日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

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冥府すなわち幽世・幽冥界は、現世・顕世である日常世界と違う場所にあるのではなく、いま・ここ、この世と同じ場所にあるのだが、あたかも明暗によって空間が隔てられているように「現世とは隔たり見えず」とする。(1)

 

 

 

『怪異を歩く』  怪異の時空

今井秀和、大道晴香、一柳廣孝  青弓社   2016/9/30

 

 

 

<なぜ平田篤胤は天狗に会いにいかなかったのか>

・同じ江戸時代の後期の人であっても、鈴木桃野とは好対照の判断をした人物もいる。国学者平田篤胤(1776―—1843)である。1820年に有名な天狗小僧寅吉と会見した篤胤は、寅吉少年が語る異界探訪談に夢中になった。

 

・江戸時代には常磐線がなかったから東京(江戸)から日帰りで、というわけにはいかなかったにしても、行って行けない距離ではない。それなのに、彼は自らが現地に赴くか、信頼できる誰かを派遣して調査させてもいいような気もするのだが、そうはしていない。

 これはいったいどういうことか。篤胤自身も岩間山がどういうところかについて、現地を知る人々に尋ねて、そこが天狗信仰の山であることなどの情報を得ていた。それならば、寅吉少年を弟子にした天狗(山人)とは、何者か、現地に行って確かめてみようくらいのことを思い付かないほうが不思議だ。

 

おそらく、篤胤が信じる他界観が関係している。篤胤は『霊の真柱』(岩波文庫)で、冥府すなわち幽世・幽冥界は、現世・顕世である日常世界と違う場所にあるのではなく、いま・ここ、この世と同じ場所にあるのだが、あたかも明暗によって空間が隔てられているように「現世とは隔たり見えず」とする。暗い場所が幽冥界なのではない。明るいところにいる人が、暗いところをよく見ることができないように、「見える」と「見えない」という基準で現世と幽世は分割されている。私たちが日常生活を営んでいるこの同じ空間に、私たちに見えていないものたちが存在し、それら見えないものたちで構成されるもう一つの世界が、私たちに見えているものたちで構成される世界とオーバーラップしている。

 だから篤胤は幽冥界研究に現地探訪を組み込む必要がなかった岩間山に行ってみたところで、そこにあるのはただの山だろう。だが、寅吉が経験してきた数々の不思議はただの山と同じ場所にある見えない世界、幽世の出来事なのだ。見えているものしか見えない人間にはただの山としか見えなくとも、見えない世界を見る寅吉にとっては、そこにただの山であると同時に幽世なのだ。だから、幽世の実情を知るには、見えないものを見てきた人間の言葉を通して知るしかないのだ、と篤胤は考えたのだろう。

 

岡本太郎とイタコ ―—<神秘>というまなざし   大道晴香>

・1960年代、日本は空前の「イタコ」ブームを迎えていた。

 イタコとは、青森県から秋田県北部・岩手県北部にかけての地域で活躍してきた、死者の言葉を伝える宗教的技法「口寄せ」をおこなう在野の巫女である。戦前は日本全国に散見された「口寄せ巫女」だったが、社会環境の変化を背景に急速な衰退をみた結果、彼らの存在は巫俗の調査が本格化した1950―—60年代の段階で、既に日本列島の南北両端に片鱗を残すばかりとなっていた。すなわち、「口寄せ巫女」がもはや身近な宗教者ではなくなった世で、イタコには希少性に基づく新たな価値が生じていたことになるだろう。

 

・岡本の日本文化論に関しては、これまでにも人文系の学問分野を中心に議論が展開されてきた。ただし、彼の才能と人間性から生じる求心力のためだろうか、それらの論述は、著者自体に焦点を当てた「岡本太郎論」に偏っている感が否めない。しかしながら、岡本の日本文化論もまた同時代的な言説空間の一端をなすものであったことは、当時の大衆文化に介在した「日本再発見」の潮流、そして何よりイタコへの言及が如実に物語るところだろう。したがって、岡本の日本文化論を評価するのは、同時代的な言説との比較が不可欠といえる。

 

