日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

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それは、異国の超人“法道仙人”についての伝承があるからだ。この仙人は中国の霊鷲山で金剛摩尼法を修した人だった。日本でいえば修験道の開祖、役小角のような超人だったろう。(1)

 

 

陰陽師ロード』    安倍晴明名所案内

荒俣宏   平凡社  2001/9/25

 

 

 

<大陰陽師蘆屋道満のふるさと>

播磨の大陰陽師

日本じゅうを見まわして、伝統的な占い師がいちばん多くいた土地はいずこ、と聞けば、どうやらそれは播磨であったらしい。

 らしい、と書かなければならない理由は、現在がそうなっていないからである。播磨の占い師たちは、今はもうあらかた消えてしまい、お歳を召した方でないと、そういう伝統があったことさえ知らない。

 

・だからこそ、占い師の総元締ともいえる安倍晴明蘆屋道満の伝説が残る播磨の地、ここに期待しないではいられなかった。

 そこで早速に、播磨の西にある佐用という町へ行ってみることにした。

 

佐用町は、人口が9千人余の、静かな山間の町だった。目下「星の都」というキャッチフレーズで売りだし中である。この町で安倍晴明が星の観測を行っていたという伝説があることにちなんで、大撫山の上に天文台公園も築かれた。この町では古くから8月18日と21日に、それぞれおもしろい風流踊りも行われてきた。風流踊りというのはお盆の祭りのこと。みんな異様なかっこうをして精霊迎えの踊りをおどる。霊とヒトとが交わる空間ができあがるのだ。

 

・多くの氏族が割拠した播磨に、印南郡というところがある。今はこの郡名は消滅しているが、岸と呼ばれる村に蘆屋族の領地があった。蘆屋道満は、この土地で誕生したお坊さん系―—つまり民間の陰陽師ということになっている。

 蘆屋という名からも明らかなように、この一族はもともと摂津国(今の兵庫)の蘆屋に根を張った人びとだった。わたしたちが「芦屋」といっている高級住宅地が、それである。蘆屋氏は、そのルーツを大陸に発する。つまり帰化人である。その分派が播磨にはいり、印南の岸村に落ちついた。景明寺という名の大きな寺を建て、ここを大陸系文化のセンターとした。蘆屋道満陰陽道は、景明寺に伝えられる学統にしたがっている。

 

藤原道長呪殺計画>

・おもしろいことに、播磨の印南には、智徳法師や道満が当然のように出てくる下地がある。それは、異国の超人“法道仙人”についての伝承があるからだ。この仙人は中国の霊鷲山で金剛摩尼法を修した人だった。日本でいえば修験道の開祖、役小角のような超人だったろう。ものすごい超能力者であるから、多聞天(毘沙門さま)や牛頭天王天皇祇園さん)のような「異国の神」とも仲がよかった。布施をあつめる宝鉢を飛ばして、あっという間に供物を手に入れるという「特技」まであった。ブーメランのような魔法の鉢だ。

 

・法道仙人は朝鮮半島から海をわたって日本に渡来し、聖なる土地、印南の法華山に住みついた。当時の半島では中国から伝わった陰陽学が盛んに学ばれていた。だから法道仙人がこの術をマスターしていたのも当然といってよい。その証拠に、法道仙人は陰陽道の得意わざの一つである長寿法や死人蘇生術を発揮している。

 

・このことから、播磨は法道という仙人によって多聞天牛頭天王明星天子の信仰――つまり星の信仰を受けいれたと考えられる。なぜなら、多聞天こと毘沙門は北極星と北斗を神格化した妙見様と同一の神だといわれており、牛頭天王祇園信仰につながる北極星の王といわれ、さらに明星天子は文字通り金星の神だからなのだ。そこで、星とくれば、もちろん密教系の陰陽道にふかく結びつかざるをえなくなる。とりわけ中国で密教の柱にされたインド占星術(すなわち宿曜道)とのかかわりを想定しておかなければいけない。

 とにかく、播磨の大陰陽師たる蘆屋道満は、法道仙人によく似た智徳法師のもとで陰陽道を修得していった

 

・それによると、道満は青年になるのと同時に式神を使役できるようになり、平荘村の境にあった古墳の玄室に式神を連れていって、そこで深夜、陰陽道の秘術を身につけたという。

 

<晴明VS.道満の死闘>

・道満が追放された先は、いったいどこであったか。播磨の人物史にくわしい『峯相記』によれば、それは作用であった。道満は作用の地で捲土重来を誓い、新たな陰陽師集団をつくりあげた。そして、堀川左大臣に依頼されたにもかかわらず完遂できなかった道長呪殺に、ふたたび取りかかった。

