日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

35話では、白望山の森林の前を、中空を走るように横切る女であり、「待て」と大声で二度叫ぶ。(1)

 

遠野物語辞典』

石井正己 監修   岩田書店   2003/7/1

 

 

 

<天狗>

・天狗とされる者の特徴について、「大男」、「大なる僧形」、「きはめて大なる男」とあるように、3つの話とも、大男であるという点は共通している。これら大男たちは、人間が目を塞いでいる間に消えてしまったり、「赤き衣を羽のやうに羽ばたきして」宙を飛んだりと、不思議な能力を持っていたという。

 

・90話は、「きはめて大なる男」を突き飛ばそうとした若者が、逆に突き飛ばされたという話である。90話の大男は怪力の持ち主であるらしい。また、この若者はのちに、手足を抜き取られて死んでいるところを発見されるのだが、これも怪力の持ち主である「大なる男」の仕業であることをほのめかしていると思われる。

 

・さて、29話では、天狗とされる者の特徴として他に、「眼の光きはめて恐ろし」というものがある。眼光が普通と違っている例は他にも見られる。「丈きはめて高く、眼の色少し凄し」、「丈の高き男」で「眼はきらきらとして」、「目をきらきらとして」、「眼色が変わっている」などがそうである。

 

・また92話における男は、「行き過ぐると思ふ間もなく、早見えず」というように、移動が早いという29話の山男と同じような特徴を持っている。

 

・「遠野物語」の記述からすると、天狗とは、山男の一種として捉えられていたようである。天狗が多くいる、といわれている場所に現れる山男が「天狗」とされていたのではないか。

 

・『天狗の研究』には、「遠野物語』に出てくる岩手県遠野市地方の天狗は、天狗と山神とのけじめがつけ難い」ともあり、天狗と山神とを区別することの難しさに言及している。

 

・また、90話の天狗は「顔はまっ赤」とあり、拾遺98話の天狗もまた。「顔は大きく赤い」という。顔が赤い、という特徴は現代イメージされる天狗の特徴の一つでもあるが、90話と拾遺98話の天狗にしか見られない。

 

・拾遺98話における天狗は住居が定まっておらず、出羽の羽黒や早池峰を行ったり来たりしていて、鉛ノ温泉で遠野の一日市に住む万吉と出会う。2時間あまりで万吉の家と早池峰を往復したことから、万吉の家では丁重にもてなすようになったという。酒を飲んでは文銭(江戸時代の寛永通宝銭の異称)を置いていった。最後にきたときには、形見として狩衣のようなものを残していった。

 

・拾遺99話の清六天狗は、「早池峰などに登るにも、いつでも人の後から行って、頂上について見ると知らぬ間に先へ来て」いて、後に着いた人々を笑ったという。

 

・拾遺99話にはさらに、清六天狗の子孫についても記述がある。清六天狗の末孫といわれる者は花巻の近村に住んでいて、人は天狗の家と呼んだという。この家のある女性が女郎になったとき、いかに厳重に戸締りをしていても、夜中に抜け出して徘徊し、他人の林檎園に入って果物を食べたりしていたという。天狗本人だけでなく、その子孫にまでも不思議な力が残されているということを示したものであろう。

 

・29話の「天狗住めりとて、早池峰に登る者もけっしてこの山は掛けず」という記述から、「遠野物語」における天狗は、人々から恐れられる存在であった。

 

<山男(やまおとこ)>

・笛吹峠を超える者が山中で山男や山女に出逢ったという話がある。場所は違うが、土淵村にいた猟師が小厚楽の奥で、シカオキを吹いていると、何ものかに突き飛ばされたが、この辺は昔から山男や山女の通り道と言われているという話もある。シカオキとは鹿笛のこと。山中には山男や山女の通り道があり、笛吹峠の山路も、そうした場所だったと思われる。

 

遠野郷の民家の子女には、異人にさらわれる者が多く、特に女に多いという(31話)。子供ではなく、女の場合には山男の妻となり、「索引」では「山男の妻」とする。青笹村の猟師が長者の娘に山中で遭う。女はある物に取られて妻となり、子供も生んだが、夫が食い尽くしてしまうと言う(6話)。上郷村の者が猟をして、五葉山の腰で同じ村の娘に逢う。女は恐ろしい人にさらわれたが、その人は背が高く、眼の色は凄く、生んだ子供も持ち去ってしまうものの、仲間と連れ立って食物を持って来てくれると言う(7話)。