<≪イタコ≫ブームと岡本太郎

<イタコの“発見”>

現状、表象上では癒着している「イタコ」と「恐山」だが、民俗文化の実態に目を向けた場合、平素のイタコは自宅を構える地域を主要な活動域とし、恐山を訪れるのは年2回の祭典期間中に限られる。要するに、「恐山での口寄せ」は多岐にわたるイタコの巫業の一つにすぎないのであって、両者の結び付きは決して強固ではない。にもかかわらず、大半の記事が恐山を通じて《イタコ》を発見しているという事実は、地域社会に溶け込んでしまえば把握が難しい在野の宗教者が可視化されるに際し、開かれた場の存在が不可欠だったことを物語っている。

 とはいえ、恐山が戦前の時点で一定の認知を得ていた点に鑑みた場合、当地が1950年代になってマス・メディアの目に留まった状況には、一考の余地があるだろう。

 

・こうした1950年代の黎明期を経て、《イタコ》は60年代を迎えると一大ブームの様相を呈するようになる。記事の件数は60年になると前年比の3倍まで増加し、以降、当該表象は複数のメディアを経由しながら、60年代を通じて再生産され続けていく運びとなった。

 岡本太郎のイタコ論は、一連のブームのなかに誕生した言説である。ただし、彼が生み出した“まなざし”は、あまたの言説がイタコに向けていた視線とは一線を課すものであった。そこで鍵となるのは、同時代の《イタコ》表象に内在していた「自己」と「他者」との対立構造である。

 

<「非合理」な「他者」としての「地方人」>

岡部冬彦「三途川の向こう岸」

ホントに死人のタマシイが出てくるなら、あれこれ知人の霊を呼び寄せて見ようと、心ヒソカに楽しみにして来たのだが、イタコの口寄せはすべてかくの如く大同小異。(略)残念ながら骨折り損の終わった次第である。

 もっとも中にはイタコのいうことを聞きながら、「アラマア、あんなことをいって、ズブンのことをズブンで分かんねえのかなア」としごくもっともなことをツブヤイていたオバサンがいたし、東京から見物に来たという女子大生の「なにか形かモノを見せてくれなきゃ、ゼンゼン信用できないワ」という、いたって合理主義的な二人連れもいた。

 しかし、タマシイがあるかないかとなると、我々及びその他少数の人を除いては、恐山に来た人々はタマシイがワイワイいたのを体験した人達ばかりなのでありましょう。

 

・「死霊を呼び出す恐山の巫女

 信仰者にとっては、たとえ霊媒が東北弁しかしゃべれないインチキであっても、確かに亡夫に話しかけられたと感ずるし、そのことで心がサッパリしこの農村の精神衛生に役立っていれば、それはそれでいいのです。いうなれば、巫女たちは魔術師ではない。その魔術的な雰囲気の中で、人々の精神に捌け口を与える一種の“カウンセラー”というわけでしょうね。

 

・ただし、いずれの方策が取られるにせよ、《イタコ》の非合理性は「我々」ではなく、「他者」の領域に帰されたのであって、そこには超えることができない確固たる「自/他」の区別が存在していた。岡本太郎の新規性は、この二者を隔てる壁の突破に求められる。

 

<「神秘」というまなざし>

・岡本は単行本の出版時に付した「後記」のなかで、「神秘」について次のように述べている。

 民族は固有の暗号をもっている。同質の生活的感動、いわば秘密のようなものだ。それによって、言葉なくお互いが理解しあう。それは隣人愛だとか同胞意識などというような、単純な枠で割り切れない、もっと繊細であり、根深い神秘なのだ。

 それは見えない暗号でありながら、また生活的には、形となったり色となって表現される。(略)

 一見もろく、非論理的で、今日の世界に適用しにくい。しかし現代日本人の思考、モラルを深い底で動かしているのは、やはりそれなのである。

 

「我々」=「合理」が体をなさない岡本の輪において、もはやイタコの交霊術が「科学的に証明が可能か否か」は評価基準となりえない。そこで重視されるのは、むしろ、そうした非合理的なものが生きて人間存在を規定している事実である。宗教事象の社会的ないし実在的機能を評価する点では、前節で述べた「「他者」の文脈から事象を読み解く」とも似た印象を受けるが、ここでの機能は「他者」にとっての価値を帯びているのではない。それは「我々」にとって価値を持つ、「日本人らしさの発露」として解されるのである。

 