 

道満は播磨印南郡蘆屋の里の村主「清太」という人物の後胤とされている清太は天文の術を学びたいと思っていた。すると神の導きか、大陸から渡ってきた法道仙人と出会い、天文・地理、易暦を学ぶことができるようになった。清太が、法道仙人から授かった書典を、一家の宝物として代々引き継がせたところ、末裔にあたる道満という子孫がこれに親しむようになり、ついに家伝の陰陽道をマスターした。

 

白狐の生んだ安倍童子

・こうして母と別れた安倍童子は十歳に成長することとなった。ときに天暦8年6月、堺住吉の祭礼の折ともなり、浜辺はことのほかにぎやかであった。そこに子ども集まりて、浜に上がった亀をなぶり殺しにしようとしていた。安倍童子が通りかかると、亀は黄色い涙をこぼし、手を合わせて命乞いをしている。童子は助けるために、着ていた衣を子どもに与えた。

 海で遊びながら船祭を見ようとしていると、一艘の船が近づいてきた。翁があらわれ、乗れという。童子が乗りこむと、船は沖に出て、ついに龍宮城に至った。龍宮で歓待された安倍童子は、一夜明けて帰りがけに龍仙の丸という2粒の青い玉をもらった。これを耳にいれると烏語が理解できる。また四寸四方の筥(はこ)も賜わり、「中には汝の齢を封じてあるから開けてはならぬ。開ければ災難がある」と警告された。竜宮の1日は地上の9年にあたるのであった。

 

奇怪な物語が差し示すもの

・さて、安倍童子が龍宮から帰ってみると、堺の浜も阿倍野もすっかり様子が変わっていた。安倍童子は堺の浜で入水したという噂になっていた。父の保名も老人になっている。義母の葛子は継母ゆえの手ぬかりと悔い悲しみ、病死した。祖父の保憲も娘のあとを追うように亡くなっていたのである。

 童子が龍宮にいるあいだ、都にも変事が発生していた。内裏が焼けおちたのである。新しく造成した宮殿に天皇がはいられたところ、後涼殿から震動が生じ、静まらなくなった。播磨国印南の郷に住む天文学者蘆屋道満という乱髪の僧が、この震動を鎮めようとしているのだった。もしも道満がその業に成功すれば、天文の学を得た安倍保名は一生日蔭者になるほかはない。

 父の悲しみを知った童子は、龍宮でもらった龍仙の丸を頼みとして、道満と対決する、と父に打ちあけた。

 烏語を理解できる青玉は、すぐに威力を発揮した。童子は、熊野へ飛んでゆくカラス2羽から、今回の震動は菅原道真公の祟りゆえ、後涼殿の乾の角の柱の下にいる青色の蛇と大蛙を掘りだして、鴨河へ流すことだ、と教えられた。

 かくて怪事を鎮めた安倍童子は「龍宮童子」という名で都の評判となった。

 

童子は安倍保名の長子と名のり、みごと菅原道真の怪異をおさめたことから、朝廷に用いられて名を安倍晴明に変えた。道満を弟子にし、自らは漢土へ修行に出た。雍州の城刑山にいる白道仙人について天文陰陽を学ぶこととなった。

 

安倍晴明は帰国したが、女犯、飲酒、争論の3つを自らに禁じ、他の貴族と一線を画した。しかし道満をひいきにする橘元方の強いすすめで神酒を口にしてしまい、帰宅途中に暗殺されてしまった。

 弟子の晴明が殺されたことを、文殊堂が焼けたことによって知らされた白道仙人は、泰山府君の法をたずさえて日本に飛来した。一条小橋の墓から晴明の屍骸を引きだし、白骨を集めて府君の法により蘇生させることに成功した。謀殺をくわだてた道満も殺されることとなった。

 ところがまた、道満の死を聞いてすぐに飛来してきたのは、師の法道仙人であった。白道と法道は談合し、道満と晴明ともども許しを与えて蘇生させ、2人して禁中を守護させることで決着した。

 

なんと奇々怪々な物語だろうか。まさに晴明伝説のゴッタ煮だ。安倍仲麻呂吉備真備、保名に賀茂保憲、そして法道仙人に白道仙人(他の文献では伯道上人になっていた)。文殊菩薩菅原道真。そして浦島太郎のごとき安倍晴明蘆屋道満。全キャラクターが登場しはするものの、複雑な関係を織りなして、話をまことにややこしくしている。が、明白なのは、安倍晴明が安倍家の血筋とされ、その所領だった阿倍野に結びつけられた点である。これで、なぜ阿倍野と晴明が結びつくのか、の主たる理由がわかってきた。

 物語には、阿倍野はかつて秦氏の名を天下にとどろかした秦河勝も住んだ、四天王寺の楽人(伶人ともいう)の居住地だったと記されている。河勝は秦氏の祖で、平安京の制定に力があった。織物や染色業の技能をもつ一族だったともいわれ、伏見稲荷賀茂社糺の森も、元来は秦河勝に関係のふかい社であった。書くまでもないが、秦氏は渡来人である。つまり阿倍野は楽人の多い外国人の土地だった。晴明も外国人の子だった可能性を示している。

 

広峯神社陰陽師のルーツか?

