<五木寛之との10年間>
<「矢崎さん、身なりは貧しいけれど、彼(井上陽水)は大金持ちです。遠慮なくムシってやってください」 五木寛之>
・カルチェラタンで5月革命が起きた。学生たちが街を占拠した。1968年(昭和43年)のことだ。
パリに滞在していた五木寛之から編集室に国際電話がかかった。
「やっと『話の特集』に掲載いただける素材を手にいれました。まず航空便で写真は送りますが、原稿は帰国してからで間に合いますか」
突然のことだったので、私は一瞬返答に窮した。原稿を依頼したのは1年以上も前だったが、執筆の約束をもらっていなかった。たしか「考えてみます」という返事だけで、その後の連絡はなかったように記憶している。
・五木寛之は革新的な左翼ではなかったが、革命を志す者を支援したり、活動家にせがまれるとカンパも惜しまなかった。NHKでドラマ化された『朱鷺の墓』の放送権料を重信房子に渡したこともあった。こうした経緯を知った竹中労が脅しがらみで、どれくらい五木から金を受けとったことか。
・『遠くへ行きたい』のロケに五木はときおり「お弁当」をこっそり持ってくることがあった。つまり自分の愛人を連れてくるのである。それをお弁当と言う。スタッフから通知は受けていたが、私は特別な問題とは思わなかった。超多忙の五木が妻に内緒で愛人を連れて歩くのは仕方のないことだし、撮影に支障さえなければとやかく言うつもりはなかった。私だってやりかねない。
ところが連れの女性が急病で救急車で運ばれる事件が起きた。慌てた五木はその女性を私の妻にしてしまったのだ。深夜私の家に病院から電話があって、事情を知らない私はびっくりする。プロデューサーとしては引き受けるしかなかった。思えば私にだって妻はいるのだ。勝手な奴だと思った。
・私たちは「五木牧場」と揶揄したりしていたが、若い女性読者に人気のあった五木の周辺にはいつも色香が漂っていた。今から思うと、五木には説教癖があって、高級クラブのホステスを学校に通わせたり、読書させたりして普通の職業女性に育てあげる。面倒見もとてもよかった。詳しくは後述するが、仏教に興味をすでに抱いていたのだろうか。
・五木寛之の紹介で関根(高橋)恵子に会って、彼女の原稿を読むことになった。そのころ彼女は20歳前後で大変に端々しく美しかった。内容は十代に受けた義理の父親からのDVを告白した小説だった。私は新進女優の赤裸々な文章に圧倒された。即座に掲載を約束した。そこに五木が現われ、その原稿を持ち去ってしまったのである。
「紹介者としての責任もありますから、私も読ませていただきます」
そのまま、私の手に返されることはなかった。どういうわけか、五木が発表させなかったのである。五木に問うと、「書き直させている」
と言うだけで、ついに陽の目を見ることはなかった。二人はどういう関係だったのか、私には謎のままだった。あの小説はどこかから発表されたのかどうか、知るよしもない。
・私が戦火のベトナムに取材旅行に出発する直前、五木は箱根で壮行麻雀会を開いてくれた。高いレートの麻雀をやって取材費の足しにでもしないさいという配慮だった。そのとき、五木は井上陽水を連れてきた。穴だらけのジーパン姿の井上を一目見て、私はびっくりしていた。初対面であった。いぶかし気な私を見て、
「矢崎さん、身なりは貧しいけど、彼は大金持ちです。遠慮なくムシってやってください」
五木はこの高名な歌手と私が知己でなかったことに驚いた様子でもあった。その夜、私は大勝利して、大金を懐にして旅立った。ベトナムが陥落し、サイゴン(現ホーチミン市)からポルポトが支配するプノンペンに連れ去られそうになったとき、この所持金が役にたった。ワイロがものを言ったのである。思えば五木は命の恩人でもあった。
もちろん話の特集社の株主でもあったし、私の2人目の息子の名づけ親にもなってもらった。親密の度は増すばかりだった。