・霊が存在するか、しないか。そして霊媒なるものが本当にそれと通じているのかどうか(略)繰り返し繰り返しされる情熱的な課題だ。そしてとかく、本当かウソか、白か黒か、などと分けたがる、どちらにしても同じように素朴だ。

 

・このように、「神秘」というまなざしは、対象の非合理性を民族性へと変換する装置の役を果たしていたのであって、ゆえに、死者や神といった超自然的次元で認められたイタコの非合理性は、人間存在の非合理性へと読み替えられ、「日本人」を冠したアイデンティティーとしての価値を得ることになった。

 では、岡本が「暗い神秘」と表現した、イタコに見る「日本人」の特異なありようとは、いったいどのようなものだったのか。彼が提示した「神秘」は2つ。1つは浄/不浄から成る2元的な人間観。もう1つは、抑圧の歴史のなかで育まれた女性の内なる呪力である。

 

・岡本は、旅の終わりに本作のタイトルにもなっている民俗神・オシラサマと出会い、そして、この「幾重にも布片でおおいかぶされ、眼も鼻も口もとざされた」神に、「かつての女の姿」と同じ「呪力」を見ている。そもそも今回の旅の原動力となっていたのは、かつて盛岡の博物館で彼がオシラサマに覚えた、ほうこ人形と同質の感動であった。東北全体の自然を「オシラの気配」が覆っているとの実感を得て、岡本は「東北の神秘への憧れは正しかった」との確信に至るのである。

 

「神秘の世界」としての東北

・非合理性としての「神秘」は、「日本人」を形作る“見えない”暗号と位置づけられていた。しかし同時に、民間信仰などの生きた現象として、「神秘」は我々の眼前に立ち現れてくるものでもあった。岡本は、まさにこうした「非合理」の顕在化を通じて「日本人」の生き方を探ろうとしていたわけだが、ここで一つ看過できないのは、彼が非合理の顕在化した状態を「地方」という空間と接合させて認識していた点である。

 岡本は未踏の地・青森に「埋れ、うずくまり、忘れられた「日本」を直観」する。イタコ、そしてオシラサマのような「素朴で、原始的な民間信仰」を抱える本州最北の地は、岡本にとってまさしく「神秘の世界」にほかならなかった。

 

柳田国男の「学問」>

<柳田論からの影響>

 

 

柳田は『遠野物語』(1910年)をはじめとしてオシラ神に関する論考をたびたび発表していて、実際にオシラ神を譲り受けてもいた。1928年3月18日には八戸のイタコを招いてオシラ祭をおこなっており、招待を受けた鏡花がその開催日を1年誤って柳田邸を訪れたのは有名なエピソードである。鏡花は柳田との親交とその著作を通し、オシラ神に関する知識を得たのだろう。「山海評判記」執筆時に鏡花が目を通したと考えられるのは「巫女考」(郷土研究社)、「オシラ神の話」(文藝春秋)、「人形とオシラ神」(民俗芸術の会)だが、実際作中に登場する多くのモチーフにこれらの柳田論考の影響が見られる。

 

<柳田論との差異とその意味>

このように柳田論考の要素を作中にちりばめた鏡花だったが、オシラ神と白山信仰を結ぶ論理もまた、柳田の学説を反映したものだった。

 

矢野は相良が見た「生首」を「姫神」の「御神体」とし、その神が「オシラ神」であると説明する何よりここで注目したいのは、「出羽奥州一体」といった東北を中心に信仰されてきたオシラ神の「本地本領」を加賀・白山の姫神とする説が打ち立てられる点であるオシラ神と白山信仰を結ぶ発想は「山海評判記」の核となっていて、これもまた柳田が「巫女考」で提示した説だった。

 

しかしここで考えなければならないのは、柳田は1913、14年の「巫女考」ではオシラ神と白山信仰を結び付けているが、『山海評判記』が発表された時期にはこの説を改めていたということである。

