界のヒエラルキーは三種類の基本的な仲介機能に分類される。もちろんこれは、神がその機能に応じて自ら分類したものである。セラフィム熾天使)が「互いに呼び交わし、唱えた」というのは、セラフィムが一番最初に神の意志を知り、これを互いに伝達しあっている情景を描いたものなのである。

 

カトリックにおける悪魔

悪魔の存在はカトリックの教義において重要な部分を占めている。もちろん信心深いカトリック教徒たちの宗教談義の話題にはなりにくいが、歴代の教皇は悪魔の存在について繰り返し説いてきた。このカトリックの教義について、コラド師は著書『悪魔憑き』において次のように述べている。

 サタンは人間の場合と同じく神の最も重要な創造物である。しかし、その性質と能力は人間をはるかに上回る。正確に表現するならば、サタンとは堕天使のことである。

 

・天使といえども審判を受けなければ、永遠の至福を享受することはできない。謀反を企てた数多くの天使たちは、人間の場合と異なり贖罪の機会を与えられない。なぜなら、天使は自分自身とは何か、そして神とは何かを完全に理解しているからである。そして、天使が断罪された瞬間に、悪魔と地獄という概念が生まれた。

 

ヤーコブ・ロルバーの堕天使観

オーストリアの音楽家ヤーコブ・ロルバーはその著作において、ルシフェルの謀反と堕落について包括的かつ詩的な魅力にあふれる議論を展開している。

 

・ヤーコブ・ロルバー(1800-1864)はグラーツに生まれ、そこで生涯を過ごした。1840年3月15日、彼は特異な体験に悩まされることになる。「心の近くから聞こえる」声が彼に「ペンを取り、書き記せ」と命じたというのである。

 

その一方で、彼は「声」の命ずるまま、日夜ペンを握って書き続けた。その草稿は1万ページに及んだが、まったく修正個所はなかったという。

 

・彼の記述によれば、神が神秘的な御業によって自らの内にすべてを知る精霊を見いだすとき、激しい力の緊張が生まれるという。そして神は自らに語りかける。「私は思考を自らの外に置くことによって、自らの力が達成しうるものを知ることができる

 行動を伴わなければ神といえども制限された範囲内でしか自らを知ることはできないという。行動を通じて自らの力を知り、そこに喜びを見いだす。これは芸術家が自らの作品を通じて初めて自らの内に秘められたものを知り、そこに喜びを見いだすのと同じである。だからこそ神は媒体となる存在を創造し、次のように自らに向かって繰り返し語りかけているのだ。「我が内に永遠の力が眠る。だから存在者を創造し、それにすべての力を与えることにしよう。そうすればその存在者が内包する力によって、私は自分自身を知ることができるのだ」

 

こうしてすべての力を与えられた精霊が創造された。この精霊こそルシフェル(光をまとうもの)であった。この名の由来は容易に理解されることだろう。ルシフェルは自らの内に認識の光を生み、いと高き精霊として内なる魂の両極性を十分に理解していたのである。

 自らの内に神に反抗する極が存在していることを十分に認識していたルシフェルは、神性を奪取しようとくわだてる。このとき彼は自分自身を無限の存在とみなすという誤りを犯している――創造されたものであるかぎり有限でしかありえないにもかかわらず、しょせん有限なるものに無限を理解させることは不可能なのだ。いに誘惑にたえきれず、彼は神を虜にしようとした。その結果、地位を失い、神の好意を失った彼は、ますます誤った衝動につき動かされ、他の創造物をそそのかして徒党を組む。かくして天界の闘争――善と悪との分化――は始まったのだ。結局、神はルシフェルに与えた力をすべて取り上げることになる。ルシフェルはその徒党とともに生き残ったが、その能力と力のすべてを失った。

 もちろん問題は残った。この堕落したものたちをどうするかという問題である。神はルシフェルとその一味をすべて滅ぼし、改めて第二のルシフェルを創造すべきなのか――しかしそれは、完全な精霊の創造が不可能であることが明らかである以上、同じ過ちを繰り返すことになるまいか?

