日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

荒野と化した交差点に、歩道橋だけがぽつりと残る。この歩道橋に、ある時間になると「鈴木さん」が立っているのだという。鈴木さんは、あの津波で生命を落とした(1)

 

 

『震災編集者』  東北の小さな出版社・荒蝦夷の5年間

土方正志  河出書房新社     2016/2/23

 

 

 

この災害列島に生きる「明日の被災者」たる人たちへのささやかな伝言

・本書に収録した、このような原稿を書くことになるとは思ってもいなかった。

 2000年に東京から宮城県仙台市に拠点を移すまで、取材者として雲仙普賢岳噴火の長崎県島原市に、北海道南西沖地震による津波に呑まれた奥尻島阪神・淡路大震災下の兵庫県神戸市に、島そのものが噴火したかのような東京都三宅島に、有珠山噴火の北海道洞爺湖町に、岩手・宮城内陸地震の現場にと、全国の被災地に立って、週刊誌や月刊誌に記事を書いた。

 東日本大震災で自らが被災者となって、私のそんな過去を知る東京の編集者たちが直後から連絡してきた。取材には行かないのか、原稿は書かないのか、と。対する私は「書かない、書くつもりはない」と応え続けた。

 

<地域誌を編む>

・なにがなにやらである。ぱっと見た印象では震災関連本と地域誌に受け止められるかもしれない。『震災学』は震災関連本で『仙台学』と『奥松島物語』は地域誌、『新・遠野物語』は震災関連本で『遠野学』は地域誌である………そんな具合だろうか。だが、私たちにとってはすべてが震災関連本であり、かつまた同時に地域誌でもある。

 

岩手県であれば『遠野学』は、柳田國男遠野物語』刊行100年を記念して震災の春に設立された遠野市遠野文化研究センターの機関誌である。沿岸被災地の救援拠点となった遠野もまた震災とは無縁ではいられなかった。同センターは文化財レスキューや図書館復興のための「三陸文化復興プロジェクト」を展開する拠点となって、『遠野学』も『遠野物語』誕生の地が、いまどのように被災と向き合っているのかがテーマとなった。かと思えば『新・遠野物語』は、遠野の被災地支援の記録そのものである。

 

<震災怪談>

・たとえば、こんな話だ。

 三陸沿岸のある町。町といってももはやそこにはなにもない。津波に呑まれた見渡す限りの荒野である。高台に仮設の住宅があり、商店がある。その仮設住宅に、幽霊が現われるのだという。この町に暮らして津波に呑まれたおばあちゃんの幽霊だ。仮説の知り合いをたずねてくる。お茶と漬け物でもてなす。このあたりで「お茶っこ飲み」という。近所の人たちが集まっての茶飲み話だ。おばあちゃんが「さて」と立ち去ってみれば、座布団がじっとりと濡れている。ああ、そういえば「あのおばあちゃん、津波で死んだんだっけな」……。一軒だけではないそうだ。おばあちゃん、知り合いの仮設にたびたび現われる。

 この話をしてくれた人に訊いた。それで、おばあちゃんを招じ入れた仮設の人たちはなんていっているの………「いやあ、あのばあちゃん、自分が死んだってわかってないんだべな。まだ生きているつもりでお茶っこ飲みに来るんだべ。あんたもう死んでんだよってわざわざ教えるのもなあ。んだから、なにごともなかったようにお茶っこを飲ませて帰してやってんだ。そのうち自分でわかるべ」。

 

・やはり三陸沿岸のある町の話だ。歩道橋がある。歩道橋の上に逃れた人たちはかろうじて助かった。荒野と化した交差点に、歩道橋だけがぽつりと残る。この歩道橋に、ある時間になると「鈴木さん」が立っているのだという。鈴木さんは、あの津波で生命を落とした。最後に目撃されたのは、津波から逃れようと歩道橋に向かって走る姿だった。その甲斐もなく、鈴木さんは亡くなった。近所の人たちはいう………「鈴木さん、あの歩道橋までたどり着けばって走っただべ。だけど、間に合わなかった。どうしても歩道橋までって死んじまったから、その鈴木さんの思いがあそこに残ってしまって、んで立ってるんだべ」。みなは今日も「歩道橋に鈴木さんがいたよ」と話す。不特定の「幽霊」や「お化け」ではない。あえかな人影は、あくまであの「鈴木さん」なのだ。