 本作品発表時、オシラ神は民俗学者の間で高い関心を集めており、柳田と歴史学者喜田貞吉による「オシラサマ論争」はその現れといえる。「オシラサマ論争」で焦点が当てられたのは、その起源についてであった。かつてオシラ神の起源を白山信仰とした柳田だったが、1928年9月に発表された「オシラ神の話」では「オシラ神は東北地方では決して蚕を養う者ばかりの拝む神ではない。広く農作人事の全般にわたって、家々の吉凶を論し調え、人をして眼に見えぬ広い国土と遠い年代を、尊崇し愛慕せしむる力の源であった」としてこれを家の神に結び付ける。これに対し喜田は「オシラ神に関する23の憶説」で、オシラ神はアイヌの宅神と「同一起源の物」と発表し、「オシラサマを日本信仰史のなかで普遍化させようと試みた柳田とのあいだに深い断絶」が生じた。日本を一つの共同体とする認識を強めていた柳田にとって喜田の論が受け入れられるはずはなく、翌年4月「人形とオシラ神」では喜田を痛烈に批判している。

 

<心霊スポットとはどんな場所なのか>

平田篤胤のような霊界肯定論者や、逆に怪異を全否定する現代の科学主義者は、いずれも現地探訪の必要性を感じないだろう。結論は肯定と否定で正反対だが、確かめるまでもないという点では両者の姿勢は共通している。

 しかし、心霊スポット探訪は鈴木桃野のような半信半疑の姿勢でなければ意味がない。

 

<地縛霊説の限界>

心霊スポットは、日本全国にある。ひとしきり話題になって忘れ去られてしまう場所もあれば、幽霊や妖怪を神として祀る寺社ができて伝説を偲ぶ名所になっているところもある。

 従来、心霊スポットの条件は、通俗読み物を通して流布された「心霊学」的知識によって、地縛霊という観念で説明されてきた。すなわち非業の死を遂げた者の霊魂が、命を落としたその場所に思いをとどめている状態を地縛霊と呼び、地縛霊が憑いている場所が心霊スポットである、という説明である。

 ところが、広島市長崎市には原爆によって非業の死を遂げた者が無数にいるわけだから、街中に心霊スポットが点在していてもおかしくはないのに、そうした話はあまり聞かない。一方で、沖縄の戦跡にはたくさんあるのだそうだ。地縛霊についての説明は、あたかも自然現象が起きる条件についての説明のようになされるが、地域差があるということは、非業の死イコール死亡現場への憑依という図式では語れないことは明白である。

 

<異界との境界>

しかし、地縛霊という考え方が登場した事情についてはよく理解できる。本章では現代風に心霊スポットと呼んでいるが、聖地、霊地、または魔所と呼ばれてきたような、何やら俗世とは異なる雰囲気を漂わせ、奇跡や怪異が起きたと伝えられる場所は確かにある。

 そこで地縛霊説を超える心霊スポットの説明理論として注目されたのが、民俗学系妖怪学の境界説である。境界説とは何か、宮田登『都市空間の怪異』にその要約ともいえる文章があるので引いておこう。

 

 妖怪の出現にあたっては、その場所性というものが、強く影響していることはこれまでも指摘されてきた。具体的には、三辻とか四辻といった道が交差する地点あるいは橋のたもとであるとか、橋の中間部、坂の頂上とか、坂の中途などに独特な境界がある。それは私たちが無意識のうちに伝えている民間伝承の累積として定着している民俗空間の中に位置づけられている。

 

 ここでは交差点、橋、坂が例に挙げられているが、境界とはそれらだけに限定されるものではない。宮田の意図を忖度するなら、ある空間の内側から見たときの外部と内部を隔てると同時に連絡するような場所が、この世とあの世(異界)の接点と重ね写しされて意識されるときに、その場所が「境界」と理解すべきだろう。

 実際、世の中で知られている心霊スポットのほとんどに境界説が当てはまるのである。実話として伝えられる妖怪の現場を訪ねてみると、そこにはたいてい橋があったり坂があったり、または町外れだったりした。しかしながら、境界説の説明が十分であるなら、その逆も真なりで、その条件を満たしている場所には必ず怪異が起きるかというとそうでもない。この点については地理学者の内田忠賢の批判が既にある。

 

 

 

<●●インターネット情報から●●>

ウェブサイトの「黄昏怪奇譚」から引用

 

 

今回は、江戸中期、寛保三年(1743年)に刊行された『諸国里人談(しょこくりじんだん)』という書物から「天狗にさらわれた少年」の話を。

(『日本史怖くて不思議な出来事 中江克己著(PHP文庫)』要約)

 

江戸で「天狗小僧寅吉」とか、「仙童寅吉」と呼ばれる超能力少年が評判になった。寅吉というのは、文化三年(1806年)12月晦日、年も月も日も「寅」に生まれたため、名付けられたという。

