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国内の山村にして遠野より物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。『遠野物語』(1)

 

 

『いまこそ知りたい日本の思想家25人』

小川仁志    KADOKAWA  2017/9/22

 

 

 

<今なぜ日本思想なのか?>

・今、日本国内では日本回帰が進んでいるように思います。その背景の一つとして挙げられるのが、2020年に開催予定の東京オリンピックです。

 

・こうした背景の中で日本回帰が進み、日本の文化や歴史を学び直そうという機運が高まっているのです。そうなると、当然日本思想にも注目が集まってくるはずです。残念なことに思想に目が向けられるのはいつも最後なのですが、本当はすべての現象の基礎に思想が横たわっています。文化を形作るのは思想、歴史をつくるのも思想なのですから。

 したがって、本来は日本という国を見直す際、最初にやらなければならないのは日本思想への着目なのです。ところが、これまで日本思想はあまり重要視されることはありませんでした。そもそも日本の思想とは何を指すのかということさえ、コンセンサスが得られていない状況です。たしかに、日本思想という思想があるわけではなく、それを構成しているのは仏教や儒教、あるいは西洋哲学といった個々の思想です。

 

民俗学を創始した思想家 柳田國男(1875-1962)

国内の山村にして遠野より物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。『遠野物語

 

<過去から今を考えるための思考>

柳田國男民俗学創始者として知られています。とりわけ戦前から1960年前後までは、民俗学といえば、柳田の確立した学問のことを指していました。

 

岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集『遠野物語』で示された、名もなき人々への同情と共感。やがてそれは、柳田民俗学の代名詞ともいうべき「常民」概念の創出へとつながっていきます。常民とは柳田独特の概念で、民間伝承を保持している無名の人々からなる階層のことです。

 柳田は、口承や伝承の資料を集めるために日本全国を歩き回りました。そうして発見したのが常民だったのです。常民は英語のfolkからきていますが、柳田によると、それは知識人に対抗する概念だといいます。むしろ常民こそが日本の歴史を支えてきたというわけです。

 

柳田の民俗学への関心を決定的なものにしたのは、1908年に3か月にわたって九州各地を訪れたことと、岩手県遠野出身の文学青年佐々木喜善に出逢い、彼から遠野の不思議な話を聞かされたことです。

 特に、遠野には信仰的な意味を持った不思議な話が色々と残っていたため、柳田はそれに完全に魅了されてしまいました。その後、実際に遠野を訪れた柳田は、そこで見聞した話をまとめて『遠野物語』を発表します。

 

・さて、そんな柳田の思想については、やはり『遠野物語』から見ていくのがいいでしょう。この本の序文には、柳田が民俗学に惹かれ、それを世に問おうとした強い動機のようなものが謳われています。

 

 思うに遠野郷にはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。

 

 これはとても有名な箇所なのですが、それもそのはず誰もがこの一節を目にすれば、ぞくっとするに違いありません。なにしろ「平地人を戦慄せしめよ」というのですから。平地人に対置される山に住む人たちの生活が、それこそ驚きに満ちたものだといいたいわけです。何より柳田自身が、その実態を知って戦慄せしめられたのでしょう。

 

・確かに『遠野物語』には、驚かされるような不思議な話が満載で、しかもそれが事実を記録するかのように淡々と語られています。だから読んでいるほうは、文学なのか記録なのか分からなくなってくるのです。中身は文学のようでありながら、実態は記録だからです。これが民俗学のスタイルなのかもしれません。たとえば、次のような感じです。

 

家に帰りて見れば、縁側に小さき泥の足跡あまたありて、だんだんに座敷に入り、オクライサマの神棚の所に止りてありしかば、さてはと思いてその扉を聞き見れば、神像の腰より下は田の泥にまみれていませし由。

 

 これは田植えを手伝ってくれた小僧が、実はオクナイサマという神様だったことが判明したという話です。というのも、小僧の足跡が神棚まで続いており、しかも神像の腰より下が泥まみれになっていたからです。あるいは次のような話もあります。