・ここでまた関西へ目を向け、播磨の広峯神社に注目したい。本書でも何度か触れたように、陰陽道はいくつかのルートを通って日本に根づいた。このうち官制の陰陽道は大陸から伝来したと正史にはっきり書いてある。つまり先生が外国からきた。外来説といってもいい。

 しかし一方では、安倍仲麻呂吉備真備、また外国へ出たことすらなかった安倍晴明までが大陸へ渡って、陰陽道を学び日本に持ち帰ったとする伝承も根づよい。こちらは留学説といってもいいだろう。

 

その吉備真備が播磨に建立した広峯神社は、陰陽道のルーツの一つを知る上でとても貴重なスポットといえる。

 

・いつ創建された神社かハッキリしないが、そうとうに古い歴史をもち、神功皇后三韓へ出兵するときにここにスサノオノミコトをまつり、勝利を祈願したという。もっとも、古くは祠の位置が現在の白幣山(広峯山のさらに奥にある)にあって、スサノオノミコトを祀る祠としては神功皇后と無関係に存在していた可能性もある。というのは、ここに朝鮮半島からの渡来人がたくさん住みつき、白国太神と呼ばれていたからだ。シラクニは新羅国のことで、もと広峯山一帯の地名になっていた。またスサノオ新羅の神だった。『日本書紀』によるとスサノオノミコトは日本へやってくる前にまず新羅の国に降臨し、曾尸茂利(そしもり)という村に居をかまえたという。ソシモリとは当時の朝鮮のことばで「牛頭」を意味する。このソシモリ=牛頭という名が重要で、インドから中国に伝わった祇園精舎の守護神「牛頭天王」を指したものと考えられる。

 

 

・晴明が神となった理由は、こうである。稲荷大神の分霊であることに加え、多大な偉業があったにもかかわらず、位階が低かったのを天皇が気の毒がられ、晴明を神に格上げした、と。しかし、この話は後世の付会といえる部分がある。とくに、稲荷の分霊だとした発想は中世以後のことにちがいない。むしろ、晴明が何らかの理由で「祟り神」として恐れられたために、没後早やばやと神に祀られた可能性だってある。

 おそらく、晴明と稲荷が統合したのは、かれらの“流行神”としての共通性格にかかわっていたのだろう。記紀に語られるようなメジャーな神でなく、ふとしたことで「神」に、まつりあげられたものは、実は「神」ではなく、荒ぶる霊魂のことである。霊魂だから、パワーは強くて、願いを叶えてくれる代わり、神というより人間に近いから、裏切ると復讐される。こういうパワフルな霊魂は、とにかく稲荷という名の神にしてしまうのが、いちばん手っとり早く、確実な鎮魂方法だった。晴明も早くから「稲荷」にされたらしい事実は、秀吉の聚楽第を描いた地図に、この神社が「晴明稲荷」と記入されていることからも明らかだろう。

 

“祟り神”としての稲荷信仰

・実は、稲荷信仰は、安倍晴明のブームよりもさらに謎めいた現象だといわれている。このお稲荷さん、神々の系統からいえば、それこそ晴明神と同様に、元来は吹けば飛ぶようなマイナーな神であった天皇家に連なる神でもなければ、純粋に日本で誕生した神でもなかった。定説によれば、平安京を築くときに功績のあった秦氏氏神なのである。秦氏は秦始皇帝の子孫を名のる渡来人だった。秦氏氏神をいくつも所有しており、稲荷は松尾神社蚕の社などと並列される存在にすぎなかった。

「こういうマイナーな神社が、日本でベスト7にはいる有力な存在になれた理由は、2つしかありません。第1に、平安京に近かったこと。第2に、祟り神だったことでしょう」

 

・「全国各地に3万以上も稲荷はございますが、ほとんどは屋敷神や氏神として祀られたもので、この伏見稲荷から正式に分霊・勧請したという記録は滅多にないのです。つまり、自然発生的に生まれた神に、稲荷の名をつけたのだろうと思います。また、稲荷にキツネが結びついた事情も、さっぱりわかりません。こちらが伺いたいくらいでして」