 ルシフェルの自覚を促すためならば、取るべき道は一つしかなかったルシフェルの堕落が過ちによるものであるならば、いかにして彼にその過ちを贖う機会を与えたものか?神の英知が彼の堕落の可能性を予見できなかったとはどういうことか?

 

見よ、私は賢明な化学者である。私は不純物――すなわちルシフェルとその追随者を愛の温水の中で溶かし、その魂を再び結晶させることにしよう。こうすれば純粋透明な水晶となるだろう。この謀反は鉱物と植物の創造から人間の創造へと至る過程において勃発した。ルシフェルの魂がすべての物質世界を包みこんでいる以上、その魂は人間という形をとって現出しようとするに違いない。………

 

・このために、物質世界は、もしくは全宇宙は、もしくは物質的創造物としての人間は生み出された。人間の内部においてルシフェルの魂はその悪意の度合いに応じて幾重にも包み込まれ、闘争、誘惑そして苦難にさらされる。その目的はまず第一に自らの欠点を徐々に気付かせること。第二に自らの自由意志で改悛すること。……いかなる場合であっても自由の原理が第一であり、完全の原理は第二である……すべての眼に見える創造物は堕落し、物質に束縛されたルシフェルとその追随者である偉大なる霊の断片から成る。………

 見よ、私がこの横柄な天使の存在のゆえに為していることを。この天使が高慢から解放されていたならば、地球も太陽も、いかなる物質も創造されていなかったことだろう。……いまだ完成せざる子供たちの成長に、洞察と完全性が増してゆくことに、これによって発生する行動に私は崇高な喜びを見いだす。努力により達成される完全性を見る彼らの喜びは私の喜びでもある。

 

ルシフェルの謀反を寛大に解釈したこの神の美しい言葉、そして堕落した天使と追随者たちをその自由意志に基づいて天界に復帰させるために神が選んだ手段を称賛せずにはいられない。さらに「声」は「放蕩息子のたとえ」をもってルシフェルに関する説明を続けている。すなわち、聖書において「放蕩息子のたとえ」ほど意味のある記述は他にない……ルシフェルの名には失われた息子の要素がすべて含まれているのだ。事実、今日の人類はアダムの不運な種子を受け継いだ失われた息子だけで構成されている、といっても過言ではない。「放蕩息子」とはすべての人間を意味する………神の言葉に従って生きる者たちは贖罪を通じて生まれ変わり、失われた息子はあるべきところに帰るのである。

 

・さらに「声」は堕天使を物質界を通じて天上に帰らせる神の壮大な計画について語った。もちろん、その達成には想像を絶するほどの時間がかかることだろう。いつの日か、非物質的な地球が無限の宇宙を回り、祝福された自由な天使たちが無限の宇宙に満ちあふれ、その祝福された世界が永遠に続くようになる、という。しかし、その日がいつ来るのか、人間の思考で推し量ることはできない。仮に数字を得たとしてもそれを理解することはできないのである。

 以上のとおり、ヤーコブ・ロルバーに与えられた黙示によれば、物質界の創造はルシフェルと共に堕落した精霊たちを救済し復帰させるため、神が愛をもって予見し、はからった手段であったという。物質界を通じての贖罪の道は長く険しい。しかし、最終的には神へと至るのである。

 

スウェーデンボルグの天使

・彼が56歳になったとき、ある意味での危機が訪れた。確かに自分は有名になった。しかし、知識に対するあくなき欲望はありあまるほどある。そこでスウェーデンボルグは、人間の魂をさらに深く追求するため、とりあえず自分の夢について研究することにしたのだった。これは彼の眼前に新しい道を開いた。夢からヴィジョンへ――今や彼の任務は聖書の隠された意味を明らかにすること、そして天国と地獄とそれらの住人について人々に知らしめることになったのである。この天命を知ったその日から、天使と精霊が彼の教師になった。やがて、スウェーデンボルグは遠い過去の人々と話をすることができるようになり、さらには天上の人々とも意思を通じ合うことが可能になった。彼の魂は現世を飛び出し、その結果、見たこと聞いたことはいわゆる自動書記によって記録された。こうして発表された彼の著作は、当時としては極めて特異なものであり、カント、ゲーテユングなどにはかりしれない影響を与えたのだった。詩人のブラウニングは、もう一つの世界において我々が頼りにできる唯一の光はスウェーデンボルグの洞察であると評している。天国およびその住人に関する詳細な記述は彼の『天国と地獄』に見える。

