日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

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応神天皇(ホムダワケ)が羅津から日本列島に渡来した際、この黄金ファンドを伴った理由は、日本皇室がウバイド人の正統だからと考えられます。(1)

 

天皇と黄金ファンド』

落合莞爾   成甲書房   2016/4/20

 

 

 

応神天皇=ホムダワケ

本稿は日本史はおろか世界史の中心に秘かに、しかし厳然と存在する「國體黄金ファンド」について述べたものです応神天皇=ホムダワケが日本列島に里帰りした際、この黄金ファンドを伴った理由は、日本人皇帝がウバイド人の正統だからと考えられますが、以後は皇帝管理下の國體黄金ファンドとされて、応神王朝の富国強兵策を信用財として支えます。それがやがて回収されて各地域文明に貸与され、ワンワールドの世界戦略のために利用されてきたのです。

 

歴史教科書の内容にこれほど反することを公表すれば、世間から変人扱いを受けて当然かもしれませんが、何と言われようと真実は真実ですから、心身を鼓舞して俗流史観に立ち向かいます。

 

國體(こくたい)黄金ファンドとは何か

・本稿は前著『天欧州とワンワールド』の続巻というべきもので、日本史はおろか世界史の中心に秘かに、しかし厳然と存在する國體黄金ファンドについて述べたものです。

 人類の文明は、前5500年のメソポタミア地方で始まったウバイド文化が発展したメソポタミア文明とされています。驚くべきことは、そのウバイド文化を担った人たち(仮にウバイド人と呼びます)がすでに、農地を創るための沼沢地干拓と感慨水路の造成工事のかたわら、沼沢地や河川流域の泥に含まれた「自然金」を採取していたことです。

 しかもウバイド人たちはこれを、装身具などの材料としてではなく、農耕・漁労・牧畜に分かれて分業社会を形成していた彼らが、互いの生産物を交換する時に経済的触媒(信用財)として用いたのです。

 

・そのことで社会的分業がいっそうすすんだメソポタミアに、前3800年ごろに入ってきたシュメル人たちがウバイド文化を受け継いでシュメル文明を発展させますが、ウバイド人はこの地を去ってインダス川の河口デルタに移り、自然金を採取しながら農地を造成してインダス文明を発達させます。

 

・こうして世界各地の大河の河口デルタで自然金を採取しながら文明を発達させたウバイド人は、大陸を進む騎馬勢力と海洋を行く海人勢力に分かれながらも、精神文明としての一体性をその後も保持して「ウバイド・ワンワールド勢力」となり、有史以来蓄積した「黄金ファンド」を信用財として用いることで、各地域文明の興亡に関与します。

 

応神天皇(ホムダワケ)が羅津から日本列島に渡来した際、この黄金ファンドを伴った理由は、日本皇室がウバイド人の正統だからと考えられますが以後は皇室管理下の「國體黄金ファンド」とされて、応神王朝の富国強兵策を信用財として支えますそれがやがて回収されて各地域文明に貸与され、ワンワールドの世界戦略のために利用されてきたのです。

 

聖徳太子は敏達と息長広姫(=額田部皇女)の間に574年に生まれた皇子であった。これにより、あらゆることが説明できます。

 

広姫の一人二役は「蘇我馬子の姪」の額田部皇女となることで蘇我馬子を後援するのが目的で、一方聖徳太子の母を穴穂部間人皇女としたのは、太子を「二重に蘇我馬子の又甥(姪の子)」とすることで同じく馬子に加勢するためです。

 ここで浮上するのは、敏達と額田部皇女との間に生まれた竹田皇子です。常に皇位候補に挙がりながら事蹟がなく、陵墓も母の推古陵に合葬されたとされる竹田皇子こそ、厩戸王聖徳太子)の別名とみるしかありません

 

 歴史教科書の内容にこれほど反することを公表すれば、世間から変人扱いを受けて当然かもしれませんが、何と言われようと真実は真実ですから、心身を鼓舞して俗流史観に立ち向かうしかありません。これからもやります。

 

「舎人文書」から見えた國體秘事

歴史の本質は「相似象」である

・身分の高い人をお迎えすることを「奉迎」といいますが、下に掲げる三件の「奉迎」は歴史的相似象の典型です。いずれも天皇(大王)を“外”からお迎えした歴史的事件です。

 

この20年、日本近現代史の解明に取り組んできたわたしは、昨年(平成27年)春に、ある出来事をきっかけに、本格的に古代史に踏み込むこととなりました。

 そこで真っ先に気付いたのが、右の三件が典型的な「歴史相似象」であることです。歴史相似象とはわたしの造語で、幾何学でいう「相似形」の概念を歴史事象に当てはめたものです。

