日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!

ボルマンはベラスコとともに、マドリードから車で数時間のイベリア半島北西部ビスケー湾の寒村まで隠密裏に陸路を走り抜け、深夜寒村の沖合に待機させたUボート潜水艦に乗艦、南米アルゼンチンのラプラタ河口付近に無事辿り着いている。(1)

 

天皇の金塊』

高橋五郎  学習研究社   2008/5

 

 

 

スパイ“ベラスコ”が南米に逃亡させたボルマンとアイヒマン

フィリピンの宗主国はスペインだが、カトリックスペイン語が支配する諸国を縦横無尽に動き回った第2次大戦のスパイが私の義父を自称するベラスコだ。

 

ユダヤ系スペイン人のアンヘル・アルカッサル・デ・ベラスコ(1909-2002)は日本海軍が真珠湾を攻撃した2週間後から日本政府の要請でスパイ活動に臨んだナチス諜報機関員だ。彼の経歴は、日本のテレビ番組や私の著書でたびたび紹介してきたが、詳しくは拙著『スパイ“ベラスコ”が見た広島原爆の正体』(学習研究社)をご覧いただきたい。

 

・ベラスコ家で談義する私の席はいつも決まっていた。10畳間ほどの小部屋に置かれたソファ(長椅子)がその定席だ。ソファを覆う濃い茶色のベルベッドの布地はあちこちが剥げている。使いこまれたソファの長さは2メートルほどあるからベッドがわりに使えた。ソファをよくよく使い込んでくれた人物は敗戦寸前にヒトラー総統の副官としてドイツ軍とSS親衛隊を統率指揮したマルティン・ボルマンとナチスの高官アドルフ・アイヒマンだったとベラスコ。

 

・両人はナチス・ドイツが敗北して終戦を迎える直前に姿を消した有名戦犯たちだ。欧州を脱出して南米に高跳びする直前まで、2人はそれぞれ時間差においてマドリードのベラスコ家に潜伏していたものだ。ソファをベッド代わりにして、よく使い込んでくれた2人だ。

 

ボルマンはベラスコとともに、マドリードから車で数時間のイベリア半島北西部ビスケー湾の寒村まで隠密裏に陸路を走り抜け、深夜寒村の沖合に待機させたUボート潜水艦に乗艦、南米アルゼンチンのラプラタ河口付近に無事辿り着いているアイヒマンはベラスコの車に隠れて、マドリード郊外のバハラス国際空港から単身南米に逃亡している。ベラスコ家の私の定席ソファは逃亡者の2人に“酷使”されすぎていた。

いつもソファに横になっていました。静かなお2人でした」。

 ベラスコ家に寄宿した2人を世話したベラスコの細君コンチータは私に笑顔でそう語ったものだった。

 

南米はスパイ・ベラスコの根拠地、いわばホーム・グラウンドだったカトリック教徒がスペイン語で暮らすアルゼンチンはベラスコが幅を利かした国で、ナチス亡命者が競って逃亡先に選んだ国だった。ボルマンとアイヒマンはベラスコのアルゼンチン・チャンネルで安全に逃避できた。この国のファシスト独裁者ファン・ドミンゴ・ペロンは、かつてはイタリアのムッソリーニ崇拝者で、ベラスコの南米スパイ網に所属した日本のための(ベラスコ談)スパイの1人だった。

 

・ペロンはベラスコに可愛がられたが、ドイツ敗戦直前の1945年3月27日に連合国側に寝返った。「私が渡した工作資金を猫ばばして大統領に成りおった。許せん奴だ」。ペロンに対するベラスコのこんな恨み節はマドリードの“定席”でさんざん聞かされたものだった。ベラスコがペロンに渡したその秘密工作資金の出どころはナチスと日本政府だった。

 

・アルゼンチンはナチスが掠奪した金塊財宝類や美術骨董品類の集荷先の国だった。旅客機と貨物船、それに潜水船で1947年(昭和22年)までにアルゼンチンへ亡命する数万人の元ナチス党員を金塊財宝類の運搬手段にして物品を運び込んだものだ。

 ヒトラー政府はドイツ敗戦直前の45年頃、判明しているだけでもたとえば、1回あたり金塊2.5トン、世界通貨数千万ドル、4638カラット相当のダイヤモンド、宝石、美術絵画類をベルリンの国立銀行ライヒスバンクからアルゼンチンに疎開させていた。トータルの搬送回数と中身はおそらく永久に不明のままだろうが、ベルリンから脱出した金塊財宝類をアルゼンチンで荷受管理を担当したのがペロン夫妻だった。