 

 文化九年(1812年)四月、寅吉が七歳のときのことである。江戸上野の池之端(現・東京都台東区)、五条天神の境内で遊んでいたところ、奇妙な薬売りの老人が仕事を終えたのか、道端に並べていた薬を片付けるところだった。

 じっと見ていると、老人はすべてのものを小さな壺に入れ、みずからも壺のなかに姿を消して、いずこともなく飛び去っていった。

 寅吉は腰を抜かさんばかりに驚いた。しかし、好奇心が旺盛だったから、再び境内にきてみると、例の老人がいた。老人は寅吉に「わしと一緒に壺に入らぬか」と誘った。寅吉は好奇心に駆られ、老人と一緒に壺に入ると、常陸国(現・茨城県)の南台丈という山へ連れていかれた(この山は、いつの間にか岩間山→愛宕山と呼ばれ、獅子ガ鼻岩という岩が突き出ていることで知られてる)。

 

 こうして寅吉はたびたび老人に連れられ、各地へ飛行した。やがて常陸の岩間山へ飛び、その山中で諸武術、書道、祈祷術、医薬の製法、占術などを四年間にわたって修行した。

 その間、岩間山と家とを往復しながら、超能力を身につけていった。

 

 しかし、何度も家を留守にするので、世間では天狗にさらわれた少年ということになり、「天狗小僧寅吉」とか「仙童寅吉」と呼んだ。実際、失せ物を探し当てるなど、占術では異能を発揮したという。

 

 その後、寅吉は文政三年(1820年)から江戸下谷長者町(現・東京都台東区)の薬種問屋長崎屋に身を寄せ、暮らすようになった。それというのも主人の新兵衛が超能力に興味を抱いていたからである。

 

 新兵衛は自宅で、しばしば超能力会を開くようになったが、そこには幕府祐筆を務めた国学者屋代弘賢、その友人の国学者平田篤胤、農政学者佐藤信淵らが顔をそろえていた。彼らが感心を抱いたのは、超能力少年の寅吉だった。

 

 寅吉はまだ15歳の少年である。しかし、とくに寅吉の話を聞きたがったのは、平田篤胤だった。色々話を聞くうちに、いっそう「仙界」(仙人の住むとされる世界)への興味をつのらせた。

 

 やがて長崎屋での研究会だけでは飽きたらず、寅吉を自分の家に招き、寅吉が訪れたという「仙界」について質問を繰り返し、文政五年(1822年)平田篤胤は、『仙界異聞〜仙童寅吉物語』を発表したのである。

 

 その後、寅吉は二十代後半になると、仙人から授かった異能は消え失せ、平凡な人物になり、晩年は風呂屋の主人になったという。

 

寅吉が修行したとされる岩間山(愛宕山)〜今も天狗の修行場として知られている。

 

 天狗と接触し、神隠しにあったり、連れて行かれて修行をさせられたりと、色んな話が各地にはあるようで、この寅吉の話もそのうちの一つです。

 しかし、平田篤胤ら、この時代の著名人たちが興味を抱くだけのものがこの少年にあったということは注目に値すると思います。

 

 平田篤胤はこの寅吉から仙人界に住む者たちの衣食住や祭祀の仕方、彼らの修行、医療、呪術など詳しく質問を繰り返し、その内容を、『仙境異聞』(全2巻)という書物にまとめました。

 

この平田篤胤は他にも、『勝五郎再生記聞』という、臨死体験をして前世の記憶を取り戻したという少年の取材の話なども出版しています。

 この1850年代から1900年代初頭までの時代は、西洋でも心霊主義(スピリチュアリズム) が流行りました。しかし、それに先駆けて日本で死後の世界や不思議な話などを調査したり研究しようという流れが先駆けのように起きていることは大変興味深いなと思います。

 江戸時代の文献には面白い話が沢山あります。

 

  

 

『幸せの風が吹いてくる』

木村藤子    主婦と生活社  2013/8/2

 

 

 

<霊能の世界> 

・拝殿で長年、いろんな方のお話を聞いて感じることは、「霊能の世界」「透視能力」という見えない世界に対して、多くの人が、誤解や誤った想像をしてしまっているということです。