 

天使の世界・死後の世界

・すなわち、天使たちは形では全く人間であり、顔、眼、耳、身体、腕、手、足を持っており、互に他を見、互に他の語るのを聞き、共に話しており、約言すれば、彼らは物質的な身体を上に着せられないということをのぞいては、人間にぞくしている物は何一つ彼らには欠けていないのである。私は彼らをこの世の真昼の光にも数度まさっている彼らの光の中に見たのであるが、その光の中では彼らの容貌はすべて、人間の顔が地上で見られるよりもさらに確然と、また明白に見られたのである。……

 しかしながら天使たちは人間の身体の眼(肉眼)で見られることはできず、人間の中にある霊の眼で見られることができることを知らなくてはならない。なぜなら霊の眼は霊界に在るが、身体のあらゆる物は自然界に在るからである。似たものは似たものを、似ているから見るのである。

 

・また、まず彼の死後の世界に関する考察について理解しておく必要があろう。

 スウェーデンボルグによれば、人間は死んだあと、これから辿るべき運命を即座に知ることはなく、重要な変化のプロセスを経ることになるという。我々が死んだとき、まず待ちかまえているのは天国でも地獄でもない「魂の王国」であるというのだ。ここで気をつけるべきは、彼が3世紀前の用語法に基づいて記述している点である。彼が、天国や地獄といった死後の世界を「場所」でなく、「状態」ととらえているところに注意されたい。地上での役割を終えた人間は「魂の王国」において導きを受ける。人(魂)によっては新しくやって来る魂の接遇をおおせつかるものもあるという。この魂の世話においては新しく来た魂に完全な自由を与えることに重点が置かれる。何よりも大切なのは、偉大なる愛を伝達し、すべてを知りすべてを説明することができる「友」の存在を知らしめることであるという。

 

スウェーデンボルグは死後の世界には三段階あるとしている。第一段階とは、死んだものが「魂の王国」に迎えられ、認識され、慰められる段階。この段階は決して長くは続かない。我々の本性と真の願望を実現するのにさして時間はかからないのである。こうして人間は真実の自分として行動を始める。「魂の王国」においては完全な自由が保障されており、それぞれの自由意志に従って善の道を選ぶことも悪の道を選ぶこともできるのである。このことこそまさに最後の審判の真に意味するところであるという。純粋な愛である神は人を糾弾しない。それぞれが自分の意志に基づいて地獄なり天国なりに行くのである。神の大いなる愛は、人をロボット化しないために、そして神と相互的な契約を結ぶために、悪を行う自由をも与えるのである。

 要するに最終的な判断は個々の魂に任されている。そして善を選択したものは天使となり、悪を選択したものは悪魔となるのである。

 

天使の衣服・天使の宮殿

・天使たちは人間であって、人間が地上で人間とともに住んでいるように、ともになって住んでいるため、衣服や住居やその他そうした物を持っているが、しかし完全な状態にいるため、さらに完全なあらゆる物を持っているという相違がある。なぜなら天使たちの知恵は表現が不可能であると言ってよい程人間の知恵よりはすぐれているように、彼らに認めら、見られる物もすぐれているからであるが、それは天使たちに認められ、見られる物はすべて彼らの知恵に相応しているという理由によっている。

 

天使たちの着ている着物も、かれらのもとにある他の物のように、相応しており、それは相応しているため、また真に存在している。かれらの衣服はかれらの理知に相応しており、それで諸天界のすべての者はその理知に従って着物を着ているのが見られ、それで理知に優劣があるため、衣服にも優劣がある。最も理知的な者は焔で燃えているような衣服を着、ある者は光で輝いているようなものを着ており、それほど理知的でない者は、明るくて白いが、光沢のない衣服を着、それよりもさらに理知的でない者は色さまざまの衣服を着ている。しかし最も内なる天界の天使たちは着物を着ていない。