・それにしても今日の五木寛之はまさに不死鳥のような存在である。『日刊ゲンダイ』に創刊以来一度も休まず連載中の「流されゆく日々」は私もずっと愛読しているが、まったく衰えを知らない。健筆ぶりには私は感心させられるばかりだ。あのエネルギーの源泉はいずこにあるのか。不思議でならない。
<五木寛之への手紙>
<「ボクはやるしかないと思ってる。だから矢崎さんが仲間に声をかけてくれることに期待しているんです」 五木寛之>
・片時も忘れたことはない。それほどの衝撃を受けてしまった。五木寛之が私の前から忽然と姿を消したのだ。それ以前の10年間は、濃密かつ親密な関係が続いていた。そして突然去って行った。それからおおよそ30数年の歳月が流れた。彼は私から巧みに逃げたとしか思えないのである。
・市民政治運動として、革新自由連合(革自連)が発足したのは1977年(昭和52年)6月1日だった。この日、渋谷公会堂に2千人の聴衆(賛同者)を集め、結成イベント『マニフェスト77』が開催された。そこに、五木寛之の姿はなかった。
・前年の夏ごろ、青島幸男(当時・参議院議員)と竹中労に個別に会った五木寛之は、改めて三者会談を持ち、革自連の構想をまとめた。画期的なプランだった。
次回の参議院選挙(1977年7月)に仲間の知識人及び文化人(著名人・有名人に限る)を10人擁立し、全国区で全員の当選を実現する。青島が所属する二院クラブを法案提出可能な院内で発言力のある会派に発展させ、参議院本来の使命を遂行しようという計画だった。
・市民の政治参加によって、社会党を中心とする革新勢力の拡大は必至だった。目の付けどころは的確だった。五木寛之が登場する舞台は十分あったのである。日本一の流行作家であり、ノンポリの論客であった。彼が重い腰を上げたのだ。
・五木寛之との初対面は1966年の末ごろだった。直木賞を受賞する前だったが、『さらば、モスクワ愚連隊』で高い評価を受け、すでに多忙だった。それでも『話の特集』への執筆を約束してくれた。翌年『蒼ざめた馬を見よ』で第56回の直木賞を受け、流行作家の仲間入りを果たしたのである。
・しかし、出馬を決心したのは、出席者からは鈴木武樹、羽仁五郎(後に辞退)、中村武志の3人だけだった。つまり、大方の期待を裏切る結果となったのである。計らずも五木寛之が危惧したことが現実になった。だが、もしこの日、五木寛之が出席して立候補に踏みきっていたら、野坂昭如、大橋巨泉、大島渚も続いていたかもしれない。実際にはまだ間に合ったのだ。
・新聞もテレビも、大々的に「マニフェスト‘77」を取り上げたが、「革自連不発」の見出しや報道がほとんどだった。さらに週刊誌がそれに追い打ちをかけた。
「カラ騒ぎ」「仲間割れ」「腰砕け」と酷評した上で、しょせんは有名人のお遊びに過ぎないと切り捨てたのだった。私たちは歯をくいしばって、翌月に迫った参院選に向かって10人の候補者を立てるしかなかった。
むろん、五木だけが悪いわけではないだろう。しかし、自分が中心になって発案し、私をはじめとする多くの協力者をないがしろにして、ついには行方不明になった。こんなことが許されるわけはない。
ついには事務局長のばばこういちも立候補し、10人揃えて選挙戦では確認団体となったものの、追加公認した横山ノック1人が当選を果たしただけだった。
・私は1977年以来、五木寛之を探し続けた。蜜月だった10年間から、現在に至る長い旅は終わっていない。なぜ私たちを裏切ったのか。五木寛之にいったい何が起きたのか。その真相をどうしても私は知りたかった。
・革自連が惨敗した直後に、文藝春秋の幹部役員から「内緒だけど」と前置きされて、「五木には田中清玄(右翼の大物)からきついお灸を据えてもらった。作家を続けたいなら、政治なんかに手を出すなとね。相当ビビったらしいよ」
と伝えられた。真偽はいまも不明である。五木が直木賞の選考委員に抜擢されたのは翌年の1978年だった。1979年には日本ペンクラブの国際委員長に就任している。
・五木寛之が社名をつけたと聞く幻冬舎から『大河の一滴』『人生の目的』などのいわゆるミリオンセラーを上梓しているが、同系列の『生きるヒント』『他力』『下山の思想』と立ち読みすれば、そのテクニシャンぶりにいささかうんざりさせられてしまう。ロングセラーの『風に吹かれて』はこれまでに4百万部を売りつくしたと言われている。