 

・佐々木嘉兵衛は若かったとき、山奥で髪の長い美しい女を撃つ。証拠として黒髪を持ってきたが、途中で眠くなり、背丈の高い男が取り返し立ち去ったと見ると目が覚める。その男は山男だろうという(3話)。

 

・また遠野の村兵家の厩別家の女房は、胡瓜を取りに行ったまま行方不明になり、その後、上郷村の旗屋の縫が六角牛山に狩りに行き、その女房に会った。女は山男にさらわれて来て棲んでいると告げた(拾遺110話)。

 

・なお、山田町の市日に出て来ては物を買って帰る男がいた。この男は、髭が濃く、眼色が変わっているので、町の人は殺して、湾内の大島に埋めたところ、不漁が続いたという(拾遺107話)。

 

・また、土淵村の石田家の男たちは、髪の毛を掻き乱し、目が光り、山男らしい感じがする。農を好まないために畑が荒れ、夏の禁猟期間は川漁をするが、それ以外は鳥獣を狩っている(拾遺108話)。

 

<山女(やまおんな)>

・3話において、山女は、50年ほど前、早池峰山・六角牛山・石神山などの山々の奥に住む山人として登場する。山女は、身長が高く、顔の色も非常に白く、身長より長い黒髪をもつ美女である。しかし、若者の銃弾によって倒され、若者が切り取った黒髪を山男が取り返す

 

4話での山女は、根子立という山の奥をものすごい勢いで走る。藤の蔓紐で穉児を背負った母親である。長い黒髪をもつ、非常にあでやかな美女でもある。普通の縞模様だが、その裾を木の葉で繕った、ぼろぼろの着物を着ている。見た人間を恐怖で病死させてしまう力を持つ。

 

5話では、六角牛山中の笛吹峠に出るので、海岸に出る里人は2里以上の迂路になる境木峠を開かせるほどの恐ろしい存在である。

 

・34話では、白望の山続きの離森の小字長者屋敷にある炭小屋を覗く、長い髪を2つに分けて垂れた女であり、深夜にしばしば叫び声をあげる。

 35話では、白望山の森林の前を、中空を走るように横切る女であり、「待て」と大声で二度叫ぶ。

 75話では、離森の長者屋敷にある燐付工場の戸口に夜な夜な立ち寄り、人を見て大声で笑うために、工場が移転してしまうほど、不気味な「淋しさ」(方言で、恐ろしさの意味)をもつ女である。また、山中に小屋掛けする人夫を連れ出し、迷わせ、2、3日記憶をなくさせる力をもつ。

 

・「遠野物語」の6つの話に描かれた山女は、ぼろぼろの着物を着ているが、色白で長身、長い黒髪をもち、あでやかである。幼児のいる母親でもある。飛ぶように走ったり、記憶をなくさせたりする特異な力をもつが、銃弾には倒れる。人恋しいかのように里人の前に現れるが、その特異な力や叫び声・大きな笑い声のため、里人にとっては非常に恐ろしく、恐怖で病死する者もいる。

 

・ところが、拾遺109話では、以前は遠野町の若い女で、神隠しに遭ったと言われた者だという。山男にさらわれて千盤が岳に住み、今は、木の葉で繕ったぼろぼろの着物を着た山姥のような婆様となっている。元の夫や子供に一目逢いたいと願う、人間らしい一面ももつ。

 拾遺110話では、山男にさらわれて妻になったが、元は、遠野の厩別家の行方不明の美しい女房だという。六角牛山の沢で洗濯をしていた時に出会った里人を山男から守り、無事の伝言を頼む。

 拾遺111話では、白見山に住むが、元は小国村で行方不明になった狂女であるようだ。髪を振り乱し、素足にちぎれ裂けた着物で、鉄砲を向けられてもただ笑うだけの人間である。飛ぶように走ることができる。

 

・「遠野物語拾遺」の6つの話に描かれた山女は、神隠しに遭ったと言われ、行方不明になった人間の女である。ぼろぼろの着物を着た、赤毛の老女で、大声で笑い、飛ぶように走ったり、夢見心地にさせたりする特異な力をもつ。元の家族を思ったり里人を守ったりする人間らしい一面をもつ。

 