 ペロンは終戦直前に連合国へ寝返ったが、その理由は、カネこそ主義思想に勝ると確信したためかもしれない。ペロンはライヒスバンクがアルゼンチンに避難させた金塊財宝類と絵画類を妻エビータとともに保管役を務めるかたわらで、亡命ナチス高官のためにアルゼンチンの8000冊のパスポートや1000冊を超える身分証明書をブエノスアイレスのドイツ大使館付き武官に渡していた。

 

・その見返りはナチスから与えられたカイロの高級住宅とスイス銀行の口座だった。スイス銀行のペロン口座に謝礼金が振り込まれ、口座名義人所有の高価な骨董品入り純銀製のその箱にはダビデの星が描かれていたことが知られている。その純銀製の箱がナチスによる強奪品ではなくて、連合軍からの贈り物であっても、それはどうでも良いことだというのがペロン夫妻だった。

 

交戦中もバチカンとスイスの銀行を通して呉越同舟

ベラスコはカトリックの総本山ローマ法王バチカンのためにも働いていたからバチカンもまたホーム・グラウンドの1つだった。ベラスコのバチカン談義はいつも熱を帯びたから私の定席は温まりつづけた。ベラスコが語ったバチカンシチリア・マフィアの関係は目を剥く話ばかりだった。バチカンとマフィアの関係をベラスコは私にこう話した。

物事には合法的に臨むべし、美徳を何よりも尊重すべし」。誰も反対できないこんな信念を世界に向けて謳う組織がバチカンだ。一方のシチリア・マフィアはその反対の行動を実践する組織だから分かり易かろう。ところが、双方は表裏一体の関係にある同一の組織なのだ。表向きには水と油、天国と地獄の対立関係に見える両組織だが、根本は強い絆で結ばれている。つまりコインの両面というわけだ。真面目で敬虔なカトリック信者にとっては、見たくも知りたくもないコインの裏面だが、語るベラスコの意図は社会には二重基準ダブル・スタンダード)があるという点にあった。

 確かに「世界の本音」がバチカンに潜むというベラスコの示唆は分かり易い。それにバチカンの密命で“暗躍”してきたスパイ・ベラスコのそんな発言を裏付ける事例は世間に多数ある。生真面目な市民や敬虔なクリスチャンを失望させるかもしれないが、道徳世界も非道徳世界もともにその組織を動かすのは人間だ。

 

イタリアでのベラスコの対話相手は表向きはムッソリーニ総統の娘婿チアーノ外相だった。ベラスコはスペインの日本公使館員で一等書記官の三浦文雄を伴ってローマを頻繁に訪れては、チアーノ外相と密談を交わした。だが、それは表面的な外交交渉の一場面であって、ベラスコはチアーノと会談の場に三浦を同席させなかった。三浦はサンピエトロ広場近くのホテルで孤独な暇を弄んだ。むろん時間潰しは外交官三浦の職務放棄というわけではない。

「真面目な三浦とは仲良しだった。いい奴だったよ」。

 ベラスコは過去の友人三浦との友情を繰り返し偲んでいた。大事な秘密は明かさないが、友情については声高に明かす。これが筋金入りのマフィア流のリップサービスを真似した発言例だ。日本の須磨公使と駐イタリア大使は担当外交官としてイタリア政府との公式交渉や会議の内容には精進していたはずだが、イタリア外相チアーノとベラスコの間の「日伊個別密談」つまり、ベラスコとバチカンとの間の会議内容についてベラスコは両大公使にチアーノとの密議内容も含めて明かさなかった。

 

・たとえば、昭和天皇は、真珠湾攻撃の直前に、バチカンの付属金融組合に4500万米ドルを寄贈して終戦のための調停を依頼していた。これは前述の作家たちが自著で明かした情報だが、私は1980年代初期にベラスコから聞いていた。

 たとえばイタリアの総統ムッソリーニの著書印税はスイスの銀行グレディスイスのチューリッヒ支店に開設されたムッソリーニの個人口座に振り込まれている。数百万部を売り上げたとされるヒトラー総統の著書『わが闘争』の莫大な印税も同様に戦時下のスイスユニオン銀行のベルン支店に設けたヒトラーの(代理人管理の)口座に順次支払われている。むろん戦前、戦中を通しての口座決済だ。

 