そこで私は改めて問いたくなるのである。なぜ革自連を捨てたのか、何かの圧力を受けたのか、それとも、それからの作家活動のために必要な変身だったのか。利害損得だけで仲間を裏切ってもよいのか、と。
<永六輔と私の「貸し」「借り」半世紀>
<「矢崎さんが死ぬ前にボクは死なない。何を言われるかわからないから」 永六輔>
・「1回でなく連続してずっと書かせてもらいたいんです。もしそれが不可能なら、編集の仕事の手伝いでもいい」
永六輔は多忙人間とは思えないことを口にした。会社と同じビルの中にある「ニュー・トーキョー」に席を移して、ゆっくり話し合うことにした。彼がすでに用意してきた企画プランが3つあった。時代考証のある「日本乞食考」、開国時代の日本をテーマにした物語「ヤッパンマルス」、それとはまったく違う「アカちゃん」という小説だった。いずれも長期連載向きのものばかりである。私は思わず唸った。
「いいんです。お付き合いするだけでも。それより編集者として使ってくれませんか」
毎日出社して他の編集者と同じ仕事をしてみたいと言うのだった。そんなことを考えられないし、とうてい無理だと思った。まったくせっかちな人だと驚きながら、乞食の話に興味を示したところ、その原稿なら持参していると言う。さっそく見せてもらって、次号から「われらテレビ乞食」が始まることになった。
永六輔との長い交流はこの日からである。
しだいにわかったことだが、自分が興味を持ったことに忠実な人だったのだ。あまりの素直さに私は驚嘆し、信じられない思いでいっぱいだった。それこそ全身を使って行動するパワーが横溢していた。
約5年間は、永六輔と『話の特集』及び私は蜜月時代だったと言ってもよい。
<●●インターネット情報から●●>
ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)から引用。
{日本の自殺}
日本における自殺は、厚生労働省が公開している人口動態統計の年度別・死亡原因別の人口10万人中のシェアとランキングでは、2016年度は1位は癌で298.3人、2位は心疾患で158.4人、3位は肺炎で95.4人、4位は脳血管疾患で87.4人、5位は老衰で74.2人、6位は不慮の事故で30.6人、7位は腎不全で19.7人、8位は自殺で16.8人、9位は大動脈瘤および解離で14.5人、10位は肝疾患で12.6人である。
世界保健機関(WHO)は2015年度の統計では、人口10万人中の日本の自殺率と世界ランキングの高い順は、男女合計は19.7人で18位、男性限定は27.3人で20位、女性限定は12.4人で8位である(国の自殺率順リスト)。
OECDは、日本はうつ病関連自殺により25.4億ドルの経済的損失をまねいていると推定している。
WHOによると2015年の世界の10~19歳の若者の死因一位は交通事故、二位が大気汚染などによる呼吸器疾患、三位が自殺である。欧州と南アジアを含む地域で死因の1位または2位を占めている。
1990年代後半:戦後最大の自殺者数の急増
1998年(平成10年)にはバブル崩壊後で特に相次いだ国内の金融機関破綻があり、年間自殺者数が32863人(警察庁発表。人口動態統計では31755人)となり、統計のある1897年以降で初めて3万人を突破した。2003年(平成15年)には34427人(人口動態統計で32109人)に達し、現在までにおける過去最大数となっている。