 

常世から来たる神

・白色といえば、弘法大師空海の時代に中国から招来した荼枳尼天もまた、白い色をしたキツネの神だった。白辰狐王菩薩と呼ばれたことさえある。この魔神は幻力をふるい、墓所に集まって酒池肉林の宴をひらき、放縦なセックスを謳歌するという、鬼女である。神が取り上げないみだらな願いや欲望を叶える外法の祭神であった。だからみんながこの魔神に怪しげな願をかけた。前田夏蔭の『稲荷神社考』によると、荼枳尼とは、夜叉や魔多羅神羅人類と同じような使役神のことで、それを使う人によって善神にもなれば悪神にもなるという美濃国に「瞰食人心(かんじきにんしん)」という荼枳尼天を使って邪術をふるい、民を病気にさせたり狂わせたりする賊がいた。これは悪神となった例で、東寺に祀られた荼枳尼のほうは善神の例といえる。

 

さらに稲荷にはふしぎな要素がある。稲の神のくせに、漁民や海上の民に圧倒的に崇敬されていることである。おどろくべきことに、信太森の葛葉稲荷も、その本社である山上の聖神社も、かつては大阪の漁師たちに崇敬されていた。漁場から見ると、聖神社の千木が光ってみえたといい、山立て(方位測定)に用いられる目印だったと思われる。稲荷では夜じゅう火を焚き、沖を行く船の目印にしたという。

 この場合の稲荷は、あの世から海を渡ってやってくる常世の神である。沖縄に伝わるニライカナイの神のような、海のかなたから稲を運んできた神が、ほんとうは稲荷の原形だったらしいのだ。

 

そういうことになると、たぶん伏見稲荷にだって、海の神の要素が見られるにちがいない。というのも、漁を守り船を守る神は多くの場合、幸をもたらす福神となるからである。熊野詣での安全を保障する護法も、伏見稲荷とのかかわりでいうなら、旅=船の旅の守護神だったと考えれば、つながりがつく。

 

 

このように、稲荷は相当に不可解な、正体のわからない神霊なのである。神というときの、清らかで澄みわたったイメージではなく、なまなましい呪力に富んだ精霊あるいは妖魔のイメージが、稲荷にはふさわしい。当然、土着と外来の秘術が合体した陰陽道に対しても、稲荷は何か強力な絆を結んでいる可能性が高い。

 

大阪・交野の星の神社へ

・星は、書くまでもなく陰陽道の主軸であるが、それだけではない。伏見稲荷のまわりを巡ったところ、とんでもない大発見にぶつかってしまった。伏見稲荷から大阪・枚方のほうへ向かう街道筋には、星にかかわりのある神社が、それこそ目白押しに並んでいたのである!

 伏見から交野へ出たところに「星田地区」というのがある。ここに、空海ゆかりの星田妙見宮がある。

 

伏見稲荷から京阪電車に乗ればすぐに行けるので、さっそく星田へ行ってみた。行ってみてわかったことは、このあたり一帯もまた秦氏の所領だったという事実なのだ。秦氏と星がまた、ここでつながっている!

 

・ついでに、妙見という名だが、こちらは天台宗から日蓮宋まで、多くの仏僧にも信仰された妙見菩薩のことだ。北極星と北斗七星の化身ともいわれる。この巨大な霊石は、同じく交野市の私市にある磐船神社の「磐船」をも思いださせる。磐船神社にあるさらに巨大な岩は、ニギハヤヒノミコトを乗せて天を行き来した「天磐船(あまのいわふね)」だといわれる。

 

物部氏陰陽師の本拠地・播磨、丹波、そして石見を所領した氏族であるから、星を信仰していたのだろう。この物部氏は仏教の布教をめぐって蘇我氏に対立し、滅ぼされた。おそらくは出雲系の神道か、あるいは蘇我氏が支援した百済系とは異なる仏教や道教を導入していたのだろう。その一部には当然、陰陽道的な信仰や占術テクノロジーも含まれていたにちがいない。

 そしてさらに交野市倉治には秦氏氏神社の一つだったと思われる機物神社がある。機物すなわち織物は、秦氏の家芸なのだ。もちろん、機織には星がつきものであろう。天棚機比売(あまのたなばたひめ)大神を祀り、これも七夕の星祭りと陰陽道にかかわっている。

 

 

 

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より引用。

(道摩法師)

道摩法師(どうまほうし)は、平安時代の呪術師、官人の陰陽師。生没年不詳。一般的には、蘆屋道満あるいは芦屋道満として知られるが、活躍したとされる時代の文献ではその名が不詳であることから、現代では架空の存在であることが明らかとなっている

