『「官僚」の真実』 大手新聞・テレビが報道できない
高橋洋一 SB新書 2017/7/6
<「森友学園問題」>
・そして最近、そうしたマスコミの体たらくぶりを、改めて強く認識する出来事があった。「森友学園問題」である。
・実は、森友学園問題には、主役である籠池理事長や、脇役である野党やマスコミが知らないところで、重要な問題提起がされている。
それは、ひと言でいうと、「日本の官僚と官僚機構が持つ巨大な利権構造と弊害を、図らずも露呈した」ということになる。事態の深刻さに気付いているのは、もう一方の主役である財務省だ。
そこで本書では、この問題を題材として、官僚と官僚機構が持つ弊害をクローズアップしたいと思う。
<日本は与党と政府が一体化している>
・約40年にわたって自民党が政権を握ってきた結果、立法府と行政府は、ほぼ一体化してしまい、国民には「自民党=政府」という認識が広がったといえよう。そのため、なんとなく、法律をつくっているのは政治家のような気がしているのだ。
官僚が法律をつくっていると言われると、違和感を覚えるのは、こうしたイメージが浸透しているせいだろう。
<議員内閣制は政治主導になりやすいはずだが………>
・つまり、政治家が命令して官僚を動かすという政治主導にはならず、官僚が主体的に法律案をつくって、実際に動かすという“官僚主導”ができてしまった。
<法律を書ける人間は官僚しかいない?>
・これは、法律に詳しいということと、法律が書ける、つくれるという能力は別であることを示している。法律をつくるには、そのためのトレーニングをしなければならない。
実際、法律を書くには、膨大な知識と技術が必要とされる。
まず、過去の法律と矛盾してはいけない。条文としての言葉遣いが適切であるかどうかも問われる。そして、何よりも、法律の規制の対象に対して、精通していなければならない。
<政治家は「官僚のレトリック」で誤魔化される>
・官僚が新しい法律(条文)を書いてきたとする。それを読んだ政治家が、内容に注文をつけ、修正を迫ってきた。それが、自分たちにとって都合の悪い修正だった場合はどうするか。
官僚は、一見、政治家の言う通りに直す。しかし、その直し方が実に巧妙。微妙な言い回しにして、官僚が裁量を振るえる余地を残すのである。官僚独自のレトリックを用いて、いわゆる“骨抜き”にするという手法だ。
<「首相答弁」ですら書き換えてしまう>
・当時は、前述したように、第1次安倍政権のときで、政権は天下り問題に取り組んでいた。そこで、財務省出身の首相事務秘書官が、この国土交通省の官製談合疑惑を材料に、あろうことか首相の答弁を書き換えてしまったのである。
<有名無実の「審議会システム」が官僚主導を維持>
・審議会のメンバーは、実際は法律を立案する省庁が選ぶ。それを大臣が承認して最終的に決まるのだが、大臣は審議会の人選といった細かいことに関与しない。官僚から推薦された人物を承認するだけだ。
<審議会には「台本」がある>
<審議会委員にプライドはない>
・学者やジャーナリストを問わず、政府の審議会委員に選ばれるというのは、本人たちにとってみれば、非常に名誉なことだ。社会的な箔が付き、大した額ではないが報酬ももらえる。断る理由がないのである。
したがって、審議会の場でも、役所の意向に逆らうことはない。流行りの言葉でいえば、役所の意向を忖度しているわけだ。
・こうなってしまうと、完全な御用学者になったも同然で、審議会で役所の意向に反する発言をすることはなくなるのだ(筆者の友人である長谷川幸洋氏は、そういう御用学者を官僚の「ポチ」と呼んでいる。
<審議会は役所の代弁機関>
・しかし、2007年の財政審議会では、日本有数の財政学者が集まり、審議を重ねたはずなのに、一切、埋蔵金に言及することはなかった。埋蔵金を持ち出すことは、財務審議会の担当官庁である財務省の意向に反すると考えたのであろう。
<審議会をコントロールする「事務局」の存在>
・事務局には担当省庁の官僚がいて、委員の人選から始まり、審議会の日程の決定、会議後の議事録の作成などを行なう。前述した「振り付け」や、「台本」の作成なども、事務局の仕事である。
<スケジュール調整で反対意見を封殺>