・そんなわけだから、戦時下にバチカンの金融管理銀行宛てに振り込まれた昭和天皇の資金4500万米ドル小切手も単なる資金移動の1つにすぎない。戦争が激しさを増そうが増すまいが、天皇の資金は終戦まで(終戦後も)連合国が支配管理するスイスの銀行に振り込まれ移動を繰り返していた。資金の銀行手続きは戦争とは無関係に続けられていたからだ。

 本書は175カ所のサイトに埋没して失われたはずの「金の百合」が、実際には日本経済を復興させる原資として「運用された」と書いた。

 なぜ地中に隠されて見えない金塊が“運用”できるのか。それは1枚の紙にしかるべき大銀行が金額を書き、その紙がさらに金融組織から承認を受ければ済むことだからだ。

 

カルビの“自殺”、ルチアーノ、チアーノ外相、CIAを繋ぐヒトラー金塊

マドリードの“定席”でベラスコが語ったチアーノ外相とのマネー密議は特に興味深いものだった。バチカンシチリア・マフィアの関係をマネー抜きで語るのはミルクコーヒーのミルク抜きを口にするようなものだが、バチカンが関与した金融事件が世間には明かされるのはマレだとベラスコ。煙は見えても火元が分かりずらいからだ。それでもバチカンを取り巻く資金と黒いマネー・ゲームを窺わせる煙はあとを絶たない。

 その象徴的事例としてニュースでも広く知られているのが以下の事例だ。戦後、バチカン金融管理銀行の資金10億米ドルを損失させた(と噂された)イタリア、アンプロシアーナ銀行頭取ロベルト・カルビがスーツ姿のまま、ロンドンのブラックイヤー橋で逆さ吊り状態で“自殺”した事件だ。

 カルビの銀行商売を背後で支援したのはシチリア・マフィアでドンの中のドンと呼ばれたラッキー・ルチアーノとアメリカの情報機関OSS(現在のCIA)だった。戦時、シチリア・マフィア、ルチアーノの協力で連合軍は、イタリア無傷上陸作戦に成功した。ヒトラー軍団を壊滅して終戦を決定づけた連合軍の勝因はシチリア・マフィアの絶大な支援にあった。

 

・連合軍側とマフィア側の仲介役を務めた人物の1人が連合軍の敵国イタリア外相チアーノだった。もう1人の陰の人物はイタリアの公爵ボルゲーゼ。彼はシチリア・マフィアの隠れ銀行、イタリアのウニヴェルサル銀行の経営も手掛けていた。ボルゲーゼ公は戦後、CIAの協力者としてバチカン顧問に就任する。

 チアーノは連合軍に協力したことで莫大な袖の下をOSSのビル・ドノバンたちから受け取ったが、連合軍の情報機関OSSはチアーノ外相の軽口から秘密が漏れるのを恐れて戦犯として処刑した。OSSドノバンがそのチアーノ個人に払った賄賂マネーの出元は、ヒトラーによる強奪金塊だった。その金塊を担保にスイスの銀行が連合軍に融資する形でドノバンのOSSに渡したカネだった。

 

・言うまでもなく、スイスの銀行とOSSを支配するのは国際金融家たちだ。バチカン・マネーを戦時下に密かに扱ってきた銀行家のカルビの自殺事件は、自殺ではなく組織的な殺人によるものだったとするロンドン警視庁の発表を半世紀も過ぎた最近になって新聞は続報として伝えている。60年間も燻りつづけていた煙の火元はやはりあったのだ。

 

明治以降の日本における最大のタブーと欺瞞

・「金の百合」と称せられる“巨大資金”がわが国には隠匿されている。戦争を繰り返した大日本帝国が、“天皇の名”のもとにアジア各地から強奪した戦利品の集大成である。現代の日本社会をも動かしつづけているという、この略奪財宝の実態とは果たして何なのか?{金の百合}を軸に見えてくる、これまで決して語られることのなかった、明治以降の日本における最大のタブーと欺瞞を白日のもとにさらす。

 

・繰り返すが、ほぼ150年前のいわゆる“近代ニッポン”の始まりは国民のための近代社会の始まりとはまるで無関係だったということだ。要するに明治維新を革命と讃えている間は、大正・昭和・平成と続く時代の真実は見えないようになっているのである。

 

ヒロヒト名義の大量金塊がフィリピン山中に今も隠匿

・「あの戦争の最中も、昭和天皇のマネーはバチカン系の金融機関で運用されていたものだったよ」。私が元ナチス・ドイツのスパイ(スペイン人ベラスコ)から、昭和天皇の名義とされる「天皇の金塊」=秘密マネーがバチカン系の銀行で運用されていた――こんな話を聞かされたのは1980年(昭和55年)の初頭だった。