・ところで、山女が現れる場所は、遠野地方の東にある六角牛山・白望(白見)山などの山中である。六角牛山は、女神が住むと信じられた遠野三山の一つである。

 

・つまり、山女に出逢うのは、山中で働いたり、山中を通り抜ける里人である。

 これから考えると、猟師など山で働く里人にとって、山女など山に住む山人は畏怖の対象であったと思われる。また、2話などの山の神を女神とする話を考えると、山女を山の神と何らかの関係をもつ、不可思議な力をもった者と見ていたのかもしれない。

 

<山の霊異>

・これらのうち拾遺166話は、暗い夜道で迷っていると、光り物が現れて、それによってカラノ坊という地点まで降りることができた、という話である。これは、霊異によって人が助かった話といってよいだろう。迷った人々が道者であったことも関係しているのだろうか。

 

・拾遺121話は、山奥の岩窟の蔭に、見慣れぬ風俗の赤い顔をした翁と若い娘がいた、という話である。しかも、谷川をはさんだところには、住居跡のようなものもあり、そこに住人がいたからであろう、鶏の声が聞こえるということである。

 

マヨイガ

63話にあるように、遠野では山中にある不思議な家をマヨイガというマヨイガは白望山の麓にある。黒い門があり、あたりには紅白の花が咲いていて、牛・馬・鶏がたくさんいる。家に上がると、膳椀の支度がしてあり、湯も沸いているのだが、人は誰もいない。マヨイガは、以上のような家である。マヨイガの描写では、牛がたくさんいることが注目されている。『注釈遠野物語』は、下閉伊郡には牛は多いものの、遠野ではそれほど多く飼育されていなかったことから、遠野ではない異郷を想わせるとする。

 

・後に柳田は「陸中の遠野なおではフェアリイランドの隠里のことをマヨヒガと称し、マヨヒガに入って何か持って来た者は長者になるといふ話がある」と紹介している。

 

<異人>

・29話では「大男」で「眼の光きはめて恐ろし」い人物が、人間が目をふさいでいるうちに消えてしまった、という話である。また、107話は、「背高く面朱のようなる人」によって、若い娘が占いの術を得たという話である。107話の末尾には、「異人は山の神にて」とあり、「山の神」を異人としていることがわかる。

 

31話は、「遠野郷の民家の子女にして、異人にさらはれて行く者年々多くあり」という話で、異人とされる者の外見や特徴は何一つ記されていない。

 

・拾遺105話と拾遺106話の人物は、「大男」で、ムジリを着ており、藤蔓で編んだ鞄を持っているという点で共通している。また、「目をきらきらと丸くして」、「眼色が変わっている」などの点も29話に近い特徴だろうか。

 

これらの話から考えると、「異人」とは、その姿形、容貌が普通の人間とは異なっている者を指していうのだろう。また、31話は定かではないが、多くは男性である。加えて、29話、107話のように、普通の人間が持ち得ない能力を持っていることもあったようだ。そして、それらの多くが、「題目」の「山男」に分類されていることから、山に住む者であったと思われる。

 

猿の経立(さるのふったち)

・「経立」とは、長年生きて妖怪のような霊力を身につけたものをいう。猿の経立の性質は45話に詳しい。人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ることも多く、松脂を毛に塗り砂をその上につけているため、毛皮は鎧のようであって、鉄砲の弾も通らなかったという。

 

・36話によると、猿の経立は御犬の経立と並んで「恐ろしきもの」であった。子どもをおどす言葉として、「六角牛の猿の経立が来るぞ」というものがあったほどである。大人にとってもやはり恐ろしかったようで、猿の経立を見たときの様子を「恐ろしくて起き直りたれば」、「胆潰れて」と表現している。

 猿の経立は恐ろしがられているという記述が多いけれども、『遠野物語』のなかでは特別人間の生命を脅かすような行動は起こさない。44話では「おもむろにかなたへ走り行きぬ」、46話でも「やがて反れて谷の方へ走り行きたり」という程度で、驚かされるのはむしろその突然の現れ方のようである。

 

<河童>

・55話冒頭にも、「川には河童多く住めり」と明示される。この話では、河童とおぼしきものの子を、人間の女が産んだ話が紹介される。

 