 ……最も内なる天界にいる者たちは着物を着ていないのは、かれらは無垢(無邪気)であって、無垢は裸身に相応しているためである

 

スウェーデンボルグは天上の情景についても次のように描き出している。

 私は表現を絶した壮麗な天界の宮殿を見たことがある。それらは上は純金でできているように、下は宝石でできているように輝いていた――宝石の或るものは他のものよりもすばらしかった。内部もまた、部屋は、それを表現する言葉も知識もないほどの装飾でかざられていた。南に面した側には遊園地があって、そこでもまたあらゆる物は輝いており、ある所では木の葉は銀ででき、果実は金でできているように見え、花園では花がその色で虹を作っていた。その光景が終った境の向うにも他の宮殿が見えた。これが天界の建築であって、技術はそこではその技術そのままに存在していると言ってもよいものであり、その技術はそれ自身天界から来ているため、驚くには当らないのである。天使たちは言った。こうした物が、またそれよりもさらに完全な無数の物が主により彼らの眼前に示されているが、しかしそれでもそれによっては目以上に心が喜ぶのである。それは私たちはあらゆる物の中に相応を見、相応により神的なものを見るからである、と。

 

・相応については、私は以下のように告げられた。すなわち、宮殿と家のみでなく、その内と外にある物はすべて、天使たちが主から得ている内的な物に相応しているのである。全般的に家そのものは彼らの中にある善に相応し、家の中の幾多の物は天使たちの善を作り上げている色々な物に相応しており、外側の物は天使たちが善から得ている諸真理に相応し、また同じく彼らの諸々の認識と知識とに相応している。………

 天使たちの住んでいる家は、世の家のようには建てられないで、主から無代価に、各々が、善と真理とを受けとるにしたがい、その各々に与えられている

 

天使たちの活動

・天使の任務や機能はそれこそ無数にあるが、その任務や機能によって天使を分類することができるという。子供を世話する天使、キリスト教徒の中で善良にして素朴な人々を世話する天使、それらの人々を天国に導く天使、地上から天上に来たばかりの人々が生み出す悪徳からそれらの人々を守る天使、地獄にいる者たちを管理する天使、地獄にいる者たちが苦しみすぎないよう気を配る天使などといったように。また、すべての天使は人々が誤った思考や誘惑にまどわされることのないよう地上に派遣されているという。人々がそれを受け入れさえすれば、天使は常に誘惑を排除し安楽をもたらしてくれるのだ。こういった機能はすべて神の機能であり天使が神に代わって実現しているものである。天使は自分自身のためにそれを行っているのではなく、神の理法に基づいて行動しているのである。

 スウェーデンボルグの著作を読む場合に注意すべきは、霊界の出来事を文字に書き表すことが不可能であることを彼自身よく分かっていた点である。この世俗の世界からイメージを借りて表現することしかできないのだ。

 

天使たちはその英知に応じた言語および文字を使用しているという。その言語は文字どおりの意味を持つと同時に、内的ないしは霊的な意味も持ち、天使の思考を直接表現したものである。天国を天使が軽やかに飛び交っているだけの世界と思っている人々には、天使の言語の存在など想像もつくまい。それは物体が物質界においてのみ存在するという考えに基づくものであるが、天界においても物質界とまったく同じようにすべての物体が存在するのである。天使は天国においてその英知と生命を保つのに必要なものすべてを持っているのだ。

 

天使の英知を言葉で表現することはできない。それに関する事実から間接的に描きだすことができるだけである。天使は人が百万言を費やしても表現できない事柄をたった一言で言い表してしまう。さらに天使の言葉には、人間の言葉では、まったく表現できないような内容が無数に含まれているのである。というのは天使の言葉ひとつひとつには人間の科学でさえ解明できないような謎が連鎖的に含まれているからである。

 

天使の英知は進化を無限に続けるという。天使は有限な存在であるが英知は無限だからである。

 