1998年以降から近年まで続いたピークは戦後最大のものであった。それまで約2-2.5万人程度であった年間の自殺者数が3万人以上で推移する状況にあったが、1998年は前年の24391人から8000人以上も急増(前年比約35%増)した。うち25%は45歳以上の層のもので、中高年の自殺増が急増への寄与が大きい。急増した原因として景気の悪化を指摘するものも多く、各種統計や自殺者の遺書などから、今回のピークの原因は不況によるものと推測されている。OECDは90年代後半の自殺増の理由としてアジア通貨危機を挙げている。また読売新聞1999年8月7日付けの記事では自殺の急増、とりわけ男性の自殺者が増えたしたことを報じたが、そこでは「元気ない男性」として、男性が家事や育児に参加して男性の意識改革を図るべきとジェンダー論から自殺原因や対策を報じた。一方、船瀬俊介は著書「クスリは飲んではいけない!?」(徳間書店)にて1998年に自殺が急増したのは新抗うつ剤が出現した時と一致しているとの見解をしている。
不況の影響を受けやすい中高年男性でピーク後の自殺率が特に急増し、遺書から調べた自殺原因では、1998年以降、ピーク前と比べて「経済・生活問題」が急増している。内閣府経済社会総合研究所の統計では、失業要因が安定して有意に男性自殺率を増加させ、1998年以降の30歳代後半から60歳代前半の男性自殺率の急増の要因は、雇用・経済環境の悪化である可能性が高い事が年齢階層別データ分析、都道府県別年齢階層別データ分析の双方において確認できる。女性の自殺率はピーク前とあまり変わらず、男性の自殺率の影響が顕著である。男性は高年齢層で自殺しやすく、高齢化は男性の自殺率増加の原因を2割程度説明する。年齢別で見ると、40〜60代の増加が顕著で、特に60代ではピーク前の3割増になっている。
以上の1998年以降の「定年に至っていない中高年男性の自殺率増加」の背景には、過去のものとは動向が異なり、「経済・社会的な要因」が大きく影響している可能性が指摘されている。2003年(平成15年)には、年間自殺者数が3万4千人に達し、統計のある1897年以降で最大(自殺率も27.0と過去最大)となった。
リーマンショック以降
2009年(平成21年)までほぼ3万2千人台で推移、2010年(平成22年)より減少傾向となって3万人を超える水準は2011年(平成23年)まで続いた。 ただし、厚生労働省発表の人口動態統計のデータでは過去にも2001年(平成13年)と2002年(平成14年)、2006年(平成18年)に3万人を割っている。 「年間3万人」とは一日あたり平均80人以上となり、日本で2012年までの14年間だけでも45万人が自殺で亡くなっており、日本で家族を自殺で亡くした遺族は300万人を超えると推計されている。2012年に清水康之によって、日本で暮らす人の40人にひとりは自殺者の遺族であり、日本人にとっては非常に深刻な問題で、身近にある問題であり、また日本の自殺者数は世界で8番目で、米国の2倍、イギリスやイタリアの3倍となっており危機的な状況と指摘されていた。
2012年(平成24年)以降は減少し3万人を下回った。2012年(平成24年)の日本の自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)は21.8人で総自殺者数は27858人である(警察庁発表)。これは同年の交通事故者数(4411人)の約6.32倍に上る。
2013年3月14日、警察庁は2012年の自殺者数を前年比9.1%減の27858人と発表した。
2014年1月の警察庁発表では、2013年の自殺者は27283人で、4年連続で減少した事が明らかとなった。特に経済・生活問題を動機とする自殺者が減っている。経済状況の好転の他、自治体単位での自殺を防ぐ活動による効果が出たと分析された。
2014年版の自殺対策白書では、15歳から39歳の各年代の死因のトップが「自殺」であり、自殺対策白書は「15-34歳の若い世代で死因の1位が自殺となっているのは先進7カ国では日本のみ」としている。ただし、これは死因に占める比率であるため、自殺以外の死因が少なければ自殺の占める比率が上がることに留意する必要がある。WHOの調査によると2015年の世界の10~19歳の若者の死因1位は交通事故、2位が大気汚染などによる呼吸器疾患、3位が自殺である。欧州と南アジアを含む地域で自殺が死因の1位または2位を占めている。