 その原因は、他人にはあまり触れられない「家庭」という閉ざされた環境にあります。

 

戦後の日本は、科学や経済の発展においては、実に目覚ましいものがありました。しかしその反面、スピリチュアルの研究、理解、発展は置き捨てられたがごとく、まだまだ足りない部分が多いのです。

 

・霊能や透視の世界というものは、普通は目にみえませんから、誤解がまかり通ってしまっていたのは当然といえば当然のことで、仕方がないことも多かったのでしょう。

 

・そして、私は透視能力者であってカウンセラーではありません。多くの時間をかけて相談者の悩みを聞く必要はないのです。

 

・透視能力というものは、お話を事細かに詳しく聞く必要がなく、

相談の要点のみお聞きすればよいということが、なかなか理解していただけないのです。

 

・この世は修行の場、善があれば悪がある。この世の修行として自分の「心の修行」をするとき、あなたのそばに必ず、「善」と「悪」が一緒に存在する。

 

・私たちが生きていかなければいけないこの人の世は、よいこと、よい人、よい出会いだけではなく、悪いこと、悪い人、悪い出会いも同時にあるのです。それゆえに、この世は修行の場となります。

 

<「運命」と「カルマ」の関係>

・みなさんが透視能力者と会ったとき、まず真っ先に知りたいと思うのは、ご自分の「運命」のことではないでしょうか。

 実際、私が相談者の方を迎え入れているこの拝殿の前で、「運命」という言葉を耳にしない日はありません。

 

・「人それぞれ、生まれながらに定められた運命がある」といえるのですが、この「運命」について語るうえで、どうしても欠かすことのできないものに、「カルマ」というものがあります。

 

・というのも、この「カルマ」は、悪いものだけではなく、よい「カルマ」と悪い「カルマ」の両方があるからです。

 ですから、ここでは「カルマ」の意味をもう少し具体的で、わかりやすい言葉で説明したいと思います。いわば「カルマ」の意味とは、「自分が行ったよい行いと悪い行い」そして、この「カルマ」がどう動くかを説明するなら、「カルマ(つまり、自分が行ったよい行い、悪い行い)にふさわしい出来事が未来において起こり、体験することになる」と、いえるわけです。

 

要するに、私たちの運命を形作っているおおもとが、この「カルマ」にあるということなのです。「カルマ」が、現世で体験する出来事や出会う人物などを引き寄せているということです。

 

・つまり、その人が作った「カルマ」は、まるでピタッとハンコで押されたように、神の世界にしっかりと記録されるのです。

 たとえるなら、「カルマ」のすべて、つまり、よい行いと悪しき行いのすべてを記録する台帳のようなものがあり、それが神によって管理されているようなものです。

 たとえ、どんなに小さな「カルマ」であっても、その人の言動、思考(心の声)が、そのつど台帳に書き込まれていく、といえばわかりやすいでしょうか。

 

いずれにせよ、早いか遅いかは別にして、あなたがしたことは、必ずあなたに還ってくる、ということだけは、揺るぎのない事実なのです。

 

<「カルマ」と「霊障」の違い>

・これまで説明してきた「カルマ」について、特に誤解が多いものに、「霊障」というものがあります。私のところに相談にいらっしゃる方の中にも勘違いをされている方が多く、いわく、「カルマと霊障の違いがわからない」とおっしゃるのですが、そんな誤解を耳にするたびに、私は神の部下として、正しい知識をみなさんに伝えていきたいと思っています。

 

・「霊障」というのは、みなさんが思っているほど頻繁に起こるものではありません。このことを踏まえ、何か予想外のことが起こったときには、まず“これは「カルマ」によって自らが引き寄せたものなのではないか”という考えを持ち、現実をしっかり見つめて、「カルマ」の清算に励んでいただきたいと思います。

 

<天から与えられたお役目>

・わかりやすく説明するなら、その人のカルマに合ったお役目として、仕事が与えられているのです。

 

・というのも、透視能力者として生きていくことは、私が望んだことではなく、神から授けられた使命であり、私のカルマが引き寄せたお役目だということに深く気づくまでには、それ相応の時間がかかったからなのです。

 

・その日、私は、神からご利益(=霊的な力)を授けていただけることを、あらかじめ母から伝えられていたので、「ご利益をいただいた暁には、どうぞ怠りませんように」と念じながら、拝殿に向かって神に祝詞をあげていました。