 ベラスコ(南欧系、熱血漢)は戦時中、戦費の調達目的で秘密交渉を担当したナチス親衛隊大将で保安諜報部外務局長の「RSHA」ワルター・シューレンベルグ(北欧系、青白き天才)と共によく銀行に出向いていた。訪問先はドイツ国立銀行ライヒスバンクとスイスに新設された銀行――金塊を担保に、参戦国全ての戦費融資に協力する唯一の“戦時”バンク、国際決済銀行(通称BIS)だ。

 

ドイツ国防軍情報部(アプヴェール、長官カナリスはシューレンベルグ犬猿の仲)に所属するベラスコはSSシューレンベルグの活動エリアよりも広く、ドイツ国内はもとよりスペイン、イタリア(バチカン教皇国)、日本も含んでいた。

 ベラスコが機関長を務めた情報機関(TO)は、歴史と宗教上の経緯から南米スペイン語圏の大小の諸国と太平洋の島嶼フィリピン諸島を活動の範囲に含んでいたのだ。

 

・私はベラスコが勿体をつけて語ったバチカン・マネーの話を聞いてからほぼ数年後の1988年頃、今度は乾き切ったシュールな金塊話を日本人の国際金融ブローカーたちから聞かされることになる。それは昭和天皇(日本皇室)所有で知られた金塊が天文学的規模で現在もフィリピン山中に隠置されているというもの。天皇家名義の金塊のほかにバチカン名義の金塊も含まれるともいう。

 

霞ヶ関埋蔵金”こそ実は「天皇ファンド」「天皇の金塊」の利息分

・福田新総裁が誕生して、民主党参議院を制している環境のなかで道路特定財源の扱いを巡る攻防が喧しい。そんな中で元自民党幹事長の中川秀直が「予算が足りなければ“霞ヶ関埋蔵金”を使えばいいじゃないか」と発言。これが2007年(平成19年)末の永田町のちょっとした話題になった。中川のいう埋蔵金はいわゆる「M資金」などとも呼ばれた出所不明の部類の資金のことなのだが、それについて新聞はもとより、政府実力者たちすら本当のこと=「金の百合」をまったく知っていなかったようだ。

 

マルコス大統領が「金の百合」を換金するには黄金商売人一族の裁可が必須

フェルディナンド・マルコス。彼は一介の弁護士からフィリピン大統領に成り上がった立志伝中の人で、大統領の座を「金の百合」資金で買い取った人物でもある。その後ろめたい秘密を炙りだす最初で最後のキッカケが「マルコス裁判」だった。マルコスはこの裁判で大統領の座から失墜する。民間人の山師が掘り起こした「金の百合」の一部をマルコスが強奪したことから争われたその民事訴訟裁判は、マルコス被告に賠償金430億米ドルを支払わせた。

 賠償金の原資もまたマルコスが地下サイトから秘密裏に回収した「金の百合」の一部が生み出したカネで賄っている。マルコスが大統領時代に地中から回収して換金、内緒で懐に入れたカネはおよそ1兆6300億米ドルにものぼっていた。

 

「黄金ファンド」は「四ツ谷資金」「キーナン資金」「M資金(吉田資金)」

・「黄金ファンド」(基金)は、1946年1月19日の“東京裁判”(極東国際軍事裁判)をまるで待ちかねていたかのように動かした。裁判向けの経費支出は、フィリピン山中から初めて金塊を堀り起こしたアメリカの将官(前述)であったサンティとランスデールの上官で日本占領軍司令部G-2のチャールズ・ウィロビー将軍が担当した。ウィロビーは「黄金ファンド」を「四ツ谷資金」「キーナン資金」、そして、のちに両資金を合体させる通称「M資金」に分けて支出した。「四ツ谷資金」とは当時の歓楽街で、無法者がはびこる新宿四ツ谷界隈をもじった呼び名だといわれる。

 

・たとえば、中国、満州それに朝鮮半島方面にスパイを送り込んだり、国内の左翼活動家や団体を弾圧する指揮現場が四ツ谷周辺にあったからだとも言われる。基金は反共作戦に動員する右翼活動家や暴力団を支援する資金にも使われると同時に、左翼勢力にも裏面で渡された。日本の共産党が戦時下も戦後もアメリ共産党と教会経由の資金援助で活動していたことはよく知られている。

 