2017年の自殺数は2万1321人で、史上最多の自殺者数・人口10万人中の自殺率を記録した2003年と比較して、自殺者数は61.9%に減少し、人口10万人中の自殺者率は62.2%に減少した。女性の自殺数は6495人で1969年以後で最少になった。
『仮面の告白』
<三島由紀夫の作品における「仮面の告白」の中のフリーメーソン>
・ 「夜、私は床の中で、私の周囲をとりまく闇の延長上に、燦然たる都会が浮かぶのを見た。それは奇妙にひっそりして、しかも光輝と秘密にみちあふれていた。そこを訪れた人の面には、一つの秘密の刻印が捺されるに相違なかった。深夜家へ帰ってくる大人たちは、彼らの言葉や挙止のうちに、どこかしら合言葉めいたもの、フリ-メイソンじみたものを残していた。また、彼らの顔には、何かきらきらした直視することの憚れる疲労があった。触れる指先に銀粉をのこすあのクリスマスの仮面のように、彼らの顔に手を触れれば、夜の都会が彼らを彩る絵の具の色がわかりそうに思はれた。やがて、私は「夜」が私のすぐ目近で帷をあげるのを見た」。
『気の発見』
<見えない世界への旅>
<気は見えないから面白いのである>
・(五木)「気」というものの存在について、私はあまり真剣に考えたことがない。いまでもそうである。しかし、見えないから「気」は存在しないなどと考えたことは一度もなかった。また科学的に証明されないから「気」はありえないと考えたこともない。
・とはいうものの、「気」や「気功」といったものに対して、世間は長い間怪しげなものを見るような目で対してきた。いまもそうだろう。
社会革命の夢が遠ざかったあと、人びとの夢は人間内部の探求へとむかった。身体革命の夢のなかから、「気」や霊的な世界への関心が高まっていったようにも見える。
・中国では国家的なプロジェクトとして、「気」の科学的解明と応用にとり組んでいるという。なにごとも徹底的にやりとげようとする国だから、いずれ目に見える成果も示されるはずだ。
<望月さんはロンドンで気功治療の仕事をなさっている>
・欧米人を相手にエキゾチツクな話をする位ならともかく、治療となるとさぞかし大変だろうと思う。
・私たちが空気の存在をふだん意識せずに自然に呼吸しているように、望月さんの「気」に対する姿勢はとても自然で、こだわりがない。
<気を実感するとき>
・(望月)動物についてですが、じつは犬や猫など、よく気功治療が効くんです。ロンドンで、腰痛の犬を治療したことがあります。
(五木)犬にも腰痛が?(笑)
(望月)ええ、犬が歩きにくそうにしているので、病院に連れていったら、腰のアーセライタス(関節炎)があると言われたそうなんです。腰が下がってしまったので、すぐ尻もちをついた格好になってしまう。その治療には、ずいぶんお金がかかるそうなのです。
(五木)保険がきかないからな。治療費も人間よりも高いみたいですね。
(望月)ええ。じゃあ、本人の治療の前に、10分か15分くらい犬に気を当ててあげるから連れていらっしゃいと言ったんです。まず玄関で犬に気を当てました。そのときはぐったりと横たわっていたんです。そのあと飼い主を治療し終わったときには、もう犬がぴょんぴょん歩き回っているんですね。(笑)
(五木)最近は、自分の子供よりもペットを可愛がっている人が多いから、そんな話を聞いたら大変だろうな。イギリスの愛犬協会の人がやってくるんじゃないですか。
・(望月)犬よりも猫のほうがもっと敏感で、私がちょっと手を近づけると皮膚がピクピク反応してきます。
前に、英国人の男性のギックリ腰を治療したことがありました。私がどの英国人の家で男性に気を入れると、どこからともなく2匹の猫が現れて私の手の上に乗り、お腹をすりつけるのです。そのとき私は、猫は気の「波動」がわかるのだなと思ったのです。
・(五木)その点、ヨーロッパの人たちには、「気」というものは馴染みがないものですから、納得するのが大変なんじゃないでしょうか。気という英語はあるんですか?