 

・まるで『遠野物語』の一篇のような話が、被災地ではいくらも語られている。今回の震災に関して各所で触れられた『遠野物語』99話――明治の津波に呑まれた妻の幽霊と再会する話――のいわば平成バージョンが、被災地のそこかしこで生まれているのだ。いかにも東北のホラ話めいた類もあったりして、話す側も聞く側も、思わず苦笑いしたり爆笑したりもするが、こころの裡はさすがに複雑である。笑いながら、泣く――とでもいおうか。自らの死を知らずに仮説に暮らす友だちをたずね歩くおばあちゃんの、歩道橋に立つ「鈴木さん」の胸の裡を思えば、自分の知ったあの人この人の、津波に呑まれた瞬間のその衝撃を思わずにはいられない。

 

・もうひとつ、2年が過ぎてあちらこちらで耳にする話がある。あの津波に生まれて間もない子を亡くした。悲嘆に暮れた。自殺を考えた。もう、立ち直れないと思った。そこに新たな子を得た。この子はあの子の生まれ変わりではないかと思った。この子を立派に育て上げることこそ、死んでしまったあの子の供養になるのではないか、そう思っています……なにかが吹っ切れたように語る若い父が、母がいる。

 

・あるいは「ウニ――カニだったりタコだったりもするが――を食べたら髪の毛が――あるいはなにか人体の欠片が――出てきた」などの都市伝説めいた話がある。海に沈んだ遺体を海底の生き物が食べてしまったからだ………。まことしやかに語られるこんな話をしたところ、ある海辺の住人が言い放った。「だったら、そのウニを食べてやるのも供養だべ。人間の死体だろうとなんだろうと、ウニもカニもタコも自分たちが生きるために食べた。それをオレたちがまた食べて生きていくんだ。これだって供養だべ」。

 

被災地で語られる怪異譚を「震災怪談」と称して、山形在住の作家・黒木あるじを中心とした若い書き手たちが記録をはじめている。私たちが高橋克彦赤坂憲雄東雅夫三氏と、柳田國男遠野物語』刊行100年を期して震災前年から進めてきた、<みちのく怪談プロジェクト>もこの「震災怪談」と深く関わる。雑誌『仙台学』にも掲載すれば、トークイベントも予定している。怪談やホラ話や都市伝説であれ、あるいは「物語」であれ、それが被災地の、そして被災者のある「情念の声」だとすれば、それを記録するのもまた地域の出版社の仕事だ。願わくは、この声が永く語り継がれんことを。

 

<ちいさな<声>があふれている>

『未来へ伝える私の3・11 語り継ぐ震災 声の記録』全2巻として竹書房から刊行されるが、編集は私たちが担当している。

 

・ほとんどの手記が、文章としては拙い。「はじめて文章を書いたのだが、こんな原稿でいいのだろうか」などと追伸があったりもすれば、旧かなで原稿用紙に書き綴った高齢の投稿者の原稿もある。そんな原稿だからこそだろう。文面から起ち上ってくるのは、どうしても書いておきたい、書くことによってあの体験から解き放たれたい、あの体験を自分のなかに落ち着かせてたい……といった強烈な思いだ。

 

・一緒に逃げた父が流される瞬間をその目で見た男性は「父の死に目に会えた」と自分を納得させて、発見された遺体は「ミンチ状態だった」と呟いた。幼い我が子と離ればなれになり、再会するまでの狂乱の記憶を手記に綴った女性は、投稿を後悔した日もあったと漏らした。我が子と再会できなかった人たちがいるのに書いてよかったのか、と。第一波で流されるも命拾い、孤立した住民を救おうとして第三波にまたも呑み込まれ、首まで波に浸かりながら家の残骸にしがみついて難を逃れた元自衛官の男性。そして、高台の神社の境内から町が流されるのを見た男性は、引いては戻す波の間に、いくつもの遺体が、その断片が、あるいは生きながら漂流する人たちが流されるのを、なすすべもなく見詰めていた。後者の二人は遺体捜索で知人が発見された現場にもどるに立ち会った。押し流されたコンクリをユンボが引きはがすと、知人の遺体があった。あっと思った瞬間、遺体の頭部がころりと地面に転がり落ちた。