・『妖怪談義』の「盆過ぎメドチ談」によると、「遠野には川童が婿入りをして、子供を産ませたといふ家なども残って居た。即ち水の神の信仰を宣伝し、立証しなければならぬ旧家が、いやいやながらもまだ古い因縁に繋がれて、急にはこの伝説を振棄てずに居たのである」のだという。こうなると河童とは、作られたイメージとはいえ、畏怖すべき、ある種の気味悪さを伴ってくる。

 

・この話と同様に、人間が河童らしいものの子を生む話が56話である。55話でも、女のもとに夜々通うと噂される者が、「河童なるべき」と評判になるが、当初「村の何某」とされていたように、その容貌の特異性について記述されることはない。56話も同様に「河童らしき物」とされるのみで、その実体については触れられない。

 

・59話によれば、遠野の河童の顔は赫いという。これは、他の土地の河童の顔が青いのに対し、特筆すべき事らしい。

 

・58話と178話は、水中に馬を引き込もうとした河童が、かえって馬に引きずられたまま厩に入ってしまい、馬槽の下に隠れていたところ、人間に見つかる。河童はもう決して悪さをしないと謝ったり、詫び証文を入れたりして許され、帰る、といった話である。

 

 

 

『江戸幻獣博物誌』 妖怪と未確認動物のはざまで

伊藤龍平  青弓社   2010/10 

 

 

 

<「山人の国」の柳田國男

柳田國男の山人論>

・昔々、越後の国の話。魚沼郡堀之内から十日町へと超える山道を、竹助という若者が大荷物を背負って歩いていた。

 

・道も半ばを過ぎたあたりで、竹助が道端の石に腰かけ、昼食に持参していた焼き飯(握り飯)を取り出したところ、笹の葉を押し分け、何か得体の知れないモノが近づいてくる。見れば、人とも猿ともつかぬ奇怪な怪物。顔は猿に似ているが、赤くはない。長く伸びた髪は半ば白く背中にまでかかり、大きな眼が光っている。竹助は心の強い者ゆえ刀を取り出して身構えたが、怪物は危害を加える様子もなく、竹助の焼き飯を物欲しげに指している。竹助が焼き飯を投げてよこすと、怪物もうれしげに食べる。もうひとつ投げると、また食べる。すっかり心を許した竹助が、また山道を歩きだそうとすると、お礼のつもりだろう、怪物は荷物を肩にかけて先に歩きだす。そのさまは、手ぶらで歩いているかと思われるほど軽やかだった。おかげで竹助は、一里半(約6キロ)もの嶮岨な道のりを楽に歩くことができた。目的地の池谷村近くまで来たところで怪物は荷物を下ろし、風のように山のなかに去っていった――。

 

 以上、『北越雑記』(長沼寛之輔、文政年間(1818――29年)にある話。

 

こうした人か猿かわからない奇妙な生きものにまつわる話は、日本各地に伝承されていた。

 すなわち、人間に与するわけでなく、かといってむやみに敵対するわけでもなく、深い山奥でひっそりと独自の生活を営んでいたモノたちの話である。彼ら彼女らに関する記事は江戸時代の随筆類に散見され、近代以降も、例えば1970年代に話題になった広島県比婆郡(現・庄原氏)の類人猿(ヒバゴン)伝承などにかすかな命脈を保っている。

 

 この正体不明の怪物を、『北越雑記』の著者は「山男」「大人」と記し、『北越雪譜』の著者は「異獣」と記している。ほかにも彼らを指す言葉に「山童」「山丈」などがあり、また、「山爺」「山婆」「山姫」とも呼ばれた。

 

柳田國男の『遠野物語』にもこれとよく似た話がある。附馬牛村(現・岩手県遠野市)の猟師が道を開くために入山し、小屋で火にあたっていたところ、得体の知れない大坊主(柳田は「山人」と解釈している)が来て、炉端の餅を物欲しげに見ているので与えるとうまそうに喰う。翌日もまた来るので、餅の代わりに白い石を焼いて与えて退治したという。一方、『遠野物語』では、餅をもらった山人がお礼にマダの木の皮を置いていったり、田打ちを手伝ったりと平和的な結末になっている。

 民俗学の祖である柳田國男は、これらの山中の怪を「山人(やまひと)」と総称した。通常、「山人」という語には、山で生活を営む人々を指す場合と、山に棲む半人半獣の怪物を指す場合があるが、柳田が扱ったのは後者の山人である柳田の山人論は、古今の伝承に残る山人を日本列島の先住民族だとする壮大な論である。そして柳田山人論の代表が『山人外伝資料―—山男山女山丈山姥山童山姫の話』という論文である。本書でも、柳田にならって彼ら山中の怪を「山人」と呼ぶことにする。