 

ザシキワラシまた女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門という家には、童女の神二人いませりということを久しく言い伝えたりしが、ある年同じ村の何某という男、町より帰るとて留場の橋のほとりにて見慣れざる二人のよき娘に逢えり。

 

 今度はザシキワラシの話です。ザシキワラシがいる家は栄え、逆にいなくなると廃れるといいます。この山口孫左衛門の家からはザシキワラシが出て行ったので、皆その後死んでしまい、家が廃れたというのです。

 なんとも恐ろしい話ですが、先ほどのオクナイサマにしても、このザシキワラシにしても、まったく不合理な話ではありません。おそらく山の人々は、奇跡的に助かったり、やるせない不幸があった時などに、自分たちを納得させるためにこうした伝承を作っていったのでしょう。もっとも、これを誇る人たちは、本気でそう思っていたのです。そうでないと意味がありません。

 そしてより重要なことは、柳田がこれらの話を事実であるかのように忠実に記録している点です。

 

・そこで参考になるのが、体系確立期に著された『郷土生活の研究法』です。ここでは民俗学が実践的に人々の役に立つものでなければならない旨が強調されています。

 

我々の学問は結局世のため人のためでなくてはならない。すなわち人間生活の未来を幸福に導くための現在の知識であり、現代の不思議を疑ってみて、それを解決させるために過去の知識を必要とするのである。すなわち人生の鏡に照らしてわが世の過去を明らかにせんとする、歴史の究極の目的は眼前にぶら下がっているのである。

 

民俗学は世の中の役に立つもの、人間生活を幸福にするものでなければならない。そのために過去の知識を掘り返しているのだということです。そうでないとただの好事家の趣味の延長で終わってしまうからです。

 

もともと柳田は農商務省の官僚であり、若い頃から農政について講義をしたり、政策について考えたりしてきました。そうした農村問題への実務的関心が、常に柳田の頭の中にあったに違いありません。現に柳田は、時折農政についての書物も発表していますし、大学で講義をしたりもしています。そうした実践的視点が、彼の民俗学の背景にあることには注意が必要です。その問題意識がかなり具体的に示されているのが、次の一節です。

 

次にはその婚姻の障害に基づくと認められる離村問題、これが果して一つの原因を除くことによって、制止し得るものだろうかどうかということ、それよりもっと痛切なる「何ゆえに農村は貧なりや」の根本問題である。以前はどうであったかをまず明らかにしなければ、いずれも勝手な断定ばかり下されそうな疑問であるが、郷土史の研究者たちは通例そんな厄介なものは自分たちの仕事のほかだと思っているらしい。

 

 農村の問題に民俗学がどう役立つのか、かなり踏み込んで書かれています。特に、何事も過去にさかのぼって考えてみないと勝手な断定になってしまうという部分には説得力があります。

 

・私もよく哲学や思想をやるのに、どうして過去の哲学者や思想家のことを学ばないといけないのかと問われることがあります。過去にどう考えられてきたかを知っておかないと、これがベストだと思って生み出した考えも、すでに過去に同じことがいわれており、色々な問題点が指摘されていたなんてことがあり得るのです。だから過去の英知を前提として知っておく必要があるわけです。

 

(ポイント)

1何事も過去にさかのぼって考えてみないと、勝手な断定になってしまう!

2柳田國男の思想から、過去の出来事を参照し、今の課題を解決するための思考法を学ぼう!

