日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

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マレビトは魂の故郷であるニライカナイから、境界を踏み越えて、こちらの世界にあらわれる。(1)

 

 

『虎山に入る』

中沢新一   角川書店  2017/10/27

 

 

 

「内側から」描かれる歴史—―柳田國男海上の道』

・九学会連合大会(1952年)で話された柳田國男の「海上の道」という講演は、その場にいた多くの研究者に衝撃を与えたばかりでなく、その後活字になってからは、一般の人々にも少なからぬ影響を及ぼし、ここから日本人の起源をめぐる探究が、新しい段階に入ることになったことはまちがいない。柳田國男の残した多くの学問的仮説の中でも、この講演で提示されたものほど射程が大きく、たくさんの領域を巻き込んで、後世に実り豊かな成果をもたらしたものも少ない。このとき柳田77歳、おそるべき気迫である。

 この講演で柳田國男は、稲作民族としての日本人の南方起源説を提出した。稲作の技術をもった中国江南地方の人々が、宝貝という貴重品を求めた海上に乗り出し、島伝いについに日本列島にたどり着いた、という壮大な仮説である。

 

・それにもまして興味深いことは、その頃兵士としてかの地に赴いた日本人のふつうの庶民の証言類や文学者の書き残したものや流行歌(ここには戦後まもなくはじまった水木しげるの漫画表現なども含まれる)などを調べ直してみると、そこに「原郷としての南方」という幻想が、当時の日本人の無意識の中に強くいだかれていたことが感じられるのである。南方への軍事的進出はむろん政治経済の次元に属している問題だけれど、その行動の奥に、日本人の原郷としての南方という幻想が潜んでいたことを否定するのはむずかしい。

 

かわって読書界で流行したのが「騎馬民族説」である民俗学者江上波夫らによって主張されたこの学説は、日本列島の先住民が騎馬の軍団とすぐれた鉄の武器を携えた北方からの移住者によって征服されることによって、日本という国ができたことを主張した。騎馬軍団の遺構や征服戦の跡が発見されていないことなど、老古学的にはきわめて薄弱な根拠しかもたない説であるにもかかわらず、この説がいっとき一世を風靡したのには、戦後アメリカの占領下にあった日本人の自虐的心情が映し出されている。

 

そういう時期に、柳田國男のこの講演はなされたのである。柳田國男は人々の目をふたたび南方に向けて開こうとした。稲作の技術を携えて日本人の列島にやってきたのは、いったいどのような人々であったのか、彼らが稲作りの技術といっしょに運んできた宗教や習俗はどんなものだったか、こうした問題の解決を、柳田國男は南方から島伝いに列島に渡ってきた人々のうちにみいだそうとした。それほどの航海に乗り出していった人々は、航海技術に巧みな「海民」でなければならないはずである。彼らは稲作の技術も持っていて、農民の先祖となった人々でもある。海民にして農民—―それが日本人の原初の姿であると、ここでは考えられている。

 

・そのさい柳田國男は世間でよく言われているような、朝鮮半島からの移住者が、最初に稲作の技術をもたらしたという説をとっていない。九州北部の弥生系の人々の遺構が、朝鮮半島南部の稲作文化との多くの共通点をしめしているにかかわらず、それよりさらに以前におこったはずの出来事に、柳田は照準を定めている。柳田國男は、日本列島における稲作が、稲作技術そのものの発祥の地である、揚子江下流域から直接にもたらされたと考えたのである。

 当時としてはとても大胆なこの考えは、現代の考古学の知見に照らしてみても、多くの真実を含んでいる。

 

<ムスビの神による人類教>

・それはマレビトが境界に関わる神だからである。海人は海の彼方を見つめながら、そこに魂の原郷を見ていた。人はそこからやってきて、そこへ帰っていく。だからそこは、これまでこの世にあらわれたすべての先祖がいる場所であるし、これから生まれてくるすべての生命の萌芽が集まっている場所でもある。日本列島にたどりついた海人が、内陸部に入って住むようになると、その魂は山の奥に考えられるようにもなった。