 

・こうした半人半獣の神々、もしくは妖精たちに関する話は世界中で伝承されている。例えば、マラルメの詩「半獣神の午後」で知られる「パン(牧羊神)」はヤギの角と脚をもっているとされ、アンデルセンの童話で有名な「人魚」は下半身が魚類、ギリシャ神話の「ケンタウロス」は下半身が馬、インド神話の「ナーガ」は下半身が蛇である。「序」に書いたように、本草学の祖となった古代中国の帝王「神農」にも顔が牛だったとする伝承があるが、これはギリシャ神話のミノタウロスの怪物と同じである。西欧の幻獣で山人に相当するものは「野人」である。ただ、いま名を挙げた幻獣たちに比べると、「野人」はかなりの現実味をもって受け止められていた。

 

・西欧の野人について、伊藤氏の筆を借りながらもう少し説明しよう。伊藤氏によると、野人とは「森の奥深くとか山野とか砂漠に獣のように棲む」存在で、「完全に社会組織から孤立して、一貫した宗教をもたないで棲息する」という。これは「文明人とは対極にある」人生であり、西欧人の精神史にとって重要な意味をもっていた。「文明」とは「野生」との対比で見いだされるものだからである。容姿については「全身体毛に覆われている」のを特徴としており、「人間と猿との間の境界上にあってどちらの範疇にも当てはまりうる融通無碍、野人はこの人間か猿かの線引きのむずかしい境界線を特徴としている」という――日本の「山人」について記した江戸の文人たちも、大体同じイメージをもっていた。

 野人の存在を時間軸に上に位置づけると、いわゆるミッシング・リングの問題に行き当たる。つまり、人と猿とのあいだで結ばれる「存在の大いなる連鎖」の欠陥を補う存在としての「野人」である。進化論にもとづいた発想であり、その意味では、野人もまた時代の産物であった。これは今日の未確認動物伝承にも相応の有効性をもった解釈で、例えば、ヒマラヤの野人イエティ(雪男)の正体を、更新世に絶滅した類人猿ギガントピテクスに求める心性に生きている。

 

・柳田の山人理解にも進化論は影を落としている。繰り返すと、柳田山人論の要諦は、山人をかつて実在し、現在(大正時代)も実在の可能性のある先住民族の末裔と仮定して、その歴史を辿ることにあった「山人外伝資料」の冒頭で柳田は「拙者の信ずる所では、山人は此島国に昔繁栄して居た先住民族の子孫である」と明言し、山人論の文脈で書かれた「山姥奇聞」でも、「第一には、現実に山の奥には、昔も今もそのような者がいるのではないかということである」としたうえで、「果たしてわれわれ大和民族渡来前の異俗人が、避けて幽閉の地に潜んで永らえたとしたら、子を生み各地に分かれて住むことは少しも怪しむに足らない当然のことである」としている。ここには、いずれ人知が世界を掌握するだろうという予測が見られ、のちの未確認動物伝承が生まれる素地ができつつあるのがわかる。

 

・このように、柳田は山人を獣類ではなく人類だと解釈していたが、それでもなお、進化論の影響は顕著で、それは山人史の構想を見れば、一目瞭然である。「山人外伝資料」の冒頭で柳田は「眼前粉雑を極めて極めて居る山人史の資料を、右の思想の変遷に従って処理淘汰して行く」ための方便として、山人の歴史を次の5つの時期に分類している(第5期はとくに命名されていない)。

 

第1期・・国津神時代………………神代から山城遷都まで

第2期・・鬼(物)時代………………鎌倉開幕まで

第3期・・山神(狗賓(ぐひん)・天狗)時代………江戸初期まで

第4期・・猿時代………………江戸末期まで(大正期)

第5期・・(現代)………………大正初期

 

・詩人学者・柳田らしい実に壮大なビジョンである。「国津神」「鬼(物)」「山神(狗賓・天狗)」「猿」という名称の変遷は、山人そのものの零落ではなく、山人に対して抱いていたわれわれ(日本人)の心証の変遷を表している。

 