 

戦後民主主義を論じた思想家  丸山眞男(1914-1996)>

・近代日本のダイナミックな「躍進」の背景には、たしかにこうした「する」価値への転換が作用していたことは疑いないことです。『日本の思想』

 

<日本を西洋と比較するための思考法>

・そして、一高、東大とエリート街道を順調に歩んだのち、東京帝国大学法学部に職を得ます。しかし、戦時下であったため、助教授の身分でありながら徴兵されてしまいます。その際、理不尽な扱いを受けたのがきっかけで、ファシズムに抵抗を示すようになります。

 

<日本に革命がないことを説明>

・つまり、日本の政治においては、正統性の所在と政策決定の所在が分離され、その各々について何重にも実権の身内化及び下降化が生じているのです。面白いのは、丸山がこの原理を使って日本に革命がないことを説明している点です。彼は、政変があっても、正統性のローカス自体は動かない点をとらえて、革命がないと見ることができるといいます。この場合の正当性は天皇をとらえていいでしょう。たしかに政変があっても、これまで天皇制が廃止されたことは一度もありません。

 そして、その「革命不在の代役をつとめているのが、実質的決定者の不断の下降化傾向」だと主張するのです。いわば革命の代わりに、秀吉のような関白太政大臣や家康のような将軍、あるいは明治以降の総理大臣といった「臣下」が、実権を握ってきたというわけです。

 

したがって、丸山の仮説によると、日本において革命が起きなかったのは、そもそも正統性と決定の分離があっかからだということができるでしょう。丸山も指摘していますが、中国の皇帝や西洋の絶対君主の場合、両者が厳然と分離されていません。中国や西洋では皇帝や君主のもとに直接行政各省が隷属しているというのです。その意味で、たしかにこれは他国の絶対君主制にはない特徴なので、日本にだけ真の意味での革命がなかった原因として挙げることができるでしょう。

 

かくして日本人は、自分で政治を変えることができるという意識を持てなくなってしまったのです。これを図式的にわかりやすく説明したのが『日本の思想』です。この本の中で丸山は、まず明治になって形成された日本独自の政治概念である国体について糾弾します。

 

・つまり、「である」とは、いわば前近代社会における固定化された人間関係を基礎とする道徳のことです。しかし、近代社会のように物事が変化発展するような環境においては、そのような受動的な道徳では対応できないというのです。だからこそ「する」という能動的な道徳が求められるわけです。

 

・このように丸山は、日本思想史の研究成果をふまえたうえで、日本の問題点を鋭くえぐり出し、そこに欠けているものとして西洋の思想を導入するよう呼びかけたのです。戦後民主主義という課題は、まさにそうした性質のものであったように思います。もちろん、市民社会の形成もままならない現代社会にとって、丸山の問題提起は、いまだ宿題として積み残されたままであるといわざるを得ないでしょう。

 

(ポイント)

1一人ひとりの個人が自立し、主体的に社会に参加していくべき!

2丸山眞男の思想から、西洋と対比した際に浮かび上がる日本の問題点を探る思考法を学ぼう!

 

戦後最大の在野の思想家  吉本隆明(1924-2012)

・ここで共同幻想というのは、おおざっぱにいえば、個体としての人間の心的な世界と心的な世界がつくりだした観念世界を意味している。『共同幻想論

 

愚直さを貫く思考

・そして返す刀で、丸山眞男が前提とするような西欧近代の国家もまた擬制にすぎないと批判したのです。そうではなくて、むしろその根底にある幻想の共同性に目を向けるべきだと主張するのです。というのも、国家というのは、もともと民俗的な伝統に基づく幻想の共同体として発展してきたものだからです。

 したがって、人々の意識が太古からの民俗的・宗教的心性や生活様式に根差している限り、マルクス主義のような理論による解放を目指しても無駄だというわけです。それが彼の代表作『共同幻想論』のモチーフであるといえます。この本は『古事記』や柳田國男の『遠野物語』を参照しつつ、古代世界における共同幻想の生成、王朝の成立について論じたものですが、その背景には吉本の国家観の本質が横たわっているといえます。

 

・つまり、共同幻想とは、現実の国家を指すわけではなく、人々が共同に抱いている国家に対するイメージを指しているわけです。吉本自身は、国家は共同幻想の一つの態様にすぎないといっていますが、いずれにしても、そんな幻想が私たちの国家観の根底に横たわっているというのです。そしてこの共同幻想ゆえに、人々は真の意味での革命を望みません。古代王朝以来の幻想の共同体と一体化している大衆は、その幻想なしには生きていけないからです。