 しかし、その場所は現実の空間の中では、どこそこに「ある」とも「ない」とも言えない。現実の空間にとっては「ない」も同然だが、その原郷がなければ現実の世界もなくなってしまうような場所である。そこで人が唯一できることと言えば、目に見えない境界を越えて、これらの世界に渡ってくることによって、原郷の息吹を伝えてくれるマレビトのような存在を考え、考えるだけでなく表現までしてみようとすることである。

 

マレビトはこの世ともあの世とも言えない境界上の存在である。いやマレビトが境界そのものの表現になっている

・こうして日本の神社体系に属する神々が、純粋に霊的な存在(こうした神々は名前しか持っていない)であるのにたいして、マレビトの概念を表現する神々は、植物装置で全身を覆ったり、おそろしげな仮面を着装して登場してくることになる。そうして出現したマレビトは、人々の前で舞い、踊り、身体から音楽を出す。マレビトは境界性そのものの表現として、物質性と抽象性と具体性、絶対の沈黙と音楽性といった、さまざまなレベルの異なるふたつのものをあわせ、まじりあわせている。その意味では、マレビト神自身がうず潮なのである。

 

・しかし、日本人の神の概念には、マレビトの概念では説明しきれないものがある。折口信夫の発展させていったマレビト論にたいして、柳田國男が深い違和感を抱いていたことは、よく知られている。2人の日本人の神についての考え方の違いは、戦後まもなくしてあらわになった。

 

 その頃、文化人類学者の石田英一郎が司会者になって、柳田國男折口信夫を招いて雑誌のために対談をしてもらった。そのとき日本人の神の観念などという重大な問題について、2人のあまりにも違うイメージを抱いていたことがあらわとなって、多くの読者を驚かせたのである。それについて国文学者の益田勝実はこういう風に書いた。

 日本の神の祖型を、<祖霊>とみる柳田國男と、<来訪するまれびと(ストレンジャー)>とみる折口信夫—―あの深く尊敬し、いとおしみ合った師弟は、晩年になって、おたがいの神についてイメージをぶつけ合ってみて、その根深い違いに驚いたのだった。片や死霊に、片や生身の人間にと、2人の巨匠の神の祖型の見つけ方の違いもさることながら、同時に、この2人の民族学的方法が、思わず知れず飛び越えてしまったものについても、わたしは考えこまざるをえない。

 

・じっさいこの対談で、柳田國男は死霊とも言うことのできる祖霊の中に、神の祖型を見出しているのにたいして、折口信夫のほうは遠くから寄り来るストレンジャーのイメージの中に、神の祖型があると主張して、おたがいが譲らなかった。しかしよく考えてみると、マレビトも祖霊であり死霊なのである(このことは南島におけるこの神の出現のじっさいに立ち会ってみるとじつによくわかる)。ただその祖霊=死霊が活動する空間の構造が、2人の間では違っている。

 

だからマレビトの中には、死霊と生身の人間がぶつかりあって、まじりあっている。ところが柳田國男の考える神の祖型においては、なまなましい死霊がしだいに清らかな祖霊に浄化されていくという思考の運動のほうが前面に出てくる。山裾に埋葬された死者の霊は、はじめのうちは死霊として山に留まっているが、子孫たちに大事にされているうちに、しだいに静かで清らかな霊に浄化され、村の背後の山の上から子孫の暮らしを見守る神へと変化をとげていく。そのような祖霊の考え方を祖霊として、しだいに神道の神の考えは育っていった、と柳田國男は考える。

 

・私は柳田國男折口信夫が取り出してみせた2つの神の考え方のどちらが、ほんとうの日本人の神の祖型であるか、などという考えはとらない。2人がそれぞれに取り出してみせた2つの祖型が「あわさり、まじりあって」、日本人の神はかたちづくられてきた、と私は考えている。その意味では、2つの祖型ははじめから相補的であり、古代や民俗の世界では、この2つが一体となってシステムをつくり、それが複雑な信仰のかたちに展開していた。