<笑う山人、悟る山人>

・山人とは何者か。少し本草書の事例にあたりながら考えてみよう。引用するのは、すべて「山人外伝資料」。

 山人はよく「笑う」。

 

・また、友人の小説家・水野盈太郎(葉舟)からの聞き書きにも「にこにこと笑いながら此方を目掛け近寄り来る」とある。人を見て笑うのは、山人の典型的な行動パターンの一つだった。

 また『遠野物語』から例を引くと、「離森の長者屋敷」に出た山女は人を見て「げたげたと」笑ったとあり、『遠野物語拾遺』にも栗橋村(現・岩手県釜石市)の山女が鉄砲を向けても臆せず笑うばかりだったという話や、土淵村(現・遠野市)の男が山中で大きな笑い声を二度聞いたという話、同じく土淵村の若者が山女に笑いかけられたという話がある。

 

後述するように、わが国には「狒々」という年老いた大猿にまつわる伝承もあり、話をややこしくしている事実、『本草綱目啓蒙』の「狒狒」の項でも、豊前(福岡県)・薩州(鹿児島県)での異名として「ヤマワロ」を挙げている。この点について柳田は、江戸時代に本草学が隆盛し、『大和本草』『和漢三才図会』などの書物が編まれたことに触れたのち、「此以後の書には山男山爺などは寓類に数えられて、狒々の次に置かれている。

 

話を戻すと、山人に限らず、異形のモノの「笑い」は友好の証しではなく、自身のテリトリーを侵した者に対する威嚇であった。山中に行く人が時折耳にする「テングワライ(天狗笑い)」もその一つで、この世のものとも思われないけたたましい哄笑があたりに響き渡る。これを聞いた者は、たいてい腰を抜かすが、剛の者が負けじと笑い返すと、いっそう大きい笑い声が響き渡るといい、こうなると「ヤマビコ(山彦や「コダマ(木霊)」という妖怪の伝承と似てくる福岡県に伝わる妖怪ヤマオラビは人と大声の出し合いをしたあげく、ついには殺すというから案外危険である。

 

・先ほどの「笑う山人」の伝承と同様、「悟る山人」も本草書に記述がある。もう一度、『和漢三才図会』の「獲(やまこ)」の項から引用すると、最初に『本草綱目』の「獲とは老猴である。猴に似ているが大きく、色は蒼黒。人のように歩行し、よく人や物を攫っていく」という言葉を引いたのち、「思うに、飛騨、美濃の深山中にいる動物は、猴に似ていて大きく黒色で長毛。よく立って歩き、またよく人語を話す。人の意向を予察してあえて害はしない。山人はこれを黒ん坊と呼んでいて、どちらも互いに怖れない。もし人がこれを殺そうと思うと、黒ん坊はいち早くその心を知って迅く遁れ去ってしまう。だからこれを捕らえることはできない」と自説を披露している。

 鳥山石燕は『今昔画図続百鬼』でこの妖怪を「覚(さとり)」と命名し、『和漢三才図会』と同じポーズをとる山人とおぼしき怪物の絵を載せている。

 

<人か猿か>

・以上のような相違点を確認したうえで、柳田と江戸の文人たちにはどのような共通点があるだろうか。次に一連の山人論の文脈で書かれた「狒々」という論文の一節を引用する。

 いわゆる山丈・山姥の研究を徹底ならしむるには、是非とも相当の注意を払わねばならぬ一の問題がまだ残っている。それはしばしば深山の人民と混淆せられて来た狒々という獣類の特性、及びこれと山人との異動如何である。全体狒々というような獣が果たしてこの島にいるかという事が、現代学会の疑問であるのに、近年自分の記憶するだけでも狒々を捕ったという新聞は二三にて止らず、さらに前代の記録にわたって攷察すると覚束ない点が多い。

 現在の猿の分類では、オナガザル科にヒヒ属という一類がある。マントヒヒなどが有名で、主にアフリカに生息しているが、柳田が書いている「狒々」はそれとは別物である。

 

狒々にまつわる昔話や伝説も数多いが、なかでも有名なのは「猿神退治」の話だろう狒々の人身御供にされようとする娘を救うために、旅の勇者に助太刀して、見事これを退治したのは「しっぺい太郎」という犬だった。この説話での狒々は年老いた大猿であり、動物であるのと同時に、大いなる山の神の面影がある。