 

・ここにあるように、大衆はすべての時代を通じて、歴史を動かす動因だったのです。にもかかわらず、その存在が支配者の陰に隠されてしまっている。吉本がやろうとしたのは、そうした事実を暴き出すと同時に、大衆を本来の主役の座に祭り上げることではなかったのでしょうか。

 こうして吉本は、イデオロギーの時代にあって、常に大衆の側に立つという戦略をとり、それによってまさに大衆からの支持を得てきました。ところが、イデオロギーの終焉とともに、大衆は姿を消し、80年代になるとやがて消費者へと変質していきます。

 すると吉本もまたそれに歩調を合わせるかのように、大きく変節していきます。80年代の経済、文化の時代には、これまでとは打って変わって、ファッションや音楽などにも手を広げ始めるのです。その代表的な作品が『ハイ・イメージ論』です。

 

ここではファッションをリードするのが、大衆ではなく、ファッション・デザイナーであるとされています。つまり、消費社会をリードするのは、消費者としての大衆ではもはやなく、ファッション界のエリートであるデザイナー、あえていうなら知識人であるデザイナーのほうです。

 資本主義の象徴ともいえるファッションへの吉本の傾倒は、イデオロギー的な転向ともとれるほどの変節だという批判さえありました。たしかに川久保玲コム・デ・ギャルソンを称揚するだけにとどまらず、自らもそれをまといファッション誌に登場したのですから、かつてのプロレタリアートの闘士はどこに行ってしまったのかといわれても仕方ありません。しかし、吉本はあくまで大衆の本質を見ていたのでしょう。時代が変われば大衆も変わっていきます。

 にもかかわらず、ただプライドのためだけに「大衆の現像」を墨守し続けることは、彼にはできなかったのだと思います。だからこそ、オウム真理教が一連の事件を起こしたときも、あえて世論に迎合するようなことはなかったのです。それもまた世紀末における大衆の本質を正直にとらえた結果だったのでしょう。

 こうして見てみると、吉本隆明という思想家は、つくづく純粋な人だったのだと感じざるを得ません。だからこそ生活が苦しかろうと、社会的地位を失おうと、どれだけ非難されようと、自らの信念を愚直に叫び続けたのでしょう。そして美しい詩を詠み続けたのでしょう。

 

(ポイント)

1大衆はすべての時代を通じて、歴史を動かす動因である!

2吉本隆明の思想から、愚直さを貫くための思考法を学ぼう!

 

<過去の英知の活かし方>

<共通していえるのは、皆勉強家であること>

過去の英知に学ばねばなりません

・ここで過去の英知を軽視する人は、すでにわかっていることを自分の力で発見しようとして、徒労を強いられることになります。何より問題なのは、知を進歩させることができない点です。スタート地点やベースになるべきものがわからないのですから。

 

 

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)

丸山眞男

1944年7月、大学助教授でありながら、陸軍二等兵として教育召集を受けた。大卒者は召集後でも幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま朝鮮半島平壌へ送られた。9月、脚気のため除隊決定。11月、応召より帰還。

 

1945年(昭和20年)3月、再び召集される。広島市の船舶通信連隊で暗号教育を受けた後、宇品の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。4月、参謀部情報班に転属。丸山は連合通信のウィークリーをもとに国際情報を毎週報告。入手した情報を「備忘録」と題するメモに残す。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆。1945年(昭和20年)8月15日に終戦を迎え、9月に復員した。「上官の意向をうかがう軍隊生活は(大奥の)『御殿女中』のようだった」と座談会で述べたことがある。この経験が、戦後、「自立した個人」を目指す丸山の思想を生んだという指摘がある。

 

 

 

『これを語りて日本人を戦慄せしめよ』

 柳田国男が言いたかったこと

山折哲雄  新潮社 2014/3/28

 

 

 

<あの世とこの世>

・2010年は、柳田国男の『遠野物語』が世に出てからちょうど百年目にあたっていた。それを記念して、岩手県遠野市をはじめとしていろんな行事が行われた。

 