 すると、十分ほどたった頃でしょうか、突然、視界の右側のほうからスーッと女性が現れたのです。その女性は笏を持ち、おすべらかし(平安時代の貴族の女性の髪型)の長い髪を垂らし、深紅の十二単をまとっていました。平安時代の女性のような姿、といえばわかりやすいでしょうか。そのような姿恰好をした女性が歩いてくる姿が見えたのです。

 すると今度は、突然、女性の顔だけが、映画のワンシーンのようにクローズアップになって見えます。その女性はとても美しい顔立ちで、純粋なまなざしをしています。

「ああ、なんて美しいんだろう」と思っていると、その女性が私自身であることを神が教えてくれました。

「いやいや、私はこんなに美しくない」と心で否定するものの、まぎれもなく、その女性は私であるということがわかって、唖然としたのを覚えています。

 神は、私の持っている魂を見せてくれていたのでしょう。いわば、魂の世界にいる私の姿、といえるのかもしれません。

 

そのようにして、いったい、いくつのふすまが開いたのでしょうか。やがて大広間に出ると、あまたの神々が両脇に控え、部屋のいちばん奥に、男性の神がいらっしゃったのです。

 その神は、私が来るのを心待ちにしてくれていたようでした。まことに畏れ多いことですが、十二単をまとった私は、神を見ても、ただただ懐かしいばかり、怖気づくようなこともなく、まるで、故郷の父親に会ったような気持ちでした。

 すると、その神は私に向かって、「この日を待っていたぞ。もっと近くに来るがよい」と、あたたかいお言葉をかけてくださったのです。その優しい声は、今でもしっかりと私の耳に残っています。そして、私にさまざまなご利益を授けてくださいました。

 

・神からいただいたご利益は、透視や除霊の際に必要な勾玉や古代の巻物、弓矢、大小の剣などですが、神はそれらの取り扱い方をひとつひとつ丁寧に説明してくださいました。

 

・このときに授かった弓矢や剣は、除霊をする際に身を守るためのものなのですが、これをいただいたおかげで、私はこれまで数多くの除霊をしてきましたが、霊障を受けたことは一度もありません。

 

<赤い糸のご縁>

・運命として決まっているものにさまざまなものがありますが、人と人とのご縁というのもそのひとつです。

 夫婦になる男女のことを、俗に「赤い糸で結ばれた運命の相手」などという言い方で表しますが、まさしく、特別なご縁があるからこそ、その一組の男女は出会い、夫婦になるといっていいでしょう。

 

また、難病で生まれる子供の親になるために夫婦になるなど、カルマを共有しているご縁というものもあります。

 

 

 

『幸せの絆』

木村藤子   主婦と生活社 2013/6/27

 

 

 

<運命の出会いとは?>

・今になって考えてみると、神のいわれた通り、主人と結婚してよかったと思っています。寛大に、この大変な仕事をする私を見守ってくれています。本当にそのことには感謝しています。若いころに好きで別れた人もいますが、好きになった人だけが縁ではなかったのです。生活をしてみて、いかに協力し合えるか、理解し合えるか、それが大切なのです。

 運命の赤い糸は誰しもが持っているもの。1本ある人もいれば、2本ある人もいる。あせって結婚を急ぎすぎると、間違って黄色い糸を取ってしまう人もいるかもしれませんね。しかし、いくら赤い糸の相手でも、あまりワガママが過ぎると、せっかくの縁を破ってしまうことにもなりかねません。

 

<スピリチュアルは万能薬ではない>

・でも、そうではありません。多くの場合、不幸を招いているのは、その人自身。私は、その人のどこに問題があるか、そのヒント、気づきのヒントを伝えているだけなのです。そうした気づきをどう生かすか。生かすも殺すも、それもすべて、その人自身の問題です。自らのいたらなさを知って、謙虚に反省し、親や周囲の人から学ぶ。それによって、当たり前の品性や礼儀を身につければ、幸せはおのずと得られるものです。

 

<スピリチュアルは死ぬまで勉強するもの>

・汚れた生き方をしてしまった場合も、何十年もの歳月をかけて、ゆっくり、ゆっくり変えていくのです。その心なくして、スピリチュアルを学んでも同じことのくり返しです。

 