昭和天皇国師、三上照夫は物理霊媒亀井三郎と双璧の博士

三上は毛沢東周恩来の学者ブレーンたちと協議して日中国交回復時の対日賠償請求を中国側に断念させた人物だ。三上は3人のニッポン人国際法学者を同行、中国側の専門家たちとの間で日中の歴史(戦争)問題を事前に片付けて田中角栄の訪中をスムーズにした。その外交交渉の裏舞台で三上は「兵馬俑の共同開発をしないか」。中国側からそんな話を持ちかけられた。三上が共同発掘を断った理由は「地中に意念が残されていて危ないからだ」とのことだった。ここで、国師三上照夫の人物像について、三上を慕った周辺の人物たちが知る範囲と、三上が私に直接語ってくれた範囲で説明しておこう。

 終戦時、三上は大正から昭和にかけて活躍した京都の仏教学者(文学博士)でのちに禅の巨匠と呼ばれる今津洪嶽(1841-1965)の愛弟子であり、ユダヤキリスト教の経典をへブライ語で通読する若者の1人として、皇居に招かれて昭和天皇ユダヤキリスト教とは何かを進講し

ている。

 

三上が物理霊媒力を備えた若者だったことを知る人は少ない

・日本で稀有な能力が研究者の手で改めて明かされた人物は昭和初期のいわゆる物理霊媒師の亀井三郎。本稿はすでに故人になった亀井三郎の超能力者ぶりを例に、三上照夫が備えた物理霊媒能力を説明しておこう。物理霊媒という超能力は、たとえば物体に手を触れないでその物体を空中浮遊させたり、距離と無関係の遠い場所にある物体やあらゆる状況を鮮明に透視する能力のことだ。こうした超能力を三上は備えていた。

 

・1923年(大正12年)日本心霊科学研究所を創設した浅野和三郎は、亀井三郎の超能力ぶりを知り、人物亀井の出現はペリー提督の黒船登場にも勝る、と驚嘆したと伝えられている。ちなみに浅野和三郎は日本心霊科学の父と呼ばれた人物だ。

 

・亀井は彼らの面前で数種の楽器を空中浮遊させ、それぞれの楽器から音を鳴らして見せた。また床に置かれた紫檀製の重いテーブルを空中に浮揚させ、そのテーブルを数人掛かりで床に引き戻させたが、テーブルは天井に張り付いたまま動かなかった。

 昨今のテレビ番組が紹介している「超能力者」たちのそれらのようにも見えるが、亀井の能力は似て非なるものだった。亀井には心霊の存在をカタチで現す能力もあった。霊媒亀井の鼻孔から溢れ出る白い固形の流動物に人間の顔写真(いわばプリントゴッコに写った写真)のシールを貼ったような著名な人間の顔が次々と現れる霊力だ。

 

・専門家たちはその現象をエクトプラズムと呼んでいる。つまり、見えない霊を見えるカタチに変える物質化現象のことだ。亀井は心霊人間であって娯楽向け手品師ではない。超能力ぶりを示している場面は大手新聞にも掲載されている。

 

・三上照夫は文学博士、経済学博士で、東大・京大・大阪大教授を歴任し、佐藤から中曽根まで7代、22年間内閣ブレーンを務めるとともに、亀井三郎と同じ古神道の世界に生きる“超能力者”だった。その三上に亀井は接触、三上が主宰する古神道系団体「御上教苑」で活動した。亀井は自らも神霊界や古神道の勉強道場「白日教苑」を支援者を得て進めていたから三上とはすぐに共鳴した。

 

・「先生(三上)は私が娘時代に8畳間ほどのお部屋で私の父とお話をされている間に、お部屋の片隅に置いた私の人形を、お部屋の反対側の隅っこに手も触れずに移動させました。私は驚きましたが今はもう驚きません」

 1992年頃、私は三上が上京するたびに三上身辺のお世話係を務めている中年女性からこの話を聞いた。私は天皇国師三上がそれまで黙して語らなかった三上の一部を知ったものだった。

 

「黄金ファンド」の存在と活用法を熟知の三上照夫は松下幸之助や歴代総理の指南番

・三上青年がGHQ占領中の皇居訪問以来再び皇居に招かれて天皇国師として仕えてきた事実は現在もごく内輪の関係者が知るのみだ。早すぎた晩年を迎えて鬼籍に入った三上が、その直前に自身から実は、と天皇に仕える立場を語ったのを聞かされた内輪の人々のほかには知られていない。天皇侍従長入江相政が三上を大切にしたという説とその逆の説もあるが、真実を知る者はいない。

 