・委員の総数が20人ならば、1人あたりの持ち時間は3分になる。このわずかな発言時間では、自分の主張をまとめて述べるだけで、議論などは起きようがない。議事録に残す発言記録も、いかようにでも修正できるだろう。
<政治家への根回しは「事前審査」で行なわれる>
・審議会の答申を受けた後は、内閣法制局の審査を受けることになる。そして、審査を通った原案は、政府提出法案として内閣による閣議決定をする前に、与党の政策審議機関で法律案に関する意見集約を図り、そこで承認を受けなくてはならない。
これは、自民党の単独政権時代から始まった「事前審査」と呼ばれるプロセスで、ここで政治家への根回しが必要となる。
<「族議員」の温床と化す部会>
・もちろん、自民党の議員にとっても大きなメリットをもたらした。部会ポストを握れば、事前審査の早い段階で強い影響力を持つことができるからだ。部会は、地元の有権者や支援を受けている業界団体などの要望を法案に反映させる、大きなチャンスとなったのである。
<国会の審議は意味がなくなる>
・事前審査がもたらした弊害はまだある。それは、国会審議の形骸化だ。
・こうなると、国会の審議は、政府・与党に対して野党が反対の論戦を挑むという構図にしかならない。しかも、与党が国会の多数を占めている限り、どんな論陣を張っても、法案が修正されることはまずない、という状況だ。与党も野党も“出来レース”を演じているだけになってしまう。
<「脱・官僚主導」はどうすれば実現するのか?>
<改革の必要性はいちだんと高まっている>
・筆者は、官僚として、これまでにいくつかの行財政改革に関わってきた。おもなものをざっと挙げると、2001年の財政投融資改革、2005年の郵政民営化、2006年の政策金融改革、2007年の公務員制度改革なのである。
いずれも、財務省を中心とした官僚や政治家などの抵抗勢力がいた。
・しかし、いまはグローバリズムが世界の隅々まで浸透した結果、状況の変化が短期間で起き、先を見通すことが難しくなっている。こうした状況では、首相が政治判断をし、トップダウンでスピーディーに具体的な指針を示すことが求められよう。
そのためには、政策決定のメカニズムを、官僚主導から政治主導に転換しなければならない。
<借金1000兆円のウソに騙されるな>
・2019年10月に消費税の引き上げが予定されている。税率を8%から10%へ引き上げようと財務省は目論んでいる。
増税を正当化するロジックは、10年1日のごとく、「日本は1000兆円の借金を超えており、増税をして国の収入を増やさないと財政が破綻する」というものだ。
しかし、これは大ウソである。
・政府が発行する債券は、国の借金の証書なので、たしかに借金1000兆円は事実である。しかし、日本政府は巨額の資産を持っている。政府の関係会社の資産も考慮すると、資産額はおよそ600兆円以上あることがわかっている。
したがって、負債から資産を差し引いた、実質的な借金は400兆円程度となる。この金額は、日本のGDPの約8割に相当し、他の先進国の対GDP比率と比較しても、突出して高い水準とはいえない。
また、「政府の資産は巨額といっても換金可能なものは少ない」という人がいるが、それも間違いだ。政府資産の中身についても、先進諸国と比べて、換金可能な金融資産の割合がきわめて大きいのが特徴となっている。
日本の政府の借金は、少なくとも、すぐに消費税を増税しなくてはならないほど深刻な状況ではまったくないのだ。
・第3章の財務省理財局のところで、特殊法人や独立行政法人が、まだたくさん残っており、それが官僚の天下りの温床になっていると指摘した。
実は、政府の換金可能な金融資産には、そうした特殊法人や独立行政法人への出資金および貸付金が含まれている。しかも、その金額は巨大だ。
したがって、特殊法人や独立行政法人を、廃止あるいは民営化することで、出資金および貸付金を回収することが可能となる。その結果、政府のバランスシートの負債も大きく減る。
財務省のお得意のフレーズである「国の借金1000兆円」は、もう使えなくなるだろう。それとともに、政府の負債と資産の内訳が明らかとなり、財政破綻を理由とした消費税増税も言いにくくなるはずだ。
さらに、特殊法人や独立行政法人が減れば、天下り先も減ることになる。特殊法人および独立行政法人改革は、正に一石二鳥の成果が得られるのである。