 

江戸時代の地誌『播磨鑑』によると播磨国岸村(現兵庫県加古川市西神吉町岸)の出身とある。また播磨国の民間陰陽師集団出身とも伝えられている。

 

江戸時代までの文献では、ほとんどにおいて安倍晴明のライバルとして登場し、「正義の晴明」に対して「悪の道満」という扱いをされる安倍晴明が伝説化されるのと軌を一にして、道満の伝説も拡散し、日本各地に「蘆屋塚」「道満塚」「道満井」の類が数多く残っている。

 

 

安倍晴明

安倍 晴明(あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら、延喜21年1月11日[1]〈921年2月21日〉 - 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉)は、平安時代陰陽師「晴明」を「せいめい」と読むのは有職読みであり、本来の読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。官位は従四位下・播磨守。

 

 

 

陰陽師(おんみょうじ)』  安倍晴明蘆屋道満

繁田信一       中公新書 2006/4

 

 

 

安倍晴明蘆屋道満

<英雄の誕生>

<「道の傑出者」「陰陽の達者」>

安倍晴明という陰陽師は、その活躍を直接に知る平安時代中期の貴族層の人々にとって、「道の傑出者」であり、「陰陽の達者」であった。

 

<名人から英雄へ>

安倍晴明が他界してから百年ほど後に編纂された『今昔物語集』に登場する清明は、幼い頃より鬼を見ることができた天才的な陰陽師であり、呪術によって二人の人間の生命を交換することさえあった。そして、そんな清明に術比べを挑んだ法師陰陽師は、手も足も出ずに最後は泣く泣く許しを請う始末であったという。だが、この清明は、いまだ単なる名人でしかない。『今昔物語集』の清明には、特に英雄らしい活躍は見られないのである。

 

・しかし、その死から二百年余年の後に編まれた『古箏談』や『宇治拾遺物語』に登場する安倍晴明は、確かに、朝廷を守護する英雄としての役割を果たしている。すなわち、『古事談』『宇治拾遺物語』の清明は、朝廷の事実上の最高権力者である藤原道長を呪詛の危機から救い、かつ、その呪詛を行った法師陰陽師を追い詰めるのである。ここでの清明は、まさに朝廷=道長を守護する英雄であった。また、『古箏談』の清明は、花山天皇を苦しめる不治の頭痛を鎮めることでも、朝廷=天皇を守護する英雄の役割を果たしている。

 

・また、江戸時代初期に刊行された『安倍晴明物語』は、安倍晴明を神の落胤とする。同書が清明の母親として伝えるのは、よく知られた信太の森の狐である。が、その狐の正体というのは、信太の森に鎮座する信太明神に他ならなかった。

 かくして、安倍晴明という陰陽師は、その死から六百余年後の伝承の世界において、半神半人の超人として語られる身となり、ギリシア神話的な英雄になっていたのであった。

 

安倍晴明を超える名人

・この一件が明らかにしてくれるのは、安倍晴明が没してから三十年と経たない頃の貴族社会には「当朝は保憲を以て陰陽の基摸と為す」という風潮が強かったということである。そして、それは、当時の遺族社会において、賀茂保憲安倍晴明を上回る名人として位置付けられていたことを意味していよう。

 ところが、その賀茂保憲が伝承の世界において英雄としての位置付けを得ることはなかった。もちろん、保憲も死後には伝承の世界の一員となっている。『今昔物語集』などは、言を尽くして彼がいかに優秀な陰陽師であったかを語ってくれている。しかし、それでもなお、『今昔物語集』の保憲は、単なる名人でしかないのである。

 

<保憲流賀茂氏と晴明流安倍氏

・ここに明らかなように、平安中期終盤の貴族社会が最も権威を認めた陰陽師の家系は、晴明流安倍氏ではなく、保憲流賀茂氏であった。『新猿楽記』において陰陽師の理想像を描いた明衡は、その架空の陰陽師を権威付けるのに最もふさわしい家系として、晴明流安倍氏ではなく、保憲流賀茂氏を選んだのである。

 

・周知のごとく、安倍晴明の家系は、平安中期以降、賀茂保憲の家系とともに、「陰陽道宗家」とでも呼ばれるべき立場を占めるようになった。つまり、保憲と晴明との活躍があって後、陰陽師の家系としての権威は、保憲流賀茂氏と晴明流安倍氏とによって独占されることとなったのである。しかし、賀茂道世の例に明らかなごとく、平安貴族の見るところ、その権威において、晴明流安倍氏は保憲流賀茂氏よりも劣っていたのであった。