 ところが近代になって、国家に結びついた神道というものがつくられると、境界性の側面がひっこめられて、しだいに均質性の原理に単一化された空間の側面ばかりが、前面にあらわれてくるようになった。

 

このことは、とくに南東の神々のことを調べてみると、はっきり見えてくる。そこでは重要な神々はいずれも祖霊となんらかの関係を持っている。村の中には御嶽と呼ばれる聖地があって、女性の祭祀者がお祀りをおこなっている。御嶽の神さまは村を創設した先祖の霊と深い関係を持っていて、場所によっては御嶽自体がそういう先祖の御殿だという考えも保たれている。先祖霊でもある御嶽の神は、森厳な不入の森の中にいて、村の生活を守ってくれているのである。

 

ところがマレビトの出現の日が近づくと、すべてががらっと様相を変えるのである。それまでは御嶽の神と女性祭祀者を中心にして動いていた村の暮らしが、ドラスティックな変化を起こす。共同体の機能が停止して、全体の組織の組み替えがおこなわれる。マレビトを迎えるにふさわしい特別な構造への、生活全体の組み替えがおこなわれるのである。マレビト用の新しい組織は、本土で発達した「講」や「座」に対応するもので、共同体の構造原理とは異なるより自由で平等主義的な「組合」の組織へと、自己変容をとげていく。

 こうしてできあがったマレビト組合が厳かに待つ場所に、森の中から仮面の神が出現してくるのである。マレビトは魂の故郷であるニライカナイから、境界を踏み越えて、こちらの世界にあらわれる。マレビトの身体には物質性があり、その体でもって踊り、走り、予祝の呪言を語ってから、ふたたび境界の向こうに去っていく。マレビトはあらゆる意味で境界的である。

 この神さまの中には、物質性と霊性、身体と名前、「ある」と「ない」、不浄と清浄、パロール(女性祭祀者がおこなう神への呼びかけ)とエクリチュール(杖で打つ、泥を塗るなどして、身体への刻み付けをおこなう)のような、さまざまなレベルでの異なるもののまじりあいがおこっている。その境界的な神を、同じように自分を境界的な形に変容させた人間の側のマレビト組合が、迎え入れ歓待するのである。

 

 

 

『熊を夢見る』

中沢新一   角川書店  2017/10/27

 

 

 

<小さな、過激な本—―柳田國男遠野物語』>

・大学生の頃、私は南九州の甑島(こしきじま)で、民俗学のフィールドワークをおこなっていたことがあるが、その時、リュックサックの中にはいつも、この『遠野物語』の文庫本を、突っ込んで歩いていた。

 理由は2つあった。1つは気分の問題に関わっていた。その頃の私にとって民俗学は、地球上から永久に消え去ろうとしている一つの文明の、最後の目撃者になるという、今考えるとちょっと気恥ずかしい、ヒロイズムを満足させてくれる学問として、意味をもっていた。

 

・そういう私にとって、「この書を外国に在る人々に呈す」という、じつに過激なエピグラフを冠したこの本は、ほとんどバイブルみたいな意味をもっていた。遠野物語』を書いた頃の若い柳田國男にとっては、自分のまわりにいる知識人たちの多くが、まるで「外国にある」人たちのように見えていたのだろう。日本人なのに、この列島で長い時間をかけて醸成されてきた、深々とした伝統の暮らしや物の考え方に、目をむけることがなく、いたずらに西欧の文明を促成栽培しようとしていた、当時のエリートたちに反発をいだいていた彼は、『遠野物語』という時代の流れに逆行するような不思議な本を出版することで、自分の独立精神を表明したかったのだ。私は、そういう柳田國男のほとんど反時代的な独立精神にあやかりたい一心で、いつもこの本を持ち歩いていた。

 

柳田國男がこの本を出版した当時は、彼がそこに描いている世界は、まだ生々しい呼吸を続けていた。近代日本は、それを残酷に否定しながら、前進しようとしていた。だから『遠野物語』の出版という行為は、激しくまた生々しい批判の意味をもつことができたのである。つまり、『遠野物語』に描かれている世界は、まだ前進しつつある近代との、激しい最後のたたかいに、敗北しつつあったのだ。