・なお、日銀を連結対象とする「統合政府」のバランスシートを作ってみると、日銀が金融市場から国債を購入しているため、実質的な政府の負債は解消に向かいつつある。すでに、財政再建は終了している可能性がある。
<天下り規制の再強化案>
・今回のような全府省庁調査を毎年行って、第三者が調査結果を精査して、公表すれば、天降り根絶につながると思われる。
次に、これも大阪府市ですでに行っているのだが、役所の関連団体が人材を募集する際、そのまま役所に人材の提供を申し入れるのではなく、ハローワークを経由することを徹底すべきだ。ハローワークを経由すれば、公募手続きと同じ扱いになる。
すると、役人と民間人が同一条件で応募できるので、再就職の手続きの透明性が確保される。
<違反には刑事罰が必要>
・出向で行ったものの、実質的には天下りなのだから、その後、出向が再就職に切り替わって、政権2年目からは、再び天下りは増えている。
こうした小手先で制度をいじくるのではなく、再就職規制には、しっかりと刑事罰の規定を設けるべきである。
<いまこそ「歳入庁」に実現を>
・筆者は、以前より、社会保障制度を維持するためには、まず「歳入庁」を作るべきだと考えている。歳入庁というのは、国税庁と日本年金機構の徴収部門を統合した組織である。
歳入庁をつくることで、税金や年金保険料を効率的に徴収でき、徴取コストを劇的に引き下げることができるからだ。
<年金保険料は税金と同じもの>
・まず、理解してほしいのは、年金保険料と税金は同じであるということだ。
国民年金にはすべての国民が加入しなければならないことになっている。そして国民年金法には、「被保険者は、保険料を納付しなければならない」という規定がある。
・これまでは、年金保険料は日本年金機構、税金は税務署と、支払先が異なっていたため、年金保険料と税金は「別のもの」と受け取られてきた。しかし、これまでの説明のとおり、両方とも強制徴収されるべきものなのである。
税務署が両方とも徴収していたら、おそらく、年金保険料と税金は同じであるという認識になっていただろう。
<年金保険料の未納率を引き下げられる>
・税金と年金保険料は、法律の性格が同じで、年金の徴収が「国税徴取の例による」とされている以上、徴収は一本化できるはず。
つまり、国税庁と日本年金機構の徴収部門を統合すれば、税金と年金保険料の徴収はひとつの機関で行なえることになる。それが歳入庁というわけだ。
歳入庁にすれば、徴収にかかるコスト=人件費を大幅に減らすことができるだろう。簡単にいうと、現在、日本年金機構で徴収業務を行なっている人の人件費がごっそり節約できる可能性が高い。加えて、年金保険料の徴収漏れも減るはずだ。
・また、いまは、日本年金機構は個人別の源泉徴収簿や賃金台帳、そして、源泉所得税の領収書を調べている。税務署も源泉徴収税をチェックしているので、別々の機関が同じ業務を二重に行なっている状態だ。
それなら、源泉徴収税のチェックを税務署に任せてしまえば、日本年金機構のその業務は要らなくなる。
<海外では歳入庁は常識>
・年金を含めた社会保障制度に対する不安は、本来、加入して保険料を支払うべき人が、年々減っていることも起因している。
歳入庁をつくって、年金保険料の徴収漏れを少なくすることができれば、そうした不安を緩和でき、年金財政の健全化にも資するはずである。
このように、歳入庁はいいことづくめといえるのだが、日本では、創設に向けた動きが一向に盛り上がらない。それは、歳入庁に断固反対している勢力がいるからだ。財務省である。
・日本のように、税金と年金などの社会保険料を別々に徴収している国は、世界でも極めて少なくなっている。
<「道州制」を真剣に論じるとき>
・日本は、GDPなどを勘案した国のサイズが他の先進諸国より大きく、欧州で考えると、7~8ヶ国分の国の行政を中央官庁が一手にまとめている状態に近い。その無理が、最近のほころびとなっていると思われる。もう少し、管轄する地域を小さくしないと、地域に適した行政を行なうのは難しいだろう。
道州制は、それぞれの道州に地方政府があるというイメージだ。各同州にはトップとなる首長がいて、自らが権限を発揮して、その地域の行政にあたるのである。
<財源も地方に移す>
・道州制にして、中央集権体制から地方分権体制に変えるということは、国の業務を地方に移行させるとともに、行政を行なうための財源も地方に移行されることになる。