(望月)「気」はないですね。中国語のCHI(チー)とか、サンスクリットのプラーナという言葉を使って説明しています。
<西欧人が気功治療を警戒するわけ>
・(五木)数年前、私がニューヨークで『TARIKI』という本を出版したとき、他力をどう英語に訳すかということが問題になったんです。翻訳家は、『アナザーパワー』とかいうから、それは違うだろうと。いろいろ探したけれど結局しっくりくるものがなくて、TARIKIという言葉を使ったのです。同じように、「気」は「気」ですね。
望月さんは欧米のセンターのロンドンで、気功家として活躍なさっているんだけれども、ヨーロッパの人たちは、気をどういうふうに理解しているのですか。
(望月)東洋に興味のある人たちは、人間の体の中に生命エネルギーのようなものがあるのではないかと考えているようです。普通の人たちは、いや、そんなものはないと否定するんですね。熱心なキリスト教の人たちは、たとえば気功で治療して治ったというと、それは悪魔の力かというわけです。また、ある人は、いや、これは神の力ではないかと。
(五木)キリストも最初は、めしいたる者を癒し、足の萎えたる者を立たせたり………という奇跡を起こして、人びとをひきつけた。
・(望月)ドイツのミュンヘンに、年2回ほど治療に行っているんですが、12年前に初めて行ったとき、ドイツの人たちは、なんて頭が固いんだろうと驚きました。科学でもって理解できないものは、全部否定してしまうんです。
・(望月)どうしてなのかと思って、いろいろ訊いてみたら、どうも中世のころ、いろいろな村落で、魔女裁判が行われたらしいんです。ちょっとでも、人と違う、並外れた力がある人は、「あの人は、不思議な力を使う」と訴えられて、審問所に連れていかれたそうなんです。そうすると、魔女だということで、火あぶりの刑ですね。
・一つの村落が全滅したこともあったらしいです。そういうことが、歴史にあって、うっかり変なことは言わないということになったらしいんです。
・(五木)ヨーロッパの科学信頼の背後には、魔女的なものとか呪術的なものに対する忌避があるというのは、いわれてみれば、なるほどと思います。それでいながらヨーロッパの人たちは交霊術とか、心霊協会とかやたら好きですよね。とくにロンドンは『ハリー・ポッター』に代表されるように、魔女や魔法使い、ゴーストがうようよしている。
(望月)ロンドンは、不思議と、そういうことが盛んですね。大学でも、サイキック・カレッジとか、霊媒のような超能力を訓練するカレッジみたいなのがありまして。
・(望月)1回治っちゃうと、もう2度と来ません。来ているのは、奥さんが日本人とか、東洋に興味がある人たちです。一般の人たちは、科学でもって厳しく教育されていますから、証明できないもの、科学的でないものは、耳をふさいじゃうか、拒否しちゃうんですね。
(五木)それは魔女裁判のころの恐怖が、やっぱり残っているのだと思う。ともかく物凄く残酷なことをやったわけですから、周りに薪を積んで燃やして、若い女の子なんかを生きたまま、はりつけにして、その光景を大勢の人たちが見ていた。その記憶というものが、DNAに組み込まれて、子々孫々にまで伝えられているんじゃないかと思いますね。
<素直な心が気をキャッチする>
・(五木)ずっと前に聞いた説なんですが、欧米人は肩凝りが分からないというんです。凝るという状態を英語でうまく表現できない。ある専門家はバックペインだというけれど、それは背中の痛みであって肩凝りではないと思う。
・(望月)私はイギリス人やドイツ人など、ヨーロッパの人びとをみますけど、彼らの肩は、最初、触ると柔らかいんです。柔らかいから、凝っていないなと思うんですけど、肩は痛いという。ギューッと押すと脂肪の下に、ピアノ線がぴんと張ったようなところがあるんです。そこを触ると、痛い痛いというんです。彼らは、凝りかたが深いから、あまり自覚しないでしょう。
<初めての「気」はトーストの匂いだった>
・(望月)最初、少林寺拳法をやっていたんです。なかでも特に、整法、体を整えるということに興味をもって、経絡や急所、ツボというものを勉強したんです。
・経絡でつながっているから、反応するんですね。経絡の勉強をしていくうちに、中国の呼吸法や、インドのヨガに興味を持つようになって、自己流でやるようになったんです。
・ある時、ヨガのポーズで体をねじっていたら、背骨の辺りから、プーンとパンを焼いたような香ばしい匂いがしてきたんです。
(五木)自分の体の中から?