 日本に大型の類人猿がいないことが判明して以降、狒々は想像上の動物として扱われるようになったが、「山人外伝資料」をはじめとする山人論が執筆された大正時代は、まだ動物の新種の発見・報告の可能性が高いと思われていた時代であった。

 

・山人について論じる際に柳田が苦慮したのは、両者をいかに弁別するかという問題だったろう。先ほど山人が「寓類」に分類され、「狒々」の項と並べて置かれているのを嘆く柳田の言を引いたが、柳田が考える山人とはあくまでも「此嶋国に昔繫栄して居た先住民の子孫」であり、山人論は「山人は人であると云ふ仮定」のもとに成り立つものだからである。

 

・人か猿かという問題は、山人を妖怪や妖精の類ではなく、実体がともなう生物と認めたあとに生じる。この前提で、柳田と江戸の文人は共通している。山中に棲む奇妙な生きものを本草学の知識を用いて獣類の一種と捉えるか、用いずに先住民族の末裔と捉えるかは、報告された資料に施される解釈の相違にすぎないのである。

 

・人か猿かはいざ知らず、山中にはこのような異形の生きものがいる――こうした考えが、柳田や江戸の文人はもちろん、記録される以前の山人の話をしていた人々にはあったのである。

 

・今日の視点に立てば、確かに「山人の国」は柳田が遺した「夢物語」だったかもしれない。しかし、本章で指摘してきたように、それは往年の新体詩人・柳田一人が見た夢ではなく、江戸の文人たちが見た夢の続きであり、近代以降の時間を生きた人たちもしばしば同じ夢を見た。すなわち、かつてこの国の深山幽谷のうちに人と同形の獣類が棲み、山路を急ぐ旅人や寒夜に焚き火で暖をとる狩人らがこれと行き遭って、ときにその肝胆を冷やさしめ、ときにその労苦を免れしめたという共同の幻想である。

 

 

 

『大江戸怪奇事件ファイル』

並木伸一郎   経済界  2009/12

 

 

 

“異界=異次元”の扉が、あちこちに現出していた

・江戸という時代、この世と隣り合わせに存在する“異界=異次元”の扉が、あちこちに現出していたようだ。

 そして“魔”や“怪”“妖”なるものたちが、その扉を開けて姿を現わし、UFOや宇宙人、天狗や超人、幽体となったり、ときにはキツネやタヌキに姿を変えて、町人や村人たちを、その摩訶不思議な能力を駆使して、惑わし、たぶらかし、ときには彼らが住む異界へとかどわかしたりしていたようである。

 

<時空を超えた? 頻発する神隠し事件>

・江戸の時代“神隠し事件”もまた頻発していた。

 江州八幡(滋賀県近江八幡)に、松前屋市兵衛という金持ちがいた。市兵衛は親戚筋から妻を迎えて、しばらく二人暮らしをしていたそうだ。しかしある夜、異変が起きたのである。

 その夜、市兵衛は「便所に行く」といって、下女を連れて厠へ行った。しかしなかなか寝所へ戻ってこない。

 

・それから20年ほどたったある日のこと。厠から人が呼ぶ声がするので行ってみると、なんと、そこに行方不明となっていた市兵衛が、いなくなったときと同じ衣服のまま厠に座っていたのである。驚いた家の者たちは市兵衛に「どういうことだ?」と聞いたが、はっきりした返事はない。ただ「腹が減った」といって、食べ物を欲しがったのである。

 さっそく食事を食べさせると、市兵衛が着ていた服は、ホコリのように散り失せてしまったという。昔のことを覚えている様子がなく、家族は医者やまじない師に相談するなど手を尽くしたが、思い出すことはなかったようだ。

 

神隠しとは、何の前触れもなく失跡することを指す。当時は神域である山や森などで行方不明になるばかりではなく、普通の生活の中でも神隠しが起こっている。そしてそのまま、戻らないこともしばしばあったのだ。

 

神隠し事件は何らかの要因によるタイムワープに合ってしまった、と考えるのがスジであろう。ふいに時空を超えてしまったのである。時を超える、あるいは異界=異次元空間に入るという概念がなかった当時は、「神の仕業」と考えるしかなかったのだ。タイムワープすると、時空移動の影響で記憶喪失になることが多いという。

 