天使の結婚

・『天国と地獄』においてスウェーデンボルグは天使の生活、仕事、願望、そして希望などについてこと細かに記述している。また、彼によれば天使には性別があるという。男の天使と女の天使がいるというのである。だから天使同士が結婚するということもあるわけだ。それは神の意志に従い、善性と意志、善性と真実の結合に応じて二つの魂が一体化することであるという。同種の天使が一体化することによって結婚し、それを天国において天使独特のやり方に従って賛美し祝福するのである。これは天上においては結婚とは呼ばれず、善性と真実の結合を通じての融合とされているという。

 

スウェーデンボルグの記述の中で圧巻なのは「死後の世界」に関するくだりである。人間はそこで進化し、自由に決断を下し、英知と夢を発展させてゆくというのだ。この「死後の世界」観はある種の先入観とは真っ向から対立するものであるが、静謐とは無縁の活動的な人間にとっては満足のゆくものといえよう。

 天使は生涯にわたって人間につきそい良い影響を与えようと腐心する。もちろんその人間の自由意志を尊重することは言うまでもない。これは悪魔についても同じであるが、彼らが人間に悪い影響を与えようと腐心している点のみ異なる。善を選ぶか悪を選ぶか、完全に個人の自由意志に任せているところに大いなる自由が横たわっている。ちなみにこの選択は生前・死後のいずれにおいても行い続けなければならない。

 

スウェーデンボルグは天使を創造の開始時に創造されたものとは見ていない。人々が死んでゆくに従って徐々に増えていったものであるというのだ。また、天国には地上とは関わりを持たず、信仰と愛にのみ生きる人々がいるという。同様に地獄にも悪への信仰と愛にのみ生きている人々がいるのである。天使と悪魔はこの地球上において(もしくは他の惑星において)同時に生を受けたものであるに違いない。しかし、まったく逆方向に進化を続けた結果、一方は天国に至り、一方は地獄へと到達したのである。

 スウェーデンボルグの膨大かつ刺激的な著作をここで短く要約することは非常に困難な作業であった。しかし、彼の見解は今なお強大な影響力を持ち続け、我々の倫理観と行動への責任感を喚起し続けてくれている。なにしろ、それが光の天使になるか闇の悪魔になるか我々の将来を決定してしまうというのだから。

 

芸術のなかで生き続ける天使たち

・天使はずっと、芸術家、とりわけ画家と彫刻家の想像力をかきたててきた。翼のある存在、または天空のメッセンジャーは、シュメール、バビロニアギリシャ、ローマなどの造形美術にも見ることができる。パリのルーブルに収められている、サモトラケ勝利の女神ニケー像は、紀元前2世紀に彫られたものだが、依然として人類がかつて生み出したもっとも偉大な有翼の像のひとつだ。この像は女性ではあるが、しかしキリスト教の教会の天使にそっくりである。現代では、絵画や石像、木像のかたちで無数の天使たちを目にすることができる。旧約聖書から取られたイメージも好まれるし、新約聖書からの題材はさらに好まれる。受胎告知、羊飼いへのよき知らせ、ヨセフの夢、オリーブ山での天使、昇天、ペトロの牢獄からの解放などなど、である。楽奏の天使たち、守護天使、天使の聖歌隊、燭台を支える天使なども、数多く現代の教会の中に見ることができよう。

 このような天使の像の子細をすべて紹介すると、あまりに膨大になろう。

 

ボッシュシャガール

・偉大なオランダの画家ヒエロニムス・ボッシュは魔術、隠秘学、宗教、童話などさまざまな主題からインスピレーションを得ていた。有名な「最高天への上昇」は、死にゆく人々が目の当たりにする光景の、実に忠実で印象的な描写である。

 

ボッシュの時代には、いわゆる臨死体験についてまだだれも口にしてはいなかった。臨死体験は非常に最近になってから知られるようになった現象である。間違いなく、ボッシュ自身の体験か(ボッシュがそのような体験をしたかどうかは分からない)、あるいは誰か他の人物から体験を聞いたかのどちらかであろう。はっきりしていることといえば、ボッシュはそれを「知っていた」ということである。