 

・『遠野物語』の出版は、彼にとって、生々しいたたかいとしての意味を、持っていた。民俗学を勉強していた時、私はこの学問に、若い柳田が直面していたような、緊迫した感覚を保ちつづけていたい、と感じていた。遠野物語』は、そういう私にとっては、緊迫した状況の臨場感を再現する、すぐれたルポルタージュ文学であり、たたかいへの意志をエレガントな形で表明する、みごとなマニフェスト文学として、大きな意味をもっていた。

 

・もう一つの理由というのは、『遠野物語』がはっきりと、言葉と大地のつながりを語っていることに、関係している。この本に集められた話のほとんどすべては、具体的な土地に結びつけられて語られている。山男が現れたのは、六角牛山のどこの地点であるのか、座敷童子がいる家は、どこの村の誰の家なのか、神隠しにあった子供が消えてしまったのは、どの村のどの土蔵の陰なのか、どの話もそれをはっきりと確定しようとしている。

 

・じっさい、村でフィールドワークをしていると、そのことが明確にわかってきた。村の人々は、たくさんの物語を伝承していた。しかしそこには、ポータブルなものとして、よそから運び込まれた物語と、具体的な土地に内属している物語との、明瞭な違いが存在している。人々はポータブルな物語は、エンターテインメントとして楽しむが、土地に所属している物語は、自分たちの歴史感覚を表現するものとして真剣に語ろうとしている。抽象化されない、生きられた時間が、そこには息づいているのだ。

 私は『遠野物語』を、村の人々のいだいていた、そういう歴史感覚を表明する物語として、読んできた。いままでの歴史学は、柳田國男がこの本をとおして強調しようとした、そういう歴史感覚に触れてこなかった。自分の国の歴史を語りながら、そういう学者たちは、やっぱり「外国に在る」ままなのだ。柳田國男は、この小さな本をとおして、そういう歴史学を転倒しようとしたのである。その意味でも、この本は、じつに過激な書物なのだ。

 

<ダンテのトポロジー

ダンテは西暦1300年の4月8日夕刻から翌9日の日没直後までの、ほぼ一昼夜をかけて地獄への旅を体験している。そこから煉獄、天国への旅が途中とぎれることなく連続しておこなわれていることから推定すると、『神曲』という作品のもとになった驚異の体験は、地獄下降のその日から数えておよそ2日か3日の間に起こったと考えることができる。これはシベリアのシャーマンが成巫のためのイニシエーションにおいて真正のトランスに入り、再び意識を取り戻すまでに要する時間にほぼ等しい。

 

・この地獄の構造を下方に向かえば向かうほど、そこで苦しんでいる人々の魂と身体は、物質性の重みに引きずられ押しひしがれている。身動きもままならず、あらゆる運動性が滞っていく。漏斗状の構造の最深部において、ダンテたちは傲慢の大悪魔(元大天使)ルシフェルの姿を見る。逆さになったルシフェルは氷漬けされていて、わずかに口や翼を動かすことしかできない。そのルシフェルの毛脛に取りすがって足へとよじ上って、脇を通り抜けるとき、ダンテたちはつぎのような奇妙な動きをとることによって、地獄から抜け出ていく。

 

そのルチフェロのふとった腰の骨のあたり、正しくは腿のつけ根へ

わたしたちがたどり着いたとき、

師はやっとの思いで、苦しそうに

引っくりかえって、頭を足の方へさかさまにつけて、

毛にしがみついて昇るようなので、

わたしはまた地獄へ逆もどりするのかと思った。

と、師は疲れ果てた人のように、あえぎあえぎいった。

「しっかり摑まって。こんな梯子でもなければ、いっさいの悪から逃げだせないのだから」

 