・地方分権体制にして、道州がそれぞれの地域から税金を徴収し、再分配すれば、地産地消でけっこうなことであり、少なくとも中央省庁の官僚の影響は弱まる。
<道州制でなくなる省庁>
・道州制になったとき、復興庁以外にも不要な省庁が出てくる。
まずは国土交通省だ。国土交通省は全国の行政を中央で担当しているが、地方公共事業や許認可業務は、出先機関である地方整備局や地方運輸局が行なっている。
この地方整備局、地方運輸局をそのまま地方政府に置けば、中央の国土交通省が管轄する必要はなくなる。
・経済産業省、農林水産省も同じような理由で、不要となる省庁といえる。全国一律で産業政策や農業政策を行なえるわけがない。
産業や農業は、地域によって最適なものが大きく変わってくる。やはり地元に任せるべきだ。
・また、法務省は国の機関だが、地方に設置されている法務局は地方に移管すべき。文部科学省は、各地方に教育委員会があるので、業務を地方に移譲して、地域に合った教育行政を行なうべきであろう。
<国家公務員は約20万人削減される>
・不要な中央省庁がなくなり、また、地方に適した業務を地方に移譲すると、国家公務員の数は、大幅に削減される。約30万人いる国家公務員は、道州制の導入で約20万人減り、10万人程度になるのではないだろうか。
このように、道州制の直接的なメリットは、中央省庁のスリム化ができるところだ。ただし、公務員の数自体は純減しない。削減された20万人の国家公務員はそのまま地方公務員にスライドするため、地方政府の地方公務員は、減った国家公務員の数だけ消えることになる。
・一方、道州制の導入によって懸念されることもある。新たな利権構造ができる可能性だ。中央省庁が握っていた予算や許認可などの権限を、地方政府が持つことで、地方政府の官僚が利権の中心に座るおそれがある。
<道州制は動き出している>
・「大阪都構想」の考え方は道州制に通じるところがある。実現すれば、それは道州制に向けた、小さいけれども、記録に残る第一歩となるだろう。
・筆者は、議員立法によって重要法案が数多くつくられるべきだと考えている。官僚には書けないような、日常生活に密着した法案こそ、議員立法が担うべき分野である。議員立法の数を増やすことが、政治主導を取り戻すことにつながるといっていい。
だが、「言うは易く行うは難し」で、経験がない人が法律を書くことはまず無理だ。そこで、そのギャップを埋めるのが、シンクタンクや政策コンサルタントの存在だ。
政党などの政策当事者向けに公共政策の立案をし、その政策をきっちりと法律案に落とし込むことができる専門家集団である。アメリカや欧米の主要国には、数多くのシンクタンクや政策コンサルタントがある。韓国やロシアにも多い。
しかし、日本は、受託調査研究などを行なうシンクタンクは多いが、法案まで作成できるところとなると、まずない。
政策コンサルタントには、いろいろな専門分野があるため、その業務内容は一括りにはできないが、筆者が主宰している政策工房というところは、政策担当者向けに、公共政策の企画・立案のサポートから、法律案の作成までを手掛けている。政策コンサルタントとしては、もっとも一般的な姿といえようか。
・そうした地域主権の先駆けといってもよい事例もある。たとえば、政策工房で、大阪維新の会から、公務員改革及び教育改革に関する調査・検討作業の委託を請け負ったケースがある。大阪維新の会は、その調査結果を参考にして条例化し、2011年に、「職員基本条例」「教育基本条例」の2案を府議会と市議会に提出している。
当時、国会で国家公務員改革法案の審議が遅々として進まない中、国政に先んじて、公務員改革に着手しようとした点は、高く評価できるのではないか。
『「幸福な日本」の経済学』
石見徹 講談社 2017/11/11
<「大きな政府」は避けられない>
<不安な個人、立ちすくむ国家>
・現在では子供から老人に至るまで、すべての世代が経済的な問題を抱えていることが広く知られるようになった。
このような問題を解決するのに、もっとも分かりやすく、有効な手段として浮かび上がってくるのは、所得の再分配である。