私はかねて、『遠野物語』はこの世の物語なのか、それともあの世の物語なのかと疑ってきた。よく読んでみると、その関係性のようなものがどうも判然としないからだ。あの世の話とこの世の話が入れ子状になっていて、あたかも二重底になっているようにみえる。その上、登場してくる人物が狂気を発した老女であったり、神隠しにあう子どもだったりする。山中に入って眼光するどい異人に遭遇する話、異界に住む妖怪(河童やザシキワラシ)が出現する話、オシラサマといった木偶のカミを祀る話、ダンノハナなどと呼ばれる、オバステを思わせる共同墓地、あるいは老人共同体のような風景……。

 とにかくヒト、カミ、オニの境界がはっきりしない。タマ(魂)とヒト、生霊と死霊のあいだの輪郭がぼけている。死んだはずのものが死んではいない。死の気配がいつのまにか生の領域を侵している。

 

柳田国男も『遠野物語』の序文のなかでいっている。それは9百年前の『今昔物語』のごときものだ、しかしこの『遠野物語』はたんなる昔の話ではなく、「目前の出来事」である、と。

 

平地人を戦慄せしめよ

<二つの異常な話>

結論をさきに出してしまうと、『山の人生』は『遠野物語』の注釈、頭注、脚注、といった性格をもっているということである。その頭注、脚注の仕事に没頭していくところから柳田国男の学問が生れ、そして鍛えられ、やがて日本民俗学の誕生へと発展していったのではないか、そのように私は考えている。

 

・右の第一話をしめくくったあとに記された「あの偉大なる人間苦」という柳田の言葉遣いに注目しよう。それはわが民俗社会の「山の人生」に刻みつけられ、埋めこまれてきた伝承のなかには、数知れない「人間苦」の記録が累々とつみ重ねられているという認識をあらわしているといっていいだろう。

 

<物深い民俗学

国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくばこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。

 

 有名なメッセージである。柳田国男の『遠野物語』の世界にふれて、この「平地人を戦慄せしめよ」の言葉を意識しないものはおそらくいなかった。そのようにいってもいいほどに人口に膾炙したメッセージだった。ところが、その「物語」の母胎をなす「無数の山神山人の伝説」を伝えてきた「物深き所」そのものに言及する論者はほとんどいなかったのではないだろうか。遠野よりさらに「物深き所」には、普通の人間の目では見通すことのできない「物深い現実」が隠されている。それを見つめなければならぬ、それを凝視せよ、そう柳田はいっているのである。

 

・ただそれにもかかわらず、ただ一つ確かなことは、その物深い山村に伝えられてきた無数の「山神山人」の伝説を語って平地人を戦慄せしめなければならぬと、かれが考えていたことだある種の使命感のようなものがただよっているともいえるが、じつはそれらの山神山人たちの伝説を知って心中ひそかに戦慄していたのは柳田自身だったのではないだろうか。東京人のような「平地人」たちを戦慄させる以前に、すでに柳田国男自身が戦慄していた。そのような切迫感がこちら側に伝わってくるようないい方である

 

<「翁さび」の世界>

フィレンツェのひらめき>

発端は、「童子」と「翁」の問題だったと思う。私の視野に火花を散らして向き合う柳田と折口の姿がはじめて映ったのは、「童子」の世界に見入っている柳田と、それにたいして「翁」の系譜にのめりこんでいく折口の背中合せの映像だった。子どもと老人の問題、といってもいい。しかしその子どもと老人の問題が、やがて柳田と折口という師弟のあいだでは妥協のできない、のっぴきならぬそれぞれに固有のテーマであることがわかるようになった。

 

柳田は、そうした類似の昔話やいい伝えをつみ重ねていった。その結果、これらの小さ子伝承の源流がじつは山中の水神にたいする信仰にあったのではないかと考えたのである。しかもその水神が母神の面影を濃厚に示している。そこから、このようないい伝えの中心には母子神信仰があったのだろうと論をすすめていった。