 

・傑出したロシアの画家マルク・シャガールは、1887年生まれ、つい最近他界したばかりの芸術家である。パリで活動したシャガールは、大半の作品で形而上的、超自然的なもの、夢、象徴を扱っている。

 

・この夢は、シャガール本人が人生のある時点で語っている。

  わたしは夢を見た。何もない、四角い部屋があった。その隅のほうについて置かれたベッドにわたしはいた。だんだん、暗くなって来た。…

 突然、部屋に天井が開いた。そして、すばらしい翼のある存在が降りて来て、部屋をよい香りで満たしたのだ。翼は、それが動くたびにかすかな音を立てていた。………

 天使だ! わたしは思った。その目もくらむ光のために、わたしは目さえ開けられなかった。………

 天使は、部屋のそれぞれの角を回ると、再び上昇し、天井を抜けて消えて行った。光も天使とともにうせ、晴天が見えた。………そして再び暗くなり、わたしは目を覚ました。

 

天使の世界を見たブレイク

・ロンドンで生きた、詩人にして画家、版画家ウイリアム・ブレイクについてもとくに紙数を割く必要があろう。ブレイクは、自身の詩集にキリスト教神秘主義から霊感を受けた挿画を入れていった

 子供のころからブレイクは精霊や天使の幻を見ることができた。ブレイクは、自分に絵を教えたのは天使だとすら言っている。超自然的な存在の出現は、彼の人生を通して続き、その作品にも強く影響を及ぼしている。例えば彼はイエス・キリストが毎日のように現れ、自分が書くものをすべてを左右したという。詩「エルサレム」でブレイクは、自分は単なる書記で、真の著者は彼岸に存在するのだと書いている。

 ブレイクは絵画についても、彼の前に現れ、霊感を与えたイメージの単なる複写であると主張している。ブレイクは二つの世界の中間に生きていたのだ。その二つの世界は両方とも、確かにリアルなものだった。

 

・ここにあげるのは彼の詩「天国と地獄の結婚」に見る、“記憶できる幻”のほんのひとつの例だ。

わたしは地獄から聞いた。この世が6千年期の終わりに火で焼き尽くされるという、古代からの伝承は真実である、と

 燃える剣を携えたケルビム(智天使)は、そのとき、命の木を守るその役目から外れよと命じられる。彼がそうしたとき、いま有限で退廃したかに見える、すべての創造物は消滅し、無限で聖なるものとして立ち現れる。

 

神曲」の天使たち

・文学における天使の主題、ということになれば、何と言ってもダンテ・アリギェーリの『神曲』を最初に取り上げねばならないだろう。この部分は、アレオパキダのディオュニシオスの天使階級論の教義の、まさに理想的な詩的表現である。これがダンテの時代の文化の産物であることは確かだが、しかし、同時にこれはまたダンテの幻視、個人的天使体験に由来する可能性もある。天国での彼の導者となり、天使の階級を説明したのはベアトリーチェであった。

 

そのとき、彼らを元の場所に保つ神に向かってオザンナを歌う声が、組から組みへと響きわたるのをダンテは聞いた

 するとベアトリーチェはダンテの心中の疑惑をさとっていった。

最初の二つの輪はセラフィーニとケルビーニの群であり、それらは第一級と第二級の天使である。前者は原動天を司り、後者は恒星天を司っている。彼らができるだけ速く自分の絆にしたがって回るのは、自分をできるだけ神に似させようとするためである。しかも視点の高さに応じて、そうすることができるのである。彼らの周囲を回るもろもろの愛は、神の御姿の宝座(座天使)と呼ばれているが、彼らは土星天を司る第三級の天使たちである。いっさいの知恵が平安をうる真理で神の中に、彼らの知恵が徹する深さの程度にしたがって、彼らの悦びも増すのだとご承知ありたい。それゆえ福祉を受けるのは、見る行為によるのであって、その後になす行為つまり愛する行為によるのではないことは、これを見ても明白であろう。見る行為は、功徳ではかられ、またそれは恩寵と善心とから生じ、かくして、一段一段と進んで行くものなのだ。