 

満鮮経略は有史以来の日本の国是

・「満鮮経略」は、神武王朝(欠史八代)に始まり、崇神・応神王朝が推進した日本の国是であり、欽明朝から飛鳥時代にかけて最高潮に達しましたが、平安時代鎖国で退潮期に入りました

 平安時代鎖国政策は大陸騎馬勢力から國體を守るために実施されたものですが、五百年後に生じた元寇が片付き、東南アジアを起点に大航海時代が始まった14世紀に「満鮮経略」が再び活発化します。

 すなわち、南北朝時代に始まる初期倭寇の跳梁を契機に國體勢力の海外進出機運が高潮し、その大勢はマラッカ海峡を中心にした「南島経略」に向かいます。ところが室町時代に入り、大西洋とインド洋の沿岸に大航海時代が訪れるとイエズス教会の東洋侵略が激しくなり、日本にも侵入を試みます。

 

・要するに、北東アジアに関するわが国是は有史以来一貫して「満鮮経略」なのですが、その始まりは、いわゆる「欠史八代」すなわち神武王朝にあり、今日の南北朝鮮問題も、そこまで遡らなければ本質が見えないのです

 わが国が戦後70年経っても、国是を見失ったまま世界史を漂流している根本的理由は、国民が「満鮮経略」を意識から追い出してしまったからです。国是の根本たる「満鮮経略」をもう一度思い起こさねば、日本の将来は見えません。

 その「満鮮経略」の淵源は「欠史八代」に遡らなければ、何ひとつ見えないのです。つまり、諸悪の根源は戦後の史学界が「欠史八代」を不存在としたことにあるのです。

 

欠史八代否定論の津田左右吉と転向史家の家永三郎

・わたしが前著『天皇ワンワールド』で主張した第一点は、早稲田大学教授津田左右吉が戦前に言いだした「欠史八代天皇架空説」が完全な誤謬であり、その綏靖から開化までの八代の天皇が日本史上にたしかに実在したことです。

 『記紀』などの古文献を金科玉条とする戦前の「皇国史観」を、実証史学の立場で否定した津田左右吉の本質は、歴史家というより思想史家だったようです。満鉄調査部の出身で早大教授となった津田は、綏靖から開化までの八代の天皇を「欠史八代」としたばかりか、これに続く崇神・垂仁・景行・成務・仲哀および神功皇后までの実在を否定する「欠史十三代不在説」を主張しました。

 これに対し、皇国史観を代表する元慶応大学予科教授蓑田胸喜などから「悪魔的虚無主義の無比凶悪思想」との攻撃がなされます。検察からも不敬罪に問われた津田は、出版法に定める「皇室尊厳冒瀆罪」で有罪判決を受けますが、控訴中に敗戦となり容疑じたいが取り消されました。

 

大東亜戦争の敗戦後に、連合国軍最高司令部(GHQ)の監督下に置かれた日本国文部省は、戦前とは一転して津田説を採用し、応神以前の天皇をすべて歴史教科書から削除しました

 その一方で占領米軍は、刀剣など隠匿武器の摘発を名目に全国の神社に立ち入り、おびただしい古文書を押収して米国に持ち帰ったのは日本古来の神道をそれだけ畏れていたわけです。

 

これは、連合国指導層に潜んでいた「真の世界史」を知る者が、「真の世界史」が日本から世界に発信される事態を畏れたためと聞きます。「真の世界史」とはむろん、旧約聖書の真否です。

 ワンワールド内の一部勢力が世界史の秘密に関わる重要な情報が日本各地の神社に古文書として残されていることを知っていて、世界史の秘密を独占するために行ったのが神社古文書の強奪だったのです。

 

・敗戦日本にマルクス史観が滔々(とうとう)と流入したのは、日本占領に関する米ソ間に秘密協定によるものです。アメリカとの談合によって日本の精神界を指導する役割を担ったコミンテルン(国際共産主義勢力)が日本の教育・言論界を支配する構造ができましたが、その典型の一つが日本史学界です。

 

欠史八代」と吉田武彦説・安本美典

マルクス史観の立場から反皇国主義の本家として賞揚された「津田史観」が、やがてその党類からも矛盾を次々に指摘されたのは当然です。ことに崇神から仲哀・神巧にかけては実在説が有力となり、現在では綏靖から開化までの八代に限って実在を否定する「欠史八代不在説」が日本史学の主流となっています。

 