ボッティチェリの描く『神曲』挿絵では、アニメーションを思わせる連続画法によって、大悪魔の脛毛をつかみながら空中を回転しているダンテとウェルギリウスの姿が描かれている。その絵を見るとどうやら、重力の中心部でもある地獄の最深部で空間そのものがくるりと裏返しになり、そこから一瞬にして地獄を完全に抜けて煉獄が出現する仕組みになっているらしいことはわかるのだが、ダンテの描写だけでは、そこがどういう空間の構造になっているのかを想像することはなかなか難しい。

 

・ダンテは自分の体験したヴィジョンを、ユークリッド幾何学の枠組みを使って表現しようとしているために、じっさいに地獄の最深部がたちまちにして煉獄山の麓につながるという構造を、うまく表現できないでいる。しかしこれを現代幾何学の知識に属しているクラインの壺の構造を利用してみると、裏が表に反転する地獄から煉獄への道行きは、もっとうまく表現できるようになる。氷漬けのルシファーがいる地獄の最深部で、表が裏に、外が内に反転を起こしているのである。

 地獄の住人の心は、外に現出している幻影を客観的な現実と取り違え、それに執着をおこすことによって大きな罪をなした。この罪を浄化するために煉獄山にとりかかった者たちは、心を外的現実にではなく、自分の内面へと反転させていかなければならない。

 

ゆえに、ダンテの前にも後にも、天国をここまで完璧に描出しえた詩人も作家も、1人としていないのである。

 それをダンテは実現したのである。天国での上昇のプロセスに合わせて、ダンテを包む空間の構造とそこを棲家とする天使たちの種類や運動形態が、つぎつぎと変化していく。天使のそれぞれにわりふられた叡智的知性の性質にしたがって、空間の構造そのものが変容していくのである。

 

ここに描かれている天国は、私たちの世界の外の、どこか超越的な異世界にあるのではない。天使は私たちの心の内面空間にある。(それどころか、地獄も煉獄もじつは私たちの心の内面空間にある)。まばゆい光をたえまなく放出し、人間の意識などがとうてい及ばない高速度で天使的存在が運動している空間とは、私たちの心の内奥に潜む内面空間そのものにほかならない。

 

・『神曲』は中世までに蓄積された人類の叡智と知識の一大集積体である。ダンテの時代までに蓄積された叡智と知識を一つの構造体にまで構築しえた。それは奇跡のような知と信仰の超構造である。しかし『神曲』をつくりあげようとする知的作業のおおもとになっているのは、ダンテがじっさいに体験した魂の巡歴の旅であり、心の内面空間で敢行されたその旅においてダンテ自身が「見た」世界は、諸知識が構成する超構造を越えている。

 

 

 

『「強い日本」を取り戻すためいま必要なこと』

日下公人、田久保中衛、ロナルド・モース  PHP研究所 2013/6/10

 

<「戦後レジームの総決算」>

 憲法改正基地問題歴史認識………日本では、経済(アベノミクス)の変化に加えて民意と社会の大変化が起こるだろう。安倍首相の唱える「戦後レジームの総決算」をやるなら今しかない!やばいアメリカ、瓦解する中国を横目に、いかに強国・日本を取り戻すか?3人のストロング・ジャパン派による緊急鼎談。

 アベノミクスを論じるよりも、強い日本を取り戻そう 日下公人

・このことを心あるアメリカの経済学者は反省して、「われわれはこの何十年間、単にフィッシャーの貨幣数量説の周りを回っていただけだ」と言っている。とくに、アベノミクスと称されるものに欠けているのは、三番目の成長戦略である。

 ・しかし、いままでの「絶対反対!」や「補償金よこせ!」ではなく、形勢観望に変わったとすれば、農政改革はすでに半分成功したと言ってよい。

“攻めの農業”が実現すれば、アメリカは自動車産業保護で受け身に変わるから、安倍首相が得意とする“攻めの外交”に転じる準備が整う。

 そもそも安倍首相の政策は、第1次政権発足時から続く「戦後レジーム(体制)の総決算」の一部なのである。

 <京都はユートピアだった>

・(日下)ところが、日本は平安時代には、その理想に到達していた。天皇は軍隊も警察ももたないのに、平安時代は4百年近く平安のまま続いたのです。

 ・その間、支配者側の天皇や公家たちは何をしていたかというと、文化をつくっていました。歌を詠んだり、物語を書いたり、絵を描いたりして、それらを娘に仕込んでいた。その娘が、他国(地方豪族)への輸出商品となった。京都の流行の文化を娘に教えて、その娘を地方豪族に嫁がせる。地方豪族はありがたがって進物をして娘たちをもらい受け、文化を学びました。