 あえていうと、それが柳田の童子論の骨格である。童子神というのは、むろん日本列島にだけみられる現象ではないローマ神話のキューピッドなど数えあげていけばいくらでもみつかるだろう。ただ柳田の場合は、かねてからわが国の御子神や若宮などの「小さ子神」をとりあげて、それらの神々がいずれも神霊を宿す巫女(=母神)の子、という伝承をもつことに注目していたのである。

 

<折口の翁、柳田の童子>

・その翁についての論を立てるための発端が、日本の「祭り」だった。折口はいう、日本の祭りの原型は秋祭りから冬祭りへのプロセスに隠されている、と。その着眼を文献調査とフィールド踏破を重ねてつきつめていった。秋祭りとは、稲の収穫を祝い、神に感謝を捧げる祭りである。つまり村の鎮守の祭りである。それにたいして冬祭りとは、山から神が降りてきて里人たちの幸せと長寿を祝福する祭りだった。神々と人びとの交流、交歓の関係がそういう形ででき上っていた。神人互酬の関係である。神人贈答の交わりといってもいい。その場合、山から降りて来る神は、「ご先祖さま」と意識されていた。祭りが終れば、ご先祖さまはふたたび山の中に帰っていく。

 

・冬山の彼方からこの地上に忍び寄ってくる神、それが折口には異様な姿をした老人にみえたのだ。容貌魁偉な翁だった。それがいつしか柔和で優しい翁へと姿を変えていく。それはおそらく、山から訪れる神と里人たちの交流、交歓の結果であった。

 

・折口学をめぐるキーワード中のキーワード、「まれびと」である。そもそもかれのいう山の神の正体も、よくよく考えてみれば曖昧模糊としているのだが、そこにさらにいっそう正体不明の「まれびと」を重ねていく思考とは、いったい何だったのか。すでにふれたことであるが、老人→山神→まれびとへと、どこまでも遡行していく、折口の不可思議還元の方法と呼ぶほかはない。

 

<柳田の普遍化、折口の始原化>

・たとえば、折口の芸能論と宗教民俗論のちょうど接点のところに位置する「翁の発生」という論文をみてみよう。そこでは「翁」の諸現象についてさまざまな角度からの分析が加えられているのであるが、最後になってその議論のほこ先はただ一つの地点へと収斂していく。すなわち「翁」の祖型は「山の神」に由来し、その「山の神」の伝承をさらにたどっていくと最後に「まれびと」の深層世界に行きつくほかはない、という観点がそれだ。

「翁」という微光に包まれた謎のキャラクターを、も一つの神韻ただよう「山の神」へと還元していく。これはいってみれば位相をずらしながらスリップさせていく無限の同語反覆を想わせないだろうか。そこに筋道立った因果律や合理的解釈の入りこむ余地のないことはいうまでもない。

 

 

 

『鬼』

高平鳴海、糸井賢一、大林憲司、

エーアイスクウェア 新紀元社    1999/8

 

 

 

「伊吹弥三郎・伊吹童子(創造神とドラ息子)

出自;「御伽草子」「三国伝記」「仮名草子」「伊吹どうじ絵巻」

 

<容姿>

伊吹弥三郎も伊吹童子もその姿は一般的な鬼のイメージとは違う、もともとの伝承から推測するに単なる巨大な男、いわゆる巨人であり、その他の細かい特徴は不明である。特に弥三郎は富士山などを造ったとされており、その体の大きさは他の鬼と波比べられないほどだろう。

 

伊吹童子の方は、童子と呼ばれるだけあって童(わらわ)の姿をしていたらしい。不老長寿の薬といわれる「サンモ草の露」を飲んで以来、老いもせず、14~15歳の少年のままだった絵巻に書かれている。

 

伊吹の山神

近江の伊吹山にいたとされる伊吹弥三郎は、創造神という顔と、魔物=鬼という顔がある。その息子の伊吹童子も多くの部下を従えて暴れまわった鬼である。

 