ウィキペディアによれば、古田説の概要は下記のようです。

  • 神武天皇は実在した
  • 古代天皇の在位数は正しく、在位の年数が拡張されている
  • 倭国とは“九州王国”のことであるが、白村江の敗戦(663年)によって急激に衰退し、分家の近畿天皇(ヤマト王朝)に吸引された。

 

歴史学界が「欠史八代不在」を固持した戦後の社会事情

・鳥越・吉田・安本の説は、戦後の日本史学界で異端とされ、この三人は「まともな歴史学者」として扱われないまま今日に至っています。こうなった理由は、下記の四点です。

  • 占領米軍が原爆の投下や東京裁判の開廷など、自らの戦争犯罪を正当化するため「日本性悪史観」を日本政府に認めさせたこと。
  • 敗戦日本の保守政体が、占領米軍に迎合するために、「戦前否定史観」による歴史教育を推進したこと。
  • 国際共産主義の指導と政治的支援を受けた革新派学者が浸透を図った「マルクス史観」が「戦前否定史観」と合流したこと。
  • 学校教育の現場を支配下に置いた日教組が、間接的に占領米軍の指示をうけて、過去の日本を先験的に悪とする「自虐史観」を学童・生徒に刷り込んだこと。

 

右の④は世間に全く知られていませんが、大東亜戦争の終盤で日本軍と連合軍を天秤に掛けたソ連の外交術策にまんまと嵌(はま)ったアメリカが、ソ連との秘密協定により、北海道と東北地方の占領を望むソ連を諦めさせる代わりに思想・報道・教育など文化面における日本社会の共産主義化を許したことから発したものです。

 

アメリカ軍の占領とそれに続く保守政体の下で、日本社会党と支持母体の日教組官公労などの労働者団体、および朝日新聞・NHK・岩波書店など言論機関は、世界的基準に照らせばそれ自体立派な共産主義勢力なのに、なぜか漠然と革新勢力と見なされて公然と活動を許されたばかりか、間接的な公費支援さえ受けてきたのは今思うとまことに不可解な現象ですが、その原因は、実にここにあるのです。

 

だからこそ「政治・経済は親米保守」なのに、「文化・教育は隠れ共産主義」という奇怪な二本立ての社会構造すなわち「日本の戦後体制」がわが国にできたのです。

 さらにいえば、この体制が日本国民によって是正されぬまま平成時代に至った原因は、下記の三点です。

  • 米国が日本を思想的に弱化させるため、日本社会に敗戦思想を強要したこと。具体的には「政治経済は親米保守で文化・教育は親共産主義」とする二本立て構造を押し付けたこと。
  • 米国が日本を収奪する貿易利権構造を造り永久化したこと。具体的には輸出代金の一部を米国債で強制的に受け取らされ、自由に処分できないこと。
  • 米ソ二極構造を前提として、占領憲法で日本を非武装化したこと。具体的には日本を軍事的対米従属に追い込んだこと。

 

欠史八代研究の遅れを取り戻せ

政経親米保守で文教は隠れ共産主義という二本立て構造の後者が国力の回復につれて弱体化したのは、國體に備わる自然回復力によるものですが、これを今でも「保守化」とか「反動軍国主義」とか罵倒している勢力がいます。後者の残党です。

 

米ソ二極時代には後者の本流だった日本社会党がもろくも崩壊したのは、「パチンコ・北朝鮮関係」だけでなく、基本的には共産主義国ソ連の崩壊によって起きた自然現象です社会党の後身の社民党も崩壊したので、後者の残存勢力は、目下民進党とやらに潜入して安倍政権を罵倒しています。

 しかしながら、民主政治というものは体制内の対立勢力が互いの妥協点を探すための方便ですから、政党の対立しか念頭にないような連中は、まともな民主政治家ではありません。日本がまともな民主社会に向かうなら、民主党民進党)が潰れるのは自然現象です。

 

津田左右吉自身は反共主義者とされ、天皇についても機関説思想の持ち主だったようですが、かれが唱えた「欠史八代不在説」は、皇国史観排撃の功績だけが評価されて独り歩きし、日本的伝統の全面否定を図るGHQの御用史学とされたのです。

 しかも天皇の絶対性を否定したことを理由にマルクス史観と見なされた津田史学は、天皇制の廃止を究極目標とするコミンテルン(国際共産主義本部)の推奨を受けたことにより戦後の日本史学界の主流となったわけです。要するに、戦後の日本史学界を独占支配してきた「天皇半島渡来史観」は、米ソ両極が相携えて日本に強制した古代史捏造の基盤とするために、反日外国勢力によって創作されたものです。