(望月)ええ、最初は、てっきり、どこかの家でトーストを焼いている匂いがしているんだと思っていたんですが、いつでも、昼でも夜でもヨガのポーズをすると、匂いがしてきたんです。そのうちトーストの匂いだけでなく、マーマレードやバラのような香りがしてきたり、足の下がむずむずしてきたんです。もしかしたら、これが「気」なのかもしれないと思いました。
(五木)他人に対して、気功治療をなさったのは、どういうきっかけなんですか。
(望月)1986年だったと思います。そのころ、ロンドンで旅行会社に勤めていたんです。たまたま少林寺拳法のインストラクターを案内して、アフリカをまわっていたときです。エチオピアで、その拳法の先生が練習中に首を痛めていたので、治療をしてさしあげたのです。
・(望月)以前にも、整法で肘の痛い人を治していた時、私が患部に触れる前に手を近づけていっただけで、痛みが消えましたと言われたことがあるんです。私はまだ何もしていないのに、不思議だなあと思っていたんですが、そのとき、テクニック以外の何がプラスアルファの力が働いているなどということは、なんとなく感じたんですね。
<気を送るということ>
・(望月)それから、ヨガや呼吸法を熱心にやるようになって、いろいろ不思議な感覚を覚えるようになってきたんです。ああ、これが「気」じゃないかと意識すると、気がどんどん集まってくるんです。
(五木)集まるというのは、実際にどんな感じなのかしら。
(望月)手のひらの中心が、もわっと温かくなるんですね。空気の真綿みたいな感じがするんです。それを相手の気の流れの悪いところに近づけるんです。たいてい、そこは、冷たく感じるので、その部分に気を送ってあげるんです。
<受け手の反応は十人十色>
(五木)なるほど、そういう治療を受けている側の反応はどうですか。私の友人が初めて気功治療を受けたときは、地獄の底からしぼり出したような、グォーという雄たけびを何回かあげたというんです。自分ではすっかり気分がよくなって、寝入ってしまったので自覚症状はなかったらしいのですが、ぼくは、それはきみの体の中から悪霊が出ていったんだという珍解釈をしたんですけど。
・(望月)ええ。ロンドン在住で、ご主人はシティ・ユニバーシティの健康心理学の教授でした。その奥さん、最初は、手足をバタバタさせていたと思ったら、終わりの頃になると声を出して泣き始めましてね。オイオイ、オイオイ子供のように泣きじゃくるんです。
(望月)ご主人の場合は、気を入れると手がピアノを弾くように動いてしまうんです。しばらくしたら、奥さんとは反対に笑いはじめたんですね。最初は小さな声だったんですが、だんだん大きな声で、気持ちよさそうに笑っていました。ご本人、笑いながら、なんで笑っちゃうんだろうといって、笑っていました。
(望月)ロンドンで15年くらい銀行に勤めている女性がいました。背中が鉛のように重くて、いろいろな薬を飲んでも効かない。マッサージや鍼をしてもだめで私のところに来たんです。その人に気を入れたら、突然、涙をポロポロこぼし始めたんです。ティッシュペーパーをいっぱい使って、治療中ずっと涙を流して泣いているんです。
本人は、勝手に涙が出てくるといっていたので、泣いているという自覚がなかったんでしょう。終わったらまるで痛みがないというんですね。