・結論的にいうと、所得再分配や福祉の拡充、言葉を換えていうと「大きな政府」しか対策はないと思われるが、かといってヨーロッパ諸国のような「大きな政府」が直ちに実現できるわけはない。今とくらべて「より大きな政府」を目指すことになる。
・またもう1つ重要な論点は経済成長であるこれほどに「貧困」や「格差」が注目されるようになり、福祉国家に対する風当たりが強くなったのは、経済が低成長に陥ったことが大いに関係している。成長の低迷は日本ばかりではなく、先進諸国に共通している現象である。
・筆者は、財政、社会福祉やや、労働の専門家ではない。それで見当違いや誤解しているところがあるかもしれない。しかし、このように広がりをもった問題には、たとえ素人談義であっても、衆議をつくすことが必要であると考えた。
<「大きな政府」は避けられない>
・経済成長は現代日本の行き詰まり状態を打開する上で、きわめて重要な条件である。しかし、少子高齢化が進む状況では、経済成長が難しいことも、これまた事実であることは認めざるをえない。
<「大きな政府」への反感>
・政府のはたすべき役割というと、「大きな政府」に対する拒絶反応が予想される。そのような批判の理論的支柱であるミルトン・フリードマンによれば、「大きな政府」が生まれたきっかけは、アメリカで1920年代から30年代にかけて「大恐慌」を経験したこと、また苦境にある資本主義に対してソ連の社会主義体制が魅力的にみえたことにあった。ルーズベルト政権の下で実施された「ニューディール」政策が、公共事業によって雇用と需要を作り出す試みであったことはよく知られているが、同時に福祉政策の面でも1935年の社会保障法で失業保険や老齢年金を制度化した。
・ところが、1970年代後半、あるいは80年代から、いわゆる新自由主義の考え方が広まるにつれて、「大きな政府」が信頼を失い、「小さな政府」への評価は高まる一方であった。政府の介入が大きくなるほど、非効率性やムダが生まれるので、民間にできることは民間に任せるべきである、といわれてきた。
・しかし、実際のところ「大きな政府」が経済成長を阻害するかどうかとなると、答えはそれほど簡単ではない。このような問いを検証するために、政府の支出や税収の規模と経済成長との関係を分析した研究がこれまでいくつか発表されてきた。こうした一連の研究結果を比較検討してみると、正の相関、すなわち政府の規模が大きくなるほど成長率は高くなるという結果もあれば、逆の相関、すなわち政府の規模が大きくなるほど成長率は低くなるという結論を導いたものもある。最近は「大きな政府」が経済成長を阻害するという研究の方が比較的多いようにみえるが、まだ反論の余地のない答えを出すところまで達していない。
・ただ注目すべきは、「高福祉・高負担」の福祉国家でよく知られているスカンディナヴィア諸国が良好な経済的成果を上げていることである。新自由主義の考えによると、「高負担」は経済成長を抑制するはずなのに、これら諸国の所得水準も経済成長率も高く、日本を上回っている。この現象は北欧の「パラドックス」、あるいは「謎」といわれる。
・しかし他方で興味深いのは、同論文で「大きな政府」が経済的に成功する条件として「社会的信頼」という要因も指摘していることである。いわゆる福祉の「過剰」やバラまきを防ぐには、市民が互いに信頼したり、政府を信用できたりする関係が重要であるとするならば、たしかに理解しやすいだろう。
・それでは、日本ではこの信頼関係はどうなっているのだろうか。第1章でとり上げた『世界価値観調査』で、政府、政党や国会に対する信頼度を参照すると、時系列な変化(1981年から2010年の期間)はあまりみられず、6-7割が信頼していないという結果が出ている。そして国際比較をしても、信頼度が48ヵ国中で最下位に近いのである。このように政府、あるいは政治を信頼できないという声が大きいとすると、日本では福祉国家を成功させる条件が乏しいのかもしれない。
・以上、要するに「失われた10年」ないし「20年」の間に、日本人は格差をむしろ肯定するようになった。それ以前はたしかなことは分からないが、貧困の原因が「怠惰」にあるとみなす人が多いことも注目される。一方で「福祉の充実」を求めながら、他方で格差の存在には寛容であるという、いささか矛盾した傾向は、自己中心的という観点からみると、矛盾なく解釈できるのかもしれない。
<日本は「大きな政府」か?>