 

本稿が追及する國體秘史

・前著では孝元天皇の皇子「ヒコフトオシのマコトのミコト(フトオシ)」が豆満江河口の羅津に渡ったとする私見を述べました。

 これによれば、『日本書紀』がフトオシの孫とする「タケウチの宿禰(すくね)」は、フトオシが満州で作った孫の二代八幡殿と従兄弟になります。したがって「タケウチの宿禰(すくね)」の子の蘇我石川宿禰は三代目八幡殿とマタイトコ同士で六親等の関係です。

 満州で代々の八幡殿となったフトオシの子孫が、葛城地方(奈良県中西部)で勢力を蓄えた同族蘇我臣と間断なく交流したのは当然で、具体的には蘇我臣の一部が渡満して八幡殿の側近として仕え、日本との連絡に当たっていたはずです。

 

「大兄(おおえ)・大后(おおきさき)」は國體黄金の管理人

ワンワールド黄金の由来

・日本古代史を論ずる前に、ワンワールドと皇室の関係を簡単に語っておかなければなりません。

 そもそも崇神王朝(三輪王朝)は、縄文海人系の神武王朝(葛城王朝)が大陸勢力の世界的勃興を読み取り、これに対応するため大王(おおきみ)(天皇)の騎馬族化を企んだことにより創始されたのです。

 前5500年ころにメソポタミアでウバイド文化をつくったウバイド人は、前3800年ころにメソポタミアを出ますが、ウバイド系騎馬族はウクライナ草原でスキタイとなったのちに東西に判れ、西に向かった一派がケルト族(Y染色体ハプログループ、R1b)となり、到達した欧州西端のブリテン初頭からアルモリカ(ブルターニュ半島)に移り、ここにワンワールドの西極を形成します。

 一方、東進したウバイド騎馬勢力の先鋒となった扶余族は「濊(わい)」と「狛(はく)」に分かれ、前者が朝鮮半島に、後者が満州に入ります。のちの百済高句麗です。

 東進したウバイド海人族が日本列島に到来したのは前1400年ころと推定されます。

ウバイド海人は先住縄文海人(Y染色体はハプログループはD1b)のアマ族と・安曇族と融合して北九州に縄文海人国を建てますが、前1世紀にその王がヤマトに遷り、ヤマト王権(神武王朝)を建てます。いわゆる「神武の東遷」です。

 東遷の理由は、大陸騎馬族の来襲に備えた陣地の縦深化とみられますが、実はウバイド・ワンワールド特有の極秘理由があり、メソポタミア以来秘かに本業としてきた砂金の採取が主な目的であったと聞きました。当時はどこにも散在していた自然の価値に先住民が気付く前に、ウバイド人が先手を打って拾得したのです。

 

ウバイド人が蓄積した砂金は、装飾品の材料として少量を他民族に供給したほかは、分業生産物の交易を媒介する秤量貨幣として用いました。

秤量貨幣は消費財でなく信用財ですから、G(お金)→W(商品)の形でウバイド人が交易界に放出した砂金が、やがてW→Gの形でウバイド人の手元に戻ってくる過程では増減はありません。ゆえに、蓄積した黄金を用いた交易の他に、その黄金全体を「不増不減のファンド」として管理するのもウバイド人の職能となったのです。

 ファンドとは「基金」と訳されますが、使い果たしてしまう「黄金」とは異なり、役割を果たしたあとは必ず返還されてもとの基金になる性質のものです。「ワンワールド黄金」はその意味のファンドなのです。

 

・大河の河口デルタにおいて農地造成と分業生産物の交易に携わりながら砂金採集を進めたウバイド人は、人類の歴史記述が始まる段階で、すでに文明化世界の露出自然金の大部分を保有し、管理していたのです。すでにこの時から、ウバイドは世界銀行だったのです。

 

羅津八幡族は黄金保管が任務

東進したウバイド海洋人が日本列島をめざしたのは、火山島のために世界有数の産金地帯であるからです。砂金採取の目的を秘めたまま縄文海人に混じったウバイド人は、やがて海民集団の指導者となったのです。

 これがわが皇室の淵源(みなもと)と知れば、世にもいう天皇の半島渡来説のごときは、噴飯を通り超えるナンセンスというしかないのです。

 