 文章からこぼれ落ちた、あるいは書こうとしても書けなかった経験がある。逆に、口にはできない感情が文章にあふれ出る。そんなものなのかもしれない。ただ、書くことによって、語ることによって、落ち着く場所をやっと見つけた被災者のこころがここにあるのは確かだ。もちろん、まだ書けない、いまだに語れない被災者も多い。投稿者のみなさんもそんな人たちの存在を思いやりながら、まず私から、まずここからと踏み出している。

 

<神戸の記憶>

・『てつびん物語』は、奥野と私が出会った神戸の被災者、関美佐子さんの物語である。関さんとはじめて会ったのは、阪神・淡路大震災発生から1週間ほど経ったある日のことだった。

 

・夫を亡くし、子どもはない。石油ストーブの上でちんちんと暖かい音をたてる薬缶のお湯で「ぬくいお茶」をいれながら語りはじめた。

「神戸生まれの神戸育ちや。神戸を離れたことはない。神戸で家をなくすの、これで三度目や。戦争のときは空襲で焼け出された。台風で家を流された。で、これで三度目やな。またかってなもんや。ほんでもな、この歳になって家をなくすとは思ってへんかった。ちょっとしんどいなあ。ま、しゃあないわな。地震やもん。ウチだけやなく、みんな多かれ少なかれやられとうやろ。亡くなった人もよおけおるんやろ。生きとっただけでめっけもんや。くよくよしとったってはじまらん。こうなったら死ぬまで立派に生きたるわ。ま、世のなか、なんとかなるもんやで」

 

・この復興住宅から、関さんは<てつびん>に通い続けた。体力的な限界が迫っていた。持病の肺の病いが悪化していた。私たちや常連たちの心配を「だって、稼がないと食べていけへんやろ」と、意に介さない。思いあまって生活保護の受給をすすめると、ふんと鼻であしらわれた。ただ、自分の限界は確かに感じていた。常連客のひとりに<てつびん>を譲ろうとしてしたのをのちに知った。

 

・とうとう、その日はやってきた。震災から7年目のある日、関さんは<てつびん>の行灯を消した。酸素吸入チューブを鼻に入れて、新築の復興住宅の一室で、療養の日々を送ることになった。生活保護も受けはじめた。それでも元気に「神戸に来て、なんであたしの料理を食べへんで帰るんや」と、私たちを復興住宅に招いてくれた。そして、およそ1年後、息を引き取った。病院での死ではあったが、実質的には孤独死といっていい、そんな死だった。瓦礫の町で出会ってから8年が経っていた。

 

<大きなテーマのひとつが災害報道だった>

・ライターとして編集者としてなにせ自然災害と縁が深かったわけだが、東日本大震災で自ら被災者となって、これら過去の記事を折に触れて読み返すようになった。はじめはかつての自分がなにかを取り違えて原稿を書いていなかったかを確認しながら読んだ。間違ってはいなかったと、安堵した。被災者となった自分が読み返しても、気持ちがささくれ返りはしなかった。取材を受けてくれた被災地の人たちの声が、切実に私の胸によみがえった。

 そんな記事から、かつて私が聴いた被災地の声をいくつかご紹介する。

 

・ばあさんと一緒に玄関までたどり着いたとき、どっと海水が押し寄せて来たんだ。その勢いに家の中まで押し戻されてしまった。水がちょっと引いた際にはもう一度逃げ出そうとしたんだが、ばあさんが箪笥と柱の間に足を挟まれて動けなくなってしまった。なんとか助け出そうと四苦八苦しているところに、津波の第2波がやって来た。すると箪笥がすっと浮いたんだな。するりとばあさんの足が抜けた。そのあとはばあさんを担いで裏山に一目散さ(1993年7月/北海道寿都町