 

夜の白羊宮もけっしてかすめない天堂界の永遠の春に芽をふき出す、第二級の三つの階級の天使は、三つの戦慄に合わせて、永遠にオザンナをうたいつつ、その三つのつくりだす三つの悦びの中で三つの妙音をひびかすのである。この階級の中に三種の神の力があり、その第一は木星天の天使のもつ統治であり、次は火星天の天使のもつ有能であり、三番目は太陽天の天使のもつ権威なのである。つぎに、最後から二番目に歓喜の舞いをするのは、金星天を司る主天使と水星天を司る大天使であり、一番最後に舞うのは普通の天使である。

 

ベアトリーチェは、神と天使を結ぶ愛の絆にそって速く飛び回るセラフィムとケルビムについて、まず語った。次に第三階級の座天使について述べた。この三番目の階級の知性体たちは、それらの神の見方の深さと密度に応じて、悦びを味わうのである。天なる悦びは神を見る力にかかっているのであって、愛にではない。愛は神を見ることから生まれて来るのだ。

ベアトリーチェは続けて次の三つの階級を描写する。つまり、永遠に神を賛美する能天使主天使力天使である。最後の二つの悦びに包まれた回転するものは(歓喜の舞い)主天使と大天使、そして最後がふつうの陽気な天使たちである。

 

魂の内なる天使

ユング守護天使フィレモン

ユングは次のようにも記述している。

 患者と私は我々すべてに内在する2百万歳の者に語りかける。我々が陥る困難のほとんどは、本能、そして我々の内部に長年蓄積されてきた忘れ得ぬ英知とのコンタクトを失ったためにに生じたものである。

 

ユングはサイコセラピーとしての経験および自分自身の個人的体験に基づいて議論を展開している。彼は自伝『ユング自伝』の「無意識との対決」の章において、彼がフィレモンと呼ぶ想像上の人物が無意識の中からどのように現れ出てきたかについて記述している。フィレモンはまず牛の角を持った老人の姿で現れたという。

 フィレモンは異教徒で、グノシズム的な色合いをしたエジプト・ヘレニズム的な雰囲気をもっていた。その像は次の夢の中で初めて私の前に現れた。

 

・青い空であった。それは海のようで、雲でおおわれているのではなく、平たい茶色の土くれでおおわれていた。それはまるで土くれが割れて、海の青い水がそれらの間から現われてきつつあるかのように見えた。しかし、その水は青い空であった。突然、右側から翼をもった生物が空を横切って滑走してきた。それは牡牛の角をつけたひとりの老人であるのを私は見た。彼は一束の四つの鍵をもっており、そのうちのひとつを、あたかも彼が今、錠をあけようとしているかのように握っていた。彼はかわせみのような、特徴的な色をした翼をもっていた。

 

・時の経過とともにフィレモンはより現実的かつ実体的になっていった。ユング自身に成り代わることができるほどリアルになったのである。彼の想像力が与えた、フィレモンをはじめとする様々なイメージは、魂の中に自らを創り出しそれ自身の生命を持つなにものかがあることについて彼に決定的に確信を与えたという。

 

ジュセク博士の天使

ユングの経験と比較しうるような報告はユージン・G・ジュセク博士も行っている。

 

・チャールズが人生の終末を思うとき、この存在はいつでも自分の記憶に現れるという。この事実を確認したジョセク博士は様々な手段を講じてことの存在と接触することに成功したのだった。存在はヤン・スー・ルーと

名乗ったという。これは霊体が具現化するために、その霊が最後に人間であったときの人格を借りたものである。ヤン・スー・ルーはジョセク博士と、誕生と死、転生、自殺、人生の意義、愛、成功など根本的な問題について話し合うことに応じたのだった。最後にヤン・スー・ルーはジョセク

博士に対し、自身がチャールズの指導霊であること、また我々すべてがほぼ同じような教師と保護者を持っていることを教えたのである

 