 

・そして、平安貴族が保憲流賀茂氏の権威を晴明流安倍氏のそれよりも高く見たのは、おそらく、保憲と清明との間に師弟の関係があったためであろう。すなわち、保憲は晴明の師であり、清明は保憲の弟子だったのである。だからこそ、平親信の『親信卿記』に見えるごとく、天延二年(974)の五月十四日、保憲が堂舎建立の適地を選ぶ卜占のために比叡山に登った折、清明は「小姓」の一人として保憲に付き従ったのであった。

 だが、こうした現実の世界とは裏腹に、後世、伝承の世界において名人から英雄の成長を遂げたのは、安倍晴明であって、賀茂保憲ではなかったのである。

 

創出された英雄

・そうはいっても、賀茂保憲が英雄にならなかったのは、その必要がなかったからなのではないだろうか。

 賀茂保憲という陰陽師は、後世の貴族社会の人々にとって、陰陽師の規範とされるべき存在であった。先に見たごとく、「当朝は保憲を以て陰陽の其模と為す」というのが、平安時代中期以降の貴族社会における共通認識だったのである。つまり、保憲の場合、わざわざ英雄などにならずとも、すでに陰陽師として最高の権威を認められていたのであった。

 

・ただし、こうして英雄に祀り上げられた安倍晴明は、やがて、その祀り上げを企図した晴明流安倍氏の思惑をも超えるかたちで、伝承の世界において一人歩きするようになる。すなわち、名人であることを越えて英雄になった清明は、室町時代中期までには「化生の者」となり、江戸時代初期までには半神半人となったのである。こうして、伝承の中の安倍晴明は、人間であることをも超越したのであった。

 

<悪役の誕生>

悪逆非道の法師陰陽師

・伝承の世界の安倍晴明は、朝廷を守護する英雄の地位を確立した後、ついには自己の死すらも克服してしまう。彼を半神半人の英雄とする『安倍晴明物語』には、その死と再生とまでもが描かれるのである。

 

安倍晴明物語』では、蘆屋道満という法師陰陽師安倍晴明に弟子入りする。その道満法師は、播磨国印南郡出身の優れた陰陽師であったが、あるとき、晴明に術比べを挑んで徹底的に打ち負かされてしまい、それを機に晴明の弟子となったという。

 

<●●インターネット情報から●●>

 

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より

蘇民将来

蘇民将来(そみんしょうらい、蘇民將來)とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない。なお、岩手県南部では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。

 

<●●インターネット情報から●●>

 

聖神社

(伝説 )

 昔、摂津の国住吉の里に、阿倍保名(やすな)という人があった。妻は葛葉姫(くずはのひめ)といったが身体が弱く、たびたび里に帰って養生していた。保名は日夜心を悩まし、神の助けによって一日も早く妻の全快と俊児を授けられんことを、当時最も信仰者の多かった信太明神(聖神杜)に祈願し、三十七日間おこもりをし、白玉を得、斉戒沐浴して池の堤に立っていた。すると水面に白狐がうつり、不思議に思って後ろを見ると一匹のねずみ(実は傷ついた白狐)が走ってきたので、このねずみを袖にかくまい、しばらくして山中に逃がしてやった(聖神杜境内には、この伝承に由来するねずみ坂と鏡池ー現在は神杜の所有ではないーが残っている)。

 保名は満願の夜、疲れて社殿でいねむりをしていると、冠をかぶった白髪の老人が夢にあらわれて、「汝の日頃の信仰はほとんど寝食を忘れるほど誠意であり、願いは必ず成就する。妻の病気は全快し、俊児も近々賜るる、すこと憂うることはない」とお告げがあつた。保名は神心肝に銘じ、なおも深く祈願をこめて家に帰ったが、翌日の夕方に妻は元気な様子で帰ってきた。保名は本当に信太大明神のお告げどおりだと、たいへん喜んで妻を迎えた。それからというものは楽しく日力を過ごし、妻はまもなく懐妊し・月満ちて男児が生まれた。夫婦の喜びはひとしおで、掌中の珠として愛育した。

 百余日を経たある夜、家中が光り輝き、驚いて眺めていると、妻は白狐神となって「我こそは信太大明神と議(はか)り仮に汝の妻となり願いの如く俊児を授けたる。今は神のおぼしめし告げる時が来て帰らねばならない。大切に育てるべし」と告げるやいなやいずこかへ消え失せた。保名はありがたさにむせぶうちに夜が明け、雨戸を開いて障子を見ると、文字が書き付けてあった。これが世に知られる「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の和歌である。その後、本当の妻も病気が治り帰つて来て、二人でその子を大切に育てた。この子が非凡の天機を発揮し、成長ののちには陰陽博士として天下にその名を知られた安倍晴明であるという。