 

・あの夜から私の人生は狂ってしまった(1994年7月/北海道奥尻町

 

・外部の人たちはこの神戸がいまどんな状態にあるかわかってくれているのでしょうか(1995年1月/兵庫県神戸市)

 

・いまこの神戸にいる人間は、被災者も復旧作業員もボランティアも、みんな一緒や。運命共同体みたいなもんやね。こんな瓦礫の山のなかで毎日過ごす。そりゃあみんなしんどいで。こっちにしてみれば、ほんまにありがたいこっちゃ(1995年1月/神戸市)

 

・1年たったかて、ええ話なんか全然あらへんで(1996年1月/神戸市)

 

・神戸には、いま、あの体験を話したい人がたくさんいる。やっと話せるようになったんです。話すこと、聞くこと。それがあの悲劇を風化させないことに繋がるんじゃないでしょうか(2005年1月/神戸市)

 

・それでは「声」ではなく、光景はどうか。東日本大震災で自らが被災する以前、私はいったいなにを見てきたのか。

 

・まるで全島くまなく空襲にあったような惨状が繰り広げられていた。陸に打ち上げられた巨大な船、家のなかに飛び込んだ自動車、ぽきっと折れた電柱、浜辺を埋め尽くした瓦礫の山々………。残骸を燃やす炎とその煙がたなびく空を自衛隊のへりが編隊を組んで飛んで行く。救援作業に当たる自衛隊海上保安庁の船舶が沖に展開している。瓦礫のなかでは遺体の捜索がつづいていた。そんな戦場のような島をときおり余震が襲う(1993年7月/北海道奥尻町

 

・巨大な瓦礫と化した都市。ビルが家が、潰れ、傾いている。平衡感覚や遠近感覚が狂っていく。町が並んでいるのか、それとも自分の視覚が歪んでいるのか。そして焼け跡のにおい。道端に横たえられた遺体。瓦礫に埋もれた生存者。歩いているうちに、気持ちが悪くなる。吐き気が込み上げてくる(1995年1月/兵庫県神戸市)

 

・車窓から見える町は、ゴーストタウン。積もり積もった火山灰。流出した道路。泥流に爪痕。いたるところに積まれた土のう。地殻変動によって隆起した路面、崩れた崖、折れた電柱。三宅島には約400人の復旧作業員や保安要員が常駐しているとはいえ、住民のいなくなった家並みは荒廃が進んでいる(2001年9月/三宅村

 

私の文章力の限界もあるにせよ、北から南まで、この列島の<壊滅>の風景はどこか似通っているのもまた確かではある。家々が街並みが破壊されている、焼け野原になっている。クルマが家に突っ込み、船が陸に打ち上げられる。東日本大震災下の被災3県でも、沿岸およそ600キロの破壊の規模や範囲を想像すると気が遠くなりはしたものの、ああ、こんな現場は奥尻にもあった、神戸でも見たと感じる瞬間があった。だが、間もなく5年を迎える東北では、いまだにおよそ20万人が避難生活を続け、津波に呑まれた沿岸には広大な更地が広がり、福島第一原発も「アンダー・コントロール」どころではない。かつての私が耳にした「声」に、目撃した光景に、東北の行く末を思う。

 

・あまり書いてこなかった光景もある。

 奥尻島、遺体安置所となった体育館。白木の柩がずらりと並んでいた。女性がひとり、柩のそばにへたり込むように遺体の顔を見詰めていた。神戸、倒壊した家の下から同居していたおばあちゃんの遺体を掘り出した家族。路上に布団を敷いて、まるで眠っているかのように遺体を横たえていた。息子夫婦と孫たちが、小雪の降るなか、呆然と立ち竦んでいた。やはり神戸、遺体安置所となった学校の理科室。実験用テーブルに遺体が10体ほど寝かせられていた。ただならぬ臭気のなか、理科室の床では家族が避難生活を送っていた。これも神戸、倒壊を免れたお寺の本堂に、2体の遺体が運び込まれていた。家族が為す術もなく遺体のまわりにすわり込んで、泣き声もなく、会話もなく、本堂はしんと静かだった。大規模火災の焼け跡から、焼き尽くされて白々と灰のような遺骨、いや、遺灰が自衛隊員などの手によって次々と掘り出されていた。自衛隊員が遺灰を見つけると、作業を見守っていた家族が残骸を踏んで近寄り、しゃがみ込んで手を合わせる。