実は近江の伝説だけでなく、弥三郎は多くの文献にも登場している。

 

<戸隠の女盗賊><紅葉(くれは)>

・各地の伝承でも能楽で語られる場合でも、絶世の美女であったと伝えられる。しかし、罪に問われて戸隠に逃れ、その後は悪事を重ねるごとに醜い姿になっていった。

 

<英雄を助けた鬼女、鈴鹿御前>

どの伝承を見ても絶世の美女だったと記録されている

 

・彼女は記録によって鈴鹿御前と呼ばれる場合と烏帽子と呼ばれる場合がある。

 

・鬼女を御前と呼ぶのは変かもしれないが、伝説を見ると、どうも、彼女は、完全な悪玉というわけではなかったようである。あるいは、鬼神レベルの力を有していたために、敬称が付けられたのかもしれない。

 

<日本最古の鬼は「目一つの鬼」で出自は「出雲風土記」>

酒呑童子茨木童子、伊吹童子、八瀬童子、護法童子などのイメージは、人間タイプとモンスター・タイプが混ざるものが多いようだ。

 

 鬼はなぜ童子とよばれるのだろうか?

・童子とは、つまり元服前の稚児を示す言葉だが、童子はいわば蔑称で、時の支配者らが用いた言い回しである。鬼は確かに人々を驚かしていたが、その力を認めたがらず、下っ端=目下の者=童子と呼んだそうだ。

 

 <<日本の伝承に残る鬼として>>

・ 桃太郎の鬼(温羅)(うら)

蝦夷の鬼王(悪路王)(あくろおう)

有明山(信州富士とも呼ばれる)の鬼族(八面大王)(長野県の伝承)

・ 黄泉より還りし悪鬼(大嶽丸)(おおたけまる)(三重県鈴鹿山近辺の伝承)

・ 霊の化身(鬼八法師)(きはちほうし)九山岳地帯の伝承

・ 飛騨の怪人(両面宿儺)(りょうめんすくな)

「伊吹弥三郎」と「伊吹童子」の伝承(岐阜県北部伝承、日本書紀御伽草子に登場)

近江の伊吹山にいたとされる伊吹弥三郎は、創造神という顔と、魔物=鬼という顔がある。伊吹童子はその息子だという。

 ・ 天邪鬼(あまのじゃく)(人々に親しまれた小鬼)(和歌山県串本町の伝承)

・ 同胞を助けた「赤鬼」(せっき)出自は安倍晴明物語。

 

 

 

柳田國男とヨーロッパ』    口承文芸の東西  

高木昌史   三交社    2006/4

 

 

 

<伝説><イギリス>

イギリス、特にケルト文化圏の民間伝承を、他のヨーロッパの国々と比べて場合、際立つ特徴のひとつは、妖精やエルフが登場する伝説や民話の豊かさにあるといえる。Fairy taleという言葉自体、妖精譚に限らず、おとぎ話や昔話など全体を意味し、イギリスの民俗的想像力において妖精という存在がもつ重要さがうかがわれる。

 19世紀以降に行われた民話や伝説の蒐集と研究においても、特に妖精やエルフなど超自然の存在に関する伝承に焦点をあてたものが多い。

 

・そしてイギリスの民間伝承には、2種類の妖精が登場するという。一つは、田園のエルフで、森や野原、丘や洞穴に棲む。村はずれの塚や丘の横腹に入口があって、そこから妖精の世界に入ることができる。もうひとつが、家の精で、人間の生活に仲間入りし、ミルクやクリームを好み、台所の仕事を手伝ってくれたりする。ホブゴブリン、ロビン・グッドフェローなどと呼ばれて親しまれ、陽気で、いたずら好きな性格である。

 妖精は人の姿をして、とても小さく、緑色の服をきて赤い帽子をかぶり、森や野原に姿を現す。ダンスを好み、月光の中で輪になって踊るため、翌朝には、草の上にフェアリー・リングという円形の跡が残る。