 

 

 

『失われた日本ユダヤ王国「大邪馬台国」の謎』

飛鳥昭雄・三神たける  学研   2011/1/12

 

 

 

物部氏の正体は何者であるのか>

多次元同時存在の法則

・実際、縄文人だという人あれば、典型的な弥生人だという人あり、邪馬台国の王族であったという人あらば、いや邪馬台国を征服した勢力であるという人あり、渡来人だという人、さらには騎馬民族だという人、実にさまざまな説が、それこそ百家争鳴状態となっている。名のある学者の方々の論文さえ、邪馬台国論争以上に諸説入り乱れているのだ。

 日ユ同祖論というジャンルにおいても、そうだ古代イスラエル人の日本渡来という視点から見ても、物部氏がいったい失われたイスラエル10支族なのか、秦氏と同じユダヤ人原始キリスト教徒なのか、それともまったく違う経路でやってきたイスラエル人なのか、説得力のある説に出会ったことは一度もない。言葉は悪いが、みな肝心なところでごまかしているか、そもそもまったくわかっていないのだ。

 

<秘密組織「八咫烏」>

・いわば天皇家の守護神ともいうべき八咫烏の名を秘密組織は冠する。組織のメンバーは、みな「陰陽師」である。昨今の安倍晴明ブームで知られるようになった「陰陽道」は古代日本の呪術的宗教である。七五三や節句などの神道祭礼の根幹をなす思想であり、日本文化の隅々にまで影響を与えているといっても過言ではない。

 だが、森羅万象、すべては陰と陽から成るように、陰陽道にも表と裏がある。まさに八咫烏は裏の陰陽師であり、日本の神道を仕切っている。闇夜の鳥のごとく、彼らは静寂に潜み、歴史を裏で動かしてきた。

 八咫烏を名乗る構成員はわかっているだけで、約70人。周辺には伝令役ともいうべき「烏天狗」が控え、上層部には12人から成る組織があり、彼らは「大烏」と呼ばれる。さらに大烏の上位3人、すなわち「三羽烏」は特別に「金鵄」という称号をもつ。

 実は、この金鵄こそ、密かに古神道の世界で噂されてきた「裏天皇」にほかならない。3人でひとりの裏天皇として、彼らは表の天皇ができない儀式一切を執り行っている。長い歴史のなかで、さまざまな困難が天皇家には降りかかった。戦乱や南北朝といった混乱期にあっても、八咫烏は連綿と秘儀を執行してきたのである。

 当然ながら、八咫烏に近づくことは危険を伴う。

 

古代豪族「物部氏

物部氏である。古代日本の謎をさぐるうえで避けることができない豪族にして、古代天皇外戚。その権力と権威は日本史上最大にして最高を誇った。

 

物部氏の祖神「ニギハヤヒ命」>

物部氏の祖先は「ニギハヤヒ命」という神様である。

 

名前の頭に「天照」とあるように、ニギハヤヒ命は太陽神である。天皇家の祖神、つまり皇祖神である「天照大神」が女神であるのに対して、ニギハヤヒ命は男神である興味深いことに、『古事記』や『日本書紀』には、太陽神がふたり登場するのである。神道では八百万の神々を拝むとはいうものの、山や海、川、草木とは違い、太陽はひとつ。天空に輝くひとつの太陽を神格化した存在がふたり、まったく別の神々として存在するのは、どう考えても変である。

 

・奇妙といえば、神社の名前もそうである。奈良時代以前にまで遡る神社のうち、その名に「天照」を冠した神社の主催神は、いずれも女神、天照大神ではない。

 

・これはいったい何を意味しているのか。考えられることは、ひとつしかない。もともと神道における太陽神は、物部氏が祖神として崇める天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命、つまりニギハヤヒ命だった。

 

・しかし、大王として君臨することはなかったものの、物部氏の勢力は強大だった。大和朝廷も、最後までニギハヤヒ命を抹殺することはできなかった。物部氏が祀る神社が冠する「天照」を黙認したのも、彼らが神道祭祀を担い、神秘的な呪術を行っていたからにほかならない。

 

ニギハヤヒ命の物部王国「日本」>

記紀神話によると、皇祖・天照大神の孫、すなわち天孫「ニニギ命」は高天ヶ原から多くの神々を引き連れて、九州の高千穂に降臨する。

 

・世にいう「神武東征」の出陣、いざ出発という段階で、神武天皇は「塩土翁」という神からひょんなことを聞く。なんでも、すでに幾内には「天磐船」に乗って、ひと足早く降臨した神がいるというのだ。