・三上は次の皇太子徳仁浩宮親王の先生役を再び務めるつもりだと私に嬉しそうに語っていたものだった。昭和天皇国師のみならず佐藤栄作首相からその後に続く歴代の首相の相談に乗ってきていた。

 三上に相談を続けてきた実業家の1人に松下幸之助がいた。松下は三上から「帝王学」を15年間教えられてきた。佐藤政権以来の大蔵、通産、外務など主要各省の上級官僚たちも毎年正月には、内政、経済、外交などの見通しを三上から示唆されていた。

 

・三上は「黄金ファンド」の存在と活用方法をよくよく心得ていた。三上の周辺のごく内輪の人も「黄金ファンド」(秘密資金)の存在を知らなかったが、三上がしばしば口にする「産業育成資金」(前出)については周辺の人々も頭の中では知っていた。周辺の人々はおそらく今も、三上が口にしたアメリカに積んである「産業育成資金」、それが「黄金ファンド」のことで、“天皇マネー”に端を発した秘密資金だとは気づいていないだろう。

 

・かつて(1991年10月10日)、日本の政界で首相候補宮澤喜一渡辺美智雄三塚博)を小沢一郎が選択した奇妙な政局場面があった。マスコミも前例のない首相選びの場面を連日報道、小沢がいわば後見役の金丸信を従えて、首相候補たちを事務所に次々に呼び付けて、首相を選んだその場面を覚えている読者もおありだろう。

 実はその舞台裏でこの「小沢裁定」の支持を取り付けるために、協力議員に配る資金(永田町でいうモチ代)を「産業育成資金」で賄うべく走り回っていたのが金丸信だった。金丸が資金確保に走っている様子を

私は三上から聞いていた。金丸が金策を三上に相談していたからだ。

金丸は前述したように「7人衆」の1人。つまり、田中角栄(派)の資金調達の秘密を知る金庫番だ。その金丸が、結果として小沢一郎のために“親分譲りの手口”を使って「モチ代」を調達していたものだ。「自民党(ニッポンの骨格)が壊れてしまったのではワシントン(政府)も困ることになる」。三上はそう呟いた。

「産業育成資金」のやむない融資先(または当然の投入先)を三上は心得ていた。つまり、厳格な管理権委譲渡資金のルールも時には「超法規」の前にその堅固ぶりを失う場合もあったのだ。

天皇マネー”で救う以外には政治資金獲得に打つ手がないニッポン政界与党のていたらくぶり。マネーの由来を知り、消費方法も知る三上が、マネーの秘密を飲み込んだまま、さりとてその秘密を公言もできず。為政者たちの能天気な活動に苦虫を噛み潰して断腸の日々を過ごす姿は私には痛々しく見えた。

 

・かつて岸信介実弟佐藤栄作の政治業績のために「黄金ファンド」をニクソンに払って買い戻し沖縄の一件(ファンドマネーの管理権委譲渡と引き換えに政治資金のキックバックを要求したニクソンに応じた岸が、そのファンドマネーで沖縄を買い取り、実弟佐藤栄作の業績「沖縄返還の成功」を仕上げた一件)はともかく、ソビエト連邦崩壊の機会を逃さず、電撃的にゴルバチョフに対して、ファンドマネーを「無償供与」して買い戻した北方四島(15億米ドルの現金と15億ドル相当のIT機器を新生ロシアに供与して、国後、択捉、歯舞、色丹の南千島の4島返還の約束をさせた)その一件もいつの間にかカネだけ奪われて、エリツィンプーチンらから未解決の問題だなどと開き直られているニッポン政府のていたらくぶりにも三上は愕然としていた。

 

・「日本救済の道は、個人主義的民主主義と、全体主義社会主義の暗雲妖奇を払い、民族伝統の下に、独自の日本民族主義を確立する事にある。日本民主主義、絶対文化の指導理念とは、個に即して全を見、全に即して個を見る東洋人の血の要求たる事々無礙道であり、大自然の神ながらの大道である」

 

 

 

『ムー  2016年8月号 No.429』

 

 

 

ナチスUFO最高機密 アルデバラン星人の謎

ナチス・オカルティズムの淵源とヒトラー生存説

ヒトラーは死んでいなかった!世界を騙したフェイク心中の真相

・当時ソ連の最高指導者だったヨシフ・スターリンが、ヒトラーの遺体の検証後、アメリ国務長官ジェームズ・バーンズに対し、「ヒトラーはスペインかアルゼンチンに逃げのびたにちがいない」と語り、ドイツ国外逃亡説が、第2次大戦直後の世界を駆け巡ることとなったのだ。