 

・妖精は時に人間のこどもを盗んで、偽せ者を替わりに置いていく。また、妖精のお産のところに人間の産婆がつれていかれることもよくあり、お産を手伝ったり、妖精の赤ん坊に乳を与え育てると、御礼に宝物をもらったり、まぶたに不思議な薬をぬられて妖精の世界が見えるようになったりする。

 

・柳田は「北部歐羅巴に今なほ活動して居るフェアリーの如き、その発祥地である所のケルト民族の特性をよく代表して居る。フェアリーの快活で悪戯好でしかも人懐こいやうな気風は慥にセルチックである。フェアリーは世界のおばけ中正に異色である」

 

・柳田の書き込みは、「妖精と出産と人間の産婆」、「取換え子」の章にもっとも多くみられる。人間が妖精の国に行ったときには与えられたものを口にしてはいけないこと、妖精の中に見覚えのある顔があったりするため、人々の想像力のなかで死者の国と妖精の国がつながっていたという箇所に下線を引いた。

 

「取換え子」の話は、妖精が人間の赤子を欲しがって盗み、代わりに年老いた妖精を子供にみせかけて置いていくという広く流布している話だが、柳田は、「生まれたばかりの赤子と神秘の世界との間には特別のつながり」があるとされていた、というところに下線を引いている。

 新生児は超自然の力に対して無防備で特に狙われやすく、子どもを守るために、妊婦の部屋に火を絶やさず、産後は三日三晩ランプを灯し続ける習慣があった、というところにも下線を引き、横に「ウヴ屋の火」と書き込んでいる。

 

・鉄への関心は、例えば、妖精の輪の中に引き込まれて踊り続け、1年後に出てきた男が、1日しかたっていないと思い込んでいたというウェールズ地方の伝説のくだりで、輪の中から若者を引きずり出す時に何か鉄のもので若者の体に触れると若者の命が助かる、というところのironの語にだけ柳田が下線を引いていることでもわかる。

 

・また「取換え子」の話も、妖精が種族の活力を強化するために人間の血を必要とするためだといわれている。

 

・柳田の関心のありかは、妖精の世界と死者の世界の重なりや、赤子と異世界との神秘的なつながり、産婆の妖精界訪問譚に注目していることなどから察するに、むしろ、妖精を媒介とした異界との往還にあったのではないかと思われる。人間の赤ん坊を妖精が盗んで取替え、また妖精の赤ん坊の出産を人間の産婆が手伝うという事は、出産と誕生が、妖精の世界とつながる契機となることを意味し、逆に鉄や塩は、そうした異世界への道を断ち切る手立てとなるのである。

 

<目に見える人間世界と地下の内なる未知の世界の接触交流>

柳田は異類婚姻譚に関心を示した。リースの本への書き込みで、特に興味深いのは、そうした妖精妻の子孫が村のどこそこに今もまだいる、伝説が真実であることの証拠であるという記述があると、必ず下線を引き、欄外に「子孫あり」、「子孫名家」、「子孫繁栄」などと書き込んでいることである。妖精の子孫であることを誇る人々がここにいる、と柳田が感じ入りながら頁を繰っていった様子を彷彿させる。そして、こうした書き込みも、異界とのつながりの継承性が、柳田にとって重要だったことを示すとみてよいだろう。

 

・柳田が読んだイギリス、特にケルトの民話伝説にみられる妖精の世界は、超自然の異世界でありながら、人間の世界の近くにあり、密な関わりをもつ。行き来があり、人間の生活に加わってくる。

 

異世界と人間をつなぐものとして妖精伝説に柳田は関心を持ったものではないか。そして、妖精の子孫を名乗る家が今なお健在であるという記述に注目する点に、柳田の面目躍如たるものがあるように思われる。それは『遠野物語』の序文で、山女、妖怪、怪異、霊など異世界との遭遇の物語がすべて今現在の事実の話であると主張したときから変わらない柳田の民間伝承観の一面をあらわすといっていいのではないだろうか。