ちなみに巷間「黄金の百合」とか唱えて「皇室の黄金」を論ずる者を見ますが、すべてが全くの方向違いであることは、これでお分かりになったと思います。

 いちおう調べたところ、「世界各地のワンワールド・ネットワークの要地に黄金が秘匿されていた。フィリピンにもむろん存在した黄金は20世紀に入るころ、金本位制実施のために引き揚げられ、戦後に日本を占領した米軍は政府内に隠匿された國體黄金を求めてくまなく探索したが発見できなかった」というのが真相のようです。

 この動きを見ていた國體参謀がこさえたのが「フィリピンに隠された財宝」という嘘話ですが、国際金融連合はこれを皇室を侮辱するネタとするために「黄金の百合」の話を作って流布したようです。

 論者の中には、「大東亜戦争中に東南アジアで日本軍が組織的に強奪して皇室に献上した」とまで言う者がいますが、「どこの誰がいかなる経緯でどれだけの黄金を秘蔵していて、誰に略奪されたのか」を、話だけでも具体的に聞かせてもらいたいものです。

 

國體黄金に転じたワンワールド黄金

・一方、メソポタミア以来、ウバイドの測量設計衆がインダス河をはじめ各地で干拓と灌漑水路の設置のかたわら採集した莫大な砂金もここに預けられ、スキタイの預託黄金と併せてワンワールド首脳の管理下に置かれ、「ワンワールドの黄金ファンド」となったのです。ワンワールド黄金ファンドは、各地域の文明社会に、分業生産物の交易を進める経済的触媒として投入され、経済社会発展の起爆剤として用いられてきました。

 4世紀になって風雲急を告げだした国際情勢を見据えたワンワールド首脳は、豆満江河口羅津の八幡基地に秘蔵していたワンワールド黄金を日本列島に移すことを決めます。

 ワンワールド首脳とは、ワンワールド体制を支えるため太古から世界に散った「修験の衆」が仕える相手です。その具体像を知る由もない今は想像するしかありませんが、「修験の衆」は今も厳然と存在しますから、これは妄想ではないのです。

 修験は1万年の歴史を有するといいますから、7千5百年前にメソポタミアで始まったウバイド文化に2千年以上も先立つ先史時代に登場したわけで、それ以来ワンワールドの仕組みを支えてきた勢力なのです。ウバイドの波動・幾何学シャーマンとしばしば聞くのは、実はこの修験の事と思われますが、ワンワールド黄金の日本移管を決めたのは彼らが仕えるワンワールド首脳です。

 

・移管の理由は羅津が保管基地として危なくなってきたこともありますが、日本列島の富国強兵化を図るために移管したと見る方が当たっているようです。

 それは、古来ファンドの移動には必ず「人質」ないし「天下り」が伴うと聞くからで、これに照らせば、ワンワールド黄金と八幡ホムダワケをセットにして日本に迎えたのは、応神をカシラにして日本列島に富国強兵体制を敷くためとみられます

 

ヤマト朝廷が八幡ホムダワケを受け入れて新しく王朝を開いた意味は、ホムダワケに伴うワンワールドの黄金を「國體黄金」として利用することで日本社会の産業起爆剤とすることにあったのです

 

景行天皇の皇子ヤマトタケルは異母弟ワカタラシ彦を政務とし、同じく異母弟の彦人大兄と力を併せてホムダワケと黄金を満州から迎えるために奮闘したのです。ヤマトタケルの建てた計画は、息子の仲哀を皇后長足姫に懸かった住吉大神の神託に事寄せて偽装崩御させ、羅津で八幡ホムダワケと入れ換えることです

 この工作を隠蔽するための偽装反乱を起こしたのがホムダワケの異母兄の忍熊王と香坂王で、ワンワールド黄金の管理人彦人大兄の孫の反乱は、ホムダワケと黄金の渡来および國體金庫設置を隠蔽する目くらましのためとみるべきです。仲哀の場合と同様で二王子が薨去するはずはなく、羅津の八幡基地に渡ったと推察されます。

 

國體黄金管理人を「大兄」という

・6世紀から7世紀にかけて、「大兄(おおえ)」を称する皇子・王子が何人か出現しました。

 この「大兄」の理解に苦しんだ史学界は、その用例から帰納法的に推測して仮説を立てています。それは後に述べますが、わたしが舎人から聞いた京都皇統の伝承は明快に「大兄」の意味を伝えています。

 つまり「大兄」とは國體の秘事に関する有職故実の用語ですが、この千三百年の間一度も外部に漏れたことはないので、これを知らぬ学者が帰納法で推定した伝説が外れるのも当然です。それが本稿によって初めて世に知られることとなったのです。