 

 

 

『魂でもいいから、そばにいて』

3・11後の霊体験を聞く

奥野修司   新潮社    2017/2/28

 

 

 

<旅立ちの準備>

・死者・行方不明者1万8千人余を出した東日本大震災。その被災地で、不思議な体験が語られていると聞いたのはいつのことだったのだろう。多くの人の胸に秘められながら、口から口へと伝えられてきたそれは、大切な「亡き人との再会」ともいえる体験だった。同時にそれは、亡き人から生者へのメッセージともいえた。

 津波で流されたはずの祖母が、あの朝、出かけたときの服装のままで縁側に座って微笑んでいた。夢の中であの人にハグされると体温まで伝わってきてうれしい。亡くなったあの人の形態に電話をしたら、あの人の声が聞こえてきた。悲しんでいたら、津波で逝ったあの子のおもちゃが音をたてて動いた……。

 

事実であるかもしれないし、事実でないかもしれないが、確実なのは、不思議な体験をした当事者にとって、それは「事実」であるということである。

 東日本大震災の2年後から、僕は毎月のように被災地に通いつづけた。なにやらそうしないといけないような気がして、まるで仕事にでも出かけるかのように通った。ボランティアではない。もちろん物見遊山ではない。それは霊体験ともいえる。きわめて不思議な体験をした人から話を聞くことだった。

 

 お迎え率

・「お迎え率って知らねえだろ。うちの患者さんの42%がお迎えを経験してるんだ。お迎えを知らねえ医者は医者じゃねえよ」

 

・今から千年以上も前に、天台宗の僧・源信を中心とした結社が比叡山にあった。彼らは亡くなっていく仲間の耳元で、今何が見えるかと囁き、末期の言葉を書き留めたという。死ぬ直前に極楽か地獄を見ているはずだから、最初に何を見たか、死に逝く人は看取る人に言い残すことを約束したのである。このとき何かを見たとすれば「お迎え」に違いない。千年も前からお迎えがあったなら、お迎えは特殊な現象ではなく、人が死んでいく過程で起こる自然現象と考えたほうがいいのではないか。そんな思いを、このとき僕は岡部さんとはじめて共有できたのだ。

 

お迎えの話に導かれるように耳に入ってきたのが被災地に「幽霊譚」だった。

 実際、僕が聞いた話にこんなものがある。たとえばタクシーの運転手だ。

古川駅(宮城県)から陸前高田岩手県)の病院まで客を乗せたんだが、着いたところには土台しか残っていなかった。お客さん!と振り返ったら誰も乗っていなかったんだよ

 仙台のある内装業者は、一緒に食事をしたときにふっとこんな話を漏らした。

「震災の年の夏だったが、仮設住宅で夜遅くまで工事をしていたら、いきなり窓から知らない人がいっぱい覗いていた。そのとき頭の中に若い女性の声で「わたし、死んだのかしら」なんて聞こえた。驚いてあらためて窓を見たが、年寄りの幽霊ばっかりだった」。

 

・またある女子大生の話。

閖上大橋のあたりに行くと、高校時代にいつもそこで待ち合わせていた親友が立っているんです。でも、その子はお母さんと一緒に津波で流されたはずなんです

 ある婦人のこんな話もある。

「ある日、ピンポンと鳴ったのでドアを開けると、ずぶ濡れの女の人が立っていました。おかしいなと思ったんですが、着替えを貸してくださいというので、着替えを渡してドアを閉めたら、またピンポンと鳴った。玄関を開けると、今度は大勢の人が口々に、“着替えを!”と叫んでいた」

 石巻では、車を運転中に人にぶつかった気がするという通報が多すぎて、通行止めになった道路もあると聞いた。まるで都市伝説のような恐怖体験だが、当時はこんな話は掃いて捨てるほどあったのである。