・まず国際的にみると、日本は必ずしも「大きな政府」の国ではないことを確認しておこう。
・これによると、日本は政府の債務残高が抜群に大きいことを除き、とくに大きな数値は出ていない。政府支出や税収は、アメリカをやや上回るが、イギリスとほとんど変わらず、ヨーロッパ大陸の諸国をむしろ下回っている。そしてとりわけ目をひくのは、公務員の数が少ないことである。日本に次いで少ないドイツと比べても、その約半分である。
・日本は国民の税・社会保障費の負担をかなり低く抑えているという印象がある。以上のような事実があるにもかかわらず、なぜ日本では政府、あるいは「大きな政府」が信用されないのだろうか。この問いに対して、まず浮かび上がってくる答えは、第一に現行の行政の枠組みにさまざまなムダがあることである。それらの多くは、官庁の縦割り行政や既得権益と結びつき、関連業界の利害も絡んでいるので、是正することは容易ではない。こうしたムダの排除はむろん必要なことである。
一例として、歳入庁の設立が提唱され、閣議決定までされながら実現していないことがある。
・第二に、政府サービスの利益が実感できないことが指摘されている。とくに中間層にはこの種の不満が大きいといわれる。
・第三に、ここでも少子高齢化の影響がある。高齢者向けの社会福祉支出が増える一方なので、その負担を引き受ける現役世代から「大きな政府」への反感が生じやすい。世代間の対立をことさらあおる必要はないが、潜在的な意識としてこの点は無視できないだろう。やはり社会福祉の改革を避けて通ることはできない。
・以上のように、「大きな政府」に対する厳しい見方には、それ相応の理由がある。しかしその一方で、「大きな政府」が必要とされる深い理由もある。その理由というのは、戦後の日本社会を支えてきた企業や家族の力が衰えてきたことである。これまで企業は、正社員の雇用を維持し、年功賃金や家族手当、住宅手当などで生活を保障してきた。その意味で、企業は福祉国家に代行する存在であり、だからこそ社員は、特にはその家族を含めて会社への帰属意識を高めてきた。ところが、「イエ」に喩えられることもあった会社は、低成長期に入った現在ではもはやそれだけの余裕をもてなくなってきた。
・そうした空隙を埋めるのが政府の役割となるはずだが、人々の意識はまだそこまで行っていない。国の責任よりも、自己責任が強調されやすい風土があるのは、このギャップのせいである。だからこそ、高齢者の割合が高いにもかかわらず、政府の支出規模や国民負担率を比較的、小さくおさえることができた。またその反面で、「大きな政府」に対する警戒感が根強いことになる。
<政府債務に問題はないか>
・元財務官僚の高橋洋一氏は、政府の債務(借金1000兆円が過大評価されていると述べている。そして、増税の必要性を強調するのは財務省の謀略である、という。政府債務が過大評価であるという理由は、第1に債務は資産と合わせてみるべきだからである。政府の債務から資産を差し引いた純資産でみると、借金1000兆円が実際は200兆円程度になる。第2に、日本銀行はいわば政府の子会社に当たるので、連結決算(総合的な貸借対照表)で捉えることを提唱している。
・日銀は量的緩和策として、金融機関から国債(政府の債務)を大量に買い入れているが、この国債買い入れ額は日銀の政府に対する債権である。連結決算で考えると、政府の債務と日銀の債権が相殺されるので、この部分については、政府の債務が事実上、存在しなくなる。2014年度末で日銀が保有する額は国債発行残高の3割にもなる。これだけ巨額の政府債務が、まるで手品師が魔法をかけたかのように、消えてなくなる、ということになる。しかし、そんなにうまくいくわけがない。
まず第1の点について、政府資産の中には現金・預金、有価証券、貸付金、出資金などの金融資産があり、これらは2014年度末で資産の55%を占める。ここには日本政策投資銀行、UR都市機構など特殊法人や独立行政法人に対する資産が多く含まれている。そこは公務員の天下り先になっている、といわれる。
・資産保有が天下りの温床となっているとすれば、これはたしかに問題である。しかし、株式など金融資産はすぐにでも売却できるかもしれないが、売ってしまえばそれまで、二度と使えない。一時的に政府債務を減らせても、将来さらに財政赤字が続けば、その保証にはならない。やはり着実に財政赤字を減らしていく努力が必要である。