 

・同じ天孫族といえども、外からやってきた神武天皇にとって、被征服民である物部氏の女を皇后にすることは、物部王国の民を懐柔することでもあり、ふたつの国がひとつになるための重要な戦略だったのだ。それほどまでに、物部氏天皇家にとって重要な存在だったのである。

 ちなみに、初代神武天皇から第9代開化天皇までは、皇居を大和の西側に置いたことから「葛城王朝」と呼ぶこともある。いうなれば、葛城王朝は天皇家と合体した後期・物部王国として位置づけることができるだろう。

 

崇神としての大物主命>

・古代天皇の性格がガラリと変わるのが第10代「崇神天皇」からである。初代神武天皇のエピソードがあまりにも神話的であること、それに続く第2~9代の記述が極端に少なく、通称「欠史八代」と呼ばれることから、これらの天皇はすべて実在しない架空の存在だと考える学者も少なくない。

 実際のところ、神武天皇の諡「ハツクニシラススメラミコト」とまったく同じ読み方をする諡が崇神天皇にはある。そのため、崇神天皇こそ、実在する最初の天皇だとする学説もある。

 もし仮に、葛城王朝が幻だとした場合、物部氏の立場はどうなのか。これを如実に物語るエピソードが崇神天皇の時代に起こっている。すなわち、突如、国中に疫病が流行したのである。民が次々と死に、国中が大混乱に陥った。

日本書紀』では巫女に神託を伺わせ、一方の『古事記』では崇神天皇王が自身が夢の中でお告げを聞くのだが、「いずれにしても原因は祟りであった。三輪山大物主神が怒っているという。なんでも、大物主神の子孫である「大田田根子」なる男を捜して、彼に御魂を祀らせるならば怒りも収まり、疫病も鎮まるのだ。

 神意を知った崇神天皇は、すぐさま大田田根子を見つけだし、お告げのとおりに大物主神を祀らせたところ、確かに疫病の流行はやんだとある。

 さて、注目は大物主神である。先述したように、大物主神とはニギハヤヒ命の別名にほかならない。

 

蘇我氏との確執と崇仏論争

・当時の様子を記した『日本書紀』によると、百済の聖名王から贈られた美しい仏像を見ていたく感動した欽明天皇が、これを拝したいが、いかがなものかと群臣に問うた際、積極的推進派の「蘇我氏」を率いる蘇我稲目は西方の諸国が仏教を信仰していることを理由に、日本もこれにならうべきであると主張した。

 だが、この事態に猛反発したのが物部氏である。神道を第一と考える物部氏を率いる物部尾輿は、同じく神道の祭祀を執り行う「中臣氏」を率いる中臣鎌子とともに、外来宗教である仏教排斥を主張。

 

聖徳太子物部氏失脚>

・587年、かくして仏教導入の是非という大義名分のもと、物部氏蘇我氏の戦争、すなわち世にいう「丁未の役」が勃発。激しい戦いの末、蘇我氏の軍勢を率いる弱冠14歳の聖徳太子の前に物部守屋は壮絶な死を遂げる。大将の討ち死によって総崩れとなった物部氏の軍勢は、そのまま敗走。ここにおいて仏教導入が決定的となった。

 戦いの英雄、聖徳太子推古天皇摂政となり、国策で仏教の布教を推奨。

 

・一方、敗れた物部氏の勢力は縮小。天皇家外戚としての地位は完全に蘇我氏に取って代わられ、権力の座からことごとく退けられていく。仏教の隆盛は、そのまま物部氏の衰退を意味していたといっていいだろう。

 

藤原氏による物部氏封印>

・宿敵であった物部氏を退け、念願の仏教導入を国家公認とした今、蘇我氏にとってもはや恐れるものは何もない。天皇家外戚として蘇我馬子は政治を裏で操り、摂政となった甥の聖徳太子とともに、蘇我王朝ともいうべき体制を築きあげた。

 しかし、蘇我氏の栄華は長くは続かなかった。蘇我馬子の子「蘇我蝦夷」と孫である「蘇我入鹿」の代になると、東アジアの国際情勢が騒がしくなり、これを受けて日本もまた、国防を含めて新たな政治体制を作る必要性に迫られる。こうした状況下にあって、645年、ついに事件が起こる。

 天皇の御前で、蘇我蝦夷蘇我入鹿が暗殺されたのである。

 

その一方で、藤原不比等記紀編纂にあたって、古代からの系譜や歴史を記した古文書を石上神宮大神神社から没収し、事実上、物部氏の歴史を闇に葬った。