・「天使」という言葉はこれら教師に与えられた名称である。この名をつけたのはこういった存在の霊性に重きを置いたキリスト教徒で、もう数世紀も前の話だ。しかし、この場合、「天使」という名所はあまり真実をついていない。教師は飛ぶための翼など持っていないのである。確かに教師は望むとおりに姿形を変え、その人格をよそおうことができるが、それはエーテル・レベルでの話である。

 

天使と自然の精霊たち

シュタイナーの霊的階層と自然霊

・「宇宙のなかで、どこにでも生命のあるものが導者(マスター)によって伴われ、導かれている。主なる神はその無限の英知においてひとつひとつの生き物のそばに、彼らを助け、支えるものを置かれたからである

 

・シュタイナーによれば、これらの精霊は霊的階層の低次の部分を構成している。その次にさまざまな天使的な存在がある、まずは天使そのもの。天使たちは不可視で人間のすぐに上位に位置し、神聖な霊的世界のメッセンジャーである。わたしたちの二つ上のレベルには大天使が位置し、その上には「人格の霊」が位置する。この霊はプリンキパリティーズ、原始時代の創始、あるいはアルカイとも呼ばれている。人類の上に立つ、この三つの階級の存在はすべてかつては人間であったのだが、人間の段階をこえて進化したものだ。ここで、エマニュエル・スウェーデンボルグのことをどうしても考えてしまう。二人とも、天使と悪魔の王国は人間から生じている、というのだ。

 アルカイの後にはケルビム(智天使)、セラフィム熾天使)、そしてスローンズ(座天使)がいる。すべては進化の結果であり、神のそばに棲む至高の神的存在である。彼らの活動は非常に鈍化されたものであり、人間の言葉では言い表せない。彼らは至高の英知と無限の栄光の霊なのだ。

 しかし、それだけではない。その上にはドミニオンズ(主天使)、パワーズ能天使)、マイツがある。この最後の三つの階層はエクゾウジアイといい、これは「形相の霊」とも呼ばれている。これらすべての神的な存在が合わさって複雑で完全な構造をつくり上げ、それが宇宙に安定を与え、宇宙を支配し、保ち続けているのだ。

 

神秘家・聖者たちと天使

ジャンヌ・ダルクは13歳のとき大天使ミカエルに国を救うべく彼女の運命を告げられたという。天使に囲まれ美しく光り輝くミカエルの姿は戦闘的な印象を与えた。以来、ミカエルはジャンヌ・ダルクの指導霊となって、彼女の失われた剣を見つけだしたり、軍を率いるときに用いるべき旗についてアドバイスを与えたりするなど、様々なシチュエーションで彼女を助け励ましたのだった。捕らえられ裁判において厳しく問い質されたジャンヌ・ダルクは、何度も天使を見たと証言する。彼女は、大天使ミカエルが地面に足をつけて歩いていたと証言したが、これを信じる判事はいなかった。結局火あぶりの刑に処せられることになったが、彼女は決して証言を撤回しようとはしなかったという。

 

アッシジの聖フランチェスカの天使と聖痕

・イタリアの聖人の典型であるアッシジの聖フランチェスカは1224年にベルナ山で聖痕を受けた。ある朝のこと、彼がいつものように山の頂でキリストの犠牲について瞑想を行っていると、6枚の翼と磔刑に処せられた男の顔を持つセラフィム熾天使)が降りてきた。彼がさらに美しいイメージを思い描きつつ瞑想を続けていると、なにか重大な神秘が迫り来るような予感を感じだ。すると突然、手と足に粗金の釘を打ちつけたような傷が現れ、また胸からも血が流れ始めたのである。

 

臨死体験と天使

ローマ・カトリック教会は我々ひとりひとりを見守っている守護天使の存在を説いている。この考え方は子供の時から教えこまれる以下のお祈りの文句にもよく反映されている。

 わたしの守護者である神の天使

 わたしを導き、見守り、救い、保護する

 私は信仰によりあなたに委ねられている

アーメン

 

 トマス・アクイナスは『神学大全』においてこの古い教義を改めて持ち出し、守護天使が我々の生涯を通じて、常に共にあることを再確認したのだった守護天使は我々が死したのちも行くべき運命を指し示すために共にあり、助けてくれる