「これはお迎えと同じだよ。きちんと聞き取りをしたほうがいいんだが」と、岡部さんはさりげなく僕の目を見て言う。

 お迎えは、僕の中で実体験としてあるが、霊体験となるとそうはいかない。当時の僕にすればUFOを調べろと言われているようなものだった。

 

柳田國男が書いた『遠野物語』も、考えてみればお化けの物語だよ。ところが、第99話で柳田は、男が明治三陸地震津波で死んだ妻と出会う話を書いているよな。妻が結婚する前に親しかった男と、あの世で一緒になっていたという話だ。なんでわざわざ男と一緒に亭主の前に出てくるのかわからんが、死んだ女房に逢ったのに、怖いとはどこにも書いていない。恐怖は関係ないんだ。つまり家族の霊に出合ったときは、知らない人の霊に出合うときの感情とはまったく違うということじゃないか?」

 沖縄戦のさなかに、北部のあるヤンバルという山中で逃げまどっているとき、先に戦死した兄の案内で九死に一生を得たといった霊的体験を沖縄で何度か聞いたことがある。それを語ってくれた老人は、一度も怖いと言わなかったことを僕は思い出した。

 

この人たちにとって此岸と彼岸にはたいして差がないのだ

・「石巻のあるばあさんが、近所の人から『あんたとこのおじいちゃんの霊が大街道(国道398号線)の十字路で出たそうよ』と聞いたそうだ。なんで私の前に出てくれないんだと思っただろうな、でもそんなことはおくびにも出さず、私もおじいちゃんに逢いたいって、毎晩その十字路に立っているんだそうだ」

 

<『待っている』『そこにも行かないよ』>

津波はリアス式の三陸に来るもの

・「今年(2016年)の正月明けでした。これからどう生きていけばいいのか悩んでいたときです。このとき娘はいなかったのですが、これまでと違ってはっきりとした像でした。夢の中で妻はこう言ったんです。

「いまは何もしてあげられないよ」

 そう言われたとき、あの世からそんな簡単に手助けはできないんだろうなと、私は夢の中で思っていました。

 

・「ええ、父も私もしゃべっています。父が出てくる夢は毎回同じでした。バス停とか船着き場とか電車のホームで、いつも乗り物を待っている夢なんです。父が待っているので私も一緒に待っていると、『まだ来ねえからいいんだ。おれはここで待ってる。おめえは先に行ってろ』と父は言うんです」

 

・「今でも忘れない不思議な出来事が起こったのはその頃です。東京に行く用事があったので、震災の年の7月3日に気仙沼のブティックで洋服を買っていました。4人ぐらいお客さんがいて、1人ずつ帰っていき、私も洋服を手にしてレジに向かったら、最後まで残っていた女性のお客さんから『どなたか亡くなりましたか』と声をかけられたんです。びっくりして振り向くと、『お父さんとお母さんでしょ? あなたに言いたいことがあるそうだから、ここで言ってもいい?』

 店の人が言うには、気仙沼で占いを職業にしている方で、女性雑誌にも出ているそうです。私はほとんど反射的に『はい』と返事をしていました。私は、その頃、左の腕が重いというか、肩こりでもない、筋肉痛でもない、なにか違和感があってので、原因がわかるかもしれないという気持ちがあって承諾したのだと思います。

「あなたは胃が弱いから胃の病気に気を付けろとお父さんが言ってます。お母さんは、ありがとうと言ってますよ」そこで号泣してしまいました。

 

・「父は港町でかまぼこ屋をしながら、船をかけたりしていました。ああ、船をかけるというのは船主になることです50年もかまぼこ屋をしながら、船主になりたくて、全財産を失ってしまいました。6航海のうち、黒字になったのは1回だけ。赤字で帰ってきても、船主は人件費や燃料費を支払わないといけないから、バクチのようなものです。それでもやってみたかったんでしょうね。市会議員も2期やって、今思えば好きなことをやってきた人でした。借金を抱えて全財産を失ったあと、実家はうちの叔母が肩代わりをして買い取り、下を駐車場にして、2階に管理人として住んでいました」

 