 舎人によれば、「大兄」とは國體ファンドの黄金を管理する責任者としての皇子・王子のことです。必ずしも政体天皇皇嗣ではなく、七人の大兄のうち天皇に即いたのは安閑・用明・天智の三人だけということです。

 ところが、わたしが調べたところ史上で大兄を称した皇子・王子があと二人います。その一人は景行の皇子の彦人大兄です。先述のようにヤマトタケルの異母弟で、母親はイナビ若イラツヒメまたはカグロヒメとされますが、『先代旧事本紀』には息長彦人大兄水城(おきながのひこひとのおおえのみずき)の名前が記されています。

 

私見は、八幡ホムダワケとともに到来した「ワンワールド黄金」を、日本社会で「信用財」として現実に活用することとなった段階で、國體金庫管理人として「大兄」が必要になり、履中が「大兄」を兼ねたと推察します。

 

・ともかく史家がこの「大兄」が理解できず困っているのは、そもそもウバイド・ワンワールドの由来を知らず、ワンワールド黄金の存在を知らず、応神渡来の真相を知らないのですから無理もありませんが、いつまでも、そのような無知尽くしで歴史を講じられては、われわれ国民は堪ったものではありません。

 

歴史学者が理解した「大兄」とは

・ちなみに、今日の学者は「大兄」について下記のごとくいいます。

大兄」は大王家のみならず、一般豪族にもみられる呼称である。「大兄」の意味について直接説明した同時代的史料はない。ただし、6・7世紀の大王家に集中して「大兄」の呼称がみられるため、現代の歴史学者は「大兄」の名を持つ皇子を比較して帰納的にその意味を探っている。細かな点で異なる諸説があるが、多数の皇子の中で王位を継承する可能性が高い者が持つ称号とみなされている。

 

兄弟相続が原則という誤り

大海人皇子が「壬申の乱」を起こしたのは、決して権力欲や物欲によるものではありません。本稿が明らかにした秘史により、なぜ「壬申の乱」が八百長と評されるのか、諸兄姉にご理解を戴けるものと信じます。

 系図業者が複数の家系を接合する方法に、父子接続と兄弟接続がありますが、偽史の大家として大陸から招聘した藤原不比等古代エジプト流を用いたため、たまたま出現した何列かの兄弟相続を帰納して「皇位継承の原則」としたところが誤りなのです。

 

八幡奉迎とワンワールド金庫の受け入れ

・前3800年ころにメソポタミアを出たウバイド人は東西に拡散しますが、騎馬勢ウバイドは戦闘部族スキタイ族となり、折から各地で興隆する諸国家の傭兵となって荒稼ぎします。傭兵報酬を基本的に黄金で受け取ったスキタイは、一部を装身具に加工するも、大部分は特定のウバイド族に預託します。

 各地の河口沼沢部を干拓し、感慨水路を設けて農地を造成していたウバイド人はそれが本業ではなく、実は主眼を砂金採集に置いていたのです。ウバイド人の本流が蓄積した砂金が「ワンワールド金庫」に預託されてワンワールドの黄金ファンドとなり、今日に至るのですが、スキタイ族が稼いだ黄金も同じく「ワンワールド金庫」に預けられてワンワールド・ファンドに加えられたのです。

ワンワールド金庫」は時代によって移転しますが、3~4世紀当時は満州東岸の豆満江河口部の八幡基地に在ったのですワンワールド首脳が、「ワンワールド金庫」を八幡基地から日本列島に移すことを決定した時期は3世紀の末ころで、日本では三輪王朝の中期で、垂仁の末年から景行の初年と考えられます。

 

・國體を護る目的で任那天孫工作を実行した孝元天皇の子孫が三輪王朝の國體参謀本部を固めていたのは当然です。ときの三輪王朝は紀元275年ころの生まれと推定される第十二代景行天皇の時代で、満州では八幡Ⅳ世が同年代人です。國體参謀総長も同じ年代だとすると、タケオゴコロⅤ世がそれに当たります。

 タケオゴコロⅤ世を総長と仰ぐ國體参謀たちは、「ワンワールド金庫」の日本移転に合わせて八幡殿の王子をヤマトに迎え、三輪王朝の皇統を継がせて統治権を護ることを計画します。これが三輪王朝も八幡殿も合意の上で立てられた「八幡奉迎計画」です。4世紀の初めに立てられたこの計画が実行されて360年に到来したホムダワケは、八幡Ⅳ世の曾孫あたりと考えられます。

 