<空から人が降ってくる事>

<江戸時代におきた謎のテレポート事件>

・文化7年(1810年)7月20日のことだ。江戸の浅草(東京都台東区)の南馬道竹門で、突如、奇怪な現象が起こった。なんと、夜空から男が降ってきたのだ。

 ちょうど風呂から帰る途中だった町内の若者が遭遇。空から降って湧いてきたように落ちてきた男を見て、腰をぬかさんばかりに驚いた。年のころは25~6歳。しかも下帯もつけておらず全裸。かろうじて、足に足袋だけはいていた。怪我をしている様子はなかったが、落ちてきたショックのせいでか、男はただ、呆然とたたずんでいる。

 

・「お前は、いったいどこの何者なのだ。どういういきさつで空から降ってきたのだ」と役人に問われ、男は怪訝な顔をしていった。「私は京都油小路二条上る町の安井御門跡の家来、伊藤内膳の倅で、安次郎という者だ。ここは、いったいなんというところなのか」問われて役人が、「ここは江戸の浅草というところだ」

 と教えると、男はびっくりして泣き始めた。自分がなぜ、こんなところにいるのかわからず、困惑の極致にあったようだ。

 

・今月18日の午前10時ごろ、友人の嘉右衛門という者と家僕の庄兵衛を連れて、愛宕山に参詣に出かけた。すごく厚い日だったので、衣を脱いで涼んだ。

 

・さて、これからがおかしな出来事が起こる。ひとりの老僧がいずこともなく現われて、こういった。「面白いものを見せてやろう。ついてきなさい」そういわれて、好奇心からこの老僧についていったのだという。ところが、その後の記憶がまったくない、という。気がついたら、倒れていたというわけだ。

 この話を信じるなら、この男は京都から江戸まで空を飛んできて浅草に降ってきたということになる。

 

・江戸に知り合いがいないということで、思案したあげく、役人は、男に着るものを与えてから奉行所に届けでた。

 

・この話のキーポイントは、謎の老僧である。この人物が男を京都から江戸にテレポートさせたものとみていいだろう。

 男ばかりではない。江戸の時代、女が降ってきた事件もある。

 

たとえば、三重村三重県四日市)に住んでいる“きい”という名の女性が、全裸で京都府北部の岩滝村(岩滝町)に降っている。同様に、京都近隣の新田村でも花嫁姿の女が、また京の河原町にも女が降ってきた。この女は着物を着ていたが、江戸の日本橋から飛んできたことがわかっている。

  いずれの女性も、呆然自失しており、一瞬にしてテレポートした理由や原因がまったくわからないのである。無理やり説明をつけるなら、やはり、“天狗のしわざ”、としか考えられない事件である。

 

<山男に知恵を授ける事>

<山小屋に度々現われる山男事件>

・信州には高い山々が連なっている。妙高山黒姫山などはかなり高い山で、さらに戸隠や立山まで険しい山岳が横たわっている。そこには謎の“山人”が人知れず隠れ棲むという。

 

 これは江戸中期に起きた事件である。上越の高田藩の家々では、この山から木を伐り出す仕事を負っており、山中の山小屋には奉行がおり、その仕事を取り仕切っていた。

 升山の某という奉行が、ある山小屋に数日間駐在していたときのことだった。仕事をする男たちとともに、山小屋では夜毎火を絶えず焚き、みんなで炉にあたっていた。すると山から山男というものが下りてきて、一時ばかり小屋の炉に当たっては帰っていくというのである。

 問題の山男の髪は赤く、裸で肌の色は黒く、6尺(約180センチ)の身の丈を持っていた。腰には草木でつくった蓑をまとい、言葉を発することはなかったが、その声は牛のようだった。

 しかし、こちらが話していることはだいたい理解しているようで、人間たちにとても慣れていたという。

 

・明治のころまで、日本各地には山の民「サンカ」と呼ばれた。里の人々から離れて山中に住んでいた人々がいた。

 この山小屋にやってきた山男は、サンカではないようである。山人族と呼ばれる、山師や山伏ともどうやら違う。

 かつて、雪男やビッグフットのような、サルに似た巨人が生息していたのだ。彼は言葉を理解し、恥じることを知るなど、人間に近い知能をモチベーション、また学習能力も持っていたようだ。赤い髪など風貌はまるで鬼のようでもある。

 1970年代、広島県比婆山に出現し、話題になったUMA獣人「ヒバゴン」は、もしかしたらその末裔だったかもしれない。