兄から届いたメール≪ありがとう≫

・被災地の不思議な体験で圧倒的に多いのが、亡くなった家族や恋人が夢にあらわれることである。それもリアルでカラーの夢が多い。中には4Kのように鮮明で、夢かうつつかわからないことがあると証言した方もいる。面白いのは、電波と霊体験に親和性があるのか、携帯電話にまつわる話が多いことだ。

 たとえば、のちに詳しく紹介するが、余震で家の中がめちゃくちゃになって暗闇の中で途方に暮れていたら、津波で亡くなった夫の携帯電話がいきなり煌々と光りだしたという証言。また、津波で逝った“兄”の声を聞きたいと思って電話をしたら、死んだはずの“兄”が電話に出たという話。

 

・「朝8時半でした。役場で死亡届を書いているときにメールを知らせる音が鳴ったんです。従妹が『電話だよ』と言ったので、『これはメールだから大丈夫』と言って、死亡届を書き終えて提出しました。そのあと受付のカウンターでメールを開いたら、亡くなった兄からだったんです。

≪ありがとう≫ひと言だけそう書かれていました。

 

・余談がある。震災の年の夏、陸前高田にボランティアでオガミサマがやってきたという。オガミサマというのは、沖縄のユタや恐山のイタコに似て、「口寄せ」や「仏降ろし」をする霊媒師のことである。沖縄では「ユタ買い」という言葉があるほど、日常生活に密着しているが、かつて東北にもオガミサマは生活の一部としてあった。たとえば誰かが亡くなったとすると、仏教式の葬儀を執り行なう前にオガミサマを呼び、亡くなった人の魂を降ろしてきて、口寄せで死者とコミュニケーションをとったそうである。オガミサマは東北地方の「陰の文化」としてあったのだ。

 

・常子さんがこのオガミサマに兄のことをたずねると、口寄せでこう言ったそうだ。

「おれ、死んだんだな。でもよかった。これでよかったんだ。みんなに、自分が動けなくなって寝たきりになる姿を見せたくなかったし、これでよかったんだ」

 オガミサマを信じない人にはたわごとでしかないが、信じる人にはあの世に繋げるかけがえのない言葉である。死者とコミュニケーションをとれることは、遺された人にとって最高のグリーフケア(身近な人の死別を経験して悲嘆に暮れる人を支援すること)なのだと思う。

 

「ママ、笑って」―—おもちゃを動かす3歳児

東日本大震災における宮城県内の死者・行方不明者は1万2千人弱を数えるが、このうち3977人と最大の人的被害を出した町が石巻市である。

 

・大切な人との別れは、それがどんな死であっても突然死である。とりわけ津波で亡くなるような場合、死を覚悟する時間がなかっただけに強い悲しみが残る。その悲しみは、幾年を経ても消えることがない。もういちど逢いたい、もういちどあの人の笑顔が見たい、ずっと一緒にいたい、そんな強い思いに引かれて、亡くなったあの人があらわれる。生きていたときの姿のままで、あるいは音になって、あるいは夢の中で、そのあらわれ方はさまざまだが、その刹那、大切なあの人は遺された人の心の中でよみがえり、死者と生きていることを実感するのだろう。

 後日、由理さんから電話があり、夜中に康ちゃんがボール遊びをしているのか、黄色いボールが動くんですと笑った。

 

神社が好きだったわが子の跫音(あしおと)

・今回の旅のきっかけは、『遠野物語』だったと思う。あの中に地震の後の霊体験はたった一話しかなかったが、もしも明治三陸地震の直後だったら、柳田國男はもっとたくさんの体験談を聞いていたのではないだろうかと思ったのだ。

 

・恵子さんと先に登場した由理さんには共通する点がたくさんある。いや、二人に共通するのではなく、大切な人を喪ったすべての遺族に共通するのかもしれない。たとえば由理さんが、あの子がそばにいると思うと頑張れると言ったが、恵子さんもそうだった。

「迎えにも行ってあげられなかったし、助けてもあげられなかったのに、天井を走ったりして、私たちのそばにいてくれたんだと思うと、頑張らなきゃと思う」

 