・古来ワンワールド・ファンドの移動には、対応して受け入れ側から人質を送ることが鉄則と聞き及びますが、「ワンワールド金庫」の日本移転に際して人質とされたのは、 景行の皇子小碓(おうすの)命(ヤマトタケル)の子のタラシナカツ彦すなわち後の仲哀天皇で、生年は紀元310年ころかと思われます。

「八幡奉迎計画」が固まる中で生まれたタラシナカツ彦が、将来ワンワールド要員になることを予定されたため、父のヤマトタケルが、ほんらい皇位に就く立場でありながら王子のままで終わり、國體を継いだのです。代わりに異母兄弟ワカタラシ彦が立太子して景行の跡を継ぎ、紀元320年頃に即位して成務となります。

 

・成務3年にタケウチの宿禰を大臣に任じ、諸国に令して国・郡(こおり)・県(あがた)・邑(むら)の行政単位を定め、それぞれに国造(くにのみやっこ)・県主(あがたぬし)・稲置(いなぎ)などを任命し、地方行政機構を整備します。

 

ヤマトタケル・仲哀父子の偽装死

ヤマトタケルが出雲・熊襲など各地の地方豪族を服従させた軍事的活躍は『記紀』の「景行紀」の中核を成すため、戦前の皇国史観では重視されましたが、戦後の史学は基調が「記紀の否定」にあるため、今日の国民にさほど知られていないものと思われます。

 ヤマトタケル薨去は、『記紀』によれば景行43年のことです。景行40年に蝦夷征討を命ぜられたヤマトタケルは、伊勢神宮で叔母のヤマト姫(垂仁皇女)から草薙剣を授かり、幾多の危難を乗り越えて蝦夷征討を終えます。その帰途に各国を巡遊したヤマトタケル尾張国で宮簀(みやず)媛と結婚しますが、巡歴先の近江国で体調を崩し、伊勢国薨去します。

 國體参謀総長ヤマトタケルともあろうものが、そんなに簡単に薨去するわけもなく、これはウラに回って大臣タケウチの宿禰を指揮しながら「八幡奉迎作戦」を進めるための偽装死です。

 

八幡奉迎作戦の仕上げは阿備の柏原
・景行年間に偽装死した國體参謀総長ヤマトタケルの消息について考えられることは、①わが子仲哀を伴って豆満江河口デルタの八幡基地に入ったか、②孫の忍熊王と籠坂王を八幡基地に送り届けてそのまま永住した公算が大です。つまり、ヤマトタケルは八幡基地に入り、八幡殿Ⅶ世の後継となったことも十分に想像されます。

 

<「阿備の七原」は國體の天領であった

・タケウチの宿禰からこれを知らされた神功皇后は大阪湾を迂回して紀伊国安原に向かい、ここで待機していたタケウチの宿禰にホムダワケを預けたとされますが、ホムダワケは上陸した敦賀に滞在していたとみた方が合理的です。神功は迂回して日高郡衣奈浦で八幡大神を祀った後、再び名草郡津田浦(和歌山市立安原小学校あたり)に上陸します。

 これをもって「八幡奉迎作戦」が完遂されたので、その時期を通説は紀元361年としています。

 

海中黄金引き揚げ人の宗像族
・「八幡奉迎作戦」は単に貴人をお迎えするのではなく、最も重要なのは、これにことよせて「ワンワールド金庫」を八幡基地から日本に移すことです。つまり、莫大な「ワンワールド黄金」を朝鮮半島から海上輸送して、日本列島に陸揚げすることなのです。

 

遺伝子人類学で崩壊する渡来史観

遺伝子人類学で明らかになった縄文族の存在

・近年著しく発展した遺伝子人類学の有する人類学的意味は血液型より広く深く、日本男性に最も多いY染色体ハプログループがD1b型であることを明らかにしました。

 

そこで、わたしたちは軽い気持ちで日本男子を「縄文人」と呼びます。人類学者も例外ではありませんが、この語は本来は「縄文時代」に日本列島で生きていた人々を指すものです。

 

縄文海人族と倭族の違い
・縄文海人族の世界史上の特色は下記の二点です。

  • 縄文海人族の創った縄文文化が、地球上で日本列島だけにしか存在しなかったこと。
  • これを担った縄文人Y染色体D1b型が、(今日では)日本列島以外のどの地域にも存在していないこと。

 

天孫史観の推進者は山縣有朋

・「天孫史観」は、陸軍長州閥の棟梁山縣有朋が、内務省をも支配したことから極力推進したもので、真の目的は、半島系渡来人の子孫が多い長州卒族の出自を飾るために、創られたと思われます。

 