 

・事実、ヒトラー生存説を裏づける証言がいくつもある。たとえば、4月30日の夕方、つまりヒトラーが自殺を遂げたあと、ベルリン近郊のテンペルホフ空港に姿を見せたヒトラーが兵士たちに目撃されている。そしてまた身内の証言もある。第2次世界大戦中、アンヘル・アルカサル・デ・ベラスコというトップクラスのスパイがいた。ナチス降伏の寸前まで、ヒトラー、そしてエヴァ・ブラウンとともに地下室で過ごしたベラスコが、マルチン・ボルマンから聞いた話を、こう明かしている。「ボルマンは、ヒトラー総統を総統府から連れだして、ひとまずドイツ南部のロタック・アム・エルヘンの要塞に移した。ヒトラー総統とエヴァの死体がガソリンをかけられて焼却されたという話は、彼の創作だ。世界中にニセの事実を信じ込ませることに成功したのだ。実際には、ボルマンが信用する部下数人を使い、要塞からドイツ領内を横断し、船でヒトラー総統をノルウェーに移した」

 1945年5月の時点で、ヒトラーはまだ生きていたのである。

 

FBIも捜索したヒトラーの行方 ブラジルで95歳まで生きていた!?

・さらに、ヒトラー生存説を裏づける根拠がある。2009年に米コネチカット大学で行われた遺伝子鑑定の結果が、“それ”だ。ヒトラーが自殺したとされるベルリンの地下室で発見された頭蓋骨の破片が、実はヒトラー本人のものではなく、20~40歳の女性のものだったことが判明。つまり、ヒトラーの死体は発見されていないのである。

 

・2014年4月15日、英のニュースサイト「エクスプレス」が機密解除されたFBIの文書の一部を公開した。そこにはヒトラーの死亡が未確認で、Uボートで南米アルゼンチンに逃亡した可能性があり、FBIまでもがヒトラーの行方を追跡していた事実が記されていた。

 

・そして今年、ヒトラー生存説に、また新たな“事実”が加わった。なんと、ヒトラーがブラジルで95歳まで生きていたというのだ!

 2016年3月、驚くべき情報がネット上に公開された。元ナチスの残党を追跡していたシモーニ・レニー・グエレイロ・ディアスによって、ヒトラーがブラジル人の愛人と95歳まで生きていたという証拠写真が公開されたのだ。写真は死の2年前、1984年に撮影されたもので、その男は、黒人のガールフレンドであるクティーニャと一緒に幸せそうにポーズをとっている。

 

シモーニの著書「ヒットラー、その生と死」によれば、ヒトラーがベルリンの地下室で死んだというのは真っ赤なウソで、アルゼンチンを経てパラグアイに飛び、ブラジルのマト・グロッソ州にある小さな町に落ち着いたという。そこで彼はアドルフ・レイプジクという変名を用いて暮らし、地元民には「年老いたドイツ人」として知られていた。

 

 

<●●インターネット情報から●●>

サイトの「カラパナア」(不思議と謎の大冒険)から引用

 

ヒトラーは生きていた!?ブラジル人の恋人と95歳まで生きていたという証拠の写真が発見される

 

ヒトラーは生きていた!?>

現代においても未だその影響力が半端ないドイツの独裁者、アドルフ・ヒトラーヒトラーは1945年4月30日、総統地下壕の一室にて、妻であるエヴァ・ブラウンと共に自殺を遂げたというのが歴史上の認識であるが、実はブラジルに逃亡し、95歳まで生きていたという噂もあり、最近になってその可能性を示す写真が発見されたそうだ。

 

ヒトラーが死んでいなかったという話は諸説あるが、ある本によれば、彼はパラグアイに逃れ、アルゼンチン経由でブラジル、マットグロッソ州にあるノッサ・セニョーラ・ド・リブラメントという人口12,000人ほどの小さな町に移り住んだという。そこではアドルフ・ライプツィヒという偽名を名乗っており、住民からは”ドイツの老人”として知られていたらしい。

 

 問題の写真は、ヒトラーが亡くなる2年前の1984年に撮影されたと主張されるもので、そこには黒人の恋人クティンガとポーズをとる幸せそうな姿が映し出されている。

 

『Hitler in Brazil - His Life and His Death(ブラジルのヒトラー - その生と死)』の著者シモーニ・レネ・ゲレイロ・ディアス氏によれば、ヒトラーバチカンの友人から地図を入手し、そこに記されていた秘密の財宝を探していたらしい。恋人のクティンガは素性を隠すために利用していたようだ。ディアス氏はヒトラーの自殺が信じられず、ライプツィヒと称する人物の遺体を掘り起こし、DNA鑑定するべきだと主張している。