<霊になっても『抱いてほしかった』>

・秀子さんが不思議な体験をしたのは夫の遺体が見つかる前日だった。

「今日は駄目だったけども、明日はきっと見つけてやっからね、と思って2階に上がったときでした。なんだか気になったから、ひょいと下を見たら、ニコッと笑ったひょいひょいと2回あらわれたのが見えたんです。それも鉛筆で描いたような顔でね。そこは支えるものがいから、人が立てるようなところじゃないの。でも、すぐお父さんだとわかったわ。どうしてわかったのかって?私のお父さんだから、雰囲気でわかるわ。だから『あっ、来たのね』って声に出したの。義姉も一緒に住んでいたので、念のために『義姉さん、お父さんの顔見た?』って訊いたけど、もちろん知らないって言ったわ。

 2回目は夕方でした。洗濯物を取り入れていたんだけど、ふと見たら白いドアの前に黒い人型の影がぽわっと立っているんです。ゆらゆら動く影を見て、ものすごい鳥肌が立ちました。『お父さん、そばまで来ているんだね。それとも誰かに見つけてもらったかな』って声をかけました」

 

<枕元に立った夫からの言葉>

・「お父さんは大船渡の出で、あの日はよく行く大船渡のお寺でお祓いをしてもらって帰ったんだけど、寒くてストーブを焚いた記憶があるからお盆ではないよね。あれは夢だったのか、それともお父さんの霊だったのか、いまだによくわからないんだね。私が布団に入っていたから、夜だったことは間違いないけど……、ああ、時計は一時だったね。目が醒めると、白い衣装を頭からかぶったようなお父さんがふわっとやってきて、

『心配したから来たんだぁ』と私に言ったんです。顔は暗くてよくわからなかったのですが、格好はお父さんだし、声も間違いなくお父さんなんです。それだけ言うと、誰だかわからない、同じ衣装を着た別の人が、お父さんを抱きかかえるようにしてドアからすーっと消えていきました。お父さんといえば、ふわふわと風船のように浮かんでいて、まるで風に流されるように離れていくんだね。あれは突然やってきて、突然いなくなった感じでした。お父さんはよく夢に出てきたけど、あれは夢とはちょっと違ったね」

 

・あれは遺体が見つかってから2ヵ月経った5月20日……、ああ、発見された日と同じだねぇ……。あの頃の私たちはまだ親戚の家の納屋に避難していましたが、仕事も始まってようやく気持ちも落ち着いてきました。その日は平日でしたね。世話になったおじちゃんだから、なんとなく電話したくなったの。一人でぼんやりしていると、ああ、おじちゃん、どうしているかな、逢いたいなあと思って、軽い気持ちで携帯で電話したんです。

 ブルルルルって鳴ったかと思ったら、突然電話に出たんですよ。

「はい、はい、はい」そう言って3回、返事をしました。「エエエッ!」

 声は克夫おじちゃんとそっくりです。いやいや、克夫おじちゃんに間違いないです。本当に嘘じゃないんですよ。自分で電話して驚くのもおかしいですが、あのときはもうびっくりするやら、信じられないやらで、怖くなってすぐ携帯を切ったんです。

《誰? なんでおじちゃんが出るの》

 ちょっとパニック状態でした。そしてしばらくしたら、というより数秒後でしたが、克夫おじちゃんの携帯から折り返しの電話があったんです。私の携帯に(番号登録した)『伊東克夫』って出たものだから、もう背筋が寒くなって、さすがに出られません。ベルが鳴り終わると、すぐにおじちゃんの番号を削除しましたよ。

 

・「霊体験なんてこれまで信じたことがなかったのに、自分がその体験者になって、頭がおかしくなったんじゃないかと思っている人もいます。同じような体験をした人が他にもたくさんいるとわかったら、自分はヘンだと思わないですよね。そういうことが普通にしゃべれる社会になってほしいんです」

 とはいえ、困ったのは、これが“ノンフィクション”として成り立つのかどうかということだった。なにしろ、語ってもらっても、その話が事実かどうか検証できない。再現性もないし、客観的な検証もできない。どうやってそれを事実であると伝えるのか。