 ・(モース)日下さんが教えてくれた安倍首相のルーツ、アイデンティティによると、2千年、縄文まで遡れば1万年という日本の歴史が、彼の受け継いできたものにすべて組み込まれているわけですよね。

 ・たとえばハンチントンは『文明の衝突』のなかで、世界の文明は宗教で衝突するようになるだろうと書いています。でも日本は多神教八百万の神です。それも先祖崇拝だけではないんですよ。土着信仰、原始的なシャーマニズムがあるし、キリスト教や仏教以前のアニミズムまで残っています。

 日本にはそういう特別で複雑な多重精神構造がある国です。安倍氏がそれを理解してくれていればいいのですが、おそらく明治の指導層はわかっていなかった。その抵抗の意味も込めて、柳田國男は『遠野物語』を書いたのです。

 柳田國男とグリム兄弟>

・(モース)なぜ柳田は『遠野物語』を書いたのでしょうか。ヒントは序文のなかにあります。「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」という書き出しがグリム童話と同じなのです。明治時代の日本ですでに翻訳が出ていました。柳田は遠野出身の佐々木鏡石と会って話を聞き、それを文語体にして文学作品にまとめて発表しました。これもグリム童話と同じ手法です。

 1812年にグリム兄弟が、なぜグリム童話を書いたのかというと、ヨーロッパはキリスト教が広まると、それまであった地域や文化が衰退していきます。カトリックという言葉は「普遍的」という意味です。カトリックが宗教的にも文化的にも支配的になると、民族固有の文化は伝説のなかであるとか、古い宗教というかアニミズム、民間宗教のなかにかろうじて残されることになった。

 当時のドイツはプロシアを中心に、ドイツ語を話す人たちによるドイツ帝国ができかけていた頃で、グリム兄弟はいまのうちに伝説のなかに残っているアニミズムを記録しておかないと、民俗の歴史や記憶が完全に消えうせてしまうと考えたのです。そこで彼らは伝説、童話の収集に乗り出しました。

 ・(日下)そうして出てきた学問がfolklore(民俗学)とethnology(民族学)の二つですね。民族学は人類学に近い。自分の国のものを研究するのではなく、文明国の研究者が他所の国へ行って、未開の人種について研究する。自分の国の伝承文化を研究するのが民俗学という考え方です。

 民族学が発達したのは植民地経営の手法に使えたからで、ヨーロッパの列強はこうして海外侵略に出て、略奪した資本で近代化を成し遂げました。産業革命で資本を蓄積したのではありません。植民地から奪ったのです。

 <『遠野物語』の異議申し立て>

・(モース)日本も台湾などの植民地経営をするようになって、列強の仲間入りを果たそうとします。外向けに日本を説明しようという新渡戸の『武士道』に対して、地方の日本の精神構造は「違う」と異議を申し立てるために、柳田は『遠野物語』を書こうと決めたのではないかと私は思っています。

 ・『遠野物語』の序文に、「この書のごときは陳勝呉広のみ」という一文があります。この陳勝呉広というのは、紀元前209年に、中国で反乱を起こした二人のことで、彼らは中国史上初めて農民革命を指揮した人たちです。

 柳田國男は『遠野物語』を明治政府に対する革命的な本と考えていたんですよ。彼は、農民や社会の底辺にいる日本人を「常民」と呼んで、支配階層ではない名誉も肩書きも権力もない普通の日本人の意味で使っています。