第2の点について、政府と日銀を連結すると国債残高が消えるとするのは暴論である。それはなぜかを理解するためには、日銀の貸借対照表を参照しなければならない。
・ところで、国債発行が今後も持続していけば、いつか民間が購入しきれなくなる時がくる。そうなると、国債の信認が揺らぎ価格も大きく下落する。それは、日銀の資産(国債保有残高)を大幅に減価させ、資産が負債を下回る状態(債務超過)になりかねない。債務超過になると、政府が救済することもありうるが、すでに政府債務があまりに大きいと、この方法にも限界がある。この状態になると、日本の通貨(円)に対する信認が一挙に下落し、猛烈なインフレが生じる。そうなると、国民生活への行動は予想もつかないほど大きい。つまり、日銀が国債を買い続けたとしても、いずれは日本の通貨、さらには経済そのものが破局に至ることを考慮しなければならないのである。
・また、財政赤字を拡大させる一方の先送り策は、将来世代に巨額の債務を残すことになり、世代間の不公平を大きくするので容認すべきではない。しかもやっかいなことに、政府債務ばかりではなく、さらにいっそう大きな社会保障の債務(年金、医療保険、介護保険)が残されている、という指摘もある。そうだとするとますます、増税や社会保険料の引き上げを早急に検討するしかないだろう。
ところで、日本のように巨額の債務を控えた先例を探してみると、イギリスが浮かび上がってくる。この国の政府債務はナポレオン戦争後の19世紀初頭に国民所得の2倍近く、第2次大戦後には2倍を優に超えていた。19世紀初頭は現在の日本よりやや少ない規模であったが、第2次大戦後は日本とほぼ同じだとみてよいだろう。
・それにしても、現在の日本でなぜ財政赤字が放置されてきたかというと、人々は遠い将来にまで考えが及ばないこと、近視眼的に利益を求めがちなことがあるだろう。それは「シルバー民主主義」にも関連するが、とりわけ高齢者は余命が短いので、いっそう現在の利益にこだわることが多い。 露骨な言い方をすると、「あとは野となれ山となれ」の精神である。ある友人などは、もう少し気取った表現を使って、「わが亡き後に洪水よ来れ」ということもあるが、同じことである。
<どのような税が好ましいか>
・次に財政赤字を解消していく手段として、税について考えてみよう。まず重要なことは、税が政治そのものということである。近代国家は一方で私的所有権を保証しながら、地方で個人の所得や資産から税を徴収するのは、矛盾といえば矛盾である。このような矛盾があるからこそ、近代国家は、課税やその支出について国民が意見を表明する権利を保障している。アメリカの独立戦争で、「代表なくして課税なし」というスローガンが説得力をもったのはそのせいであり、財政民主主義といわれることもある。
<消費税>
・消費税については、すでにみたように、「逆進的」であることが欠陥とされてきた。消費税が内閣の命運を左右するとまでいわれたのは、このような「逆進性」の他に、日常の消費行動すべてに課税されることに、国民の強い反発を呼び起こしたからであった。しかし高所得者も低所得者も関わりなく、広く課税するという特徴は、税収を上げる点では、きわめて効果が大きい。
・しかし、日本の消費税率は西ヨーロッパ諸国よりもまだかなり低い。今後、引き上げがあれば、福祉の拡充に使える余地は大きい。また将来の引き上げが可能であるとの見通しがあるからこそ、巨額の政府債務があっても、国債に対する信頼がまだ揺らいでいないという事情もある。
・高い税率や「大きな政府」が経済成長に及ぼす影響について、短期的にはマイナスに働くことはあるかもしれないが、この社会が持続することを考えるならば、長期的な時間軸で考えなければならない。日本はそこまで追い込まれているということもできる。
・このように「大きな政府」が避けられないとすると、増税の可能性を探っていくしかない。所得税、なかでも金融所得の増税はやむをえないし、相続税のいっそうの引き上げや、新たに資産課税も検討のリストに載ってくる。しかし税収に占める固定資産税や相続税の比重はもともと大きくないので、消費税の引き上げはやはり不可避である。逆進性などの短所は、政府支出の面で再分配機能を強めることで補う必要がある。