山口県亡命政権を作ろうとした李承晩

・昭和25(1950)年6月に突然始まった朝鮮戦争で、当初は北朝鮮軍が優勢で国連軍を圧倒し、8月下旬に北朝鮮軍の前線は釜山まで達します。これで日本亡命を覚悟した韓国大統領李承晩は、山口県に6万人の亡命政府を作ることを希望しました。

 これを受けた外務省は、山口県知事田中龍夫に対し「施設・宿舎等遺漏なきように」と指示してきました。

 

・さらに食糧事情も悪く半年も配給が止まるなかを、6万人もの韓国人を入れると、大勢の山口県民を県外に立ち退かせる必要があります。

 しかしながら政治権力を握るのは吉田茂首相ではなく、GHQのマッカーサー将軍ですから、田中知事はとうてい拒絶することはできません。

 抗日運動で生きた李承晩の配下は、今の言葉で言うならテロリストですから紳士的行動に不慣れで、おまけに民族独立を与えられたばかりですから、亡命というより日本占領の意識で来たはずで、蒋介石軍の台湾占領と選ぶところはなかったでしょう。

 もしそれ、この亡命が実現していたら、その惨状はおそらく、東京大空襲、広島・長崎の原爆投下に次いで三番目の戦争災害になったことと思われます。結局、9月16日に国連軍が仁川に敵前上陸して戦況が逆転したため李承晩の6万人の亡命は実現せずじまいでした。この間わずか1、2週間で、山口県はおろか日本全体が救われたのです。

 

朝鮮半島で生じるおそれのある焦眉の急を前にして、世界中が注目するなかで安保法案を審議しているとき、最大野党の代表が、「有事には警察力をもって対処せよ」との世迷言を、場所もあろうに国会で発言しました。

 これには主婦さえ失笑していますが、近年の政治家の最大欠陥は歴史を知らないことで、国家を運営している与党政治家さえ、日本の歴史を知ろうとはしないのです。まして戦争の歴史を知らないのに安保法案の審議を妨害するような者を議員に選んではなりません。

 

朝鮮半島の近未来が見える

この辺りを書いていると、北朝鮮と韓国の近未来が頭に浮かび、押し寄せる半島難民の幻影が点滅して、落ち着かない気分になります

 そもそも北朝鮮高句麗の、韓国は新羅の後身です。

もしも新羅(韓国)と唐(中華人民軍)が組み、高句麗北朝鮮)が百済(某国)と手を結んだら、エライことになります。

 そんなことは絶対起きっこない、とは誰が保証できるでしょうか。現に、かつて羅済同盟を結んでいた新羅百済は、たちまち仇敵となり、かつて仇敵同士だった高句麗百済は一転して扶余同盟を結んだのではないですか。

 

・幕末で開国の時期が迫ったとき、外国勢力の工作に乗せられて分国リスクを生じやすいこの階級の謀反を、事前に予防するために計画したのが明治維新です。ところが下関戦争のあと、秘かに数千人の東洋系外国人が外国軍により送り込まれ、長州が天下を取ってしまったので予定が狂いました。

 

・維新の真相すなわち「堀川政略」の存在に朧げながら気が付いた山縣は、「維新における自分の勲功が己に割り振られた筋書きによる」という事実を素直に受け入れることができず、あらゆる権力を使って堀川御所の周辺を探ろうとします。

 

ワンワールド黄金ファンド

・将来の国際化に備えて4世紀半ばから富国強兵を進めたのが応神王朝です。ワンワールド黄金ファンドの到来と半島に進出していた技能民の召喚により、日本列島の経済は大きく発展しましたが、その結果、実力を備えた諸豪族の角逐により豪族連合政権のヤマト主権は不安定の度を増します。

 このため、大伴金村をはじめ國體参謀たちは武烈天皇と肚を合わせ、本格的国際化に対応する新王朝へ切り替えるため、武烈が偽装崩御して佐渡島に隠遁し、羅津の八幡基地から新しい天皇を請来します。

 

・3世紀末にメソポタミアで起こった世界思潮のマニ教はすでに八幡基地に伝わっていたので、これを知る欽明は、諸豪族の祖先崇拝を主柱とする氏神神道にマニ思想を加えた民族的普遍宗教を思想的主柱として挙国一致王権を作ろうとしたのです。

 

・一方、半島から渡来した傭兵の子孫が定住して増加したことで本格的国際化を控えて治安上の不安要因となったため、これに戸籍を与えて良民化を図ったのが「大化の改新」で、大化の改新」の仕上げと、百済滅亡により渡来してきた難民を整理するために企んだのが「壬申の乱」です