 粘菌を研究した南方熊楠とも交流があり、二人は明治政府のやり方にかなり反発しています。常民の日本精神を政府は軽視しているということです。

 明治憲法日本国憲法との関係で言えば、柳田は天皇制に反対でした。『遠野物語』のなかに天皇は登場しません。

 ・柳田は日本国憲法象徴天皇制に賛成し、教育勅語についても、日本人の考え方ではないと反対しています。

 それと宗教の自由を喜んでいます。彼は明治政府の宗教政策、とくに神社の整理合併政策である神社合祀令に大反対でした。村々にある神社を整理合併して、国家神道天皇組織をつくると、共同体の結びつき、普通の日本人の精神構造が崩れてしまうと考えたからです。

 

もう一つは農地改革です。柳田は農商務省の役人で、常民である小作人のことを思って地主制度に反対でしたから、戦後の農地改革を評価していました。柳田は戦後の日本が、明治以前の昔の日本、日本人に戻ると考えていたようです。

 <柳田は常民の目から、戦後の日本を高く評価していた>

・柳田の考え方は、日本には明治時代よりずっと昔から、多層な精神構造があるというものでした。伝承文化や地方文化を学んでいくと、縄文時代から生き残っているものが見つかるのです。さらに平安時代からのものが、その上に積み重なっている。

 日本の近代化がいつ始まったのかは明確に区切れません。少なくとも明治ではない。鎌倉時代か江戸時代、ひょっとしたらすべてが連続して境目自体がないかもしれない。そう考えていたと思います。

 そうすると明治・大正・昭和というふうに歴史を分けることに、たいした意味はないということになります。日本の大学で教えている歴史学は間違っています。

 危険水域に入った格差大国

ジニ係数が0.4になると、不満が爆発する危険な水域と言われています。

 2012年、中国の新聞各社が「中国のジニ係数は0.61」と書きました。これも昔の中国ではありえなかったことです。一党独裁といえども、中間層に耳を傾けなければならない状況が進行しつつあるのではないかと思います。

 <NICが描く4つのシナリオ>

・(田久保)アメリカのNIC(米国国家情報会議)では、さまざまな国の10年か20年後を予測した報告書を出していますが、今回、中国について4つのシナリオが出ていました。

 現状が続くというのが、第1のシナリオです。中国の現状は、四面楚歌で、周辺国から完全に孤立しています。このような状況下で、指導部が13億人をまとめていくためには、生活水準を下げるわけにはいかない、ということが大前提になります。つまり、経済規模は小さくできません。しかもナショナリズムをさんざん煽ってきましたから、外に対して強く出ないと自分たちの立場が保てないのです。

 

アジア全域から米軍が撤退した場合、中国の力が圧倒的に強くなり、アジアで支配的な勢力になるというのが第2のシナリオです。

 第3のシナリオはアメリカだけでなく、ほとんどの国が希望しているシナリオです。中国が中産階級の人々の声に耳を傾けるようになると、次にこうした新しい階層を代弁する党ができて、共産党一党支配ではなくなり、複数政党になるかもしれない。そうなれば独裁政権が一気に崩壊するハードランディングは避けられ、ソフトランディング(軟着陸)して民主化へ向かうというシナリオです。

 第4のシナリオは危険なシナリオです。先ほど述べたように、中国は国内の不満を解消するために外に対して強く出ざるをえません。ところが、アメリカのような国は、「何を!」と反撃します。日本は、安倍首相以外は、殴られっぱなしで、お詫びをし、お金を出し、譲歩に譲歩を重ねて、まるでサンドバック状態でした。相手が図に乗ってくるのは当然です。

 でも日本にも我慢の限界がありますからね。日本が強硬な姿勢に転じれば、中国の指導部は行き詰ってしまうでしょう。すると国内の不満を散らすために、たとえば尖閣のようなところで危ない冒険をするのではないか。その場合、中国は内部の崩壊に向かって進んでいくだろうというのが、第4のシナリオです。

 第3になるのか、第4なのか、私自身もまだよくわかりません。NICは次にまた新報告書を出すでしょう。次の報告書に注目したいと思います。