 

  ディアス氏はヒトラーが隠れ住んでいたという町を2年間調査してきたそうだ。ここはボリビアの国境に近い、18世紀のゴールドラッシュによって作られた町である。その付近の洞窟にはイエズス会の財宝が眠っているとされ、ヒトラーがここに住んだのも偶然ではないと彼女は睨んでいる。

 

彼女がこのような考えに至ったのも、古い不鮮明な写真を加工して髭をつけたところ、ヒトラーそっくりな人物が現れたからである。ディアス氏によれば、80年代初頭にクイアバの病院で手術を受けたヒトラーを身元不明のポーランド人修道女が見つけ、そこから立ち去るよう命じたことがあったらしい。しかし、自分はバチカンの命令で来ているのだと逆に叱責されたという。

 

 陰謀論では、ヒトラーがドイツから南米へ逃れたと主張されることがある。この見解は、イギリスの2名の作家がアルゼンチンで盗作疑惑をかけられたことから、盛んに議論が交わされるようになった。

 

2011年に出版された『Grey Wolf: The Escape of Adolf Hitler(灰色の狼:アドルフ・ヒトラーの逃亡)』の著者ジェラード・ウィリアムズ氏とサイモン・ダンスタン氏は、ヒトラーエヴァ・ブラウンパタゴニアに逃れ、62年に73歳で死ぬまでに2人の娘をもうけたと主張している。この本は後に映像化されたが、アルゼンチン人のジャーナリストは著者らが自分の研究内容を許可なく使用していると訴えた。

 

 こうしたヒトラーがアルゼンチンで生きていたとする説を、歴史家のガイ・ウォルターズ氏は馬鹿げていると一蹴する。「まったく恥知らずで、そんな証拠はどこにもありません。陰謀論者の妄想に訴えかけているだけで、歴史的な研究とは言えませんね」

 

 マットグロッソ連邦大学の歴史学者カンディード・モレイラ・ロドリゲス氏も「ヒトラーが南米に逃れていたと主張する歴史家と称する人物たちは皆似たようなものですよ」と、同じく否定的だ。

 

 そうした説によれば、戦後、悪名高いアドルフ・アイヒマンヨーゼフ・メンゲレをはじめ、大勢のナチスが逃亡を果たしたという。ヒトラーの死を証明しようとする研究者にとって頭が痛いことに、その物理的な証拠は一切発見されていない。2009年には、地下壕付近で発見されたヒトラーのものとされる頭蓋骨の破片をDNA鑑定したが、女性のものであることが判明している。

 

 ヒトラーが生きている姿を最後に目撃したとされる元親衛隊曹長のローフス・ミシュは、2013年に96歳で亡くなった。生前彼は、閉じられたドアの向こう側で銃声を聞いた後に、頭からテーブルに倒れているヒトラーを見つけたと発言している。

 

 

 

『2000年5月5日宇宙人大襲来』

(草刈龍平)(第一企画出版)1996/12

映画インディペンデス・デイはなぜ緊急制作されたのか

アメリカ政府が隠し続けた恐るべき事実

 

 

 

ヒトラーが宇宙人と密約していた動かぬ証拠

ヒトラー

ナチスが開発したというこのUFOの性能は想像を絶するものだ。いったい今から50年以上も前にヒトラーのエンジニアたちはどこからこうした超高度技術を獲得したのだろうか。その疑問には、ヒトラーが副官のフォン・ラウシュニングに語った以下の言葉がヒントになる。

 全ての人々の上に私が語ることのできない新しい高貴な人類が君臨するだろう。しかし、普通の軍人たちはこれらの計画については何も知らない。新人類は今我々の間にいる。彼はここにいるのだ。これで十分だろう。私は、君に秘密を話した。私は、新人類を見た。彼は大胆で冷酷だ。私は、彼を恐れている

 

・いったいヒトラーはこの「新人類」という言葉で何を意味しようとしていたのであろう。ラウシュニングによると、ヒトラーはいつも何かに怯えていたらしい。彼は就寝中、悪夢にうなされて気狂いのように目覚め、目に見えない何かに向かって訳の分らぬ言葉を叫んでいたという。

宇宙人に誘拐されたのではないのだろうか。ヒトラーは宇宙人とひそかに接触したのだと筆者は想像する。