・そして、誤解が多いのは、スピリチュアルカウンセラーと透視を混同していること。スピリチュアルカウンセラーはとても大切な仕事ですし、大きな役割を持っています。しかし、一部にはスピリチュアルカウンセラーとは、透視や先祖霊を見ることだと思っている方もいます。それは大きな誤解で、透視ができる方は詳しい話は聞きません。聞くよりも前に、神から見えることをズバリといいます。あまりにもストレートに、ズバッといってしまうので、時には反感をいだかれることもありますが………。

 

・しかし、この私たちが暮らしている人間の世は、神が人間を修行の場として送り出してよこすところなのです。

 

・私の透視能力は、魔から人間を守るために授けられた力です。その道では、時には厳しい霊との戦いもあります。しかし、私は霊障を受けたことは一度もありません。霊障を受けるような人では除霊できないのです。

 

<「気づく」ことでカルマは変えられます。>

・私は当たる当たらないではなく、神から与えられたことを、神の部下として忠実に行動していかなければいけないと思うのです。

「神と私の約束と責任において………」

 そんな神との交流の仕事をする中で、たくさんの苦しみを抱えた方に出会ってきました。そして、何百回、何千回と必ずいってきたことがあります。

 それは「気づく」ことと、過去の自分の行いの中に今の状態を作り出してしまった原因はないか、「振り返ってみなさい」ということです。

 

・「神が、なぜ私に透視能力を与えたのか」

 私は長い年月その意味を心の中でずっと考えていました。私の母の場合は、透視能力、除霊力を神から授かりました。そして、私も同じように透視能力、除霊力を与えられました。

 

・幸せになっていただきたい。カルマを変えていただきたい。ただそれだけが私の願いです。

 

 

 

『新・気づく力』

木村藤子   主婦と生活社   2014/6/20

 

 

 

<気づき>

・私達はみな、一生懸命“良かれ”と努力して生きている。しかし、気づかなければいけないことに気づいたつもりが—―、“気づけないでいる自分――に”気づかなければいけない“ことさえ”気づけないで苦しんでいる。

 

・私が事あるごとにお伝えしてきました“気づき”というものは、不幸を生み出す根源である“自分を変える”ということです。

 自分が変わることで、新たに見えてくる世界があります。私たちが認識する世界はひとつだけではなく、自分自身が変わっていくことでいかようにも変容していきます。

 

・そうした自分の経験や、人々からのアドバイスを聞き入れて直すべきところは直していかなければ、自分の人生だけではなく、子どもの人生、孫の人生まで自分と似たようなものになります。なぜかというと、子どもというのは似たカルマの親のお腹に宿ります。つまり、似たような運命を背負っているので、自分の悪いカルマを解消していかなければ、自分では要領よく生きているつもりが、自分の人生、子どもの人生、孫の人生をも幸福にすることはできないのです。

 

・完璧にできなくても、善と悪が5対5のところを、努力をもって6対4に7対3にしていくことは十二分に可能なことで、そうすることで人生をまったく違うものに変えていくことができます。

 

愛という言葉の意味とは

・私は透視能力者として、神との会話の中で、それによる気づきをもたらすことをお役目としてきたわけですが、常に感じているのは、神はあらゆる人に分け隔てなく愛を注いでくださっているということです。

 

・逆に、心を清め、魂を磨けば(悪いカルマの解消)、愛が常にそこにあるということを理解でき、感じることができるようになっています。

 

愛情の反対は何か

・「愛情の反対は憎しみではなく、無関心」

 なぜ無関心なのでしょうか。

 憎しみとは、特定の相手に対し憎悪を募らせることです。宗教や人種差別といった思想的、盲目的な憎しみは別として、人を憎むにはそれ相応の「理由」があるはずです。

 

<駄目な人と思われ、人目に止まる人こそ我が師なり>

・「あの人はなんて愚かなんだろう!」と、心の中で人を見て笑っていてはいけない。そういう人からこそ学ぶべきことがたくさんあり、自分の師となります。そうした心を持たない限り、いつまでたっても気づきの道に入れないままでいてしまいます。

 

・時間を巻き戻して過去を変えることはできませんが、未来の選択はあなたの心次第で自由に進路を変更することができるのです。過去の失敗をバネにして、根気強く一歩一歩進んでいくのです。